まるながの骨
海邦エリア(沖縄市)は意外に近づきにくい。
R329から一本東へ入らなきゃいけなくて,その侵入路もやや込み入ってる。
1104。この時は渡口の交差点を避けて和仁屋の交差点から右折して行きました。
泡瀬のファミマ。ここを過ぎてすぐの交差点を左折して…あった!
開いてた!
まだあった!
「まだあった」というのは,ここの骨は他の名店と同じく,12時前後には売り切れるからです。──この後も前も,事実「骨なし!」看板を目撃してます。
1118まるなが
骨汁650
店の造りは相変わらずいつ崩れ落ちても不思議のない,もとい,優雅な大衆食堂だけど──代替わりしたのか?「イラブー汁あります」表示は初めて見ると思う。あと,「ベスト10」の貼り紙も出来てて,何かセンスが微妙に変わってる。
では汁の方は?
変わってなかった。
絶品。
味噌の効いた汁。軟骨部分が多く,もちろんしっかり噛める。他の部位も様々に旨いけど,何と言ってもこの軟骨周辺が頬の落ちるような旨味になってる。肉は骨から軽く剥がれて食べ易い。
正午が近づき,ほぼ満席になった店を後にする。
勝連城は男の勇姿
北行を続ける。
1206,豊原で右折。1210,T字から県道16号へ。距離の短いのは半島北側海岸線,とは分かっていても,この半島は南側の集落を通りたい。
勝連城が見えた。勝連の峰々は,ここまでの島中央の山より男性的な勇姿に映ります。
1216,与勝交差点。この辺りから,集落の続く風景から急に人気が失せていく。
天の半ばを蒼が占めてきた。
どうしても骨を頼んじゃうので分からないんだけど,ひょっとして旨いのか?
1224かね食堂
骨汁650
昼どきです。かなり満席です。これだけの客で骨が売り切れてない。もしかして,グランド食堂と同じで,他も大人気なんじゃないだろうか?
とはいつも思うけど,やっぱり骨です。ワシにはここの骨は──
かね食堂の骨
骨汁はやはり「汁」です。
その点からすると「かね」食堂の骨は,洋風のスープと完全に発想が違う。
肉はやや固く剥がれにくい。具ではないんである。
レタスとともに溶けたこの汁が,何というのか,硬く淡麗な旨味を醸してる。すまし汁と言えば近い。土着的に濁ってるのに上質な味覚。
汁だけでご飯がなんぼでも進む。
肉の部位にはあばら骨が多いようです。ソーキの肉の周辺部を使ってるんだろうか?
とにかく着きましたけど。
かね食堂の東,交差点を直進すれば海中道路です。
1311,この交差点からを右折,市役所前を東へ。伸びやかな土地です。後で見るとこの山側には神社と教会。何に斎かれても不思議のない明るい空虚の場。
どん詰まりを左折,屋慶名川に沿い海岸へ。右折すると──目指す島が見えてきました。
1317,藪地島への橋へ左折。
誰も何も語らずとも,そこが異界への入口だと匂いがする。
勝連半島先端にさらに飛び出た島。Xも何も,まずはこの立地に惹かれたのでした。
でもこれは…予想以上です。帰ってこれるんだろうか?という根拠のない不安と,そんなんどーでもいーじゃない,という故なき度胸。
インフラ的にはかなりがっちりした橋でしたけど──
渡ってすぐに舗装は絶え,アウトドアな道行きになってきました。
アウトドアというか──これは道なのか?畑の隙間って言うんじゃないか?
地図を見ても全く分からん。だって島の中央に一本,道が書かれてるだけです。起伏も多くて見晴らしも悪い。
淡路島を横倒しにしたような島を横切っ…たんでしょう。
1325,とにかく藪地洞窟遺跡と看板が出てる場所に着きました。
■データ:藪地島
情報を漁れば漁るほど謎の島です。推定すら出来ない。
でもただ一点,こんなある意味要地に当たる島に,石器時代には居住の痕跡があるのに無人である,というのは──庶民レベルでは明確な聖地だった時代が相当長く続いたからとしか考えようがない。
・無人島
・畑の作物は多くがサトウキビ
・ハブが多いと有名
・沖縄本島と結ぶ橋は「藪地大橋」。1985年建設。
・島周辺に繁茂するカサノリは「危急種」(水産庁「日本の希少な野生水生生物に関するデータブック」1998年)
・沖縄戦では1945年4月19日に米軍が占領してる。立地から,日本軍が潜んでいると思ってたら無血上陸できた,という感じの映像がある(下記沖縄公文書館)。
ジャネー洞
・考古学的には,6~7千年前と推定される住居跡が発見され,沖縄県最古の土器が見つかっている。ヤブチ洞窟遺跡とも呼ばれる。2017(平成29)年3月17日に市の文化財指定(出典:次章巻末参照)。
「爪形文土器については、沖縄県で初めて発見されたため『ヤブチ式土器』と命名され本遺跡が標識遺跡となっており」
・信仰的には,地元住民は祖先発祥の地として聖地視されている。
藪地島-伊計島-久高島?
藪地島のよく分からない「遺跡」に対し,北の伊計島の「仲原遺跡」は列記とした国指定文化財の縦穴式住居。
信仰の点では,すぐ東海上に浜比嘉島のシルミチューがあるほか,沖縄屈指の久高島が真南にあります。
沖縄本島東岸の似たような位置の島に,こうした最古の痕跡があるのは偶然ではないでしょう。黒潮に乗った漂流民が文化の先端地を作った,そういうニライカナイ伝承を地で行くような由来でしょうか?
もっと大きく考えると,宮島や湄洲島との類似も指摘できる。本土からすぐに渡れる近場の島,そこが聖地になる,という立地です。
なぜそうなるのか,という点の説明仮説がなく,ただの地形の類似の指摘ですけど…。
※ fel OKINAWA/謎に覆われた沖縄の無人島「藪地島」へ。ウチナーンチュのルーツが眠るうるま市の勝連半島
※ wiki/藪地島
※ 沖縄県公文書館 > 資料検索 > 映像/4頁「藪地島占領 1945年4月19日」
※ たびらい/イチの里 仲原遺跡(なかばるいせき)
「約2500年~2000年前となる縄文時代晩期の竪穴式住居跡」
「昭和61年(1986)に学術価値の高さから国指定史跡」
「沖縄県うるま市与那城伊計」
※ 沖縄情報 IMA/シルミチュー霊場