m17f0m第十七波濤声m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m熊本唐人通withCOVID/熊本県
012-0唐人通\熊本\熊本県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

船場山には狸がおってさ

河原町電鉄そばの住宅地図に「唐人通り」の文字あり

宿を熊本・河原町のスーパーホテルに取っていたので、その日はもう、帰って床に倒れようとしてる時分でした。
 河原町で電車を降りて宿を目前にして、通りがかりの住宅地図にちらりと目をやる。
「唐人通り」?
 博多を初め、九州各地にこの地名があるのは再々聞いてきたけれど……熊本にあるんだっけ?

内部リンク→m17e@m第十七波余波mm阿多再創造【特論1】/❝Ⅳ❞ 「万之瀬川の交易」を実証するもの/広く分布する地名「トウボウ」
トウボウ地名分布図

[柳原敏昭「中世初期日本国周縁部における交流の諸相」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報第3号2017年3月
※専修大学学術機関リポジトリ:SI-Box URL:https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/records/8268]※原図:柳原「中世日本の周縁と東アジア」(2011)本文註1より

 九州の唐人町は中世後半からの異国人集住地区、それ以前のほぼ異国人だけが住む集住地を「トウボウ」(唐坊)と呼ぶことまでは既に推定しましたけど──熊本に何故?
 宿のブロックを少し遠回りの散歩をする気で、電車通りから北へ右折したんですけど──これが、とんでもない「遠回り」になるのでした。

(手まり唄)「あんたがたどこさ」

場という地名が、この北にあります。
 異字ながら電鉄「洗馬橋」というのも同義らしい。

船場の名は、清正の坪井川の付け替え工事の際に、高橋方面からの舟が上がれるよう、船着き場を川の両岸に設けたことから生まれた。[後掲くまにちすぱいす]

 それ自体は前から聞いてはいましたけど、この辺りは、はっきり言って見た感じは非常に冴えない。普通に寂しい町としか見てなかったのです、不覚ながら。
 熊本で船場と来たら「あんたがたどこさ」だということにも、だから思い至ったことがなかった。狸がおって鉄砲で撃って煮たとも思えないこの地名は、民俗的には大層な謎らしい。
 ここはつまり、そういう不思議の場所であるようなのです。

夕暮れ 川岸 花の唐人町

「中唐人町」住所表示

人通りに出ましたけど……ただの特徴のない通りです。
 本当にここが唐人町?と住所表示を確かめたのが上の写真。
──だったんですけど、この背中方向に坪井川にかかる眼鏡橋がありました。明十橋と銘がある。とすると、上写真の貼り付けてある建物が大正8年竣工の旧第一銀行熊本支店だったみたい。

江戸時代には、新町と古町を結ぶ橋は「新三丁目橋」と「船場橋」しかなく、交通量の増加に伴い、明治10年に明八橋と同じ橋本勘五郎が手掛けました。今も車の往来が多い現役の橋。[後掲くまにちすぱいす]

 一つ読み取れるのは、電停名になってる「新町」は、この川の南の「古町」に対する地名だったこと。というより、新町が出来たから、旧来そこにしかなかった賑わいエリアを「古町」と呼ぶようになったのでしょう。
 熊本市の現・中心街の歴史は、意外に新しい。慶長年間(伝・1588(天正16)年入域)に加藤清正が開いた町です。古町もその頃の創始とされます。

※奈良期に肥後国国府が置かれたのは現・国府電停付近(→GM.)、つまり水前寺電停の南東。

 とすると……全く知らなかったけれど、ここが現・熊本市街の始まりの町だった訳です。
 明十橋の下の川筋の、ゾッとするような眩みと石造りも記憶してますけれど……その時はそのまま唐人通りに戻ってます。

1716案内板地図

唐人町中程南側に3棟町屋が連なる。それぞれフランス料理店、自然食品店、洋服屋になってます。ただし町屋らしきものは、この他にはポツリポツリと残るだけです。
 そこに案内看板が出てました。思わず転記してます。

川船が坪井川を往来し、ここで荷揚げされた。戦前の賑わいは『花の唐人町』といわれた。

 けれど──この古町の区画構成の異様さは……何だ?方形が連なるのは普通だけど、そのそれぞれに寺社がある。まるでそれぞれが広東の圍のようです。

熊本古町に坪井川見ゆ

1719三軒町屋の間に伸びる路地

の後、心光寺の「一町一寺巡り」看板にこの答えが記載してありました。

火事による延焼防止及び有事に備え碁盤目状に配した、一辺約120mの正方形の区画に並べ、一区画ごと寺院を招致し(一町一寺制)、回りを町屋が囲む全国的にも珍しい城下町造りを行いました。

 この都市計画の主宰者は、当時赴任してきた加藤清正らしい。戦国最強の土木築城集団だった秀吉軍の血脈を継ぐこの軍団が、何か軍事的な発想で採用した、少なくとも私見では、世界的にも例のない都市設計です。

唐人町のケーキ屋さんと唐人通り

722、既に夕方です。新呉服橋を北に渡る途中、先の明十橋の方向を撮影したのが下の写真です。
 川岸は古いけれど整然としており、早くとも昭和初期と思われる。江戸期の残像とは思えないけれど、とにかく深く、地名通りの「河原」らしさがない。
 水路然としてる。
 後の調べでは、この川・坪井川はまさに水路として、加藤家が当時としては大工事の末に構築した半人工インフラでした。後掲参照。
新呉服橋から明十橋を見る

呉服橋(→GM.)は昭和58竣工(橋桁記載)。
 北はad新町。ゆめマート前に和田かまぼこ店という老舗らしい店。ああ、もうここは、いきなり団子のくま純辺りになるのか。やっと接続が見えてきました。
──この和田かまぼこと先の「唐人町のケーキ屋さん」マムールには、その後長くハマることになりました。

新三丁目の橋の三角交差点

三丁目歴史図面

西に新三丁目御門(→GM.)。櫓門造りの厳重な砦だったという。
 この門は、明治5年に熊本鎮台司令官・桐野利秋の命で撤去されてます。で、その掛けかえ年から「明八橋」とも言われる。レプリカを撮影。
歴史図面2レプリカ

旧2橋が交わるここは、奇妙な交差点になってました。
 旧橋を撤去すればいいんでしょうけど、地元の反対が強いのか、歩くには便利なのか。博多の春吉西に同じような構造がありましたけれど、後者はつい先ほど工事に入って改修中(2021段階)。
橋の交差点

唐人通りをもう少し歩こうと、坪井川を南に渡り直す。
 この川はやはり異様です。見ようによっては中国の城壕のような剣呑さを感じます。

圍中心に聖観世音菩薩

明八橋より

ロック北に伸びる道を見つけて入ってみる。この特徴的な区画には、現在「一町一寺巡り」の看板が敷設されていってるようです。ここのブロック中心は心光寺(しんこうじ)という寺。
「観音堂に安置される聖観世音菩薩像は子育て観音として親しまれ」ているという。媽祖かと疑ったけれど、中がはっきりと見えません。
区画内の寺を覗く

りがけに案内板を精読すると、この心光寺には「西唐小学校」が置かれた時代があるらしい。五福小学校(巻末参照)の前身になります(西唐小+西阿小※→1875(明治8)年統合:五福小)。〔wiki/熊本市立五福小学校〕

※西阿小学校も、西阿弥陀寺町(→GM.)のブロック内にあった。ちなみに現・五福小学校も別のブロック内です。

 各三年間のみの小学校、というのは、それ以前の江戸期には寺小屋に相当するような機能があったということでしょうか?

案内板の記す「西唐小学校」

{後日回}もう一つの区画内

ころが、この後の熊本訪問時にかなり躍起になって探しましたけど……清正時代には各ブロックの中央にあったはずの公空間には、ほとんどどのブロックでも入れません。
 ようやく見つけたのは、何と出発点、スーパーホテル真裏でした。

「鎮座百年」

座百年」という令和元年十月記銘の碑があります。
 つまり鎮座は1919年──という社が次の八尋神社でした。
八尋神社の鳥居と背後のマンション

尋神社
祭神 倭大三輪 皇祖三輪大神 大物主命
主祭神 八尋熊鰐事代主神

 事代主を「八尋熊鰐」形態で捉えて主神にしてる。紀のストーリー的には整合するけれど……珍しい。

又曰、事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也。〔後掲日本書紀について/日本書紀巻第一 神代上〕

別の説では、事代主神(ことしろぬしのかみ)が、大きな鰐(わに)になって、三島の溝橄姫(みぞくいひめ)、あるいは玉櫛姫(たまぐしひめ)という人の所に通われた。そして、子である姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んだ。これが神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまときわれひこほほでみすめらみこと)(神武天皇)の后(きさき)である。〔後掲古代日本まとめ〕

ホントにスーパーホテル真裏

園は神社のある北側以外は全く出入り口がない。もちろんスーパーホテル側もで、ここには特に金網が張ってある。
 帰りかけて、ふと由緒の最後の文句に気が向く。
……鳥居左側柱外側ヲ下リ一礼
 カタカナ混じり……ということは、現代人が書いた文章ではない。おそらく古い由緒から書き写したのでしょう。
 左側には新しい石段が一つ。いや、その隣にさらに一つ、名のない仏像の祠がありました。
仏様にしては飾りっ気がない。明らかに男像だけれど……?

と、この時、西側ブロックにある正龍寺裏の小さな墓地に、「南無阿弥陀仏」の「無」が「无」──簡体字になっている墓碑を見つけています。
 なぜここに、大陸共産中国成立後の漢字があるのでしょう?
南「无」阿弥陀仏

妄想を掻き立てる夕暮

749、豪勢な造りの建物に気づく。ただし一棟だけ、寂しそうに残ってます。
 ラベルがある。
 熊本市景観重要建造物・文化庁登録有形文化財「西村邸」。
 後に調べると──大正6年竣工。土蔵造二階建、切妻造桟瓦葺平入。正面半間、背面一間半の下屋を付す。外壁を黒漆喰塗とし、東妻面は煉瓦造防火壁と一体化しています。
 往時は油を商いにしており、ために防火の必要から東西の壁を煉瓦造りにしたものといいます〔後掲文化庁、ぶらり歴史旅〕。
「近代熊本の繁華街の様相を伝える。」と後掲文化庁は解説を結んでいます。

一軒だけになった古長屋

れだけの、たった40分ほどの夕方の散歩でした。
 熊本唐人町を何度か歩いてる今、ここを40分も歩いたのは信じ難い。こういう旅行神に誘い込まれたような歩きは、例え10分でも何年も腹わたに突き刺さって抜けない。だから旅行は怖い。
 ここに「唐人通り」と呼ばれる昭和初期まで賑わった町があった、という事実は、様々な妄想を掻き立てるに十分でした。この章以下の四章は、その妄想を綴ったものです。
唐人通り付近の橋を中心にした観光マップ(部分)

[ホールド]熊本県天草市牛深町

本市の唐人通りに何時、なぜ、どんな唐人がいたか、という史料や情報はほぼない。
 それは西日本の他の唐人町呼称の場所にも通じます。福岡の唐人町ですら由来は明確でなく、最近ようやく史料にそれらしい記述を見つけたばかりです。九州のトウボウ、唐人町は分からないのが普通なのです。

内部リンク→m082m第八波mm石坊巷/川内五大院の阿多領/日本風土記 巻二 商船所聚

『日本風土記』巻二、商船所聚には、 「我国海商聚住花旭塔津(博多津)者多。此地有松林、…。有一街、名大唐街。而有唐人、留恋於彼生男育女者、有之。昔雖唐人、今為倭也。」すなわち博多には「大唐街」があり、海商が多く住んでいたが、16世紀終わり頃には倭人と同化していたという。この唐人を、宋代海商とする説(森克己1975、佐伯1988、川添1988、林1998)と、明代海商とみる説(榎本渉2005)の両説がある。

〔桃﨑祐輔「海と山がおりなす歴史 第5回 中世博多のチャイナタウンと航海目標となった山々―油山・首羅山・若杉山」令和4(2022)年度福岡市埋蔵文化財センター考古学講座
※令和4(2022)年度 講座一覧 | 講座案内 | 福岡市埋蔵文化財センター URL:https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/information/detail/272b89a6-660d-4509-bd99-a4b62a973b3a
※日本風土記原文:日本風土記\侯継高「全浙兵制考」(1592年成立)附録 ←中國哲學書電子化計劃
※下線は引用者

 熊本は長崎と薩摩の間です。けれど現・熊本市街は外海からは入り込み過ぎた場所で、薩摩-長崎航路の中継地としては不便です。位置的に大阪圏などの大消費地と直結することも出来ない。船着場らしい地名群からも、ここが海運拠点だったことは確実なのに──だから、当初最も腑に落ちなかったのは、ここがどんなマーケットに連なることができたのか、でした。
 結論を先取りすると、有明海入口に当たる天草両島付近が、遅くとも19Cには、今は考えにくいほどの大きな海運のジャンクションだった、ということです。熊本は、それに面する九州中央陸域の陸揚げ地点でした。言うなら、牛深JCTの九州側出口に当たる場所と考えています。

中山王と商談を交わした石本平兵衛

の海域で活躍した海商としては、天草の石本平兵衛が出ています。

幕末の天草に、三井・住友と肩を並べる豪商がいた。御領の銀主(ぎんし・徳者)・石本平兵衛である。五代目石本平兵衛は、天保四年1833永代帯刀御免、翌五年幕府勘定所御用達を拝命し、遺産は約三百万両(当時の江戸幕府の財政規模に匹敵)に達した。
※後掲 天草学研究会「評伝天草五十人衆」弦書房,2016

石本平兵衛肖像画。垂れ目だったらしい。

草北部の御領(現・天草市五和町)を拠点に手広く活動したらしいこのビジネスマンが、最も大きな利を得たのは琉球との交易らしい。
 琉球と日本内地との交易拠点(の一つ)がこの海域だった、ということになります。

天保元年1830、五代目平兵衛は薩摩藩から藩財政立て直しのため百万両の融資依頼を受けた。この巨額融資の対価として薩摩藩が提案したのは、琉球貿易・琉球黒砂糖の専売権と薩摩藩の年貢米専売権であった。(略)平兵衛は、さっそく船を仕立てて琉球に向かい、首里城で琉球王に謁見した。平兵衛は「農民たちに黒砂糖対価を支払い、併せて琉球王へも利益の五分を上納する」と提案した。(略)琉球王は喜んだが、薩摩藩琉球奉行はこの案に難色を示した。しかし、平兵衛は押し切った。[前掲天草学研究会]

 平兵衛は1842(天保13)年に高島秋帆事件に連座、江戸送りの末、1843(天保14)年獄中で病没死。享年57歳。何らかの政争の結果との見方が強い。
 ともあれ、「天草交易圏」の存在とそこから琉球圏への連結性は疑われます。

長崎の中心で正義を叫んだ三原さん

またま、18C末、長崎地役人が長崎奉行所に提出し幕府中央で吟味された意見書2通に触れることができました。これを整理した論文を見つけて読んでみます。
※ 後掲添田仁「18世紀後期の長崎における抜荷観」海港都市研究,2008
 意見書は、遠見番原才右衛門が1798(寛政10)年1月に、船番筆頭三原十太夫が翌2月に提出したものです。

※ 添田注釈
・遠見番は長崎港口で待機し、異国船に関する注進・抜荷の取締りなどを担当した。原家の由緒については詳細不明。
・船番は、主に長崎港内の筈備を担当した。三原家は、加藤肥後守(清正)に仕えた三原興助を祖とする(「由緒書」、長崎歴史文化博物館所蔵渡辺文庫)。
・原の意見書は「御役方要用記録六」(長崎歴史文化博物館所蔵)、三原の意見書は「松平石見守様依御意差上候存寄書」(長崎大学附属図宙館経済学部分館所蔵)。

 この両者が共に指摘する外国船の「漂着」場所として、天草が挙げられています。

抜荷を行う場所について、オランダ船は性能が良いはずなのに、近年、順風でも3・4日も天草のあたりに漂っている。一方、唐船についても、20年前には五島に「漂着」する場合が多かったが、近年は、薩摩と天草に「漂着」する場合が多く、五島は少ない。[前掲添田、三原訴状要約]

 この天草というのが具体的にどの辺りなのかというと、三原の書くところとして、寡聞にして全く知らなかった地名に初めて辿り着きました。
 牛深です。

牛深については、薩摩長嶋口から[木花]島・松島のあたりに渡海する船の航路に接する「天草郡第一之湊」であると同時に、冬になると長崎に入津する唐船が「漂着」する場所でもある。また、天草郡は島原藩の預所であるため、島原藩の役人が冨岡に3・4人が詰める程度で、「重立候役人」が不在であり、「郡中之人気至而悪敷、俵物抜売位之事は少も不恐様子」となっている。[前掲添田]

 幕府は、これを受けてでしょう、1798(寛政10)年に牛深には湊番所を設置しています。

牛深湊見張番所図(長崎県立図書館蔵,「写真集牛深今昔」 吉川茂文 2001)

深港には海に即した位置関係により、湊見張番所(寛永11年(1799))・遠見番所(享保2年(1717))が設置され、それぞれ役人が配置された。ここには浦見番が常駐し、密貿易の監視・輸出用の煎海鼠(いりなまこ)・干鮑などの出方取締りなどの業務を行い、遠見番所は牛深沖を見渡せる銀杏山の頂上に設置され、異国船を監視した。有事の際は天草西海岸沿いに狼煙地を配置し、長崎代官所に伝達する手法が配備されてあった。※後掲山下義満「牛深港の『みなとの文化』」『港別みなと文化アーカイブス』

 功績の誇示のためか、奇妙なほど番所設置(imput)については書かれたものが多いけれど、ここには密貿易船が摘発されたとか、活躍の実績に関する記述(output)が見つからない。どうやらこの番所の実態は──

密貿易の取り締まりや難破船の救助、旅船及び旅人の監視或いは治安の維持に当るなど広範な任務を帯び、その役人は少禄ながら天下の直参をもって自ら任じ、村方においては遠見御番人と尊称され、天領治下の天草で特殊な地位を占めていたものである。(略)詰役人は定員2名とされ以時に任地の交代もあったが、明治維新による廃役まで続いたのである。
※ 田中昭策書「遠見番所由緒」昭和50年4月5日建立,天草探見/遠見番所

 2名の「灯台守」が常駐した、というのは非常な苦労です。その墓や井戸も残るようですけど──山の上に2人見張りがいて、怪しい船を見たら長崎に狼煙をあげるぞ、どうだ怖いだろう?と言われても……というところです。でも、これが(史料が残るほどの)幕府の改善策だった、という事実からは、逆にそれまでの牛深がどれほど野放しだったかが察せられます。加えて、幕府の密輸摘発の「不真面目度」も……。

天草漂着船記録(1816(文化12)年以降)

[フォロー]見えるぞ!幕府にも「漂着」船が見える!

いうだけだとご苦労された遠見番の方々に申し訳ないので、彼らが働いた成果と思われる漂着船発見記録を上に掲げます(これも行政的な実績誇示の色は拭えませんけど)。
 年代を見ると、まさに開国前、40年間のみですけど、発見した漂着唐船21隻。松浦論文が焦点化してる崎津は、牛深北方10kmの港です。この地方に2年に一度のペースで「漂着」があったことになります。これらが抜荷を企み忍んでいて、運悪く見つかってしまった船と仮定すれば、実態ははるかに多いことになります。
 異様な量以外に分かるのは、例外なく、長崎入港より先に天草に入っていること。天草で制限量以上の部分の荷を先に降ろした、と見るべきなのか、天草だけを目的地にして来航したのが役人によって長崎に回航させられたと見るべきか。意味するところは定かではありません。
※後掲松浦章「江戸時代後期における天草崎津漂着唐船の筆談記録」2011
※※ 原典:上田宜珍編纂「天草郡年表」『天草史料』第一[車口/耳],臨川書店,1913


 上表に挙がっていない時代の記録は、はるかに前、17C末の唐人屋敷稼働前からあるようです。
 下記史料は、出納記録を眼目にしていて漂着場所などの内実が明確でないけれど、最初の1689(享保5)年には長崎へ「警固船」付きで送り届けてます。
 それに先立ち飛脚を昼夜2回、のべ5役で送ってる。送致の前後に長崎奉行所の指示を仰いだのでしょう。この間に長崎からの返答があったとは思えないので、速報と二報を計二度行ったということでしょうか。

貞享五年 唐船漂着注進飛脚[書/一]二人、夜三人賃金は一日登人銀八分宛御定 唐船長崎え挽送警固船并挽船賃金水主飯米代共一日一人登匁八分御定
正徳四年 唐船抜荷方御高札村々え御建板代一枚に付、銀貳匁五分七厘貳毛つヽ。
享保二年 崎津附手深附遠見番人是迄富岡四人、大江崎戴人、魚貰崎貳人之處、右三ヶ所より御繰替候俄、牛深え始而遠見番人貳人被召置候居小屋新規御建、翌年より水夫給銭四百五拾目宛毎年郡中より差出候様相究。[前掲松浦]

 後の二記事も興味深い。1715(正徳4)年に「唐船抜荷方」の高札を村々に建てる経費が一枚当たり銀2.572匁交付された、とエラく細かく記載してる。交付元はやはり長崎奉行でしょうか。この細かさとそもそもそんなメモをしたのは、相当枚数を建てたからでしょう。
 1717(享保2)年の記事は、牛深への遠見番(定員2名)の新設を記す。前掲の山上の湊見張番所に先立って配置された監視施設ですけど「小屋新規御建」だから、町中の駐在所と思われます。
 なのに三原さんの正義の叫びで、1798(寛政10)年に山上に番所が追設された──ということは、町なか、つまり港地点からの視認では機能しなかったことになります。ならば町中番所が廃止され山上に移されたかと言えば、前掲表の江戸末期の漂着記録を山上の番所で録れたはずはないから、町中2名と山上2名が連携して初めて実のある入港管理が可能となった、というのが幕末の状況だったと推定されます。
 そんな来航の状況として想定できるのは、牛深から崎津までの広い範囲に唐船が錨を降ろし、そこから両港へ、あるいは隠密に荷揚げできるその裏道へとテンデに荷揚げしていたような──途方もない非効率なフローになります。

にかくも、掘り出す時空は絞れてきました。熊本から見て天草二島の真裏に当たる牛深、その18Cに、まずはスポットを当ててみます。

昭和20年代の牛深での網干し風景

■論点1:18C東シナ東縁最大の自由交易拠点

深」、この奇異な地名のネーミングは、由来の合理的な説すらない。音の方が先に出来た地名、つまり漢字ではない地名の時代の方が長かったように思えますけど……元の音は何語なのかすら見当がつきません。

「牛深」という地名は諸説あり、現在では郷土史の中でも課題になっている。これまで云われてきた「大之波可」を「うしぶか」と呼ぶことは語学的に困難であるが、海に関与した地名ではあろう。古地図には中世の豪族「久玉氏」の居住地に久玉と記載されているだけで、江戸期の古地図に牛深は「潮深」との記載もある。江戸期大庄屋はこの久玉に置かれ中原家が努めたが、港の中心は牛深の岡郷・船津郷であった。この地には湊見張番所の設置などの素地を持った岡郷は維新後、行政の中心になる。[後掲山下]

 この推移は、逆に湊見張番所が出来る18C後半まで、公的な秩序らしい秩序がなかったことを示しています。
 地名に当てる漢字にさえブレがあるのは、江戸時代になるまで小漁村以上のものではなかったからでしょう。長崎に似るけれど、どうも長崎より町としての歴史は新しい。
 16C初期のこんな記録が、スペイン人によって残されています。これは完璧に入港した船乗りの記述です。この頃が発展の始まりと思われます。──とすると、長崎と同じく外来船によって「発見」された港と言えるかもしれません。

実によく囲まれているので、いったんその中へはいると船をそこなう風もないくらいである。つまり、小さいうえに、入口がひどく狭いのである。〔中略〕〔牛深の港〕はどういう船にも向く良港である。
※ アビラ・ヒロン※※『日本王国記』、佐久間正、会田由、岡田章雄訳(佐久間正、岩生成一、岡田章雄注)『アビラ・ヒロン 日本王国記 ルイス・フロイス 日欧文化比較 大航海叢書ⅩⅠ』(岩波書店)1965年9 月収録、p. 202
※※ イスパニアの貿易商人で生没年不詳。文禄3 年(1594)、慶長12年(1607)に来日し、以後元和5 年(1619)まで滞在したとされている(竹内誠、深井雅海〔編〕『日本近世人名辞典』〔吉川弘文館〕2005年12月、p. 24)

 時代は分かった。牛深は16C以降に港として発見され、18C後半から公の歴史にも登場した、という時空の港です。

牛深観光マップ群
※ 後掲天草宝島観光協会/牛深観光ガイド

鰹節関連産業のメッカ

深の産業の勃興は、歴史に記される限りカツオの一本釣り端初とするらしい。時代は18C前半です。

享保(1716-1736)頃になると緒方惣左衛門がカツオ一本釣漁を創業したのに始まり、その後深川家によって発展し、結果的に牛深は近海・遠海漁業基地として活況を呈していく。そして文政5年(1822)の「諸国鰹節番附 表47)」には「世話方」のひとつとして挙げられるほど繁盛するようになる。
※後掲 亀井拓「牛深と遊廓―歴史、地理、経済を中心に―」関西大学学術レポジトリ『周縁の文化交渉学シリーズ8 天草諸島の歴史と現在』p217-232,2012
※※ 参照:下中邦彦(編)『日本歴史地名大系第四四巻 熊本県の地名』(平凡社)1985年3 月、p. 894-5

 諸国鰹節番附は前章(土佐中村編)で触れたアレです。見直すと……次のとおり「世話方」に名前があります。

文政年間(1884~)諸国鰹節番付表 「世話方」の「天草節」

内部リンク→m17fm第十七波残波mm下田/高知県 014-2下田\中村\高知県/7-3 江戸期土州鰹節の諸風景
文政年間(1884~)諸国鰹節番付表〔後掲高知新聞社〕

 前章の通り、生産地としては土佐・薩摩・紀州などが圧倒的です。これに対し「世話方」とは──他に土佐(窪津・久礼)・伊予(宇和島)・肥州(五島)が並ぶところを見ると、運送拠点ということでしょうか?もしそうなら面白いけれど、決めつける材料を欠くので一旦この五者の話は保留します。

▲明治後期の牛深湾絵図
※後掲 水産研究・教育機構:図書資料デジタルアーカイブ「熊本縣漁業誌」明治23年熊本県農商課編

深の漁業史には、繰り返し同じ一族名が登場します。深川家という一家で、この一統が一次産業としての漁のみならず、造船や二次加工をも牽引したと記録されます。
 一族は造船の名手として、長崎に雇われることもあったといいます。

勝海舟たちが幾度か乗った幕府御用船の建造に、牛深からも一団、造船技術が買われて長崎へ行っており、その労に対する恩賞も受けている。[後掲天草学研究会]

 面白いのは、二次加工にも才を発揮してることです。
 他地から技術が伝えられた形跡も見えない。それにも関わらず、このマルチぶりというのはまさに海民的な「メティスの知」の発揮です。突然変異的に生まれた一族というわけではないでしょう。

 牛深は高い水揚げ量を誇る漁師町であったと同時に、カツオ節やニボシなどを生産する加工の町でもあった。それは住民だけでは魚を消費できず、生魚を運搬するにも船での輸送には時間がかかりすぎてしまい、魚が腐ってしまうからである。[前掲亀井]

上・鰹釣 下・鰹節加工の図[前掲熊本県漁業誌]

7世紀末ごろになると牛深の庄屋は、生産されたカツオ節や干アワビなどを直接長崎奉行所に献上した48)。また商業に関しても、江戸時代末期において「屋号名が天草の旧都富岡・新都町山口の百未満に対して牛深〔は〕〔中略〕百を越える数に登」49)り、天草でも屈指の町であった。そして牛深で生産されたカツオ節などの加工品は弁才船50)によって遠隔地に運ばれた。[前掲亀井]
※ 参照等:48) 浅香幸雄(監修)、岩本政教(著者代表)『熊本県の地理 日本地理集成Ⅲ』(光文館)1963年7 月、p. 300参照
49) 鶴田文史(編著)『天草潮深のふるさと』(牛深歴史文化遺産の会)2007年8 月、p. 77
50) 弁才船とは江戸時代における輸送船であり、より多く、より早く、そしてより少人数で運ぶことに特化した船のことである。この船によって都市では「バラエティーに富む消費生活が可能に」なった(「牛深海彩館」展示より)。

 弁才船の運用まで含めれば、何とそのパイオニアぶりは戦前まで継続しています。完全なる海民の集落です。
 ただ、ならば海賊もいたのでは、というと──後掲宮本によると天草には、大村領(佐世保など)と並び家船生活を続ける者が残っていたという〔後掲宮本2015/二十 捕鯨と漁民 末尾〕。瀬戸内・朝鮮系の、女が船に乗り、即応的に海賊に転ずる家船系の海民が、牛深の興隆以前から天草には住んだと思われます。この点は本五章の最末(→■レポ④:東シナ最東奥に天草海人/4 宮本常一の「天草海人」論描写を辿る)で触れます。

(※深川卯次郎は)カラスミの製法を開発、マンビキ(※シイラ)缶詰まで試作し成功している。(略)(※明治)四十四年には蒸気機関のカツオ漁船(三〇トン二五馬力)二隻を建造し(略)昭和初年になると深川一統は日本の委任統治領だった南洋諸島にカツオブシの製造納屋を進出させ、勇次郎(※卯次郎の兄)の孫・重喜が現地に赴いた。[前掲天草学研究会。※は引用者追記]

 牛深の歴史を語る際「天草随一の漁港だった」という表現がよく使われています。
 人口規模もでしょうか?農業民の集落と考えると、そんな田畑はもちろん牛深にはありません。現在では到底考えられない産業連関が、この地方に存在していたことになります。

十三夜の月明かり:遊郭

深に残された文物は少ない。民俗的痕跡としては、後掲「せどわ」集落と古久玉遊郭があるくらいです。
 前者は次章以降歩いていきますので、先に後者の情報をまとめてみます。現代的な倫理観からはともかく実態として、東シナ海の傾向として港町の多くは遊郭を持ちます。
「天草からの遊女」の記録は明治以降の各地に残る。明治中期段階で、俗に言う「からゆきさん」が五千人ほど東南アジアを中心にいたとされるけれど、この半数以上の出身が天草島原といいます。
※後掲 Ber指のつけね_言葉のセレクション_Site まつを
 宮本常一は、女が船に乗る家船文化では女も稼ぐのが常識化していた。その価値観が、多数の遊女輩出に繋がったのではないかと書いています。[後掲宮本2015]
 是非はともかくそうした現実があったとすれば、彼女らは移動の自由が保証された明治になって出て行ったわけで、江戸時代にはその人口が天草に滞留していたと推定されます。

遊郭・紅裙亭の建物とその界隈

深の遊郭は)古久玉(こくたま)に存在しました。明治7年に牛深に熊本県から遊廓の設置が許可され、それ以後、徐々に遊廓数は増え続けました。
※ 牛深(紅裙亭跡)牛深遊廓跡 – 古今東西舎

 明治7年に許可された、ということはそれまでは闇だったらしい。肥後藩は、一般には風俗業に厳格だったともいう。以下の「料理屋」呼称を掲げたことからも、表看板とは異なる業だったと思われ、公式数字は氷山の一角のようです。

遊郭街に向かう際、小坂がありここで男は迷いが生じるという。この坂は思案坂と名付けられた。特異な地名であったが区画整理で消滅した。遊郭を牛深では「料理屋」と称し、漁民も利用した。漁民の最大の祭事、恵比寿祭をこの「料理屋」で行う際は、船上での最下層役で少年であるカシキが最優先に女性を選択する権利があった。櫓囃子には、「親の意見を俵に詰めて 女郎屋通いの道普請 サー」とあり、遊郭期の残照がある。[前掲山下]

遊郭・三浦屋とその界隈

原十三夜」という歌がある。詞:散人、曲・歌:岡野雄一とデータがある。岡野は1950年生、長崎市出身という人らしい。歌詞からしても昭和の歌ですけど──正直、陳腐なだけに直情的で宜しいかと。

十三夜の月明かり 障子窓越しに 部屋ん中ばユラユラ水底にする
窓ば開ければ有明ん海に 月明かりの一本道キラキラ伸びとって
オイデオイデ、て手招きばしよると
「どこまでも手ばつないでこん道ば逃げて行きたかね、
 今夜、二人でこん町(島原)ば出て行きたかね」
「よかと?よかと? ホントにうちでよかと?」[前掲まつを]

新潟から島原へ米150石を買いに来ました

れにしても……天草近辺での密貿易に関する直栽な史料位はないものなんだろうか。……とあえて探したものの、次のようなものが見つかった程度でした。

越中伏木の廻船長寿丸の天保9年(1838)から翌年の航海と取引の概略が詳細に報告されているが※※、それによるとこの廻船は蝦夷地・大阪間に加えて九州島原へも航海し、同年12月に島原で米150石のみを買い付けて翌年12月には江差に入津していることが紹介されている。薩摩藩領に近い九州の島原へ航行しながら米だけ購入したものか疑問が当然に起こる。(略)抜荷を志向する廻船ならば、島原は薩摩に近いので薩摩へ向かい、あるいは島原近辺で抜荷品を買い付けて、蝦夷地へ向かう前には途中新潟などへ寄ってこれを売却し、さらに蝦夷地へ向かい昆布・俵物を買い付けてまた新潟へ向かうというような活動をすることになる。こうした取引をする船の場合ならば、当然ながらこれをそのまま帳簿に記載して残すことにはならないのである。
※ 深井甚三「銭屋五兵衛と抜荷」人間発達科学部紀要第2巻第2号,2008
※※深井引用元:伏木港史編さん委員会「伏木港史」(伏木港海運振興会・1973年,4章7節)

 いきなり地域が遠く飛びますけど──新潟米は、後掲表(→享保初年の諸国米の大阪流入量等)にもあるように江戸期、大阪の米市場で肥後米とトップシェアを競うライバルでした。メインルートは大坂方面のはずで、巨大産地の商人が島原まで足を伸ばし、かつそこから米だけ積んで帰るのはどう考えても非合理です。
 何か隠れた存在がないとおかしい。牛深史の多くの部分は、そういう形でしか史料には残りません。──これは他のどんな分野より史料に記されにくい、海域史全般の特質ですけど、牛深は特に酷い。ワクワクするほど酷く掠れてます。
とさいった具合に、18C牛深が正史に決して名を残さないけれど、何か江戸期の常態からかけ離れた港だったことは、決め手はないけど状況証拠が点々と揃ってる、という状態です。
 それにしても、中国密航船が天草南西部まで来ていたとして、それは天草二島のほぼ反対側の熊本に関係したのでしょうか?次章以下でどっぷり天草入りする前に、その点を整理しておきます。

白川水系の流域
※後掲 戸塚誠司・小林一郎「熊本・白川における橋梁変遷史」土木史研究第18号,1998 図2:同著者作製

■論点2:牛深から坪井川へ抜荷は運ばれたか?

本市の川と言えば、北東から南西に市内を横切る滔々たる白川です。
 だから、熊本市の水運は当然この川を使っており、そこから清正が切り離した坪井川がなぜ荷揚げに用いられたか、最初は理解できませんでした。
 上図の通り、白川は特異な川です。日本の他の川のイメージから一度切り離して、「阿蘇カルデラの排水路」(前掲戸塚他)と捉え直した方が分かりよい。
 上図のとおり、流域面積の8割は阿蘇カルデラ内にあります。外輪山唯一の切れ目・立野火口瀬で北縁の黒川と南縁の白川が合流し、一気に西の有明海を目指します。洪水時には合流点から熊本までの出水時間が、僅か1時間と言うから凄まじい。
 熊本市内の白川は天井川です。これは黒川が火山灰(ヨナ)を含む黒濁流で、砂の含有率が多く(1953年の出水時の記録では約10%)河床堆積が著しいためです。
 当然洪水を繰り返す。坪井川や緑川はその蛇行の痕跡です。不安定で底の浅い河ですから、結論として、白川は水運にはまず使えない河川なのです。

加藤清正が行った治水事業、白川と坪井川の付け替え工事の概念図
※後掲 【485号】熊本城周辺を流れる 坪井川に架かる橋の名前 知っていますか? | くまにち すぱいす

人通りが北面する坪井川は、江戸初期に、この白川から水系を切り離した人口河川です。
 工事の主宰者は、入封間もない加藤清正。秀吉の小飼時代から朝鮮戦役まで築城経験を蓄積してきたこの軍団が、新統治者たる威信を賭けての難工事として取り組んだのではないでしょうか。

坪井川は、北区改寄(あらき)町辺りを源として、熊本城下を流れ西区小島から有明海へと注ぎますが、元々は厩橋辺りで白川と合流する川でした。(略)戦国時代の白川は、現在の代継橋から長六橋にかけて大きく北側へ蛇行していて、そこへ東から坪井川が合流していたのです。流路が入り乱れていたことで、何度も氾濫を繰り返す暴れ川だったそう。そこで、加藤清正が代継橋から長六橋にかけての蛇行部分を直線化し、洪水被害を減らしました。白川と切り離された坪井川は、お城の内堀として、また城下への舟運の水路として活用されることになったそうです。[前掲くまにちすぱいす]

 国土の改造とも言える、途方もないインフラ整備です。
 この巨大事業の目的は、熊本城の城壕代わりと書かれることが多いけれど、如何に清正とは言え、江戸初期の泰平に向かう世に軍事目的だけだったとは考えられません。
 熊本市域に、初めての水運をもたらすためだった、と考えるのが妥当ではないでしょうか?

c)熊本城下の架橋
 河道を変えられた坪井川には白川からのヨナ※※流入がなくなり、井芹川からの水量も加わり航路が開かれた。内堀である坪井川は城下の重要な舟運機能も持つことになり、川筋に沿って商人、戦人の町が形成され、薮ノ内橋(やぶのうちばし)、厩橋(うまやばし)、下馬橋(げばばし)、船場橋(せんばばし)、新三丁目橋(しんさんちょうめばし:後の明八橋)の木造桁橋が架けられた。
※後掲 戸坂誠司・小林一郎「熊本・白川における橋梁変遷史」土木史研究第18号,1998
※※ ヨナ:熊本県の阿蘇(あそ)山中(なか)岳が噴出する細粒の火山灰の通称

 阿蘇山の火山灰を封じ、有明海に通ずる水路を構築する。
 具体的に換言すれば、坪井川を舟運に使える川にする。それこそが、清正の灌漑の目的だったことになります。さらに細川家入域でも改修したからには、坪井川は水運運用●●●●●●●●されていないとおかしい●●●●●●●●●●●
 現・高橋から坪井川を遡った船が唐人町へ。その船が本当に中国船であったなら、東シナ海を渡った牛深を中継地とするのが自然です。つまり、確認すべきポイントは坪井川をのぼった船の主です。

(参考)熊本唐人町の属性情報

典や文責者名のない事典的情報としては、要点に直すと次の2つがあります。ただ、両者の言は精密には矛盾しています。
①熊本唐人町の居住者は、江戸初期までに帰化した中国人だった。
②熊本唐人町は、それ以前は市内に散住していた中国人を行政が集めたもの。

①戦国時代から江戸初期にかけ来日帰化した中国人の集団居住地区。豊後府内(大分)・都城・熊本・平戸・唐津・博多・小田原などにあった。鎖国後は新来者がなく同化し、自然消滅して、地名のみ残った。
②豊後府内、臼杵、熊本、都城、大隈の高山(こうやま)など、城下町や陣屋町に中国系商人を集めて唐人町を立てた場合もある。
唐人町とは – コトバンク
※※①旺文社日本史事典 三訂版「唐人町」
②日本大百科全書(ニッポニカ)「唐人町」

 いずれも唐人町の性格を考える時に極めて重要な情報だし、事実ならそれぞれ史料があるはずなんだけど……残念ながら、こうした基本的な点すら明確ではあひません。
 ただ、中国人の側からすれば、海禁してる日本との交易には、どうしても半ば日本社会に同化している仲介者が必要だったはずです。帰化した同国人の商人集団が「日本人」として活動したと考えるのは自然です。──これは先の博多唐人町を記したらしき中国史料に記す「我国海商聚住花旭塔津(博多津)者多。(略)昔雖唐人、今為倭也。〔→前掲:日本風土記 巻二 商船所聚〕」(中国海商に博多に住む者多し。昔は中国人といえど、今や日本人になってしまっている)という状況と整合します。誇り高い漢族意識からすれば「商売上日本人に化けている」感覚です。
 統治側がこうしたグレイな商取引を、半ば黙認しつつ管理しようとすれば、一ヶ所に集めておく、という発想もまた自然です。

(参考)熊本唐人町の構成

 後掲五福ポータルという地元サイトによると、本文で触れた「古町」「新町」はエリア名らしい。清正君(行政側)が張り切ってあまりに町を細かく分かち過ぎ、庶民はついて行けずに俗称で呼んでた……ということでしょうか?
「五福」が紹介する概略は次の通りです。
・清正城割当時の86町は「坪井」「京町」「新町」「古町」の四つに大別
・現在「古町」と呼ばれるのは、概ね五福(小学校)校区域
・五福校区の構成町(全16):西唐人町、中唐人町、鍛冶屋町、魚屋町、板屋町、米屋町、呉服町、細工町、万町、古大工町、紺屋阿弥陀寺町、東阿弥陀寺町、西阿弥陀寺町、小沢町、古桶屋町、川端町
 もう一つ、「五福」は重要な情報に触れていました。1772(明和9)年成立とされる「肥後国誌」による「古町」構成町は次の通りでした〔後掲日本歴史地名大系「肥後国誌」←コトバンク/肥後国誌〕。

【細工町の内】細工町1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、石塘町(現在の細工町5丁目)
【西古町の内】呉服町、西阿弥陀寺町、桶屋町(/?◯古桶屋町)川端町、西唐人町、中阿弥陀寺町(/?◯東阿弥陀寺町)中唐人町、鍛冶屋町
【中古町の内】米屋町、萬町(◯万町)、大工町(/◯古大工町)板屋町、魚屋町(2丁目、3丁目)、小澤町(◯小沢町)
【東古町の内】◯(再)魚屋町(1丁目)
【紺屋町の内】紺屋阿弥陀寺町〔後掲五福ポータル〕

 ほとんどの町が遅くとも1772(明和9)年から、つまり二百五十年以上、漢字や冠の違いこそあれ続いている。それがしかも同じまとまりある地域として存続しているのは稀有なことですけど──ここでは、続いてない唯一の町に注目してみます。
 上記消込から、18C後半から現在までの間に消滅しているのは、石塘町(現・細工町五丁目→GM.)だけであることが確認できます(細工町に吸収され)。
「塘」という難漢字は「川や池の岸の土手」〔精選版 日本国語大辞典 「塘」←コトバンク/塘〕を指し、語感自体は現代の「堤」と似ます。過去には一般に用いられていた※ようですけど、音で「トウ」「ドウ」と読んで現在も用いる例は熊本に顕著です〔後掲くまもと自転車紀行〕。

※法隆寺伽藍縁起并流記資財帳‐天平一九年(747)「合池陸塘 大倭国平羣郡寺辺三塘」〔同日本国語大辞典〕

「石塘」地名は石塘堰から来ているのは確実です。慶長年間(1596-1615)に洪水緩和のため白川と坪井川を石塘で分離、下流域の灌漑を期したもの〔後掲熊本市〕。ただし、1633(寛永10)年の細川忠興命による大改修、さらに1925(大正14)年4月竣工の大改良工事が行われますけど、「坪井川の洪水は以前と変わることなく沿岸の住民を冠水に悩ませ、住民からは改良工事ではなく改悪工事だという声も上がり」、ついに新川が掘削されて現在に至っているといいます〔同後掲熊本市〕。
 下流高橋(江戸期の港のあった場所)には昭和元年建立の「久末村漕溝記」というのがあり、

漕ぎ手の労力は重労働であり、しかも久末村(現春日)の石塘堰で一旦荷揚げし上流の舟に積み替えを要した。この中繊ぎの労力と時間を省き舟運利便を企画したのが、嘉永安政(1850年頃)の時代の高橋町奉行上妻元寛であった。石塘堰上に通じる川水路を拡張整備して船路の造成を建議し、関係諸村の許容を得て、安政四年五月(1857)起工、万延二年(1861:引用者注)三月に四年の歳月を要し竣工した。〔久末村漕溝記案内板〕

という。
 断片的な事実を並べてみると、石塘堰というインフラは、確かに画期的な事業ではあったけれども灌漑手法として大成功だったわけではないらしい。──これは大正年間の世評のほか、1632(寛永9)年に移封入域した藩主・細川忠利に、父・忠興が特に命じて翌1633(寛永10)年に多分肥後での初施策として大改修に着手したことからも察せられます。行政経験の乏しい清正の無能ゆえというより、白川を御するのはそれ程に無理な難事業だったのでしょう。
 話を戻して「石塘」町が消えた可能性を推測するなら──高橋・久末村漕溝記に伝える石塘堰上の船路竣工:1861(万延2)年までの間、「一旦荷揚」と「積み替え」を行う作業者のたまり場があり、それが「石塘」集落を構成していた。けれど、堰上の船路竣工(内容は不詳)により同作業が不要となったので集落が解体した……と考えることができます。(→後日実地探訪)
 いずれにせよこれらの記録は、5km下流の高橋からこうした建議が上がるほど、現・唐人町を流れる坪井川は流通路として多用されていたことを物語ります。

熊本側の有明海港 高橋・高瀬・川尻・徳淵

ツゴロウ漁のイメージから容易に想像できますけど、有明海は一般に遠浅です。一般には、大きな船の入港に適す海ではない。
 自然、坪井川を下ってきた船が荷を積み換えて外海に漕ぎ出せる港も、有明海南部、湾口辺りに限定されたようです。

天草郡の船着は十分に深度もあり、台風時にも船懸りが可能であった。
 熊本藩領では、高瀬湊、川尻湊、八代徳淵に藩の蔵が設けられ、大阪蔵屋敷に回漕された。高橋湊は熊本城下町の外港として、物資の陸揚げがなされ、ここから川舟に積み替えられ坪井川をさかのぼって城下町に運ばれた。
※ 松本寿三郎他「熊本県の歴史」1999,山川出版社 6章 産業の発達と生活/街道と舟路

 具体に深度をみてみましょう。

熊本市天草湾側〔後掲みんなの海図〕
天草諸島近隣 左下先端部:牛深〔後掲みんなの海図〕

 上記記述の通り、天草沿岸は深い。天草南西端・牛深からだと、時計回りなら水路を知っていれば航行可能だけれど、半時計回りは宇土半島と天草上島の海峡が辛いし遠回りです。
 これが天草湾となると水深20mラインがほぼ真ん中を南北に通り、熊本側:東半分は20m以下。それでも熊本側河口に入港があったということは、千石船運行にギリギリ必要な12mは水深があったのでしょう。
 さてそんな際どい深度の前記4港は、それぞれ川口の港です。即ち、
 高橋:坪井川 河口
 高瀬:菊池川 河口
 川尻:緑川  河口
 徳淵:球磨川 河口
 高橋港を除き、それぞれ独自にも外海との交易の歴史を持ちます。前期倭寇の疑いのある菊池氏の根拠地説もあるほどです。

高瀬
ad.:玉名市永徳寺→GM.
大坂の米相場の基準とされた「高瀬米」の積出港。取扱量は年間25万俵とされる。
(中世以前)「高瀬津及伊倉丹倍津ニ唐船モ来着ス」(事蹟通考編年考微巻六、1368(正平23)年の「僧絶海」の言として)と記述。明代地理書「図書編」に「其奥爲開懐世利」と記述。後期倭寇の頃、本格的な港に成長したとされる。
後日実地探訪
川尻
ad.:熊本市南区川尻→GM.
薩摩街道の宿場町。細川時代、御船手(海軍)150艘の軍船が停泊。総収容能カ20万、9棟の米蔵が置かれた緑川水系の年貢米集結地。
(中世以前)1227(安貞元)年、曹洞宗開祖道元が宋からの帰途、暴風により漂着した場所。明「図書編」に「開懐世利」と記され、海外貿易の痕跡あり。
後日実地探訪
徳淵
ad.:八代市本町二丁目→GM.
(中世以前)八代太守が李氏朝鮮へ遣使した史料有。相良氏代には流球と砂糖交易。1555(弘治元)年「市木丸」という船が渡唐、徳淵に帰港(八代日記)。同時代、徳淵在住の「かさ屋」「森」が船団18隻で渡唐。
→別章熊本県012-5唐人通→徳淵参照
※後掲 高瀬船着場跡|玉名市
※後掲 水と伝統の町 かわじり/川尻の歴史
※後掲 中世の八代 | 【公式】熊本県観光サイト もっと、もーっと!くまもっと。
※※高瀬と徳淵について引用されている章演「図書編」は、存在は確認できるけれど、中国の電子化計画等で原典に当たれない書物でした(2024.3段階)。

 4港のうちどれが核だったのかというと、どうも絶対王者はいなかったようです。各流域の河口の集積力は、いずれも他者では代わりが効かなかった、つまり内水路は併用されていた、ということらしい。
 全体として、上記でも登場した高瀬米に代表される米に焦点化すると、それは膨大な物流となって大阪に流れ込んでいました。単純な量でも下表に見るとおり一級の産地ですけれど、距離×量で考えるなら加賀米と肥後米が亀甲してる格好です。

▲右:享保初年の諸国米の大阪流入量
 左:薩摩米-肥後米-中国米の価格比較(一石当たり匁)
※ 高向嘉昭「薩藩商業略説(4)─領国外通商・研究ノート:その2─」
※※原典 左:大石慎三郎「日本近世社会の市場構造」
 右:薩摩米は「鹿児島県史(第二巻)」
   肥後・中国米は「大阪市史」

 総じて言えるのは、近世の熊本-天草海域というのは、新幹線網の南西端という現代人の捉えよりはるかに「賑やか」だったという点です。上記は国内航路の賑やかさですけど、その中に国外航路の異物を紛れこませても全く怪しまれないほどの太い流通が、近世には存在していました。

環・天草海域の物流発信力

大正12年頃の航路(島原三角天草地区 出典:『長﨑のりもの史』永田信孝)

は、熊本の河口から先の海域世界はどんなものだったのでしょう?
 これもまた、どうにもはっきりしません。
 上記の大正年代の航路図を見ると、天草両島周辺が船のコースで覆われているのが分かります。鉄道のなかった江戸時代の民間船舶網は、さらに網の目の相を呈したでしょう。

肥後国内の舟路として慶安四年の「江戸江差し上げ候御帳の控」には、
玉名郡のうち 大島浦、荒尾浦、長洲浦、清源寺浦、沖洲浦、晒浦、高瀬船着川湊、横島浦、小天浦、
飽田郡のうち 高橋川湊、川尻川口、川尻船着、
宇土郡のうち 三角浦、
益城郡のうち 久具浦、
八代郡のうち 鏡入江、徳淵、
葦北郡のうち 日奈久浦、田浦、海浦、佐敷浦、津奈木浦、水俣浦、袋浦、
天草郡のうち 富岡船浦、さしの津船浦、魚貫崎船着、牛深船着、山野浦船着、浅海浦船着、深海浦、松崎浦船着、中田浦船着、雨告船着、棚底浦船着、姫浦船着、岩屋泊、なれう津船着
三七の浦があげられている。[前掲熊本県の歴史]

 各港の明確な情報は多くはないので総論的に見ると──「禁制品」がこの海域を通ったと仮定した時に想像できるのは、①一度持ち込まれてしまえばこの複雑な航路網に紛れ、出元が分からなくなってしまうであろうこと、さらに②この網目の中にある熊本河口4港からの持ち出しは、大阪方面への物流量に隠れて極めて容易だったろう、ということです。
 物流には、単なる運送主体とは別に、運送を引き継ぐ接点、さらに商人の交渉の場が不可欠です。後の時代には後者が石本平兵衛屋敷のあった御領だったのでしょうけれど、それ以前には天草にはなかったとすれば、商取引の場は同海域で最も商業資本が蓄積された熊本坪井河畔を常としていたのではないでしょうか。
 坪井川建設目的に話を戻すなら──天草海域の物流発信力を支配するマーケットとして新都・熊本をデビューさせるためには、加藤や細川は、どんなに難工事でも坪井川でこの海域と城下を連結させる必要があった。それが、江戸期における九州最大の都市・熊本が成立する最大にして絶対の要件だったわけです。
 見方を変えます。熊本と長崎は、天草海域の西と北に一番最後に出来た交易拠点として、近世に急発展したと言えます。最後、というのは最も過去の、統治側から見た「汚い」「小狡い」商慣行に汚れていない、という意味です。ただし、天草側即ち(統治側から見た)裏経済側から見れば、両都市が表経済レベルで発する膨大な物流は絶好の「ロンダリング」装置だったでしょう。

(イメージ)環・天草海域と近世主要交易地の構造系

 統治側の経済圏外の自由経済ネットは、統治側が経済圏を築いた後はその寄生者として、むしろ活性化し、根底のところで表経済に影響を及ぼす。──なんだか、上記天草航路網が以前見た原始惑星系円盤に見えてきますけど……
 では、表経済史で語られないこの空白地帯──東洋の古い身体論で言う「丹田」のような場所──には、具体には何があったのでしょう?……というのが以下で迫りたい「牛深」なのです。

内部リンク→
【19Cm唐の船御嶽】(沖縄,①ジャイアントインパクト(大衝突)+②暴走(的)成長+③寡占成長,(③の反作用)微惑星の惑星形成阻害,NICE MODEL,トロヤ群)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル
(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上、木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群、後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

 熊本と牛深が朧気に……ホントに朧に繋がったところで、焦点を再び牛深に戻します。
 まず、この港から伸びる航路は、一体どのくらい広範な広がりを持ったと想定できるのでしょう?

大正期のハイヤ節踊り(「写真集牛深今昔」 吉川茂文 2001,後掲山下より)

■論点3:ハイヤ節はなぜ、どこから来たか?

時期ハマった大阪うどんというジャンルの特色の一つは、牛深煮干の出汁である、というのもこの時初めて知りました。

時代は下るが、昭和初期の牛深産ニボシは大阪のうどんの出汁に使用されており51)、関西大学がある大阪と牛深はとても深い関係にあったともいえる。このように牛深は漁業、加工業、問屋の3つが一体となった天草諸島で一番繁盛した町であった。[前掲亀井]
※ 参照:
51)(後掲山下)山下義満「牛深港の『みなとの文化』」、(みなと文化研究事業)2010年5 月

 こうした文化面の拡大の例として最も著名かつ視覚的で分かりやすいのが、「ハイヤ節」の拡大です。
 実は全く知らなかったんだけども──陽気な踊りです。歌詞もややトンでるけど、概ね船乗りの生活に関係するものが多い。「ハイヤ」という名称そのものが、琉球歌謡で明るく唄われるハエ(南風)を指すという説もあります。
 ただ所々にビジネスの匂いの句も出る。
♪ 売れても売れない日でもエー 同じ調子の サーマ 風車エー
♪ そろばん枕で考えた 一桁違えば大きな損だよ

 やや目立つ外来地名を含む「どっちから来たかい薩摩かい」という部分も。さらに、取り方によっては不穏なこんな歌詞もあります。
♪ とっちゃ投げとっちゃ投げ 三十四五投げたがエー 投げた枕にゃサーマ 罪(とが)はないエー
牛深ハイヤ節歌詞

ところで誰なんだお前は??
(答:牛窓マスコット「あかねちゃん」)

の踊りは、全国に大流行した形跡があります。
 遠いところでは北海道や津軽、有名どころでは佐渡おけさや阿波踊りとして今に残る。個人的に身近なとこでは、広島県三原市のヤッサ踊りがこの伝播の一枝という。
 長くみても2百年ほどの牛深の栄えです。テレビがない時代です。メディアを介さない純民間で、その期間にそれほど拡大する文化事象なんて、聞いたことがない。
 ないけど、これは明らかな事実です。

江戸時代の弁才船は日本各地を行き来していたため、牛深には遠くの地から多くの船乗りたちがやってきた。この遠隔地との交流を通して、牛深発祥のハイヤ節が日本全国に広がっていった。このハイヤ節は牛深に遊廓が許可される明治以降、遊廓内でも行われたようである。地元牛深の船乗りの心を癒していたハイヤ節は江戸時代に牛深を訪れた人々、特に同じシンパシーを持っていたであろう他地域からきた船乗りたちに大うけし、彼らを通して徳島の阿波踊りや津軽のアイヤ節など、各地へハイヤ節系民謡が広がっていった。[前掲亀井,参照前掲山下]

「牛深ハイヤ節」をルーツとする「ハイヤ系民謡」の伝播先
牛深ハイヤ祭りの歴史

じシンパシーを持っていた」からと言って、それほど多くの旅の船乗りが他地に持ち帰るものでしょうか?
 ハイヤ節そのものがそれほどショッキングなんだろうか?ともう一度、素のセンスで聴いてみました。
 すると?先入観なしに聞けばこれは、はっきりと──エイサーじゃないか!!
 なぜか、そのことが牛窓関係のサイトや記事にはまるで触れられません。唯一見つけたのは、何と東京の小4女子の作文でした。

 牛深ハイヤ節のもつ、熱狂的な南国特有のリズムは、沖縄のカチャーシーや奄美大島の六調に似ています。六調とは、奄美地方で結婚式などのお祝い事があるときに、三味線や太鼓(チヂン)で奏でる激しいリズムのことだそうです。
 奈良・平安の頃から風と汐に乗り南に行けることを知っていた牛深地方の人々は、貝殻、サンゴ、干鮑等を求めて荒波を乗り切っていました。それらの産物といっしょに持ち帰った南国のリズムに当時熊本を中心に歌われていた二上り甚句で、味つけをして独特の節回しを持つ牛深ハイヤ節が生まれました。二上り甚句とは、本調子よりもさらに軽快な二上りの調弦で、歌われる曲で、かつての花町で盛んに歌い踊られた音楽です。
※後掲 内藤和香「南の風にのって」(東京都)板橋区立三園小学校4年

 なるほど、ありそうなことです。
 頑ななメインカルチャーではなく、自由で何でもアリな風俗界のサブカルチャーが、敏感にニューミュージックとしての沖縄音楽を取り入れた。そうして日本風に「編曲」された沖縄歌謡が、日本沿海各地に拡大していったわけです。「牛窓ハイヤ節が全国拡大」と言えば不思議だけど、

①音楽の聖地・琉球で最もアガる音楽・エイサーが
②琉球交易の最も活性化した時代に
③最も自由な気風を持つ遊郭界と最も移動性ある海民によって全国拡大した

──と捉えるなら、不思議な感じが全くしません。江戸期に日本津々浦々に広まったのは、琉球エイサーなのです。
 一言添えれば、これは牛深を疎んじてるわけではありません。牛深は琉球と同質な海の文化圏に属していた、ということを意味するわけですから。

なり古い記述ですけど、宮本常一も地元新聞社の書籍にこう書いています。

もともとは沖縄の六調子が鹿児島を経て牛深に至り、ここで見事に花開いてハイヤ節の一大拠点となります。(略)ハイヤに共通しているのは一つは六調子であること、二つは節に共通点があり、三つは、踊るときの手がいずれも肩よりも上にあがっていることです。盆踊りの手は肩より下で動きますが、沖縄のエイサーは肩よりも上になります。
※後掲 熊本日日新聞社「新・熊本の歴史5近世(下)」昭55 宮本常一「山の民、海の民の文化」漁民の世界・天草/ハイヤ節の伝播にみる文化の接点

本さんの言う3点のうち、古典音楽に通じてないワシにでも視覚的に分かるのは、手の上がり方です。確かに日本伝統舞踊は、手を腰より上げる様を思いつけない。
 だから、この文化事象の拡大からは、琉球文物がまず単線的に牛窓に入り、牛深からは一気に複線化して拡大していく、というパターンを見ることができます。
「阿波踊りはエイサーがルーツ」と徳島県人の誰も言わないように、踊りの多少の異端ならば御禁制はない(※ただし下記補論参照)。これが京劇なら、五月蝿い役人がどこかで弾圧するでしょう。
 だから、この事象をもって牛深が沖縄とだけ繋がっていたとか、中国人やオランダ人は来てなかったとか断じることは出来ないけれど、あの一朝一夕には真似できない沖縄舞踊※の片鱗が根付くほどには、牛深に沖縄人が来ていた、と考えるのは無理がないと思われます。

※島生まれのうちなんちゅか日本内地からの移住者かは、エイサーの手の動きですぐ判別できる、と現地でよく聞く。

 牛深には、そうした来迎者の居住を物語る風景も、僅かに残されています。

ハイヤ大橋下でのハイヤ踊り

{補論:日本舞踏論}優位霊が肩より上に憑依する

 宮本以降の日本舞踏研究も進展しています。直近のところの議論では、前掲の手の動きは概ね「かざし」として定義されることが多いようです。

 片手ずつが異なった動きをする手の所作は、両手が同時に同じ動きをするものに比べてより複雑であると思われるが、盆踊りの手の所作の中で、「手拍子」の次に多くの盆踊りに見られるのが、c-18:「かざす」で62種類の盆踊りで用いられている。これは、解説書の中で、「片手立てかざし、片手前(横、下)に伸ばす」、「さしかざす」、「眺めかざす」、「片手挙げた手の下(袖)に添える」等と表記されているものをまとめて「かざす」として分類したものである。目的の項で述べたように、歌舞伎舞踊のなかで「盆踊り」を示す所作は、標準日本舞踊譜で分類されている「本来意味ヲ持タナイ姿勢ト動作」のなかの、「本来リズムヲ主トスルモノ」である「鬢浮カレ」、「鍵(横・前)浮カレ」、「額浮カレ」、「サシ浮カレ」等を象徴したものだと思われる。(図③)47)〔後掲山田/(2)かざす〕

※原注47)前掲書6
6)花柳千代 『実技 日本舞踊の基礎』東京書籍 1981 p.58

図3 前・横かぎ浮かれ〔後掲山田〕

 上記でもハイヤ節の転移とされる徳島「阿波踊り」は、この「かざし」(鬢浮カレ)のみの繰り返し、と構造化して解釈するのが通常らしい。ここで、阿波踊りにおける手の高さについては、次のように、①性別で分け、②浄不浄の概念からの説明が解説書では語られるようです。

男は手を下げようとどうしようと、全く制約がないが、女は手を肩の高さに上げて腕と手首と指先で踊らなければならんという制約がある。これは女踊りの美もさることながら、おそらく女を不浄と見て神や優位霊魂の憑依する肩より上で招き手を主とする動作を強いた遺習であろう。この点から見ても、阿波踊りは唄や曲こそ変化したが、踊りはかなり古代のままを伝承しているといえる。〔後掲山田/引用※〕

※原注48)前掲書10)Ⅳ p.252
10)社団法人 日本フォークダンス連盟編 『ふる里の民踊 Ⅰ~Ⅵ』2000

 つまり、女性の不浄が手を肩より上に「かざす」ことで浄められる、と観念されている。この浄不浄観は次のように、三原やっさでも共通する、とされます。

「踊るとき手が目の高さより上にあることを特色としている。沖縄のカチャーシーと共通するものであろう。」49)といわれる「三原やっさ(広島県)」や「盆踊りも夜明かしで先祖などの霊魂と踊っている間は、両肘を肩より下におろしてはいけないが、夜明けの太鼓が鳴り響くと霊魂がその音にのって別れを告げ、開放されたこの世の人間だけになり、手を下におろして軽々と踊る。肩より上は神や優位霊魂の憑依する所、肩より下は人間の不浄体と考えられていた。」50)と記述されている「夜明け音頭 (大阪府)」もある。
 盆踊りの象徴として用いられている「鬢浮カレ」の所作のなかに宗教的含意を伺うことができる。〔後掲山田〕

※原注49)前掲書10)Ⅵ p.187
50)前掲書10)Ⅲ p.276
(再掲)
10)社団法人 日本フォークダンス連盟編 『ふる里の民踊 Ⅰ~Ⅵ』2000

 だから、昭和段階での宮本説:カチャーシー→ハイヤ節系∵手が肩より上 というのは、現段階での舞踏論では通説ではないようです。解釈によっては、例えばカチャーシーがハイヤ節を介し徳島に伝わり踊り出された後で、「手を肩より上にかざす」特異な所作に上記のような理屈を後付けした、とも考えられると思うのですけど──少なくとも通説は上のようなものらしい。

■論点4:せどわには誰が居たか?

どわ」という場所を、熊本市内で以上の情報を集めてる中で知りました。既にその熊本滞在中に、牛深へ向かうプランをシュミレーションしています。

 熊本
 ↓ (新幹線)
 八代
 ↓ (バス)※県境越え
 蔵之元港
 ↓ (フェリー)
 牛深
0735熊本→0808出水
08:45発  09:50着 (65分)
始発 南国交通 出水駅→蔵之元
蔵之元(鹿児島県)行
1000蔵之元→1030牛深

 片道3時間か……。熊本市内からの日帰りはややキツい。「せどわ」をまったり歩く時間は確保できそうにないので、その回の熊本滞在中の現地入りはとりあえず断念してます。
「せどわ」は牛深町のうち真浦から加世浦にかけてのエリア、特異な中二階建築が密集した漁村集落です。

(上)GM.:牛深中心部
(下)国土地理院地図・写真:「せどわ」エリア

[書面調査]集落構成

土地理院地図の衛星写真を、かなり自信が持てるようになってきた沖縄X手法で見てみます。
 これは──確かに凄い。
 ドットが異様に細かい。筆の並びは海から山への基本ラインを採りながらも、高地の縁をなぞるラインも入り乱れてる。機械力で押しきった土地利用は見られず、平地をくまなく利用し尽くそうとする意思で形成されてる。複雑だけど、無駄なラインのない美しさです。
 その古いパターンが、海岸部や山裾、大きな道沿線を除き、基本的に受け継がれてるように見える。しかもそれが文化財や観光地をほぼ含まず、生活者の居住場所のままに残されてるようです。
 後者の保存性は、元の集落形態が似ていたと思われる三原市の能地と並べると歴然とします。(家船論で何度か触れてきた瀬戸内海一円に移住した海民の町→実地紀行)

(比較対象)広島県三原市幸崎能地

して漁村は住居としての土地面積が狭小で、漁民地区の家々は軒先が接する程の町並みで巨大迷路化を形成している(ママ)。この家々の小道を「セドワ」(瀬戸輪)と称し、漁民はその日の現物支給である「シャー(采)分け」の魚を下げてセドワを通り、各家々に帰宅する。[前掲山下]

※※ 山下には「せどわ」を「瀬戸輪」とする表記があるけれど、後掲張は「背戸輪」表記を示しており、古い、又は行政に規定されない、音が先にあって漢字は後付けで統一されないパターン。よって天草他地にある「せどや」「とうや」(次々章→せどわ・せどや・とうやの再発見参照)も同質のもの、地域毎に訛ったものと推測されます。

 地図で見る限り、「迷路」は言い過ぎに思えます。でも前記の通り複数の発想での道が交差しているならば、意外に現地では方向を見失い易いのかもしれません。

[比較対象]厦門市江夏堂(赤星地点)西ブロックの航空写真と街路地図(百度地図)→m082m第八波mm石坊巷

南中国の巷・弄との比較

記地図は厦門のものです。
 画像のみで見る限り、「せどわ」は上海老城から香港路地裏まで大陸に広く存在する「巷」「弄」を想起するのは、下の記述を見てもごく自然だと思われます。

※ただし、
【巷】広東語 イェール式: hong6
閩南語 POJ: hāng
客家語 白話字: hong
呉語 ピンイン: ghaon3
中古音: *hàng
【弄】広東語 イェール式: lung6
閩南語 POJ: lāng, lōng, chiān, thāng
呉語 ピンイン: lon3
なので発音からは「せどわ」との関係は見出しにくい。
 ただし下記張の例により「小弄」の音を考えると
【小】広東語 ピンイン : siu2 イェール式 : siu2
閩南語 POJ : siáu, sió, chió
客家語 白話字 : séu
閩東語 平話字 : siēu
上海語 ピンイン : siau2 (xiɔ2)
中古音 : sjewX
上古音 : *sewʔ {*[s]ewʔ}
なので類似音:閩南語「siēu thāng」(シエウタン)が想定できなくもない。

 次の張の記述は、学術的というより漢族の感性的描写の色彩が強いけれど──実際、ワシの個人的な印象にも似てます。

 実は、せどわのような路地が、少なくともむかしの中国の江南地方でよく見られた。狭い土地で沢山の住民が住めば、道を狭くして密集的家屋を建てるのは当たり前のことだ。ただし、中国の場合はその路地が青い煉瓦で敷かれ、「小巷」や「里弄」などと呼ばれる。したがって、牛深のせどわを歩くとき、思わず中国のことを思い出した。
※後掲 張麗山「漁村における民家調査─牛深加世浦・真浦地区を事例として─」『周縁の文化交渉学シリーズ8 天草諸島の歴史と現在』2012

 この点がなぜ重要かというと、「せどわ」に誰が住んでいたか、という点の状況証拠になりうるからです。

「せどわ」光景(前掲張)

内部リンク→m082m第八波mm石坊巷/何語なんだ?銭炉灰埕横巷
(再掲)2019.9.20厦門・酒巷~銭炉灰埕横巷(2)

論文によると、けれど、単純に中国人居住区と断ずることの出来ない痕跡もある。最初に触れた道の複合性は、風水的に見ると明らかに美しくない。風通しで考えると、機能重視で風水は二の次という発想で構成されているようです。

せどわは、幅はせまいが、風通しがいい※。中国の場合は風通しがよくなければ風水がよくないと考えられるので、風通しがいいように工夫する。ところが、牛深の地元の人によれば、当地では事前に風通しがよいように設計されなかった。つまり、自然に風通しがよくなるのだ。実は加世浦や真浦の地図を見れば、まったくそうであるともいえない。(略)風がいくつかの角度でせどわに吹き込み、風を流通させるのであろう。[前掲張]
※ 黒田優侑香・野口裕子「『せどわ』をもつ漁村集落の空間形態と暮らしに関する研究─牛深市真浦・加世浦地区の変容過程に着目して─」(平成17年(2006)度有明高等工業専門学校卒業研究) 24p:「風通しが良いと思う」人が約74%を占めた。

 なお、地図と書面からは、寺社の存在は確認できません。本当に皆無だとすれば、それはそれで明瞭な特色になりますけど、はっきりしないのでこの点はひとまず置き現地確認します。
 事前に調べる限りにおいて、ここは能地のような日本人がその都度増築を重ねた、日本の漁村に他ならなくなってきます。ただ日本の漁村と単に想定するには、以下に見るように家屋の造りが他に例を見ないものなのです。

牛深独自の家屋形態「中二階」(左:画像 右:図面)

何故にわざわざ中二階?

どわ」の家屋は「中二階」を基本とする。建築家以外の人は聞き慣れない語ですけど──一階構造の上に、天井の低い二階構造を造るものです。「OldBoy」風に言えば「1.5階」という感じです。
 また、地下にも50cm程の隙間を造る場合があるという。いわば「△0.5階」です。
 なぜこんな住みにくい構造が必要で、しかも量産されたのか、様々な説があって決着がつく見通しがありません。台風を避けるため屋根高を下げたとする環境説、節税上あるいは建築記述上の工夫とする対規制説、建築経費の節減のためとするコスト説などが並立してます。
 前掲張は、この内部構造を数棟に渡り調査した記録です。ただこれを読んでも、なかなか得られる知見は少ない。
 狭い二階を利用する際は、一階内部から梯子をかけるほか、外から梯子で登り降りしていたという。他者の訪問時には、梯子が二階に引き上げられておれば、住人が疲れて寝ていると察し黙って帰っていた、とする記述※があります。
※後掲天草NOW 牛深「せどわ」(漁師村)
 この使い方だけから想像を膨らませば、非常に逃げ隠れしやすい家屋に見えます。現代家屋でも普通隠し部屋は平面、本棚の向こうの空間とかで、垂直には推測しにくい。二階に入るのは、一階は住人に覚られずには難しい。まして地下は、通常は人がいるとは想像しにくい。それが何軒もあれば、本当に隠れたら発見するのは至極難儀でしょう。
 けれど、どう考えても二階の居住性は悪い。地下ならばなおさらで身動きも取れず、懲罰以外では人間が日常生活をする場には思えません。
 また、居住者が漢族とか琉球人とか、専ら特定の外来集団であったなら、もう少し何か文化または祭祀的な痕跡が残りそうな気もする。
 もう一つ、この集落には番所の専用井戸もあるという。ということは番所の役人も日常的に出入りしたわけで、単に暗黒街化していたとも考えにくいのです。

中二階家屋各階推定平面図及び二階座敷[前掲張]

現代建築スキップフロアから考える

上は現代建築に置きかえれば、当たり前の発想です。現代建築での中二階はスキップフロアと言いますけど、通常は一階または二階と壁で仕切らずに設計されます。
 では現代建築で、スキップフロアのメリットは何でしょう?通常次の点が言われます。

①空間が広く使える
②家族の気配を感じられる
③秘密基地のような雰囲気
④おしゃれな空間
⑤風通しが良く日当りがよい
⑥緩やかに空間をわけられ、収納スペースも増やせる
⑦狭い家と相性がいい

※後掲 ポウハウス/スキップフロアって?そのメリットを詳しく紹介! | ポラスの注文住宅ブランド「ポウハウス」で自由に家を建てる
 それが、「せどわ」では狭い二階を一階と壁で仕切っている。さらに二階は「窓がないため、真っ暗で蒸し暑い」[前掲張]というんだから、①~⑤のメリットを求めた可能性は一気に消えます。
 だから、理屈上、設計者が求めたメリットは⑥⑦辺り、つまり収納性又は意図的な空間の切り分けしか考えられません。

確保している土地面積が狭い場合、横向きに間取りを考える通常の設計だとどうしても家が狭くなりがちです。しかし、縦に空間を使うスキップフロアなら土地面積が狭くても開放的な家を設計することができます。[前掲ポウハウス]

 要するに、空間の高さを犠牲にして縦に仕切ることで収納面積を増やす。それしかメリットがない。それなのに中二階を建てて維持し続けたということは、そのメリットを生かす利用が常態的になされていたことになります。
 ここは、住居の体を取りつつ、一時荷物預り所を兼ねることができる構造だったのではないでしょうか。あってはいけないモノも含め、1年とか5年とか二階の奥に収納しておき再出荷する。番所役人は「漂着船」さえ処理できれば、わざわざ二階まで上がりこんで「あるはずのないモノ」を見つける気力はなかったでしょう。

フナダマ様がいさむ

俗としても他の漁村にも増して、深刻な形態で残るようです。まず、日本の海民に普遍的なフナダマ信仰ですけど、天草では「フナダンサン」と呼ばれるらしい。

 風習は海上とオカ(陸上)との大別になる、海上では船舶に船霊様(ふなだまさま)を安置する。御神体は幼児の髪の毛・サイコロ・金銭などである。船霊様は船大工が製作し、帆船時代は船舶に直接、埋め込まれていたが、動力化が進み操舵室が船舶に設置されると祠形態に変化した。この船霊様は予知能力があり、嵐の前兆など「チッチッチッ」と聞こえる。これを「船霊様がイサマス(勇む)」と云う。船霊様に対しては信仰は厚いが、不漁や海難事故に遭遇した場合は、船霊様を取り替えることがある。[前掲山下,3(2)労働風習]

 この「勇む」現象、いわば船玉エクソシスト現象は、広島県因島の箱崎にも似た形で伝承されます。この点と先の宮本記述(天草は家船系→前掲)を合わせると、天草の海民はやはり朝鮮由来の家船系のものと疑わせます。

1.舟玉様が勇む 箱崎丈造談
(略)舟玉様が漁師が漁に出て不漁の際に、微妙な音をだすことがある。この現象を「舟玉様が勇む」という。
 その音はキリコ(こおろぎ)の鳴くような「チリンチリン」という音か、小鳥のさえずりのように「チャッチャッ」という音か、かねの触れ合うような「チンチン」という音などを出すことがある。(略)一度これが聞こえると、漁をやめて帰路につくということである。[前掲広島県教委 昭45,口頭伝承,次項も同じ]
→m19Qm第三十五波mm幸崎能地(下)&尾道吉和

 ただ、天草の信仰には瀬戸内よりもっと徹底的な色彩があり、その基調は「漁運」を損なわない発想があるらしい。この発想は、どうも漢族のカミとの付き合い方の利益中心の感覚に近い。
※ 徳丸亜木「豊漁を呼ぶフナダマ─〈漁運〉の獲得と御神体─」

家単位では大漁を祈願して、家屋の水瓶は満杯にしておくことや、漁獲量を測る枡は、作業が終了した場合でも洗浄せず、鱗がついたままにしておく。次の豊漁に連鎖させるためである。[前掲山下,3(2)労働風習]

 また、明らかに中国あるいは琉球の影響を受けている龍神信仰も濃い。これが金属を嫌がる、という思想は、どこから来たものか分からないけれど、悪霊に対し金属を隠す神道的発想にも思えます。

 また、海上からオカに信仰が転嫁する事例として、海中に錨・包丁などの金物を落としてしまうと海の神様「竜神様」の機嫌を損ねるため、休漁時、オカの神社に出向きお詫びを申し上げる。これを「カナアゲ」という。[前掲山下,3(2)労働風習]

 だから安易に、瀬戸内・朝鮮系海民の最西端居住地、とも整理しきれません。とすれば、彼らこそまさに日本・朝鮮・中国・琉球のいずれでもないマージナル・マン、後期倭寇の陸上がりグループだったのでは──という可能性も思い付けてくるのです。
「抜け荷」というほど大規模なものではなく、今日ひと塊、明日もうひと塊と中二階に貯め、例えば北前船が寄った際に交渉に応じ吐き出す。小貿易商として魔術的に利益を生み出す。
 そういう人々がここにいたのなら、それは何国人でもなく、ただひたすらに海民だったのではないかと夢想するのです。

天草御所浦(出水北25km,牛深東北東25km)の名称不明の女神像[張論文]。新しく,文化財ではないが信仰としては不明部分の多いもの。

■総論:18C前半鎖国のハリボテ化と海外貿易の再起動

章までで見たように、本稿は「鎖国はなかった」論を採りません。江戸幕府は対清の外交メッセージとして、「日本は海禁中」という看板を外すわけにはいかなかった。唐人屋敷設置の1690年から1856年の安政の開国まで、167年間は「江戸幕府は鎖国していた」と考えます。
 ただ、それは外交パフォーマンスが目的だったから、内実を伴う必然性はなかった。少なくとも江戸幕府は、全くそれに執着してなかった。
 日本人はそうした「施策」を好むのでしょうか。それは現代の「非核三原則」とか「自衛力を持つ非武装」に共通します。欺瞞か嘘かが問題ではなく、外交的ポーズとして有効ならそれでいい。
 だから18C前半から、鎖国の実効性は早くも空洞化し、18C半ばにはハリボテになっていたと考えられます。──ハリボテの内実が露呈していった、と言うべきかもしれません。当然ながら、徳川幕府は三百年も続く制度として鎖国を設計したわけではない。結果的に続いてしまっただけです。
 砂糖も漢方薬もジャンジャン入ってくる。それにも関わらず、「日本は鎖国しています」と為政者が言い続けてる状況で、誰もそれで特に問題も感じなかった。──三原さんのような、マジメな中間管理職たる長崎奉行関係者以外は。
 その大いなる欺瞞構造に乗って動いたのが、政治勢力としては薩摩藩、人間集団としては牛深人。そしてその交易の渦と陸域側の接点にあったのが、熊本唐人町だったのではないかと思うわけです。
 前置きを急ぎ過ぎました。現地入りしていきましょう。

昭和20年代の牛深での網干し風景