FASE60-2@deflag.utina3103#三津武嶽,ウフンミウタキ,世持殿\瑠璃の玉と思て肝の持てなしは

リュック担いだまんま,勝連半島への東海岸を北上行。食は骨と山羊にまみれます。
[前日日計]
支出1500/収入1396
     /負債 104
[前日累計]
     /負債 670
§
→三月二十一日(四)
1118味処まるなが
骨汁650
1224かね食堂
骨汁650
1631山羊料理南山
山羊汁550
[前日日計]
支出1500/収入1850
負債 350/
[前日累計]
     /負債 320
§
→三月二十二日(五)


国際通りへ進撃のおもろまち

▲天久と見間違いそうになってきた牧志南の光景

際通りの真ん中にあるドトールには何度も世話になってきた。飲み物だけ頂けるカフェがこことスタバしかないんである。
 この朝も,この店でサキハマの開店時間を待とう…と思って行くと,何と無くなってました。
 国際通り南半分は,昔のやや野暮な風情を一変させ,ビルのそびえる近代都市になりつつあります。それはむしろ,おもろまちの新市街がシュガーローフを越えて北を侵食しつつあると言ってもいい。
 蒸発し行くノスタルジックな国際通り。
 0913,サキハマでの定例講習を終え,エンジンをスタートさせます。

閉鎖間近の古波蔵A&W


辺交差点から古波蔵交差点へ進み,0921左折。東行,与那原方面へバイクを駆る。
 0927,古波蔵A&Wを見つけ,つい入ってしまう。目当てはもちろん──ルートビア!
 ふう。
 やはりこれは自販機じゃなくて沖縄で飲みたい。薬クセ~!
 ただここは近く閉店になるらしい。二十ウン年のご愛顧…とか貼り紙。こんなんばっかりか。
 再走。0951,兼城。
 0959,与那原交差点から左折,北行。

津武嶽という看板を見て,1005,集落に突っ込む。

津武嶽
〔日本名〕沖縄県島尻郡与那原町与那原1313, 与那原町指定文化財三津武嶽
〔沖縄名〕三津武嶽
〔米軍名〕コニカル・ヒル

 結構探したけど,どうにも見つからず。車道に戻る。
──後に調べると,かなり山中。何とここが運玉森の東の中腹に当たってる。大状況的にも興味深かったので巻末にまとめてます。→■小レポ:尚氏政権より前の聞得大君
 …ので,まあ行ってはいないんだけどポイントに一応挙げさせてもろとります。許してね。ということで先へ。

ウフンミウタキ:小人さんのトーチカ

フンミウタキ
〔日本名〕沖縄県中頭郡西原町字嘉手苅, 史跡ウフンミウタキ
〔沖縄名〕同。メーヌウタキ,ウナージキヌウタキ。推定:琉球国由来記記載の「大嶽」(神名、真南風ノアナ真コチアナ真シラゴノ御イベ)
〔米軍名〕-(ただし西原町は住民の半数が戦没した場所)

▲西海岸で見つけた一つ目の丘

りがかりでした。
 1015,バイクで通り抜けかけた内間バス停真裏に小山。バス停脇に西原町教育上委員会名で「史跡 ウフンミウタキ」と杭が建ってる。
 バイクを止める。壊れかけた階段が見えてます。
 駐輪しにくいので国道329号から裏に入る。その小山の西の裏手が上記写真です。

▲斜面の祠

329の両側もですけど,小山の裏も全く普通の住宅地。以前なら見向きもしなかったでしょう。
 でも公園という風情じゃない。ちくりと変な山です。バイクをロックして裏手から登ると──
 写真のような,ほとんど段差みたいな感じで祠が現れました。しかもこれがいくつもある。小人のトーチカを思わせる小山です。

▲頂点の祠

部に3つの祠。
 これを見るともう確信します。そこはかない。手入れがなければ10年ほどで消えそうな祠。だからこそ明瞭な聖地です。
 西原町HPの記述からは,地元のノロの就任式場と解されます。コテコテの地場の聖地です。
 よくも沖縄戦の小競り合いで吹き飛ばされなかったものです。
※ 西原町HP/ウフンミウタキ

▲大樹は根を貼る。

光地としては,後で調べる中では,このウフンミウタキからR329を挟んだ東側,内間御殿が有名らしいです。
 第二尚氏始祖の金丸(後の尚円王)の旧宅として,国家的に整備されてきた場所という。
 与那原から西原のこの東海岸は,当時そういう要地だったのでしょう。
※ 西原町HP/内間御殿

▲ウフンミウタキ西側の祠

kmほど走って1028,伊集の住所表示を見て左折する。
 後は適当に走った→GM.(経路)。見事に着いたけれど,後から見たらよく着けたものだと思う。伊集というこの集落は東西に何本も同じような道が連なり,凄く迷いやすい感じでした。
 それだけ古い集落でもあるわけでしょう。
 あと,表札が新垣姓だらけでした。

▲集落の奥の道

世持殿:吹っ切れた空虚

持殿
〔日本名〕沖縄県中頭郡中城村字伊集
〔沖縄名〕ゆーじどぅん
〔米軍名〕-(伊集高地の戦い:巻末参照)

▲祠の広場にて

こは,本当に何もデータがありません。
 伊集集落を見下ろす高台。毛遊びなどの場でもあったのでしょうか。
 とはいえ,見晴らしがよいわけでもない。山中にふと開ける平地という場所です。

▲ご本殿への道

は異様に大きい。方向は南東,何を志向しているのかまるで分かりません。
 ただ無性に,この場所の異様さだけは感じられたのを覚えてます。三段階で,丁寧に写真に収めてます。

▲拝殿

体は3柱,それぞれに石と香壇が配されてます。
 にしても単純ながら大きい祠の規模に比べて,この空虚と言っていいほど,ポツリと置かれた3柱。
 沖縄のカミに特徴的とは言え,これほど「場」自体を拝む感性が濃厚なのは珍しいと感じました。

▲神体

りは完全に藪です。
 手付かずの樹や草が荒れ狂うように謳歌してます。
 御嶽の多くはこの周辺のどこかに第二の祠があったりしますけど,ここは本当に本殿一基のみ。何か感性が違う場です。

▲藪

の違和感──一年後に中城村のもう少し北で「テラ」を回った時の感覚と似てます(→F67:中城のテラ)。那覇や首里の御嶽信仰とは別の,もう少し吹っ切れたカミが,中城辺りには棲むらしい。それに最初に触れた高台の空虚でした。

▲伊集集落の道

■小レポ:尚氏政権より前の聞得大君

 この日に訪ね損ねてる三津武嶽は,下記与那原町立網曳資料館HPによると「御殿山の聞得大君」と呼ばれる人の墓と伝わる。
 けれど,沖縄ノロの最高位たる聞得大君の墓がなぜここにあるのか?
 この人は,久高島への途中に「遭難」して何と紀州を経て薩摩へ渡った後,中山王権に連れ戻されたけれど首里に入らず与那原に住み,没したという。その男児は,どうもよく分からない形でおそらく母親より早逝している。
 ここで言う中山王権とは,佐敷から出た第一尚氏。沖縄最初の統一政権ですけれど,彼らが聞得大君を探したのは「即位できなかった」かららしい。つまり,現行憲法の天皇のような権限を聞得大君が独占してて,沖縄最初の統一政権の成立を妨害したわけです。
 つまりこの聞得大君は,政治軍事の最大勢力にレジスタンスを行い,それだけでなく外部たる室町期日本の薩摩勢力を動員しようとした。
 結果は,最も宛てにした薩摩勢力が尚氏新王権の方との,おそらく貿易関係の継続を選択したことで,聞得大君の敗北・引渡しとなったわけですけど──この経緯から分かることが幾つかある。

①15世紀初のこの段階から,薩摩-那覇間の密接な関係があった。

 戦国末期の,九州を征服しかけた「鬼島津」のイメージから,「薩摩が突然琉球を侵略した」ニュアンスで語られることが多いけれど,この第一尚氏初期には聞得大君が「援軍」を求めているわけです。

②少なくとも沖縄-紀州域まで定期的海洋交流路が広がっていた。

「遭難」が言い訳に使える程度の危険は伴ってたんでしょうけど,聞得大君という大切なカードを航行させる程度には確実な航路が14C初段階で存在していた。

③尚氏王権成立前,聞得大君を緩い中心とする「連邦」が存在した。

「援軍」を請うた主体があったはず,という点です。
 尚氏以前が単なる「群雄割拠」の沖縄戦国時代なら,聞得大君を送り出す主体も,そもそも薩摩との経済協力関係も存在してなかったはずです。
 おそらくは,専ら民営の貿易者が無数におり,聞得大君の承認を得た地方政治勢力が利害調整をしている,そういう緩い政体があった。それを喰い破った非常識な軍事勢力が,聞得大君の権威を軟禁する形で取り込んだのが尚氏政権だったのでしょう。
 プロト・聞得大君の最終代の墓がこの三津武嶽だったのでした。でもそれがなぜここなのか?

④尚氏王権成立前までの主港湾は与那原だった。

 統一王権がなければ中国との朝貢もない。官営レベルの貿易がないから琉球列島弧沿いが専ら海洋航路であり,その規模の船舶なら与那原がベストでしょう。
 事実,紀州への「遭難」船は久高への途中,つまり与那原から出港してる。
 統一王権の成立後には,唐船が入港できる水深の那覇港が必要になり,官営貿易からの利潤が主になれば資本も西海岸に移動する。
 プロト・聞得大君の死とともに東海岸の時代が終焉した。三津武嶽はそのターニングポイントを印したものだとも言えるのではないでしょうか。

⑤プロト・聞得大君が眠る運玉森の聖性

 最後に,この墓地が運玉森内である点です。
 運玉ギルーの伝説は18世紀初を端とする。この山は,社どころか御嶽の形態すら取ってもいないのに,聖域視だけはされている。最も古い山岳信仰形態とも言える。
 御殿山の聞得大君が埋葬されたから,というよりその前から,つまり与那原港がメインであった時代の首里や天久,末吉のような場所がこの森だった。御殿山の聞得大君は失脚後にここに隠居したというよりも,出身地に戻ったのではないでしょうか。
 御殿山の聞得大君は,運玉ギルーの二百年前に海洋を股にかけた義賊,その最たるものだったのかもしれません。
※ 与那原町立網曳資料館/三津武嶽
「御殿山の聞得大君が死後葬られたといわれる所で、運玉森の中腹」
「出産後、海に流された我子を思って、海の見える運玉森中腹に葬るよう遺言したのではないか」
「三津武嶽登り口までは建設中の与那原バイパスを横切って車両で入ることができますが、そこから未舗装の小路を250mほど徒歩で登る必要があります。」
※ レキオ・島唄アッチャー/御殿山にまつわる伝説
「首里王府の祭祀をつかさどる最高位の女神官、聞得大君(チフジン、キコエオオキミともいう)にまつわる伝承があるらしい。伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山時代の謎を解く』から、あらましを紹介する。
 御殿山と呼ばれる祠がある。そこは、浜の御殿(ハマヌウドゥン)とも呼ばれ、昔聞得大君が隠居した跡だと伝えられ」
「1402年に久高島に参詣に行った帰り暴風にあって舟が流され行方が分からなくなった。
 1405年に、武寧王は佐敷小按司尚巴志に滅ぼされている。新しく中山王になった尚思紹(ショウシチョウ)は、3年間も聞得大君職を継ぐ者がいないので、首里城での即位式ができなくて困っていた。」
「紀伊国に漂着した聞得大君は薩摩国で元気に暮らしていたが、すでに薩摩の殿様の子を宿していた。」
「 聞得大君は穢(ケガ)れた身では首里城の祭祀を行うわけにはいかないと、与那原の浜に庵を結んで住むようになった。そこで男の子を生み、この地を御殿山と呼ぶようになったという。」
「この伝説も事実を隠した物語となっている。実際は、聞得大君は尚巴志が中山を攻める前に首里城を抜け出し、熊野権現の本拠地である紀伊国に逃げたのだと考えられる。交易のあった薩摩に援軍を頼む武寧王の使者として、紀伊国の坊さんと共に薩摩に向かったものと考えられる。
 この事件以来、聞得大君の就任儀式である「御新降」(ウアラウリ)は、久高島ではなく、斎場御獄(セーファウタキ)で行われるようになった。」
※ 御殿山→GM.
※ wiki/運玉義留
「運玉義留が活躍したとされる18世紀初頭の1709年は、記録的な大飢饉の発生した年だった。」
「18世紀中盤には唄や語りとして民衆に定着」

■意見:「沖縄戦史」サイトの一時?閉鎖

 ここ4回の沖縄X探索のうち沖縄戦関係で決定的に参照してきてた「沖縄戦史」サイトが,閉鎖されていて驚きました。──どうもヒットしないなと思ってたら…。
 アクセス効率の悪さで閉鎖を決めたらしい。確かにあれだけの情報量の閲覧を維持するのはものすごい努力が必要だったろう。並みのアクセスはあったろうけれど,維持費に見合うほどかどうかと言えば疑問です。
 ただ,沖縄戦の跡を綿密に,何よりリアルに辿るには,ああいう資料が必須です。
 ワシ自身がそうだったように,沖縄戦を概念的に「本土の身代わり」だとか切り分けてしまう低能な議論が,あの資料の前では完全に無意味になってた。ファクトこそが議論の低能化を許さない唯一の歯止めです。もしかしたら沖縄県側か政府側かの政治的な意図があるのかもしれないけれど,今の時点であの相当整理されたデータが失われたなら,それは政治意図の影にファクトが隠れてしまうことになる。未来において二度とファクトが復活することはなくなるでしょう。
 それは,歴史上何度も繰り返されてきたことながら,歴史時空に「なかったこと」にされてしまうのと同義です。沖縄人はそれに耐えられるんだろうか?
 例えば,ヒロシマのアーカイブが閉鎖されたら,未来から見て,原爆投下がなかったことにされたと同義でしょう?
 それと,もう一つ怖いのは,こういう決断が単に経費がないから,というだけでひっそり行われてること。日経以外の記事もなく,議会での議論も見つからない。
 感情的な議論ばかりが横行してファクトへの関心自体が失われてる──というのは今のニッポン全体に言えることですけど,それに沖縄まで飲み込まれちゃ危険だと思う。
──と一度愕然としたんだけれど,ワシが頼りにしてたのは民間のサイトの方だったらしい。こちらは生きてました!→沖縄戦史トップ
 でもホントにこれが無くなったら絶望します。という応援を込めて,上記はそのまま残します。必死で読むから無くさないでね。
※ 日経XTEC/沖縄戦を語り継ぐサイトが5年で休止、浮かび上がるデジタルアーカイブ問題
「平和アーカイブは沖縄戦体験者の写真と証言を沖縄本土の地図とともに見られるサービスで、2012年6月23日に公開された。」
「沖縄県は2011年度に沖縄観光振興強化事業補助金を活用した国内誘客緊急対策事業の一部として、平和学習デジタルコンテンツ構築事業を推進。5408万1355円を予算化した。2012年度には「沖縄振興特別推進交付金を活用した平和学習デジタルコンテンツ整備事業」として2068万5525円を計上している。初期投資だけで計7476万6880円をかけた事業だ。」

■小レポ:中城村域と伊集の沖縄戦

 …なので,途端に情報量が少なくなるけれど,中城で闘われた沖縄戦が次のサイトには綴られてます。
 ハクソーリッジやシュガーローフで主力が足止めされるまで,本島東側は米軍の少数が進んでたはずです。日本軍の部隊も少なかった。
 でもその両者が伊集高地,つまりまさに世持殿の辺りで12日も膠着してる。
 3月末,上陸前には村全域が艦砲射撃にさらされた後ですけど,運玉森の戦いの前哨戦として,西岸以上の白兵戦が行われたのでしょう。
 同HPによると,伊集集落の戦死者は316人。和宇慶や上原を合わせると2千人近くが犠牲になってます。
※ 中城村HP/(nakagusuku-local-culture)沖縄戦と中城
「4月8日 南上原-和宇慶の線で激戦が展開し,南上原陣地の一角が占領される。
4月20日 伊集高地(糸蒲山一帯)占領される。」

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