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▼▲早町集落を見下ろしつつ下る。西行。1543▼▲
1548早町放送社。大きく出たな。でも「配達中」の札がかかってる。
西行。
何と?この町名は「そーまち」と読むんだって。そーなんだ。
1554勝連屋敷跡。
「勝連家
前殿内」
と書かれた石があるだけ?
でもこのL字構造は,つまり裏に大切なものがあるということで……
でもここは本当に入れない。足の踏み場がない。
それにこの正面の石垣もその先のも漆喰かコンクリートで補修してある。ここにあった,ということしか分からない。
お隣,保食神社(白水)へ。この発音はバス停表示によると何と「しらみどぅ」。
左手に白水地区公民館と同じ敷地。ということは新しい。
いや?上の祠は大理石っぽい新しいものだけど,基盤の岩だけが古い。その間の隙間から,蟻が古石の中の何物かに出入りしております。
あと,戸口右側の「奉寄進」とのみ読める灯籠はおそらくかなり古い。
どうもここの宮子さんの感覚がよく分からない。
あとここは,先の勝連屋敷の敷地の西すぐ脇です。あえて外に,でも隣接して造りたかった何かの意志が働いたのでしょうか。
1612退去。
道路のより左手は畑,右手は集落という景観が続く。古くからの道でしょうか?海岸線とも思えないし。
1621嘉純。入る。
巨大ソテツ。樹齢3百年。拝みの跡はない。町指定天然記念物。というかもうソテツに見えない。何かが爆発してる感じ。
嘉純の山手から海方向を一枚。やはり集落ラインの微妙な位置が腑に落ちない。
保食神社。畑地の真ん中の長い参道。
末吉神社。異様に低い鳥居と薄暗い社林の昏い社。
あれ?集落がないぞ?
ダメだ。阿伝(あでぃん)からバスを使うことにした。明日,ここから再度走ろう。
バス停表示はないけれど、おそらくは対面で待てばいいんでしょう。
ここの海岸は粗い。岩のだらけで上に草が生えてるけれど侵食もされてない。
遠方の公園で遊ぶ子どもの声だけが,潮騒に混ざり聴こえてくる。
通過時刻1712まであと14分。
沖縄からしても奄美からしても奇怪な島です。
中央部の尾根はこの東海岸から見ると切り立つような険しさ。向こうに高地があるようにはとても見えない。この尾根を利用する限り,確かに防御力は強力だったでしょう。
今日はそれを足で理解できた。
1715,3分遅れてバスには乗れた。
運ちゃんはアロハシャツのお兄ちゃん。客は一人のみ。スピードは酷くゆっくり安全運転。
整理券も料金表示もないから口で訊くと三百円とのこと。額がきっちりしてるからおそらく一律定額。
アナウンスもないから集落名が分からない。位置情報をオンにしてGM.を見ると,しめた,西海岸を行くらしい。
県立あゆみ幼稚園。
この先が手久津久です。いつの間にかあれだけ聳えてた丘陵が低くなってる。
朝戸神社はバス道からは見えないらしい。
荒木は集落内へ。保食神社も隠れてる。喜界島の宗教地は通りからは見えないのが通例らしい。
1739ファミリーショップよしかわ前で下車。
ドラッグストア・ホーユーには分包の入浴剤がありました!日本酒風呂とか変なのだけど……まああれば良い!
十兵衛は夜は予約オンリーになってしまってた。山羊汁食べれんよ〜。
1836本日もAcoopへ行った帰り,湾の港をよく見る。砂浜があり,やはり岩礁が多い。現在の港湾はその沖を埋め立てて使っている。つまり喜界島には現代の大型船舶に使いやすいような良港がない。小船用なんだけど,小船では外からは直接来れない。
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■レポ:▼▲
奄美諸島の統治が薩摩藩に移るにおよんで,藩がノロの祭祀や行事に制限を加えたり,奄美の村々にヤマト式の社寺を勧請したりしたので,琉球古来の神道は次第に衰退の一途を辿り今日に至ったのてある。〔後掲喜界町誌(以下「町誌」という。)〕
大島の場合(略)地域によっては現在でも,ノロの祭りのためのアシャゲやトネヤが保存され,祭りも地域の恒例行事として,古式ゆかしく伝承されているという。
それに比べて喜界島の場合は,ノロ信仰は遠い過去のものとなり,ミヤ跡や神山などの遺跡を通して,わずかに往時が偲ばれるだけである。いったい指呼の間にある喜界島と大島で,それほどノロの信仰に差異が見られるのはどうしてだろうか。〔後掲町誌〕
町誌は「大島は山岳地帯が多」くて外部と途絶された地域があったから,という点を第一の理由に挙げるけれど,これは日本の山岳部を考えると絶対条件たり得ないし,またその実証的証拠もない。
また,第二点として大島の神女組が二教区制でライバル意識を持ったため,とするけれど,これもまた同様に説得力を欠く。
ただ,これらの記述の中で次の二点に触れています。
(喜界島は)神女組織も大島の上方に所属していたものと思われ,大阿母も大島上方との兼務で,五間切(藩政時代は六間切)のノロたちにも対抗意識はなく,その活動も大島ほどではなかったものと思われる。また,奄美五島の中で琉球王朝に支配されていた期間が最も短いのも喜界島である。〔後掲町誌〕
(喜界島の)神社のほとんどは藩政時代に,地元の有力者たちによって勧請されたものであるが,代官所は主な神社の例祭には祭米を支給して,神社神道を保護奨励してきた。ちなみにこれらの神社のおおかたの宮司役は,他ならぬノロやユタと言われる神女たちであった。〔後掲町誌〕
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