GM.(経路)
昨日,30分歩いた旧六町台地の際,そして写真がほぼブッ飛んだ縦断行に次いで,最終日に外縁を一周してやろうと思い立ちました。
それで調べてたら,さすがは層の厚い長崎学徒の皆様です。旅長のweb学会として同様の円周レポがありました(下記サイト,著者はおそらくヒロスケさん)。
新入生のワシとしては,今回は基本,その模写に務めつつ,御手本をそれぞれ慎んで掲げさせて頂きます(斜字部)。
崖の高さを一番実感できる場所
同サイトが抽出した坂は計20で場所は次地図の通り。旧長崎県庁から時計回りです。昨日歩いた(けれど写真が飛んだ)五番坂までは飛ばして,六番から入るけれど,例えば五番まではこんな感じで──これに追加することなんかない詳述ですね。
※ 旅する長崎学/長崎学Web学会 高低差に見る江戸時代の痕跡/長崎の街の高低差をあるく その1 その2
「<1番>県庁第1別館の敷地内」
「<2番>県庁坂。江戸時代は幅広の階段があったが、その面影はない。大波止に下る県庁坂の途中、同じ地点から2本の道が東北東へのびる。丘の上と下を分ける崖に接した道である(右写真)。
江戸時代も崖の上と下の両方に道がある。左の崖下、樺島町へと向かうと、すぐに「とも綱石」がある。崖下近くまで海であった頃のとも綱石だという。また、「惣町絵図」で見ると、この崖下には井戸の印が列をなしている(階段2から階段3までの約75mほどの間に6つ)。今でもその名残がある。」
「<3番>急な坂。明治31(1898)年の「長崎人力車賃銭図」で見ると、ここはまだ階段である。このまま崖下に沿って歩いて行くと、右側に見える崖の高さに、丘の上と下の高低差を実感できる。崖下にある樺島町公民館の周辺にも、井戸の痕跡を見ることができる。今はコンクリートの壁になっており、法面の斜度も江戸時代と比べると変わっているだろうが、この高低差はそのままだろう。」
「<4番>ここは今もコンクリートの階段として残っている。左にカーブしながら道沿いに行くと、「惣町絵図」に描かれている溝が今も残る(左写真)。この溝は今も丘の上まで続いているようである。」
「<5番>今はアスファルトの坂道。坂を右に見て歩いて行くと、左側に「惣町絵図」にある溝の痕跡と思われる細い道がある。また、「惣町絵図」には樺島町と船津町の崖下に井戸が見えるが、本五島町には見えない。しかし、天保 5(1834)年の「本五島町絵図」を見ると、崖下にはいくつも四角の井戸の印が見える。今はその痕跡は見えない。右側は石垣となり、このあたりが一番、崖の高さを実感できる場所である。石垣の高さだけを見ると、もっとも高いところで5m~6mはあるだろうか。」
旭大橋東口交差点からの川沿い
帰路のチケットの予約に思いの外時間を食う。0812,長崎駅から歩道橋を東に渡る。
桜町方向へ進むか迷うが…結局,五島町電停方面へ進む。
市場を過ぎ,旭大橋東口交差点から川沿いを左折東行することにしました。
以前,この上流は歩いたことがあります。
整備されてるけど微かな蛇行が左右,上下ともある。明治以降の埋め立て部分ですけど,不思議に好い川辺です。Ad恵美須町1。
0823Ad同2。橋を南岸へ渡る。IKホテルの向こうに坂が見えてます。そのままIK前を通って,まずこれを目指す。
最初の坂は見慣れた坂
「<6番>急な坂道。KTN社屋と坂本屋別館に挟まれた坂道もかつては階段であった。この坂の上としたでは、地図上では7mほどの高低差である。坂の下、すぐ横に江戸時代に作られたほこらがある(扉の表面には「文化十二乙亥菊秋 元武謹立」とある)。今でも地元の方々によって花などが供えられ、祀られている。聞くところによると、ここにもかつて井戸があり、表面上には隠されているが、その井戸の水は今でも道路際で使われているそうである。そこを過ぎると江戸時代の道は右に緩やかにカーブしているが、今は直線に付け替えられている。」
「<7番>急な坂道。「惣町絵図」では2つの階段が交差しているが(右写真)、大きく様変わりして1本の道になっている。この坂道を上っていくと市立図書館へつながるが、ここではそのまま瓊の浦公園の方へ向かう。」
ヘアピンの坂道になってました。7番坂だと思う。0823,左折。
テレビ長崎。東対面Ad金屋町2。後藤象二郎邸跡の角柱碑。
あ!6番が要するに今回初泊したホテル池田とブレッド・ア・エスプレッソの坂なのか!
いつもエスプレッソに並びながら見上げてた,東側に石垣。坂側から見てもはかなりの古さです。
0835,東行。
道路が途切れて八番坂
道は左に湾曲して続きます。0837,Ad金屋町5。
Colna島敷地の西側に台地の段差が確認できます。
金屋町5から9への十字。北東と北西が緩い坂。北西へ左折。0841。
T字から右折すると公園への階段。これが8番だろう。──してみると,6~8番のこの辺りで段差は,5番までの直線状からやや亀裂したような複雑なラインを描くようです。
「<8番>コンクリートではあるが今も階段が残る。」
車止めの石柱2基が,道路面から階段への箇所に打たれてる。車両の転落防止でしょう。
階段そのものは白手すりのある普通のコンクリです。
二ヶ所,鉄板で崩れを修復してある。その崩れ面を見ても,やはりかなりの古さです。
両側に階段斜面に沿った側溝。上の道路面では暗きょになってる溝が,台地面からの水捌けのために設けられてるのでしょう。
下のAdは金屋町8と7。
九番坂の微かな痕跡群
「<9番>坂道。明治31(1898)年「長崎人力車賃銭図」では、まだ階段のまま。」
0848,公園前を右折南行。
エクレールサクラマチ前にキツい坂が現れる。9番です。
登る。
痕跡が微かに認められる。左手東側は地盤が整備されてるようですけれど,右手西側には家屋への階段やレンガがそのまま使われてます。
左手のビルの隙間にも不可解な壁跡が残されてました。
筆の境界で,容易に撤去できなかったものでしょうか。わざわざ残した感じの煉瓦です。
坂に段差ある形で筆が並んでいれば,両者を一時に買収して地盤を整備しないとなかなかその境界線は消せなかった,と想像できます。
▲0901。左手ビルの間の雑草の陰に,先代のものらしいコンクリの残骸
豊後坂:「キュー」と叫びながら下って行った
享保の地図に打ってあるポイントだからでしょう,位置はあまり正解でないようです。半分は感覚を信じて行こう。
0903,坂トップの金屋町自治会看板のある十字を左折東行。
この辺りにも,注意して見ると,ビルの間の不可解な壁というのはあちこちにある。
0908,昨日の向井去来碑の十字です。左折東行だろう。ヴィラ長崎,昨日通った道です。微かな下り。
「<10番>豊後坂。明治31(1898)年にはすでに階段はなく坂道。ある日のこと、修学旅行の女子生徒が、「キュー(急)」と叫びながら下って行った。町なかにしてはやっぱり、急な斜面である。瓊の浦公園の端を過ぎ、左に公衆トイレを見ながら、進行方向(東北の方角、桜町公園の方角)を見ると、電車通りを挟んで道がまっすぐ続いているのがわかる。電車道で大きく斜めに分断されているので、あまり意識されないが、江戸時代のままの道である(下写真)。」
まるみつ整骨院のある坂。0912。
北にはもう路面電車が見えてます。これが10番でしょう。
降りる。右手に長崎市職員会館と喫茶店ルパン。
ささやき坂の喫茶店
公園脇の川,つまり今日最初にたどった川は,この坂の最下部から暗きょになってる。
公衆トイレを借りて出ると,すぐ前が桜町電停でした。
これを左手に見て右折東行
0921,マルハチらーめん前。Ad桜町1。
「<11番>ささやき坂。進行方向から右手の坂の途中に、この名前の喫茶店があることから付けられた。階段はなく急な坂道。かつて二の堀があった場所でもある。」
▲0926。ささやき坂中段辺り。ホントにそういう喫茶店がありました。
右折。11番だろう。長崎議会の進入口から先の狭くなってる辺り,短いけれどいい。
後から作ったかリニューアルしたか,という新しさに見えるけど「囁き坂」という喫茶店も確かにある。閉まってるけど珈琲を煎る強い香り。
左手には蔦の絡まる石垣。
上がりきると対面に見たような風景。昨日マティマハルじゃないか!
Ad桜町3。
左折北東へ進む。ただ,旅長の掲げてる「代官坂」への侵入路がどうしても見つからないまま,南へ車道を渡りました。
「<代官坂>市役所の下の横断歩道を渡り、右折して進むと、わずかだが小川が駐車場脇に見える。内町と外町の境となる川である。ここから、ほぼ直角に折れるのも、江戸時代のまま。代官坂を上り県庁からまっすぐ伸びる大通りである国道34号線にぶつかる。左に長崎代官の高木家の屋敷跡(桜町小学校)を見ながら横断歩道を渡る。ちょうどここが折り返し地点となる。」
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