FASE62-4@deflag.utina3103#具志宮城東公園,同北公園,具志うたき公園,那覇BT裏\楽に育しは苦しやしゆる基ひ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※具志の4公園まで

東のブロントサウルス

然,この具志という場所のヘンテコさに魅せられ始めてました。
 南公園と言うからには──と地図を見ると,やはりそうじゃ!東,北の名前の公園があります。
 西はなぜかない。その代わりもう一つ,「うたき公園」というのがあります。

▲工事現場と亀甲墓群

へ向かい,たから屋を過ぎてから東へ。
 登りになります。
 亀甲墓の織り成す坂です。古い聖域かと思いきや,片側では工事の真っ最中。うーん,益々分からん地域です。
 この分からなさを一層,立ち直りきかなくさせたのが,こいつ!

▲東公園のブロントサウルス

なんだお前は?
 1324,具志宮城東公園。
 ほとんどこいつ(推定:名前はまだない)しかいない広場です。どういうコンセプトなのじゃ?
 中央南北に段差。南にガジュマルの大木が倒れそうになってる。北と西はやっぱり亀甲墓だらけ。

北のガジュマル

▲北公園のガジュマル

こで,1337北公園へ。
 うーむ。やはり特に……何も。
 ただここにも中央南北に段差がある?単にどちらも坂の途中だからか?
 やはりガジュマル古木多数。最も大きい2本の直下にグスクを模したトイレ。ここには,変な動物像がない代わりに亀甲墓も見当たらない。

▲うたき公園の祠

落最高部と言っていい。1345,具志うたき公園。
 入り口が物凄く分かりにくかった。やっと探し当てた南面の入口左手に,まず祭壇3つ。
「皆様に告ぐ!ここはスポーツ広場ではありません。サッカー・野球その他の球技は禁止です。具志自治会」という掲示が……4枚もある?余程腹に据えかねたのか?

うたき公園の火ヌ神

志うたき
〔日本名〕沖縄県那覇市具志1丁目2−36
〔沖縄名〕具志嶽の殿(グシタキノトゥン)
〔米軍名〕58高地

 奥に南面して「具志うたき」(平成7年碑)の石柱。
 正面に大きな建物。左に石を組んだ祠,右には石と祭壇だけの拝所。
 ここは……まず間違いなくグスクです。最高所で東の道を見下ろせる。

▲小さな祭壇

内板あり。
「当地は具志うたきの聖域として字民の敬拝の念深く民生安泰の祈願祭など,戦前(1945年前)旧6月25日に具志綱引き祭が盛大に行われた由緒ある場所である 土地区画整理に伴い字民のご協力によりここに人々の憩いの森うたき公園が建設された。」

▲こちらは屋根付の祭壇

うやらこの祠が火ヌ神を祭ってるらしい。
 ただ「ウタキ」と言いながら非常にあっけらかんと明るい公園です。案内板に「字民のご協力により」とあることからも,税金ではなく住民の創意で造った場所っぽい。
 高低からもこの新しさからも,ここは米軍名称58高地の蓋然性の高い場所に思えます。
※ 那覇市観光資源データベース/具志ウタキ
「『琉球国由来記』(1713年)に出てくる『具志嶽の殿』(グシタキノトゥン)がここではないかと考えられている。」
「祠のやや手前左には古い砂岩を積み重ねた火ヌ神(ヒヌカン)があり、香炉が置かれている。その向かいにも石と香炉が置かれている。戦前は旧暦6月25日に具志綱引き祭りが盛大に行われた由緒ある場所。」

※ 日本1000公園/1256/1000 具志うたき公園(沖縄県那覇市)
「園名板の裏側に刻まれた碑文の内容や、那覇市の公園配置図には記載がないことから考えて、地域の共有地である御嶽の周りを民有地のまま整備・公開している『民設公園』ではないかと思います。」

思いがけず深淵だった旭橋のX

,具志では沖縄観光客が誰もとらなかったであろう物好きな公園巡りをしてしまいました。収穫もらくだちゃんとブロントちゃん位ですけど──南公園とうたき公園は一見の価値はありますので是非。
 そんなところで具志からやっと引き上げる。楚辺のあの店へとエンジンをふかしまして──

▲島ちゃんの麻婆豆腐

426島ちゃん
マーボー豆腐(並,辛)500
 なぜかこの日の島ちゃんでは食後感を完全にメモしてない。だから見映えを振り返ってみとくと──赤黒い色彩は,あたかも市販のお安いマーボみたいにテカテカに明るい。花椒その他の香料は少なくて,唐辛子も小ぶりな刺激の強いタイプだからでしょう。
 あと,写真でも表面のアサツキの鮮やかな緑が目を引きます。香りも野性的だった記憶。想像ですけど近郊の新鮮かつ良質なのを刻んでるんではないでしょうか。

蔽に怯えバイク返却す。1603。無事手続き終了。
 牧志からゆいレールに乗る。最前列の窓からの眺めは,高所恐怖の我々にはなかなかクるものがありました。
 旭橋にて下車,この2月に再び移転した「しまづくりNW」でチャリを借りれた。ふとXに遭遇したのは,何とこの市街ど真ん中でのことでした。
 そのXとは!?

島の大石
〔日本名〕沖縄県那覇市泉崎1-20-3 付近バスターミナル構内
〔沖縄名〕ナカシマノウフシー ※別名 文筆峰(ぶんぴつみね)
〔米軍名〕-

▲死ぬほど元気!

「カフーナ旭橋」は何なんだ?

前,悩みとかあるのか?
 こいつもある意味,沖縄Xな小僧ではある。今回も元気なパティシエ・ジョーギの看板坊や。
 いや,そうではなくて,話は旭橋である。

▲1627,旭橋駅からゆいレールの軌道越しに東横イン方向

バスターミナルの建物の正式名は「カフーナ旭橋」。
 2008年,ワシにとっては苦く懐かしい旧ターミナルの再開発が公表された前後,何があったのか2007年~12年までに那覇バスターミナル株式会社の株式は三度の買収を経ている。そして2018年にようやく運用開始。
 その紆余曲折の中でも,ここは遺された。
 噂に聞いてた,というか何度か通り過ぎてもいるバスターミナル内拝所。1629。
※ wiki/那覇バスターミナル

ミニチュア斎場御嶽

▲1623旭橋から建て替わったBTビルへの渡り廊下から見下ろす仲島の大石

の根元にかけ上がった上部に「神世三代御… 仁天屋船久久…」とある丸石。
 下部,少し左手にも小さな拝所。斎場御嶽のミニチュアのような,危なっかしくも奇特な形状です。

▲1632下部の拝壇

■小レポ:仲島の大石とカフーナ旭橋は新沖縄の舳先である。

「市街地にもこんなものがあるよ」という程度のものと考えてましたけど,そういうレベルの要度じゃないらしい。
 この地域自体が「仲島前の浜」「大石の前」と称されていた……ということは,遊郭等の町以前,初めにまずこの岩ありき,という言葉使いです。出典は定かでないけれど,17世紀後半に王側の宅地化を拒絶したとの記述も。
 地学的にひ海岸のキノコ岩の残存。形状からは,瀬長島の子宝岩に似てて,やはりビジュル信仰と推定できます。
 ここまでが事実関係です。
※ 那覇市観光情報データベース/仲島の大石
「その付近は『仲島前の浜(なかしまメーヌハマ)』、『大石の前(ウフシーヌメー)』などと呼ばれ」

※ ameba/沖縄の裏探検
「海岸にあるキノコ岩の名残です。専門的にはノッチとも言います。
 辺りは陸地になっていますが、周りが隆起したのではなくて、現在のバスターミナル周辺がかつて海中にありました。」
「1672年。王府が一帯を宅地にしようと予定し、これを知った対岸にあった久米村(くにんだ、現在の久米)の人々が埋め立てに反対しました。
 久米村の長官であった金正春という人物が『風水では久米の南門に当たる場所なのでこの石は重要である』
と言いました。」

▲葛飾北斎「仲島蕉風」

1 仲島の大石がかつてあった場所

 上記は葛飾北斎画「仲島蕉風」。下記Invisible RYUKYUサイトが紹介するとおり,北斎自身はもちろん渡沖しておらず,一次史料性は低い。ただ通説通りに「琉球国志略」からの写しにエキゾチックな装飾を施したものとすれば,基本的な位置関係はかえって忠実に転記されたかもしれない。
 その前提で見ると──中央手前の浜に立つのが仲島の大石となります。左手の岩は沖映通り,ナイクブ古墓群の辺りでしょうか。
 なお,右手の島は,この年末に訪れる上下天妃宮でほぼ間違いない。
 仲島の大石は浜に立つランドマーク的な存在でした。辻以前には仲島遊郭がこのエリアのメイン施設というから,北面するかつての那覇,港のある島に対し,非日常の異世界的な一帯のシンボルです。
 久米の渡来人集団にとって,天妃両島と仲島の大石の3スポットが,外港から入ってきた時のこの土地の象徴だったのでしょう。
 港とその出口の目印たる小島。莆田と湄洲島を連想するのは飛躍し過ぎでしょうか。
▲「御免琉球人行列附」(国立歴史民俗博物館蔵, 天保13年(1842))に描かれる琉球使節

2「鎖国」日本人にとっての琉球

 少し脱線します。
「老松堂日本行録」で朝鮮使節が蒲刈(現・呉市)の海賊に捕捉された際,「朝鮮の使節ではなく琉球のから略奪したほうがよい」というくだりが出てきます。
 琉球使節は,薩摩藩の琉球侵攻後の「強制」の側面と,琉球側からの国威発揚の観点から描かれたものしか読んでなかった。だから,江戸期日本の庶民に実際人気があったことは知りませんでした。
 北斎は「富嶽三十六景」を描いている天保2~5年の最中,天保3年に「琉球八景」を描いたとされる。富嶽の後でついでに描いたのではなく,富嶽をストップさせてでも描きたかった(もしかしたら描かされた)のだと推測します。
 それほど江戸期日本での琉球行列は人気を博し,「異国情緒」の対象だったということになります。
 北斎が,ネタ本にしたとされる「琉球国志略」の挿図「球陽八景」をどこから入手したのかと言えば,長崎の中国人ルートでしょう。久米三十六姓の人々から長崎に出入した明国人に伝わったものがあったのでしょうか。
「鎖国」下の日本人が,その意識まで鎖国化していたのでは断じてなく,異郷を志向して止まなかった状況証拠です。というか,海外交易がご禁制というだけで鎖国してるなんて気はなかったのでは?
 さらにその点で面白いのは,この琉球八景のような露骨な海外志向の文物が,幕府側に規制された形跡がないことです。
※ Invisible RYUKYU 第29回目は『仲島の大石、これぞまさにドラゴンボール!』
「北斎自身が当時の琉球へ訪れたという記録は無く、それ以前に琉球を訪れた中国からの冊封使によって描かれた『琉球国志略』の挿図、『球陽八景』を元にして描き彩色したものと言われている。」
「琉球の国王が代わる度に江戸へ使節団を送るという『江戸上り』が課されていた。
 その使節団というのが、中にはわざと琉球を異国の地として目立たせるイメージ戦略のためだったとも言われたりするが、とにかく派手で劇団的な100人を超えるパレードのような道中だったという。
 しかも、その使節団の中でとりわけ目立ったのが『楽童児』と言われる容姿端麗、且つ教養及び楽器の演奏や演舞に優れた美少年たちのグループであり、道中におけるその人気たるやものすごいものだったらしい。
 今のジャニーズという例えがよく言われるほど。
 んで、そういうこともあり当時日本本土でも琉球ブームが巻き起こっていたようで、そこに乗っかって描いたのが北斎の『琉球八景』だろうと言われている。」
「当時『那覇』と言えば通称浮島と言われた離れ島、で今の久米、辻、西町、東町あたり。
 で、その那覇から久茂地川を隔てて海沿いに『仲島』という遊郭があった。ちょうど今の泉崎、那覇バスターミナル辺り。」

▲泉崎交差点と旧「龍頭」

3 久米の龍頭,その新旧

「Invisible RYUKYU」の仲島の大石記述は惹かれる点が多かった。もう一つ興味深く読ませて頂いたのは次の,久米の龍の頭に関する部分です。
 上の写真の左上部,三角形の緑地が意図的に作られた「龍の頭」だと言うのです。
 仲島の大石は,この「龍」が手に持つ珠だという。

 当時は上にも述べたように『那覇』は離れ島で今の久米、辻あたり。で、その離れ島という立地が好都合でもあっただろうと言われるんだけど、多くの中国人が貿易や商売、技術や学問普及のために那覇に移り住んで来て浮島那覇の一角に久米村という村を作る。今で言うチャイナタウンといったところか。
 彼らこそ久米36性であり、まさに当時の最先端をいく頭脳集団、技能集団だ。当時の琉球の多大なる発展や行政の改革にも多大な影響を及ぼす人々なわけ。蔡温や謝名利山もこの久米36姓の末裔だと言われる。
 で、彼らは中国からの移住者ということもあり、風水へのこだわりはものすごく強かった。
 そこでもちろん久米村の中に置いても風水で街作りを行なう。今でも存在する久米大通りという通りも強い『気』が通っていたんだろうね。昔からとても風水上大事な道で、彼らはその通りを龍の身体と捉えていた。
 その名残が今でも見て取れるスポットがあるんだけど、久米大通りの先端、泉崎交差点と交わる一角には上空から見ると龍の頭とはっきり分かる場所が設けられている。

Invisible RYUKYU前掲
 個人的な評価では,この見解は根拠に欠ける。でも,どうもこの著者のディープな記述ぶりから推すに,何か独自の情報,あるいは久米では当然の言説を元にしてる可能性がある。
 久米36姓の家系というのは,沖縄政財界に厳然たる影響力を持つらしい。
※ 沖縄四季/沖縄の久米三十六姓とは?
~第八代の現・玉城知事は違うらしいけれど,第五~七代まで稲嶺・仲井・翁長知事はいずれも三十六姓末裔とされる。

 それに,香港や台湾ではこういう発想は,地元ではむしろ普通に為されてる。信憑性は十分あるように感じます。
 ところが,です。
▲2020.03現在の泉崎交差点(GM.航空写真)
「カフーナ旭橋」が出来た現在,三角緑地は姿を消してます。
 Invisible RYUKYUの推測からすると,そんなことはあり得ない。
 ここから自然に出てくる新たな推測があります。三角形の敷地に造られた「カフーナ旭橋」は,三角緑地の後継たる新たな龍頭であろう,ということです。
 それだけだと形が似ている,というだけです。でももしそうなら,この「カフーナ」という日本語としては耳慣れない語に何らかの含意があるだろう,と推測できるので,調べて見ました。
 公式にはこうです。

カフーナとは“幸せ”という意味です。「良い知らせが届く街、幸せが届く街でありますように」という願いが込められています。

カフーナ旭橋HP
 それに対し,フラットに調べたカフーナ(英語)の語義は相当異なってます。従って,これと上記解説との格差自体が,この名称に込められた強い真意を裏付けているように思われます。
 21世紀の最新建築にもこんな裏の意味を込めているとすれば,この建物はまさに堂々たる沖縄X。──「新世紀の沖縄も久米三十六姓が牽引していく」という意思表明とも取れますけど,そこまでいくと陰謀史観めくし,興味もないから。
 そしてこの位置関係だと,仲島の大石は,珠どころか龍頭の喉仏に当たることになります。

kahuna
1〔ハワイの先住民族の〕呪術師、シャーマン
2〈米話〉大立て者、実力者
3〈米俗〉サーフィンの名人
→big kahuna
1〈米話〉お偉方、偉いさん、大物、ボス
2《the ~》〈米俗〉〔一般的に・または特定の海岸などで〕最も優れたサーファー、サーファーのリーダー

※ 英辞郎 on the WEB Pro/kahuna

“We are the biggest kahuna in the environment business.”
「我々は環境部門では一番のビッグ・カフーナだ。」
Big kahunaというのはよく使われる表現で、先日同僚ディックに解説をお願いしたところ、ハワイの波の神であるカフーナが語源で、「ビッグ・カフーナ」は「大物」という意味だそうです。

※ アメリカでプロジェクトマネジメント!/ビッグカフーナ

カフナはハワイ先住民の伝統的社会で、神々と人間を取り持つ人たちとして、支配者階級のアリイの次に位する地位にいて、マカイアナナ(英語版)、一般大衆)を助けた。様々な分野の専門家を意味する言葉で、場合によって神官、医者、職人、呪術者などを意味した。
神官
神官の中でもカフナ・ヌイ(Kahuna nui)は最高の地位で、王の顧問として絶大な権力があった。カフナ・プレ(普通の神官)、カフナ・カウラ(預言者)などもいた。

※ wiki/カフナ
▲まだ読んでない……けど題名だけで気に入ってる一冊。

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