021-8笠寺\名古屋市\愛知県

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小小旅行(笠寺)

0650栄・名城線ホーム
上前津で鶴舞線乗換、川名。
0732 珈琲屋比呂野
モーニング(ジャム・シナモン半々,ヨーグルト付) 370
ここは、何が、というわけじゃないのに総合力が素晴らしい。まったりゆっくりできる、素晴らしい「スペース」なのです。

比呂野珈琲奥の喫煙所から店内

奥に喫煙室というか半野外の妙なスペースが出来ていた──というか前からあったんだろか?

内部リンク→021-6熱田〜桜丘\名古屋市瑞穂区\愛知県/名古屋市内遺跡分布
名古屋市内遺跡分布 p22〔後掲名古屋市〕
※現データ元表記:新修名古屋市史 資料編 考古1(名古屋市 平成20年)

熱田-瑞穂の南側に突出する遺跡頻出地点が笠寺です。ちなみにその東側の考古遺跡頻出地点は、鳴海でしょう。

0828川名から舞鶴へ。乗換えて金山、名鉄に再び乗換えて本笠寺(モトカサデラ)。
金山からの名鉄に迷う。急行吉良吉田に乗ったけど神宮前で一度降りる。知多半島行きに乗っちゃいけない。何か網のように分岐してます。東岡崎行き普通に乗る。
呼続(よびつぎ)?何ちゅう地名てしょう。音としても耳慣れない。と思えば「桜」?そのまんまか?
0910本笠寺下車。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

笠寺西門交差点にて

かなり起伏を帯びた町です。
東へ。
笠寺西門交差点を渡る。この辺りが高所になってる。
0922笠寺観音。
笠寺観音境内

大きい。経の音声。
入口左に役行者、暁台塚、延命地蔵、白山社。右に六地蔵、丸みのある塔。家康の「人質交換之地」碑。
笠寺観音本堂への登り坂

笠寺観音本堂から南門

笠寺観音南門脇の池と辨天社

南側に池。その北側に辨天社。おそらく古くは池中の岩場にあったと思われます。明らかに水の神様。
笠寺観音南門から集落

玉照姫社へ登る

南門の脇に玉照姫社。本殿左手に福寿地蔵と水子地蔵。
入口門から玉照姫社本殿

玉照姫社本殿

福寿地蔵と水子地蔵

水子地蔵を見上げる

0945裏から出て南行。
蛇行してます。
0954集落道

0956集落道

右に笠寺幼稚園。
左に出世神酒天満宮。宮本武蔵が滞在し「遺品数点現存す」とある。
この南を左折。
T字路を右折南行。0955。登りになりました。ad.笠寺町中切22
0958トップ地点。特に何もない。中切公民館。
0958トップ地点付近(北→南)

1001トップ地点付近(南→北)

「この先軽自動車も通り抜け困難」表示
1002集落道

1003僅かに食い違った変則十字。そのまま進む。
アップダウンも出てきました。
1005家屋庭先に椅子一つ

1006集落道

1007また食い違い十字。また直進。もう一つ同じ十字。この青い軽自はどこから入ったんだろう?
1010集落道

1012集落道

鉄塔。どこへ出たのでしょう?
グループホームあみーご倶楽部笠寺。もう一つ南へ行こう。直進。1014
車道。荒川会計事務所。右手に線路の高架。
南へ渡って少し東からさらに南行する。愛知トヨタ南店。
見通しのよい緩い下り道。1021
右手西側に低い高台が続いてる。この先なのだろう。
対面T字を右折東行。1025
1027水路

小さな水路の向こうをたどって線路をくぐる。この緑地帯は中井用水緑道。
1031中井用水緑道

1035星宮社南側

あった。1034星宮社。大きい。
1040南側集落方向

本殿左手に白山・琴比羅・天王・神明各社。その後ろの高みにもう一つ社。右手に加具土・軻遇突智・靈各社。いや最右に注連縄の石がもう一つ。
1043右側階段口

本殿の左脇から回り込むように「上下知我麻神社(ちえのかみさま)参道」の階段。登る。
登り口に注連縄の岩。
1045最上部に上下知我麻神社

二社が丘に並び立つ。南面。南から見て右が上、左が下。いずれも前面扉は固く閉まってる。
下知我麻神社と後方ムクノキ

上下知我麻神社と樹木の枝

真後ろの大樹(保存樹ムクノキと表示)の枝が歪曲しまくって何かを語るように空へ伸びてる。
1052退去。
正門鳥居入口になぜか橋。
正門入口の橋

JR駅前は基本的に工場ばかり。車道沿いは飲み屋が多い。その中に──
1115木こり家 笠寺店
ハンブルクハンバーグ+ライス中650
隣の台湾料理「味味」本店も旨そうでしたけど──久しぶりのハンブルクハンバーグでした。老舗肉屋直送を謳うだけあって肉質はかなり良い!

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■資料集:笠寺▼▲

 〔角川日本地名大辞典/笠寺【かさでら】〕

年魚市潟(あゆちがた)景勝の地として知られたかつての「あゆち」の地は当地の周辺であるといわれる。また,笠寺台地は松巨島とも呼ばれ,周囲を海で囲まれた島か,あるいは半島であったと考えられる。地名は笠寺観音に由来する。〔角川日本地名大辞典/笠寺【かさでら】〕

〔角川日本地名大辞典/笠寺村(近世)〕

「徇行記」によれば,新田開発に伴って塩田は減少し,安永6年には5町余となったという。また,「村中七組ニ分ル。松本,西ノ門,大門,新町,中切,市場,迫間ト云。此ノ村農業余塩浜カセギヲ以テ生産トス……当村ハ戸口多ク佃力足レルトイエトモ,漸々ニ高持百姓多ク頽レシ故,一村衰微ニオヨヒ散田数多ニナリ」とあり,家数382・人数1,371,馬5。正徳5年又兵衛新田,寛延2年又兵衛新々田,その後化物新田が村内に開発された。当村は鳴海宿の助郷村。天明年間頃から町奉公といい,熱田【あつた】・名古屋に移って職人や商人になる者が増えた。藩はたびたびこれを禁じたが,人口減を抑えることができなかった。笠寺町字下新町に一里塚が残る。〔角川日本地名大辞典/笠寺村(近世)〕

笠寺観音は(略)墓地にある織部灯籠は切支丹灯籠ともいわれる。〔角川日本地名大辞典/笠寺村(近世)〕

〔角川日本地名大辞典/笠覆寺【りゅうふくじ】〕

名古屋市南区笠寺町にある寺。高野山真言宗。山号は天林山。本尊は十一面観音。笠寺観音と呼ばれ,尾張四観音の1つ。寺号は,笠寺・笠覆寺が混用される。嘉禎4年12月の勧進沙門阿願解状によれば,天平年間禅光(善光)が夢想によって,呼続浜に漂着した霊木をもって十一面観音を刻み,同5年に一宇を建立して小松寺と称した。のち荒廃した本尊が雨ざらしになっているのを嘆いたある女が,自らの笠で仏像を覆い,しばしば参詣して祈願した。のちその女は太政大臣藤原基経の子兼平の妻となり,仏像の利益に感謝した。兼平は延長年間に寺を造営して笠寺と改号し,数百町の田畠を寄進した。(続)〔角川日本地名大辞典/笠覆寺【りゅうふくじ】〕

(続)それから200年を経てまた荒廃したので阿願がその復興を志し,由緒などを当領主の比丘尼念阿弥陀仏に申し出た。感激した彼女は荒野3町余・水田1町2反と寺一宇を寄進した。この土地は熱田神領中であるので,殺生禁断・年貢免除・検断不入を認めてほしいと熱田社に申請した(笠覆寺文書/県史別巻)。この当領主の寄進とは,嘉禎4年6月の寄進状にある「ほしさきのてらを,かさてらのくわんをん(観音)に,よせまいらするしきちてんはた(敷地田畠)のこと,合〈くわうや三丁よ,水田一丁二反〉」とあるもので,「たいたいの御はか所」であった(同前)。熱田大宮司は阿願の申請を承認,さらに当時の熱田社領の本家宣陽門院(後白河皇女覲子)に上申して,暦仁元年12月の宣陽門院庁下文によって阿願の申請を認めるべしとの裁決を得ており(同前),ここに阿願の念願が実現した。建長3年には「尾張国星前笠覆寺 建長三年〈辛亥〉五月廿三日阿願」の銘文のある鐘が製作されており(古鐘銘集成),次第に寺観が整えられていった。建長7年5月に尼念阿弥陀仏は三位房に,同人一期ののちは笠寺の敷地とすることを条件に「星前御内畠弐町・本免田八段」を譲っており,正元元年8月20日に阿願は父橘宗頼・母良阿弥陀仏の菩提のために重代相伝の名田2反を寄進し,さらに2反を法華経衆に寄進している。文永4年8月には尼妙法らが田3反を寄進している(熱田神宮とその周辺)。(続)〔角川日本地名大辞典/笠覆寺【りゅうふくじ】〕

(続)中世の当寺は,熱田社の神宮寺の塔頭で,熱田座主と号した如法院が別当職を保持していたが,戦国期になると座主別当と僧衆の対立が激化した。天文19年12月17日の笠寺別当についての良憲の覚書には,別当職は延長8年以来座主が保持してきたが,50余年前に紛争が起こり,織田氏の裁許をうけて座主側の勝利となったが,その後も幾度か争論が起こり,そのたびに座主の言い分が認められたといい,明応7年織田寛村,永正7年達定,年欠信秀,天文19年信長の判物が残る(密蔵院文書/春日井市史資料編)。15世紀初頭以来在地領主層による田畠寄進が多くなっており,それが争論激化の背景であろう。大永7年4月2日連歌師宗長が参詣,「宮と鳴海のあいだに笠寺と云あり,人おほく詣ずるを見て立よれば,寺の本尊観音のほう(頬)はれて,笠をきはべる,殊勝にもあはれにもさまさま也」と記している(宗長日記)。近世の除地15石。(続)〔角川日本地名大辞典/笠覆寺【りゅうふくじ】〕

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