終点編
(観音堂)
目録
土井さんの生き抜きにくいみさき道
回送バスの表示に,こんなのが流れてました。
0916,やっとバスの調べがつきました。新地BT前のバス停から30樺島行で南西へ。
樺島は脇町南向かいの島。長崎市内から直線25kmです。
ここに興味を持ったのは野母≒野間≒姥媽として三国名勝図会に記載されること,加えて「御崎道」という密貿易ルートの終点と伝わる場所だからでした。
長崎の津外七里南に野母といえる浦里あり,
高山の麓に寺あり ,本尊一体・御長七尺計,行基菩薩の作にて,元享釈書にいへる,日御崎観世音これなり,此の高山の下を日の御崎という。唐船も亦これを遙拝す,野間と野母の通韻にて 殊にいずれも観世音の 霊地なればなり ,みな姥媽の転韻なり,故に野間・野母の両山ともに唐土の人は,天堂山と号し奉りぬ,
右は崎陽西川先生の文にして,すなわち是を長崎夜話草と題し,五巻の草紙にしてありし(以下略)〔再掲 三国名勝図会 野間山大権現縁起〕※傍点は引用者
野母崎には、鎖国時代、異国船の出入りを監視するために遠見番所が設けられました。また、重要な港湾である樺島、脇岬、高浜は天領(江戸幕府の直轄領)とされました。
和胴2年(709年)に行基が開山したとされる観音寺から長崎へいたる観音寺道路は、長崎商人の密貿易に利用され、観音寺には、彼らが寄進したとされる遺品が多く残されています。〔後掲長崎市〕
樺島行バス車内は,意外にもかなり満席でした。
0922,小菅前過ぎトンネルへ。ここから先は未踏の場所です。
0923。朝飯はまだです。車内アナウンスが「次はきんつばです」──旨そう!と思ったら「金鍔」という地名でした。──角川日本地名大辞典にヒットがないけど,GM.には確かに有ります→GM.。
0924,女神。地名だけだった。ただ海側へ勇壮な橋(女神大橋)。
0929,小ケ倉(おがくら)。どうも地名の語感が北九州と違う。ヤマトとも異なるのに九州でもない。町も長く続く。全然過疎地感がないのです。
0933,土井の首。全国の土井さんが嫌がる地名ですね。
地形が,長崎の元の光景を想像させる起伏を打つ。
丸亀製麺。郊外型店舗多し。
土井首中学校前?その学校,「土井さん」は暮らしにくいだろうな……
谷処(やと)において沃交(いか)ってる
元宮公園(→GM.)?何の元?周囲に大きな宮もないけど──0944。次のバス停は三和中央病院前。
0945,蚊焼?国道は499。
0950,折山。とうとう海から離れ山手に入った。と思ったら岳路海水浴場入口?なるほど,岬を越えただけか。
でも高度は上がり絶景になってきた。北西に岩影のような島2。──今確認すると,これが軍艦島だったらしい。
北にやや平たい小島。北東の山がちの島は架橋されてる。
0954,黒浜。
バスの電光表示にエヌタスカードの案内。3番料金は5百円を越えました。
以下宿?0955。アナウンスの読みは「いかやど」(→GM.)※に聴こえます。
凄い強引な切通。
ようやく,集落が尽きてきた。
山肌の植生は雑木。大木なし。
0958,後馬。この読みは普通で「うしろうま」。
1001,T字路。野母崎とある右へバスも曲がる。バス停・高浜。かなりの客が降りる。
1003,古里。海岸沿いを行く。北に島影なし。──そうか。まさに鹿児島の野間崎北岸に似てるんだ。とすると茂木が枕崎,今回の目的地脇岬町が坊津に当たる……のか?
1007,出口「いでぐち」。
1009,野母。
1011,野母新港。
1012,ええっ?また野母?どう動いてるの?GM.の位置情報をオンにする。
1016,脇岬海水浴場前で下車する。所要ほぼ60分。曇天。
▲1027「大清光緒二十……」の文字のある石碑
GM.(経路)
宝なる筏の渡り迷う海
長崎行のバス時刻を確認しておく。──日曜日の今日は1059,1210,1309,1339,1409。ほぼ一時間に一本。
1020,まず海岸沿いに東へ。さつまラーメン野母崎店。
北に尖りの印象的な山。観音寺は……この山麓か?
1025,バス停観音寺前に祠。やや中国風。手前の石碑に「大清光緒二十……」の文字。長崎だから中国元号は珍しくはないけど……ここにもあるの?
──迷ったけどその細道に左折。方向はこっちだし,この道が旧道っぽい。
観音寺の秋彼岸会法要の貼り紙。
▲1034──道に僅かな食い違い。わざわざ赤い境界柱があるから撮ったけど──意味不明のまま。
丸い門をくぐる。1035。肥之御崎観音寺です。
左手石碑には「享保十……」の文字。「三界萬……」とあるから寄進だろう。
右手は「不○軍○入山門」──不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)でしょう。禅語です。
それにしても──徹底的に日本らしくないお寺です。だからと言ってどこの寺かと言えば──例えようがない。
▲1036肥之御崎観音寺の山門
丸門の低い位置に対聯。左右はにあります。
右聯「金縄開覚路」。
左聯「寳筏渡迷津」。
どちらも禅語っぽい感触だけどよく分からない。
上にも文字。これは「観自在」とある。
▲1043丸門を抜けて仁王像
仁王像二体の間を通る。狛犬のような位置です。
参道は,荒いけれど清掃が行き届いてる。
一輪,彼岸花。
青い松 緑の竹も皆悲し
本堂の前に出ました。
本堂に向かって右手,五輪搭。海難漁業青年の碑が並んでる。
塔は,案内板によると「観音寺の宝箧印搭」。豪潮※という熊本の名僧が全国に建てた二千基余の一つという。※wiki/豪潮,Web書画ミュージアム/豪潮寛海 参照
▲1049宝箧印搭
その左に子安観音のお堂。
そのさらに山手にも門。これは丸くなくて,ただ上の渡しが八の字に歪んでる。文字は「絶○是」だろうか?左右対聯は右「青松緑竹皆顕慈悲妙相」左「沙鹰流○○○○○○○主」
左右に四角い窓のような構造,文字は読めない。
▲1100本堂
彼岸花 立江之地蔵菩薩群
1101。第二の門から入ると右手に石仏数十の山。
千手が正面だけどよくみるとかなり多彩。配置も最初から設計されたものではない。
▲1103立江之地蔵菩薩
立江之地蔵菩薩と碑があります。
何かの事情で集められた……はずです。でも全く分からない。──他のプログでも不思議がる記述ばかり〔おてきち見聞録/謎の地蔵菩薩たち〕。
▲千手観音らしき仏像──確かに手の数は多いけど,独特の様式です。
唐からの流木を割り海に流す
本堂に戻る。右手に堂。「経蔵」とある石碑に「唐船」の文字あるも全く読めない。
左手にも堂。これは本堂と廊下が繋がってる。
▲「唐船……」表記
1115,十一面観音。案内板に行基が中国から流れ着いた霊木を7つに切って海に再び流し漂着したところに観音を祀ることとしたところ脇岬に流れ着いたという。「九州行基七観音」として伝わる伝説。
左手に赤ら顔の像。名前記載なし。びんずる,とも決め付けにくい。
右手はほていさん。
▲本堂のほていさん
1126。堂の左奥に橋のついた祠。供え物あり。
記名はないけれど,方向が山頂方向で本堂と異なり,山を祀る祠に見えます。
▲橋のある祠
案内板。
「観音寺の縁起書によると,室町時代後期に高さ3mもある大鐘が海賊に持ち去られ」た後に購入した鐘が現存のものだとある。
海賊の痕跡を見たのは,この表記だけでした。
さっき一緒に降りましたよね?
1141。集落の谷川沿いを通って降りる。
が……結局寺前に戻りました。これしか道はないらしい。
1146,東の脇道へ。唐突に,山に鉄砲の音が響く。
集落はなぜか見るものなし。地形的には絶妙の谷川沿いなのに……むしろ不思議なほどです。
観音寺バス停。おばあちゃんが「さっき一緒に降りましたよね」──ええ~?
1209。帰路バス車内にはなぜかタイ人?
▲1826崇福寺の目潰し仏様
長崎にしては歩いてないからでしょうか,夕方に崇福寺を詣でております。
ここの山門の「赤」は残照に映えると,より一層不気味な赤みを帯びております。
▲1832崇福寺山門
■レポ:みさき道の地図をください
後掲「ゆうこうのホームページ」に,みさき道の地図が載っていたので転載しておきます。原典は三和町郷土誌(三和町(長崎県)編・昭和61年初版)の382ページ。
計七里,ここに50本の道標が存在していたといいます〔後掲ゆうこう……〕。
以下,南北に分けて再掲します。起点は①館内,つまり唐人屋敷の西側になります。ここから土井首の付近までは海岸線を離れて山道を行く。
南部は,蚊焼と以下宿で海路と山路に分岐しています。
野母にもあったという遠見番所は,おそらく観音寺北の遠見山でしょう。ここの位置は,御崎道の最終交流点を東西に見下ろす立地です。岬からの眺望よりは,御崎道の監視又は威圧を優先させたように見えますけど──この点も含め,御崎道の史料はあまりにも少ない。
江戸末期の唯一の御崎道記録
御崎道は公道ではありません。この道の行程をここまでハッキリと追うことができるのは,幕末の,あるマニアックな人間の記述によるものらしい。
景勝の地である脇岬には,天明8年(1778)画家・文人の司馬江漢や文化10年(1813) 修験者の野田成高が訪れた日記を残していますが,断片的な記述に過ぎず,最も参考となる文献は,「長崎談叢19輯」(昭和12年発行)に収められている林郁彦稿「縫新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)です。
これには長崎医学伝習所生の「関寛斎賓薫」という人が,文久元年(1861)の4月3日から4日にかけて仲間3人で,脇岬観音寺に詣でた日記が紹介されており、闇潔な文章の中に具体的な地名・距離・時間・方角・状景描写が,当時としては驚くような正確さで記されています。
要するに当時の長崎に集まった新知識に飢えた無名の学生たちの一人が,気まぐれな好奇心にまかせて綴った徒花──と思いきや,この関さんは,最終的には北海道の一地方を興した偉人らしい。資料館(→GM.:関寛斎資料館)まで立ってます。
さて,関さんの1861(文久元)年4月3日と4日の「みさき道」記録は,みさき道人によって次の地図に起こされました。──画像の良い状態のものをご覧になりたい方は元サイトをご参照ください。凄まじい情報量です。
この図で見ても,当時のみさき道が館内町西の十人町を起点とし,野母の観音寺を終点の一つにしていたことは確認できます。ただ,本稿の立場からより重要と思われるのは,ここまで精緻な記録を見た上で,みさき道人が「密貿易」について次のような判定をしている点です。
3 脇岬沖が唐船の入出港経路であったため、「みさき道」や脇岬観音寺の密貿易(抜荷)との関連を言われるが、そういったことを推定できる文献はあまり見られない。
4 道塚を建立した今魚町も同じである。なぜこの町が道塚を建立したか。そして道塚が五拾本あったかは、依然として推測の域を出ない。〔後掲みさき道人〕※下線は引用者
史料が黙する御崎道
この史料的な希薄さは,何を意味しているのでしょう?
本章で唯一,海賊が登場した観音寺の鐘については,ナガジン(越中先生の話)に次のような一節がありました。
もうひとつの文化財が梵鐘です。これは長崎の鋳物師(いものし)が造った有名なものです。この観音寺は平安時代からあり、その昔、海賊がやって来て当時の釣り鐘を持ち去り、この脇津(わきつ)から船を出したんですが、進まなかったんです。そこで鐘を海に落としたら船が出航したそうです。その後、福岡県のお寺から釣り鐘を持ってきて使用していたそうですが、それも古くなったから長崎の鍛冶屋町の鋳物師・安山(あやま)氏に造らせたんですね。今まで話した鐘の歴史がこの鐘には刻まれているんです。〔後掲ナガジン/3〕
※越中哲也:長崎地方史研究家。長崎学の第一人者・古賀十二郎氏の孫弟子。長崎歴史文化協会理事長。
これも伝承に過ぎません。また脈絡も合わない。鐘を海に落として出港できたのなら,すぐ拾って据え付ければ,わざわざ福岡から取り寄せることもないでしょう。
この海賊伝承は,時期が定かでないけれど,まあ中世でしょう。
角川日本地名大辞典も次のように記述しています。ただ出典資料については記していません。
古来より九州本土西沿岸航路の重要な避難港・風待港として歴史にその名を留めている。〔角川日本地名大辞典/脇岬港〕
近世長崎の短所は南に湾口を開いていなかったことで,そのために薩摩などは茂木を長崎のサブターミナルとして使ったのですけど,脇岬ならばそれもクリアできます。かなり早期から,ここには自然に船が寄ったはずです。
その頃の長崎半島の状況を考えてみましょう。現状に引きづられずにイメージすると──長崎の元というのは16C末に急造された計画都市です。開港は1570(元亀元)年,中世末。ポルトガル船が初めて入ったのがその翌年です。
つまり,中世末までの主な外航船の来航地としては,野母半島の先端部が最も都合が良かったはずです。脇岬(観音寺方面)に揚がった荷は
「今魚町」刻印の道標五十
あと,残る手がかりは,御崎道に五十の道標を据えたとされる今魚町(現・魚の町→GM.)です。
今魚町が設置した,という点は,やはり史料に残るわけでも何でもなくて,道塚(道標)の側面に「今魚町」と記されているから,というだけです。現存12本の全画像が「みさき道人」に掲載されてます。〔後掲みさき道人/現在残っている「みさき道」の道塚(12本)の場所・刻面等〕
これは驚いたのですけど,角川日本地名大辞典に「今魚町」は一つしかヒットしません。
ただ,17C初めにはこの町があったことは複数の史料で確認できています。
一説によれば,はじめ魚市場は金屋町付近にあったが,慶安年間当町に移ったという。しかし,当地付近は,すでに慶長19年の「吉利支丹行列記」に「イヲマチIuo-machi」と見え,晧台寺過去帳の寛永16年条に今魚町,寛永長崎港図に魚屋町と見える。(略)明細分限帳によれば,長江家は慶長19年より乙名職を勤めるとあるので,総町の乙名の中では一番古い家柄といえる。〔角川日本地名大辞典/今魚町〕
一六一四年(慶長一九年)イエズス会の聖体行列がサン・アントニオ天主堂を通過して、その墓地から魚(いお)町yuo machiに入っている(アビラ・ヒロン「日本王国記」)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「今魚町」の「るひす」「まるた」が署名している。晧台寺過去帳(晧台寺蔵)の寛永一五年(一六三八)条に今魚町とあり、寛永長崎港図に魚屋(うおや)町と記される。〔日本歴史地名大系 「今魚町」←コトバンク/今魚町〕
ただ,「今魚町」ではなく「魚町」が多い。「今魚町」表記は1622(元和8)年ドミニコ会宛長崎ロザリオ組中連判書付以降です。ということは,「今魚町」と刻まれた道塚もまた江戸期に入ってから造られたことになります。
それほどまでに多くの人が,長崎からこの行程※を歩いたのでしょうか?──この点は,どうやら歩いてたらしい。次によると,「月毎」つまり毎月ともとれます。
※後掲旅する長崎学によると,全行程は28km。
近隣の集落で戦後もしばらく「脇岬参り」や「オカンノン様参り」という、正月や月毎に観音寺参りが行われていた。〔後掲みさき道人/江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルートとその図〕
「たびなが」も「江戸時代、観音信仰の高まり」を背景と捉えてます。
長崎半島の先端脇岬には古刹として名高い観音寺がある。
江戸時代、観音信仰の高まりとともに、長崎からの参詣者も多く、参詣路としてみさき道が発展した。〔後掲旅する長崎学〕
それを新魚町という一地区が仕切った痕跡が,五十の道塚なのですけど──例えば,何かの「講」のような非公式組織でもあって,信仰も兼ねて,ごく小口の荷を市内に運び込むようなことをしていたのでは……と勘繰りたくもなります。もちろん根拠はありません。
長崎建設以前からあった古道……らしき道が,江戸期を通じて歩き続けられてきた。にも関わらず,その公式記録はほぼ皆無。これだけの人の足が向けば,江戸期の旅行作家※の誰かが歩いてないのは妙です。やや隠密めいた道だった気配があります。
※上記引用では,画家・司馬江漢(1778年)や修験者・野田成高(1813)の脇岬訪問の記録はある。ただ,特に書くべき情景がなかったらしい。
「ほぼ」というのは,実際,幕末の関寛斎さんは物見遊山で,つまり観音信仰を持たずに歩いてるからです。
関寛斎は,そもそもなぜ御崎道を歩いたのでしょう?
この人は,長崎暮らしの間に御崎道の存在を伝え聞き,天性の勘でその謎めいた位置を嗅ぎ取ったのでしょうか?