m19S_33第三十九波m夏至南風 ギラギラ渡る琉球孤m喜界島m中里は砂漠ではない

段丘から下りる道
段丘から下りる道2

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1130素晴らしい下り道を通ってVillaKikai前に出た。左折。▼▲

指宿沖で地震があったらしい。
1149麺屋 双
背脂ニンニクラーメンBセット(ミニチャーシュー飯)650

喜界島deラーメン

1223再出走。いい薄曇りから晴天に。
1235保食神社(中里)。白い鳥居,コンクリート階段の参道あり。
保食神社(中里)の石垣と本殿

上には野面積の石垣。
右手に「中里緑山紀念碑」。裏面に

砂漠の中里を緑の部落にして下さった鹿児島縣技手松下重成氏に本碑を建立し永遠に記念す
 昭和二十八年十月八日 中里部落一同

「砂漠の中里を」緑に変えた「鹿児島県技手」

なぜか宮本殿に背を向けて建つ。

左手,社と同じ面に墓石のようなもの。元の保食神はこちらではないだろうか。真ん中の穴に銅貨三枚,傍らに百合。

左手に小さな祠

本殿の祭殿は完全日本神道。
アルミサッシの本殿正面。喜界島の森が映る。

覗き見た神殿内部祭壇正面

この東の道になる。1301右折南行。

空は晴れ上がった

いよいよ日差しがキツい。
1306トップ。でもここも段丘なのか下りは緩やか。
第一トップから段丘一段目の平坦地へ

畑地が広がる。近代的な段差と広い耕地面。そしてもう一つ坂?
第二の登りと近代的な棚田景観

1315トップ。でもやはり平地が続く。手久津久までの半分は来たか。
広大な畑地。彼方に海

右手に海が見える。でもも一つあるよ,坂。
運営方法も近代的らしく作付は整然としている。

3番坂と登り立つような青空

坂途中に十字路。よし,ここを右折して荒木に出よう。汗がスマホ画面に落ちてうてん。
でもそれは悔しいので,トップまでとりあえず──と思ったが雲のツキ,南の海が余りにも──

行く手にカラスが舞い降りる。いいや,南へ下るぞ!
1328

畑地の向こうの海がいよいよ美しい

あまりの美景にもう一枚

1335手久津久の集落が見えてきた。
手久津久の巨大ガジュマル

通り道なので仕方なく寄った手久津久の巨大ガジュマル。ホントにデカい。
林に囲まれた緑地の端に真っ赤な社

1346花尾神社。来たぞ!
丘のトップに立つ。でも眺望は全くない。むしろ隠れてる感じ。
真っ赤な社に島津紋

本殿は参道と90度横を向く。東方向か。
上方に島津紋。
東側の祠の神体

右手東側に小さな石を神体にした祠。榊あり。これが本来の神か。
島津紋正面に林を抜ける穴

右手,つまり島津紋の向かいに林を抜ける穴。踏んでいくと何と古い石段がある。
真上でカラスが鳴き立てる。ここはコイツが見張りなのか?
▼▲1357手久津久へ下る。
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■記録集:奄美地域の戦後の「大密貿易時代」▼▲

  密航体験記 花岡武文(大正十五年生)
 昭和二十年(一九四五年)八月,太平洋戦争は終わった。約十年にも及んだ長い戦争で農作業は不可能な状態が続き,収穫は零に近かった。そこへ海外からの引楊者・復員兵等で小さな限られた島は人で満ち溢れ,生活状態は極限状態だった。こういう困難な状況の中で,若者達は青年団活動に情熱を燃やしていたが,次第に苦しい生活,単調な島暮らしに失望し,将来の人生の望みをかけて本土への密航を企て実行した。
 幸い私は当時名瀬に職を得て働いていた。そのうち島の旧友達が夢をふくらませ,本土へ密航しているという情報が耳に入った。そこで自分も若いうちに本土で苦学して学ぼうと決心し,退職して密航を実行した。〔後掲喜界町誌(以下「町誌」という。)〕

(続) 当時トカラ列島の口之島は本土との闇物資の取り引き,密航の中継基地だった。口之島迄は連絡船で渡り,密航船情報を民宿泊まりで待つ。その間取締り官の巡検が昼夜の別なく行われたが,宿の主人が事前に察知して誘導避難させた。
 待つ事五日目だったか,密航船出港の情報があり,夜陰に乗じて小型伝馬船に四,五人分乗して,沖に停泊中の木造船に乗り移る。すぐに船倉にもぐりこみ,隅に積んである藁ムシロを敷き,頭からスッポリと被り息を殺し出港を待つ。二十人ぐらい乗っている。周囲は直暗で闇の世界,近くの人の顔も時間も定かでない。誰も無口で声―つ発しない。船首部分には奄美からの黒糖,アメリカ製品らしい闇物資が積まれている。
 焼き玉エンジンのボンポン音が船倉の底に響く。船は無事に動き出したようだ。島唄にも歌われている怒濤逆巻く七島灘を夜中に乗り越え,夜明け前に口之永良部島(当時は本土)の小さな入り江に入った。上陸し海辺近くの小屋の天井裏へ案内され,鹿児島行きの連絡船の出港までかくまわれた。時間待ちである。〔後掲町誌〕

(続)腹も減ったがここは辛抱。やがて案内人が迎えに来て,にぎり飯二個と連絡船の乗船券を渡された。
  港への途中は「固まらず散らばって行くように」と注意をうけ,港に着くと乗船口に警察官が立っている。時々場所を離れる事があるので,その隙をぬって乗船し客室にもぐりこんだ。客室にも巡検に廻ってくるが不思議に通り過ぎていく。本当に恐怖と緊張の連続である。
 昨夜からの寝不足で鹿児島入港までぐっすり寝た。島に入港,無事上陸し密航は成功した。名瀬からの隠密行動の緊張感から解放され,本当に安らぎを感じた一瞬だった。〔後掲町誌〕

(続)兵庫県尼崎市の姉の家におちついたが,当時は「米穀通蜆」がなければ米が買えなかった。暫くは闇米を買っていたがいつ迄もは続かない。そのうち某区役所に申し込めば,米穀通骰を手軽に発行してくれるという情報を得た。早速手続きに行き勇気をふるって事情を打ち明けたら,幸いにも係の人は奄美の徳之島出身だった。通帳の交付をうけ本当に天に昇るほど嬉しく,やっと本物の日本人になった。〔後掲町誌〕

「奄芙f複帰史』には、本土上陸直前の事件か次のように所収されている。「鹿児島近海の監視船はやぶさ丸は,(筆者注・一九五二年)五月十日午前二時半ごろ桜島沖合で第八寿丸(十ニトン)──船籍愛媛県──に便乗していた六十名(男子三十一名,婦女子二十九名)を密輸,不法人国の疑いで鹿児島海上保安部に引渡した。……
 捕まった者のなかには七十歳ちかい老婆もあって,急を聞いて駆けつけた本土の息子と留置場のガラス戸越しに対面するという哀話をうんだ。ほとんどが大島郡早町村の人々であった……」
 このように密航が発覚して留置場に留置される人たちも多かった〔後掲町誌〕

当時{引用者注∶1953年}の大島高校三年生は,大学や専門学校のため本土に進学する場合,多くは密航に拠るしかなかった学年である。速力のない焼き玉エンジンの小さな漁船の奥深くに隠れ,船酔いと恐怖に苦しみながら無事に七島灘(しちとうなだ;トカラ列島周辺を横切る黒潮の流れ激しい海域)を無事越えられること,さらに臨検や銃撃に遭わないことを必死で祈り,夜陰に隠れて山川港などに上陸し,願いを果たした皆さんである。「私貿易」なる用語には,今日の刑法犯としての「密貿易」と異なり,「列島間の人の移動,物資の運搬,商取引行為」の意味が込められているのである。〔後掲山上〕

奄美海域の終戦直後の密貿易ルート〔後掲三上〕

第一、被告人B1、同B2はB5と共謀の上九州から北緯30度以南の南西諸島の奄美大島へ貨物を密輸出し、又同地から九州へ貨物を密輸入しようと企て、被告人B1が予て傭船した船舶(証第8号の運搬船)に
(一)1949年7月13日頃熊本県八代港において、税関の免許を受けずに脱穀機3台、鋤7挺、ミシン1台、下駄126足、昆布130貫、木材230坪、氷かき機2台、イチゴ水6打を船積した上右被告人両名及B5は同船の機関長である被告B3、船員である被告B4と共に同船に乗組み(被告人B2は船長、被告人B1は船主格)同月20日頃同所を前記奄美大島に向け出帆し同月23日頃同島野見山海岸に到着しその頃右物品を同所へ陸揚して密輸出をなし、
(二)同月30日頃右奄美大島野見山海岸において税関の免許がないのに黒砂糖5,300斤を被告人B3、同B4等の協力を得て船積した上同被告人等及B5と共に同船に乗船し同日頃同地を九州へ向け出帆し同年8月1日頃福岡県大川等に到り以て右物品の密輸入を図り[・・・]。〔後掲山上 (6) ウエストロー・ジャパン株式会社判例検索(文献番号:1949WLJPCA09306005)[ http://www.westlawjapan.com/]。

「流転の淵で──中江実孝回想録」(5)(『大島新聞』昭和五十三年十月二十四日付)にも密航船の船長が引き起こした凶悪事件の慨要がおよそ次のように収録されている。
(注)・中江実孝(名瀬市出身)は,分離期問中は奄美群島知事・立怯院議員,復帰後は県議等の要職を歴任した人物である。
   ・本事件の発生した日時について,同紙は陸軍軍政官五代目のアデヤ大佐の時代(一九四八年八月〜四九年九月)としているが,『名瀬市誌Jは一九六九(昭和ニ十四)年九月二十八日と明記している。
「住用湾で密航船を捕まえた警察部の警備船は、闇船の船長を同乗させて,喜界島の港湾へ行った。当日は酒宴があったらしくて,警官らは全員上陸した。所用をすませて帰船したところ,突然闇船の船長がピストルを片手に,警官達の前に立ちはだかった。不意をつかれた警官らは抵抗するひまもなく,次々に海中へほうり込まれた。
 犯人は警備船を乗っ取り,同船の船長を脅迫して鹿児島へ逃走したが,間もなく谷山の自警団に『御用』となった。」〔後掲町誌〕

その他にも闇商品の黒塘等をわずかの隙に持ち逃げされ,一朝にして丸裸になった闇商人の例もある。まさに物騒で悪夢のような時代であった。
 ところで、「中江実孝回想録」(5)には次のような記述も見られる。
「……政庁警察部のまとめだと,昭和二十一年六月からの一カ年内に摘発された密航船は九〇件,取調人員七六〇人,没収船三六隻にも達した」
 これは,たった一年間の,しかも奄美の管轄下だけの件数で,まさしく氷山の一角と思われ,本土と奄美両方の八年間の件数を合算すると,相当の件数にのぼるものと推測される。〔後掲町誌〕

密貿易が行われるのは,そこには需要と供給があるからである。米軍政府の厳しい取締りと摘発の中で,くらしむきの自立を目指して非合法な商業活動ではあるが,密貿易は奄美経済の原動力となって,人々の生活を支える重要な役割を果たし,活性化させた側面もあった。密貿易が展開されたのは,戦後に奄美を撤退した寄留商人が関わったからこそ成立したのであり,その結果,奄美出身者の多くの商店主を誕生させている。このように米軍統治下での統治政策が島の経済に及ぼしたものはマイナスだが,闇市を起点の「市場」や密貿易による「商店街」を中心とした自立への興隆が奄美の暮らしに及ぼしたプラスの側面を見逃すわけにはいかない。〔後掲三上〕

ヤミ商売で資金を蓄えあ大島商人による商店街が形成されていった。結果的にみて,もしこのような事態がなかったとしたならば,恐らく今日の名瀬の様相はもっと変わっていたであろう。〔後掲三上引用「名瀬市誌」〕

密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ

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