外伝10 弗 $Before 3 weeks$ Deep south and their history

 南北戦争後の最初の50年間は,南部にとって再適応の期間だった。白人たちは大量の黒人奴隷の地位から解放されたことに対して,何度か反動的な行動を起こしたが,最終的には人種隔離制度に落ち着いた。一方,黒人側も立場が変わったことを体験したものの,戦後半世紀以上たつまで,その好機を自分たちで活かすことはほとんどできなかった。
 この時期はまた,南部の人たちの態度がかたくなになり,ほかの地方から孤立しているという思いがさらに強くなった時代でもあった。現地資本は,その多くが戦争で消費されたり,戦後,北部によって課税の形で持ち去られたりしたために,枯渇していた。金利は急激に上昇し,農民は常に借金漬けの状態にあった。かくして,南部の農業依存傾向は長引くことになった。
小さな町では仕事がほとんどなかったため,田園地帯に住む多くの黒人たちは,まだ残っている白人の地主たちと,可能な限りの取り決めを結ぶしかなかった。農具,種子,住居,食糧の提供を受ける代わりに,他人の土地で栽培した作物の一定割合を地主に納める分益小作制という制度が,黒人にとっての生存手段,生活様式となった。それは,土地を失った多くの貧しい白人にとっても,同様だった。いったんこの様式が定着してしまうと,農村地域以外への黒人の移動を制限する「黒人取締法」もあり,また教育機会もろくに与えられなかったこともあって,それはますます強化されていった。たとえ自分の土地を手に入れても,黒人の農民たちには,障害が多かった。融資を受ける機会も乏しく,農場が小さすぎて生産を高めることができず,地域の文化は反黒人的な色合いを持っていたからである。
(略)
 19世紀の最後の25年間には,製鉄技術の進歩によって,テネシー州チャタヌーガが製鉄産業の中心地として台頭してきた。一方,アラバマ州バーミングハムの近くで質の良いコークス用炭の大きな鉱床が発見され,それから10年足らずのうちに石炭層の開発がはじまった。無数の製鉄会社や,鉄あるいは鉄鋼を利用する産業が,バーミングハムとチャタヌーガの市内やその周囲に集まった。19世紀末までには,この2つの都市と,輸送の中心であり付随産業を持つジョージア州アトランタがまとまって,重要な産業の三角地帯が形成された。
こうした発展は,南部の経済地理に重要な影響を及ぼした。なぜなら,鉄鋼生産は,鋼材を利用するほかの製造業を引きつける傾向があるからである。
(略)
南北戦争の終結からほぼ50年間,南部を離れる黒人はさみだれ式で,その数はほとんど増えなかった。かくして1870年には全米の黒人の91.5%が南部に居住していたが,その比率は1910年でも89%であった。しかし,その後の10年間で南部を出る黒人の数は急増した。制限的な法律や暴力,どん底とも言える経済状態によって,南部から「押し出された」のである。それと同時に,第一次世界大戦勃発を契機に,北部の産業が黒人たち(そして貧困層の白人たち)を南部から「引き抜く」ため,多大な努力をしたことも事実である。
(略)
 第一次世界大戦によってヨーロッパからの労働力の供給が途絶えると,その代わりの供給源として,南部の貧しい失業者や不完全就業者の大群に目が向けられた。
 かくして黒人の北部への大量脱出が起きたが,特定の黒人層だけの脱出だったならば,南部経済は打撃を被らなかったかもしれない。ところが実際は,南部を離れた黒人のほとんどは18歳から35歳の間だった。働き盛りの彼らは,南部で育ったのに,経済的に最も生産性が高いせっかくの時期を,南部以外の場所で過ごすことになった。残った人々の多くは,働き盛りを過ぎていたり,現役を引退していたり,就労年齢に達していなかった。人種によって専門職に就く機会が制限されていたこともまた,最も高い訓練を受けた若者の多くを,南部が失う原因となった。
(略)
南北戦争のもう1つの結果は,この地域で以前から感じられていた地縁主義が強まったことである。南部は,戦勝軍による占領を経験した,米国で唯一の土地であり,その後に味わった苦く辛い思いが和らぐには1世紀以上の時間と大きな経済成長を必要とした。
南北戦争とその後の復興は,南部の白人を団結させるうえでも役立った。「結束した南部(Solid South)」とは,この地域全体が一致団結して,しばしば全国的な趨勢に逆らって投票することを意味した言葉である。戦争と復興は北部と共和党を連想させたため,南部の白人たちは反対党・民主党の頑強な支持者になった。その後,南部の白人が民主党とのイデオロギー的結びつきに耐えられなくなった。このため,地方中心主義をはっきり示す「南部民主党員」という名称が一般的に使われるようになった。
 今日では,国の政治も南部の文化も変化したため,南部はもはや民主党支持で結束しているわけではない。南部で選挙で選ばれた公職者を見ると,その政治的信条の幅はかなり広いが,大多数は伝統的な政治的志向をある程度持ち続けている傾向にある。

変化の始まり
 「新しい南部」の空間的・地域的特徴は,何十年,時には何世紀もかけて進化してきた地域の様式の上に築かれてきた。近年の変化を生んでいる最も大きな要因は,地域的孤立が次第に薄れていることにある。
20世紀半ばまで,指導層はもとより,大半の人たちは,何かにつけて,まるで南部は別の国であり,嫌々ながら北にある隣国の相手に付き合っているかのような対応をしていた。しかし,1930年代後半以降,特に1940年代後半からは,外部の動向や圧力が南部にも浸透し,孤立の垣根を壊し始めた。
1930年代の南部の経済は,1870年当時とほとんど変わらなかった。つまり農業一辺倒で,主に輸出に当てる農産物の生産と資本の不足を畜力や人力への依存が支えていた。
(略)
その後の50年間に,途方もなく大きな変化が起きた。1950年代初めまでには,この地域の労働力の半数以上が,都市に基盤を置く非農業雇用に従事していた。それ以降,農業の比率は下降を続けている。これと並行して,製造業とサービス産業での雇用が急増した。それだけでなく,南部の産業構成は多角化の傾向を強く示してきた。南部の製造業はもはや,原材料の初期段階の加工に限定されてはいない。
 農業でも多角化が進んだ。綿花は今でもこの地域で最も重要な換金作物だが,そのほかにタバコ,サトウキビ,ピーナッツ,コメなども栽培している。しかし,綿花の作付面積は昔と比べものにならないほど,ごくわずかである。作付面積縮小は,かつての生産地域にある古い綿紡績工場の荒廃にも裏付けられている。
(略)
 綿花の優位性が低下する一方で,畜産や大豆などの重要性が急激に伸びた。農家が質の高い牧草や飼料を使い,また多量の肥料を用いて放牧地の状態を改善したため,牛肉の生産が大幅に拡大した。同時に,暑くて湿度の高い南部の夏に耐えて成長するような,牛の新種が開発された。過去30年間で,米国のブロイラー・ひな鶏の生産は工場化され,南部に集中するようになった。
 さらに劇的変化を遂げたのは,農業の生産方法だった。可能となれば,どこの生産過程にも機械がどんどん使用されるようになり,地域農業の効率は以前と比べて格段に向上した。伝統的な分益小作制度は1930年代半ば以降,ほぼ姿を消し,南部の平均的な農地の規模は急速に拡大した。
(略)
 産業の成長に伴い,そして農業の多角化に匹敵する変化に富んだ産業構成を作り出す可能性を秘めた産業の多角化に誘発されて,人々は都市に吸い寄せられた。製造業の仕事に従事する非農業労働力の割合は,この地域のほぼすべての地区で大幅に増加した。
 最も意義深いのは,平均的な南部の消費者の賃金が上昇したため,地域市場が拡大して,多くの消費財メーカーが南部に集まってきたことだった。これによって,非農業労働力の需要が高まった結果,所得の分配範囲が広がり,地域市場が強化された。
南部の産業が急速に発達したのは,地域市場の成長によって次第に多くの製品やサービスが必要になり,その対価を支払うことが可能になったためである。しかし,それでも「なぜ市場が拡大したのか」という疑問が残る。ある専門家は,連邦政府の農業調整法(1935年と同年以降)が大きな刺激となって市場が成長したのではないか,という説を提唱している。
 同法が発効する前,農産物の価格は,国際市場での需給によってほぼ決まっていた。南部にとってこれは,例えば,南部産の綿花価格が,世界のほかの生産地域の綿花の出来・不出来によっていくらか変動するということを意味する。さらに重要なのは,南部の綿花栽培の競争相手は,いまだに大部分が植民地経済の中にある世界各地の綿花生産者だったことである。農業調整法により,農業従事者の賃金と農産物の価格が,全米の産業別賃金格差に基づいて引き上げられると,南部の製品市場は急速に発達して,成長のスパイラルが始まった。それは現在もこの地域に影響を及ぼしている。
 連邦政府の介入行為が,南部の社会機構に大きな影響を与えた例として,さらに広く認識されているのが,1954年の連邦最高裁判所の判決である。最高裁は,それまで70年間にわたって認められてきた「分離すれども平等(separate but equal)」を建前とする人種差別政策を違憲とする判断を下したのである。
 この判決によって南部の社会地理学的変化が始まった。この変化は,人種によって機会が左右されていたあらゆる場所にも広がり,その波紋は今日でもとうてい収まる気配を見せていない。
 1930年代半ば以降に起きた南部の変化の多くに共通する特徴は,地域的な特異性が徐々に低下していることである。農業への依存に代わって,経済が多角化している。この地域の低賃金労働力は,ほぼ枯渇したとみられている。新たな産業やサービス活動にはこれまでよりも厳しい競争が待っている。そのことが徐々に賃金を押し上げていく可能性がある。北部から,特に地域の大都市圏へ多数の人々が移住してきたため,一部の都市では文化の南部的な特徴が弱まり,ごく普通の都会の色彩が鮮明になってきている。
(米国の地理の概要 – 第8章深南部)

12 :名無しさんの主張[age]:2008/03/19(水) 13:04:17 ID:???
日本は共和党と結びつきが強く、現在共和党の基盤は南部諸州らしいけど
12 :南北戦争の時は南部が民主党,北部が共和党だったはずだがいつから逆転したの?
13 :名無しさんの主張[age]:2008/03/19(水) 13:40:52 ID:???
>>12 実はアメリカ南部の白人は資産階級層で本来なら共和党支持に回るのが自然なのだが,共和党の成立自体が反南部政党によるもので成立当時は奴隷解放を旗印にし,南部の生活を脅かす敵対政党だった。
 したがって南北戦争以降も負けた南部は弱い立場の政党である民主党を支持し堅固なる南部(ソリッドサウス)とよばれるまでになった。
 しかし1960年代の黒人差別撤退の公民権運動で民主党が応援に回ることを決定すると南部民主党員は強硬派として分離して共和党に合流し,一方北部は製造業の底冷えや移民増大から逆に民主党支持が多くなり,ここに共和党・民主党の南北支持逆転現象が確立した。
21 :名無しさんの主張[age]:2008/03/20(木) 06:57:56 ID:???
 南部州の州歌に親近感のあるものが多いね。フロリダ州はフォスターの「故郷の人々」だし,ケンタッキー州は同じくフォスターの「懐かしきケンタッキーの我が家」,テネシー州は江利チエミも歌った「テネシーワルツ」,ジョージア州はレイチャールズの名曲「わが心のジョージア」だし,ルイジアナ州は「ユーアーマイサンシャイン」
 児童向けの世界の名曲集にもバージニア州の州歌「懐かしのバージニア」を土井裕子が歌っていた。
34 :名無しさんの主張[age]:2008/03/27(木) 07:49:07 ID:???
 人当たりがよく親しみやすいながら,適度な距離を置き様子を見るところなんか,たしかに南部人はアメリカ人らしくなく,むしろ日本人の方に似ていると思う。
(日本酷似社会・アメリカ南部)