010-5榎観音→風頭\長崎withCOVID\長崎県

~~~~~(m–)m榎観音
→風頭
ルート編
~~~~~(m–)m
うーん。
何でこんな
ルートを
思いついた
んでしょ?
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

まだ3百m先のはず

ューよこはま(→GM.:油屋町5)を過ぐ。0856。
 位置確認。榎観音の登り口はこの油屋町からまだ3百m以上先のはず。
 0859,鳴川橋。左折,小島川に沿う。ホテルニューけごん。
▲0904小島川を行く

平橋を右に見る。まだ先です。0904,ad高平町5。
 0906,ad高平町5と6の間に階段。迷うが,これはスルー。
 0908,ad6-7の間に階段。これのはずです。登る。
▲0909高平町6-7の間の階段

覗きこんでみた榎観音

910,上の車道をまたぎad8-9間階段をさらに登る。
 すぐに三叉路。左手に高平町上自治会掲示板。右手に地蔵と石燈籠。雰囲気からも右と踏む。登る。
▲0913高平町14下辺りの坂道

平町14,0914。
 榎観音堂到着。長崎四国八十八ケ所霊場とある。
 この正面はピントコ坂,そこから登る道があるから……山頂のは南高校か?向こうからははっきり見えるはずです(巻末参照)。
▲0921榎観音堂の中の神像

の途中の小さな建築です。戸は閉まってる。
 脇の祠に6柱。うち1柱は女性に見える──けれど?どうも観音と明認できるようなものはありません。
 ad高平町15,この三叉路を左だと思う。登る。0923。
 電柱のある三叉路。これは右か?0926。違う……これは私道です。等高線ラインはどうだろう……ダメだ。観音まで戻ろう。
Walking qi-yue

長崎を見降ろすといふ大発明

928,観音三叉路から右に進む。
 0932,車道。この対面の階段をさらに進むのか?
 0936,マスクを外す。ad16。
 0937,平面路から左に階段。こっちだろう。登る……けれども,これも私道。戻って平面路をさらに先へ。
 上に長崎医療技術専門学校が見えてます。とにかくあそこまで行けばいいんだけど……。
 0945,三叉路。ad15と16。予定の右折点より先だけど……ここしか道がない。右へ登る。
▲0947振り返って長崎市街

上に見えたゴッツい建物は,ヤタロウでした。──というか下記を見ると,風頭の高地部の基本インフラはヤタロウが造ってます。
 登る。

昔、ヨマ(ひもの事)にビードロを付けたハタ同士を戦うせる「ケンカ凧」という遊びがありました。 その落下してきたハタを回収した場所が風頭山だったのです。 眼下に望む長崎の街を見て楽しむ事に気がついた村木覚一は、風頭が観光の名所になると着目し、市会議員を辞めたのちに、

マッカーサーjr夫妻と船会社チェス社長夫妻(昭和32年9月25日)〔後掲矢太樓〕
昭和26年風頭山中の八太郎岳に旅館を築く為に、自分たちで山を切り開く工事に着手しました。その後バス(木炭車バス)が通る道をつくり水道を引き、昭和29年9月28日木造の3階建て客室7室、広間1室の旅館矢太樓が完成したのです。〔後掲矢太樓〕

ヤタロウ直下の好い小径

▲0948ヤタロウ下の階段。あまりの急坂に指が入ってしまった。
▲0952これは──急坂脇の野道のお宅。なぜ撮ったのか分からんけど……。

崎は坂の町である。
 であるけれども,これは,何か凄いぞ?0952,最後は野道になった末に出たヤタロウ直下の等高線ラインのアスファルト道。ここまで上がってこの暗がりは……何かが憑いてそうな,好い道です。
──ヤタロウ側が昔整備した,夜景見下ろしスポット,でしょうか?
 0957。ad愛宕一丁目29。坂のはるか下に電車道らしき車道が見える。
▲0958愛宕一丁目29……の看板がなければ,ちょっと恐れをなすような荒れた道。

▲0959樹魂りんりん,湾曲する小径

風頭山発からスプレー臭むんむん

突に──一人のおばさんとすれ違う。何?何してる?(ワシもか?)怖いじゃないか?(それもワシか?)
 0959──お?どこだ?校庭?
 長崎玉成高校に出たらしい。振り返ると女神大橋の絶景。ただし曇天。
▲1002遥かに見下ろす女神大橋

004。特養緑風裏に出ました。仮の目的地に据えてたデイリーストアも見えてきました。人間界に戻ってきました。
 1019,風頭山からバスに乗る。虫除けスプレーが香水のように香ってる。
 おお?このバスルートは……東方左手へ進むの?愛宕山を反時計回りに行くのか?
 1027,愛宕町下車。それなら万月堂に寄って,今宵のお菓子を求めましょう。

風頭山の凧揚げ〔後掲長崎大学〕

 長崎名物 はた揚げ 盆祭り
 秋はお諏訪のシャギリで
 氏子が ぶうらぶら
 ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅ

 はた揚げするなら 金比羅 風頭
 帰りは一杯機嫌で
 ひょうたん ぶうらぶら
 ぶらりぶらりというたもんだいちゅ

 幕末から明治にかけて流行した長崎民謡「ぶらぶら節」の一節。
 ハタ揚げは春季の風物詩で,歌のとおり金比羅山・風頭山・準提観音,近年は唐八景で大会がおこなわれている。ハタ揚げの季節は三月,四月であるが,気の早い長崎人は年が明けるとさっそく楽しんだ。ガラスの粉をご飯で練り込んだ「ビードロよま(絢麻)」を使って喧嘩をする。糸を斬り合い,戦うのである。熱が入って喧嘩,乱闘に及ぶこともあった。ビューン,ピューンとうなりをあげるバラモンダコもまじり,大空はにぎやかになる。
 この写真は風頭山でのハタ揚げである。山の名のとおり,男風頭は風の通り道である。頭頂に七,八名の男たち,丘の下にも数名,ハタの調整をしているらしい。空に揚がっているハタは写っていないが,ハタをもっている人がおり,手前に数枚のハタを入れた箱がある。
 ふつうは「凧(たこ)揚げ」「烏賊織(いかのぼり)」などというが,長崎では「ハ夕揚げ」という。これはオランダ国旗(三色タンゴ縞)やイギリス国旗などの万国旗,あるいは信号旗,紋章,商標などさまざまの旗を図案化した凧が多かったので,こう言うようになったらしい。アゴバタ・奴バタ・蝶バタ・蝙蝠バタ・百足バタなど,中国系,南洋系などさまざまな種類があった。寛文年間の西山宗因の句に「見わたせば長崎のぼりいかのぼり」などがある。〔後掲長崎大学,上記写真キャプション〕

■レポ:榎観音〜風頭山の面

 風頭は「かざがしら」と読みます。二峰を持ち,下記によると北が女風頭,南が男風頭らしい。

江戸時代、天領長崎の町は男風頭・女風頭の麓の寺社に囲まれていた。男風頭麓地域が寺町一帯である。女風頭麓の方は諏訪神社から本蓮寺方向となる。〔後掲内田〕

 上記にある長崎ハタ──喧嘩タコの話に出てくる男風頭は,主には寺町直上を指すと思われます。南の小島川側は,本文中前掲のとおり戦後のヤタロウ建設時に開発された,最も新しく風頭と認知されるようになったエリアです。
 にも関わらず,ここに榎観音という古社がある。この点を,本文中に感想を記したように,風景だけを頼りに一考してみます。

ピントコ坂から榎観音

 南高校前の地蔵別れから下るピントコ坂は,平松地蔵尊や傾城塚の辺りでやや傾斜を鈍らせた後,北北西へ一気に下っていきます。この急傾斜の最上部付近の墓地内の道が狭義の(観光客的な)ピントコ坂ですけど,次の地図ではこの地点に赤星をつけてみました。

南が丘(長崎南高校)〜ピントコ坂と同坂トップ→榎観音の視野
※凡例 赤星:ピントコ坂最上部 青星:榎観音

 茂木から歩きで長崎に入る江戸期の旅行者を想定しましょう。彼が南が丘を越えて長崎に下る時,視界が大きく開けるのが赤星地点です。
 つまり,「長崎が見えた」という感慨を覚える地点で,具体的には小島川の向こう,現・ヤタロウ下の榎観音が見える格好になります。また長崎を去って茂木から船出する際は,榎観音に別れを告げると長崎が見えなくなります。

茂木街道時代にあったものは?

 ではピントコ坂からここに何が見えたのでしょう?
 榎観音の本尊は「明治維新の後に廃寺となった願成寺の観音像」だとする記述があります〔後掲観光客が行かない長崎〕。出典が分からないけれど,伝承でしょうか?
 ここで言う願成寺とは要するに現・愛宕神社です。

愛宕神社は、寛永20年(1643)創建の神仏混淆の寺院・愛宕山大光院願成寺だったが、明治元年(1868)に愛宕神社と改称された。(略)山頂の上宮(奥の院)と、山麓にある玉木幼稚園上の拝殿からなる。〔後掲ナガジン/長崎近郊の山・豊前坊~愛宕山〕

疑わないとすれば,「維新の後」=明治元年に仏教寺院色を失ったというは廃仏毀釈運動のことと推測してよい。奥の院(山頂)と拝殿のどちらかは不明ですけど,愛宕山を見て拝むなら奥の院にあったかもしれない。他方,拝殿ならすぐ近くのはずです。

※「玉木幼稚園」という場所がどうしても分からないけれど,「玉木体育館」(→GM.)という場所は榎観音すぐ北西だから,廃園になって体育館だけが残ったのでしょうか。GM.上にある愛宕神社(GM.)なら真東へ150m弱。

 もう一つ考えられるのは,観音堂入口にある石灯籠が元の機能だったという仮説です。暗いピントコ坂を下る旅人は,この灯を見たかもしれません。

榎観音下の石灯籠と地蔵〔後掲ナガジン/長崎近郊の山・豊前坊~愛宕山〕

 茂木からの船路と,媽祖に通ずる観音の連想は,当時の茂木発着旅行者の視線から考えると,意外に整合のとれたものではなかったでしょうか?──という地図遊びでした。

野道ばかりのヤタロウの麓

 もう一つ,ピントコ坂から見下されるヤタロウの麓──男・女風頭麓と違って呼び名がないからこう仮称しますけど──を拡大してみます。なかなか異様です。

榎観音から東側拡大

 階段坂の密度が凄い。長崎でもこれほどのエリアはないように思います。──寺町の男風頭麓や駅前・西坂町からの立山麓,西山本町の金毘羅山麓がやや似てますけど,ここまでの密度と傾斜ではありません。
 坂道マニアな興奮に終わらずに言うなら──これは何を意味するのでしょう?前述のようにヤタロウ側の風頭町は新興のはずで,この麓だけが古い地域だった,というのは信じがたいのですけど──あるいはそれを可能にするような,ワシの知らない何かがこのエリアにあるのでしょうか?
風頭公園の絶景(長崎市:風頭山付近のドローン「長崎ばーどアイ」からの撮影)〔後掲TBS〕

■レポ:カイポチェの空を争ふ風頭

 風頭山の台部,現・風頭町付近が街地として新しい,要するに江戸期はもちろん戦前まで家屋が閑散としていたのは,少なくとも明治以後には,軍事の理由によるものという言説があります。

戦争時は山の上から造船所を全望出来た為、戦争時には山の上に建物を建てられませんでした。 戦後、先代社長村木覚一が終戦後初の選挙で市会議員となった際に、その時の市長の諸政演説の中で「戦争に負けた長崎は水産も三菱造船もなくなるので長崎は観光都市以外には栄える術はない」 と言う話を聞いた村木覚一は直ちに議員を辞めたのちに、長崎の観光はどうすべきかと考えました。 その時目に入ってきたのが、当時ハタ挙げの名所としか知られていなかった風頭山。〔後掲矢太樓〕

 かくいう村木覚一の危機認識がヤタロウの整備へと繋がるわけですけど──ここではそれ以前,里山だった時代の風頭山の利用方法に切り口を転じます。

ヤタロウ玄関門中と和服の女(昭和30年)〔村木覚一「私しは長崎をこう思ふ」〕

桃中軒雲右衛門盃 長崎ハタ・
バトルロワイヤル

 1909年というから韓国併合前年,ハルビンで伊藤博文が暗殺された,暮色強まる時代です。桃中軒という人が長崎で凧揚げ大会を開催してます。

桃中軒凧揚会、桃中軒雲右衛門は昨日社中を引連れ午前十時より風頭山にて凧揚げを催せるが凝性(こりしょう)の同人とて凧は何れも二ツ巴(ふたつどもえ)の印を為し(続)

明治時代のハタ揚げの名手の印バタ。「意匠に凝りすぎた紋様は「素人紙鳶」として軽く見られ」たという。〔後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

(続)尚ほ社中を源氏〈白地に赤の二ツ巴〉平氏〈赤地に白の二ツ巴〉の二タ手に別ちて勝負を競はしめ勝者には浴衣地(ゆかたじ)屁古帯(へこおび)等の賞品を与へ……〔明治42年(1909)5月22日付東洋日の出新聞←後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

「浪聖」と称えされた稀代の浪曲師・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん/1873~1916,群馬県出身)が企画したのは,正確には「親」のハタ(長崎弁:長崎凧)の糸を誰が先に切るか,に懸賞金をつけたものだったらしい。

桃中軒雲右衛門〔原典:西日本新聞社 The Japanese book 『明治おもしろ博覧会』1916年以前←wiki/桃中軒雲右衛門 日本の明治時代前期~大正時代の浪曲師〕
 長崎ハタの特徴は単調で美しい凧本体とは別に,糸にもあるらしい。
 ビードロヨマ(又は単にビードロ)と呼ばれ,ガラス粉を糊で練ったものを糸に塗りつけた,必殺シリーズで登場しそうな「兇器」です。まさに糸切りに特化した,見た目以上に凶暴な民具です。
 このハタ,というかおそらくは凧そのものでなく糸の斬り合い遊びが,長崎人のハートをがっちり掴んだものらしい。
【1段目】(左上から)Hの字、奴、日一、山星、日の丸、三ツ奴、桝、山の字、
【2段目】丁の字、肩蒲鉾、井桁、結千鳥、二重奴、松川菱、波に千鳥、滝織縞、
【3段目】月に蝙蝠、イの字、浪、月の輪、二の字、蒲鉾、一の字、横小の字、
【4段目】竪二筋、銭崩し、竪棒、竪饅頭、横べっそ、でんがく、鍋かびりに尻奴、Hの字

ハタ用語に「ツブラカシ」という言葉がある。要は相手のハタと絡ませて糸を切り合うことをいうのだが、それが転じて、ハタ揚げに金を使いすぎて財産をつぶした人を“財産つぶし”という意味にも使われた。つまりハタ揚げは“いき”に徹する大人の遊びだったということ。〔後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

 単なる切合いだったのか,桃中軒がやったように賭博のタネになっていたのか,その辺りはよく分かりません。
 ただ「あたごの山から 風もらお いんま※ 風もどそ」〔後掲ナガジン/長崎近郊の山・豊前坊~愛宕山,※いんま:いずれ,後で〕という,明らかにハタ揚げのわらべ唄が残るという。

インドの凧揚げ祭りで「ガラスコーティングした鋭い糸」で喉を切り裂かれ子どもら6人が死亡〔後掲GIGAZINE〕 「インド警察が2023年1月16日に、グジャラート州で例年開催される凧(たこ)揚げ祭りのウッタラヤンで、ガラスの粉をまぶして鋭利にした糸を使った凧揚げにより子ども3人を含む6人が首を切られて死亡し、176人が切り傷などで負傷したと発表しました。」
6 killed, 176 injured in kite flying incidents during Uttarayan festival in Gujarat : The Tribune India
Three children among six dead in India kite festival tragedy | Evening Standard
Three children die after throats were slit by kite strings during festival in India | Stuff.co.nz

クジャラートKaiPoChe殺人事件

 このタコ糸切り遊び,長崎在地独特のものではありません。上記画像のようにインドやパキスタンでは「殺人事件」に発展しとります。長崎の由来伝承も海外説が濃厚で──
「長崎の凧(ハタ)は、出島のオランダ人の従者として来ていたインドネシア人たちが伝えた」,「長崎の凧の独特な模様は、オランダの国旗を連想させる白と青と赤が基本」〔後掲長崎県文化振興・世界遺産課〕。
 文化的伝承だから真偽は確定させ辛い。落ちた凧を拾った人が所有する風習などはチベットの喧嘩凧に通ずると唱える説〔後掲時間探偵〕まであり,発祥が追いにくいほどの広範な流行とだけ捉えるのが穏当です。

チベットの喧嘩凧〔後掲人民日報〕
※中国語には,単に凧を指す「风筝」の語しかなく,チベット語での呼称は不明。

凧は国字で「風にあがる巾(布きれ)」の意味。発祥地とされる中国から伝わったのは平安時代といわれ、当初は中国での表記そのままに紙の鳶(トビ)と書いて「紙鳶(シエン)、紙老鳶(シラウシ)」などと呼ばれた。狼煙(のろし)代わりや、敵陣に火を放つ道具にもなったという。その形状から江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ、ほかにタカやタツ、テングなどと地域によって呼ばれるようになった。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ。〔後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

 つまる所,この危険な風習には,一般名が特にないみたいです。日本国内ですら無い。そもそも「凧」という漢字自体が国字,即ち中国伝来ではない。その状況からは発祥地が文化発信力の小さい,つまり小規模な文化圏だった可能性を匂わせますけど──2013年映画「Kai Po Che」※の映画名は「切れたよ!」(グジャラーティー語),語感としては「奴のタコ糸をった切ったぜ!!」。この語感に因み,以下KaiPoCheと呼びます。

※2013年2月22日公開,アビシェーク・カプール監督作品。グジャラート暴動描写で著名。
長崎名勝図絵中の「出島はたあげの図」〔後掲時間探偵,ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

分類しようもないKaiPoChe

 だから長崎KaiPoCheは,江戸時代の取材者にも十分に物珍しいものだったらしく,上記のように記録されたものも多い。

寛政9年(1797)発行の『長崎歳時記』や文化文政期(1804~30)編纂の『長崎名勝図絵(めいしょうずえ)』には、蝶バタ、婆羅門(バラモン)、剣舞箏(ケムソウ)など形の凝った大陸(中国)系の凧数種と、南方系といわれる3種のハタ、アゴバタ、海老尻(えびじり)、蝙蝠(コウモリ)バタが紹介されている。〔後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

 この種類分けについては,詳細がよく分からない。ネット情報は多く,驚いたのは長崎の伝統的なハタ紋様130種を収めるサイトまであったけれど〔後掲長崎のハタ〕,定まった体系というか分類はあんまりないらしい。
 かと言って,同じく海外由来と目される平戸や壱岐の凧とは,素人目にも全く違うと分かります。平戸・壱岐のが中国風の大和絵のように見えるのに対し,長崎のは和風に咀嚼しようのないほど南アジア的なのです。

平戸の鬼洋蝶と壱岐のバラモン凧〔後掲日本列島・全国郷土玩具の旅〕

 オランダや福建に類似のものがあれば分かりやすいけれど,それはない。インドネシアだとすれば,船員としてマラッカの海賊くずれが雇用されていて……とも仮定しうるけれど、下記のように語源的には否定せざるを得ない。

インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い、同じようにガラス粉を塗りつけた糸で勝負をする風習があるという。しかし、インド・パキスタンでは今でも確かに「パタン/patang」と言うが、残念ながらインドネシア語では「ラヤンラヤン/layang-layang、ラヤンガン/layangan」となる。パタンは古い言葉か、あるいは多言語の国だけに地方の言葉だったのかもしれない。〔後掲ナガジン/長崎ハタ、七つの魅力〕

 だからチベット説など奇説も出る余地があるわけですけど,要するに,現代絵画的としか解しようのない何か異様なデザインなのです。図柄に忠実に語るなら,現代からタイムスリップした誰かが考案したとしか説明しようがありません。
 KaiPoCheは,その由来に関して,結論なんて到底出せないブッ飛んだ異物なのです。
 例えば,海民が海上で風を見たり遠方との信号として用いた,それが海域各地に広がった,というような夢想もできるのですけど──根拠に出来るような材料は全然ありません。

長崎ハタ資料館所蔵のハタ〔後掲長崎県文化振興・世界遺産課〕