(長崎の岬)
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今はここを── 何て呼べばいいんでしょう? 県庁坂通りに拘って歩いた一日です。 |
目録

ブレッドアーエスプレッソは休まない
正月2日0926、長崎IKホテルに荷物を預ける。ブレッドアーエスプレッソは何と元旦から営業してました。3日まで通常営業と貼り紙してるから、明朝には頂けます。
本日はまず──五島町公園の通りを東行。湾曲する坂を登りましょう。
GM.(経路:IK〜県庁坂)
長崎南年金事務所Y字
〇936。登り切った右手正面がY字分岐してます。長崎南年金事務所。
──このY字は、上図(18C末)ではもっと分かりやすい。旧県庁の岬の突出地形の方向からはズレていて、何の結果か読めない不思議な道割です。
これを右側、ほぼ真南に入り、再び降ります。0941。
登って降りてと、常人からすると無気味な行動ですけど──こちらの下り傾斜はごく緩い。右手に坂本屋(→GM.)。元の想像がつかないエリアです。
消防団(→GM.)脇に失礼して入ってみる。このブロックの敷地の奥と隣の間には、2mほどの段差がある。隣のアパートの階建てにしてほぼ一階分です。
この段差ラインは、万才町1ブロックを北北西-南南東に貫いているようです。ただし、それは北北西延長線の金屋町ブロックにも、南南東の万才町3にも継続していません。
その南のY字路を左に行くと久しく行ってない紅灯記(→GM.)ですけど、右手南西路に入る。ここから先は平坦になってます。
ここに水平10mほどの階段。右手ほぼ西方向へ降りる段差です。我ながら勘が良い。0953。
明治帝はフカダ坂を下りしか?
調べる限り「○○坂」の既存名はない。右手北側にフカダ設計様の看板が出てるので、謹んでフカダ坂と呼びます。
25段と短い。左脇には微かに石垣が露出するほかは、路面や手すりに古さはない。ただ、この坂の路面は完全に樺島町(→GM.)なのです。
降りた地点から左手西側が、樺島町のともづな石(→GM.)から県庁坂の大波止側下りに続く段差。六町とはつまり、この段差の上のことです。10時ジャスト。
何を不思議がってるか、伝わりますでしょうか?
フカダ坂は万才町と樺島町の境で、かつ坂自体は樺島町に含まれる。またその方向は、上部車道のNTT長崎支店前から九連日報社長崎支局まで(GM.:行程)、かつてあった大きな坂道の残滓のように感じられます。なお九連日報社長崎支局でこの「坂道」が途切れているのは、そこがかつての海岸線だからです。
さらにこの坂の傾斜は、北の万才町1ブロックに多分あったであろう急斜面と、南側に続く崖状斜面を接続してます。ただ45度ほどの屈曲が見られます。
小さい坂ながら、この地点で長崎六町北西部は変調しているのです。
ではフカダ坂の西延長はどうでしょうか?
北側脇に側溝が走ってます。古い石垣造り。下部の面が、両側から切込した岩を傾けている形式。唐人屋敷内と同じ技術が使われてます。
この側溝は、東の坂上側にも暗渠になって抜けてるらしい。
地下トンネルを掘った訳はないでしょう。先に側溝が地表を通っていた時代があって、後に上部構造、ここの場合は傾斜面が付加された。目的が防災だったか軍事だったか確定しにくいけれど、万才町1から県庁坂までの急斜面はどこかの時空における
明治帝は一の堀を見たか?
──現時点で、関係あるだろうと思っているのは、下記の「奉行所」と「一の堀」です。この奉行所は、牛込忠左衛門が長崎奉行に赴任早々、つまり1671(寛文11)年直後頃に立山(現・歴史文化博物館)に移す前に、当時の本博多町にあった東役所です〔後掲ナガジン/官公庁・長崎奉行コースほか〕。
東役所跡がどうなったのか、そこは情報がありません。ただ位置的には六町北端外、一の堀の北側です。
本博多町、現在の万才町にある奉行屋鋪(白塀で囲まれているが、建物はない)の南側に大堀(一ノ堀)が、さらに、豊後町と桜町の間に大堀(二ノ堀)が、桜町と勝山町の間に大堀(三ノ堀)がある。一ノ堀は、文禄元年(1596)、奉行屋鋪北側の小堀(「寛永長崎港図」にはない)と共に開削されたが、慶長元年(1596)、二ノ堀と三ノ堀が開削されたので、小堀は埋められ、慶長元年(1596)以降、町が造成され、堀町と命名された。〔『新長崎市史』(第二巻 近世編、平成24年3月)←後掲平野〕
とするとフカダ坂の地下の暗渠は、16C末に埋設された一の堀の痕跡ではなかったでしょうか?
万才町1ブロックをなおもゆっくり一周してみるけれど、他には何も見つからない、ごく普通の町です。坂本屋脇まで戻り、お食事の店 味美隣の灰皿で一服。
坂本屋はad.金屋町2です。このブロックの筆の境は南東隣の万才町1ブロックのそれとは食い違ってます。換言すると後者のブロック半ばの筆境界線が、前者にはない。
尚、坂本屋開業は1894(明治27)年。どちらかが古いという決め手にはなりません。
万才町そのものが、明治天皇の長崎行幸地※に由来した地名で、元の島原町(∋六町)からの改名という。
巻末に資料をストックしますけど、どういう仮説も組めません。万才町は前記の通り明治帝行幸のほか、明治初期の官庁街そのもので、その突貫工事の中で結果的に出来てしまった地形──と考えるのが順当ではありますけど……。
フカダの階段下から南南西へ。1016。
近世軍事土木を施さぬ崖
この崖はただの段差で、石垣の残存もない。ただ井戸らしいものが続いて有ります(上記写真:二つ目井戸→GM.)。
二つ目までの井戸は特に、周囲に丸い岩がやたらと多い。掘削した際の石か、祀るために他から持ってきてそのままなのか。
第三の井戸らしき場所に「水神」祠。鬼ころしがストロー付きで供えてある。──ad.は樺島町。
四つ目の先に祠三柱。それぞれに鏡餅が供えてある。記名なし。
この先で県庁前坂の下り道が交わってきてる。対面はad.樺島町8、移住民が多かったとされるエリアです。
樺島町の崖側には石垣が残ってる。1024。
これは切込してある石垣。即ち、明確に軍事目的で詰んだ垣です。
──逆に言えば、樺島町より北東側の崖は、近世軍事土木によっては造られていないことになります。これは単に、中世城塞の土のう堤、つまり築城思想の違いでしょうか?それとも非軍事又は自然地形であることを指すのでしょうか?
11029、「ともづな石」。長崎市の案内板に
昔樺島町が海岸であった頃,唐船や御朱印船などをつないでいたともづな石である。〔案内板〕
とある。記名なし。
出島以前の港湾位置を物語る遺物ですけど、ちょっと分かりやす過ぎます。
全ての方に感謝申し上げる。
樺島町の先辺りからは、崖側がコンクリートに戻ります。その先に残る石垣からすると、ここは切込がない打込接ぎの石垣です。強度の関係、というより「海外への威厳」のために、多分江戸期に補強したのでしょう。
県庁坂通りに出ました。1034。あなたの県の県庁が壊された跡も、「県庁坂」などの地名が残るでしょうか?うちの県なら絶対残らない。
右折。25mだけ東南東行。1038、江戸町交差点で県庁坂通りを南へ渡る。正面が県庁跡地、手前に進捗説明が何枚も出てます。あなたの県の県庁取壊し時に、そこから何が出たか、これほど興味を示されるでしょうか?
百×百五十m程度、サッカーコートほどの面積の土地ながら、発掘作業員の興奮と高揚が描き込まれた展示物です。
訪問時より後に発行された2022報告書〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕は「当初は開発目的の範囲確認調査としてスタートした今回の調査が、遺跡の保存と活用に配慮した活用計画に変更されるに至るまでの間に御協力いただいた全ての方に感謝申し上げる。」と結ばれてます。「開発目的の範囲確認調査」を許さない何らかのパワーが、法制的位置付けに関わらずここを遺跡とラベリングしたことが推定されます。
長崎港 その真ん中に励起せし
発掘された石垣画像からも、時代毎に種類の違いが素人目にもはっきり読めます。
玄人=考古学者には最高難度の時空ハイブリッド構造物でしょう。舌なめずりする音が聞こえそうです。
所で?何と呼ぶべきなんでしょ、ここ?
報告書名を冠する際に同じ悩みを持ったであろう長崎県埋文は「長崎西役所跡」名に結論したわけですけど、こちとら素人なので元々の情熱的象徴「森崎」ワードで呼び進めます。
森崎を時計回りに一周していきましょう。江戸町商店街へ。
この辺りにあったのが上図です。1046、岬の教会 西役所全景図(左手のみ)。
古典的な、まさに「岬の教会」が長崎港の真ん中に励起していた情景です。商店街による観光用でしょう。まさに先の報告書に「遺跡の……活用に配慮」とあった通りです。
アルティスタ こんなトルコは未だ喰わず
此処の、つまり森崎東面石垣は切込。
──アルティスタという雰囲気のいいトルコライス屋。今日もやってるらしいけど……。
右折して駐車場側。ここの石垣は打込です。ただし精確には、上の数段だけが切込になっており、一部に段差がある。
──でもその画像は次頁参照。あかん、味わい過ぎて時間切れです。森崎一周は一時停止、観光通りへ!
不純な観光客に嘆かれてか、正月二日の通り雨、ぱらり。
当町は長い岬,いわゆるナンカミサキの先端である森崎の地を切崩して造成されたもので,町並みは寛永11年の出島造成で一層整備されたものとなり,さらには出島オランダ商館に隣接しているということで,コンプラ仲間やオランダ通詞楢林家の邸宅など,オランダ貿易に関係する施設や家が多かった。
当町の紋章はJとDとMを組み合わせたもので,俗に「たこのまくら」と呼ばれている。これは寛政年間にオランダカピタン某が当町に贈ったと伝えられるもので,J・D・Mは,オランダ人がエドマチをJEDOMATSIと綴ったことに由来する。〔角川日本地名大辞典/江戸町【えどまち】〕 江戸町紋章「タコノマクラ」
なお、江戸町のキャッチは「長崎のはじめの一歩。江戸町」。オランダ人が踏む最初の日本の土が、江戸町だったと言いたいらしい。
No.1004:辛い辛い……ポークカツがメインのトルコライス
1101ニッキーアーフティン万屋町店
No.1004 辛い辛い……ポークカツがメインのトルコライス750
ネット史上、ワシほどこのNo.1004をアップしてるサイトはないでしょうな。ははは。
その勢いに押されてか、なぜか2つお隣の観光客も1004を頼んでしまった。──ごめんね、でも来て食べてから泣いてもワシは無罪だからね。
なおNo.1004正式名称は──
──でした。
個人評としては、「辛い2……」シリーズのドライカレーはそれ自体が香辛料。シリーズ中でも、ポークカツでないとマッチしない。「パートII」は珈琲やらアイスが脇役に付くだけ。──ポークカツとハンバーグ又はコロッケに変更できない?と店員に折衝した事があるけど、それは現在まで断固として拒絶されてます。
さて──本日の本業:森崎に戻りましょう。
■レポ:明かされなかった長崎森崎遺跡
この訪問時点(2022(令和4)年正月)は、森崎(西役所跡)遺跡の総括時点に重なってます。後掲県埋文報告書のあいさつ文の年月日は2022年2月末です。
2022報告は、その大要のみを取れば──中世以前の岬の教会代の痕跡は発見されず、多分近世初めに破壊され尽くしている、という非常にドライなものです。ただし、「岬の教会」神話崩壊を意識してか、報告は次の提言を添えます。
長い岬の先端とその直下に位置する今回の調査地が中世末から現代に至るまで重要な場所として使われ続けたことについて、これを『重層的な歴史』と表現することがあるが、この『重層的な歴史』を顕著に示す遺構として石垣がある。当地の残る石垣は度重なる補修や改修を経ながらも根石付近は築造当時の様相を残している。これによって少なくとも西役所時代からの「土地(敷地)の境界」としての石垣の塁線が現在まで継承されてきたことは、約400年余り石垣がメンテナンスされ続けてきたという結果である。また、調査地南側の中島川を挟んで位置する出島を見た時、石垣下側に残っている江戸町の町屋から舟番長屋を含めた西役所までの面的なつながりという視点からこの遺跡に新たな価値を加えることができるものと思われる。〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕
厳格に知的立場を踏み外さない発言です。東の六町の岬、又は西の出島からの上陸地というステレオタイプ・イメージに拘泥すべきではない。南の町家街との連続性のみならず、そことの境界たる北の石垣を維持し続けた六町関係者の意思──迫害前のキリシタン・パラダイスの象徴としての一種の軛を、現実の発掘で解かれた今こそ、「西役所跡」の発掘成果は、周囲の現実的な史料と接続させたドライな吟味の俎上に載せていくことができるのです。
(国土地理院ウェブサイト内地理院地図「デジタル標高地形図 長崎市中心部2016年1月」データを使用し加工して作成)〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕※引用者が主要地点位置を追記
既知の森崎小史by長崎県埋文
まず、事実と認定されてる森崎の歴史を押さえます。
近世までに正史に記されるのは、建設史のみです。つまり、①サン・パウロ教会の除却(1592(文禄2)年by秀吉、1614(慶長19)年by江戸幕府)、②同(1614)年糸割符宿老会所設置(1673頃から西役所と称される)。
「森崎」夢幻
てすから、まずもって、サン・パウロ教会=「岬の教会」──より前の情景は非常に朧です。
【開港以前】山地に囲まれ平地が少ない長崎の町は溺れ谷を利用して発展してきた港町で、戦国時代末期までは深江浦(瓊浦:たまのうら)と呼ばれる寒村。現在の諏訪神社辺りから海中に向かって長い岬が突き出していていた。その突端が現在の長崎県庁辺り。かつてここは深い森であったため森崎と呼ばれていた。長崎の地名は「長い岬」からという説もあるように、開港時の長崎は、森崎という深い木立に包まれたこの岬を中心に栄えていったのだ。〔後掲ナガジン/市役所通り〕
「森崎」の名は祠名として地誌に記されるもののようです。単に地名としての用例は見つかりませんでした。
長崎、永禄の頃迄は、諏訪明神山より南に続き海中洲崎有り、深樹打続き、今の西屋敷に森崎権現の小社有り〔「長崎根元記」(ながさきこんげんき、元禄年間(1688~1704)に編纂)←後掲鎮西大社諏訪神社〕
現在も諏訪神社で森崎大祭が毎年行われています。この社は、長崎くんちの由緒として登場します。キリスト教の禁止により、その教会領だった長崎にかつて祀られていた諏訪・森崎・住吉の三社を再興し、くんちが始まったとされているのです。御神体としては、現・松ノ森神社に合祀されたと伝えられる(1625(寛永2)年、唐津から来た青木賢清による)。
「元亀2年に創建された『岬の教会』よりも先に森崎神社は創建されていた」と現・諏訪神社HPにはっきり書かれてますけど、要するに岬先端が教会であるより先に日本神道に着色されていた、と言わんがための社に思えます。長崎根元記のこの部分に「永禄」(元亀の前)元号がわざわざ記されるのも、どうも故意に感じられる。
この点に正面から取り組んだらしい論考が長崎県HPソースらしきPDFに存在しました。出典・著者とも不明ながら、論理的にはこの通りと思えるので長文ですけど転記します。
森崎神社に関してはというと、「長崎縁起略」「長崎略記」その他に散見される「杵崎大明神」「蛭子の社」「森崎権現」であるが、その中でも「長崎根元記」に記された「永禄之比迄」という表現は開港時に教会勢力によって破壊されたイメージが付きまとっている。これらにおいては教会廃絶後に森崎神社が現地で再建された様子は窺いしれず、諏訪社再興と同時に円山に勧請されたと解釈されている。しかし、「松ノ下ニ石之廟在 恵美須ヲ石ニ彫付ケ是ニ氏神トシテ」「西屋敷裏門上リ坂之上ニ大キ成ル榎木在 此脇ヨリ参詣ス 後次第繁昌ニ付森ヘ続タルヲ片取森崎権現ト崇ム 其後大権現ト崇メ近年森崎大明神ト相成」と現地での隆盛ぶりの記述も見られることから開港後、町建により人口が増加した状況下で森崎神社は存在した可能性がある。フィゲレイドが教会堂を岬に建てた時点(1571)で森崎社が存在していたとしても天正八年(1580)から十五年(1587)の教会領時代に森崎社が隆盛することはなく、長崎町衆がキリシタンであった慶長十九(1614)年までは同様である。では何時県庁跡地にあったとされる森崎神社が参詣で賑わったというのか。もう一つ、跡地の時系列で漏れているものに糸割符会所がある。長崎会所の前身ともいえる糸割符会所は慶長九年(1604)にこの地のイエズス会カーサ内に置かれた。ここで日本商人とポルトガル商人との間に介在したのがイエズス会のプロクラドールである。両者にとってプロクラドールへの信は絶大であり、にわか信者であったろう会所商人も信仰を抜きに商取引の相手として接し、交誼を深めていたはずだ。〔後掲長崎県HPソース〕
最初に掲げた長崎県埋文の「重層的な歴史」とはよく言ったものです。長崎史は秀吉その他の禁教発令一下で白が黒に変わるではなく、徐々に変化し、かつその表の変化の下から裏の下層が時折覗いて移行していった、というのが実情でしょう。新設・糸割符会所でもイエズス会宣教師が仲介していたし、岬の教会の傍らに森崎社の祠石が転がされていたり、時に起こされ「再興」したりという混濁こそが実相だと思います。
ただその記録者が、永く潜伏したキリシタンだったり、キリシタンに一度は討ち滅ぼされた神道側だったりするから、黒白が明瞭な筆致になって記されてしまってる。
六町の神話を崩す考古学
この点の立証・考証は、まさに考古学によって抜本的に改められつつあります。県庁以外でも、六町の発掘調査は建替等の度に逐次進められているからです。
現段階で考古学は、今もまだよく使われる長崎は「開港以前は寒村」説を否定しつつあります。では何だったのか、という像は結ばれてませんけど、イエズス会の来る前にも「森崎」は何物かであったと考えられてます。
(略)特に磨屋町遺跡では縄文時代晩期土器とドングリ貯蔵穴、万才町遺跡や興善町遺跡では青銅鏡、箱式石棺墓、栄町遺跡では古代の石帯、興善町遺跡では石製五輪塔が出土・確認されており、従来、「開港以前は寒村であった」といわれていた長崎市街地中心部が、6町の町建て前から人々が継続的に生活していたことが近年の発掘調査の成果からわかってきている。
遺跡の所在地には、6町の町建て時にはポルトガルのイエズス会宣教師フィゲイレドによって小さな教会(サン・パウロ教会堂)が建てられたとされ、(続)〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕
ひっそりと建てた教会だったのに
フィゲイレド神父は1528頃ゴア生まれのポルトガル人。1554年にテルナーテ島(モルッカ諸島)でイエズス会入会。宣教活動後、1587年に健康を害しゴアに戻って院長等を務めた後、1597年死去。
1564年に来日。口之津、島原、府内、大村、五島、博多で活躍。1579年に府内のコレジョに移り、その院長を務めた時期が最も著名〔後掲Laudate〕。──この略歴自体、Laudate以外は著述に乏しい。もちろん肖像ほかは望むべくもない。
どの立場からも強調したくないからなのか、あまり指摘されないけれど、当初の「岬の教会」サン・パウロ教会は、必ず「小さな教会」と記されます。
建築時点は1571(元亀2)年とされます。1580(天正8)年の大村領主・大村純忠による6町+茂木のイエズス会寄進の約十年前。つまり、国際問題化する前の時代にひっそりと建った教会だったのでしょう。

(続)豊臣秀吉による禁教政策の影響で断絶があるものの、幾度かの建て直しや増改築工事を経て、1593(文禄2)年の再建の翌年にはイエズス会本部が教会敷地内に置かれた。1601(慶長6)年には「被昇天のサンタ・マリア教会」が落成し、教会は信者の増加ともに順調に発展を遂げるものの、1614(慶長19)年のキリシタン禁制によって教会、鐘楼、時計台が破壊され、その歴史を閉じる。
江戸時代になると、教会跡地には糸割符宿老会所が設けられるが、1633(寛永10)年に発生した火災で本博多町にあった長崎奉行所東西屋敷が消失、糸割符宿老会所も類焼した。〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕
被昇天※のサンタ・マリア教会以後半世紀ほどは、政治史好きな人には好きな時代でしょう。要するに権力と金の暴風下、森崎の岬は暴力的な争奪政争にさらされたわけです。教会が廃され糸割符宿老会所に転じた動きも、お役所発表通り、教科書丸暗記通りの理解より、現実はカオスの相でしょう。受動的に天に昇らされた聖母のように、森崎は政治的暴力の渦中で揉まれました。
だから、この場所に統治機構側の機関を置く(下記「敷地交換」)、というのはエポックメイキングな象徴行為だったはずです。
良く燃える岬の上の西役所
長崎奉行所はとてもよく焼けます。特に江戸初期には燃え過ぎてます。下記の「片方が全焼した場合に備えて東西二棟造った」という理屈は、不満による放火を隠そうとしたものか、二棟造る理由に援用されただけなのか。
バルトの皇居(表徴の帝国)じゃないけれど、因縁と怨念の場所・森崎に建った西役所は、結果的に「予備の」無機能な建物でした。
これ(引用者注:寛永大火)を契機に両者(引用者注:長崎奉行所東西屋敷と糸割符宿老会所)で敷地を交換し、以後当地は東西奉行所屋敷が隣接する長崎奉行所の敷地として利用される。1663(寛文3)年に発生した大火では、またも東西屋敷が焼失する。奉行所は再建されるものの、東西屋敷が同一箇所にあると全滅のおそれがあるため、1673(延宝元)年に立山に東屋敷を移転し(立山役所)、旧奉行所は西役所と称した。
西役所は基本的には立山役所が機能不全に陥った際の予備の政庁としての位置づけで使用されており、長崎奉行の交代時は、新たに着任する奉行は、先に西役所に滞在し、前任奉行が立山役所を離れたのちに立山役所に着任することとなっていた。
西役所は1718(享保3)年に老朽化のため全面改修されたほか、1812 (文化9)年に石火矢台場に改装されるなど小規模な増改築が行われながら幕末を迎える。幕末には1853(嘉永6)年にロシア使節団との会見が西役所で行われ、1855(安政2)年には所内に海軍伝習所と活字判摺立所が設置された。幕末の終末期には長崎奉行が長崎を脱出して支配権を放棄する。以後西役所は長崎会議所と改められ、明治を迎える。明治時代になっても、西役所跡には長崎裁判所(後に長崎府)が置かれ、引き続き長崎の政治的中心地となっている。長崎府庁が立山に移転後、しばらくは広運館と呼ばれる学校になるが、1873(明治6)年には県庁と学校の土地建物の交換が行われ、1874(明治7)年に初代県庁が開庁される。しかしながら新築した庁舎は翌月の暴風雨で倒壊し、1876(明治9)年には2代目県庁が開庁する。(略)〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕

〔画像解説〕「長崎県庁は明治6年、旧長崎奉行所西役所すなわち現在地に新庁舎建設の工を起し、翌7年7月落成した。しかしこの庁舎は翌月の8月21日暴風にあい倒壊した。この庁舎が建っていたのは約1ヵ月であり、その意味で珍しい写真なのである。」〔アルバム長崎百年 ながさき浪漫←後掲みさき道人〕
安野眞幸「岬の教会」原論
長崎史の政治的爆心地たる旧長崎県庁の岬は、中世の森崎、キリシタン時代の「岬の教会」※として知られる。この場所についての、ほとんど古典的な論考が後掲・安野眞幸「中世都市長崎の研究」※※です。
※※『日本歴史』310号,1974
この研究の突出した論は、その土台にしている地理的な舞台分析とその呈示モデルです。
安野・長崎四分イメージ
安野1974が「都市長崎の発展を法・制度的にとらえる為の歴史的な単位として」設けた三区分概念(Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ)です。安野はこの三区分に議論を特化させ、両脇Ⅳを周辺と置いた感じですけど──前掲長崎県埋文が重視する「石垣下側に残っている江戸町の町屋から舟番長屋を含めた西役所までの面的なつながり」を証する地域はⅣなので、本稿では作業的に4区分と捉えて進めます。
以下、略記します。
Ⅱ 旧六町→現・万才町
Ⅲ 旧長崎村→東奉行所→現・市役所
Ⅳ(東)現・築町市場
(西)現・五島町及び樺島町
Ⅰ・Ⅲ・Ⅳエリアは政治的に、遅くとも元亀以前には大村領でした(安野注∶原典 長崎実録大成補遺(内閣文庫))。また軍事的には、イエズス会がⅠを支配したのと平行して、大村氏がⅡ中の大村町に、有馬氏が同島原町に各百人の兵を置きました。地名からも両村は屯田兵村と知れます。
旧六町中の二町がそうだとすると、残りの四町中、やはり他地の名を付した三町(平戸・横瀬浦・外浦)の性格も同様と察せられます。岬の教会の守護を少なくとも名目として各所から移住してきた人々です。
残る一町「文知町」は「文知房」なる中国人屋敷に由来するとされます。
つまり、長崎アジール(Ⅰ)を義勇兵団(Ⅱ)が守護する城郭都市が、都市・長崎「森崎」の始まりの姿です。──義勇と言っても、I「岬の教会」エリアに飛び交う財貨の誘蛾灯に寄り集まった集団が、教会守護の旗印を掲げてただけであったはずです。
段差と堀の配置と改廃
こういう状況で出来た町だから、当然に防御施設が設けられました。それはほとんどが、壁ではなく堀と石垣だったようです。つまり実戦的で安価な中世型海城です。
周囲がほとんど全部海で因まれているほど海に突き出した高い岬があるので,この長崎港はよく保護されている。陸地に続く方面は,石垣と堀(baluartes y cave)によって要塞化しており,この岬の先端に,我等の修院(casa)があり,それは町の他の部分から離れて要塞のような状態になっている。〔安野訳 A.Valignano∶Sumario de Japan∶monumenta Nipponica Monographs No.9 Tokyo 1954←後掲安野〕
具体的なラインについては、前掲長崎実録大成補遺に詳しく──
堀ヲ掘テ要害トス可シトテ六丁町押廻リ,高岸ノ下皆総堀トシ東北地並ノ方モ六丁町眼二堀ヲ掘テ総堀ニ続ケ要害厳重ニ構へタリ。其後本博多町ヲ建テ,其限ニ小堀ヲ掘リ,又此堀ヲ埋テ堀町ヲ建,段々町ヲ建増〆豊後町限ニ堀ヲ掘リ,又町ヲ建増〆桜町限ニ堀ヲ掘リシ故へ,他所ヨリ来り騒ス(事)無ク自然卜静謐ニ成リニケリ。〔長崎実録大成補遺←後掲安野〕
つまり、「高岸」(≒海崖?)と、高岸でない「東北地並ノ方」に新設した堀により「要害厳重ニ構へ」たのが、「森崎砦」であったわけです。
高岸と堀はⅠ・Ⅱ外縁です。Ⅰ-Ⅱ間にはあっても段差のみ。Ⅱ-Ⅲ間の本博多町・豊後町・桜町の場所に堀が構築されたり埋められたり、要するに戦時の防衛機能と平時の居住の便のすり合わせが繰り返されたらしい。
それだけ実際の攻防が激しかったということです。安野はその確かな名残りとして、2つの実例を挙げています。
尚,現在昔の六丁町の跡である方才町と樺島町との境に残る石垣は,天正年間の名残りを留めるものの一つと思われる。又,桜町の所の立体交叉は,三の堀の名残りであろう。[安野1974]
さらに、その注の中で、秀吉時代のこの城郭の状況については──
「長崎拾芥」等の諸記録を比較検討すると,秀吉収権下において,城割政策はこの環濠城塞都市にも適用され,都市周囲にめぐらされていた「総堀」は埋められ,文禄年間にはその跡に五嶋町,樺鳴町,江戸町等が建てられ,一方長崎奉行の政所(後に奉行所屋敷となる)の置かれた本博多町のみが,堀をめぐらしていたことになる。[安野1974]
「総堀」は石垣下にあり,それの埋め跡が五島町や樺島町のスペースになるほどの巨大なものだった。つまり,この日に歩いた西側石垣下は,中世のこの難攻不落の堀の埋め跡であったらしいのです。
本博多町奉行所の明確な位置は分からないけれど──総堀の埋められた後、本博多町のみに残った内堀があったなら、それはつまり森崎の軍事的機能の中心を本博多町が担っていた時代があったことを意味します。即ち本文中のフカダ坂とは、この内堀の残滓であったと思われ、三角窓から見えた暗渠は地中の内堀そのものだったと推測さ考れます。
近い将来、このエリアの地下十mほどボーリングするような工事があったなら、中世に埋めた跡のさらに下から、今度こそとんでもないものが発見される可能性があるわけです。またその地点は、旧県庁:Ⅰ地点ではなく、六町:Ⅱエリアと思われます。
その日を、待ちたいと思います。
■断章:万才町 誰のお家が建ってたか?
後掲「長崎年表」によると、1874年に長崎地裁が建った場所は「高木清右衛門の屋敷跡」だったとされます。今回のフカダ坂付近かどうか判断できないけれど、関係があった可能性はあります。
1874(明治07)【明治】 甲戌(きのえいぬ)(略)
01/08★旧長崎町年寄高木清右衛門の屋敷跡、萬歳町45番地に長崎地方裁判所が開庁【1876(明治09)?】
→1945(昭和20)08/09☆原爆により焼失〔後掲長崎年表〕
初期長崎地裁の住所「萬歳町45番地」は、wikiにも記載有。ここはまず事実です。
1874年(明治7年)
1月8日 – 萬歳町(万才町)45番地に「長崎裁判所」が開庁。
〔wiki/長崎地方裁判所 長崎県長崎市にある地方裁判所〕
次の角川記述とも整合。そもそも万才町(萬歳町)の由来が、明治帝の「高木」宅への宿泊ゆえとされる。明治も初年近くなのでごく素朴な「巡行」だったのではないでしょうか。
明治5年6月明治天皇の長崎行幸の際,島原町の旧町年寄高木邸が行在所とされたことにちなみ,同年9月島原町を万才町と改称して成立した。のち旧町年寄高木邸は長崎地方裁判所に,同後藤邸は長崎控訴院になった。〔角川日本地名大辞典/万才町【まんざいまち】〕
以上から想像して、高木さんは不動産を多量に領し、町年寄の家柄で、新維新政府にも従順な「安全人物」と目される家だったと思われます。
万才町(まんざいまち)
長崎町立て6町の一つで島原町と称される町であったが、明治5年に明治天皇の長崎行幸を記念して萬歳町と改称された。
昭和38年に平戸町、大村町、本博多町の全部と五島町、樺島町、外浦町、本下町の一部を合併して現町域となっている。〔後掲長崎くんち塾〕
どの道も行き止まり 高木清右衛門
ところが。ここまで実在が確からしい高木清右衛門さんなのに、個人や家系の特定がどうしてもできません。
【高木アントニオ】§1588-91年ルイ・ペレス逗留先
ルシオ・デ・ソウザと岡美穂子の名著「大航海時代の日本人奴隷」──をまだ読んだことがないので、他の人の紹介から取ります。見つかった中では、六町顔役としての高木さんを記す最初のものでした。
この書籍では日本人奴隷(ガスパル・フェルナンデス)の主人であるポルトガル商人のルイ・ペレスという人物についても掘り下げた説明がなされており、特にこの部分は食文化の観点から見ても大変に興味深い。このルイ・ペレスはユダヤ系の新キリスト教徒(コンベルソ:マラーノ)であった。ルイ・ペレスがポルトガルを離れて遠くインドやマカオ、さらにが日本まで家族で来たのは異端審問から逃れるためだったのだが、最終的には異端審問にかけられ1597年にアカプルコに到着前の船上で死亡している。
ルイ・ペレスは、ポルトガルを脱してからゴア、マカオを経て、1588年8月16日に日本に到着している。以降、ルイ・ペレスは家族と共に約3年間も長崎に滞在することになる。興味深いことに、この期間中、後藤宗印がルイ・ペレスとも交流があったことが明らかになっている。なぜならルイ・ペレスは長崎の島原町に住んでおり、その家は同じ町年寄だった高木勘右衛門了可の兄弟の高木アントニオが所有する借家(現在の長崎地方裁判所)だったからである。後藤宗印の自宅はその向かい(現在の長崎地方検察庁)に位置していたので、こうした位置関係からも互いに親しい交流があったことは容易に推測できる。実際に当時の町年寄だった後藤宗印(トメ・ソイン)、高木勘右衛門了可(タカキ・ルイス)、町田宗賀(モロ・ジョアン)はルイ・ペレス一家と親しく交流があった。彼らは町の有力者であり、かつキリシタンであった。長崎の中心地である島原に居を構えていたことからペレス一家は裕福であったことは間違いなく、当然、近所に住んでいた町の有力者たちとは飲食を共にする機会があったことだろう。また後藤宗印は、こうした交流からユダヤ系の料理のペスカド・フリートを口にする機会もあったのかもしれない。〔後掲木下〕※原典:後掲ルシオ・岡
上記記述は「鯛百珍料理秘密箱」※にある「長崎てんふら」記述の研究中のものです。
はっきりとキリシタンだった高木勘右衛門了可(タカキ・ルイス)が登場しますけど、この了可さんの屋敷は残念ながら分かりません。ただ、後藤-高木-町田の六町名家が、実は得体の知れない素性のペレスを取り巻いていた情景には、当時の空気を嗅ぐ気がします。
ただし、ペレスが異端のコンペルソと露見するや、家主・高木アントニオは彼らに退去を求め、両者の争いが起こったといいます。ペレス家は、長崎前後のどの時期にも出自「コンペルソ(converso)」、即ちユダヤ教徒から改宗した新キリスト教徒たることを隠していたらしい。
高木アントニオの追い出し騒ぎは、神父の仲裁収拾収するも(ペレスの肉食が健康上の理由で、神父の許可も得ていた旨説明)、ペレスがユダヤ人系との噂は町中に流れたという。長崎の子どもがペレスらを「ユダヤ人」と呼び追いかけ回したとも。「長崎に定住していたポルトガル人商人ジョルジ・ドゥロイスは、長崎ではユダヤ人の血統は、日本人キリシタンからそのように呼ばれ、その差別が日常的なことであったことを認めている」〔後掲黙翁日録〕。
差別の存在を考証に用いるのは倫理的ではないけれど、16C末の長崎のキリスト教的な「開化」の度が垣間見える情景です。
【高木作右衛門】§1629(寛永6)年没
江戸初期の有名人として、1629(寛永6)年没の高木作右衛門さんがまずヒットします〔wiki/高木作右衛門〕。秀吉の朱印船貿易で頭角を現し、1607(慶長12)年に駿府に出頭して当時の長崎奉行・小笠原一庵の不正を訴え罷免に追い込む〔「高木作右衛門」『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館〕など、政治的な人物。1628(寛永5)年5月のメナム河事件でスペイン提督(在マカオ)ドン・ファン・デ・アルカラーソにより襲撃された日本船は、高木船籍とされる※。
ただこの家系には、清右衛門のヒットが無い。
高木作右衛門家は3代宗能からは町年寄に加え御用物役を兼任、8代忠与以降はさらに長崎代官兼御用物役も兼ねさせられたという〔後掲長崎開港記念会〕。能力社会によくある無茶ぶり兼任ですけど、町年寄職を事実上、清右衛門など分家筋(?)に委任していたと仮定する余地はあります。
【高木清右衛門】§1701(元禄14)年町年寄手代
18C初に「為替銀」(銀両替)業務の任を帯び京都に出張(出向?)した年寄家頼(手代)に同名の方がおられました〔諸事書留(長崎県立図書館古賀文庫)所収「古事聞書」←後掲岩崎〕。
一、元禄一四辛巳正月{高木清右衛門/後藤庄右衛門}家頼両人為替銀之儀ニ付京都へ罷越 ({}内は2行書き)
(中略)
一、同正月十九日、高木清右衛門殿於京都為替銀取立、大坂御蔵為納上京ス〔ibid.←後掲岩崎〕
この人が明治帝を迎えたとすれば二百歳位になってしまうので、「高木清右衛門」は当時よくあった襲名制で代々使われたものでしょう。
もうお一方の後藤庄右衛門さんは、有名人でした。長崎港「郷土先賢紀功碑」(→GM.:長崎公園内)に刻まれる110人に含まれます〔後掲長崎開港記念会〕。
後藤宗印(名貞之、通称庄右衛門)は、武雄(佐賀県武雄市)領主後藤氏の一族で、開港前後に長崎に移住、頭人となり、文禄元年(1592)豊臣秀吉から町年寄に任じられた。かたわら朱印船貿易に従事、ボルネオやシャム宛の朱印状を交付されている。キリシタン(洗礼名はトメ)としても活動、島原町(万才町)の自宅に印刷所を設け、イエズス会の委託のもと『おらしょの翻訳』などキリシタン版を印刷した。後藤家は、宗印以降も町年寄を勤め、幕末維新に至った。墓は晧台寺(寺町)の後藤家墓地にある(市指定史跡)。〔後掲長崎開港記念会〕
さて、京都へ同行したと思われる高木さんと後藤さん、この両家名が137年後の事件で再び並んで記録されてます。
【高木清右衛門】§1838年被災
天保9年4月4日(1838年4月27日)の夜、小川町の与蔵宅から、囲炉裏の残り火の不始末により出火した。(略)
被災地
『長崎實録大成続』によれば、各被災状況は以下の通り[注釈 4][2]。
・島原町 – 類焼39軒。土蔵1戸焼失。そのほか、後藤市之丞宅、高木清右衛門宅の2軒と土蔵1戸焼失。(略)
〔wiki/小川町大火災 江戸時代に長崎で発生した火災〕
2^ a b c 本田貞勝『長崎奉行物語』雄山閣、160頁。
「類焼39軒」と多いので、後藤市之丞-高木清右衛門両宅が近隣だったかどうかは判然としません。ただ同じ島原町内に住んでいた、という事実だけしか確認できない。
小川町大火災(wiki項目名)の被害は1393戸消失、けれど死者は6人。死者のうち3人が焼死、
【船津町由太郎】 – 出火の折りに、大黄3斤ほどと、衣類5品盗んだ咎で、入れ墨のうえ敲※※[4]。
【伊勢町茂助】 – 火消人夫として出ていたが、琴1面、葉タバコ2個を盗んで、それを売り払って酒食をした咎で、入れ墨のうえ敲[4]。
【長崎村西山郷久助】 – 出火の際に、平戸町栄三郎宅へ手伝いに行き、そこで紙類18束47枚を盗み、売り払って酒食に使った咎で、敲[注釈 7][4]。
【炉粕町茂助】 – 久助の盗品を買い取り、それを売り払ったことが発覚。売り払った分の金銭を取り上げた上で、敲[4]。
【肥前国布津村の無宿長之助】 – 出火の折り、今下町を往来した時に、米1俵を盗んで売り払い酒食した咎で、敲[注釈 7][4]。
【油屋町与一郎】 – 長之助の米を買い取ったので、その買取の代金を取り上げ[4]。
【氏名不明1】樺島町に手伝いに行った際、避難荷物を船に運び、一部を盗む – 入墨のうえ敲[注釈 7]。
【氏名不明2】火消人足に出た際、西築町の店先のものを盗む – 入墨のうえ敲[注釈 7]。
【氏名不明3】恵美須町に手伝いに行った際、運び出した品物を質に入れる – 居村払[注釈 7]。
【氏名不明4】海岸に流れている酒樽を拾い、道で拾った脇差の柄とともに売る – 居村払[注釈 7]。
【氏名不明4】郷乙名 – 紛失した酒樽の数と届けられた樽の数が違う – 居村払[注釈 7]。
〔[4]簱先好紀『天領長崎秘録』長崎文献社、46頁。[注釈 7]『犯科帳』、天保八年十月 – 九年九月、一一六頁)。←ibid.wiki〕※人名は引用者が【】を付した。 ※※敲:罪民を箒尻(ほうきじり)で「/ /」いて放免する刑
犯科帳は長崎奉行所の公式判決記録です。そこに「氏名不明」のままということは、いわゆる基本四情報の把握前に流れ作業で「判決」し、所払い(追放)ならともかく罪人印のタトゥーを彫って百叩きで威嚇──しなきゃ治安維持がままならないほど、1838年4月末の長崎は無法地帯だったことを意味します。【氏名不明2】さんを初め西山郷久助さんや炉粕町茂助さんと同じく、火消人足の御用中に店先の品を盗んでるわけで、誰が何をするのもアリな倫理崩壊状態。
さて。一緒に被災した後藤市之丞さんの方は、後掲「長崎後藤家当主一覧」(原典後掲旗先)に「1815年 町年寄 – 1853年 隠居」と記録されています。前掲後藤宗印を初代として12代目の町年寄。
島原町の被災状況中、この町年寄・後藤さんと高木清右衛門さんだけが個人名を特記されてる──ということは、高木清右衛門さんは町年寄と確定する材料はなくとも社会的実力として同格相当だったということになります。
【高木仙右衛門】§1824-1899
浦上キリシタンの中心人物。1824年3月12日(文政7年2月12日)生-1899(明治32)年4月13日没。〔wiki/高木仙右衛門〕
「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタ・マリアの御像はどこ?」の台詞が伝わる1865(慶応元)年の大浦信徒発見(byベルナール・プティジャン Bernard-Thadée Petitjean)の後、自分の家を秘密聖堂とし、浦上の伝道士となる[1][2]。浦上四番崩れ(1867(慶応3)年)で捕縛・投獄・拷問・配流[3]。1873(明治6)年禁教令解除で長崎に帰る。
[2]長崎新聞社 1984, p. 506, 「高木仙右衛門」.
[3]当初は68人で、後に自葬者も含め、仙右衛門と他の信徒を合わせて83人となった。
この人は、江戸初期に棄教した高官としては長崎代官・末次平蔵と並び有名な、町年寄・高木作右衛門の子孫とされます。禁教令時に長崎を捨てた高官に町田ジョアン宗賀や後藤トメ宗印がありますけど、高木作右衛門の一族・権左衛門も浦上に逃れて潜伏。高木仙右衛門はこの権左衛門の子孫だと伝わりますけど──どうも都合が良すぎるので、何か伝承過程での操作があった可能性はあります。
ただし、時代が近いはずの仙右衛門の周辺からも、清右衛門の名はない。──これは、もし関係していたとしても、1873(明治6)年禁教令解除まで追放処分されていた仙右衛門との関係を、明治初期に公にする長崎人はいなかったでしょう。
長崎の二つの顔の❝高木❞さん
1874年の長崎地裁設置前、そこに屋敷を有した高木清右衛門さんは、時期的には小川町大火災で被災した同名氏の次代又は御子息でしょう。隠れキリシタンの高木作右衛門さんとの血縁距離は不明ですけど、同作右衛門に末次平蔵代の町年寄・高木作右衛門の子孫説があるのは、完全に遠縁とも断じにくいということです。
生き馬の目を抜く長崎の政争を生き延びなければならなかった表の町年寄・高木家にとって、かつてキリシタンだった時代の半身とその血統は封じつつも重くのしかかる裏の高木家であり続けたのかもしれません。
また、もっと別の可能性も考えられます。江戸初期の禁教令で、高木姓集団は殉教派と棄教派に大分裂した。隠れキリシタンとして宗教的に浮世から消えた一派に対し、踏み絵を踏み越え長崎代官兼御用物役にまで立身した高木作右衛門家一門衆。清右衛門家は後者の傍流だったと思われますけど──禁教の解けた後、両高木姓集団が同じ長崎の町で邂逅したとしたなら、互いを何と認識したのでしょう?対極的な同姓集団の存在を許すことは出来たのでしょうか?
という訳で、明治初期の高木清右衛門を追う目的では大失敗に終わった情報収集過程で、江戸期長崎を生き抜いた二つの高木氏の姿を追い掛けて終わってしまったのですけど──ついでにもう一つ。上記の想像に当たり、幕末長崎では意外に両者──統治側と隠れキリシタンの生活実感としての距離は、近かった可能性もあると思うのです。
仙右衛門の不退転の決意に業を煮やした奉行所では、キリシタン取締まりの最高責任者である長崎奉行・河津伊豆守祐邦(1821-1873)が、1867年(慶応3年)10月21日、奉行所の大広間で仙右衛門とただ二人で対峙するという前代未聞の事態となった。
河津は、1863年(文久3年)にフランス艦船キャンシャン号が長州藩を攻撃した事件とカミュ殺害事件の賠償交渉のために渡仏し、幕臣としては異例の洋行体験を持っていた。
『仙右衛門覚書』によれば、このとき河津の口から驚くべきことが語られた。河津はキリスト教を「良い教え」と述べたのである。これは、仙右衛門を懐柔するための方便ではなかった。「われもフランスに三年居りたるによって知りおれど、ただ今のご時勢にこれを許すことかなわぬにより、今日帰りてよく考えて返事すべし」と説諭する河津は、「その方病気でありながら、ここにまいるのはご苦労であった」として、金三分を紙に包み帰郷させようとしたのである。仙右衛門は、最後の長崎奉行の厚意に謝しつつも、これを拒否。浦上事件が解決を見ぬまま、幕府は朝廷に大政奉還し、河津伊豆守は免職となった。〔後掲Hiroshi Matsuura〕

参考:長崎後藤家当主一覧
※……してみると上記「高木清右衛門」さん探索も、プロから見るとこれで調べると楽勝らしい。1,760円也、次回必須購入。
① 後藤庄左衛門貞之 1592年 町年寄 – 1626年 隠居(宗印)
② 後藤庄左衛門貞朝 1526年 町年寄 – 1658年 没
③ 後藤庄左衛門貞光 1658年 町年寄 – 1672年 隠居
④ 後藤庄左衛門貞次 1672年 町年寄 – 1682年 没
⑤ 後藤庄左衛門茂直 1682年 町年寄 – 1694年 没
⑥ 後藤庄左衛門茂辰 1694年 町年寄 – 1702年 没
⑦ 後藤総左衛門貞雄 1702年 町年寄 – 1726年 没
⑧ 後藤新左衛門貞高 1726年 町年寄 – 1744年 没
⑨ 後藤総左衛門貞栄 1744年 町年寄 – 1780年 没
⑩ 後藤五郎左衛門貞郁 1780年 町年寄 – 1801年 没
⑪ 後藤総左衛門定尭 1801年 町年寄 – 1815年 没
⑫ 後藤市之丞貞成 1815年 町年寄 – 1853年 隠居
⑬ 後藤総左衛門貞治 1847年 町年寄 – 1865年 没
⑭ 後藤五郎左衛門貞紀 1866年 町年寄
■レポ:樺島町と船手-陸手の制
万才町の西崖下に隣接する樺島町を調べてますと、二つの外地との関係性が浮かんできました。
一つは、野母崎・樺島。
織豊期~現在の町名。江戸期は長崎内町の1町。船手に属した。長崎港に注ぐ中島川河口右岸に位置する。享和2年の長崎絵図によれば,「椛島町」と見え,長崎西端に立地し,町並みは東西に延び,東は本五島町に隣接していた。町名の由来については,天正年間に現在の西彼杵郡野母崎町の樺島の人達によって開かれたためと伝えられている。〔角川日本地名大辞典/樺島町【かばしままち】〕
天正は1573〜1592年、豊織統一期です。六町に隣接するこの海沿いが外地民、おそらく海民によって「開かれた」とは──何かのバックアップを得て占拠した、という意味でしょうか?
想像を逞しくするなら──秀吉配下の強引な「領土割譲取消」に六町を従わせるため、直近外部の「蛇」と相喰ませる状況を人工的に醸成した──のかもしれません。
もう一つは、泉州・堺です。
この町の奉納踊コッコデショは寛政11年からはじめられたもので,シーボルトの「日本」にも掲載されていて有名だが,コッコデショの名はかけ声「イヤ,コッコデショートナ」によって俗称されたもので,本来は堺壇尻であった。長崎への海運は主として堺船によって行われていたが,船頭達は当町に宿泊するのを常としていたので,奉納踊にコッコデショが採用されたものである。〔角川日本地名大辞典/樺島町【かばしままち】〕
長崎くんちを実は見学したことがないので、樺島町奉納踊も見たことありません。でも記録を見る限り、「コッコデショ」という掛け声は、海上操船時の水夫の団体行動の演習だとイメージされます。
④飛ばせ&放り上げ
ヤー、トー 、バー、 セー(飛ばせ!でコッコデショを急前進さす)
ヤー、チャーント、 サイタヨナー、ヨヤショ(ちゃんと差し上げた。コッコデショの体勢を整える)
ヤー、コッコデショ、コッコデショ、コッコデショ(三度目の掛声でコツコデショを高々と放り上げ、片手で受け止める)
ヤー、コッコデショ、ドーナー(どうでしょうか、コッコデショの放り上げは)〔後掲太鼓台文化・研究ノート〕

「堺船」堺の糸荷廻船
樺島町が野母・樺島からの外来集団の地だったことと、堺船水夫の宿泊地だったことの関連はよく分からない。外来者専用に充てがわれたエリアを、堺衆が占めてしまったのか、同じ海民としての連携があったものか。いずれにせよ「船頭達は当町に宿泊するのを常としていたので,奉納踊にコッコデショが採用」というよく読めば因果のない記述は、おそらく初期にはたまたまヤンチャな堺衆がいて、おふざけでくんちに道場破り的に出て暴れ回ったのが逆に、新し物好きの長崎人にはウケてしまい、地元に請われて伝授されたか単に真似たのか、とにかく定着してしまった、というところでしょう。
ではなぜ堺だったのでしょう?──「村上水軍の娘」の眞鍋七五三兵衛に象徴して語られた泉州海賊の流れを汲むこの水軍衆は、近世東西交易に特権的な立場に立ちました。
江戸時代、長崎へ輸入された生糸、絹織物、羅紗、薬種などいわゆる唐物を上方へ運送した堺の糸荷廻船の俗称。大坂と堺に公許されていた糸荷廻船は、堺では特に重要な存在だったため、この名がある。船は弁才船形式だが、高価な唐物を積むので、屋倉が長く、開(かい)の口が二か所にあるのが特徴。糸荷廻船。〔和漢船用集(1766)〕
〔精選版 日本国語大辞典 「堺船」←コトバンク/堺船〕
書かれ方からして、純粋に統計的なマターではないかもしれない、とも感じます。新興ながら近世最大の商都・大阪(大坂)には無数の交易ルートの一つだったけれど、中世の旧商都・堺には残された数少ない特権だったから殊更に「我ら堺船なるぞ」と御旗を掲げた。これは対馬・曲、安芸・能地、高知・中村と事例を見た海民の習いです。
〈御用〉の船印、鎗立て、二紺三白の幕張りといった装置はいかにも顕示的です。
近世,大坂または堺の船で,外国から長崎に輸入された糸荷(生糸)などを上方に運ぶことを幕府から許された特権的な船。このうち堺の糸荷廻船には堺船という別称があり,船の所有者は堺商人に限られ,船には〈御用〉の船印か鎗を立て,二紺三白の幕を張って特権船であることを示し,その船頭には帯刀が許された。なお,輸入生糸などの急送を必要とする場合,堺宿老の許可を得て,他船を調達して運送する例外が認められたが,この船を仮船といった。幕府は1604年(慶長9)の初めころは,堺,京都,長崎の3ヵ所の有力商人に,31-33年(寛永8-10)に江戸,大坂の商人を糸割符(いとわつぷ)の仲間に加えて統制を強化した。このため,ポルトガル,中国(清)からの生糸の輸入が減少し,代わって国産の生糸(和糸)が増大してきて,糸荷廻船もしだいに衰退していった。
執筆者:小林 茂〔改訂新版 世界大百科事典 「糸荷廻船」←コトバンク/糸荷廻船〕
もう一点、幕府の公許と言う割に、どうも発令者や御用たる交易の末節(荷の受払手続や販売機関)がはっきり書かれません。
名付けの元となった糸:生糸の交易品目としての遷移(中国産→国内産、生糸→綿)も考慮すると、実際に堺船に乗った羽振り良い堺衆が長崎にたむろしたのは一時期に過ぎないのではないでしょうか?けれどその間に、民俗的なイベントを確立させるほど地元の「ド肝を抜」いてしまったのが、泉州海民だったということになるのです。
船手町:地方自治としての対外交易
さて先の角川に樺島町が「船手」に属した、とありました。これは長崎の町を陸手町-船手町に分けていた制のことで、寡聞にして知らなかったのでここでまとめておきます。
要するに、御用労働力調達に、海の部と陸の部があったらしい。制度創設年が確定できないけれど、かなり明治が近づいた段階のようです。
船手町とは、市中七七町のうち三〇町と出島が割り当てられていたもので、外国船の出入港に関する諸役を負担していた。〔後掲吉岡〕p84
開国の長崎港は大忙し:改定日蘭和親条約
単純には2/5が海上勤務の動員割当てです。「開港」下の海の御用は、極めて多忙だった──というのは次の対オランダ貿易ルールを見ると当たり前でしょう。出来るだけ従来のまま(「是迄の通」)、ツギハギだらけの複雑な形態で、これが新規交易国にも拡大されたというのですから、忙しくない訳がない。
6 和蘭商船が海岸に近付いたなら 「是迄の通」国旗の他に、合符の密旗を揚げる事。但し、軍船は合符の密旗は所持していない。
7 国旗・合符の密旗を伊王島の遠見の者が確認したら、目当として「是迄の通」に旗竿にオランダ国旗 を揚げる事。但し、軍船も同様の事。
8 軍船・商船ともに、「 是迄の通」高鉾烏裏手に碇入する事。
9 長崎毒行が派遣する検使の役人とオランダ商館員がオランダ船に赴き、同国船に間違いないと確認したならば、オランダ船は帆を揚げ、あるいは蒸気、又は日本の挽船を以て入港することは「是迄の通」であり、質人は出さなくて良い。
10 船の乗組員は、端船を用いて他の船や出島へ移動してよい。かつ養生のために港内を乗り廻しても構わない。もっとも、商船の水夫たちは、端船に船頭・按針役が乗り組んでいる時に限ること。但し、出局水門以外には上陸してはならない。かつ日本船の乗組員との接触は禁止する。目印のためにオランダの旗を建てること。
13 出烏滞在のオランダ人は、端船や日本船を利用して港内を乗り廻しても構わない。もっとも上陸はしてはならない。港内で養生のために釣りなどはしても構わない。但し、目印のためにオランダの嵐を建てること。
14 水門の鍵はオランダ商餡高官が管窟し、開朋の際には日本役人に断りを入れること。
16 商船の船員は、「是迄の通」表門の出入り時に身体検査を行うが、水門 • 本船では行わない。
17 出島市中間の荷物の出入りは「是迄の通」改めるが、オランダ船と出島間の移動時の荷物は改めない。但し、密輸は厳重に制止する。
24 人別改は、入港・出港の時にそれぞれ1度行い、出島では行わない。
25 商船の玉薬 ・武器は大確同様本船に差し置くこと。
2 商船は入港後2日以内にトン税(「船税」)を納入すること。軍船は挽船水先等の費用を出しトン税は納入しない。但し、引船・荷物持遅のための船を雇う際は、鑑札を所持している者を雇うこと。
3 難船以外は貿易をせずとも入港後2日を過ぎればトン税を納入すること。
4 入港時に、船号・トン数・船主・荷主を記載した書付、積荷総目録を「和蘭官長」から2日以内に提出すること。但し、積荷目録提出前でも、出島水門へ運送のための荷卸しは昼間に限り認める。
19 商船入港中、船切手は 「阿蘭官長」が保管する。抜荷取締のために昼夜とも警備船を配置する。
20 荷揚げのために日本の小船を相対で雇用する際、紛失等に対して長崎会所は賠償しない。
23 港内で積荷を他の船に移動することは禁止。やむを得ない事情の場合は、「阿蘭官長」か船主が申し立てて日本役人立合のもと許可する。
25 奉行所の許可なく日本人を船中に置くことの禁止。
29 条約締結国の船が来航した際、船中や出島でオランダ人が交流することは認めるが、入港して検使による検査が終わり船籍が確認されるまでは禁止。
出典:表1・2 1855(安政4)年締結日蘭和親条約(及び 赤:1857(安政4)年締結日蘭追加条約)に規定された入港手続き〔後掲吉岡p78・79〕※数字は条項
七十七町は辛いよ菩薩祭:市民の諸役
下記は六町部のみの町割と五町割を記した図です。
船手・陸手の他、長崎の町には五町割や肥前・筑前の宿町、絵踏町と、エラく複雑な諸制度に縛られてます。これを一々研究してる論者もいるみたいですけど、どうもラベルそのものにあまり意味を感じません。代々の短期の長崎統治者が次々と思い付きで採った施策か、制度を複雑にすることで威嚇効果が増すと思ったのか、先の和親条約に似てともかく無闇に小うるさい。
西築町の如きは地理的には材木町や本紺屋町と組み合わされればよいのにこれと結ばず、材木町は中島川を渡って万屋町や榎津町と組んでおるのであって、結局それは地理的事情よりは歴史的関係、即ち既に元禄十二年以来内町外町の別はなくなっているにも拘らず、その内町外町の別に基ずき五町組が編成されたことを語っておる。若し五町組なるものが、長崎市史のいうが如く、「市政上は元より産業上、衛生上、宗教上、或は相互冠婚葬祭の末に至る迄相互に申合せ共同一致の態度を取らし④」むるものであったならば、それは地理的事情をこそ重視して編成さるべきであるのに、編成の基盤に歴史的因縁が横たわったというのは何故であろうか。又、若し五町組なるものが、そのような一種の生活共同体的なものであるならば、長崎における町々の各種の活動はこれを単位として取扱わるるが当然であり、便利かと思わるるのに実情は必ずしも左様でなかった。長崎の町々をもって組織された船手町・陸手町の制、肥前・筑前の宿町、絵踏町の事等は当然五町組の制度に準拠するか又はそれを利用するかと思いの外、五町組はこれらとは全く別系統に属した。例を新町、本興善町、今下町、豊後町、大村町、本博多町の六ヵ町より成る五町組について見るに、長崎の町々を船手と陸手にとに二分した場合、この五町組を一単位としてその何れかに属せしむべきかと思わるるのに⑤、今下町だけは船手町に、他の五町は陸手町に入れており、又、筑前・肥前の宿所の割当も、大村町、今下町を筑前に、本博多町、豊後町、本興善町は肥前とし、新町には全く割り当てていない⑥。〔後掲小島〕
五町組を五人組の発展した統治装置と考えれば、要は相互監視の関係が実効性を持てばいいので、組内の差別や嫉妬が働いた方が効果的なのかもしれません。
でもまあ……地理マニアとしては正直、この区分から色々といわくを読みたくなります。多分一々、色々と事情はあるはずですけど……終わらなくなるので、当面意図的に「無意味に複雑」説のまま放置させて頂きます。
※ 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース/詳細 | Old Japanese Photographs in Bakumatsu-Meiji Period/館内から出島を望む
原タイトル:Nagasaki Harbor
目録番号: 50
撮影者: 日下部 金兵衛
アルバム名: 日下部金兵衛アルバム (2)
落陽の風頭山にハタ昇る
制度の無意味な複雑化は腐敗した組織の特徴、と斬って捨てることもできなくはありません。実際おそらく、そういう一面もあると思う。
誰も重視してないから知りませんでしたけど、長崎貿易最後の改革が、1867(慶応3)年、即ち維新前年に行われてます。
これを船手町側から見ると、長崎会所-波戸場役-番船船頭の命令系統が崩壊したことです。マネーの流れから言うなら、長崎会所から市中に還流・再配分されていた財源を幕府側各機関が奪い合い、いずれにしても番船船頭ら市民に還元されにくくなった。
慶応三年七月、長崎では、長崎会所・地役人制度を廃止する慶応改革が断行された(67)。これにより、波戸場役が廃止され、それまで波戸場役が差配していた番船船頭が船改方へ移管されることになった。
近世長崎の都市運営費の多くは、長崎会所で生み出される貿易利潤のうち毎年金十一万両(出来高の増減含む、最低金七万両)が地下配分金として下付され、その中から拠出されていた(68)。そのため、長崎会所が廃止され財源を失うと、今後の番船船頭の費用負担をどうするかが問題なり、それを契機として通船の管轄権が議論となった(69)。
まず議論の発端である番船の関係経費について確認しておきたい。この経費は、船頭三一人分の給料銀一七貫四三七匁五分/年(船手町負担)、船頭と水夫を合わせた一五五人分の手当銀二〇貫三七八匁九分/年(長崎会所負担)、船の維持管理費定額銀五貫五〇〇匁/年(長崎会所と市中貫銀負担)から成っていた。船手町とは、市中七七町のうち三〇町と出島が割り当てられていたもので、外国船の出入港に関する諸役を負担していた(70)。市中貰銀は、戸別配当銀から長崎会所で天引きされる分の都市運営費のことである(71)。〔後掲吉岡〕
(68)中村質「近世長崎における貿易利銀の戸別配当」(『九州文化史研究所紀要』 一七、1972年)。
(69)以下、この問題の議論については、特に断らない限り「御用留(慶応三年運上所)」(「長幕』五巻、六一〜七二頁)に拠る。
(70)長崎市史編さん委員会編『新長崎市史第二巻近世編』(長崎市、二0―二年)。
(71)前掲中村「近世長崎における貿易利銀の戸別配当」。
ここでの「番船」は通航一覧(1853年)記述のもの。江戸時代、長崎入港のオランダ船の警固にあたった長崎奉行所の船。四挺立の小船に同心下(1687(貞享4)年〜:「下役」)四人の役人が乗り組んだ。「かかりぶね」とも〔精選版 日本国語大辞典 「番船」←②コトバンク/番船〕。
経費部分だけを簡記すれば──
給料銀→船頭31人分
17貫437匁5分/年
(船手町負担)
手当銀→船頭+水夫155人分
20貫378匁9分/年
(長崎会所負担)、
(物件費)
維持管理費(番船)
定額銀5貫500匁/年
(長崎会所+市中貫銀負担)
ハードの維持管理費の八倍もの経費がソフトの人件費、というのは如何に言っても異常です。しかも(給料・手当銀トータルを考慮すると)その半分が、2割ほどの高級船員に支払われてる計算で、この高給部分を船手町が負担している。つまり海上航行に長じた管理者による実力本位の雇用層だったと推測されます。
幕府側の争いは公事方掛(裁判事務)と御船掛(実運用)の担当間で起こりましたけど、御船掛の主張の中に御船水夫は「蒸気或は帆前運用専ら心懸ケ」〔後掲吉岡〕、つまり蒸気機関や帆走運用など「特殊技能」を有するから、単に同人数を回せば済むものではない、という立場が呈せられます。争論の中なのである程度の誇張はあるとしても、この高級水夫層のスキルが長崎の財政と統合を支えていたことは否定しがたい。
幕末の長崎都市運営の再構築は、高級水夫の雇用の自由化という解答しか導かなかったのでしょう。
この一件で注目したいのは、財源の問題を発端として、港内船取締りの管轄権が議論され始めた点である。添田仁氏が明らかにしたように、慶応改革により都市運営費の下付がなくなった結果、新たな財源確保と都市運営を見直す動きが現れた(76)。本章でみてきた問題も、この都市全体が抱えた問題の一旦(ママ)を示している。〔後掲吉岡〕

長崎税関へ更に長い坂道
この辺りの混乱は、未だ多くの専門家が議論している分野です。近代税関組織までの道程は、長崎税関が同HPに記すところでは──
(開港時に幕府が長崎・神奈川・箱館(函館)に設置)
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1863(文久3)年 長崎運上所
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1868(慶応4)年 外国管事役所
(下り松・梅ケ崎・出島の荷改所を「三運上所」と呼称)
1869(明治2)年 波戸場船改番所が同外国管事役所管轄下に
(1872(明治5)年 御国品改所と改称)
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1872(明治5)年「税関」呼称に統一
(現在の税関記念日)
〔後掲長崎税関,但し緑字は後掲吉岡より補記〕
となりますけど、後掲吉岡の財源争いにも和親条約の手続きにもこの「湊会所」というのは登場しません。そのためか、少なくとも初期には長崎会所の一機関に組み込まれたと見なされてるようです〔ibid.,後掲横浜・みなとみらい線沿線街歩き〕。
下記の1871(明治6)年段階の複雑な手続きは、新設・長崎県庁とのかなり根深い管轄争いの結果と見るべきでしょう。
また通船・荷漕船の管轄に関しては、明治六年に長崎税関において「輸出入品運送船及客船取締規則」が制定され、目印の旗は税関から、鑑札は県庁から発行され、渡世人の姓名などの登録は税関・県庁双方で行うという複雑な規定となった。この管轄が一元化されるのは同八年の内務省達丙第三六号である。ここにおいてようやく、従来税関が管理していた港内の艀船や客船の管理•取締りが地方庁へ移管された(81)。
※原注81 長崎税関沿革史
内務省達(現・通達)で所管が整理された、つまり明治8年段階で既に税関所管庁だった大蔵省※が調整に関与していない。これは長崎税関の歴史とプライドから考えて、大蔵省中央は問題の外に置かれ、あくまで地方行政の所管争いとして処理されたと解釈できます。
逆に言えば、「鎖国」と慢性財源不足のもとで営まれた
その遺伝子を継ぐ自覚からなのか、長崎税関は現在もHP資料表題にこう掲げてます。──「九州の西側は私たちが守る」
