年が改まり1月5日。再び県立図書館へ赴きまして,「うるま新報縮刷版」第2巻に取り組みました。
*写真が語る沖縄 沖縄県公文書館
URL:http://www2.archives.pref.okinawa.jp/opa/searchpics.aspx
目録
1948.1-8∶全売店閉鎖事件まで
1948年,同じく元旦の沖縄・うるま新報の一面には,今から振り返ると現代沖縄を性格付けることとなった次の記事が踊っています。
1948.01.02一面トップ
“沖縄に大空軍基地を!”米下院小委員會の太平洋現地視察報告書
基地使用を諦めた米海軍に代わり,陸軍には飛行場を中心とする恒久基地プランが持ち上がります。しかもそれが議会からの報告だという。
冷戦へと構造付けられる世界情勢からでしょうけど,沖縄はその地場としての社会経済的安定を要求されるようになったのではないでしょうか。
うちなんちゅに「宴会簡素化」要請は無理!
1948.01.02
闇買い止めて 祝祭を簡素化
だぶつく通貨のぼう張とゝもに一般生活費もだんだんと昴騰しあの手この手。苦心惨憺あがなう闇物資ではる祝宴や儀禮はだんだん華美に流れていく一方である
結婚式を初めとする沖縄の宴会の派手さは有名ですけど,もしかするとこの頃に端緒があったのかもしれません。
現代の我々には,闇物資だから華美になる,という因果がどうもピンと来ないけれど……地道な生活感覚を忘れてしまいがち,ということでしょうか?
確かにこの時期で拾った以下2件は,いずれも食糧確保というより,貨幣価値として売買しようとした形跡があります。
1948.01.16
宮古の鰹節闇商捕らわる
○○府商○○所管のエフ エス二一八號○○[引用者伏字]は鰹節の不法密輸の廉で逮捕されたが取り調べの結果更に宮古の[引用者伏字]なる者が去る七月糸満の姉を訪問するためと稱して旅行証明を貰い鰹節を密輸して密売し之に味をしめて今度は[引用者伏字]と共謀してエス エフ二一八號に鰹節を運搬させたものであるが 久塩崎到着と同時に発見されたものである。
手法からすると沖縄本島での鰹節供給が枯渇していて,八重山側から売るメリットが大きかったのでしょうか。
海から帰った漁師の泥だらけの足を、ビールで洗ったなんて逸話も残っている。アメリカの食文化も一緒に入ってきているから、景気が良かった頃は泡盛でなく高級ウイスキーで酒盛りしていたそうです。
*宮古諸島におけるかつお漁の歴史|沖縄×かつお節|だし・かつおぶしならヤマキ株式会社 /語り手∶伊良部地域おこし研究所
URL:https://www.yamaki.co.jp/special/kachuyu/history.html
次の記事を見ても,この時期には食糧食材の絶対量の不足ではなく,その不均衡が際立ち,そこに「ビジネスチャンス」を見出してる気配です。
1948.05.28
盗み油揚る 一味九名
待望の椰子油がマ指令部斡旋で日本から輸入され既に幾日 油の乗らぬこと久しい住民は油の配給はまだかまだかと待っている折柄 これはまた何としたことか 販賣店を尻目に闇のルートから流れ込んだ椰子油が闇市に出廻っているのである これは椰子油の陸揚げ○○○ホワイトビーチ作業をいいことに十数名共謀の上これを抜き取り甘い汁をすおうとした一味徒党の仕わざであった
日帝南方進出時に椰子油(ココナッツオイル)は多用された模様ですけど,これが戦後のこの時期にどこからどのルートで入ってきていたのかは,よく分からない。台湾経由だった可能性も高いと推察できますけど……。
域内航行の自由化
6月18日(1948年)の記事には「つぶれた観音 例祭復活」というのがありました。「首里観音堂(首里城坂下)」とあり,松尾の観音堂のことだと推測しています。
木を隠すなら森の中。免許のない闇医者のみならず,刑事を装う詐欺事件までが発生してるのが,沖縄の1948年夏の状況でした。
1948.07.09
怪しげな闇藥劑 非醫者の一掃へ 元代診 灸師等の取締強化物品横取り 偽刑事ばっこ
警察の刑事をよそおい闇店や買出人の弱味につけ込んでまきあげて行く偽刑事……(略)
この時点,アメリカからの物資流入が一千ドルを越えて本格化してます。需要:供給比に関わらない争奪戦の激化が大状況としてありました。
*仲本和彦「民事報告書に見る米国統治下の米軍の民事機能」『沖縄県公文書館研究紀要. (19)』沖縄県,2017
7月半ば,まず次の記事が一面を飾ってます。
1948.07.18一面トップ
全琉球領海内は航行自由 那覇,糸満,渡具地,名護,川田セクションベースを貿易港に
闇交易の違法性が,往来行為とそれによる商取引のそれから成るとすれば,前者がまず違法でなくなったわけです。前者は外見行為で後者は行為内容ですから,密輸が事実上放任されたに近い。当然,商取引の自由化も追って行わざるを得ない流れに入ったということになります。
1948.07.23一面トップ
建設資材並に食料近く大量入荷 荷役労務者千名徴用の緊急命令發せらる去る十六日軍務局に召致された知事に発する緊急命令により明らかにされた
食料 遅配の解消へ
この記事は,実際の流入物資量の激増はあるにせよ,はっきりとリーク記事です。物資争奪戦を明るい将来像の「飴」で抑制しようとしてる。
とすれば次の措置は,おそらく軽い「鞭」だったはずです。
1948.08.27
八月二十五日以降當分全賣店を閉鎖 理由は軍労務者の欠勤率過多
(略)軍の指示ある迄各中央倉庫を初めとし各市町村賣店を閉じさすことに決定去る十七日付指令第三十一號を以て左の通り知事宛通知した
賣店(売店)というのは,現在「共同売店」と呼ばれる集落営店舗のことです。戦前からあった沖縄独特の相互扶助的企業形式で,1906年の本島最北・奥集落で雑貨商を営んでいた糸満盛邦氏による創業を嚆矢とする。
*共同売店についてもっと知りたい方へ | 小林と山田
URL:https://kobayashitoyamada.wixsite.com/kobayama/morekyodobaiten
山原船と総称された中型船舶による交易ネットワークに支えられた共同売店経営は,戦前既に約60を数えたけれど(巻末参照),これが米軍軍政下の配給所としての機能を負うことで拡大。戦後のこの時期の数字が不明ですけど,1960年代には約180店,のべ200集落で経営していました。
ということは,小規模集落の生命線だった経済機構,生活上も公民館的だったものが多いここを強制閉鎖する──裏交易抑制のかなり大胆かつ抜本的な威嚇策です。
一歩踏み込んで推測を進めると,山原船ネットワークと連動した共同売店は,実質的に裏交易の結節点にもなっていたからではないでしょうか。(巻末参照)
けれどこの施策は──
1948.09.03
賣店閉鎖は一時中止
去る二十五日付で實施される筈であった市町村各賣店の閉さによる配給停止は一時實施を中止に決定の旨二十六日十時市町村長宛に知事は報告
相当にまどろっこしい記述です。そのまま読むと「実施される筈であった」というからには,閉鎖は実行できなかった。市町村か集落か個別売店のレベルかのいずれかで,この命令ばかりには不服従の姿勢が貫かれたと予想されます。
それが翌月になって「中止」という発表になるのは,この間の10日間ほどに全沖縄で激烈な政治的抵抗が行われたはずなのですけど──いくつかの資料が書くとおり,この顛末は公式記録に一切残りません。
*例えば仲本和彦「民事報告書に見る米国統治下の米軍の民事機能」沖縄県,2017 2-2
これは「軍政記録上なかったことにしたいほど未実施のままおわった行政命令」だったからだと推測するのですけど,確認する術がありません。
1948.9〜∶混乱の時代(自由取引開始,民政議員総辞職)
ふてくされた貿易自由化
1948.09.24
カナダから醫藥品 救援續續ハワイから醤油
医療の配給どっさり
物資供給の明るい展望を伝える記事が目につくのは,逆にそれを悲観視する民心を抑えるため,とも読めますけど,素直に取ると現実にも供給は増したのでしょう。
そしてついに──
1948.11.05(號外)
“自由取引”愈愈実現!!
企業は免許制・配給物資価格は島内類似生産品に準ず
(略)11月1日より実施する旨発表した。これで少なくとも市場へは闇から明るみに管理することとなった。
施行は11月初日。号外発行日の4日前です。
「少なくとも市場へは闇から明るみに管理する」という微妙過ぎる表現からも分かる。沖縄人は実質的な自由経済を,既に実現させてしまっていた。8月末の売店閉鎖命令事件の通り,軍政府もそれを抑圧できないほど実体経済化してしまっていた。それがようやく追認的に公式化された,という皮肉っぽいニュアンスです。
また,そのついでっぽく出されてる本音も面白い。
「流球人が故意に米軍専用の食糧衣料その他器具PX物資を売買又はバーターすることは不法である」
11月1日から発表が遅れたのは公式発表のこの辺の詳細の調整が難航したのではないでしょうか──と疑わせる抜け穴の多い決定です。
「故意に」というのは,例えば盗品と知らずに売買するのは黙認するということでしょう。
「米軍専用」は実用途からの線引であって「米軍所有」ではない。例えば米軍が所有権を持つ旧日本海軍船舶の廃材はもちろん,供出用の腐敗食料や援助物資は含まれないのでしょう。
ただ「売買」にand条件で「バーター」を足してあるのは,物々交換を含む経済行為全般という意味で,ここだけは広範に設定されてます。
ただ,この自由取引の範囲から「指定重要物資」は除かれています。
「但し指定重要物資は他民政府管内との取引を禁止する。
八 重要物資以外の商品は自由に全琉球及び外国人に売ることができる。」
指定重要物資の内容はよく分からないけれど,その後細かく範囲の増減をしているのは軍政府通達で確認できます。米軍はこの規定を調整弁に使うつもりだったのでしょう。
つまり「自由取引」と呼ぶのは沖縄人の勝手だ,というふてくされたスタンスです。軍政府は沖縄人に自由交易の追認を強要された,という感じです。
分からないのは「他民政府管内」との重要物資取引を禁止する規定です。台湾は米軍政下にないから,ここでの「他民政府管内」は日本内地しかない。対台湾交易(八重山用語で言う「復興交易」)は制限しない,ということになりますけど,「大和商売」を管理下に置くことには執着しても大陸の国共内戦への軍用物資流入は放置する意図があったのでしょうか?
(再掲)沖縄戦でアメリカ軍が打ち込んだ砲弾の薬莢や、銅などの金属が台湾・香港を経由して中国共産党に流れるようになります。
民政議員総辞職を米軍が認めない事件
1949.03.07一面トップ
民政議員の總退職 軍當局は認めず グリーン副長官が言明
これが当時,全く分かりませんでした。なぜ総辞職なのか?辞職を軍政府が「認めない」とはどういう理屈と意図なのか?
軍民連絡の会議録を再度覗いてみます。
副長官と知事との会見〔施政方針〕
三月九日(水)午前八時半 於軍政
出 席 比嘉局長(通訳)
軍政府側ミード文教部長、キーリング中佐。
諮詢事項
軍政府(略)
議員が方々で演説をやって居るとのことを聞いて居るが。
私が発した物価値下げの指令は議員が陳情に来たのよりも先であったが。
志喜屋知事
議員の総辞職は、民政府不信任と知事及議員の選挙促進を意味して居ると思ひますが。
軍政府
促進どころか決して早まりはせぬ。却而遅らすことになる。逆効果である。明かに遅らす。断言する。
志喜屋知事
軍政府は議員を招集するとのことであるが。
軍政府
軍としては留任を話したい。
志喜屋知事
留任を勧めたい。
(略)
ミード文教部長
現在の状況は政治屋が活動し過ぎて軍の政策が判然とせず、住民を誤らすことになる。
情報課はもっと活動すべきである。強化すべきである。此際一部を作ってもよい。
志喜屋知事
機構の改革を研究中である。
軍政府
機構を早く提出されたい。
軍政府への反感が,形式として民政府への不信任として爆発していること。反米軍の本質は物価統制策への反感にあるらしいことが読み取れます。
また政治情勢としては,民政議員の活動が過激化し,それが民間の政治不信に根差しているらしいこと。これに対する米陸軍の発想は,民政府に「しっかりさせる」,具体的にはインテリジェンスを強化することを要求している。
しかもこの沖縄人と軍政府の睨み合いは,何とこの3月一杯続いたようなのです。
1949.03.17一面トップ
全議員の欠席は心外だ 非常處置も考慮せん 民政議員總辞職に軍の態度は強硬
うるま新報は,この件の収拾を「軍の誠意認む 民政議員一應出席」という記事で伝えています。何がどうなって総辞職を思い留まる動きになったのか,まるで分からないけれど,この翌月に会議録に記される,米軍政府通告と思われる軍政官府新設は,軍側の姿勢が一気に硬化したことを示しています。
四月二十二日(金)午前九時
島袋官房長
各部隊長と民各部長との定例会見はよい。事務上の打合せならよい。但し其時の打合せ事項はミラー中佐に報告されたい。
政策上の件及外の部に渉る件は知事を通して軍政官に通ずること。
(略)
記
一九四九年四月二十二日(金)
四月十一日付を以て軍政府に於ては新に沖縄軍政官府を設け、民政府創立以来軍政府総務部長(副長官代)と知事と毎週二回の定例連絡会を開いたが、四月十八日(月)の軍連会議を最後に同連絡会議は閉止になった。
今後は軍政官と随時に打合はすことになって居る。
尚副長官(グリーン大佐)と知事と毎月一回の会談があったが、之も四月二十日(水)を以て閉止になった。
経済連絡会議は当分継続する。
グリーンの破壊とシーツの再生
1949年の沖縄は米軍と沖縄人の人心乖離が最も進んだ時期だったらしい*。なし崩し的に解禁された自由取引により,経済の混乱も極みに達していました。
*例えば,3月22日部長会議議事録に仲村部長がスキウス保安部長から「与那城村で起った暴動は許すべからざることである」と注意を受けたとの記述がある。この暴動に関して他の情報が見つからず不明のままですけど,民間の行動も発生していた形跡があります。
1949.07.18
市民の協力求め 防犯陣の強化へ 那覇署 各區自警團を固む/強盗 民自ら防げ
「ぐん情報課発表」勝連な覇附近に於ける建築資材盗難の激増やピストル強盗の出没につきグリーン大佐*は次のように述べた「建築資材盗難が激増したためぐんの施策は妨げられている,これを止めなければぐんは強硬な措置を取るかも知れない かゝるこのましくない事件は住民自体の自發的措置によって是正させるもの」
*ゼェーシー・ビー・グリーン参謀次長陸軍歩兵大佐
「強盗 民自ら防げ」との皮肉めいた副題でも分かる通り,軍政府側の手法が完全に柔軟性を失ってきています。経済面で言えば,沖縄人側の,裏交易というよりも実力経済活動とでもいうべき行為がまかり通る状況で──これが,この時期に明清代の東シナ海の無政府状態が一時的に再現された大背景なのでしょう。
この政経状況に天災が追い打ちをかけます。
1949.08.01トップ
家屋全壊一万六千余棟 風速六六米 グロリア台風沖縄中南部を猛襲
「民政府那覇へ」という記事がこの後にありました。「民政附廰舎は今回のたい風で全壊,執務不能に陥ったので宿望の那覇移轉をグリーン副長官に具陳再三接衝の結果實現」
那覇が沖縄の首府になったのは,だからこの1949年以降です。
また,奇しくもこの台風の3日後の8月3日に瀬長亀次郎うるま新報社長は退社声明書を掲載しています。通説では,共同売店閉鎖反対や議員総辞職の中心は人民党で,その黒幕たる瀬長さんをメディアから切り離す圧力が米軍から働いたためという(巻末参照)。
米軍にとって,元々沖縄統治構造の安定が求められたのは冷戦構造下でソ連・中国・北朝鮮と睨み合う極東軍事基地のお膝元として,ということだったわけですから,この状況を見て東京のマッカーサーが本腰を入れたのでしょう。1949年10月に琉球列島米国軍政府軍政長官としてジョセフ・R・シーツ陸軍少将が赴任し,1950年にかけて「シーツ善政」と称される安定策を講じます。それまでの琉球・奄美・宮古・八重山の4政府が琉球列島米国民政府(USCAR・後の琉球政府)に統合され,長期占領体制が整うのは1950年までのこの将軍治世下です。実際に沖縄人の評判は良かったようですし,そのために地元小学生との交流会を持つなど,要するに沖縄人からの視線に配慮したらしい。
海の向こうの朝鮮半島の緊張化,さらに国共内戦の決着を見つめた懐柔策だったことは確かです。
経済策として決定的だった施策はB円の1/3切下げです。対ドル為替レートを1ドル360円から120円に一気に改訂する策は,基地の島という地勢事情がなければ米国側が認め難いものだったはずで,これによる物資輸入促進はその後の沖縄の輸入依存体質を固定させたと言っていい。
また,それだけの物資がアメリカから流れれば,少なくとも沖縄側に密貿易のメリットはなくなり,裏市場が存在理由を失っていったでしょう。
「貸出用!3冊入り!本の福袋」企画というのを,沖縄県立図書館がやっているのを,沖縄らしいのう,と横目で眺めつつ,新年初出の図書館を後にしたのでした。
■イメージ:古池や海域アジアの水の音
中間仮説としてです。
「海域アジア」は,ここまでのデータを見て結ばれてきた像では,次の二点で陸上の国家などの社会集団と異なる。
①実体がほぼ無い。
妙な例えだけれど量子論の不確定原理のようなもので,どこに居たのか(位置)探れば時代が見えなくなるし,いつ居たのか(時間)見極めようとすれば地理範囲がぼやける。
われわれが観測しているのは自然そのものではなく,われわれの探求方法に映し出された自然の姿だ。(ハイゼンベルク)
沖縄の戦後事象でも宮本1964(海に生きる人びと)の記述でも,時空間上に一貫して「海賊」だった集団は,いないことはないけれど相当小さい(宮本1964が紹介する大村藩史や大村郷村記によると倭寇の中心地だった同地域で3~5百人程度)。政治史上は台湾の鄭氏王朝がほぼ唯一の事例。つまり,その成員のほとんどは他のフォーマルな社会組織と重複交差している。
ということは,「海域アジア世界が在る」というより「状況を誘因として海域アジアが特定時空に具現する」というのが正確な,そういう在り方をする世界です。
②にも関わらず確かに,かつ本質的に遍在する。
中沢新一風に言うと,フォーマル社会のロゴス世界に隠れているレンマ(この場合マティスと言いたいけれど)が,一定の社会状況下で活性したのが,海洋アジアという事態です。
「一定の社会状況」とは,海洋を挟む国々の無秩序,無政府,経済的混迷といった,現代からは信じがたいようなジャミングな状況です。
そういう歴史的時空では,正史に語られるロゴスに秩序づけられた文明が,そうなる。
つまり,海洋アジアは①の夢幻泡影のような体をしながらも,実は我々自身の深淵の自画像です。
例えば,かつて文明・文化・倫理・秩序が生まれる前はそういうものだったろう。さらに,今後それらが崩壊する時空ではそれが再び表出するだろう。──鉄の暴風が過ぎた後の沖縄が約10年置かれたような状況が,もし我々に訪れたなら,我々自身が「海域アジア」の人間となる。
そういう意味では,海域アジアの人々はどこかに隠れた他者ではない。今此処の私自身です。
──書いてみて驚いた。これはまさに仏典で言えば「色即是空 空即是色」という八文字を,歴史時空の事態に落としただけじゃないか。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「海域アジア」は聴覚だけが捉えた水の音に近い。その音を発する蛙は,どこかにいる誰かではない。
本質的には,古池は,かつての特定の時代と場所ではない。今の,此処です。
とすれば,海域アジア論が示す方法論は,これも中沢新一風に言えば,社会・歴史学へ「レンマ学」的アプローチを導入する可能性を持ちうるのではないでしょうか。
*資料室 – 共同売店ファンクラブ Kyodo-baiten Fanclub/共同売店マップ2012-13
URL:http://img01.ti-da.net/usr/k/y/o/kyoudoubaiten/A3mapEN_A2small.png
■資料集+レポ:共同売店の規約とその背景の展望
この独自の経営体は,大正初期には西洋型の組合に転換した時期もあったけれど,高利借入などまともに資本主義の原理に組み込まれると維持できすに崩壊し,大正5年に旧態の共同売店形式に復したといいます。
かなり巧みな仕組です。
奥は交通不便の山間僻在の部落なるが故に日用雑貨品其の他生活資料は共同購買によるを必要とし、那覇市場小売相場より5分安にて共同店を機関とし部落に販売す。部落民の主なる生産は林産にして共同店に対し各1日1荷の薪木を搬入し、之が対価として日用必要なる雑貨を購入す、又部落の共有財産に属する共同船あり、部落民の伐採薪木を一手にて共同店引き受け之を共同船にて那覇市場に販売し帰路は雑貨を搭載す。
*田村浩「琉球共産村落之研究」,岡書院
有元英夫,1927(昭和2)年(1928年とする記述もあり) 第2章第8項
以下,引用は特記しない限り同じ
**資料室 – 共同売店ファンクラブ Kyodo-baiten Fanclub
URL:https://kyodobaiten.org/archives/
つまり,集落民から見た基幹構造はこうなります。
[負担]所定量の販売物(木材)蓄積
[運用財産]共有船舶
[利益]那覇市場小売値✕95%での物品購入
この仕組みによって,木材搬出しか強みのない集落が規模の利益を生み出すに至っているのです。
以下,さらに各論的な詳細を見ます。
構成員
共同店は部落の共有財産なるを以って部落民は一様に平等の権利義務を有す(総則第2、3条)共同店の損益は団体責任を以って計算させる、持分は平等なるが故に村税戸数割は差等なしに共同店之を納入す。蓋し外類例を見ざる共産村落の形態を示せりというべし。他部落より新たに寄留するものは共有全財産を現在人口にて除したる平等額を納付するによりて共同店に対する持分を取得し平等の権利を有せしむ。(加入権規程第2条)
他村落より嫁入り又は養子縁組をなす者にありては加入金とし5円を納付するによりて共有財産に対する住民たるの権利義務を有せしむ(同第1条)、而して脱退するものは財産を分割をなさずして当然に権利義務を消滅せしむ(脱退規程第1条)
売店資産は完全に平等な頭割。年齢すら関係ないらしい。旧家でない転入者すら平等な構成員にしてしまう。共産主義でもここまでは徹底してないし,構成員の自由度,ないし無限な拡大可能性からすれば資本主義的ですらあります。
資本形成
牛・豚・山羊を売却するものは其の売却の100分の2を翌日迄に寄付し、畜類の出生死亡の時は其の翌日迄に共同店に報告し共同店は記帳整理し置くものとす(寄付金規定第1、2条)、畜類に外穀類に関する寄付あり、収穫期に於いて各戸より収穫等級を定め1等は1斗3升、2等は7升、3等は5合寄付す。甘藷寄付の上等30斤下等5斤とす。
出世の場合は男女を問わず50銭寄付し、婚姻の場合は2円の寄付をなすものとす(同5、6条)
生産・経済活動の主なものに加え,ライフステージの節目でも徴される金銭・物納により資本が形成されています。特に家畜は売店の台帳に登記されるわけですから,半ば共有の感覚です。
以下,もう少し細かく個別規定を性格別に追います。
資本運用
総則第16条 本店総資本額2万5千円以上に達したるときは其の利益より当字税戸別割全部を支出すること
資本金に上限を設け,超過額は構成員に還元されます。この場合の按分係数は「税戸割」,おそらく世帯数で均等割するらしい。
総則第11条 本店の勘定は3ヶ月毎に之を行うものとす
同第20条 畜産の生計を為戸籍簿を設くる事
会計制度も企業的で,3か月一期,つまり四半期決算形式。畜産の台帳,さらに次の強制貯蓄による予備財源を合わせると,資本運用は相当に強靭で,かつ短期回収主義です。
部落民は各戸3年据置貯金を行い各戸1ヶ月1等は1円30銭、2等1円、3等80銭、4等60銭、5等40銭、6等20銭の郵便貯金を励行し郵便局にては各組の一覧表を作り組長は絶えず注意し星取りを以て督促をなせり[前掲田村]
この強制貯蓄が個々の財産に占める割合が分からないけれど,半ば財産私有権を犯しているとも言えます。
この資本は何と貸付投資が可能とされています。銀行のほか,構成員への貸付も細かく規定されます。後者だけをとると沖縄全土にある「模合」の側面も包含していると言えます。
貸付規定第1条 本店余財あるときは銀行村信用組合に預金又は貸付することを得
第2条 字民の貸付は資力信用程度表を毎年一回調定し之に基づきて貸付するものとす
*以下,貸付対象別に学生(第4条),渡航者(第5条),病人(第6条),病気・土地購入・畜産購入(第7条),漁業者(第9条)及び天災地変(第10条)規定有
事業
農民唯一の財源たる山林の伐採に関しては1人1日1荷の制限あり。1ヶ月を通じて20日間山入をなす(略)
山林より伐出したる木材1荷は共同店にて記帳したる後、海辺の積み置き場へ自ら運搬す、積み置き場には何の設備もなく監視もなく、勝手に置き去り帰宅す(略)[前掲田村]
非常に印象的な情景です。管理や監視がない分,事実上逸脱が許されない息苦しさはあるでしょうけど,うまく回れば次の船が港に入るまでに,勝手に材木の山が出来ている。
村落機能維持(福利厚生)
無料共同浴場の設置は共同村落として亦特筆するに足るものとす。村落を5組に分かち、各組に共同浴場を設備せり。組にては輪番に浴場当番をなし、男女時間を別ちて毎夜全部落民を入浴をなす[前掲田村]
戦前までの衛生状態を考えると,集落内の防疫環境維持も事業の一目的だったということてしょうか。
家造は家模合若しくは家寄り合いと称する共同無尽を行い輪番に家普請を行う。毎月17日を掛金と定む、僻辺の小弧村の過半は瓦葺となり、寧ろ一異彩を呈す[前掲田村]
家の普請業者が集落当番制だから,家屋形態は一様で自然にアパートのような均一なものになる。「毎月17日を掛金と定む」というのは,家模合の別途の徴収金があったのでしょうか。
次の医療費もあり,共同売店はいくつかの事業別特別会計を持つ形だったようです。これらはおそらく,先行していた模合を統合したものでしょう。
此の村に医者一人あり、毎月4日は部落の薬代払の定日となり、一斉に集金せらる。[前掲多武]
ほかに,緊急支出の条項もあります。この意味では,売店資本蓄積が一種の保険の用も成していたことになります。
総則第24条 飢饉の時は人口割にて食糧品を配当すること
ガバナンス
伐採薪木は村有の山林にして施業案に基づき、伐採区域定められ部落人は入会して伐採す。濫伐を防ぐために前述の1人1日1荷の制限を附し、若し之に違反するものあらば山札を渡し制裁す、山札とは旧慣の内法制裁にして村落の団体決議により違反者に対し1日5銭の科銭を課す。若し見出し能わざる場合は30日経過するによりて科罰を免除せらる、山札は一種の団体制裁として私刑を意味し旧藩以来慣行せられ来たりしものにして次章内法の章に述ぶべし。
「科銭」つまり過料を課する権限もあった。私法上ですけど一種の警察権も備えていた,と大げさに言えばなります。「山札」発行時の手続きとして,裁判権に類するものがどう運用されていたか不明ですけど,おそらく何か手続きが明確にされているのでしょう。
教育投資
中等教育を受くるものに対しては毎月5円を支給し、他府県遊学生に対しては10円を補助し尚中等学校入学の際は書籍購入費として20円を支給す。遊学生へ旅費として40円を支給せり。[前掲田村]
長期投資としての人材育成機能ですけど,「遊学」,おそらく県外からの知識獲得を奨励して倍額としているところは大胆です。しかもこの額は相当に大きい。
これらを総括してみると,財産確保や秩序維持という保守的な側面よりも,企業的と言ってもいい短期利益回収のアプローチが目立ちます。
[史料集]共同売店閉鎖事件に関する断片的史料
さて,本文での1948.8売店閉鎖事件に関し,可能な限り史料に当たっておきたいと思います。
この際の米軍政府からの通達は次のようなものでした。
二、現在いたるところで無断欠勤がなされており、しかもそれが多いので民中央倉庫および村販売店を8月25日以後当分の間閉鎖し、別段の指令があるまでは販売や配給をしてはならない。
三、軍政府補給部長は前記の閉鎖期間中は次の機関および人々にかぎり配給する手配をした。
㋑ 病院、孤児院、らい療養所などの施設
㋺ 沖縄民政府の雇用者
㋩ 軍関係の雇用者でその勤務ぶりが配給しても良いと認められるもの
*指令第31号(1948年8月17日)イーグルス少将の命により参謀次長陸軍歩兵大佐ゼェーシー・ビー・グリーン発
行政文書上の閉鎖理由は「無断欠勤」の多さです。これは三ハの例外規定と趣旨的に連動していると思われます。だから逆読みすると「何でこんな勤務ぶりの奴らに配給しなきゃいけないんだ?」という感覚が閉鎖理由になっています。
この感覚が読んだだけでは分からないけれど,当時の当間さんという政治家の記録にこういう解説がありました。
*当間重剛∶
1939年 那覇市長
戦時中 大政翼賛会沖縄県支部長
1946年4月-6月 第10代那覇市長
(時期不明)琉球上訴裁判所首席判事
1956年11月11日-1959年11月10日 第2代琉球政府行政主席
直接的な原因は那覇港の仲仕(なかし)が荷役に出なかったため四日間停泊予定の軍用船が一周間も那覇港に罐詰されたことにあったようだ。
当時港湾荷役作業は各市町村割り当てであった。そうしてこういう”にわか仲仕”は奥武山近くのカンパンをつくって毎日港湾に通っていたが、単なる作業人員割り当てだから能率が上がらないのは当たり前の話だ。(略)だんだん仲仕の数が減っていくと計画的なサポタージュぐらいにしか受けとっていなかったのだろう。軍政府の補給部長チェス大佐はかんかんに怒っていたという。*当間重剛「当間重剛回想録」当間重剛回想録刊行会,1969
疑問が残ります。当時の小規模集落が配給なしでは食糧を確保できない流通状況位は米軍は把握していたはずで,それにも関わらず動員労働者の怠惰に立腹して閉鎖したのなら,軍政府は完全に感情で動いたことになります。海軍のような学者はいないとは言え,陸軍政府行政はそこまで知的レベルが低かったでしょうか?
荷揚げの労働態度が悪いなら,絶対服従の軍組織の発想からしても労務規律を徹底する方法はいくらでもあったはずで,配給窓口そのものの閉鎖,という手法を思いつくのは相当飛躍した発想です。
一歩踏み込んで憶測するなら──山原船ネットワークと連動した配給所兼コミュニティ経済センターである共同売店は,実質的に裏交易の結節点にもなっていて,軍政府はこれを潰す,あるいは威嚇して管理下に置く口実を探していた。だから無断欠勤はあくまで当面の口実で,本音の目的は共同売店ネットワーク自体を己の支配下に組み込む是正策だったのではないでしょうか。
この点は,事件へのリアクションからも読み取れます。まず,市民運動としてですけど,瀬長亀次郎が人民党を率いて反対運動をした記録があります。
”飢餓宣言”を甘受するわけにいかない。各地で抗議集会、陳情がぞくぞくおこった。人民党はその先頭にたった。
*瀬長亀次郎「瀬長亀次郎回想録」新日本出版社,1998
でもまどろっこしい書き方になってます。抗議集会が新聞紙面や記録にあまりないのに併せ,「陳情」と書かれる。なぜ閉鎖が困るのか,正面切って内実を説明しにくそうな姿勢が見えるのです。
この指令ができると同時に軍政府に対する非難の声はモウ然と起こり、志喜屋知事のところには連日のように市町村長が押しかけ、軍との共生折衝を要請した。
志喜屋孝信知事は翌日から指令廃棄の要請に軍政府に日参した。[前掲当間]
市町村長が知事を動かして政治的に解決しようとした。この一方で,実際には売店は閉鎖していないのだから,市町村長の所にも売店,さらに集落民が「あの指令はなかったことにしてくれ」と押しかけたと予想されます。
住民の食料は、まだ70%から80%までは配給に仰いでいる。どうか、こんどの指令はとりさげてもらいたい、と知事は誠意をつくして訴えた。
志喜屋さんの誠意あふれるたびたびの陳情の結果、軍では「それでは労務者をだすか」「はい出します」ということになり、ついに指令公布後9日目の8月26日ついに売店閉鎖の指令は保留になった。実際には配給停止はされなかったが、あのころの大きな事件の一つである。[前掲当間]
──絶対,そんな正論の交渉だったはずはありません。実際に閉鎖されていない状況下で,知事が県民が困っている,と主張できたはずがない。軍政府も,一度発した指令を,「中止」ではなく遡及的に「保留」する手法を自然には選択できるはずがない。もっと本音トークの,政治的解決が図られたとしか思えません。
そうした前提に立てば,誰も裏交易を根こそぎ壊滅させようとしない,当時のコモンセンスが見えてきます。
船舶規定[全文]とその海上法規観
田村論文ほか各先行研究について,明確に否定しておきたい点は,この企業形態は文革期の中国人民公社はもちろん幻の原始共産主義的なものではない,という点です。
それどころか,プレ・資本主義的なもの,つまり海域アジアの企業形態の残存──生きた化石と言ってもいいものだと考えます。
船舶規定
第1条 他字へ輸出入の諸品運搬中損害あるときは船主其の責任を追うものとす
但天災地変の時は此の限りに非ず
第2条 本店の船長は当字民よい(ママ)2名以上の確実なる引受人を設け置くこと
第3条 物品運搬中不正行為により損害生じたるときは船長其の責任を負うものとす
但天災地変の時は此の限りに非ず
1条∶不可抗力(天災地変。以下同じ)以外の運搬中の損害は「船主」負担
2条∶帰属集落民2名の連帯責任条件
3条∶不可抗力以外の「不正行為」による損害は「船長」負担
日本内地の標準的海上法規「廻船大法」と比べてみると,3点の特徴があります。
①集落居住の複数連帯保証人の必要∶店舗が集落有なので当然ではあるけど,集落からするとある種の人質状態です。
②不正行為への自衛義務∶条文上,海賊行為を含む理屈です。これへの自衛力を船長に要求する。
③船主と船長の判別∶資金提供元と運用者の使分けを想定しています。
シンプルながら精緻だと思う。かつ過酷です。──特に③は,英国ロイズ損害保険が海賊による損害を船主-荷主折半負担を基本とする所を,船長の全面負担としている。これは事実上,船長に軍事力を要求しているとしか解せない。
中国南部や西南九州の近世海事法を入手てきずにいますけど──この感覚は,江戸期の島津勢力海域圏での船主一般の位置付けの残滓又は発展形なのではないでしょうか?
共同売店の根付いた集落の所在が本島北部のみならず,伊是名島・伊平屋島から奄美までの「みやきせん」海域にまたがっていることが,一つの状況証拠になります。本島南部や八重山の同規模・類似状況の集落に売店がない又は希少であることは,「共同売店-船舶ネットワーク」ヴィジョンが単なる,つまり任意地に移植可能な商業思想ではなく,相当程度に文化的所産であることを示しているように思われるのです。
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