「(首里)ソノヒヤフモリノ御イベ。神名 モジロキヨウニギリキヨウ
(伊是名)タノカミタケ御イベ。神名 ソノヒヤフ」
折口信夫「琉球王国の出自」『南島論叢』沖縄日報社,昭12
帰国編
![]() |
最終日。 豪勢な空振り 重き |
支出1300/収入1200
▼13.0[144]
/利益 100
[前日累計]
利益 127/負債 –
十二月三十一日(五)
1058軽食の店ルビー
牛肉ニンニク炒め550
1128 キロ弁
ビックカツ弁当750
[前日日計]
支出1300/収入1300
▼13.0[145]
/利益 0
[前日累計]
利益 127/負債 –
一月一日(六)
目録
末吉にチャレンジする気だけはあり
〇839、ゆいレール美栄橋駅……のホームに駆け上がったと同時に、てだこ浦西行きの列車、が今発車しました。
あーあ、遅くなりました。残り5時間。
末吉公園に正面側から再チャレンジしてみる……つもりでしたけど。
本日は晴天。ただ遠くの雲は黒色を湛えてる。
おもろまち。昨日朝の丘「鳥頭」を鳥瞰できるかと思ったけれど、ビルの影に隠れて視認できず。地形全体が波打ってるせいもあるけれど、そもそもこのおもろまちは都市的な景観になってきてるからでもあります。
古島。ここから市立病院前に至るカーブで両サイドに迫る、山塊の盛り上がる様はやはり圧巻です。市立病院前駅の北の森にも、はっきり亀甲墓が見えてます。あ!よく見てると末吉宮も確認できます。
儀保。ダメ元であやぐを先に確認しとこう……と目標を転じます。
首里。0903、下車。
あやぐ空振って犬吠えるし帰る
久しぶりに、ゆいレールから逆方向に降りてしまった。
──あやぐの本日から3日までの休みを確認。今回の訪問は断念せざるを得ません。ローソンでタバコを吸ってるとチェーンで繋がれた犬とともに残されたので……びんずるさまを拝し奉って帰る。
〇932、儀保に改めて下車。
赤平大通りの左・南側に降りて進みます。
儀保交差点を渡ったところに斜めの路地があるけれど、これは行き止まりに見える。先へ。
「宝口樋……」という掠れた矢印。
0940、左折南行。
石畳が川の手前の岸に続いてる。──これ,後で見ると真嘉比川でした。弁が岳からここを通って昨日の松川へ下り,牧志から海に出てるあの川です〔位置図←後掲Geoshapeリポジトリ〕。
憑武その他無名の琉球製紙始業者たち
「紙漉所跡」という案内板が、ここにありました。これは全く知らない産業史でした。
琉球における紙漉の技術は、大見武憑武(おおみだけひょうぶ)が1686年鹿児島へ赴き造紙法を修業。帰国後の1695年に首里金城村に宅地を賜り、杉原紙・百田紙を漉いたのに始まる(金武の紙漉所)。1717年祖慶清寄・比嘉乗昌(じょうしょう)らが芭蕉紙を初めて作り、翌年王府の援助を受け首里山河村に一宅を設けて紙漉所とした(山川の紙漉所)。(略)〔案内板〕
鹿児島の伝統産業として
「田布施木挽に阿多タンコ、日置カタメに吉利チンバ、伊作カンスッに永吉横ヅラ」という「ザレ言葉」(謡?成語?)が残るという。ここでの「カンスッ」は紙漉です。ただ薩摩の製紙は藩専売で、和紙製造地は伊作町と蒲生町に限られたというから〔後掲高向〕、大見武憑武なる始業者は「宗主国」薩摩しか選択肢がなかった。かつ、特に伊作和紙は日新公(島津忠良≒四兄弟祖父)創始説があり、それ自体は疑うのが通説にせよ、1686年に初めて技術移入が許された、即ち侵略者にして琉球経済のモノカルチャー化を基本とした島津は原則移入に消極的で、琉球側がそれを押し切って飛び切りの天才一人を薩摩に送りこみ半ば「盗んで」きた技術だと推測されます。
初期伝承者・大見武憑武と、採算ルートに乗せた祖慶清寄と比嘉乗昌、かつ以下の琉球処分後の継承者・明槓の四人の人名が上がるけれど、どれも他のヒットがありません。
宝口の紙漉所は、1840年首里儀保村の一角「宝口」に家屋を建て製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の制作を行わせたのに始まる。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。
紙漉は王府の役所「紙座」の管理のもと行われたが、1879年(明治12)の琉球処分の後も、この一帯では明槓の手で紙漉が続けられた。〔案内板〕

沖縄樹霊独言:琉球紙漉小史
琉球大学附属図書館の「きじむなー」の「どぅーちゅいむにぃ」(独り言)、題名からして多分有意の司書さんの属人発行と思しきPDFに次の文章がありました。長文ながら引用させていただきます。
琉球で作っていた紙の種類は、百田紙(ひゃくたし)、芭蕉紙などいくつもの種類がありました。百田紙(ひゃくたし、ムンダガミ)は、クワ科の楮(こうぞ)の樹皮でつくる和紙で、主に王府への文書用の公用紙として使用されました。1840年には首里儀保村宝口にある王府直轄の紙漉所でつくられるようになりました。
芭蕉紙の原料・糸芭蕉〔後掲琉球大学附属図書館〕
芭蕉紙は、1717年に琉球で開発された紙で、糸芭蕉の繊維から作ります。芭蕉紙の技術は一度は途絶えたのですが、1978年に勝公彦(かつただひこ)さんが復活させて現在に至ります。
紙で面白いものとしては、あの世のお金、紙錢(打紙)があります。あの世の人へ持たせるお金としてお盆の行事や葬送儀礼で燃やされるお金です。これは、首里の儀保で作っていました。
販売サイト掲載の紙銭(打紙:ウチカビ)
また、今は途絶えた紙として通草紙があります。植物のカミヤツデから作る低質の紙で、造花用などで使われていました。今ではその技術も失われてしまいました。
紙を作るには、良い水が必要です。琉球では、紙漉きの水を取る有名な井戸としては、金城樋川(かなぐすくひーじゃー)、山川樋川(やまがわひーじゃー)、宝口樋川(たからぐちひーじゃー)があります。 〔後掲琉球大学附属図書館〕
先の案内板記述にも「宝口では百田紙、山川では芭蕉紙」を製造とありました。宝口と並ぶ製紙工廠のあった山川とは、どうやらこの前日朝に立ち寄った松川の鳥頭北東麓に当たるようです。(巻末参照)
北の崖下に水の噴く場所に出ました。
末吉宮の森方向からの水、と感覚される地下水脈です。ただし祠はない。1000。
この水を七つの枡で受ける仕組みになってる。七人が同時に水仕事を出来る便宜でしょうか。
1005、宝口樋川(たからぐちふぃーじゃー)。
案内板あり。
(略)もとは入口にあった「宝樋」碑によると、1807年、この樋川を開いたのは当蔵村の平民たちで、その功績により位階を賜り、その後1842年に大修理を加えた赤田村の平民宮城は、士分に取り立てられました。
かつては、シブガーフィージャーと呼ばれ、昔から豊かな水に恵まれ、干ばつにもかれることのない重宝な樋川でした。〔案内板〕
「宝樋」碑本体は沖縄戦で失われたと隣の「『宝樋』碑復元について」にあります。──とのみ当時メモってます。二つ前の写真に小さく写る、現在の樋川に建つ碑文はレプリカな訳ですけど、現物は市教委保管。これは「1986(昭和61)年、樋川の前を流れる真嘉比川の工事に伴い40年ぶりに川床から発見され」たものという〔後掲那覇市教育委員会文化財課〕。
シビルシビルシビル
に資金を出し合い、進を整え、樋川を設けました。その功績により、宮城筑
登と親雲上は2階級特進、他の者もそれぞれ1階級昇進しました。」「宅ロという地に湧く種川なので、「宝種」と名付けられた」旨の記載有〔GM.〕
道光22(1842)年記銘(碑裏面。表面記銘は嘉慶12(1807)年)のものですけど、現物はかなり破壊され、摩耗も激しかったそうです。ために、「宝口樋川碑文復元検討会」(那覇市文化財調査審議会の委員で構成)主導で書家・渡久地龍雲氏の筆耕により1995(平成7)年復元しています〔後掲那覇市教育委員会〕。
そのまま西へ進めそうなので、歩いてみる。すると……一応アスファルトの細道になり、ゆいレール下に出れました。
ここからは、なぜか北へ渡る歩道木とかが全くない(巻末参照)。でもやはり……時間的に末吉は辛いな。遅起きの罪です。1017、儀保駅へ折り返すことに。
「シビル」名の駐車スペース3つ。でもシビルって誰?!
1031。あと3時間。
末吉公園正面は南になる構造ではあるはずだけど、どうやって歩きで行けるんだろう?市立病院前から北へ降りて歩くしかないんだろか?──開かれてない公園です。そうであって然るべき土地なんだと思う。
ルビー 牛肉ニンニク炒め
市立病院駅前の手前。ゆいレール車窓からよく目を凝らすと……駅のすぐ手前(儀保側)の集落奥から園内に入る道が見えた……と思う。末吉児童公園から、末吉宮の西側に入るルート、これなら行けるのではないか?──コレって地元の人にはアホみたいなこと書いてるのかもですけど。
美栄橋下車、1043。急ぐ。
前島。あまり歩いたことがないエリアです。
1050、とまりん前。遅い朝ご飯の店は、泊ふ頭交差点──を見渡し信号を待つ間に決めました。
1058軽食の店ルビー
牛肉ニンニク炒め550
ええっ?? ここにもあるのか!ついボタンを押してしまった……。
けどここのは宜野湾店とやはり全く違う!! 優劣という問題じゃない。ニンニクはすりおろしじゃなく芽を使ってるし、野菜が多い。特にジャガイモがゴロゴロしてます。肉をケチってると言えなくもないけれど……このイモがニンニクむんむんの肉汁をたっぷり吸い込んでおります。
旨い!
う先 とまり竜宮神
朝の沖縄メシを美味しく頂きました。さて沖縄での時間も残り僅か、早い昼ご飯を──と泊交差点で考えますと、どうも……尊敬するカベルナリア吉田先生の行動をなぞったコレしか思いつきませんでした。
ブツのナイロン袋を下げてとまりん付近を歩いておりますと──
「う先 とまり竜宮神」。1125。
新しい祠、一柱です。
本当に新しい、沖縄に時折ある敬虔な個人の寄附による祠なのか、ネット上には全くデータはありません。ただ──この画像はあたふたした状況下、「う先」が誤記でない確認に撮った感じですけど、後掲HANATOHOMAREブログによると、これは「うさち」と読み「神霊が出現する前に現れる霊的存在の総称」なんだそうです。ただし、このブログ以外にその沖縄語はヒットがない。
ちなみに沖縄語としてメジャーな「うさち」は、酢の物や和え物を言うみたい。
キロ弁 ビッグカツ弁当
泊緑地に到着。なぜここかというと、カベルナリア先生がここで食ったからです(後掲カベルナリア吉田/〈かべるっちの沖縄大実験〉キロ弁はホントに1kgあるのか量ってみた」参照)。
1128 キロ弁
ビックカツ弁当750
ややポコポコした2パックに入った、その名の通り一キロの量の弁当です。でも、机に出来そうな遊具は何かやんちゃそうなガキが溜まってたので、ベンチで喰う。でもベンチが小さくて座ることしかできないから、地面(に置いたカバンの上)におかずのパックとライスのパックを交互に置きつつ食べ進める作戦を採りました。
知らない大多数の方のためにカベルナリア吉田先生が前掲書上で他にヤッてる挑戦記事を挙げると
「バターで天ぷら、揚げてみたのよね」
「ポーク大缶、開けてみちゃいました!」
──といったロクなことしてない偉大な先生です。食べ始めて後ろに気配を感じて思い出す。カベルナリア様は確か……キロ弁実食中に鳩に襲われたとか書いてなかったっけ?
確かに──背後にはいつの間にか十数羽の鳩がうずくまり、殺気立った眼をこちらに注ぐ。こいつらにチラリチラリと牽制の視線を送るけど──
いや? 鳩だけでなく,どうも人生がうまく行ってないおじいが数人、よく見るとあちこちの茂みの雑草又は段ボールに身を沈めてるぞ?
しかも結構風がある。ふと気を抜いたスキにフタを入れたビニール袋がババッと舞い踊り、どこかへ飛んで行って……しまう前に、袋は既にハトが取り押えてます。まあ結果的にプラフになった……のか?
──といった最悪の食事環境でございましたので、次回は先生のことは忘れて、やはりキロ弁はお家に還って食べましょう。──ただし、にも関わらず、先生のおっしゃる通り、味はバカ旨でした。
副菜もいい味出してる。沖縄的に味が濃い、というのもあるんだろうけど、調味も絶妙で飽きもこないレベルです。
けれど刮目すべきはメインのカツ。これは……古き良きAランチのそれです。カツの肉が、おそらく、肉質としては悪い部位を、筋を含めてブッた切って食えるようにしてあるんじゃないでしょうか。不均一でスジスジしてて、安っぽくウマウマなんである。
前島を白と薄茶の猫が行く
この肉が、沖縄天ぷらになりかけたようなパンめいた衣をがっちりと装着してる。さらにその上に、弁当だから固まってはいるけれどチーズとソースが乗っかかってきてて──断言できます。明らかに沖縄でしか食えない、あのカツです。※なお、カベルナリア先生の
キロの量は、だから全く苦にならず、あれよあれよと完食してしまいました。時間もかからなかったからか、ハトにも人間にも襲われることなく──
その辺りは無事でしたけど──歩き始めてから気付きました。
ルビーのニンニクが追いかけてきてる。最高の後味といえばそうなんで贅沢な苦痛ではある──んですけど、これは尋常でない満腹感。
腹が裂けそうじゃ!
前島。威厳ある白と薄茶の猫が眠るアパートの軒。1214。
沖映通り。cozyも休みに入ってました。晴天。美栄橋駅へ引き返す。1222
路地裏を覗くと月光荘は未だ経営中らしい。
リュックを回収し、ジュンク堂1Fイタトマでエスプレッソを一杯。
STRATA NAHA 那覇の地層
ジュンク堂の駅側へ入ってみた。1258。
やはり抜けられなかったけれど、古墓群の丘は今も鬱蒼と木々を湛えてます。流石に売らなかったらしい。
古い民家の筋も残ってます。ここの住人たちは、ジュンク堂から出入りしてるんでしょうか。
電信柱にかかった鎖が、チリンチリンと鳴り続けてる。
古墓群の森と美栄橋駅の間に建ったのはHOTEL STRATA NAHA。
このホテルのカフェがこの真下に野外席を設けてる。墓地又は御嶽だと知って、おくつろぎなんでしょか?
名に立ちゅる沖縄 宝島
こうウロウロしてますけど、実はそれすらとても辛いほど……リュック,重ッ!
1309、ゆいレール乗車。
風景が流れる。今度来れるのはいつになるだろう。その時には、どう沖縄を捉えることが出来てるんでしょうか。
──後日談。31日の沖縄県感染者数44人。東京・大阪が丁度同数で各78人。ちなみに第4位に広島23人がノミネート。
結構膝に来てる。
壺川。ここで鳴るオルゴールの曲って何だったっけ?勇む音です。──あ。唐船どーい、でした。
奥武山公園のは「じんじん」。ホタルをこの旋律で感覚する日本人は、確かにないでしょうね。
この時点でのチャイムを一覧にしときましょう。
赤嶺駅:花の風車(はなのかじまやー)
小禄駅:小禄豊見城(おろくとみぐすく)
奥武山公園駅:じんじん
壺川駅:唐船ドーイ(とうしんどーい)
旭橋駅:海ぬちんぼーら
県庁前駅:てぃんさぐぬ花
美栄橋駅:ちんぬくじゅーしー
牧志駅:いちゅび小節(いちゅびぐぅわー)
安里駅:安里屋ユンタ
おもろまち駅:だんじゅかりゆし
古島駅:月ぬ美いしゃ(つきぬかいしゃ)
市立病院駅:張水ぬクイチャー
儀保駅:芭蕉布
首里駅:赤田首里殿内(あかだすんどぅんち〔後掲ゆいレールチャイム集〕
なお、始発列車でのみ流れるメロディーとか複雑化しつつあるので、駅-歌の一対一対照の関係は崩れつつありますけど──2019年10月1日に延伸開業した「てだこ浦西駅」は「ヒヤミカチ節」を採用したという。
♪名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ
心うち合わち う立ちちそり〔喜納昌吉&チャンプルーズ〕
新冠感冒の晦日 長崎へ帰る
肥大化した荷を徹底的に検査されると面倒かなと思ったけれど、1358。あまり無茶苦茶にならずに手荷物検査をクリアできました。運なのか何か、原因は不明。
さて帰路はスカイマークです。帰路と言いながらそのまま長崎入りして年越しです。
──この日程は結構いいな。正月の沖縄は本気で店が閉まるし、帰国ラッシュも激しい。沖縄滞在日数は少し減るけど、これらを回避できるからです。
1月3日の沖縄県発表資料を確認してると、広島県居住の沖縄観光客で12/30発病、1/1確定した女性が一人書かれておりまして……ほぼ旅程がワシと同じ。この1/3資料の発生地点を見てると、もう沖縄は北部とか那覇とかじゃなく宮古など離島も含めて拡大し切っている発生状況です。
1/4。全国計が千人を超えました。
■レポ:宝口-山川 二つの紙漉所
この日に訪れた宝口樋川はGM.にあります。→GM.
上記で琉球和紙の主用途が公用紙とされたのは、成熟期の中国官僚行政を模倣した王朝の性格上、頷けることです。その製紙所が置かれたとある金城・宝口・山川は、結論的に言って、首里周辺の良水をフル活用しようとして首里城直下の南東・北西・西南西の3地点を選んだ、だけといえばたけです。
さてその位置ですけど──まず金城。紙漉所としては不分明ですけど、球陽※に薩摩留学組の関忠勇の紙漉所が金城大樋川にあったとされます。
※※日本歴史地名大系 「紙漉所跡」〔←コトバンク/紙漉所跡(かびしちどうくるあと)〕によると、実際の経緯はもう少し複雑らしい。年表的に列挙すると次のとおり。
1694年(x+8) 憑武帰国
紙漉主取に任ぜらる。〔琉球国由来記〕
山川村に紙漉所設置〔南島風土記〕
同年 薩州で造紙法を学んだ関忠勇、造紙長(主取)に任ぜられ自宅で紙製造〔「球陽」附巻尚貞王二七年(一六九五)条〕
1695年
対して、大見武憑武による最初の紙漉所は山川。──この辺りの経緯は不透明ですけど、素材も水も異なり、何より日ノ本随一の製紙技術国ではない薩摩のスキルを発射台にせざるを得ず、関係者は相当に試行錯誤を繰り返したことが想像されます。どの史料も明記を避けた感触ですけど、目処がたつに至ったのは金城での関忠勇の実験だけで、成功を確認の上で最適所たる宝口樋川に誘致したのでしょう。
8年に渡る薩摩での苦学の末に始業にこぎつけられず、多分、後続者による追い抜きでの成功を見るに至った大見武憑武は、単に果敢な挑戦者だったのでしょうか。あるいは、島津の関係筋と粘り強く折衝し後続の道を拓いた「先払い」と評するべきでしょうか。中国的なドライさに徹する球陽は、17C末の琉球紙業成立を記録するのみです。
諸相に浮かぶ真嘉比川の谷
さてその初期実験場となった山川紙漉所ですけど、推定18C初成立の首里古地図(東恩納寛惇文庫)に記述があります。
この位置は、全体図を見ても、近隣地図を開いても、おそらく現・松川、古・与那覇堂。左側が前日朝に通りかかった丘「鳥頭」で、つまり丘の北東麓です。
河川系としては宝口樋川からみて真嘉比(まかび)川の下流に辺ります。二地点を地図に落とすと、次のような位置関係になります。
真嘉比川が曖昧な流路で下るこの谷は、何度か通り過ぎてきました。例えば下記は、ゆいレール市民病院前駅東から真南への下り坂を降りた時のもの。

なお、沖縄戦の首里城攻防の局面で、米軍第5海兵連隊第3大隊F中隊がBeehive Hill(松川高地)を2時間ほどで奪取した事が膠着を崩壊させてますけど、上記ルートは偶然ながらF中隊の行程と重なります。地図紙面上ではなかなか読みにくいけれど、このラインはどうも根源的な意味を持ちます。


「虎瀬山から西森,宝口,唐栄の松山に至るまでは地脈が通じ(略)(球陽尚泰王10年条)〔角川日本地名大辞典/宝口樋川〕」ているとされる(下記再掲)。虎瀬山(→GM.)と宝口しか分からないけど、これは要するに真嘉比川の谷です。スピリチュアルな力を言っているのではありません。既存ロジックで語れないだけで、明らかに構造的に有意な方向性があるのです。
a level site to build 儀保
下記那覇市教委によるとこの谷は、戦後に広範囲で「切り崩された」らしい。なお、宝口樋川の破壊要因も沖縄戦とも戦後開発とも書かれややブレがあるようで、実情としてはこの時期の混沌の中で気付けば「崩され」ていた、ということなのでしょう。
地名の由来は不明だが、遺骨を宝物に例える説や、真嘉比(まかび)川を遡(さかのぼ)って荷物(宝)を積み卸す津口が由来だとする説がある。一帯には1682年に壼屋村(つぼやむら)(現那覇市壼屋)に統合された「宝口窯(たからぐちがま)」と呼ばれる古窯があったとされる。
1945年(昭和20)の沖縄戦後、米軍の採石場や、道路拡張工事のため、西森(ニシムイ)から宝口に延びる丘陵が数十メートルも切り崩され、王家の墓「宝口の玉陵(タマドゥン)」や馬氏国頭親方(ばうじくにがみおやかた)の墓、儀保川(ジブガー)(井戸)などが消滅した。〔後掲那覇市教育委員会/宝口〕
戦後に切り崩されたこのエリアの様子は、撮影、記録などがなぜかありません。多分、鎌倉や東恩納がようやく琉球王朝の遺物を守ってきた近代に、首里では下賤なこのブロックを後に残す理由を誰も持たなかったのでしょう。
ただ、切り崩されてない時期の首里古地図は、次のとおり範囲指定することができます。
1.西森(にしむい)
2.西森御嶽(にしむいうたき)
3.報山(はんじゃ)アサギの竹山(だきやま)
4.儀保御待所(じーぶうまちどぅくる)
5.太平橋(たいへいきょう)
6.宝口(たからぐち)
7.御墓(うはか)
8.儀保川(じーぶがー)
もう一つ、「宝口」の由来として、「真嘉比(まかび)川を遡(さかのぼ)って荷物(宝)を積み卸す津口」というものが書かれていました。本稿では真嘉比川のかなり上流まで「那覇港の奥」だったのではないか、という仮定を既に行いましたけど(下記リンク参照)、宝口で「宝」が荷降ろしされるならそれを当然の前提とせざるをえなくなります。
最も近いイメージで言うと──真嘉比遊水地がまさに遠浅のクリーク=中世港湾だった時代、宝口には「宝」が荷揚げされていたのてす。


宝口に着いた船は、王朝に富をもたらす宝船だけではなかったでしょう。海から首里を狙う海賊もこのルートで接近しえたわけで、虎瀬山-西森-宝口ラインは重要防衛線でもあったでしょう。
虎瀬山から西森,宝口,唐栄の松山に至るまでは地脈が通じ,首里城の風水にかかわるといわれた(球陽尚泰王10年条)。宝口と首里桃原町域の境を流れる安里川上流右岸の崖から湧き出る豊富な泉で,王府時代から付近住民の生活と深くかかわってきた。(続)〔角川日本地名大辞典/宝口樋川〕
なお「唐栄の松山」とは、久米村発祥地の碑のある現・松山公園(→GM.)のことでしょう。
宝口樋川碑文の原文は入手できませんでしたけど、ここには「湧出口に容易に近づけなかった」、つまり井戸を掘ったのではなく湧出口に近づけるようにした、という記録らしい。
(続)樋川入口にたっていた宝樋碑によれば,水の湧出口には岩石が突き出し,また周囲には竹や雑木などが繁茂し,湧出口に容易に近づけなかったが,嘉慶12年(1807)に当蔵村の宮城筑登之親雲上と附従者24人が泉に樋を設け,通路を開くことを願い出た。(略)〔角川日本地名大辞典/宝口樋川〕
となると
樋川の近くには宝口のたまおどんと呼ぶ王家の脇墓(宝口御墓・宝口陵)があった。王の側室や夭折した王の子女が葬られていたが,沖縄戦時に米軍が軍用道路建設に伴い西森の丘陵の大半を削りとったため,宝口のたまおどんは消滅した。〔角川日本地名大辞典/宝口樋川〕
この宝口の「御墓」と思われるものが、首里古地図の中に記されています。位置的には現・ゆいレール儀保駅付近のように思えますけど、ここまで地形が改変されていると特定する意味は薄そうです。
つまり、現在の宝口〜松川エリアの情緒は、かつて虎瀬山から西森にかけて広がっていた「首里前衛陣地」のような地帯の名残りです。当時にあっては、多分、それこそが「首里の町」だったエリアがここにあったのだと思う。
現代のワシらが「首里」を求めるなら、首里城の観光エリアを歩くべきではない。松川を彷徨うべきなのです。ただ、既に中心を失ったこのエリアを、どう歩く目が残っているのか……と言えばそれはやや途方に暮れます。
Your article gave me a lot of inspiration, I hope you can explain your point of view in more detail, because I have some doubts, thank you.
Your article helped me a lot, is there any more related content? Thanks!