m084m第八波m青北風や 波打ち打てど岸を蹴れm石浔巷

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路):~バス停
GM.(経路):華僑博物館周辺

呉氏王国の冥い都

成功武将・洪さんの本部碑の前でしばし止めていた足を,再び踏み出す。
 細く歪ながら十字路になった場所です。ここから南へ入ってみよう。
 洪本部旅社を過ぎる。

▲1447左右の敷地面に段差がある石浔巷

側だけ敷地面が1mほど高いぞ?普通に考えると,東西の住居の年代に格差があることになります。東側がかつての海外集落で,その時代,西側は浜だったということに。

▲1450段差の続く石浔巷。異様に重厚な静寂の道です。

所表示は石浔巷。
 なるほど。「浔」(潯)字はピンインxun2。語義は水辺とか岸辺です。
 案内板がある。吴・陈・纪の三大姓のうちここを支配した同安「石浔吴」に由来すると記述されてます。
 巻末で掘りさげましたけど,これが正しければ吴氏自治王国の「都」がこの路地だったことになるんですけど──?

▲1454石浔巷。右手の階段上が,東側の床面になっています。

まった!トイレに行った流れで打鉄街へ入ってしまったぞ。1457。やむを得ん。南行。
 1459,開元街まで戻った。
 さてさて,ここからは?少し東行するか。いやそのまま南行しよう。
 1501,人和路。

▲1504人和路の丸角洋館前。何か凄みのある光景が広がる。

506,大同路まで帰った。けどそのまま新路街へ進もう。
──今の方言で訪ねてきたオバハンは,ひょっとして客引きだったのか。どうやら微妙に猥雑な空気。
 鎮邦路に出てきた。えーとここってどこ?ああ,大中路の近くか。

旅の極意之一:五感を研げば二度目には二度目の発見あり

▲1515鎮邦路から大中路辺りまで戻ってきました。

みたくなってきた。腹に入れるならここは……ベタな厦門ものかな?
 となると……沙茶面でしょ?!
 これは,この辺りの観光客向けの店の方が食べやすい…と思うので。しかも料理自体はまずまず好きなので。お?この辺かな?

▲1526沙茶面

523如意風味小吃
沙茶面(普通)300
 記憶よりサテが厳かな甘味です。重厚なピーナッツの香り──そう,煎ってないピーナッツは元々この味覚。ここに辣子を僅かに加えると,実に面白い隠し味になって,ピーナッツの渋い甘味を沸き立ててくれます。
 面は──これは前回意識しなかったけれど──熱干面もかくやと思わせるぼさぼさな食感。これもサテのソースに妙に合ってます。
 このぼさぼさ面って,南部中国に共通する根を持ってるんでしょうか?

旅の極意之二:観察せよ されど乗り過ごすべからず

▲1538沙茶面屋台の厨房部

らに西へ行ってみよう。──とここで思い立ってます。この方向性は正しかったんですけど,やはりそれで着けるほど沙波尾は分かりやすくなかった。この西行ではたどり着けてません。
 海岸沿いの鷺江路に出てバス停へ。ひとまずの目標地点を華僑博物館とする。1559,2路に乗る。
 海を右手に見て南行。バス停・和平码头。風が涼しい。
 左折。あ,鎮海路です。今朝登った坂が左窓をかすめる。
 右折。思明南路。ここは前回歩いた覚えがある。厦門人防鸿山隊道──これは後にググると……本格的な防空壕らしい。金門紛争の前線だった時代の産物です。
 しかしまあ,いい騎楼道が続くなあ。
 と癒されてる隙に……ありゃ,華僑博物館で降り損ねたぞ?一つ先の理工学院思明校区站で下車。あ?前回もこの辺りで降り間違った記憶が──そうだ,バス一駅がえらく長いんだよな,この辺。歩いて戻るこの山際は,明らかに覚えがあるぞ。

旅の極意之三:勘の囁きを聞き逃すな

▲1612歩いて戻る思明南路

620澳联西饼
老婆餅
「这个好吃」(これが旨いぞ)「这个也不ツオ」(これもいいぞ)と店のオバハンが調子よく薦めまくる店に寄ってしまった。帰って喰うとこれが──ドリアンロール!おええッ!!……と即ゴミ箱行きとなりました。
 とは知らずに急ぎたどり着いた華僑博物館は……え?1630閉館なの?!
 どうもこの日は──夕方までに運を使い果たしてたらしいですね。

625,折角だから博物館のすぐ西にある永福宮巷へ入ってみる。東行。
 え?碰英食杂店の前で,厦港新村に突然住所表示が変わってるぞ?この地点は何か?どうなってる道割りだ?そもそも宮はどこ?
 観察するけど分からず。引き返す。──これは今地図をつらつら見ても,やはり不明です。それと,やはりこの運気では収穫はないでしょう。

旅の極意之四:人の流れを読み此に従うべし


物館前のバス停で帰路路線をチェックする。と──20路の行き先が「SM公共場站」になってる。そんなんを公共で?共産主義国で?
 とまた無駄な思考に捕らわれつつ通りを眺めてるうち,思明南路376-101辺りから東に人の流れがあることに気づく。間違いない。工事現場の南際です。
 何だ?つい間がさして,ふらっと流れを追って西へ。

▲1638。人の流れを追ってみる。

……
 人民の流れがたまってたのは門の前。それもみるみる集団が規模を増してます。
 学校の送り迎えかよ!
 てゆーか,ヤバいぞ……これは間もなく下校時間というシチュエーションです。何度もこの波に飲まれて地獄を見た,中国下校送迎ラッシュ。そう気づくや足早に西へ逃げ落ちたのでした。

■メモ:石浔吴氏の仁義なき3つの闘争

 広島県呉市が,あれをゆるキャラと呼ぶべきかどうか微妙だけど,「呉氏」というキャラを立ち上げておられるけれど,それで誤ヒットしても申し訳ないのであえて簡体字で「吴氏」と書いていきます。
 石浔路を拠点としたらしい吴氏について,3点,驚いたことをメモしていきます。
 なお,これらの件は「世界吴氏」など吴氏本体がかなり情報発信してるのですけど,相当本気の祖先崇拝サイトで,かつ滅法本気で転載拒否してるので,必要な方はご自分で参照して見てください。以下は主に次の「自由微信」記事に寄ってます。
※ 轰动一时的“台吴事件”的见证者——石浔巷(魅力街巷301) | 自由微信 | FreeWeChat

1 民国厦門港の吴氏自治区

 原典は不明ながら,彼らは明の初め,永楽帝の頃,福清(現・福州市南部の海岸付近)から同安県の石浔を経由して厦門港に入ってきました。清代に移住は本格化,厦門の居住地が「石浔」と呼ばれるまでになります。

据史料记载,石浔吴姓是明永乐三年(公元1405年)从福清石塘迁至同安石浔的。清代以后,吴姓有子孙从同安石浔村迁往厦门岛内石浔巷、打铁街等地谋生。[前掲自由微信]

「清代に4人の有名武将を輩出した」という話が,吴氏サイトでは誇らしげに語られます。ただし,本当に勢力を持つのは民国代らしい。

民国时期,石浔吴姓在厦门码头势力强大,石浔巷聚居着许多吴姓的码头工人。[前掲自由微信]

 石浔巷は吴氏の中でも「工人」の集住した場所だったらしい。船大工,あるいは船舶のメンテナンスを行うエンジニアというところでしょうか。
 吴・陈・纪の三大姓については,どのサイトにも登場します。この3大派閥を自由微信は「“三大姓”帮派」と書いています。
「帮」,つまり結社あるいは暴力団という語感です。武将の血を誇る工人の集団,武闘派っぽい色合いを感じます。
 この三集団は,港の経済的支配権を巡り,半世紀の長きに渡り「争闘」したとある。

三姓族人先后迁徙厦门,为垄断各码头的装卸业务,展开了长达半个世纪的争斗。
厦门码头三大姓中,以石浔吴的势力最大,势力范围为提督路头(今鹭江道与开元路交汇处)、打铁街至海后路邮政总局(今鹭江道海后路邮政支局)一带[前掲自由微信]

 吴氏は3者中の最大勢力で,その「势力范围」(勢力範囲)は「提督路头」(開元路ライン)から「邮政总局」(海后路ライン)。これは中山路以前に海外資本を注入し繁華街が建設された開元路・大同路エリアと重なります。
 支配力の弱い民国治下,吴氏は厦門港の中心を実効支配していた,と捉えることができます。そのセンターが,今は陰々たる石浔巷だったわけです。

2 吴氏世界雄飛

 となると前頁で触れた1920年代の厦門第一次再開発は,吴氏の海外移住組からの資金によるものだった可能性が高くなります。
 吴氏サイトによると,上海から香港までの中国沿岸への再上陸組は「6万人」になっているとある。
 台湾には「鄭成功に引き連れられ」て移住,数か村が台南付近に形成されます。
 ベトナムを初めとする東南アジアへの移住もあったらしい。このルートは「越南宗亲会」という組織がコーディネートしたそうです。
 中国沿岸へ数万という数字を信じるなら,海外移住全体では20万,少なくとも10万以上に爆発的拡大をした一族ということになります。──いかに中心勢力とは言え,厦門港の一地区の集団が,十万単位にまで人口を増やせるものか?
 この点は,既に水上生活者の爆発的拡大を検討しました。日本の能地と二窓は広島県三原市の半島部の漁村です。そこから,人口増加率は分かりませんけど,これだけの範囲に枝村が出ている。
▲(再掲)「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[原図:広島県教委,前掲浅川論文※※]
※ m075m第七波m(漳州)m龍眼营再訪/江戸後期の家船所在地拡大と俵物交易
※※ 出典:浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」公立鳥取環境大学

 17~18世紀に4倍に膨張した漢民族の人口というのは,吴氏のような冒険的拡張策を採った一族が無数に存在した,と想像するなら非常にリアルな出来事のように思えます。そしてそれは,実は漢民族を主体としたアクションではなく,海域アジアを舞台にしたアドベンチャーだったと捉えるなら,能地・二窓のそれも同じ波の中の出来事だったと考えるのです。

3 吴氏-日本海軍戦争「台吴事件」

 さて,厦門の吴氏サイトが誇るもう一つの闘争は,「鬼子」日本と戦闘して勝利したことです。
 という話は,日本語サイトのどこにもないので,抗日美談として何かを誇張した「物語」かもしれませんけど,ここではその真偽は追及しません。ただ,これが一族の武勲話として語られていることの方に重きを置きます。
 1923年。関東大震災の年です。ドイツではヒトラーがミュンヘン一揆で一度失脚した年で,世界情勢はまだ平穏。ただ,済南事件の5年前ですから,日本軍の謀略が中国各地で燻ってはいた頃で,現実味はあります。

1923年9月,在厦门的日籍台湾浪人林汝才为非作歹,与厦门码头“吴姓保卫团”的吴森、吴香桂发生扭打,进而引发“吴姓保卫团”与在厦日籍台湾浪人“自卫队”之间的大规模武装冲突。[前掲自由微信]

 日本籍の台湾人が「非作歹」,おそらくストライキを起こしたことから,吴氏の「保衛団」vs日籍台湾人の「自衛隊」が武力衝突した,とある。ここはどうもよく分からないけれど,とにかくその結果──

冲突期间,日军派出4艘军舰,进入厦门第七码头(属于石浔吴势力范围)附近停泊,日军海军陆战队登陆厦门武装示威。[前掲自由微信]

 日本海軍の軍艦4隻が厦門に入港,陸戦隊を上陸させた。
 上陸後「武装示威」したとあるから,どうも戦闘は勃発してません。
 吴氏側はバリケードを築いて,おそらく臨時の砦のような状態で立て込もって対抗したらしい。その結果──

冲突整整持续了三个多月,在彪悍、强硬的石浔吴姓面前,日本侵略者也无可奈何,最后只能妥协议和。[前掲自由微信]

 3ヶ月以上膠着状態が続いた後,強硬な吴氏の前に「日本侵略者」はいかんともし難く,ついに妥協した,とある。
 初めと終わりがどうにも分からないから何とも言いがたいけれど,とにかく日本軍に武力で対抗した,そして少なくとも敗北しなかった,というのが武勲談として語られている。
 台湾でのような三集団の間の械闘(武力闘争)の記録は見つからなかったけれど,おそらく各組織はこうした私兵団を組織することができた事は予想されます。
 20世紀初頭の厦門港は,そうした殺伐とした場所だったようです。

■レポ:トンネルはどういう時空に造られたのか?

「厦门鸿山人防隧道」は全長294m。1970年代から建造が初められたとされてます。
 ググる限り,この鳩山(→GM.)から南東の厦門大学までの山麓ゾーンには幾つか,こういう防空壕が設置されている。はっきり書かれていないけれど,万一の際の想定収用人数は各数百~二千人というところでしょうか。
 けれど妙です。金門海域が緊張状態にあったのは主に1950年代後半から60年代。70年代になぜこんな大工事をしてるんでしょう?
 閩南の1970年代までとはどういう時代だったのか?一度,細かく見ておきたくなりました。

台湾海峡の軍事史と厦門への核使用計画

 台湾の中華民国が実効支配する金門島が,大陸中国から砲撃された金門砲戦(台湾呼称:八二三砲戦。国際的には第2次台湾海峡危機とも)は,軍事的には1958年8月23日~10月5日の40日余のものを指すことが多い。
 中国人民解放軍が金門島への上陸侵攻を計り,その前段の砲撃だったことは状況的にほぼ確実とされます。ただし,これに対する台湾側と,パトロン役の米海軍が強硬な威嚇に出て侵攻そのものは回避されます。
 砲撃は1979年1月1日まで,約21年間にわたって定期的に続けられています。※ wiki/金門砲戦
 1958年段階,「九二海戦」と呼ばれる大陸と台湾双方の海軍の戦闘があったことは知られている。また,2008年の米文書公開で,アメリカ空軍が核兵器使用を準備していたことも明らかになってます。最終的に大統領判断で中止されたけれど,グアムにボーイングB-47爆撃機中隊15機が発進命令を待っていたことまでは事実。世界初の戦術核兵器使用の攻撃目標は,まさにこの時歩いてた厦門だったとのこと。──この件は幾つかの中国語サイトでも紹介されてます。冷战往事:解放军封锁金门险些成为核攻击目标 – BBC News 中文
 だから,厦門に核シェルターが建造されたこと自体は,合理的選択です。疑念のあるのはその時期です。

金門砲戦後も継続された「砲戦」

 1958年より後の「戦争」はどうなったのかというと,簡単に言えばズルズルになってます。

その後も中国人民解放軍による定期的な砲撃は継続された。しかし、砲撃は毎週月・水・金曜日に限られ、炸薬ではなく宣伝ビラを詰めた砲弾が用いられ、しかも無人の山地を標的としたことからも明らかな様に形だけのものであった。国際社会への戦略的アピールが目的であったが、戦術的にも全く意味はなく、後に金門名物となる金門包丁の材料を無償で提供したに過ぎないものであった。[前掲wiki]

 ここで言う金門包丁は,今や日本から買い付けに来るほど切れ味に定評があるらしい。確かに,あちこちに沈んだ戦艦や不発弾があった終戦直後の日本で屑鉄を売ろうと多量の爆発事故があったのに比べれば,そういう「砲弾」なら安全で利用しやすい。

この砲撃戦で金門には470,000発の砲弾が撃ち込まれた。砲撃に使用された砲弾の弾殻には非常に硬質な鋼が使用されており、金門住民は不発弾やそもそも炸裂しない宣伝弾等を再利用して刃物類を製造するようになり、中でも包丁は金門包丁(金門菜刀)として金門を代表する名産品となっている。[前掲wiki]

 なお,台湾では「金合利鋼刀」と呼ばれるらしい。政治的配慮からか,あまり露出度は高くないみたいですけど……。金合利鋼刀 – 文化工芸 – 特色商店 – Taiwan OTOP
 要するに,59年以降の「砲戦」はどうもよく分からない。
 2001年,厦門-金門間に定期船舶便「小三通」が就航,2014年数字では延べ150万人が往来してます。旅行プログもヒットします。金門島に関するトピックス:朝日新聞デジタル
 現在の鳩山トンネルは,この時に見たように観光地になってるほか,アートのイベント会場にもなってる。※ 从防御工事到多彩公共空间 厦门鸿山隧道华丽转身-中新网福建
 同様の目的で造られたらしい厦門大学内の芙蓉トンネルは,学生の落書きが有名になってるらしい。「中国の大学で最も芸術性の高い落書きトンネル」なんだそうである。何じゃそりゃ?……でも次行ったら是非見たいぞ!※ 厦門大学構内に「落書きトンネル」 – SankeiBiz(サンケイビズ)
▲芸術性の高い落書きトンネル

陳さん一族の見た厦門現代史

 と言うことになるのは,60年代はともかく70年代にはもう見えてたんじゃないだろうか?少なくとも戦術核で大陸反攻なんて可能性は,ちょっと考えにくくなってきた時代に,なぜこのトンネルは造られたんでしょう?
 簡単に済ませるなら,中国側の「引っ込みがつかなくなった」ということでしょうけれど,これがどうも,そうそう引っ込められる拳でもなかった,というのが本題です。
 次のプログ,というか年表ですけど,厦門市史からの書き抜きとしてますけど,中国の一個人の実感に近い厦門史,という意味で大変貴重な史料に思えますので,やや過剰に転記していきます。
※ 南陳宗親網/廈門1949至1987年大事記 來源:廈門市志

1949年:解放の年

1949年
(略)
10月 7日 蔣介石乘專輪再次抵廈,召見湯恩伯、毛森等國民黨駐廈高級軍政人員。當晚即駛返臺北。
(略)
10月16日 廈門警備司令毛森派軍警槍殺被關押的劉惜芬等17名中共黨員和革命群眾,並將廈港發電廠炸毀,後逃往臺灣。
10月17日 廈門解放,宣告國民黨對廈門統治的終結。此役,中國人民解放軍共殲敵2000餘名,俘虜 2.5萬餘名;繳獲大炮50餘門,槍支彈藥無數。
(略)

 1948年,つまり大陸中国建国の前年です。10月7日には蒋介石総統が厦門を視察してる。その10日後には戦死2千,捕虜2.5万を出す戦闘の末に共産軍が厦門を占拠してます。
 さらにその2週間半後には──

10月24日 中國人民解放軍 3個團自蓮河、澳頭、大嶝等處登船,對金門島發起渡海登陸作戰,浴血奮戰 3晝夜,終因寡不敵眾,登陸作戰失利。
10月24日 國民黨軍兩架飛機轟炸廈門,炸死炸傷20餘人。

 何と,ここで共産軍は,10年後にやりかけた金門上陸戦を実行してます。そして敗退してる。のみならず台湾側から厦門に空襲をかけられ,民間人かどうか書かれてないけれど死傷者を出してます。

11月29日 中國人民解放軍華東軍政大學福建分校在廈門招收的第一期學員 870名離開廈門前往福州。翌年 9月 ,該校又在廈門招收學員 300多名。
(略)
12月28日 灌口一帶土匪頭目陳曹被抓獲,於1950年春被正法。

 この後も台湾からの空襲は激しかったらしい。11月末には学生疎開が始まってる。つまり,この時期,大陸側に空軍力は弱く,海を超えて襲来する台湾側になすすべもなかった。
 そしてこの年末に,「土匪」の討伐が行われてます。「被正法」というのは処刑されたということでしょう。

1950年:粛清の年

 前頁で1920年代までの厦門港の様を見てきました。幇同士が凌ぎを削って争っていたわけです。
「土匪」というのはその戦闘部隊のような集団だったのではないでしょうか。
 それらを根こそぎ撲滅していった感が,この時期の記述にはあります。

1950年(略)
1月25日 廈門禾山區人民臨時法庭公審惡霸地主陳寶琦。陳曾殺害 4人,霸佔田地1300余畝,於1951年 3月12日被處決。
(略)
4月29日 市公安機關破獲國民黨“反共救國軍”特務組織,逮捕陳永明等12人,並繳獲一批槍支彈藥。
(略)
5月26日 同安縣人民臨時法庭召開有5000人參加的公審大會,公審大惡霸、大土匪葉金泰。葉曾殺害46人,被法庭判處死刑。

「反共救國軍」という組織が,「惡霸」「土匪」に混じって検挙されてます。国民党の特務組織とされていますけど,現代軍事的には脆弱な共産軍に対し,台湾と交易で繋がった「土匪」勢力はそうそう従順ではなかったでしょう。そしてそのシンパは厦門の相当部分にのぼっていたのではないかと思われます。
 おそらく,相当陰湿なスパイ狩りが行われてます。年末になるとこれが「市公安」の独壇場になり,激しさを増している。

10月10日 市公安局破獲國民黨特務組織“第十二兵團福建遊擊總部廈碼獨立支隊”,逮捕其成員 6人。
(略)
10月31日 市公安機關破獲反革命組織“中國革命同盟會”,逮捕其成員16人。
(略)
11月 5日 市公安機關破獲以陳憾為首的“中美合作所特務案”,逮捕其成員32人。
11月13日 市公安機關破獲國民黨“閩粵邊區遊擊指揮部第九縱隊”特務組織,逮捕遊德元等 8人。
(略)
12月13日 市公安機關破獲國民黨“第十二兵團福建遊擊總部第十縱隊”特務組織,逮捕洪鼎鳴等61人。
(略)
12月22日 市公安機關破獲國民黨保密局“廈門直屬潛伏組”特務組織,逮捕何金銓等 3人。是年 6月27日水仙碼頭被炸,目標就是這個特務組織所指示的。

 これだけの種類の「特務組織」が次々に挙げられている。
 二種の解釈ができます。本当に無数の反共産主義組織が筍のように存在した。そうだとすれば,新たな支配者への草の根の反感が,激しい勢いで燃えていたことになる。
 あるいは,そうではなかった。恐怖政治とその反面の台湾側の反攻への恐怖が,無数の「スパイ」を創造していった。
 もしくはその何れもが,スパイラル的に起こる恐慌状態にあったか,です。
 このスパイ狩りはこの翌年以降も延々綴られてます。あまり同じ組織名は登場せず,数十人単位の小さな検挙が列挙されてます。

1951~3年:掌握

 5月に行われてるこの2つの事案は,完全な市民掌握が完成した様子を示してます。

1951年
5月18日 廈門市舉辦反特治安展覽會,歷時44天,參觀者達 6萬人次。
5月21日 廈門市軍管會發出佈告,嚴令一切反動黨、團、特務人員依法履行登記,坦白自新。至 6月底,有1639人履行登記,其中,特務人員 706名,國民黨員 336名,三青團員 442名,其他人員 155名。

「反特治安展覧会」への6万人の参観というのは,まず動員による思想教育です。それと平行して「反動人員」16百余人が「登記」,リストアップされています。当時の人口が分かりませんけど,6万と16百を単純に比較しても,相当な高率で市民の中に「反動」を指定しています。
 少し色彩の異なるものも挙げてみます。

1月19日 廈門市人民法院舉行公審大會,大漢奸李思賢伏法。李是廣東新會人,日本侵略者侵佔廈門期間,先後擔任維持會會長、市長等偽職。

「日本侵略者」による厦門占領時代の市長が「伏法」されてます。

2月 廈門天主教、基督教徒開展自主革新運動,相繼發表“三自”(自傳、自治、自養)宣言。

 キリスト教団体が「自主革新運動」の宣言を発しています。関連して,この2年半後の1953年に「9月3日 廈門軍管會取締隱藏在天主教內的反動組織“聖母軍”。」──教会内の「反動組織」が「取締」を受けていますから,内部組織にまで目を光らせていたことになります。

1952年
1月 8日 廈門市京果第一合營社成立。這是廈門解放後第一家合作社。從此,私營企業逐步合併。

「廈門市京果第一合營社」という,おそらく公益財団のような組織が発足,ここに私営企業が合併。つまり,この時代に相当規模の財産を有していたはずの厦門の私的財産を実質的に没収しています。

8月13日 廈門市開展禁煙肅毒行動,共逮捕煙毒犯 186人 ,集訓登記 837人,繳獲鴉片 300公斤,煙具1480件。

 これはアヘン等の麻薬のことでしょうか,逮捕者2百名足らずの他,「集訓登記」つまり矯正対象者8百人が指定されています。実質は黒社会の一掃,という行動でしょうか。

12月19日 廈門市採取統一行動,收容妓女、鴇頭 166名,摧毀舊社會遺留的娼妓制度。

 性風俗業者の一斉検挙です。同時に「娼妓制度」を完全廃止しています。これも黒社会の完全な押さえ込みを目論んだものでしょう。

1953年
3月 3日 市軍管會宣佈取締“一貫道”(又名“中華道德慈善會”)和“同善社”兩個反動會道門組織,一批罪大惡極的道首受到嚴懲,一般成員均自動退道。

 団体名の語感と,人数が全く挙げられていないことからして,極めて大人数が所属する結社的組織だったのではないでしょうか。トップが「厳罰」に処され,構成員は退会させられています。要するに,既存の大組織の並立が許されず潰されたわけです。

1954年:再起の年

1954年(略)
3月 8日 廈門電燈公司恢復全日供電。此前因廈門港電廠在解放前夕被國民黨當局炸毀,解放初期一直採用小型發電機分區供電,僅在夜間供電幾個小時。

 厦門港付近の電力は,国民党に破壊されて夜間は小型発電機からの僅かな時間の供電しかない状態だったらしい。それがやっと回復して全日の供電に戻った,というニュースです。

3月25日 全市 180多家私營糧店全部改為國營糧食代售點。

 サクッと書いてありますけど,全市から私営の食料店が消えて国営化されてます。
 これまでの交易状態と立地を考えると,台湾から相当の闇の食料物資が流れていたのではないでしょうか。大陸側からの表の食料供給がやっと追い付き,その配給体制で賄えるようになったから,この措置が取れた,とも受け取れます。
 つまり,この辺りから経済が共産体制下で何とか回るようになった。それに伴い,軍事面でも台湾側に対抗できているようなニュースが出てきているようです。

6月14日 中國人民解放軍駐廈部隊擊落國民黨軍飛機 1架。

 台湾軍の軍用機を一機,撃ち落としてます。空軍が,と書かれていないので,陸からの迎撃でしょうか。それが明るいニュースとして報じられているということは,それまではほとんどなすすべがなかった,という事でもあります。
 ちなみにwikiもこの時期の中国軍を「ソ連から魚雷艇やジェット戦闘機を入手して現代的な軍としての体制を整えつつあった」(wiki/台湾海峡危機)と評してます。
 これに自信を強めたのか──

9月 3日 中國人民解放軍駐廈海防炮兵猛烈炮擊大、小金門島,擊沉國民黨軍軍艦 3艘,擊傷 4艘。史稱“九三”炮戰。
9月 7日 起,國民黨軍飛機連續數日襲擊廈門,累計出動數百架次,毀民屋48間,炸死炸傷居民近百名。中國人民解放軍共擊落敵機11架。

 9月3日に「九三砲戦」と称する戦闘になってる。書き方からは中国側が初めて機械力で台湾側を圧した,という感じです。けれど,台湾側もそれに過敏に反応してか,4月後に厦門の大空襲をやってます。
 第一次台湾海峡危機と言われる時期です。
 総合して見ると,何だかまるで,沖縄中部でやや膠着していた頃の沖縄戦のようです。機械力ではまるで敵わない敵に,何とか対抗できる火力を蓄積したら,すぐ再起の狼煙をあげずにはおれない。でもそうすると,実力の差はやはり明確なのでこてんぱんに叩かれる。気持ちだけ先走ってるような戦争です。
 その結果,沖縄の日本軍と同様の自業自得で,ますます厦門は追い詰められていきます。

1955-7年:激化の季

 これは省略してきてる無数のスパイ狩りの一例ですけど,1954年の末に,これまでにない名称が登場してます。

11月14日 市公安機關破獲“美國新聞處”派遣特務紀國棟案。

 明らかにアメリカ籍のマスコミの構成員を,おそらく初めて検挙しています。これで大陸側の姿勢は,ある一線を越えたように見えます。
 1955年に入ると,台湾の攻撃の激化に比例するように,市民への締め付けがさらに徹底されていくようです。

1955年
  同日(ママ) 國民黨軍飛機在海門島海面炸沉“潁海”號客輪,死62人,傷19人;又在鼓浪嶼投彈 2枚,炸傷居民 5人。
1月21日 市公安局破獲“英國遠東情報部”派遣特務孫錫宗案。
1月24日 國民黨軍飛機再次騷擾廈門,其中 1架飛機被擊落。
3月22日 廈門市第一批義務兵 150名青年應徵入伍。

 台湾側が船舶を沈める。厦門のイギリス系マスコミが検挙。空襲。厦門市民の徴兵開始。
 この外寇-粛清のパターンが繰り返されてます。台湾側の反応も非常に過敏で,翌年1月19日のトピックなどは典型的です。

1956年(略)
1月19日 廈門市政府批准工商業全部實行公私合營,並舉行批准大會。
同日 駐金門國民黨軍向廈門地區發射1000餘發炮彈,炸毀民房65間、村民死傷各 2人。
2月12日 廈門各界 4萬餘人在中山公園集會,慶祝廈門市社會主義改造完成。會後舉行遊行。

 厦門の全企業が,事実上,公企業に吸収される。その同じ日に金門島から砲撃を受ける。けれどそれにも屈せず,3週間後に「社会主義改造完成」のパレードが中山公園で大々的に行われてます。

5月15日 至22日,解放軍駐廈部隊與國民黨金門駐軍發生激烈炮戰。

 5月,厦門-金門間で「激烈砲戦」。火力では拮抗する形になったらしい。
 外部から見ると「あの狭い海峡で接する対立国がよく持ったなあ」と思いがちですけど,制空権は完全に台湾側が掌握してるわけです。これは1958年の金門砲戦の前年にも同じことだったようです。

1957年(略)
11月24日 駐廈前線高炮部隊在虎頭山上空擊落、擊傷國民黨軍飛機各 1架。

 だから,いかなる大規模な陸上兵力を持つ大陸軍でも,まず上陸作戦の初手の渡海ができない。よって,砲撃戦をするしかない。それだけでは前線は膠着するだけだけど,そういう形で戦争してないと「スパイだらけの」厦門市内の治安が保てない。結果,ますます統制が厳しくなる。
 次の2件は1956年の教育面のトピックです。

7月 6日 廈門市政府批准接辦14所私立小學。至此,除僑辦的 3所小學外,全市小學已全部改為公辦。

 実質的に私立の小学校(日本の中学校)が接収されてます。この時点でも華僑校が除かれ,しかも小学校だけというのは,相当な政治的抵抗が働いたように見えます。
 それと,アメリカ留学から帰ってきた教授の厦門大学就任がニュースになってます。

8月30日 廈門市政府舉行歡迎會,歡迎留美博士蔡啟瑞到廈門大學任教。

 それがどうした?というニュースに見えるけれど,要するに……台湾のバックにいて厦門を地獄に変えている強大なパワーに対する神経症的な敵対心が,逆にそこで名を成した有識者を熱烈に歓迎する意識にも転じてしまう。
 金門砲戦直前の厦門は,統治側も市民も精神的に究極まで追い詰められていたように見えるのです。
 そして1958年を迎えます。

1958年:緊迫の年

8月23日 解放軍福建前線部隊對國民黨盤踞的大小金門等島嶼實施猛烈炮擊,連續85分鐘,發射各類炮彈 5萬餘發。史稱“八二三”炮戰。10月25日,解放軍宣佈逢單日打炮,逢雙日不打炮。

 大陸側が「八二三砲戦」と呼び,軍事史上は第二次台湾海峡危機と位置付けられるこの金門砲戦で,国際的には最も緊張が高まります。アメリカもそうですけど,例えば,ソ連は中国のこの姿勢を見て核技術供与を打ち切ってます。つまり国際外交サイドから,最も中国が台湾侵攻をするように見えた時期がこの頃らしい。
 こう追っていくと,けれど急激な異変がここで起きた訳ではないことは分かります。前年にあまり攻撃的な行動をしていないことからして,大陸側は相当に弾薬を貯めこんで砲戦に出たと思われますけど,本当に金門へ上陸占拠する勝算を持っていたかどうかは疑問です。
 やはり外より内を見て,やらざるを得ない戦争だった,という感覚ではないでしょうか。
 もちろん,この戦争前後の死傷は発生しています。例えば次の件などは酷い。──台湾からの大嶝島砲撃の結果,防空壕に避難した幼稚園児31名がおそらく生き埋めになってます。

1959年
1月 3日 國民黨金門駐軍炮轟大嶝島,炸毀 1個防炮洞,山頭村幼稚園的31名幼兒窒死在洞內。

 この後も,大躍進後の大陸の疲弊時を狙った国光計画(1962年,未遂)や基隆沖へミサイル落下があった第三次危機(1995-6年)は起こってます。けれど事実上,台湾海峡危機は外交カード化して,具体的な侵攻は非現実になっていったようです。

1959年~:華僑の季

 60~70年代には文革の記事だらけになってます。それを追っても仕方ないので,もう一つ,どうしても目につく華僑関係の動きを少し遡ってみていきます。

1954年(略) 1月23日 集美華僑學生補習學校開學。該校是省人民政府為幫助歸國僑生順利就學而創辦的,中央撥款60萬元為該校建築校舍。

「集美」は厦門市の大陸側,つまり新市街です。ここに帰国華僑の学習に便利なように「華僑学生補習学校」が開校しています。前記の苦境に落ちた当時の厦門で「中央」から60万元の融資を受けての開設です。
 数量的な比較材料がないですけど,はっきりとした大盤振る舞いです。中央の,華僑帰国促進政策,とでも言うべき露骨な姿勢が見えます。
 次は,この時に目指してた華僑博物館(正式名:博物院)の開館記事です。

1959年
5月14日 由陳嘉庚發起、愛國人士捐建的華僑博物院舉行開院典禮。該院坐落在蜂巢山西側,面積4000平方米。是中國惟一陳列華僑史料,兼收藏、整理和研究華僑、華人文物資料的文博單位。

 この博物館,北京にある同種のものと並び華僑を扱った施設としては稀なものらしい。
 陳嘉庚という名前も出てきます。後述するように東南アジア華僑の超大物です。集美の出身。
 この時期の疲弊し切った厦門に,4千平米の施設で華僑の栄光を讃える。誰かの強い意思が働かないとあり得ないものです。同時に,これは一般の厦門市民からはナンセンスに見えたでしょう。
 中国のこの頃は,1957年に反右派闘争で党内主導権を確保した毛沢東が,翌58年から59年に渡る大躍進政策を推進,数千万と言われる餓死者を出した時代です。
 1959年はその毛が,政策失敗を認め国家主席を辞任した年。1966年に毛が再起し文化大革命を扇動する間の,短い嵐の谷間の時代です。
 もっとも,国内の華僑系市民は,苛烈なままの境遇に置かれたらしい。簡単に言えば,思想改造の対象にされた。

54年以来の国内華僑に対する自由や特権も,中国全土を席巻した社会運動の波に飲み込まれ消滅することとなった。(略)59~62年に華僑講習会が相次いで開催されたことをみてもわかるように,国内華僑に対する圧力は60年代にかけて一層強まることとなった。
※ 曽根康雄「1950 年代の中国の華僑送金政策」日本大学,2011

1960年
2月21日 廈門市接待和安置歸國華僑委員會成立,負責接待受印尼排華事件影響而歸國的僑胞。
3月 6日,首批870名印尼歸僑到達集美鎮。至 6月29日,共接待安置歸國僑胞兩千余人。

 インドネシアでの華僑への迫害は,これは60年代のスハルト時代には虐殺にまで発展していきます。その前段の時代に,厦門への帰国が始まっています。集美への帰国受入は,空いた土地だからかもしれませんけど,陳の息がかかった動きにも見えます。
 その一方で,厦門の経済生活はどん底に落ちてます。

1961年(略)
 是年全市集市貿易價格總指數達 375.88%(1960年為100%),糧食類價格指數高達1471.12%,肉禽蛋類價格指數達509.45%。
 是年全市國內生產總值比上年下降35.47%。

 何と貿易規模は前年60年の3.7倍に拡大している。
市の総生産は35%ダウン。物価は糧食が約15倍,肉類が5倍だから,経済生活全体はガタガタに崩壊してます。
 大躍進で壊滅した経済を,外部からの物資が,支えきれないまでも大量に流れてきている。華僑資本のほぼ救済的な介入があったとしか読めない数字です。
 謎多き時代です。
 謎と言えば,続く文革期に頻発してる市内華僑系の人々の過激な動きも分からない。

1966年(略) 6月19日 集美航校和集美僑校學生進行所謂“革”與“保”的辯論,後雙方發生扭打,各傷七八人,是為“文化大革命”開始後廈門第一起流血事件。

 毛復権と文革発動のまさにその年,先に陳が開学した集美華僑校が,文革開始後初となる流血事件を起こしてます。「いわゆる『革』『保』討論」というのも分からないけれど政治討論会でしょう。そこでの鞭打ちによる負傷者が出ている。
 文革期の華僑子弟たちは,どうも一般市民以上の過激な左翼として振る舞ってます。攻撃をかわす下心,と捉えるには激し過ぎる。他の中国人以上に共産中国に過度に同化しようとしたように見えます。

 以下の長い華僑レポは,以上の事実関係を咀嚼するために採った探索でした。
 正直一番混乱した点は,僑郷(華僑の故郷)として海外を身近に感じているはずの厦門市民が,なぜ過激な革命行動をむしろ牽引してるのかということでした。それは,ここまでの泉州・漳州の文革事象を見る限り,どうも閩南全般に共通しているようです。
 つまり,僑郷に共通する共産主義的人民運動の過激化のモデルコースがあるはずです。

過剰なる革命とクールなマネーの無矛盾

 さらに二点,人民防空と華僑マネー規模について補足してから,まとめに入ります。

やる気のある中国

「厦门鸿山人防隧道」の「人防」というのは「人民防空」のことで,戦時中の日本の防空指導のようなものですけど,中国では驚くべきことに
「人民防空法」という一般法に根拠づけられてる。しかも制定は1996年。
 だから厦門の防空トンネルは法的に全く正当なのです。
「人防」は全国で実施されてる。「先進地域」での例としては──
大連:抗日記念日に合わせた教育・訓練を実施。毎年8月15日20時から15分間は警報を鳴らす。
上海:防空施設設置済。放射能耐用,20万人収容。
※ wiki/中華人民共和国人民防空法
 2020年は「新中国人民防空创立70周年」に当たるらしく,「民防精神」を讃える式典も各地で行われてます。重慶ではこの名前の基で地下交通建設計画も進んでるようです。
 人民防空法の要点を見ると──

中华人民共和国人民防空法
(1996年10月29日第八届全国人民代表大会常务委员会第22次会议通过,中华人民共和国主席令第78号公布。)
第二条 人民防空是国防的组成部分。(略)
人民防空实行长期准备、重点建设、平战结合的方针,贯彻与经济建设协调发展、与城市建设相结合的原则。
第四条 人民防空经费由国家和社会共同负担。
第五条(略)国家鼓励、支持企业事业组织、社会团体和个人,通过多种途径,投资进行人民防空工程建设;人民防空工程平时由投资者使用管理,收益归投资者所有。
第六条 国务院、中央军事委员会领导全国的人民防空工作。
中华人民共和国人民防空法 – 中华人民共和国国防部

中国人民防空网
 第2条で「平战结合」(平時と戦時の結合)が謳われ,その経費は4条で官民の共同負担,5条で企業や団体の投資を募ってます。
 そして6条で……管轄は国務院(日本の内閣)と軍事委?軍組織が直接所管してない?
 この辺で,どうも怪しい動きだと気付いてきます。
 日本の右翼的な見方だと,「つまり中国は今も戦争しようとしてる!」ということになりがちですけど,これは,戦時気分を維持しつつ,民間資本を導入して都市建設をしようという「運動」みたいなものみたいです。
 上海の「防空施設」も災害時緊急施設の色彩が強いようです。重慶の計画も地下空間開発が本音に見える。
 中国は「いつでも戦争できる」気分は維持しながら,クールにマネーを追いかけてるように見えます。
▲華僑送金の推移[前掲曽根]
※ 上記グラフのデータ出所)山岸猛(2005)『華僑送金:現代中国経済の分析』,103 ページのデータをもとに作成

発足直後の大陸中国にとっての華僑の経済力

 上記は,前掲曽根論文にある華僑→大陸の資金移動量の推移グラフです。
 実際には闇経済下で動くマネーも相当規模だったろうから,この数字を鵜呑みにはできません。ワシが中国に滞在した1980年段階,外汇を人民元に換える業者が街中に溢れてました。当時まだ少なかった外国人旅行者だけを顧客にしていたはずはなく,華僑マネーの裏経済ルートは根強く存在したと思います。
 でもこの表のマネーだけを追っても──

 1950~57年の中国の輸出入総額は192.9億米ドル,貿易赤字は13.8億米ドルを記録した。これらの数字に対し,同期間の華僑送金は11.7億米ドルに達している。(略)54~55年の華僑送金の見直しに伴う一連の新政策により,国内華僑に「いかなる時期にも増して大幅な自由と特権が与えられた」13)ことも頷ける。
[前掲曽根]※13)フィッツジェラルド(1974),93ページ。→邦訳:同(1974)「中国と華僑」,鹿島研究所出版会

 経済開放までボロボロだった中国経済の赤字部分を,かろうじて埋めるほどの規模で華僑送金はなされています。
 大陸中央は,大躍進以前,ないし金門砲戦以前から,華僑資金を優遇する方針は打ち出してます。

55年2月17日に国務院第5回会議で「華僑送金保護政策の貫徹に関する命令」※が承認され(略)以下の点を規定している。
※ 公布は1955年2月23日
①華僑送金は国内華僑の合法的な収入であり,華僑送金保護の政策は当面の政策に限らず,国家の長期政策である。
②国内華僑の各種合作社への資金面での参加や公債の購入などは,すべて完全な自発性の原則を貫徹しなければならず,いかなる個人・団体も国内華僑に資金の提供を強要したり,その権利を侵害してはならない。
③国内華僑は華僑送金の使用の自由を有しており,冠婚葬祭を含め,何人も使用目的に干渉してはならない。[前掲曽根]

 これらは,逆読みできます。
 ①は,華僑からの一般的見方が「どうせ一時的な保護姿勢で,すぐにひっくり返すんだろうからアテにならん」という不信があった,ということでしょう。
 ②「国内華僑の各種合作社への資金面での参加や公債の購入」が「国内華僑に資金の提供を強要」することが,おそらく国内左翼により横行していた。
 ③華僑の「冠婚葬祭」時の資金使用を,反動勢力が「牛鬼蛇神」を崇めてる,と攻撃する人々がいた。
 当時の(共産主義の指導層が扇動した)社会潮流からすると「正しい」そのような動きに逆らってでも,中国のクールな経済運営サイドは華僑マネーを得ようとしていたわけです。

④国家は,華僑および国内華僑による華僑送金の生産への投入,国家投資公司への出資,住宅の修繕・建設を奨励する。各級の地方行政機構はそれらに便宜を図るべきである。華僑が元来もつ故郷の公益事業(学校・病院の建設,水利・橋・道路の修繕・建設など)への熱情を地方行政機構は十分に汲み取り,指導・協力をすべきである。[前掲曽根]

 陳の姿が見え隠れします。
「故郷の公益事業への熱情」を持つ華僑からの裏ルートでのオファーがあり,これを受けるよう,中央経済サイドは全国に命じたわけです。
 けれど,先のグラフを見るとそれは即座には実行されなかったらしい。
 やや遅れて,先に触れた華僑博物館や学校設立を嚆矢とし,1960年代の前半,つまり文革までの短い期間にドッと資金規模が増えています。
 この時期に,新たな華僑優遇策が打ち出された形跡は,ない。社会運動や表の経済方針ではない,何らかの投資促進策により,大陸中国と華僑はwin-winの関係を築くことに成功したらしい。
 大躍進から文革へと突き進んでいた人民側はもうあてにせず,何かのクールな経済関係が動き初めてます。

大陸-人民-台湾-華僑の四点均衡(1950-60年代国際関係モデル)

 1960年代位までの厦門を巡るキーパソンを四者にとると,こういう関係図が描けるのだと思います。

     (大陸)   (海外)
(国家)  中国←敵対→台湾
管理・扇動|| 資金\ ||
(市民)  人民←敵対→華僑

 中国政府(主に経済運営サイド)は,台湾との軍事的敵対関係の中に疲弊しつつ,国内からの崩壊・蜂起を防ぐため,人民を,最初は粛清や洗脳も含めた徹底的管理で対応していった。その過激さのため,人民による自己浄化のスパイラルは止まらなくなっていく。大躍進も文革も他地方以上に過激でした。この過程は,「反動階級」の属性を持つ国内華僑では,むしろさらに過激でした。
 けれど中国初期の経済的脆弱さゆえに,中国統治側は,経済維持のために外資を得ることが絶対条件になっていた。広義には華僑と同質な台湾とは敵対しているから、台湾以外の華僑と繋がらなければならなかった。華僑の国内縁者を保護・特権化するのは,国民を管理するための思想からは矛盾するけれど,国家維持上は無矛盾でした。
 ちなみに人民レベルでは,やはり縁者は多かったし,台湾海峡はずっと「密航の海」であり続けた。粛清の対象者は無限にいたでしょう。だからここでは「人民」を,中国人と台湾人に分けて考える必要はありません。
 もう一つ,華僑と大陸政府が結び付くことで,華僑が大陸vs台湾の緩衝材になる効果が生まれた。中国にとっては,とりあえず機械兵力を台湾(・米国)に拮抗させうるまでの時間稼ぎが出来ればよい。台湾にとっても,大陸反攻を諦めた後は,自国の大多数と同じ出自の華僑を経由して大陸との連携路を保つのは有利に思えたでしょう。華僑にとってはもちろん,投資先が増え,かつ国内縁者の生活が改善できるなら願ってもない。

再考:なぜ70年代に防空壕が造られ初めたか?

 この4点均衡をベースに,とっても迂回しましたけど,本題の厦门鸿山人防隧道のことを再考します。
「現在も中国は帝国主義諸国との戦争中である」という思想基盤を身近な時空で植え付ける方法として,是非はともかく,人防教育は有効でしょう。またそれは,大躍進→文革と続いた国民運動の血脈を継いでいる。現実に空襲の恐怖に苛まれてきた厦門では,人防創立0年=1950年の完全に制空権を奪われていた段階では,ほとんどヒステリックな人防教育に結集していたのではないでしょうか。
 人民運動としての人防は,厦門ではノンストップのムーブメントになっているのでしょう。当然,70年代に計画を破棄する理由はないし,現在でも新計画が出来て不思議はない。
 それは,華僑や台湾から人とマネーが流入している現状と,無矛盾です。国家レベルの統治上は,思想教育による内部統制と外資獲得による経済強化は共に進めるべき政策ですし,人民の思想レベルでも,外資を得て国防が高度化していくのは受容できる。そして決定的なのは,両者が感情的に矛盾に感じられる背景だった経済格差も桁違いではなくなりました。
 なので,厦門の人防は今後も終わらないでしょう。彼らは,いわば村上龍「五分後の世界」(→wiki)の地下日本軍が地表に出て生活しているような人々なわけです。少なくとも,そういう強靭さを求め続けています。

補稿:危険なほどに民主的

 以上の状況解釈をしてみて,結構衝撃的だったのは,大陸政府と人民を項として分離しなければならなくなったことです。
 政府に扇動・洗脳された人民が,という図式を例えばアメリカの右派なら使いたがるでしょうけれど,事実は,そういう体で本音(この場合は「隣の成金」攻撃)を実現させてしまう,強か(したたか)な「民」主主義が実現されてます。あまりに強かだから,強力な共産主義手法で装甲内に封じ込めている,といった方が現実に近い。
 これが華僑となると,フィッツジェラルドが指摘しているように,愛郷心で資本送金するような弱い発想は実際にはなくて,氏族内での発言力強化と投資効果を計算してクールに資金を動かしてる。
 上記4点均衡図式で言えば,そういう危険なほど民主的な2項があるために,全体としてはリアルなバランスがとれている状況が造られている。そう理解しないと,政治的攻撃の際にはともかく,純粋なスケッチとしては誤ってしまう。

■小レポ:2人の南洋華僑

 1959年の華僑博物院の創設者として名をとどめる陳嘉庚(簡体字:陈嘉庚)は,福建語読みのタン・カーキーとして知られる。主にベースとしたのはマレーやシンガポール。
 この人のことを調べるうち,同時期のライバル・胡文虎の名も知りました。こちらの英語名アウ・ボーンハウもおそらく福建語。シンガポールと縁が深い。タイガーバームを売り出した人で,商品名のタイガー(虎)は,名前の三文字目と「胡」の同音文字からのようです。客家。
 閩南から英領マラヤに渡り一代で財を成した同時期の二人の華僑を,足して平均を取る感覚で追ってみて,彼らが何者だったのか推してみたいと思います。
※ wiki/陳嘉庚
华侨旗帜、民族光辉:爱国侨领陈嘉庚(百年侨领) – 中华全国归国华侨联合会 (2018年08月02日15:09 来源:人民网-人民日报海外版)
※ wiki/胡文虎

 なぜ足して割るかと言えば,前記レポや上記サイト2つ目の人民日報原典の記事でも分かる通り,陳が「愛国華僑」として持ち上げられているから。ということは,華僑一般は非国民・反共と見なされる風があるということで,陳だけをとって華僑を考えるのは危険に思えるからです。
▲左:陳嘉庚 右:胡文虎

① 経営者としての成功譚

~~~~~(m–)m 生年
[陳]1874年福建省泉州府同安県(現福建省廈門市集美区)生まれ。1891年にシンガポールへ移住。
1961年中国北京市で死亡
[胡]1882年ヤンゴン生まれ。父・胡子欽は19世紀末に中国・福建省汀州府永定県からヤンゴンに移住,薬屋「永安堂」を営業。胡文虎は幼少期に永定(厦門北西約60km)に帰った後,1909年以後にヤンゴンに再び渡った。
1954年アメリカ・ハワイ州ホノルル市で死亡
~~~~~(m–)m

 厳密には,陳も父親がシンガポールで米問屋をしていたとされる。シンガポールの陳姓宗親会のリーダーだったというから,相当の成功者です。胡も生誕時,既に父親が外地ビルマに経済基盤を有した。つまりいずれも二世以降の華僑です。
 生年は分からないけれど,彼らの親又は祖父の世代が阿片戦争期に当たる。典型的な南洋移住の時期です。
~~~~~(m–)m 教育
[陳]同安の私塾で学ぶが中途でシンガポールへ渡る。
[胡]ただし胡は幼少期に永定(厦門北西約60km)に帰って伝統教育を受けている。父親の死後,1909年から中国・日本・タイで漢方・西洋薬学を視察の上,ヤンゴンに帰る。
~~~~~(m–)m

 陳は知識人ではなかった。自伝にも「余は天資がごく普通で,9歳に私塾に入り,17 歳に恩師の夏氏が辞世のため,学業が中断され海外へいくことになった」と書いている。
 これに対して胡は,帰国して伝統教育を受けた,というからにはかなり教育水準は高かったと思われます。薬学を中国で学び,日本とタイでも視察したということは,研究者である上に語学力もあったでしょう。
※ 細沼藹芳「儒教の観点から見た近代華僑経営者陳嘉庚の経営哲学の特徴」2016 原文:陳嘉庚『南洋回億録』山西古籍出版社,1996年再販「余天資素鈍、九歳 入私塾、十七歳夏塾師謝世、輟学出洋」
~~~~~(m–)m 起業
[陳]1905年,山地500エーカーを購入,パイナップルを植樹。さらにパイナップル製造工場を建設。併せて,畑内にゴムの苗を試植,栽培のノウハウを得たものと思われる。
[胡]父業を継いでいた弟・文豹と「永安堂」を共同経営(1910年以後)。西洋医学の理論と東洋医学の治療方法の融合を期し,漢方・西洋双方の薬剤師等専門家を擁し新薬開発に取り組む。
~~~~~(m–)m

 陳の父親は1904年に「ビジネスに失敗」(前掲細沼論文)したため,一度厦門に戻って借金を返済した上で,新事業として農業に着手したと言われています。※ 張慧梅・劉宏「陳嘉庚精神及其現代意義」『華僑大学学報(哲学社会科学版)』2015年
 その状況で農地を購入して事業を開始できた経緯は,よく分からない。けれどかなりの苦労を重ねて,かつ新事業に挑戦していったようです。ゴム事業までの間に故地・集美名産の牡蠣の養殖にも手を着けているようで(前掲細沼論文),農漁工の三分野での多展開経営というのは通常は無茶な方針です。
 対する胡は,経済的には安定した状態で,けれど学究的に未知の分野に挑んでいます。
 なお,胡文虎が行った開発工程には色々な見方があり,父親の胡子欽が発明していたとか,大量生産できないものとしては「蜜蝋」が既にあったともされています。ただ,中薬の軟膏を西洋素材のワセリンのベースに作り変え,かつ大量生産ラインに乗せて「虎標萬金油」(Tiger Balm)として商品化したのは明らかに胡文虎らしい。
~~~~~(m–)m 成功
[陳]ゴムの価格高騰を見て,1909年,拡大移転した農地でゴム専業に転換。1916年にゴム製造工場,1921年にゴム製品工場も併設し,販路を東南アジア,中国,カナダにまで拡張。1926年にはゴム園面積16千エーカー,社員6千人,支店数80,「ゴム王」と別称されるに至る。
[胡]タイガーバームの好評により規模拡大。1920年,ヤンゴンの華僑長者番付トップ。1926年,シンガポールに本店を移転し,ヤンゴンの10倍規模の新工場開設。中国(1934年汕頭分工場開設),香港,インドネシア,タイ(1937年頃)に工場・店舗を進出させる。
~~~~~(m–)m

 世界大戦間の時代に,ともに最盛期を迎えています。
 胡には軟膏「万金油」や「八卦丹」など他の開発商品もある。ともに,最初から一点張りして拘泥するような天才的な先見性というより,幾つか目を張っておいて,その中から最も有利なものへ一気に集中投資していく,柔軟な経営姿勢が当たっている格好です。
 この姿勢,つまり手当たり次第に一口は食べるようなスタンスは陳に顕著で,第一次大戦の始まった1914年に海運業にも着手,けれど1918年には素早く撤退しています。
 この点,胡は,同じく出版業や銀行業に精力的に多角化しますけど,第一次大戦時のゴム・錫・米等の価格高騰には「独占的な事業を展開する弊害や過剰生産に陥るリスクを理由に」参画を見送ったと言われます(前掲wiki 原典:根岸佶 (1942). 華僑襍記. 朝日新選書. 3. 朝日新聞社)が,これはこの後の陳の経営的没落を見ての後付けの批判の臭いもします。
~~~~~(m–)m 挫折
[陳]1926年頃から欧州人経営のゴム園が増加した上,1929年からの世界恐慌でゴム価格が暴落。さらに1928年・1930 年とゴム工場が連続して火災に遭い,1934年,ついに陳嘉庚公司は破産。当時既に経営していた教育事業の経費に充てるため,陳は自所有のビル3件を売却。 (一部前掲細沼論文の内容を追記)
[胡]「戦前、胡は密貿易の罪で英領ビルマを国外追放になり、その後はシンガポール、香港に在留した。」※ 前掲wiki/原典:市川健二郎「陳嘉庚‐ある華僑の心の故郷」『東南アジア‐歴史と文化』第13号、1984年
~~~~~(m–)m

 世界恐慌で陳は経営体としては破綻。ゴム経営への一極投資が仇になった,と評する声もあるようですけど,この後の派手な動向を見ても,それまでの形成資産だけでなく,教育など残存事業部分も一定規模はあったのでしょう。
 胡は,本拠地から追放されています。この点は詳細が書かれたものがない。
 陳の工場火災や,胡の密貿易嫌疑は,何か裏での暗闘の結果,という臭いもしますけど,その点には立ち入らず,財を成した後の両者の動きに目を転じていきます。

② パトロンとしての活動

 華僑の規模は約6千万人,資産は約1兆米ドル
(華僑の総資産、世界で100兆円以上:日経ビジネス電子版 中国国務院 2009年同研究委託研究者 庄国土 厦門大学特別教授の証言)。これが2009年段階の公式数字で,2017年段階で2兆5千億米ドルとする推計もある(『アセアンにおける華人・華人企業経営① -アセアンにおける華人・華人企業のプレゼンス、華人社会の形成と特徴点-』ニッセイ基礎研究所,2017)
 wikiの世界長者番付の記述には「米国は引き続き世界で最も億万長者が多く、609の記録を残しましたが、中国は324に減少しました」とある。
※ wiki/世界長者番付
 華僑経済規模は1~3百兆円,世界の個人資産の3~4分の1であると粗く捉えると,そこからのマネーの還流を当てにしたがる打算も頷けます。
~~~~~(m–)m メディア活動
[陳]1923年,日刊新聞「南洋商報」創刊
[胡]1912年,ヤンゴンで華僑合資による「仰光日報」創刊。1929年,シンガポールで「星洲日報」創刊,董事長就任。1931年,汕頭で「星華日報」創刊。1935(民国24)年,廈門で「星光日報」創刊。1938年,香港にて「星島日報」創刊。1950年,タイで「星暹日報」創刊。
~~~~~(m–)m

 陳のメディア活動はそれほど顕著でない。胡への対抗上,最小限,という措置かもしれません。
 胡の方は,各国に「星」名の新聞メディアを次々に立ち上げていってます。連携度までは分かりませんけど,おそらくニュースソースは共有していて,そうならば現在なら「××版」という実質かもしれません。
 医学・薬学が本領の胡が,なぜこれほどメディア事業に没入しているのか,その点は不明です。後述のように控え目だった旧態の政治活動に代えて,第四権力として特化しようとしたのなら,構想力としてもずば抜けてます。あるいはアメリカンな世論感覚です。
~~~~~(m–)m 教育活動
[陳]
(シンガポール)1906年以降,在留福建人の小・中学校(創設道南学校など)や師範学校を創設。1917年,南洋華僑中学を開設(共同出資:林義順)。1919年,謙愛樹膠公会(教育財団)創設。
(厦門)1912年,福建省泉州府同安県集美に小学校(集美学校)を設立。1919年,同安教育会(教育財団)設立。
1923年,廈門市郊外演武亭跡地に廈門大学創設
[胡]1929年,私立大夏大学と国立中山大学にそれぞれ資金提供。1936年,私立福建学院と廈門大学に資金提供。
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 新聞業とは逆に,胡が純然たるパトロンの立場で寄付金を出してる教育分野に,陳は没入してます。前掲レポの厦門大学はその最たるもの。
 これは後掲の儒商の典型的行動パターンとも言えます。徽商を初めとして,社会投資活動といえば子弟教育,と捉えるなら「古い」感覚とも言えます。
~~~~~(m–)m 福祉医療
[陳](1919年,シンガポールで謙愛樹膠公会という同族組織の財団を創設,社会福祉・教育進行の寄付を推進)
[胡]1930(民国19)年秋に南京入り,南京中央医院に資金提供
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「××病院を造った」といった事績は見当たりませんけど,胡には次のような記載はある。
「1930年代から永安堂の稼得利益の4分の1を慈善・公共事業に寄付することを決め、その後寄付金の割合は徐々に増えて6割程度に達した」。
 また1950年のタイ進出後,「自身の出発点であった医薬事業も継続しており、さらに教育・体育事業や医院・孤児院等への資金提供も大規模に行っている」。
 はっきりとはしないけれど,陳が情熱を傾けた教育投資と同じほど,胡は医療面に投資してる形跡があります。
 今日のように病院事業で莫大な利益,という時代ではありません。
 利益の半額以上を寄付に充てる,という彼らのインセンティブは,これはどういうところからなのでしょう。これらの事実が公開されていることからして,やはり儒商のラベルというのはそれほど漢族の価値観では名誉なものなのでしょうか。

③ 政治的存在としての活動

 さて以上のような能力と財力を備えた両者が,政治的にはどのような影響力を行使したか。
 以下を総括的に見ると, 20世紀初め頃,華僑は従来の幇から社会・政治的な圧力団体に統合して行っているようです。豊富な資金力を有したことに加え,大陸本土で清が滅び,漢民族政権が復権する動きに連動しているらしい。つまり,構成員の経済的相互扶助を目的とした従来の血族単位のネットワークを,国際的なパワーを発揮できる居住国単位のものに拡大してる。
~~~~~(m–)m 華僑団体
[陳]1910年,孫文の中国革命同盟会星洲支部に参加。1911年(辛亥革命時),シンガポール天福宮(現・福建会館)役員。同年11月創設の福建保安会の主席に就任。福建革命軍政府への募金運動を推進。1923年,シンガポールで福建人会「怡和軒クラブ」(会員100余)結成,以後1941年までの大半,同クラブ会長。1929年,シンガポール福建会館(会員1000余)主席
[胡]1937年,南洋客属総会(客家系)主席。
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 華僑が大陸の支配的勢力を必ず支持していたのかといえば,そうではないらしい。
「1913年夏頃,反袁運動に敗れた孫文が日本へ亡命し,英国政府の政治活動取締りが厳格化すると,華僑社会における孫文支持熱は急速に低下」した(前掲wiki/陳)とあるから,逆に言えば,孫文の活動初期には,漢民族国家再興を応援する機運が華僑に共有されていたのでしょうか。
 ともかく,華僑の支持対象は,以後多角化し初めます。
 この構図の中で,胡が客家勢力を代表し,陳が代表する他の華僑勢力と対立する図式も形成されていったらしい。
 なお,ここで華僑の内部グループとしての客家が登場しましたけど,華僑内での客家のシェアは1/3程度と見ておきます。(wiki/客家)。
~~~~~(m–)m 中華民国への関与
[陳]1929年,国民政府が陳を中央僑務委員会の名誉顧問に任命。1935年,勲二等叙勲(学校教育振興の功労を表彰)。1936年,国民政府「南洋華僑による軍用機製造費の献納」要求に対し「蔣介石の生誕祝賀募金」名目で要求総額を寄付。1937年,(胡とともに)国民参政会委員。
 1941年,陳を主席とするNCRGA(後掲)第2回大会での福建省内の汚職告発,福建省長・陳儀の解任決議の採択により,国民政府との対立を深める。
[胡]1932(民国21)年,国民政府の国難会議会員。同年4月,行政院僑務委員会委員。1937年,(陳とともに)国民参政会委員。
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 両者とも中華民国に協力しています。
 胡は,1941年に陳が中華民国との対立を深めると,陳のNCRGA主席退任を画策するなど陳と対立したと言われています(※wiki/陳・胡)。陳vs胡のライバル関係が吹聴される由縁です。
 前記パトロン活動上も,確かに日中戦争以前から相互に競争意識を持っていたような気配はあります。ただ,直接的にぶつかった事実はこのステージだけしか見つかりません。
「僑務」という行政用語があるのも驚きです。今の日本だって北米局は一応外務省の内部組織。建国の過程でどの程度の連携があったのか不明ですけど,華僑連携が一つの行政分野になってるわけです。
 蒋介石から陳に「軍用機製造費の献納」が「要求」された,という話も凄い。露骨なお財布扱いに対し,「ヒコーキ代じゃなくお誕生日のお祝いだよ」と同額を渡す。シニカルな対応です。
~~~~~(m–)m 対日本姿勢
[陳]1938年8月,シンガポール華僑籌賑祖国難民大会(SCCRGA)組織。さらに国民政府勧告を受け同年10月,南洋華僑籌賑祖国難民総会(NCRGA,南僑総会)主席。
 太平洋戦争開戦の1941年12月末,英トーマス総督との協議を経てシンガポール華僑抗敵動員総会を結成,主席に就任,華僑抗日義勇軍を組織。1942年2月のシンガポール陥落後は脱出先の東部ジャワで終戦まで潜伏。
[胡]1941(民国30)年12月,香港を占領して日本軍に拘束,支那派遣軍の和平工作に携わることで抗日分子としての処分を免れる。
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 太平洋戦争時に進軍してきた日本軍に対する対応では,両者の明暗が分かれます。
 日本軍は最初から華僑を敵視してる。純粋無垢だったのか,手を結ぶ冷静な発想はなかったのでしょうか?5千人が殺害されたともされるシンガポール華僑粛清事件(→wiki,中国語の隠語は「検証」)がその嚆矢で,監督した辻政信は「シンガポールの人口を半分にするつもりで」と号令したともいう。
 日本軍政は陳を「南洋華僑社会の黒幕」とみなしたという。「陳嘉庚の支持者」というだけで処刑対象者になったそうです。──この点も,戦後の共産中国政府の好感に繋がってるのでしょう。
 しかしこんな大物にして大金持ちが一転して4年間ジャワで潜伏する。軍政側の辻政信も敗戦後,5年間潜伏するんだけども,大した気骨です。
 胡の方は,協力者として香港に留まる。傘下メディア「星島日報」も一時発行停止された後,「香島日報」と看板だけ書き換えて刊行を継続してます。
 日本軍政の対漢民族統制の苛烈さにこれほど地域差があるのも,理解できないところですけど──とにかく明瞭な粛清の行われたシンガポールでは,戦前は尊敬の対象だった林文慶(→wiki)のように,戦後一転して「漢奸」と呼ばれた華僑もいる。胡はたまたま戦時に香港を拠点にしていたことが幸いした,ということかもしれませんけど──華僑はそれぞれの知性で荒波をすり抜けて行ってます。
~~~~~(m–)m 中華人民共和国への関与
[陳]1949年(中華人民共和国成立)後,中国・福建省に戻る。(再掲:1959年 陳嘉庚を発起人として華僑博物院開館)
[胡]-
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 陳は戦後,大陸に帰ります。ただ,中国共産党には入党せず,華僑事務の中枢とも距離を置いて,大半の期間を廈門で過ごしたという。厦門では,「地域の開発事業や集美大学など地域の教育・福利施設の運営に携わった」。
「愛国老人」の名で陳が賞賛され始めるのは,死語20年を経た1980年代になってかららしい。「祖国を熱愛する崇高な精神の持ち主」「偉大な愛国者、著名な大実業家、熱心な教育事業家」(前掲wiki)のラベリングは,僑務の復権とそれによる華僑の投資促進が公式化する中でなされてるので,最初に触れたように,陳について現在伝えられる美談の多くにはバイアスがかかっていると疑った方がいい。
 ただ,先に触れたように,逆に海外からの投資による大陸経済の活性化,という現在見られるスパイラルの原型を,陳が造っていった,という可能性はあります。
 これに対して,胡のその後の経歴には,共産政府との関係はほぼ語られたものがない。──長男の胡蛟は日本人の妻を迎え,日本の証券会社と連携しての金融業進出を果たしているので,完全に資本主義サイドで動いていたと見ていいのでしょう。
 ただし,この胡蛟は,メディア業界の活動で1971年に逮捕されている。「1964年に香港の共産主義情報機関から資金援助を受け、”EASTERN SUM”を発行した」(前掲wiki)容疑だというけれど,返還直前の時代を考えると,彼らは彼らで水面下の繋がりを持っていたかもしれません。

(基礎資料集)華僑人口分布

▲世界のエリア別 華人人口と変化
※ 張長平「華人の世界分布と地域分析」国際地域学研究第12号,2009 /国務院僑弁僑務幹部学校(2005):『華僑華人概述』九州出版社(下記も同じ)

▲世界地図上で見る国別華人人口の分布

▲東南アジアの華僑人口分布
 なお,この数字には性格上確定値がなく,前掲張2009は中国国務院データに基づき「インドネシア(1,000万人)、タイ(800万人)、マレーシア(568万人)、シンガポール(268万人)、ミャンマー(247万人)、フィリピン(120万人)、ベトナム(120万人)、カンボジア(30万人)、ブルネイ(5.3万人)、ラオス(3万人)、東南アジア10カ国の華人の人口は3161.3万人を有し、全世界の華人の
79.54%」としている。

■小レポ:「儒商」概念

 陳嘉庚の尊称に冠されることのある語に「儒商」という二字があるらしい。

 中国近代史に名を残している実業の経営者は少なくない。清代末期の実業家であり、教育家で もあった黄炎培(コウエンバイ)、中国近代化の先駆者と呼ばれる張謇(チョウケン)、“ 中国化学工業の父 ” と呼ばれる範旭東(ハンヒトウ)、そして華僑実業家の陳嘉庚(チンカコウ)などがいる。彼らは特に儒教 の教えを尊重してきたことから、「儒商」と呼ばれている。
※ 細沼藹芳「儒教の観点から見た近代華僑経営者陳嘉庚の経営哲学の特徴」SBI大学院大学紀要第4号,2016

 誰もが思い起こすようにマックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にえらく似た図式です。金が貯まると最後には名誉が欲しくなる,と言ってしまえばそれまでかもしれませんけど,「善行」が名誉になるのは社会にそういう倫理もしくは価値尺度があるこらです。
 逆に言えば,漢民族の観念にも商売を「悪行」と捉えるものがあり,その既成の価値観を反転させる新しい価値観が求められた,ということでしょうか。
 中国社会側の価値観としての「儒商」概念を,細沼論文で挙げられる3つの先行研究により,以下,少し追ってみます。

文化を破壊しないビジネス

「儒商」概念について、以下の先行研究がある。
① 潘亜暾(1995)8 では、「商人でもあり、文人でもある。商を以って文を発展させ、商と文を共に繁栄する」と定義した。
8 潘亜暾「世界華人儒商及び儒商文化」『学術研究』1995 年第3期、p.113。原文:「亦商亦文、以商養文、商文并茂」。

 一読すると何かはぐらかされたような議論ですけれど,3説の順序と意味を逆に読むとイメージしやすい。
社会レベル:ビジネスと文化が破壊し合わない。
法人レベル:ビジネスを追及することで文化を破壊しない。
個人レベル:(そのためには)ビジネスマンだけど文化人でない,あるいは文化人だけどビジネスマンでない,というのではダメ。
 こう書くと,どんな社会・法人・個人がダメだと言いたいのか,イメージが絞れてきます。要するに──アメリカです。
 儒商概念が文革後の経済発展期に流行してきた,その感覚が分かります。「準資本主義化するけど,貴方の後は追わないよ」
 また,華僑を意識してるのも推認できます。「手広く商売するけど(これまで通り)貴方の文化は破壊しないよ」

儒是思想 商是行動

 ①では「文化的でもある商人」という二面性に留まっていたものが,②では構造化していきます。

② 李少玉(2010)9 では、「儒商とは儒と商の結合である。また、儒とは文化人、知識人という意味だけではなく、儒教の思想に基づいて、儒教の倫理道徳を道徳規範としているような価値観を持つ商人のことである。儒は思想であり、商は行動である。」と定義した。
9 李少玉「徽商視角下的儒商」『武漢商業服務学院学報』第24巻第5期、2010年10月、p.18 原文:所謂儒商、簡単解析就是「儒和商的結合」。這里的“儒”不能簡単的理解為読書人或有知識人、而更応該上昇到儒家倫理思想層面、是指以儒家思想為主導思想、以儒家倫理道徳規範為其核心的道徳観和価値観的商人。儒是思想、商是行動。

 ただ,構造化と言っても要するに「和魂洋才」に近い。「儒」は(内面的)思想であり,「商」は(外面的)行動だから矛盾無しに同時に具有できます,という理屈です。
 ウェーバーの議論は,プロテスタントの宗旨そのものが,資本主義の精神になったとするもので,両者は無矛盾の域を超えて融合してます。
 それと同レベルの議論が③です。

③ 何軒(2010)10 では、「儒商は実際に商業活動において、儒家価値観を遂行している企業家と商人のことである。彼らは儒家の伝統的な経済倫理思想を継承し、「義」と「利」 を均衡させるため努力している。「義」と「利」の均衡を実践するため勇気と信念が必 須なものである。
 すなわち、「儒商」は儒教的な道徳観念や素養を持つ商人のことであり、儒教の倫理規範を行動指針として商売を行い、「義」と「利」の均衡を実現しようとする企業家や商人のことと理解することができる。
10 何軒「儒家伝統経済倫理思想的現代検験―関与中庸理性与儒商精神的探索性実証研究」『上海財経大学学報』第12巻第3期、2010年6月、p.11。原文:儒商、是在実際商業活動中践行 儒家価値観的企業家与商人、他們秉承儒家伝統経済倫理思想、努力実践着義和利的均衡、這一道徳与利益的較量無疑需要勇気和信念。

 儒家が伝統的に「経済倫理思想」を有していた,という前提に立ってるところが肝です。よく使われる理屈は子貢を初め複数の孔子の弟子が商人だった,というものです。──ウェーバー並みに思想のこの部分が利益追求を是認した,という理論には至ってませんけど,儒教がいわゆる現実主義に立っていることは確かですし,無茶苦茶な無理は感じない。
「努力実践着義和利的均衡、這一道徳与利益的較量無疑需要勇気和信念」義と利の均衡,道徳と利益の均衡を努めて実践するのは,疑いもなく勇気と信念を要す。──という記述は,義vs利の対立を指すようにも読めますけど,道徳と利益を共に追求することは可能で,両者を実践するのが究極の商人である,とも読めます。
 では,そのような商人像がいつ現実に存在したのかというと──

儒商を初めて体現した集団

……徽商らしい。芜湖の南山中から一時は中国全土に広がったあの人々です。というか,儒商という語で徽商を意味することもあるそうな。
※ /※5483’※/Range(蕪湖).Activate Category:上海謀略編 Phaze:蕪湖大潤発/■レポ:ニッコリ笑って人を斬る 徽商

徽州は宋朝の著名儒学者である朱熹の祖先の出身地と言われているため、徽州では、儒家が重んじられ、一族で学業を支援する習慣があるといわれている。また、中国の「賈而好儒(賈にして儒を好む)」という諺は安徽商人を描写するものと思われるので、安徽商人は「儒商」という呼び方もある。

 もう一点触れるなら,儒でもって自らを律するのを徽商モデルとするなら,その行動様式の大きな部分が教育新興にある,という点です。
 陳嘉庚のパトロン活動の偏向もこの辺りと通じ合ってます。