m190m第十九波m鉄の暴風の香を裂き海の沸くm0(間奏)沖縄(大密貿易時代資料集asニライF65)

本歌:螺旋階段を降り来て夏の月〔弘前〕

ティス metis (00:再掲)
「分析能力の高い古代ギリシャ人は,タコやイカのような海洋生物に備わっている知性を,言語的ロゴスと区別して『メティス(metis)』と呼んで関心を持っていた。メティスは海の女神である。(略)メティスは言語の秩序を乱して,意味を多様性の渦に引きずり込むのである。(略)
 人間の世界でこのメティスの知性の持ち主と目されるのが,職人(略),ソフィスト(略),政治家(略),海洋民(動き変化を続ける洋上で安全に航海を続けるための知性に富んでいる)たちである。たえまなく動き変化している実在を,厳密な論理命題によって取り押さえるのではなく,みずからを多数(multiple)多様(polymorphe)に変容させながら世界に変化をつくりだしていくのが,メティスの知性の特質である。」
(中沢新一「レンマ学」講談社,2019)
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(今回の行程)
首頁 うるま新報1巻 2巻
2019
1227 A1赤嶺散歩 A2 天妃宮散歩
1228 B1波之上宮 B2伊祖城 B3中城のテラ
1229 C1八重瀬城 C2唐の船御嶽 C3奥武島観音 C4奥武島西之御嶽 C5冨里の拝所
1230 D1安平まで D2開台天后 D3安平古鎮 D4台南老城西 D5台南天后 D6台南老城東
1231 E1鄭成功祖廟 E2嘉義から東行 E3北巷朝天 E4北巷鎮安 E5新巷奉天 E6嘉義天后 E7嘉義の夜道
2020
0101 F1鹿巷まで F2鹿巷興安 F3勅建及南瑶 F4彰化から豊原 F5豊原福徳 F6台中萬春
0102 G1南屯萬和 G2五権自立街辺り G3公有第二零售市場 G4淡水まで G5淡水關渡 G6西門天后 G7忘れ得ざる師大夜市 G8どうしても西門の夜
0103 H1信義福徳 H2敦化北路4巷 H3新荘慈祐 H4蘆洲
0104 I1大城城 I2垣花城 I3阿摩美久の道 I4斎場御嶽の入場料
0105 J1那覇天妃 J2壺屋の始まりと終わり J3香港通り
0106 K1首里観音への道 K2古波蔵迷宮 K3楚辺の路地裏
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桃酥のa)方形化が沖縄・嘉義で相似的に進み,かつそれがb)アメリカ食材加工の準用だとすれば,「ちんすこう」と方塊酥は同時に同要因で形成されたとするしかない。どちらが先でも後でもない。
 そして,そんなことが起こる環境としては,沖縄と嘉義,つまり台湾が「当時」一体的なまとまりを形成していたと想定するしかない。
 当時とはつまり,新垣ちんすこうが出来たアメリカ軍政下の時代です。その時代,つまり大密貿易時代の東シナ海は一体的で,沖縄の米軍政府からの影響は,後の狭義の「沖縄」だけでなく台湾も同時かつ同等に受けた。
「ちんすこう」と方塊酥の元祖=巨大版が,風味の差こそあれ,ともに桃酥の海域アジア版だったからです。
(略)
桃酥をともに起源とする方塊酥と「ちんすこう」は,海域アジアの最後の時代の存在証明たりうるのではないか

※外伝06@明潭@@_53_@) 第三日@ 写真集2 (@_53_@) ■レポ:海域アジア版桃酥:方塊酥
藤一氏の研究によると,オランダ平戸商館の一六一五年の輸入額の二八%,輸出額の一三%はポルトカル船からの捕獲品だという。一六一七年に平戸から出帆したオランダ船の横み荷の八八%は中国船等からの捕獲品であり,日本調達は一二%にすぎない。 驚くべきことである。オランダは詳上で略奪した物資を平戸へ搬入して日本へ売り込み,また東南アジアへも転送して巨利をあげていたのだった。フィリピン総督が指摘するように,オランダはまさに海賊をもって交易を成り立たせていたのであった。ただこれはオランダだけの行為ではない。 ポルトガル船やスペイン船も,同様にオランダ船やイギリス船を襲撃していた。それがために,一六二〇年,オランダとイギリスは平戸で両国の防御同盟を締結した。だがこれを機に両国は,スペイン・ポルトガル・中国船への攻撃をさらに激化させたともいう。アジアの海賊の跋扈する世界だった。」
(平川新「戦国日本と大航海時代」,中公新書,2018)



「ナツコ」
※ 奥野修司「ナツコ 沖縄密貿易の女王」,初版2005年4月,文春文庫

きおり夕暮れ時に近所のひとたちと六斤(一斤=六〇○グラム)缶をぶらさげて、ドラム缶一杯に入っているスープを販売している民家に、行列をなして購入にでかけた。それは、私にとって最高に美味しい物として、いまでも口中にその味覚が残っている。後年、私が新聞資料で知りえたことだが、それは首里石嶺町に駐屯していた「チャイナ部隊」(台湾の国府軍兵士)の残飯だったのである。米軍が国共内戦下の国府軍を支援していたので、一九四七年、米軍の戦車をはじめ軍需物資を受領するために、その部隊は駐屯していた。大名の一住民が、中国人兵士の作った食事(中華料理)の残飯を一手に払い下げてもらい、それを水でさらに薄めて、近所に販売していたのである。

※ 石原昌家「戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―」おきなわ文庫,2018

湾にヤミ取引のためにきていた香港·マカオの商人たちが沖縄の密貿易人と接触することによって、さらに、香港・マカオの密貿易ルートが開拓されることになった。そのルートは、与那国経由のみならず宮古や沖縄本島にまで拡大され、密貿易ミニ中継基地が各所に形成されていった。
 さらに、中国本土と沖縄間においても密貿易ルートが形成されつつあった。そして、那覇市のヤミ市では、香港通りという異名がつくほど香港,マカオからの密貿易品が集積している場所もできた。新聞には、密貿易出港地としてインドや朝鮮の国名まで掲載されている。
 米軍の放出物資や軍需物資、戦場の跡に散乱している砲弾·薬キョウ、各種兵器類、米軍倉庫からの「戦果」類などが物々交換のいいバーター品として出ていき、衣食住のあらゆる物資が欠乏している沖縄にとって、すべてがバーターの対象になりえた。[石原2018]
九四六年一月北緯三〇度線の口の島以南は日本本土と分断され、米軍政下におかれるとになった。同年八月、日本本土から本土疎開者や復員軍人などが、海防艦などによって沖縄本島への引き揚げを開始した。そのとき引揚船の乗組員が、那覇港で沖縄漁民などとヤミ取引を始めたのが、日本と沖縄の密貿易のきっかけになった。以後、トカラ列島の口の島を主たる中継基地として、日本との密貿易が「大和商売」という呼称で密かに、しかし盛んに行われることになった。日本との密貿易は九州から次第にそのルートが北上していった。私が確認した地域は、東京都の離島三宅島を中継基地にして関東地域にまで及んでいる。[石原2018]

台湾のスオウ南方には、沖縄漁民部落まで形成されるほど、台湾と沖縄の関係は密接であった。
(略)
 日本の植民統治下の台湾では、沖縄出身者が日本人社会の中で差別視されていることを知った「本島人」は、沖縄人を日本人一般とは区別し、”同胞意識”を抱いて接していたのである。
(略)
 蒋介石軍兵士の目に、台湾人は五○年という半世紀にわたって皇民化された”半日本人”として写っていたようである。上陸に先立ってすでに九月一日から米国軍人と国府特務が、台湾の政治情勢を調査して、台湾知名人士名簿を作成しはじめた。それは彼らの行動を監視し、富裕な台湾人に対し、のちに脅迫、強要する用意であったという。[石原2018]

九四八年政府職員給与が最高一五〇〇円、最低一九〇円、平均三五五円(B円軍票)のとき、そこでの担ぎ屋は、一日二〇〇〇円も稼ぐという噂だった。[石原2018]

『豚養うよりは、ブローカー(仲買人·密貿易人)を養った方がよい』という言い草が残っている。
 密貿易人の下宿代は、一日
二00~三00円(B円) で平時の教員料が一日の宿泊料で吹っ飛ぶ金額であった。一間半と二間で三坪ていどの倉庫小屋は、普通三〇〇〇~五〇〇○円で請負師が三日間ほどで建てていた。
 密貿易品を二回預かっただけで、二軒分の建設代金が取り戻せた。[石原2018]

 与那国と密貿易で直結していた日本本土の港町では、与那国の民謡が一時流行っていたというエピソードまで残っている。[石原2018]

時、密貿易で『二十日ウェーキ(二十日間でひと財産ができた意味)』になったいう表現が用いられた。それと対照的に、『香港行きぎり』という用語も流行語になっていた。
 それは、ボロ船に身を託し、香港へ向かったきり戻ってこない人たちのことである。そのような表現が生まれたということは、その海難事故の多さを物語っている。
 結局、呉さんは日本にも台湾にも戻れず、そのまま沖縄へ滞留することになった。[石原2018]

 密貿易ルートが香港、マカオにまで拡大されたとき、そこまでの一航海におよそ二十日要した。つまり、一航海二十日間で、普通一生かけても築けないほどの資産を形成できたという意味で使用された言葉である。
 時期によって、『価格』に変動はあったが、沖縄から薬キョウ五○万円(B円)分を積み込んでいくと、香港で入手した見返り物資が沖縄で六○○万円になった。[石原2018]

 沖縄では紙幣をドラム缶にいれて保管し、持ち運びするときには、カバン類にいれると目立つので、イモなどを入れるカマス一杯に詰め込んでいた。密貿易仲間とその大金を分けるとき、枚数を数えるのは手間ひまがかかるので、紙幣をハカリにかけて、重量で分け合う場合もあった。[石原2018]

 大密貿易の時代の実態を示す公式記録はほとんど存在していないといってもよい。(略)
 一九五〇年以降、取締りがGHQ本部が直接乗り出したことによって本格化し、それと呼応した形で沖縄地元新聞各紙においてもセキを切ったように密貿易関係記事が掲載されるようになった。したがって、この警察統計と新聞記事をみるかぎりにおいては、一九五〇年以降、沖縄の密貿易が激増したかのようにみえる。
 しかし、事実はまったく逆である。
 これまでも述べてきたように、沖縄警察は、密貿易を本気で取り締まったら餓死者が続出するであろうと予測して、意図的に取締りを回避してきた。
 しかし、さまざまな要因で飢餓状況を脱出しつつあった一九五〇年以降、むしろ、密貿易の必要性が薄まり、特殊化し、犯罪性をおびつつあったとき、沖縄警察が関係当局の強い意向もうけて本格的に検挙しはじめたから、統計数字や新聞記事上増加しているようにみえるだけなのである。[石原2018]
貿易が単に飢餓状況からの脱却から次第に資産を増大させていく欲望が増大するにつれて、密貿易人同士·取引相手からの詐取をはじめ海賊行為までも頻発するようになった。
 なかでも、沖縄の密貿易社会を震壊させた第八紀水丸洋上殺人事件(俗に「ヌルガン沖の海賊事件」)は、その船が朝鮮、琉球をまたにかけた密貿易船であった。検挙された密貿易人のなかには、沖縄·本土出身が含まれており、米軍の自動小銃で九名も殺害して、ロープで数珠つなぎにして、錨を重しにして海に投げ込んだ凶悪事件だった。なにしろ、沖縄でトン当たり三、○○○円から一万円の銅屑が、本土では二〇万円から二五万円で売却できたので、密貿易人同士で凶悪犯罪が発生するようになったのである。中国人海賊に沖縄人が襲われて九死に一生を得たり、海賊船に襲われた形跡のある無人の船が漂着したりするようになった。沖縄密貿易人の中には海賊に襲われた場合に備えて、ダイナマイトで武装するなど、次第にプロ化していき、密貿易そのものに犯罪行為が伴ってきた。そうなると、当然一般の人たちがそれに関わる環境ではなくなってきた。[石原2018]
書が描いた時代は、人間が飢餓状況のなかで自ら生きようとするとき、人間が人為的に形成した国境線は何の意味もないということを示していった。ひとびとは国境を越えてそれぞれが必要とするものを求め合い、交換していった。そして、利害を越えた信頼関係がうまれ、共に生きる生活パターンも形成されようとしていた。
 いま、「ボーダーレスの時代」といわれているが、まさに戦争終結から一九五二年の頃まで、ウチナーンチュ(沖縄人)はボーダーレスの時代を
築くことによって、生き延びることができたのである。それは、「琉球王国の時代」に「大交易時代」を築いた琉球の先人たちの気概、行動エネルギー、生きるパワーを継承していたといえよう。
 沖縄の県民性は、一般に「鈍重(ドゥンナサン)おひとよし」とみられていた。米軍占領下の混沌社会を、生きるエネルギーをほとばしらせて、人間としての社会を再生·創造していったウチナーンチュは、才智にたけ、機敏で勇敢そのものだった。[石原2018]
※ 琉球朝日放送 報道制作局/写真で見る宮古の戦後 復興支えた密貿易 2009年
954年の写真です。人と品物があふれ、戦後間もない頃にしてはその豊かさに驚かされます。
中尾宮古商工会会頭『これは今だからいえるのだけれど、経済復興は密貿易のお陰じゃなかったかと』(略)
 沖縄の密貿易の実態を調査した石原教授は『台湾からの引き揚げ船が密貿易の始まり』と指摘しています。
石原沖国大教授『沖縄にある米軍物資と台湾にある生活物資との交換。自然に物々交換が生まれていく。これが密貿易の始まり』
 与那国を拠点として台湾相手に始まった密貿易は、やがて沖縄本島や奄美との間にも広がっていきます。(略)
 沖縄戦でアメリカ軍が打ち込んだ砲弾の薬莢や、銅などの金属が台湾・香港を経由して中国共産党に流れるようになります。(略)
中尾さん「(略)皆やったんですよ。財を持っている人は密貿易に関わった人が多い」
湾・宜蘭県蘇澳鎮】太平洋戦争直後から1952(昭和27)年ごろまで台湾と与那国島の間で行われていた、いわゆる「密貿易」に従事していた八重山関係者の写真が、台湾側で密貿易船の出入り口となっていた港町の1つ、蘇澳(スアオ)鎮で見付かった。密貿易の関連写真は、当局の取り締まりを逃れるためにほとんど処分されたとみられており、現在まで残っているケースは極めて珍しい。(略)
 蘇澳からは米などの食べ物、与那国側からは米軍の軍服や薬品などが入り、物々交換されていたという。
 密貿易は、やりとりされた物資が戦後の沖縄や日本本土の復興に寄与したという位置づけに基づき、最近では「復興交易」という呼称も使われるようになってきた。
※ 八重山毎日新聞/「密貿易」関係写真見つかる 台湾蘇澳の黄さんが保管
つての交易時代再び
国境の島・与那国町が台湾との交流具体化で模索と実績の積み重ねを続けている。(略)那覇よりもはるかに近い目と鼻の先にある台湾との交流は、戦後の一時期、“密貿易”で島が大繁栄したことがあるため、かつての「夢よ再び」の願いが込められている。(略)
元県議で同町出身の宮良作氏が「復興貿易」と主張するかつての“やみ貿易”は終戦から4、5年続き、久部良は旅館や食堂、飲み屋、映画館、遊廓など含め数え切れないほどの店が軒を連ね、人口は移住者を加えおよそ1万2000人にまで膨れ上がったという。 (略)
当時台湾は内戦もあったことから薬きょうなど非鉄金属類も持ち込まれ、久部良港は闇夜にまぎれて50―60隻の船が停泊したという。
※八重山毎日新聞/台湾側が求めるものは
与那国町、「国境交流」本格化の波高く
の港(引用者注:久部良港)では、夜になると沖合の接岸できない密輸船から、小型の船へ荷を載せ替え陸揚げされたそうだ。
(略)
1948年の公務員の平均給与は355円、担ぎ作業は1日で2000円を稼ぐ者がざらだったという。(略)
200mの海岸通りでは、各種の屋台が並んださ。1948年に2軒だった料理屋が翌年の暮れには38軒を超えたよ。
水商売の女性は200人を超え、さらに、なんと劇場まで建設されたのが驚きですな。(略)
50万円分の薬莢を香港に売却して600万円になり、
その金で砂糖やメリケン粉を船に満載するほど買っても金が余り、金を持ち帰り米ドルの交換レートが良かったので余った金でも総額600万円になったというのだ。
※amebaプログ/戦後、与那国島は密貿易の拠点だった
史は誰にも即断できないもの。みんなそれぞれの位置で最低限の良心をもつことで,ある真実が力を発揮し,歴史の流れが変わっていくということだと思う。
※ 同映画中キム・ジョンナムの台詞「我々に残された武器は真実だけです」
※ 朝日新聞:「1987 ある闘いの真実」チャン・ジュナン監督インタビュー
調所 広郷(廣郷)(ずしょ ひろさと、安永5年2月5日(1776年3月24日) – 嘉永元年12月19日(1849年1月13日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。(略)
通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。(略)
『無利子250年払い』も債務整理としてやむを得ない処置でもあった。(略)債権主の商人には、琉球、清との密貿易品に利権を優遇する代替措置も取っていた。
※ wiki/調所広郷
凱十著』によると
『広島藩の御用商人豊島屋円助が薩摩藩の御用商人鬼塚助右衛門と交渉して文久3年8月広島から銅10万斤,鉄3000駄,米3万石,繰り綿5千本,木綿十万反を輸出し,薩摩から生糸,硫黄,現金銀を輸入している。』
『島津忠義公史料』によれば『このとき該藩(広島藩)貿易を希望し,而して金10万円貸与せられ,その返還年年米,木綿,銅,鉄四品を以てせんことを記す。』
※ 中国新聞社「ひろしま歴史の焦点〈上〉―原始から明治維新まで」中国新聞社事業局出版部,1976
薩・芸長交易の商品として,または長崎に送られ,武器・艦船の輸入代金などに換えられた。
(略)
 藩は様式鉄砲の製造をはかり,江戸から兵器職人をまねいてゲーベル銃と推定される洋式小銃を製造したり,また薩摩藩から不要小銃500挺を買い入れるなどした。
※ 有元正雄「広島県の百年」山川出版社,1983
応3年11月3日~7日,御手洗・大長の新谷家(寺)で,『四藩軍事同盟』がむすばれたと記す。
(新谷道太郎著『維新志士』(口実筆記)による)
参加者
広島藩:池田徳太郎 船越洋之助 加藤種之助 高橋大義
薩摩藩:大久保利通 大山格之助 山田市之丞
長州藩:桂準一郎 大村益次郎 山縣狂介
土佐藩:坂本龍馬 後藤象二郎 (略)
なぜ,重大な会合が御手洗だったのか。長州は大政奉還後も,まだ朝敵だから,京都では会合ができない。新政府のトップが絡む重大会議ゆえに,朝敵だからと言い,不参加ともいかない。
桂準一郎(桂小五郎,木戸孝允)は,岩国から芸州広島藩・豊安号で,11月1日に広島に赴いた。そして,広島城で浅野長勲と出兵関連の密談をおこなったうえで,御手洗にむかった。
藩の世子が認めた上だし,瀬戸内の離島ならば,警戒の目など無きにひとしい。[引用者注]
『四藩軍事同盟』と『新政府綱領八策』は御手洗で結ばれた。
(「穂高健一ワールド/龍馬の手紙発見で、広島藩・御手洗の4藩秘密の盟約が確定された」が原典と推定される)

注「離島」だから,というのは現在の感覚であり,当時の実経済,つまり密貿易上は全国屈指の経済拠点だったからこそ,ここが維新政府樹立の秘密基地になったのだと思う。
※ 幕末芸州広島藩研究会Wiki Wiki/四藩軍事同盟