0926長崎IKホテルに荷物を預ける。ブレッドアーエスプレッソはHP情報では元旦から3日まで営業してるから明日は頂けます。
まず五島町公園の通りを東行。湾曲する坂を登る。
ad.金屋町1。ここの駐車場下に石垣が残る。
0936登り切った正面がY字分岐する。長崎南年金事務所。これを右側,ほぼ真南に入り,再び降りよう。0941
ここの傾斜はごく緩い。右手に坂本屋。元の想像がつかないエリアです。
消防団脇を失礼して入ってみると,この敷地の奥と隣の間に2mほどの段差がある。隣のアパートの階建てにしてほぼ一階分。
その南のY字路を左に行くと久しく行ってない紅灯記ですけど,右手南西に入る。ここから先は平坦になってます。20mほどの階段へ右折して降りてみる。0953
25段と短い。下はフカダ設計。路面に古さはないけれど左脇には微かに石垣が露出する。
降りた地点から左手が例の大波止に続く段差。つまりこの上が六町です。1000
今のブロックが万才町になる。ゆっくり一周してみる。菜の花ヨガの角を右折。
この下手に側溝。石垣造りだけど,下の面が唐人屋敷内と同じ両側から切込した岩を傾けている形式です。これが暗渠になって万才町の下を抜けてるらしい。
他には何も見つけられず特に坂本屋脇まで戻る。お食事の店 味美隣の灰皿で一服。坂本屋はad.金屋町2になってる。するとこの緩斜道は何だろう。元は段差があったとも考えにくい。でも2m段差をブロックに飲み込んでる理由も分からない。
フカダの階段下から南南西へ。1016
この崖下はただの段差で石垣の残存もない。ただし二つほど井戸らしいものがある。その周囲には丸い岩がやたらと多い。
第三の井戸らしき場所に「水神」祠。鬼ころしがストロー付きで供えてある。──ad.は樺島町
4つ目の先に祠三柱。それぞれに鏡餅が供えてある。記名なし。この先で下り道が交わってきてる。対面はad.樺島町8,移住民エリアです。
1024。樺島町の崖側には石垣が残ってる。これは切込してある石垣。
1029「ともづな石」。長崎市の案内板に
昔樺島町が海岸であった頃,唐船や御朱印船などをつないでいたともづな石である。
とある。記名なし。
この辺りから崖側がコンクリートに戻る。その先に残る石垣からすると,ここは切込がない打込接ぎの石垣です。強度の関係で補強したのでしょう。すると先の万才町側も切込がない脆弱なものだったのかもしれません。
1034車道に出る。右折。東南東行。
1038江戸町交差点で県庁坂通りを南へ渡る。正面が県庁跡地。
発掘された石垣からも時代毎に種類の違いがかなり読めます。
時計回りに一周してみる。
江戸町商店街へ。
1046岬の教会 西役所全景図(左手)
ここの石垣は切込。
──アルティスタという雰囲気のいいトルコライス屋。今日もやってるらしい。
右折して駐車場側。ここの石垣は打込です。ただ上の数段だけが切込になっており,一部に段差がある(画像は次頁参照)。
あかん,一周は断熱,観光通りへ!
▼▲1101ニッキーアーフティン万屋町店
No.1004 辛い辛い……ポークカツがメインのトルコライス750
なぜか2つお隣も1004を頼んでしまった。ごめん,来てから泣かないでね。▼▲
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長崎史の政治的爆心地たる旧長崎県庁の岬は,中世の森崎,キリシタン時代の「岬の教会」*として知られる。この場所についての,ほとんど古典的な論考が安野眞幸「中世都市長崎の研究」**です。
*(安野注)「『岬の教会』の文化的意義について」(『キリシタン文化研究会報』六-三)
**『日本歴史』310号,1974
この研究が土台にしている地理的な舞台規定を,まずここで押さえておきます。
森崎地域の四区分
安野1974が「都市長崎の発展を法・制度的にとらえる為の歴史的な単位として」設けた三区分概念です。簡単に言えば,
Ⅰ「岬の教会」→長崎奉行所西役所→海軍伝習所→長崎県庁
Ⅱ 旧六町→現・万才町
Ⅲ 旧長崎村→東奉行所→現・市役所
Ⅳ(東)現・築町市場
(西)現・五島町及び樺島町
政治的には,元亀以前にはⅠ・Ⅲ・Ⅳエリアは大村領だった(安野注∶原典 長崎実録大成補遺(内閣文庫))。また,軍事的には,イエズス会がⅠを支配したのと平行し,木村氏がⅡ中の大村町に,有馬氏が同島原町に各百人の兵を置きました。
旧六町中の二町がそうだとすると,残りの四町中,やはり他地の名を付した三町(平戸・横瀬浦・外浦)の性格も同様と察せられます。岬の教会の守護を少なくとも名目として各所から移住してきた人々です。
残る一町「文知町」は「文知房」なる中国人屋敷に由来するとされます。
つまり,長崎アジール(Ⅰ)を寄せ集め兵団(Ⅱ)が守護する城郭都市が,長崎の始まりの姿です。
段差と堀の配置と改廃
こういう状況で出来た町だから,当然に防御施設が設けられました。それはほとんどが,壁ではなく堀と石垣だったようです。
周囲がほとんど全部海で因まれているほど海に突き出した高い岬があるので,この長崎港はよく保護されている。陸地に続く方面は,石垣と堀(baluartes y cave)によって要塞化しており,この岬の先端に,我等の修院(casa)があり,それは町の他の部分から離れて要塞のような状態になっている。* 安野訳 A.Valignano∶Sumario de Japan∶monumenta Nipponica Monographs No.9 Tokyo 1954
具体的なラインについては,前掲長崎実録大成補遺に詳しく,
堀ヲ掘テ要害トス可シトテ六丁町押廻リ,高岸ノ下皆総堀トシ東北地並ノ方モ六丁町眼二堀ヲ掘テ総堀ニ続ケ要害厳重ニ構へタリ。其後本博多町ヲ建テ,其限ニ小堀ヲ掘リ,又此堀ヲ埋テ堀町ヲ建,段々町ヲ建増〆豊後町限ニ堀ヲ掘リ,又町ヲ建増〆桜町限ニ堀ヲ掘リシ故へ,他所ヨリ来り騒ス(事)無ク自然卜静謐ニ成リニケリ。
つまり,Ⅰ-Ⅱ間には段差のみがあり,Ⅱ-Ⅲの本博多町・豊後町・桜町の場所に堀が構築されたり埋められたりが試行錯誤されたらしい。
それだけ実際の攻防が激しかったということです。安野はその確かな名残りとして2つのみを挙げています。
尚,現在昔の六丁町の跡である方才町と樺島町との境に残る石垣は,天正年間の名残りを留めるものの一つと思われる。又,桜町の所の立体交叉は,三の堀の名残りであろう。[安野1974]
また,注の中で,秀吉時代のこの城郭の状況については
「長崎拾芥」等の諸記録を比較検討すると,秀吉収権下において,城割政策はこの環濠城塞都市にも適用され,都市周囲にめぐらされていた「総堀」は埋められ,文禄年間にはその跡に五嶋町,樺鳴町,江戸町等が建てられ,一方長崎奉行の政所(後に奉行所屋敷となる)の置かれた本博多町のみが,堀をめぐらしていたことになる。[安野1974]
「総堀」は石垣下にあり,それの埋め跡が五島町や樺島町のスペースになるほどの巨大なものだった。つまり,この日に歩いた西側石垣下は,中世のこの難攻不落の堀の埋め跡であったらしいのです。
おそらく,このエリアの地下深くを掘るような工事があったなら,中世に埋めた跡のさらに下から,とんでもないものが発見される可能性があるのではないでしょうか。
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