m142m第十四波m天后の眉間の皺や零れ萩m唐館(出)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

観音 瓢箪 消えた水域

▲館内観音堂全景

人屋敷は,愛された住みかだったわけではありません。軟禁場所だったわけで,幕末の開国後は見る見る廃屋化,そのまま1870年に焼失しています。
 今回の社群もなべて近年,再建されたものです。
※ 長崎市│旧唐人屋敷内土神堂・観音堂・天后堂
 ただそれでも,媽祖に比される観音と名前通りの媽祖,2者が狭い地区に並置されてる場所は,日本にはここしかありません。

▲0950観音堂本堂正面右手(南側)部分

門の前から,南側の壁を這うように側溝が細く伸び,本堂の南東角で石垣下に消えてます。つまり側溝は観音堂そのもの以前からある。唐人屋敷設置当初からのもの,と予想されます。
 いきなり側溝を辿ってしまった目の先に……何と!金爐(焼香壇)が右手,崖下の場所にきちんとあるよ。爐内を見ると最近使わた形跡はないけれど,様式は中国の祠そのものです。
 本殿基盤部に「天明七丁未 ■王 ■証明■造」と掘った石があります。1788年,ということになるけれど,案内看板には「瓢箪池の奥の石に『元文二年(1737)…』の刻字がされている」とあり,市サイトを見てもこのお堂の創建推定年は通常これによるらしい。でも瓢箪池はどこよ?

▲観音堂(GM.衛星写真)と瓢箪池の推定位置(薄桃部)

辺はないぞ?──いやさっきの側溝は?あれを使って池を造ってたとすれば,本堂と丸門の間の現・前庭スペースでしょうか。──後の調べでは,先の金爐の立つ橋の下(写真参照)が瓢箪池,と書かれるものがある。ただ「瓢箪」は池の形状を言ったと仮定すると,橋下が瓢箪のくびれだったことになる。前庭にくびれの下側の池があったのではないか?

関羽を協天大帝と呼ぶ人々

▲0958左の神さま「協天上帝」

かんいかん,細部にかまけて,まだ肝心のお参りをしてません。
 神像は左右二対。左は赤顔,祭壇に「協天上帝」とあります。
 失礼ながら……聞かない神様です。調べると中国語サイトにも「協天上帝って誰?」的な記事は多く,ワシの不見識ばかりとは言えないらしい。台湾の宜蘭には礁溪协天庙という大きな廟がある。
▲礁溪协天庙の協天上帝
「关庙寻踪」港台——台湾礁溪协天庙 – 每日头条

般にこの神様は関羽の道教神名とされるらしい。清康熙年間に関羽が伏魔大帝と協天大帝という名前を皇帝から頂いてる。
 ただ,その名前で関羽を呼ぶのは台湾移民のうちでも,宜蘭や基隆への一代目漳州移民に限られるという。
※ 保庇now/協天大帝?其實我們都認識
 ということは,1737年頃に漳州人がここに新たに観音堂を設けた可能性が高いわけです。この後見る本命・天后堂もほぼ同年(1736年,長崎名勝図絵記載)の建築,こちらは南京人の創始という。
 中国は清乾隆期。この時代,1757年に外航船来港は広州一港に制限されますけど,広東十三行による交易独占を追認した性格の措置です。浙江・福建人が交易拠点を外に求める中で,唐人屋敷内でも縄張りのようなものが形成されたのでは──とも考えられますけど,いかにも材料に乏しい。

東南角 空堀だけ残す

▲0958観音堂の観音様

あ,また参拝を忘れてしまったぞ。右は白陶の女神らしき像,「観音大士」と書いてあるからこの方がご本尊になります。
 漳州,手前に池で観音と来ると,媽祖ではないか?と期待してしまうんですけど……像や対聨からそれは読み取れません。
 信心深い参拝を終えた後,1003,退出する。どーせ行き止まり,と思いつつ南の階段を登ると──あれ?続いてるの?東へ折れてさらに南へ曲がると……え?この広場は?
▲1010南東角の不思議な広場

堀遺構」と案内板。保存のため埋め戻して玉石で位置を表示してある,と書かれる。そうか,だから家がないのか。
 けど空堀?围でも珍しいぞ?崖を飛び降りてくる侵入者を防ごうとしたんだろうか。南にはもう道がない南東の角です。ここにだけ空堀を築いても意味がないような。
 このすぐ北,南東位置に観音堂,対する南西角に天后堂があったことになる。どういう配置なんだろう。
 西へ。1011。
▲1018館内町18の壕

段を降りるとさっきの道の南側らしい道に出ました。十善寺地区コミュニティ住宅の北側。
 車道を渡るとad稲荷町5。そのまま西へ。北側はad館内町18。
 ここには壕がくっきり残ってます。上の写真では微妙にしか見えないけれど,底面の角に斜めに傾いた面があって,それが極めて精緻に見えます。

数分ほどの風呂屋の迷い道

▲1019南西角の堀

西角の屈曲部も見えてる。この風情,歴然とした東南角との違いは何でしょう。
 屈曲部直上は森伊橋。その向こうはad中新町18になってます。
 壕に沿って道がある。道なりに右折北行。

▲1021西壕を渡って戻って進む道

や?西はもう,浦上側から山越えルートの際にいつも下ってくる石畳道らしい。
 道の左手に浅い側溝続く。
 ドライクリーニング店を右折。おかしい。ないぞ?というか,雰囲気が変だぞ?まさか,こんな狭い唐人町で?
 空堀を越えてた。何と道に迷ってたらしい。ad館内町18で東へ渡り直す。

▲1023細かい水路の彩る細道

の数分ほどの迷い道は,好かった。
 東半分は良くも悪くも綺麗な住宅でしたけど,西半のこの土神・市場と天后の間の極めて狭いエリアには,往時の混沌がまだ息づいてる感じがあります。
 巻末レポで覗いた絵図などによると,この辺りにかつて風呂屋があったようで,唐館最奥の公共スペースだったようなのですけど……。

▲1027天后北エリアの水路

観音は西へ 天后は北へ

と家の間,いかにも古そうな溝と石畳の痕跡──のようにも見えるものが残ってる。判然とはしないけれど,捨てがたい景観です。
 ただ……天后はどこよ?
 園芸の「かわの」の十字から──南に見えた!これは市場から延びる参道でしょうか?
 南へ。

▲1028天后宮「旧参道」?

029,天后堂。
 まっすぐ東に観音堂の丸門が見える。ただ観音堂は西面,天后は北面。インドを向くか北極星かの差異か,それとも創建者グループの違いか。
 祠は5柱。左から丸つき数字で①~⑤と表示します。祭壇の規模は大小大小大と並びます。

▲①左の祭壇

左の祭壇には額なし,祭壇には「福徳正神」の文字がある。像の形は女性的だし,左右の従神は順風耳,千里眼にも見えるから観音か媽祖でもおかしくないけれど,文字からは違う。
 祭壇の規模の割に,神像は少なく疎らで,奇妙です。一度持ち去られたか,何かの異変があったのかもしれません。

三祠に群れなす媽祖

▲②左と中央の祭壇の間の古像

の右隣も名前不明,ただこの像はかなり古い人物群(上記写真)。女性にも見えるけれど判じ難い。手前にも同じくらいの古さの,同型に見える像があるから,ひょっとしたら先代以前の媽祖が積まれてるんだろうか?
 なぜ左の祭壇に入れてあげないの?と言いたくなる積まれ方です。

▲③中央祭壇のご本尊媽祖様

央は紛れもなく妈祖。白く新しい。扁額には手前「恩溥慈航」,奥に「普天慈母」,祭壇に「天上聖母」。どれも媽祖に添えられる典型的な四文字です。両側に扇を持つ女性,両側下段に鬼相,これは間違いなく順風耳と千里眼。

▲④中央右の小祭壇の媽祖

隣の小さな祠も,額に天上聖母と書かれます。なぜ2基並ぶ?
 小さな,同じ仕草の女性像。左右に従神なし。
 船に積まれていたものが,これだけ何かの経緯で残されたのでしょうか?

▲⑤関羽像

右は赤顔2柱。祭壇に「協天上帝」。左はさっきも見た左手に本を持った仕草。右の髭の神は不明。──ただ,観音堂と同じ「協天上帝」字ですから,漳州系の気配もあります。形状と名前からは関羽になる。

天后堂から群れる法被

▲短冊の揺れる「恩溥慈航」額

崎名勝図絵の天后堂記述原典を確認できなかったけれど,そこに書かれるという1736(元文元)年の南京人創建の記述が正しく,観音堂の主神が媽祖と同等なら,観音堂とほぼ同年に媽祖-協天上帝の並ぶお堂が相次いで建てられたことになります。
 どうも不思議な経緯です。位置的にも唐人屋敷敷地の奥手東西に,競うように位置します。

▲1047天后堂から北,町方向を見る。

堂の外側には観音堂と同じく金爐があります。ただこちらは煉瓦を組んだ粗末なもの。
 天后堂のこの前庭は,再現的に最近造った感が強い。国立九州博物館にほぼ同じ感じの図がありました。
 1048撤退。
 新地が近づくと──防火訓練か?湊公園に多数のハッピ姿が集っております。

▲近世都市長崎の概念図上の唐人屋敷
※ 大学の研究最前線 11- 長崎大学

■史料紹介1:唐人屋敷焼失前の古写真3枚

 唐人屋敷,別名「唐館」,中国人呼称「土庫」は,冒頭に触れたように幕末に廃墟化,明治に入ってすぐの1870年に焼失しており,江戸時代の実態は実は全く不透明です。
 長崎大学は,その附属図書館に「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」というDBを構築しており,この中にかろうじて当時の唐人屋敷を写したものが3枚ありました。粗いものを以下転載します(元HPには詳細のクリアなものがあります)。
▲①日下部金兵衛撮影「館内から出島を望む」(明治5~6年頃) 上図:全体 下図:左下部分拡大
※ 長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む | みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
※ 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース/詳細 | Old Japanese Photographs in Bakumatsu-Meiji Period/館内から出島を望む
原タイトル:Nagasaki Harbor
目録番号: 50
撮影者: 日下部 金兵衛
アルバム名: 日下部金兵衛アルバム (2)

 DB上にはかなり詳細に分析した解説が付されています。
 これによると,撮影ポイントを「旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの」と推測しています。

画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。(略)やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5~6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。[前掲DB附属解説]

 明治に入ってからの撮影であることは明確に読めます。けれど焼失後という名残りは見えない。その印象が正しいなら,1869(明治2)年竣工の梅香崎橋は写っているのだから,焼失直前の1869~70年の可能性もあります。
「画面左手の刹竿」は土神堂,というのは観音堂の誤記でしょうか。両者の位置が逆という記事を見つけられなかったからですけど,正しけれぱ,観音堂は今の幼稚園用地も含めた大きな敷地を持っており,福建会館に隣接していた,ということになります。

橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。[前掲DB附属解説]

 右手,小島の丘は,現在,正確には小島養生所とその周辺開発が進む前は,写真のような樹叢だったわけです。小島養生所は1861年9月に開校してるので,撮影者の背後にはそれがあったことになる。開校以前は小島の丘は樹林だったのでしょう。
 つまり,養生所開校から唐人屋敷が焼けるまでの期間にしか撮れない,貴重な写真です。
 もう一つ,だとするとこの唐人屋敷東縁は見通しが効かず警備しにくい場所だったように思えます。写真手前に野道のようなものが見えますけど,この崖を登って行き来できる裏道があり,密かに出入りが行われたのではないか。

土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化していた様子がうかがえる。[前掲DB附属解説]

 確かに,前章に記したような一万人が密集して住んだ雰囲気は感じられません。この点は覚えておいて頂きながら,次の,本章の3枚の撮影場所と方向を落とした地図をご覧ください。
▲①②③写真の撮影地及び撮影方向推定

 3枚はいずれも,唐人屋敷をメインに撮影したものではありません。どれも,たまたま唐人屋敷が写ってしまった写真です。
 唐人屋敷を挟む谷の東西の高みから撮影したもので,東西の縁の建物は比較的分かりやすいように思えるのに,その場所にあったはずの観音堂や天后堂が確認できません。
▲②小島養成所からの眺望(部分。唐人屋敷東北角付近)
撮影者: F. ベアト
アルバム名: 大型アルバム(棚番号:104)
撮影地域: 長崎
撮影年代: 1865年頃

 この写真は,唐人屋敷以外の同時代の長崎と比較ができる点で優れてます。
 唐人屋敷内は他より明らかに密度が高い。崖間際までびっしりと詰まっています。
 ただ,それにも関わらず,よく見ると間隙がある。これは,写真①の解説が触れていたように,かつての密集状況で筆が構成された後,そこから急速な密度の低下により「歯抜け」状態になった形状です。

▲③東山手の丘からの長崎眺望(部分)
撮影者: 撮影者未詳
撮影年代: 1865年

慶応元(1865)年頃、東山手の丘から長崎市街と精得館を遠望した写真です。(略)右下の家並みは消失する前の唐人屋敷の建物群です。よく見るとお堂や飾りが見えます。[前掲DB附属解説]

 この写真は正確な年代が分かってて,しかもパノラマです。けれどこれも唐人屋敷はたまたま写ってしまっただけで,詳しく読むのは難しい。
 ぼんやりと見える寺院らしい建物が観音堂か福建会館に見えなくもないけれど,いずれにしてもこの時期には衰滅しかけてたのでしょう。

▲長崎大学報告中の唐人屋敷範囲推定図
※ 長崎市│唐人屋敷の歴史4/唐人屋敷の範囲推定図(唐人屋敷顕在化事業の推進に関する助言 平成14年5月より抜粋)

■史料紹介2:(地理学的所見)傾斜面を埋める唐人城

 上の図面は,平成14年に長崎市が長崎大学に調査委託した唐人屋敷の範囲推定で,現在の観光地としての唐人屋敷とはこの範囲を言うことになってるらしい。
 原典論文を唐人屋敷の位置的研究としては,地元長崎官民の知力を結集した論考になってます。
※ 岡林隆敏他「長崎唐人屋敷範囲推定及び敷地の形状復元に関する研究」
 結論としての上記図面もですけど,その過程で著者団が現地調査を行ったポイントも示唆に富んでいます。

1)館内町の入口。唐人屋敷大門の場所と推定される位置である。
2)石垣(既存石垣)遺構。当初二ノ門から続く石垣と考えていたが,その後,調査により,後から付け加えた石垣であると推定した。
3)唐人屋敷西側の水路。建設当時のものである。
4)側溝。唐人屋敷南側の堀の場所と推定された。
5)唐人屋敷南側の崖地。発掘により当時の石垣が現れている。
6)唐人屋敷南東端。発掘により初めて空堀が確認された。一部分,外からみえるように処理されている。
7)東側の崖地。幕末には比較的緩やかな勾配の斜面であったことから,後の宅地造成により地形が大きく変化したものと思われる。
8)長崎市立佐古小学校南の段階(ママ:階段)付近。建設当時はこの通路はないため,後に大学病院,大徳寺に抜ける通路として造られたものと考えられる。
9)唐人屋敷の北東隅。この場所は唐人屋敷の古絵図と大きく変化している場所である。後ほど考証するが,明治以降地形の改変があったのではないかと考えられる。
10)十善会病院に隣接する場所。この場所も後の時代に大きく土地の改変がなされたと考えられる。
11)土神堂
12)天后堂
13)観音堂 [前掲岡林他 表3]

 北壁と東壁のラインは,ここでも難問視されています。2の大門と二ノ門の位置は,何枚もの地図を重ねて推量した結果,大門は「四海楼駐車場から現在のマキ調剤薬局の線を直線で延ばし,十善会病院の中にいたる直線が全面である」,二ノ門は「籠町7-17寺田歯科と籠町6-3モリタ衣料品店に挟まれた道路の中心付近と推定」しています。つまり,現在はほぼ地中に消えているわけです。
 6が,前章末で見つけた空堀位置です。
 本稿前章で歩いた北東角から南東角については,7~9で触れられます。8に書かれる「大徳寺に抜ける通路」は,前掲古写真①で見えた野道と思われる。さらに9の北東角については,大門・二ノ門同様の難解さで――――
▲1877(明治10)年長崎外国人居留地図-1892(明治25)年長崎港精図間の唐人屋敷北東角の改変参照図

1877年(明治10年)頃作成されたとされる,土神堂や天后堂を含めた全体の位置関係が正確に描かれ,地番の面積及び借地人の名を記載している図-12「長崎外国人居留地図」30)をみると,その時点での唐人屋敷の北東隅はまだ江戸時代の地形となっている。このことから,1877年(明治10年)以降に,地形の改変がされたことが予想される。そのために,現在の地形は,唐人屋敷の当時の地形から北側にはみだした形状になっている。
また,1877年(明治20年)以降の地図をみると,図-13「長崎港精図」31)と図-14「長崎市全図」(引用略)では,いずれも唐人屋敷の敷地は,北側に削られている。全て現在の地図と同じような地形をしていた。その理由として,1881年(明治14)に長崎病院が建設されたために,長崎病院南側の自然の斜面地(唐人屋敷の北側)が掘削されたのではないかと考えられる。実際に県立長崎病院は幾度かの改装工事を行い,土地の整備を行っている33)。

※原文引用元
30)「長崎外国人居留地図」,明治初期,内閣文庫
31)鶴野麟五郎刊:「長崎港精図」1892年(明治25),個人蔵
33)青木義勇:明治初期の長崎医学校・病院概述―特に建造物の復興と戦時仮病院指定二回目の経験―,長崎談叢第67輯,pp36-108,1983

 緻密な推論です。北東角の長崎病院建設時の土地改変に始まり,同様の宅地造成による東壁ラインの東進=斜面の緩→急化が進んだと推定されます。結果,唐人屋敷北側から東側は地形的に江戸期の状況を最早とどめていない。

このような考証により,唐人屋敷跡の北東隅の地形は,1881年(明治14)に建設された長崎病院の建設に伴って,緩やかな斜面が削られて,急勾配の擁壁が建設されたために,北側に削られたものと推測した。
(略)すなわち,大徳寺跡の門から十善会病院の上まで直角に堀があるものとして,これを唐人屋敷北東隅の範囲と推測した。

 最初に掲げたアウトプット図面や文中に触れた面積等は,これらの緻密な考証の結果ですけれど,報告書中には,三次元で高低差を落とした図もありました。これぞ,「唐人の谷」のイメージを確認できるデータだったのですが――――
▲江戸時代の唐人屋敷の敷地形状(上図)及びその上への「長崎諸官公下衙図」の合成図(原典図-20及21)
「谷」というよりも,西の高みより東のそれが突出している。全体としては,西から東へ下る斜面に傾いている方形都市だった,というのが正確なようです。
 これを前提にすると,東側の堀が空堀だったのも頷けます。域内の水は東から西に流れ,結果西の堀に集まってから外部に排出されただろうからです。
▲唐館内敷地割モデル図(低:1<……<5:高)

5段階の地割構造

 時期的に上記を前提にせず,また別途に把握したものと思われるものに,上記の5段階モデルがあります。
※ 李陽浩・永井規男「元禄年間における長崎唐人屋敷の構成について─長崎唐人屋敷に関する建築的研究 その1─」日本建築学会計画系論文集 第482号175-184,1996年4月
 複雑な段差です。前章で歩いた土神堂から東方向の付近だけは1<2<3<4と分かりやすい坂道だけれど,3~5は城郭のような曲がりくねった段差になってる。
 ほかに,李は境界についてこう書いています。

敷地はその四方はほとんどを壕(または谷川)によって囲まれている。その更に外側,敷地の北側から東側を巡って南端にかけて(つまり山側)には竹柵が設けられている。これらの部分から唐館内までは崖になっている。また敷地の南端部から西端部を経て北端部までは壕の内側に石垣が設けられていることが分かる。

 ただし,同注20では,唐人屋敷の面積は史料により異なり,概ね年を追って増加傾向にあること,次のような史料から,周囲へ若干ずつ拡張された:餘ことにも触れています。

元禄元丙辰(1736)唐人屋敷南方裏手ノ畠地五百九十七坪餘,唐館構ノ内ニ加へ入,部屋数建添シム。 ※ 長崎実録大成正観

 内部空間については,次の三点を特徴として挙げます。
①出島には一切なかった宗教施設が,土神堂として当初から設置され,その前面に空地が設けられたこと
②当初は長屋が一定方向(南北)に並ぶ,極めて機械的な,収容所的な配置だったこと
▲出島図 ※「出島─その景観と変遷─」
③道にそれ独自として敷石がなされたのは後期のことで,前期には長屋群の間の空地部分があるだけで,計画的に配置された道がなかったこと
 特に③については強く疑問視しており

道に関しての出島と唐人屋敷との明確な違いが,何に基づいているのかは明確ではない。しかし道に関しての前提的条件(規定の条件)がなかったことが逆に幸いして,後期の独自な街区の発達をもたらすことになるのである。

としています。
 つまり,唐人屋敷の形状は,時代とともに相当大きな変化を経ているらしい。その変化の方向は,一つは当初の「収容所」から火災後の四大宗教施設を持つ唐風建築時代へ,もう一つは敷地自体の拡張です。

(引用者追記:宗教施設が)「土神堂」のみであった時代と,それに新たに「天后堂」,「観音堂」が加わった時代では,屋敷地内の施設構成における空間の意味が変化しており(略)

その変化を生み出したのは,そこに住む唐人達の営為であり,その結果としてそこには独特(自開的)な建築的・都市的空間が造り出されていった。この点は,幕府側によって設定された空間構成・性格を保持し続けた出島との基本的な差異でもある。

▲印判文陶磁器の変遷

■史料紹介3:(考古学的所見)唐人屋敷建設前後の出土陶磁器

 唐人屋敷は工事をする度に考古学的発見のある場所らしい。
 明清中国人が集住してたんだから当たり前,ではあるんだけど,不思議なのは唐人屋敷が機能し始める前の出土があることです。
 長崎市が設けてる一般向けHPによると,平成24年度の調査で「唐人屋敷の北西部,土神堂の西側奥」48㎡から陶磁器を主体とする8千点以上の遺物が出土している。これが例外なく唐人屋敷が置かれる前のものだったというのである。──唐人屋敷の場所は,それ以前は幕府所有の御薬園だったはずで,なぜ唐人屋敷設置以前に中国人由来の品が埋められたのか,全く理解できない。それまで市内に散住していた中国人から何かの事情で没収したのだとしても,なぜ埋めたのか?
※ 長崎市/長崎市唐人屋敷跡の調査成果-唐人屋敷建設期の中国陶磁一括資料の分析を中心に- | 文化遺産の世界
 ただとにかく,この5年後にほぼ同じ天后-土神堂間の40平米を平成29年度調査で,こちらは唐人屋敷稼働後の文物が出土したことで,この短い時代の貴重な考古学データが得られてます。

元禄元年(1688)の唐人屋敷建設直前までに廃棄された良好な一括資料の出土は全国的にみても初めてである。(略)
①は北部ベトナムの鉄絵印判文碗で,中国が遷界令を発布した1660年代に生産が始まったとみられる。
②は中国の福建・広東系の印青花碗。これまで出現時期は明確でなかったが,本調査により元禄元年(1688)以前にさかのぼることが判明した。
③は肥前の染付印判文碗や皿,青磁染付小碗。肥前のコンニャク印判は1690年代以降に普及するが,本調査によって元禄元年(1688)以前に製作されていたことや,初期のコンニャク印判は有田産の比較的上質品が多いことが判明した。[前掲長崎市調査成果]

 H24調査では,北越-中国(福建広東)-日本(肥前)の陶磁器生産が拮抗し,互いに技術を盗みつつ発展した様が初めて明らかになってます。これにH29調査の成果を重ねると──
▲唐人屋敷開設以前(左列)と以後(右列)の陶磁器の比較

写真12は平成24年度調査(Ⅰ期:1688年以前)と平成29年度調査(Ⅱ期:1689年以降)の出土陶磁器を食膳具、調理・厨房具、貯蔵具に分けて列挙したものである。(略)最も違いが顕著なのは中国産の食膳具である。(略)Ⅰ期では中国産の碗や皿は口径15~16cm以下が大多数を占め、共用器としての鉢や7寸以上の皿はほとんど出土しない。ところが、Ⅱ期になると共用器が多数出土するようになる。[前掲長崎市調査成果]

 当時宴会に明け暮れていたらしい船員たちは,使ってた皿が後代ここまで分析されるとは,思いもよらなかったでしょう。

唐人屋敷建設以前は市中での宴会が可能であったため、日常で使用する最小限の手回り品を持参すればよかったのであろう。しかし、唐人屋敷建設以降は屋敷内での宴会となり、共用器を持ち込む必要が生じたため、Ⅱ層では鉢や7寸以上の皿が多数出土するようになったと考えられる。(略)
注2 換言すれば「接客される状況」から「接待する状況」に変わったといえる。接待する側が宴会食器を調達するのが一般的であろう。[前掲長崎市調査成果]

 ちなみに,以下は文献史料です。1764(明和元)年に長崎を訪れた浙江省銭塘人・汪鵬が著した「日本砕語」別名「袖海編」には,酒と女に明け暮れる当時の船員たちの姿が書き残されてます。
※ 中國哲學書電子化計劃(圖書館)/《昭代叢書》本《袖海編》
「二船一室の混住は,盗難や騒擾防止の見地からも好ましくない」という記事が「唐通事会所目録」(同七,宝永4年6月10日の条)にあり,一船の船員が一室に住んだと推定されてるから,酒飲んでるより仕方なかった,という見方もできるのですけど……。
▲汪鵬「袖海編」の記述

■小レポ:3所見を総合しての諸論点

 1689年創設,1870年焼失,というのが唐人屋敷の公式な歴史です。その間,長崎の中国人はここにだけ住んでたことになってる。
 前掲長崎市調査成果から,もう少し詳しく並べる。
1688(元禄元)年 唐人の市中散宿の禁止
1689(元禄2)年 唐人屋敷の建設,4,888人入居,土神堂創建
1696(元禄9)年 中国人が唐人屋敷に移住
1705(宝永2)年 唐人屋敷火災
1784(天明4)年 唐館(一部残し)全焼
1858(安政5)年 唐人貿易は従来通りの通達
1868(慶応4)年 唐人屋敷の処分開始
1870(明治3)年 唐人屋敷,大火での消失

[前期]東西植物種の宝石箱?十善寺薬草園

「唐人屋敷は幕府の薬草園用地に建てられた」とさらりと書く記述が多い。
 けれど,ここで薬草を「漢方薬」と書くと,話が少なからず剣呑なことに気づかれると思います。生糸輸入が低調になったもう少し後の時代には,輸入品の花形になる交易品です。幕府は当時その代替品を全国で生産しようと取り組んでおり,決して空き地だった訳ではない。
 この谷は前世紀の16Cから,紆余曲折を経ています。
16C 長崎氏が十禪寺で十禅師八王子を祀る。
1587(天正15)年 長崎氏転出後,同寺はキリシタンによって焼却,跡地に会堂建設(薬草園併設)
1614(慶長19)年 キリシタン禁教令で会堂破却
1616(元和2)年 長崎代官・末次平蔵(初代)が蘭・中密輸の薬草木の栽培施設を設置
1676(延宝4)年 末次家没落。以後,町年寄が園を支配
1680(延宝8)年 幕府経営薬草園に変更
1688(元禄元)年 唐人屋敷設置のため立山奉行所内に移植(同地で1720(享保5)年まで経営)
唐人屋敷と薬草園跡: 長崎んことばかたらんば
 幕府の薬草園の面積は8,766坪,というのは一次史料に当たれてないけれど複数の記述がある。前掲岡林他論文の唐人屋敷推定面積は9,367坪でしたから,ほぼそのままの場所でしょう。
 つまりこの谷は,畑も少しある程度の裸地から唐人屋敷になったのではなく,直近百年ほどで寺→教会→薬草園→唐人屋敷と三度も「破壊」される過酷な経緯を辿ってます。
 だからこそ,港近くでこれほどまとまった,出来るだけ更地に近い状態の地となると,ここしかなかったのでしょう。

薬草園の創始者=末次平蔵

1680(延宝8)年 牛込奉行、元大官(ママ)末次平蔵が開拓した長崎村十善寺郷の薬園跡と付近あわせて8766坪の地を、唐船舶載の薬草植え付け地に指定して栽培を開始、薬は幕府に献上する(長崎薬園の初め)
※ 長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~資料1:薬学年表

 歯に物の挟まったような書き方にならざるを得ないのは──長崎貿易の黄金時代を築いた末次平蔵(初代)が十善寺薬草園を開設し,密輸とも取れる怪しげな草木を栽培したというのは確かだけれど,四代目平蔵の代,1675(延宝3)年に末次家は配下の者の密輸の発覚により廃絶され,四代茂朝は翌年,隠岐に遠流されたからです。
 発覚翌年,幕府は四百人の調査団で現地長崎に乗り込んでいる。末次家が密輸で財を成したことは以前から周知の事実だったわけで,この件は誰の目にも末次家への計画的な攻撃に移ります。
 末次薬草園を長崎町年寄,つまり地元自治会が一度は引き継いだのに,すぐ幕府直営に転じ,それがさらに唐人屋敷に,という流れも非常に不自然です。
 唐人屋敷開設2年後の1698(元禄11)年,長崎で大火災が発生してる。これは後興善町・乙名の末次七郎兵衛宅から出火したため「末次火事」(すえつぐかじ)と呼ばれる。この七郎兵衛が23年前に廃絶した末次本家とどういう関係なのか調べ切れてないけれど,末次家を巡る確執はこの時期の長崎の基調だったのでは,と疑わせます。
 こういう状態下で,元・末次家所有の薬草園が唐人屋敷に転じた,という事実も何か裏がありそうな気がしますけど──よく見えません。
 一つだけ指摘できるのは,一連の経緯の中で,末次家が密輸で貯めこんだ中国薬草と耶蘇会栽培から引き継いだ西洋薬草とを,幕府はまんまと「ロンダリング」した格好で自己の薬草園に移入できたことです。
▲江戸幕府の開設薬草園[後掲長大薬学部]

長崎薬学の聖地・西山薬草園

 長崎薬草園は4箇所を流転したことになります。
1680~1688(延寶8~元禄元)年 小島郷十善寺(現館内町)8,766坪
1688~1720(元禄元~享保5)年 立山奉行所内(現立山町) 面積不詳
1720~1809(享保5~文化6)年 小島郷十善寺(現十人町) 年 1,179坪
1810~1869(文化7~慶応3)年 西山郷(下西山町)1,228坪
※ 長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~第一章 近代薬学の到来期(4.江戸時代の薬園)

 薬草も生き物なので,移転の度に多くの草木が枯れたらしい。

地新たにして古来漢種草木多く枯れて不存、今あるところ、、、[1814(文化11)年,長崎奉行附き医師・中岡益叔の実見記]

 ただし,第四代園の西山を1827(文政10)年にシーボルトが現地調査,植物108種を自筆記録し,その際の植物標本がライデン大学に現存している[石山禎一氏の研究(未公表)]。
 1818(文政元)年の西山御薬園薬草目録に記録される草木は次の70種。
山梔子(サンシシ)、烏薬(ウヤク)、酸棗仁(サンソウニン)、木瓜(モッカ)、山茱萸(サンシュユ)、仏手柑(ブッシュカン)、呉茱萸(ゴシュユ)、槐樹(エンジュ)、牡荊(ボケイ)、杜仲(トチュウ)、木蝋樹(モクロウジュ)、肉桂樹(ニッケイジュ)、辛夷(シンイ)、西府海どう(サイフカイドウ)、木犀(モクセイ)、楝(レン)、枳樹(キジュ)、楓樹(フウジュ)、方竹(ホウチク)、対青竹(タイセイチクイ)、大明竹(ダイミョウチク)、貝母(バイモ)、天門冬(テンモントウ)、青木香(セイモッコウ)、艾(ガイ)、大戟(タイゲキ)、大黄(ダイオウ)、大麦門冬(ダイバクモントウ)、小麦門冬(ショウバクモントウ)、何首烏(カシュウ)、草菓(ソウカ)、覆盆子(フクボンシ)、白附子(ハクブシ)、萎ずい(イズイ)、黄精(オウセイ)、川弓(センキュウ)、薄荷(ハッカ)、茴香(ウイキョウ)、金桜(キンオウ)、前胡(ゼンコ)、地楡(チユ)、甘草(カンゾウ)、桔梗(キキョウ)、蒼朮(ソウジュツ)、三七(サンシチ)、使君子(シクンシ)、玄参(ゲンジン)、甘邃(カンスイ)、当帰(トウキ)、白れん(ビャクレン)、黄今(オウゴン)、金灯草(キントウソウ)、蔓生百部(マンセイビャクブ)、特生百部(トクセイビャクブ)、白薇(ビャクビ)、白前(ビャクゼン)、土茯苓(ドブクリョウ)、蓖麻(ヒマ)、蓍草(シソウ)、黄耆(オウギ)、竜胆(リュウタン)、防已(ボウイ)、菊葉黄連(キクバオウレン)、良姜(リョウショウ)、知母(チモ)、淫羊かく(インヨウカク)、北五味子(ホクゴミシ)、浙江大青(セツコウタイセイ)、馬蹄決明(バテイケツメイ)、江芒決明(コウホウケツメイ)
 薬草園に祀られたと推測されら神農像が,大正期に松森神社に奉納されています。現代でも,毎年,長崎県薬剤師会主催による薬祖神祭が11月に開催され,この際には同神農像が披露されるという。
 逸れた話を続けているのは,全国三番目の幕府直営薬草園で,1/8規模になってもこれだけのクオリティを持っていた薬草園の元祖・十善寺末次薬草園は,学術的,コレクション的にはもちろん交易資産としても,当時屈指の価値を秘めたものではなかったか,という点です。
 だからそこを潰して唐人屋敷にした,という選択は,実は物凄い代償を伴ったもので,当時においてもそれは知られ,それでも建設しなければならない必然性を唐館は持っていたのではないか?
 ついでながら,唐人屋敷の南北構造が概ね五段の段々畑状になっているのも,西山がそうであるように,薬草園の基本構造を受け継いでいるとも思えます。
▲松森神社の神農祠
なお,神農神については既に別に調べてるので右をご参照→※5503’※/Range(上海).Activate Category:上海謀略編 Phaze:ポイントにはマンション/■レポ:薬王廟と巡道街に見る清末の光景/① 薬の無料配布所:药王庙

[期首]ゆっくり行われた?唐人屋敷への収用

 どうしても疑問に感じるのは──前掲長崎市調査成果では,1696(元禄9)年に「中国人が唐人屋敷に移住」としています。1689(元禄2)年の唐人屋敷の建設時に入居した人数:4,888人というのは,原典を通航一覧に取る確かな数字らしい。けれど,直近の17C末中国人人口推計は9千~1万人とされる(長崎居住者の1/5~1/6と推定)。だから,1689年には長崎居住中国人の半数は唐人屋敷に入居していない,というのが通説化しており,入居の完遂時期として1696年説が有力になっているらしい。
 そうだとすると,中国人の長崎市内散宿が禁止された1688(元禄元)年以降,8年間も間がある。長崎の中国人はその短くはない期間,一体どこにいたのでしょう?
 長崎奉行所が1689年段階で幕府に「唐人屋敷に全中国人を移した」と報告しているのに,現実の収用は,少なくとも8年近くかけゆっくりと行われたことになります。これは,単なる時間的な虚偽報告なのか,それとももっと本質的にザル法だったことを意味するのか,あるいは中国人側の抵抗又はサポタージュがあったのか。
 当時,長崎の経済の中枢を占めた人々の収用です。「今年からはどうぞこちらへ」というだけでは済まない複雑な確執が,地元では当然あったのではないでしょうか?長崎は,16C末には人口千人だったところから交易開始後に数万規模に急拡大した長崎を維持するには,17C以降も中国交易に頼っていくしかない。幕府向けの施策と異なる緩慢さで唐人屋敷が形成される過程は,中国側との政治的な取引きが難航した実情を伺わせます。

唐人屋敷開設の一次記録

 そもそも唐人屋敷は,何をきっかけに造られたのか?
 この点は,教科書的な記述には①キリスト教禁教と②密貿易抑制の2目的,つまり出島と並列のタッチで書かれるけれど,上記の疑問から確認してみたくなりました。
 なかなか行きつきませんでしたけれど,一次史料はこういうものでした。

其比唐船ら持渡り候書籍内ニも,邪宗門の事相載セ候物少々持渡り候事有之候,此等の儀ニ付,元禄元年川口源左衛門,山岡十兵衛在勤之節,老中より御下知有之,唐人屋敷造作出来,翌年正月唐人入置候事[崎陽群談,1716]
※ 大岡清相編,近藤出版社,1974

「邪宗門」つまりキリスト教の御禁制文書を,中国人も持っているのではないか?と疑った幕府が唐人屋敷建設を命じた。
 けれど,このタイミングでキリスト教が問題視されるのも妙です。島原の乱はもう半世紀前。──オランダ側から,ポルトガルによる中国経由の布教活動の動静情報があった,という史料もありますけど(次章参照),政策の根拠になるような確証あるものではないと思う。
 しかも密航や密輸,長崎側の交易利益などの論点には,この公式文書は不自然なほど全く触れない。というより,中国人の来航が明清交代期にあってはどれが密貿易なのか,定義付けるのは難しいわけで,そんな時代はもう半世紀も続いてる。これもこのタイミングで出てくる論点とは思えません。
 唐人屋敷の具体的な規制は,次のようなものでした。

禁制
一 断なくして唐人構の外え出事
一 傾城之外女人入事
一 出家山伏諸勤之者並乞食入事
右條々可相守之若於違背者可為曲事者也。卯十月
※ 長崎実録大成 正編,p251

 出入りは「断なくして」不可,女人は「傾城之外」(遊女以外は)不可。役人仕事として見ると,シビアな見掛けをしていながら,きちんと穴が開けてある制度のように見えます。
 最後の文章は,分からない。どの解説も「僧侶は入れた」と書いてあるけれど,ここでの「出家」は別の意味でしょうか?山伏と乞食に並べて書いてある「諸勤之者」とは,要するに有象無象は入るな,と言っているらしい。
 以下は施行の細則的なもの。


一 兼而相定役人之外ニ之門より内え出入停止之事
一 唐人手廻リニ相交商売物有之候ハ可申出事
一 構之内え持入候諸品並外え持出品々門番所[ニ而]相改之可申事
右之趣兼可相守者也。
卯 十月
[同長崎実録大成正編]

 最後の2つは,持ち込む荷物は「手廻リ」品,つまり日用品もあろうから許可制だよ,と言ってる。最初の条は,役人は入らない事を宣言してる。
 これはつまり,外部との境ではチェックするけれど域内ではお好きに,という体制です。
 これは──まるで,現代中国に立ち並びつつある「ゲーテッド・コミュニティ」(周りを防壁で囲み,警備員たちが警護している高級住宅地)ではないか?
▲17世紀の東アジアにおける日本対清の外交上の影響力範囲の推移イメージ(次頁再掲)

対清外交撤退戦の最終防衛ラインとしての唐人屋敷

 ①抜け荷と②キリスト教布教の禁止徹底が主目的でないとしたら,なぜ唐人屋敷は1789年に設置されたのでしょう?
 ③清国に対する外交的撤退(詳細次章参照)における最終防衛ラインとしてだと思います。
 清の矢先が東に向かっていたこの17C後半,日本だけが放置された。江戸幕府のとったこの巧みな外交的撤退時の主要な二手が,[a]末次交易ラインのカットと[b]唐人屋敷とその象徴する対清鎖国の完成でした。
 この時期の台湾情勢の年表を補足すると──
1662年(オランダ・台南)ゼーランディア城陥落,鄭氏台湾支配開始。直後に鄭成功死去,後継争いの末,子・鄭経に権力移譲
1664年 オランダ軍,鶏籠(現・基隆)上陸,以後1668年まで占拠
1672年 鄭経,英と通商条約締結
1674年 鄭経,三藩の乱に与し大陸出兵
1676[長崎:a]密輸事件により末次茂朝(四代目平蔵)遠流,末次家廃絶
1679年 台湾本土監国に鄭経の元子・鄭克塽が就任
1680年 鄭経,大陸から撤退
1683年 清海軍大陸侵攻,澎湖海戦で鄭海軍を破る。鄭克塽,降伏
1688[長崎:b]中国人の長崎市内散宿禁止
1689 唐人屋敷竣工
1696 唐人屋敷へ移住終了1698[長崎:b]末次火事


▲(次章再掲)清の対外政策(制圧近隣諸国とその年代)

 江戸幕府から清への外交メッセージに翻訳すると,[a][b]両施策の含意はこうなります。
[a]末次廃絶:「日本は清に敵対しません」(∴既存の中国南部の交易圏は放棄)
[b]唐館設置:「日本は今後も清と外交関係は持ちません」(∴来航中国人は軟禁)

 末次家が築いた交易ラインは唐通事類川藤左衛門が代表する閩南人系のネットワークで,だからこそ17C半ばには鄭氏台湾を主たる交易先としてきました。しかもそれは公式な交易でなく密輸がメイン。鄭経が南部中国を攻撃していた1670年代に,イギリスのような鄭氏台湾に近い立場は取らない,という姿勢を示すには,この長崎閩南交易の核,末次家を切除するのが最も有効策だったでしょう。
 この一手は,従来は閩南密輸ネットワークから末次家経由で幕府に流れていたマージンのルートを絶つ意味も持ちます。即ち,交易ルートを表に一元化し,次の本命のニ手目・鎖国完成を準備する施策でもありました。
 長崎居住の中国人の大半は,今も江戸期当時も閩南人です。
 時々の海外情勢に即して清を刺激せずに,唐人屋敷体制=表交易での厳重な税関管理を江戸幕府が実現させた過程は,かくも精緻なものだったと捉えられます。
▲伝・圓山應學「長崎港之圖」(1792,長崎県蔵)中,新地・唐人屋敷部分

[期中]高級軟禁地 カンナイ・バレー

 唐人屋敷への収用の2年後,1698年に長崎会所がオーブンしています。この役所は,長崎税関の前身とされますけれど,同時代の中国の会所と同じく,売買を一元的に行う公営企業と言った方が近い。
 江戸幕府は1714(正徳4)年頃に,この長崎会所から定額で年5万両の運上を徴しています。下記日銀の参考レート1両=現10万円で換算すると,50億円です。
※ 日本銀行金融研究所貨幣博物館 – お金の歴史に関するFAQ(回答)/Q4
 17C末から幕末までの長崎行政機構の実質的中心は,この長崎会所だったと言えます。前述のとおり,江戸幕府は17C長崎交易を牛耳った旧・長崎代官系の末次家と閩南系中国海商の権力機構を,末次廃絶と唐人屋敷設置により駆逐する。その過程を17Cに終えた上で,18C以降,これに代わる長崎の政治・経済権力として新公営企業・長崎会所を設けた,というのが,17C末前後の長崎の政治風景だったのではないでしょうか。
 こう考えると長崎運上金の意義も明確です。末次家裏金のマージンの代替です。
▲唐館図絵巻(部分1/唐船周り)長崎歴史文化博物館所蔵

 もう一つ前提にすべきは,出島との違いです。
 先の唐人屋敷に課せられた禁制と同じく,出島の禁制を見ると──

禁制  出嶋町
一、傾城之外女入事
一、高野ひじり之外出家山伏入事
一、諸勧進之者並ニ乞食入事
一、出島廻リ傍示木杭之内船乗リ廻ル事 附橋之下船乗通事
一、断ナクシテ阿蘭陀人出島ヨリ外江出ル事
右ノ条々堅可相守モノ也
卯 十月[wiki/出島]

と似たようなもので,幕府及びオランダ人に対しては「同じですよ」と説明したのでしょう。
 でも面積にせよ人口にせよ規模は違う。それに,倉庫である新地と分かたれている居住専用スペースです。
※ 面積:出島3,969坪1.5ha 唐人屋敷9,366.66坪3.6ha ∴2.34倍
  人口:出島(不明)    唐人屋敷推定6,300人
※※出典 越中哲也『越中哲也の長崎ひとりあるき』長崎文献社〈長崎おもしろ草〉、1978年4月
山口美由紀「失われた出島と復元整備」『長崎文化 第70号記念』、NPO法人長崎国際文化協会、2012年11月
大平晃久「長崎出島における復元整備の経緯と問題点」『歴史地理学』第56巻第1号、 21-31頁
前掲岡林他2008
長崎市公式観光サイト/もっと詳しく知ろう!唐人屋敷跡

▲二階ベランダで演奏会。ベランダの造りが明らかに和風建築ではないのにも注意
伝・渡邉秀石「唐館圖巻」(部分)18C前半,神戸市立博物館蔵

 もう一つの決定的な違いは,設置・所有形態です。
 出島は門・橋・塀など基礎インフラは幕府出資,その他は高木作右衛門,高島四郎兵衛を中心とする地元有力商人が出資して建設され,使用国側が年間額を支払う,つまり商人共有の施設を賃貸する形態でした。けれども唐人屋敷は――――

公儀(幕府)が拠出した普請金は立替銀として唐人達の家賃によって五ヶ年間に還付された事実である。これによって屋敷地のある種の権利が唐人と残余金の拠出者である長崎総町中に留保されたと考えられる13)。このことは、出島におけるオランダ人がその家屋敷を終始「賃貸」として借り受けていたことと比較すると、重要な差異であると思われる。
注13) また山脇前掲書「長崎の唐人貿易』(p.74)では唐人屋敷追営費に関して「元緑唐人屋敷覚舎Jを引いて以下のように述べている。
「総工費六百三十四貫四百四十三匁四分七厘一弗(うち四百貫は幕府から貸し与え、二百三十三貫六十九匁六分七厘一弗は長崎地下配分銀から支出し、残額一貫三百七十三匁八分は、薬園地にあった土蔵解体の古材木、買入れ材木の遣い残りなどを、入札に付して得た)をかけて、翌元禄二年四月二日に出来上がった。」※※
唐人屋敷の造営は幕府と長崎総町中がそれぞれ普請金を出しあって行なったものであり、設立後の唐人屋敷の具体的な運営は長崎総町中が中心となって行なったのである。
※ 李陽浩・永井規男「元禄年間における長崎唐人屋敷の構成について」日本建築学会計画系論文集 第482号175-184,1996年

※※ 原典長崎実録大成
「長崎地下配分銀」は長崎会所の利益から地元に還元される「地方交付税」で,つまり長崎の公庫です。だから唐人屋敷は,所有感覚としては公営住宅,居住権感覚としては会所と居住中国人が共有する形だったことになります。
▲敷物の上に置かれた器とこの熱気は,かなり濃厚に,サイコロで賭け事をしている嫌疑があるのではないか?(前掲伝・渡邉秀石)

 1689(元禄2)年の唐人屋敷竣工と同時に入居した中国人は,先述通り4,888人。
「シナ人を閉塞して住まわせる嫌な牢屋の姿に変わった」(エンゲルベルト・ケンベル:日本誌(改訂・増補)-日本の歴史と紀行-,下巻,霞ヶ関出版,昭和48年,p123)とも欧米人の目には映ったようですが,住まう中国人にとってはどうだったか。
 竣工と同時に土神堂も創建されています。例えばこの土地公廟設置が当初に計画されていたというのは,設計段階に中国人側が噛んでいないとありえないことです。
▲風呂屋か洗濯場のような水辺。台を挟んだ二人は中国将棋で対戦中か?
「崎陽屋舗圖形」(京都大学附属図書館蔵)部分

 唐人屋敷図(長崎県立長崎図書館蔵,元禄頃の作と推定)には,敷地南隅部(天后堂西付近か?)の「風呂屋」が描かれ,「三間梁七間ニ打通シ壹間ノ庇」と記された上,内部に「釜屋」「湯風呂」と書かれています(前掲李1996)。上の図画もそこのようにも見えますけど,はっきりとはしません。でもとにかく,唐人屋敷は生活空間としてデザインされていたわけです。
▲市場らしい場所
石崎思融「唐館圖繪巻」(1801,長崎県蔵)部分

 この図画は明らかに市場が立っている情景です。
「手廻リニ相交商売物有之候ハ可申出事」の定めとの関係はどうなっているのか,どうもよく分からないけれど,大々的に露店を広げて商売しているようにしか見えない。
 しかも,よくよく見ると,売り手の中にはっきりと和服や頭の髷が見えているものがあります。役所に「申出」れば簡単に入れたのか,許可を得ている日本商人の数がそもそも多かったのか,どうにも分からない。
▲丁髷頭とチャイナハットが交じり合う売り場風景(前掲崎陽屋舗圖形部分)

 前掲ケンベルには「シナ人には日本の商人が食料品を毎日門の入り口の処まで持って来て並べ,直接購入することが許されている」とあります。

出島が海上を埋め立てた地であったのとは対照的に,唐人屋敷が三方を囲まれた内陸部に存在していたことは,これらの施設の近接性とは裏腹に,出島と唐人屋敷の地理的な意味づけによる差異を表している。(略)出島が陸地と出島をつなぐ線として,(船を除けば)ひとつの橋しか持っていないのに比べ,唐人屋敷は陸続きの地に存在していたということである。[前掲李] 

▲中央ではチャイナハットの籠を下げた人が,丁髷の売り手に「これ頂戴」と指さしている。その左手後ろでは,何かを焼いて売っているらしい。
「唐館圖巻」(Essex museum)部分。上記崎陽屋舗圖形の転写だろうか?

 印象ですけれど,これは「許されている」という状況ではないように見えます。
 ここまでの画では,日本側役人の姿は全然描かれない。それに対し,下の図では,二ノ門の対面(画面左端)に刀を差している役人らしい姿が一人描かれていますけど,もう見ているだけ,という感じです。
 ちなみに,こうした荷役人夫への駄賃は「こぼれ物」として,さらに傾城(遊女)への贈り物は「貰物」として認められていた,という記事もあります。※ 根橋正一「江戸時代長崎の中国人遊客」社会学部論叢第24巻第2号,2014
 この他に館内へ入れる資格として,「部屋附」の役もあったらしい。これは唐人を24時間体制で「昼夜相詰」監視する役目として崎陽群談に書かれます。

唐人部屋附与号ケ候而,軽き者共一部屋ヘ五人三人ツツ,何れの部屋へも昼夜相詰候事 ※「崎陽群談」所収「唐人屋舖之事」

 ただ,原文には「監視」の類の目的が明記されません。実質,小間使いかドアマンだった可能性もあるのでは?と個人的には思えますけど,幕府・長崎奉行側にとっては監視網の一部だったのでしょう。
 とにかく,こうなると相当の数の日本人が実際は館内に出入りしてたはずです。あるいは部屋附役はそういう実態を塗り隠す後付けの制度では,という想像もできます。

▲二ノ門前付近らしい図画
「唐蘭館圖屏風」(18C前半)部分

 ケンベルの言通りの光景は,描写する者が視座を取りやすかったからか,相当数が二ノ門の外からのアングルで描かれています。
 それにしても……和服丁髷の姿が目立ちます。大門から中に,そんなに気軽に入って商売が出来たのでしょうか?
 それらは生活物資の売買だから「手廻リニ相交商売物」だと考えれないこともないけれど,はっきりと荷を運んでる人の姿があまりに多い。現代の日本旅行で爆買いする中国人の姿が重なってしまいます。
 あと,年中行事の際には,中国人側は長崎奉行ら役人のほか主要町人を招いて盛大に祝っていたらしい。例えば年3回開かれた「媽祖勝会」(長崎では菩薩祭とも)には宮前で卓袱料理がふるまわたという(前掲根橋)。

▲赤が使われていて中国人と日本人が判別しやすい図画 
「在長崎日清貿易絵巻」(19C前半,松浦史料博物館)部分

 上記では,荷を担いで走る人々がガンガンに描かれてます。しかも階段の上下から考えて,左手側が唐人屋敷でしょうから,二ノ門の内側を走って行っております。
 こうやって日本で購入した荷物を,中国帰船時に積み出せたのでしょうか?という疑問も沸いてきますけど,積み出せたから購入していたのでしょうから……その辺りがどうも見当がつきません。
 下の図では,はっきりと帯刀した人の役人の目の前を,丁髷で裾をまくった運び手が門に駆け込んでいます。

渡邉秀詮「長崎唐館交易圖」(神戸市立博物館)上:全体 下:部分

幕末長崎奉行言上書の記す5ルート

 長崎奉行久世広正が1837(天保七)年四月の言上書で幕府に泣きついてます。

(会所の)本方商売衰微及ひ■起本■,①第一前書申上■琉球産物と唱,於当地売捌■唐薬種類,②[キキ]工社(唐人水夫)共抜荷密売之品共,③其外町年寄所望品,④(唐人屋敷)部屋附火元番共貰物と相唱■不正ニ粉敷品等
※ 中村質「長崎会所天保改革期の諸問題─鎖国体制崩壊過程の一側面─」『史観』115,p63-93,九州大学学術レポジトリ,1978
原典:通航一覧続辑 第一,321-322頁所収長崎奉行言上書

 長崎会所の本方商売──この時期には「本来の長崎交易ルート」,つまり①~④以外という意味で「数少ない真面目な取引」みたいな語感で呼ばれてて,これ自体が哀れを誘います。──の衰えは次の4ルートのせいです!頼むから止めさせて下さい!
①「琉球産物」と称する(薩摩による)長崎での交易
②中国人水夫の(手回品と称しての)抜荷
③町年寄の(中国人からの贈り物と称しての)「所望物」
④「部屋附」「火元番」の「貰物」
 ①②については別稿(→m145m第十四波mm南京寺/■小レポ[1/2]:在長崎・薩摩秘密屋敷という永久の謎)に譲る。ここでは唐人屋敷の人間関係を通じての「密貿易」ですけど,まず③は

 町年寄のほか,長崎代官・鉄砲方,また会所の調役・宿老・目付・吟味役・請払役,唐・蘭通詞の上層地役人は,「別段売荷物」の中から「私入用」の品を唐蘭人に「所望」し,奉行の許可を得て元値で「願請」けることができ,その残りが会所の入札払となった(刊本五冊物107~110頁)。[前掲中村]

※刊本五冊物:長崎会所五冊物。長崎県史史料編第四所収。吉川弘文館,昭40
 おそらく誰かが「これは贈り物で商売用じゃない」とか言って通ったものだから,我も我もと拡大したんだろうけど──

また予め特定の品を会所を通じて注文しておき,「[言兆]物」として持来らせることもできた。[前掲中村]

となると,ほとんど交易と区別がつかないぞ?
 ④のうち,例えば

唐館火の元番人は一般の町人や近在の百姓が一船につき三人,唐人屋敷乙名組頭・宿町・唐人番のそれぞれから一人宛雇われた小者で,番賃は一日銀ニ匁宛のほか館内持込みの白砂糖三百斤と竜眼肉・荔枝等を貰い,(略)「謝儀」として自家製の野菜等を贈った[前掲中村]

「等」が無茶苦茶疑わしい。中村さんも「『貰物』名義の脇荷物の流出はかなりの量に達していたことが知られる」と書き,それならば「謝儀」が金銭になるのは目に見えており,そうなると交易と何も変わらない。
 もう一つ,③④の役職が売買の対象になっていた点も諸史料に事例がある。

長崎地役人の各役儀は,近世中期以降,町年寄以下各人の「株式」「役株」─端的には役料受益権─とされ,家計逼迫においては役料何十カ月分かに相当する銀高で売買された(役株譲渡による名跡相続)。[前掲中村]

 役職が売買されたのは,それが鎖国の禁を破れる特権で,相当な実益を伴ったからです。ならば購入した役職に付いて,その特権を生かした商売に勤しまないわけがない。

[期末]爛熟して散った華

 18・19Cの唐人屋敷の風景は,政治的に長崎中枢から切除されたけれど結構豪勢に謳歌してる,という印象です。
 中国人渡崎者が長崎滞在を好ましいと考えたのかどうか,アンケートを取ってないので分からないけど,それは決して悪くないらしい。そしてそこには歓楽の意味も含まれていたことは,日本三大遊郭の一角を占めた丸山の事実から明らかです。そういうことでの長崎行きは,17C後半以降の清で一種のブームを呼んだという。※ 前景根橋。

貿易船としての唐船は「壮遊」を目的とした客をも乗せていた。長崎は貿易都市であると同時に遊興都市であったのである。これは、近代以前の東アジアにおいて、外国船の寄港を認めていた広州、釜山、長崎のうち、外国人に娼妓を提供したのは長崎のみであった(略)「丸山の恋は一万三千里」とも詠まれた、清客と丸山遊女の交歓の図柄が展開する。それは、長崎の経済そのものを支えるほどの規模であった。
※ 菅原克也書評 唐権著『海を越えた艶ごと――日中文化交流秘史』新曜社,2005

▲富島屋版唐人屋舗景,1780,神戸市立博物館(部分)に描かれる二ノ門内側をあるく「けいせい」(傾城=遊女)
 どこまで行っても闇経済なので,その経済規模は定かではないけれど,単なる性風俗としての丸山は,元禄時代,つまり唐人屋敷創設期に峠を越え,やがて没落していった,と見るのが通説らしい。「ピントコ坂」の唐人・何旻徳と遊女・阿登倭……は唐人屋敷以前の江戸初期の人ですけれど,シーボルトお抱えの瀧は幕末の人です。
 最も金を落としていく集団で,かつバックに当時の世界最大にして史上最大の帝国(元)の後継を名乗る国がついてる。その意味でギリギリの施策で唐人屋敷への「抑留」をしてる手前,合法のボーダー線上の中国人の行為は可能な限り黙認されたのでしょう。──現代の東南アジアでの日本人の所業の位置に例えれば捉えやすい。
 この18C以降,唐人屋敷の後半の姿,あるいは変化は史料も乏しくどうにも見通しが効きませんけれど,大国を傘にきた傍若無人が許された状況で,幕府や長崎奉行所側もそこはあまり問題にしていなかった風があります。

火付け抜け荷は長崎の華

 長崎の犯罪記録(犯科帳)に,1763(宝暦13)年に発生したほとんど「反乱」か「暴動」と言っていい事件が記されてます。

 唐船の水手であった董道武は、密売のため人参を隠して唐人屋敷に持ち込んだことが発覚し、過料五百目と国禁の処罰を申し渡された。しかし、長崎に残ろうとした董が帰国の船に張仕康を乗せ替え玉としようとしたがまたもばれてしまい、入牢(唐人屋敷内)となった。すると董の仲間の唐人たちが力尽くで彼を救い出そうとした。しかし、騒ぎを起こした62人が全員捕らえられて国禁に処分され、さらに首謀者の二人には銅2千斤の罰が加えられた。※ 額定其労「長崎『犯科帳』に見られる唐人関係案件」 同参照として,
 森永種夫編(1958 ‒ 1961)『犯科帳――長崎奉行所判決記録』(全11 巻)長崎:犯科帳刊行会
 同著(1993)『犯科帳』東京:岩波書店[初版:岩波書店1962 年]。

▲董道武さんの国際的犯罪記録
※ 董道武に関わる案件(『犯科帳』第28冊/七)前掲額定。
 数十人が徒党を組んで脱獄させたのだから,江戸時代の農民一揆なら大層な処刑対象でしょう。けれど,この反乱行動が,何と無罪放免にされてます。

 ところが、これに同情した唐人船主たちが長崎奉行に懇願書を提出し、この62人は日唐間での商売によって家庭生活を支えているといった理由を申し立て、寛大の措置を求めた。奉行所では船主たちの願いを吟味し、他は許すものの首謀者の王有成の国禁と罰銅の処分は取り消さないとした。しかし、船主たちはもう一度懇願書を提出し、老人で何度も来日している王有成を許してもらうように願った。結果として王有成は何らの処分も受けずに許された(本案件について森永1993:38~40も併せて参照)。[前掲額定]

 この姿勢なら,奉行所側が唐人船主に「嘆願書を出せばそれを容れたことにする」とか導線を引いた可能性すら想像させます。
 唐人屋敷の壕を見た時から,あるいはこのためかな?と思ってたけれど,1779(安永8)年に抜け穴での密輸が発覚してます。

 遠見番の孫之進は仲間の唐小通詞らと唐人屋敷からの抜荷をもくろんだ。孫之進の家は唐人屋敷から目と鼻の先だったので、一味はその床下から穴を掘り続け、ついに屋敷に通じ、まず手始めに煎ナマコを持ち込んで唐人の玉子形麝香と交換することに成功した。※ 森永種夫『犯科帳』1962 岩波新書 p.40

 この孫之進は,発覚後,市中引き回しの上獄門,ほか関係者は壱岐島への流罪。死罪にはされていない,というのは,おそらくこの事件は関係者も含め唐人屋敷居住者ではないから,居住者が割と公然とやってた同様の密輸に警告を発する意味で,中国人の真似をしただけの日本人を摘発したのでは?と思えます。
 長崎犯科帳は1666(寛文6)年から残されているというから,次のはその頃の話だと思われます。
 唐人屋敷設置以前のこの当時,長崎では唐人間又は唐人vs日本人の揉め事が頻繁に発生していたという。
(山本紀綱著(1983)『長崎唐人屋敷』東京:謙光社 p433

興味深いことに、『犯科帳』に記録されている最初の判例は唐人に関するものである。5人の唐人が石火矢を打ちその跡から出火したことで入牢とされるものの、結局は赦免されたという事案が記されている(原文については長崎歴史文化博物館所蔵史料B)14 /1-1/1、森永1958[第1巻]:1、同1993:6~7、および写真2 を参照)。(略)
最初は特に外国人と関係する案件を記録しておこうとしたものが、結果的には日本人関係案件も盛り込んだ『犯科帳』の編纂に繋がった可能性があると筆者は単純に推測している。
このように推測するのは、『犯科帳』がどのようにして作成されるようになったかを直接示す史料が現在のところ知られていないからである。安高啓明氏は、寛文3(1663)年の長崎大火後の行政・司法立て直しの一環として『犯科帳』が編纂されるようになったと考えており、幕府における評定所の創設がそれをさらに後押ししたとしている(安高2010:153)。
※ 前掲額定
  安高啓明著(2010)『近世長崎司法制度の研究』京都:思文閣

 どういう反感からだったのか,中国人が準・反乱として火付けという行動様式を発想していたことを伺わせます。
 そうすると,前掲の末次火事を含め,1696(元禄9)年の唐人屋敷移住後,記録されるものだけで1705(宝永2)年,1784(天明4)年と連続している火災は,単なる出火ではなかったのではないか?とも思えてきます。

唐人屋敷内での幇間の械闘(抗争)

 中国人が内部抗争をしていたことは,この後触れる各四福寺が出身地幇単位に設けられたことから,十分想像できます。ただこういう状況下で,幕府側は興味がなかったのか,記録にはほとんど残らないのも納得できる。でもやはり抗争(中国語:械闘)はあったらしい。

通航一覧巻二百二十所載の長崎記事には「元文四巳未年(皇紀二三九九年)六月十八日,長崎在津の潮州人,館を騒擾せしにより,数人禁獄せしむ」とあり,同日館内未六番襲恪中部屋に潮州人大勢押寄せ,十数名の死傷者を出し,廿日襲恪中人数四十二人は詮議の上興福寺に差遣はされたことの事件がある。襲恪中の人数は興福寺に収容された関係からして,三江幇系と推測され,右は恐らく廣東幇と三江幇との械闘的對立であったと看做されうる。※ 内田直作「在日華僑團體の沿革─寺院團體時代─」

 上は幕末までに勃興した広東系と,旧勢力の中心・南京系の武力衝突を窺わせるものです。対して下は,漳州人が暴徒化して唐人屋敷に押し寄せたのを幕府側が鎮圧したもので,敵対勢力がどこで彼らがどういう許されざる行いをしたのかは定かではない。
 少なくとも,唐人屋敷に唐人さんたちがそれは仲良く住んでおりました,というイメージは捨てた方が良さそうです。

通航一覧巻二百十六所載の長崎記事には「延享四丁卯年(皇紀二四〇七年)七月廿日,卯八番潘元観船丸荷役之節,船中之漳州人十九人,館内之者に仇を報ぜんと,新地南水門より唐人屋敷大門迄■来りしを,両組役人を被差出,悉く打伏せ搦捕,入牢被付之」と漳州人の械闘に類する事件につき明かにし,必ずしも當時の各幇間の関係が平穏無事でなかったことを根拠づける。[前掲内田]

1836年 唐人屋敷の反乱

 規制の緩み切った1836(天保6)年には,これが本格的になってます。
 この年,長崎奉行が新たに市中取締方を任じて「唐人不法」の徹底取締に着手。これに対し,中国人たちが一船主の葬送にことよせて外出。唐人5人が逮捕されたのを期に,館内で番所・諸役所への乱入・破壊が開始され,長崎奉行側役人が全員脱出する事態になります。当番藩の筑前藩兵350人余が唐館を包囲するけれど,それでも地役人による関係者捕縛が成らなかったため,藩兵らがついに入館,在留唐人331人中180人を善悪を問わず検挙。うち70人を大村牢に送ります。(通航一覧続辑 巻23・24等)
 これだけの「反乱」に関わらず,長崎奉行側の措置は取引許可の休止や減銅(取引銅の上限引下げ),さらにこれが軟化して手廻り荷物販売は今回限り,次回は船主の水夫取締の誓約書を提出,という線に決着してます。
 この時期には来航唐船自体が減り,長崎側が来日を請う側に回っていたといった情勢変化はあるにせよ,末期の唐人屋敷が「唐人不法」の横暴がまかり通る,設置当初とはかけ離れたやり放題な世界になっていたことが察せられます。[中村質「長崎会所天保改革期の諸問題─鎖国体制崩壊過程の一側面」]

唐人屋敷の最後のスケッチ

 唐人屋敷は,少なくともその末期には決して「楽園」ではなかった。開国と同時に,中国人は先を争ってこの軟禁地を離れてます。上流階級は外国人居留地へ,中流は新地(蔵)へ流出,唐人屋敷には「窮人」下層民だけが残ります。

在菱谷武平的研究中提到根據當時候的唐人屋敷處分資料,提到長官於明治元年三月到唐人屋敷視察,差配役的報告書説明了唐人屋敷的沿革以及開國後的實際情況。其内容指出由於開國後的時勢激變,唐人屋敷内富有的中國人粉粉轉向依附外國人商館或是轉移居至新地蔵,實際上留在其中的多為没有積蓄回中國的窮人,籍此可猜想當時候唐人屋敷中的住屋及公共建築應該是十分
破[サ/隹/臼]。
※ 菱谷武平「長崎外国人居留地研究」出島研究会・責任編集 九州大学出版会,1988 詹佩瑜「長崎唐人屋敷的土神堂」中引用中国語訳

──菱谷武平の研究の中に唐人屋敷の処分当時の資料が提起されている。曰く,長官(ママ)が明治元年三月に唐人屋敷の視察をした際,差配役が唐人屋敷の沿革から開国までの実際的情況を報告書により説明した。その内容の指すところでは,開国後の時勢の激変により,唐人屋敷の富裕な中国人は続々と外国人商館や新地蔵へ転出し,今も残っているのは蓄財がなく中国にも帰れない貧乏人だけである,と。このことから,当時の唐人屋敷の住居や公共建築はほぼ廃屋化していたと想像される。
 ここでの「窮人」はどういう人たちだったのか。唐人屋敷は外来の船員の居留地だったわけですし,「乞食入事」の禁制もあった。中国人の下層民は元から屋敷内にいたのか,廃屋化して事実上規制がなくなって以後に侵入したのか。
 ともかく,最初に触れた幕末の写真はその時期のものだったらしい。ただ,やはり寂れてる空気は感じるけれど廃屋とかスラムという色彩は見えません。どうも,もっと何かの裏か別要素があるように感じてしまうのが……唐人屋敷の魔性です。
▲再掲①日下部金兵衛撮影「館内から出島を望む」本編の行程