起点編
(十人町)
目録
シナゴーグ 段々大きくなる段差
あれ?もう開いてるの?
1102,蘇州林が繰り上げオープンしてたので久しぶりにちゃんぽんを頂き,福建通りの湊公園でタバコを吹かす。
そこのポイ捨て禁止地区が,本日のルート確認に大変分かりやすかった。
唐人町の南側外縁から山手に道があるらしい。まず碑を探そう。
GM.(経路)
1108,長崎梅香崎郵便局。看板あり,「ユダヤ教会堂(シナゴーグ)跡」。梅香崎に居留地があったのか。
──1896年9月,ハスケル・ゴールデンベルク R.H.Goldenberg とジークムント・D・レスナー S.D.Lessner が設けたシナゴーグです。ユダヤ解放政策をとってきたアレクサンドル2世が1881年にテロ組織「人民の意志」に殺害された際,犯人がユダヤ人(現・通説ではポーランド人)と報じられたのをきっかけに激化した排斥運動による。日露戦争下ではロシアを支持したと目されて,短期に衰亡していくけれど,百人規模の日本最大のユダヤ人街だったという〔wiki/日本のユダヤ人/長崎のユダヤコミュニティなど〕。ただ,場所はどれを見てもよく分からない。
でもここはまだ……目的の十人町とは違いそうです。東へ。
▲1114路地奥から登る階段
馬場医院過ぐ。
路地奥に段差が見えます。階段。家屋の基面も高いように見えます。
月極駐車場奥にはっきりと段を確認。やはりこの南には10m近い段差が東西に伸びてる。
▲1117駐車場奥の段差
御崎道はじまりの坂
1118,三叉路。ad十人町2。
あれ?今日も十善会病院に来てしまってるぞ?唐人屋敷跡北西隅という石碑を見つけたのは,病院の対面でした。
位置的にはここのはずです。右の坂に入る。
▲1124三叉路
1
124。10mでad十人町9の三叉路に至る。
これを右に折れた場所,十人町1の組自治会掲示板脇に──あった!「みさき道(御崎道)の道塚」。
▲1127案内板
う〜ん。全く判読不能だなあ。
案内板には「『みさき道』と刻まれていた。」とあるけれど,そういう文字には全然見えない何かの文字が刻んである石碑。
でもとにかく,ここが御崎道始点,ということになってるらしい。
▲みさき道の碑
虎猫動かぬ坂を登る
仕方ないから,1129,さらに登る。
右手草繁る空地。虎猫が不動の姿勢で向こうを見てる。
▲1130十人町の登り道
長崎の坂道は随分登ってきたけれど……何だか奇妙な道ゆきです。
階段。
左側の水路は,水が流れてもいない。酷く古くて苔むしてる。何があったらこうなるのでしょう?
▲1132階段を登る。
古い鉄の手すりが,石造りに転じました。
石壇の途中の半端な踊り場を忠実になぞってる。右手は草原。元の姿が全く想定できません。
▲1133石造りの手すりの凹凸
看
板。1134。「みさき道」「東山手オランダ坂」とある。後者までは360m表示。
その下には「ピエル・ロチ寓居の地」碑と案内板。
階段が終わる。振り返って一枚。
▲1135石段上から振り返って一枚
十人町一の組
長崎市からの市内アナウンス。「コロナウイルスの発生が確認されています」──まあ,それは多少存じております。
日照が厳しくなってきた。結構な快晴です。
▲1139十人町の平場
1139,ad十人町2。
細道が左右に伸びる。道の輪郭にもブレが出てきました。
なかなか魅力的です。
道は少し左に曲がる。ad同4。
▲1140微妙にブレてきた道
階段が,数段登っては平地になる。段丘を成しているのか,それとも家屋の基面が小刻みに上下してるのか。
1143同6。トップに至った感が出てきました。
▲1143台地状になってきました。
ホース格納庫。
手前に「遠見番跡」の案内板。
ということはこの坂辺りが十人町跡でもあるわけか。
「十人町一の組案内図」を見るとここから先がオランダ坂の表示らしい。遠見番案内図の角を右折したら,下りに出れるだろうか。1149。
曼珠沙華の公園を見る
とは言え──まるで土地勘が働かない。唐人屋敷から少し上っただけなのに──え?オランダ坂?
どことどこの間を歩いてるんだろう?
▲1148「十人町一の組集会所」地図
十人町一の組集会所。
案内板。1793(寛政5)年に一茶が十人町に宿泊した,と記してあります。その時の句が「君が代や唐人も来て冬ごもり」。戦時中も大っぴらに詠めたのでしょうか?
▲1153彼岸花
曼珠沙華より「死人花」の印象で真っ赤に花咲く空地。
空の蒼が昏い。
十人町1の十字路。何かの基点では,と勘繰ったけれど……特に何も見い出せません。
▲1155十字町公園
御崎道ではない下り坂
すぐ南側が,地図にあった十字町公園でした。
ここにも少し期待してたんだけど……全く何もない広場。何かの跡にも思えるけど,手がかり無し。
ad.同6。
▲自治会ネタ
電信柱に自治会の非常用の──これは何じゃ?それなりに面白いけど……広報とか啓発には全くなってないんだけど……。
でも笑えて諦めがつきました。北へ下ろう。
▲1159下る。
十人町3のad。1159。
細い。いい急坂です。
御崎道の西隣のはずなのに,全く趣が異なる。生活用の裏道?という意味ではこちらが本来の十人町なのか?
▲1202木漏れ日の下り坂
正午。
やはり枯れた水路が階段を縁取り続きます。
道にブレはあるけれど,御崎道側とは趣が違う。何というか,こちらは長崎らしい坂道なのでした。
勘弁してほしい一時間歩き
天満宮がここにあるの?
1203。道左手,宮の下側に一本道があった痕跡を感じますけど……今は扉で閉鎖してあり,空地。
十人町にはどうも空地が目立ちます。単に悪地ゆえの過疎なのか,それとも他の有意なのでしょうか?
▲1209指入っとるけど,帰還!
え?
1210。何と郵便局に着きました!
十人町のごく狭い町内,ここを1時間かけて歩いたことになります。こういう歩き方をしたいですね。
住んでる皆さんは,そりゃ勘弁してほしいだろけど。
■レポ:野母→十人町 異国船来航報はいかに通信されたか?
野母の岬の先端には,異国船発見を主任務とした遠見番所が置かれました。設置は通説では1659(万治2)年とされます。
寛永一五年(一六三八)南西の日(ひ)ノ山(日野山・権現山)に遠見番所が置かれ、当初は野母村・樺島(かばしま)村の百姓が詰めて異国船の監視などにあたった。島原の乱を鎮めた老中松平信綱が帰途に長崎に立寄って異国の悪船の来航をいち早く知るため遠見番所の候補地を検討、野母崎は見渡しがよいとして選ばれ、発見しだいに飛船をもって長崎奉行に注進するよう命じられ、不断に四人ずつ百姓を詰めさせた。のち百姓の負担に替えて専任の遠見番一〇人(一人前二人扶持七石)、飛船の水主一〇人・遠見番一〇人(一人前四人扶持)を配したとされるが、その年次は万治二年(一六五九)とされる(「華蛮交易明細記」など)。〔日本歴史地名大系 「野母遠見番所跡」←コトバンク/野母遠見番所跡〕
ただ御崎道は飛脚を飛ばすには遠い。いや遠くはないけれど,当時の長崎奉行の感覚では,長崎市中からは見渡せない外洋に出現した遠洋船を,直ちに把握したかったのでしょう。
そこで,古くは狼煙,17C半ばからは手旗を使うようになったといいます。
異国船の来航に備え、長崎警備は万全の体制を整えていた。野母の権現山に遠見番所、長崎の斧山に烽火台が設置され、その後遠見番所は小瀬戸、十人町、観善寺にも設けられた。野母で異国船を発見すると信号旗が掲げられ、野母から小瀬戸、小瀬戸から十人町、十人町から観善寺へリレー式で伝達され最後に現在歴博がある長崎奉行所へと伝わり、確認の検使が派遣されたのだという。この警備の強化はポルトガル人の追放に対する報復を恐れてのもの。〔後掲ナガジン〕
地図に落としてみます。小瀬戸から直接に立山の奉行所に連絡しなかったのは,その途中に風頭山などの山塊があるからです。一旦,十人町に伝達,そこから立山への谷の入口に当たる観善寺(筑後通り山手)を経た。つまり山塊を反時計回りに迂回した伝達路を設けたのでしょう。
ただ疑問に思ったのは,小瀬戸番所までのルートです。

小瀬戸番所から望遠鏡を覗く

小瀬戸番所から野母・日野山番所までは直線で15kmを越えます。単純に,この距離で常時信号を確認できるでしょうか?
通常の客船のデッキから見える水平線は,約16km先です〔後掲商船三井客船〕。野母と小瀬戸の双方の標高は前者の方が百mほど高く※,視認は不可能とは言えませんけど,視線が遮られないギリギリの距離です。
【みなと坂・小瀬戸】100m程度〔後掲長崎市/標高マップ〕
だから少なくとも手旗を視認するのは不可能なのですけど──調べて行くと,小瀬戸番所から野母岬の信号確認は,西欧から伝わった望遠鏡の使用を前提にしたらしい。
望遠鏡が徳川家康に献上されてからおよそ25年が経過したころに,公式に和蘭と中国に開かれた江戸幕府の直轄港である長崎では,目視から望遠鏡による船舶の監視が行われるようになった.1659年に,長崎半島の先端にある野母日野山に遠見番所を設けて,望遠鏡を常備して長崎に出入りする船舶を監視するようになった.毎年入港する和蘭船を見つけると,焔を放って長崎奉行に連絡して歓迎の準備をしたという.さらに1688年長崎港の入り口にある小瀬戸番所にも望遠鏡が配備されたことから,野母日野山の遠見番所から手旗信号を受けると手旗を掲げて長崎奉行所と連絡をとり合った8).このように信号の発信は焙火から手旗に変わり,受信は目視から望遠鏡へと変わった.寛政年間になると,北方の日本近海においても外国船の出没が多発し,船舶の監視に焔と望遠鏡が用いられるようになった.〔後掲藤原〕※原注・出典 8)広瀬秀雄:望遠鏡(中央公論社,1977).

けれど「望遠鏡」と言っても,1668年にニュートン式反射望遠鏡の倍率が38倍〔後掲天体写真の世界〕。小瀬戸にあった望遠鏡とは,その前代の屈折式の可能性が高いでしょう。1613年にEIC(英東インド会社)が家康(義直蔵?)に贈ったとされる望遠鏡は倍率3.9倍〔後掲中村〕。ガリレオが作り得た最高倍率の屈折式望遠鏡は32倍です〔後掲五藤〕。
ごく初期の発達段階にあった,まさに遠眼鏡程度の望遠鏡の,その程度のスペックで,小瀬戸から権現山の手旗を確認できたとはとても信じられません。

見つからない野母→小瀬戸通信記録
東京大学が1846(弘化3)年6月の「長崎ヘ仏国舩渡来ノ報」という在勤長崎御付人兼務・奥四郎の記録を整理していました。
一昨六日小瀬戸遠見番所ヨリ二十里程沖手ヘ白帆舩三艘相見得追々注進有之候処昨夕刻右三艘当湊口ヘ乗入卸碇候段御届ニ相成候処〔後掲東京大学史料編纂所/『琉球外国関係文書』編年目録〕
小瀬戸の番所から「二十里」沖合にフランス船が見えた,と言うのだけれど,近世の定義(1里≒3.927km)を前提にすると約80km,五島列島のすぐ東になります。
現実にも,また先の水平線上で16kmが限度とする視界を考えても,長崎から五島列島は見えません。
ここから考えると,どうやら江戸時代の遠見番所役人の距離や視界の捉えは,相当に現実離れしています。
確かに,完全に晴れた日に権現山の頂上で真っ赤な大きな(船の帆ほどの)旗を振れば,小瀬戸から望遠鏡でそれと知ることは不可能ではなかったのかもしれません。でも信号として確認するのは……そりゃ無理でしょう?
──と結論しかけてたら??

柴田「12km旗振」説
上の漫画のチョビ髭男は,巨大な白旗を振ってます。
櫓の上らしい。足元にはもう一本,これは黒旗。図上に「浪速風俗百圖」と書かれてるから,背景の山は生駒でしょうか。
大阪・堂島米市場(→GM.:地点)は「近代取引所に通じる会員制度,清算機能などが整えられた堂島米市場は,わが国における取引所の起源とされるとともに,世界における組織的な先物取引所の先駆け」〔後掲堂島米市場〕──という割に面積的にはもの凄くちっちゃい(下図参照)。主な取引は路上で行われたそうです。でも特筆されてるのはその機能で,1730(享保15)年に幕府が公認した「正米商い(しょうまいあきない・米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(ちょうあいまいあきない・米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)」〔後掲堂島米市場〕。公認ということは,その原型は官設じゃなくて,大阪商人の自主的創造によるものらしい。同堂島米市場サイトは17世紀前半の淀屋の店先(現・淀屋橋南詰)に自然発生した米市が,1697(元禄10)年頃に堂島に移ったと書きます。
おそらくこの相場を見て,米産地または米蔵から浪速への運送スピードを操作しようとしたのでしょう,堂島からの米価情報を各地方は欲しがったらしい。そこで飛脚や伝書鳩による通信が試されたけど……結局「手旗信号」が最も有用だったようです。何せ大阪-広島間の伝達が40分弱(同柴田,原典不詳)というんだから──
江戸時代の後期に、その速報性から存在感を増していたのが旗振り通信である(図2・3)。
旗振り通信研究の第一人者、柴田昭彦氏が明治期に利用された旗振り場(中継点)の間隔を実測したところによれば、平均して約12キロメートルであり、伝承されている大阪・地方都市間の通信所用時間と、上記間隔からすれば、送信1回の所要時間は約1分、通信速度は平均時速720キロメートルとなる。大坂からの通信時間は、京都が4分、神戸が7分、岡山が15分、広島が40分弱であったとされる(柴田2006※)。〔後掲高槻2021〕※柴田昭彦「旗振り山」(ナカニシャ出版、2006年)
下の漫画はどちらかと言うと,信号を受信している場面らしい。受信しながら(望遠鏡を覗きながら)旗を振ってるのは,受信内容を再確認する過程を踏んでいた,と推定できそうです。またそれを二人一組で行うことで,ケアレスミスを排除しようともしてる。
また望遠鏡は,やはり屈折式ですけど,見る限りでも義直望遠鏡よりはっきりと筒の太さが両端で異なります。対物レンズに対しより小さい接眼レンズを使っている,つまり倍率は格段に上がっています。屈折式の最高倍率30倍に近づいていた可能性があります。
これなら12km先の旗は見えたのではないか?
現に,西日本の商人は「堂島旗通信」情報に従って動いていた訳で,現実に情報は伝わっているではないか?──それならば野間-小瀬戸15kmだって……。
──と思ってしまいそうです。
実際,この柴田説に面と向かっての反論はネットに見当たりませんでした。
相場旗振りの勇姿
上記「相場旗振り」図の左奥手の二人は,望遠鏡を覗き旗を振り,いかにも忙しそうです。それに対し,右奥手のいかにも偉そうな髭の黒スーツ男は,記録係か監督さんでしょう。
でも,この三人以外に四人もベンチに座ってます。旗振り役の予備要員にしては,人数が多過ぎる。ただサボってる訳じゃないのは,もろ肌を脱いだ男,ふくろはぎを自分でマッサージしているらしき男の姿から,伝わってきます。
前掲の日野山番所に詰め(させられ)た人数も四名でした。
スムーズに旗振り信号が伝わる想定での所要人数より,現実には倍の人間が詰めている。これは,普通に考えて,旗信号が使えない際のための飛脚要員ではないでしょうか?
雨天時など視界が悪く旗振り通信が使えない場合は、視界が回復するまで待つか、飛脚を使った。〔wiki/旗振り通信〕※wikiが掲げる出典は前掲同様に柴田2006。
飛脚が,好天時には望遠鏡も覗いた,つまり兼任したとは両職それぞれに要する特殊技能からして考えにくいでしょう。とすると考えられる仮説は,「旗振通信」とは実質,旗と飛脚とに二股かけた通信だったのではないか,ということです。
逆に言えば,旗振通信は,条件が揃ってラッキーな時にはかなりの高速通信たりえたけれど,アンラッキーな確率がかなりあり,そのためにマンパワーの半分は投入せざるをえなかった。アンラッキーな場合は,走って伝えたのだと想像できるのです。
上の画像は学校の副教材らしきもの(小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代)にも引用されているらしい。貴重な旗振り信号の撮影画像ですけど,wikiの画像説明では1910(明治43)年のもので,既に電報電話※の普及した時代です。
同電話:1890(明治23)年に東京・横浜で開始,1913(大正2)年日本の電話加入者20万超
ということは逆に言えば,電報電話が普及した後でも旗振通信は,それなりに有用な通信手段として用いられていた可能性があるわけです。
なお,wiki/旗振り通信は,記事に「この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。」マークを付しています〔wiki/旗振り通信〕。「12km旗振通信」説の柴田昭彦さん(1959年生)は大阪府の教諭(2019年退職)を勤めながらの民間郷土史家で,説そのものはかなり通説化してきたものの,学界の頑なさ故でしょう,この議論を正面から論考した論者はあまり見当たりません※。
また,柴田さんのアプローチはどちらかと言えば歴史地理学的なもので,兵庫〜大阪の「旗振」由来地名から帰納的に「通信」を類推したものです(上図参照)。通信の現実性や確実性は論理上は事後的な検証です。
wikiにもありますけど,空気の汚れた現代には旗振通信の実証はかなり難易度が高いらしい。
1981年(昭和56年)12月、西宮市在住の会社員が中心となって、大阪市堂島と岡山市京橋との間に25の中継点を設定し、旗振り通信が再現された。スモッグによる視界不良を原因とする中断を挟みつつ、約167kmを2時間17分かかって通信、10番目の中継点である明石市金ヶ崎山と終点の岡山市京橋との間では内容が正確に伝えられた[21]。ちなみに、これに先立って同年8月に行われたテストは通信が途切れる、伝達すべき数字が大きく狂うといったトラブルが生じ、失敗に終わった[22]。その後1984年(昭和59年)と1991年(平成3年)にテレビ番組が再現実験を行い、放映された[23]。〔wiki/旗振り通信〕※21-23はいずれも柴田前掲書
2015年3月に二つのサイトが共同で,旗振実証実験をされた記事がありました〔後掲デイリーポータルZ〕。結果の概要を次にまとめさせて頂きますと……
場所は不明ですけど見通しのよい海岸沿い,都会が近くてスモックはあるけれどまずまず好天の日のようです。この状況下で,5km先は「人がいるかどうかも分からない」。2.5kmでも場所を誤認しており,この区間距離での第四地点まで七文字を伝えるのに2時間半かかってます。
如何に江戸時代の人の視力が現代人ほど衰えておらず,空気が汚れてなかったとは言え,旗振通信は「運が良ければ滅法速い」,つまり運が悪い時は他の方法(江戸期までは飛脚,明治以降は電報)で代替する,そうしたリスクを負った通信手段だったのではないかと考えるのです。
さて,近畿・山陽でそうしたリスク含みで旗振通信が用いられたとすると,西九州ではそのリスクはどの位高かったでしょう?
北西ルートは、三田~三木~社~氷上。南ルート、和歌山。
東南ルート、奈良。
北東ルート、京都~大津~長浜。
東ルート、伊賀~桑名~名古屋~江戸。
〔後掲喜田,原典:前掲柴田明彦「旗振り山」〕

旗振り通信史料の遍在性
柴田さんが前述の地名からの帰納で想定したルートは,上図のようなものです。
電信電話のない時代には疑いなく最高速だったはずの旗振り通信が,上図で見てもかなり遍在していることが分かります。西は岡山,東は名古屋のベルト地域に限定的で,そこから先(西は久留米・若津(大川),東は江戸)までは,急に疎らになっている。
※特に箱根については,柴田さん自身も飛脚で越えたと推測しています。
実証的に見た場合でも,この遍在性は際立ちます。例えば,次の新聞記事からは徳島への情報伝達は旗振りだったことが確実視できます。
米相場の伝言につき面白き一報を得たり。阿波徳島の米相場は、南海道の最も盛んなる相場所にて、常に大坂堂島の直段によりて高下をなし、掛け引きを附け、またたくうちに知れると云う。ゆえに、それはいかにして知れるやと不審に思い、その委細を聞きたるに、まず大坂より神戸、明石、淡路の岩屋、志筑、福良まで処々の山頂に人夫を出し置き、刻限を期して長き竹竿の先に白紙の采配を附けてこれを振り、阿波の鳴戸を間に挟み、山より山に合企図を移し、撫養より徳島まで達し、采配の振る数にて相場を通ずるの手続きなりとぞ・・・(以下略)〔後掲喜田,原典:1867(明治9)年7月1日付東京日日新聞〕
けれどこうした伝聞も他地域には触れていません。その背景として,幕府により飛脚以外の通信方法が禁制とされていた事実が引用されることが多い。──この禁制の理由を,柴田さんは「米飛脚の生活権を守るため」としますけど,「公許を与件としない米飛脚の営業を幕府が保護する積極的な理由は見当たら」
〔後掲高槻2011〕ず,現在の所は先例主義又はその精度が疑われたため等と考えるのが妥当です。
(「先格・先例もなく,精度も疑わしい手品がましき手法によって相場を取り締まる意図があったと考えるのが自然である。」〔後掲高槻2011〕)
その禁制として,通説※の採用するのは次の1775(安永4)年町触です。幕府が大坂三郷と摂津河内の村々に宛てて発したものです。
※先行する1760(宝暦10)年9月京都町奉行所諮問に基づく大津御用米会所頭取書附にも,飛脚より早く相場を知る米屋が「銘々自分自分の働を以て、早く存知候」と記されている〔後掲高槻2011史料6〕。ただし,この書附にはそれを咎める記述はない。
大坂三郷并摂河村々ニ而織を振、其外種々之相図いたし、当表之米相場を他所へ移候もの有之節ハ、召捕、咎申付候事ニ候所、其当ハ相慎候得共、程過候得者、又候相企、当時も所々にて同様之仕方有之趣粗相聞、不埒ニ付、悉召捕可遂吟味候得共、全風聞迄之事故、不及沙汰候、向後織其外種々之仕方二而相場を移候もの有之ハ、其所之もの出会捕置可訴出候、捕違ハ不苦候得共、自然遁〔「隠」力〕置候ハ可為落度候、右之通相触候上者、米相場掛り候もの共、弥相慎、他所へ相庭を移申間敷候、万ー不慎之もの有之、召捕候者、当人者勿論、其筋二携候もの共一統遂吟味、急度可相咎候條、末々迄不洩様可触知者也、
未〔安永4年(1775)〕閏十二月〔大阪市参事会編『大阪市史第三』大阪市参事会、1911年、858-859頁←後掲高槻2011 史料5〕
旗振りした人を「召捕、咎申付候」捕まえて叱った,同じ行為者がいれば捕まえるという広報です。旗を直接振った人はもちろん「其筋二携候もの共一統遂吟味」旗振り通信を企てたら捕まえる,と言ってます。情報を聞いた人や利用した人は咎めてない。
江戸期の直接的史料はほぼこれだけなのですけど,この触書の宛先にも注目すべきです。──大坂三郷と摂津河内の村々宛です。
「大坂三郷」とは大坂城下の3つの町組の総称です。即ち北組,南組,天満組。これには,天満より北や,難波・天王寺あたりの地域は含まれません〔wiki/大坂三郷〕。これに摂津河内ですから,概ね現・大阪府の北部・中部と兵庫県の大阪湾北岸ですから──
要するに,旗振り通信の禁止の広報範囲は,柴田さんが想定する北九州〜江戸にまたがる通信範囲に比べ,格段に狭い。
信号発出点たる堂島周辺以外では旗振り通信の違法性認識が薄かった,という可能性はあります。でも先に見た通り,咎められたのは旗振り通信の手段であって,発出行為に限定されたとは解釈しにくいことを考慮し,その可能性は留保するなら──旗振りが頻繁に行われ,又は有効に働いたのは,かなり狭い地域,実証的な堅実さを求めるなら高槻の想定する「大阪〜大津」程度だったと考えるのが妥当です。
ただそうすると,柴田さんの指摘する「旗振り」地名が広範囲に残る点と,単純には矛盾します。以下で本稿が提起したいのは,多くの地域での旗振り通信は,運が良ければ速い,つまり飛脚や伝書鳩の通信を凌駕するが好条件下に限定されたショートカット通信だった,という考え方です。
さて,その場合の「好条件」の成立確率を推測しようとする時,先の柴田さんの旗振り通信想定範囲図の濃淡が参考になります。
近世の市場ネットワーク上,長崎や熊本では堂島米相場の情報は他以上に重宝されたはずです。そこに旗振り通信網が届いた形跡がないのは,同通信手段の確実性が極めて低かったから,と考えると整合するのです。
旗振り通信の確実性が西九州で──旗振り通信の稼働範囲をより限定的と見るなら東瀬戸内〜京阪神以外で──低かったと仮定するならば,その要因として何が想定しうるか?と考えるなら,最も自然に発想されるのは気象でしょう。
夏の長崎は今日も雨だった
視界に関し参照すべき確実な統計データは,気象の中でも,晴天でない気候状態,つまり雨や霧だと思われます。地点を長崎に特定し,この関連データを参照してみます。
日照と雨の都道府県別年間データを,上記は量,下記は日数で集計したものです。
長崎と瀬戸内に,差異はほぼ見い出せません。
それに対し,次のデータは台風の到来回数です。皆さんが時季毎に接される感覚通りで,海水を抜けば広い盆地である瀬戸内は主に周囲の山塊のため,台風は少ない。
それに対し,西九州はほぼ全県が名を連ねます。
順位 都道府県 上陸数
1 鹿児島県 43
2 高知県 26
3 和歌山県 24
4 静岡県 22
5 長崎県 18
6 宮崎県 14
7 愛知県 12
8 千葉県 9
9 熊本県 8
10 徳島県 7
〔原典:長崎県「長崎県国民保護計画」「第4章 県の地理的、社会的特徴」,2019年←wiki/長崎県〕
一言で言う場合は海洋性気候,温暖で寒暖差が小さい,と表現されることが多い。ただ,海中に突き出た具合の長崎半島南部は,亜熱帯性の樹林が自生しています。平均すると海洋性だけれど,そのブレが大きく,「長崎は今日も雨だった」じゃないけれど雨が降る時は降る。実は時雨や雪も多い〔wiki/長崎県〕。他の日本の地域では海上で緩和される大陸性の低気圧や前線が,直接到来することが多いかららしい。そうしてこの傾向は,長崎県内では対馬が最も顕著だけれど,長崎半島はこれに次ぐ。
※各地点年間降水量(mm)
長崎1858 口之津1742
対馬2235 札幌1107
東京1529 那覇2041
地点の選択に偏向が懸念されるかもしれません。以下は県庁所在地のデータです。
西九州の降水量が月別に大きく異なっており,その増減の大きさが他地域を凌駕していることが確認できます。
下図は,旗振り通信が有効に機能した大阪と,長崎のそれを比較できるよう,月別降水量グラフを並べたものです。
夏季の降水量では,長崎のそれは大阪に倍します。
※「気象庁発表の気温や降水量データ30年間(1991~2020年)の平均値をもとに、日本の都道府県別の各都市の雨温図(気温と降水量のグラフ)を作成」
その時季は概ね夏。ただし,次のデータからはそれも一定したものではありません。要するに,夏の長崎の降雨は非常に不安定です。
ところで東シナ海を渡って唐船・南蛮船が長崎に来るのは,季節風の関係で旧暦の6・7月,つまり概ね新暦8・9月が多かったようです〔後掲出島〕。
つまり,旗振り通信で来航を知らせるには,最悪でなくともかなり条件の悪い時季だったと想像されます。
※過去最少値を緑色で、過去最多値を水色で強調表示
老中様が決めたから
結論をまとめるにあたり,野母に番所が置かれた先述の経緯を振り返ってみます。
「島原の乱を鎮めた老中松平信綱が帰途に長崎に立寄って(略)野母崎は見渡しがよいとして選」んだのが,この通信網の立地の基本構造です。つまり,御老中様が感覚的に選んだだけです。でも,島原で約4万人を大殺戮をした凱旋の将の発言に,長崎奉行は反論できなかったでしょう。
前述のように,野母からの旗振り通信は小瀬戸からは,おそらく半ば以上の確率で見えなかった。野母に詰めた百姓衆は,その度に御崎道を駆けたのでしょう。あるいは,前掲老中譚にあるように追加で配置した「飛船の水主一〇人」が現在のペーロン船※のようなものに飛び乗ったのでしょう。
※長崎ペーロンの最高速は8ノット〔後掲このありがたきもの〕というから,毎時14.4km。野母から1.5〜2時間で長崎市内に到達したと推定されます。
ただそれでも,幕府側にとってそれだけ大規模な監視網を設けたこと自体は,長崎市民を威圧する目的には十分機能を発揮したのではないでしょうか?実際,今に至るまで野母からの通信が即座に市内に伝えられたと記されるわけで,そのシステムの存在は嫌というほど広報されたと想像されます。本稿のような「見えなかったのでは?」という疑問を持つ事そのものが,当時にあっては許されなかったでしょう。
これは大きく言えば,「鎖国」制度そのものと同じです。内的威圧効果が発揮されるなら,実効性が問われることはなかった。当然,外航船の乗員たちは鼻で笑ったでしょう。「それでも構わない」「老中の指示だし」という感性で,野母番所のシステムは運営されたし,おそらく他の番所も似たりよったりだったのではないでしょうか?
ある意味では巧みな,この種の滑稽な内政装着は,江戸期に普遍的だっただけでなく,ひょっとすると現代でも結構身近で機能しているかもしれません。