005-9館内町まで\茂木街道完走編\長崎県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲1732元町の公園より

なぜここを登ってるか?

てさて,前章でまるで触れなかったけれど,私はなぜここを登っとるのか?
 前回山を越えて出た国際墓地に,石橋電停からサクッと行く,というルート開拓もあったけど,この地点から中華街までの間の丘陵。これがどうも気になった。
 単なる中華街の山手奥とは,どうしても思えないからです。

▲1736「元町」表示

ース格納箱のT字路。
 1726,右へ進んでみる。
 1728,車道に出た。公園下。
 さらに登る。Ad元町4。──これが分からん。何の元町なんだろう?例えば横浜や神戸の中華街で元町と言えば今も繁華街中心部です。しかしここは,ムンムンに雰囲気はあるけれど普通の住宅です。
 東町公園から見下ろすとグラバーのエスカレーター(らしき覆い)がまっすぐ。海も夕映えに照ってる。
 1738,元町自治会掲示板。ということは元町エリアの中心のはずです。

水神の三叉路

▲1750等高線ラインへ

道に出る。
 そうか,思い出した。ここに出ると墓域のど真ん中なんだった。でも…いや?地図を見るとそうでもないぞ?
 東へ,車道をさらに登ってみよう。ということは,これまでにない高みまでということですけど──
 夕風。
 1745,「水神」の祠の三叉路を左へ。Ad中新町15。
 等高線ラインに入った。Adは15のまま。

▲1753坂道に入る。

新町の番地の数字が16になった先にT字。これだろう。1754,左折。
 右手に樹木が枝を広げる。
 えっ?やっぱり墓の中?慌てて右手に入るとAd稲田町20。

もう降り続けるしかなくなる

▲1756坂道続く。

違えたか?──と言ってもGM.にはそこまで細かい表示はない。
 ただ,周囲は墓地道ではなくなった。長崎らしい住宅地を縫う階段道。これも長崎特有だけど,こういう坂を降り始めたらもう降り続けるしかなくなる。

▲1801階段坂続く。下に町は見えてるけど,どこなのかはこれも降りてみないと…

っと市街地が見えてきた。1806。
 仁田保育所,と行く手に書いてある。それは…どこよ?
 右手に紫の雑草が花を咲かせる崖。その上に煉瓦色の建物。こっちの方は何だったのか確認できていない。

▲1805壁を覆う紫の花

これは围の造りじゃないか!

へ。もちろん何の根拠もない。
 小学校との間の渡り廊下をくぐる。仁田中央公園。
 Ad西小島二丁目6。すぐ先で2。
 1814,稲田町1?ああ,この道で良さそう。微かに記憶がある道です。
 1816,小島養成所プレート。その階段を降りる──のではなく右手北へ進んで,1821,改めてその先の階段を降りる。なぜか通った記憶がない。
 写真は角の丸まったかなり古い階段跡です。推測もできない。

▲1821跡地

d.館内町13?道は左折しかない。
 籠町7。
 え?これは,どこかで見た造りです。どこだ?──あ!香港だ!これは围の造りじゃないか!
 そう思って歩くと,これは围としても非常に実戦的な規模です。
 南側にあった図を見ると,北と西の一部には空堀まで備わってる。彼らは,闘う気構えがあったわけです。
 しかし,ホントにネコ多いなあ。
 ニュークラシッククローバーに久しぶりに出た。

▲1824,唐人町東側「城壁」

■論点抽出:唐人町围

 これは本当に分からない。
 はっきり分かるのは,a)江戸期長崎の実貿易の相当部分がここで行われていて,b)でもそれはかなりの割合で裏経済で,かつc)幕府・奉行の体制側がそれを黙認していた点です。
 ここでは以下,論点を整理するに止める。
① 何が,どれだけの規模で「流通」していたのか?
 中国側の資料からも,三大遊郭たる丸山町の存在からも,当時の東アジアで有数の人身売買の一大拠点だった可能性はすぐに浮かび上がる。
 それはそれで大変なことだけど,それだけだろうか。他事例からも,風俗業等の活性は本体たる自由貿易の規模と比例してしか成り立たない。
 かさばるものは無理として,史料に見え隠れする銅や銀といった貴金属が,ここでどう流通したのか。これらの市場は当時,日本が一般の認知を越えるシェアを占めていたことは徐々に指摘が強まっているところです。
 むしろその流通が,長崎貿易の実質的中心だったような何かがあるのではないか。
② 幕府側はなぜ黙認したか?
 「鎖国」幻想を維持したい体制側の至上命題は,幕府の設定内で海外貿易が行われていればいいのであって,その「設定内」とは主に区域のことで,総量規制などはあったらしいけど,「指定区域内の幕府の目の届かぬ『裏』で行われた貿易までは知らぬ」ということだろうか。
 そうだとすれば,幕府全体かどうかはともかく,長崎奉行管下の鎖国規制の実際は,表看板とは違って意外に打算的なものだった,という手触りがしてきた。
③ 幕府及び日本側に何がメリットだったのか?
 幕府が「閉じ込めた」体を取りながら,実質は排他的な「租界」あるいは万一の時の籠城施設を造ってた中国側。役人が簡単には立ち入れない,という状況は実を考えるとそれなりに日本からは屈辱的だったはずです。
 日本側がそれを黙認して元をとるような打算を持ってたなら,何かの見返りがあったはずです。
 地元経済にとっては金銭的利益でしょうけれど,体制にとって何が利益だったのか。
──と考えていくと,どうもこの状態は,巷説の「鎖国」の御禁制からは大きくハズれたものに見えます。唐人町は1784年の大火で関帝廟(天后廟)以外は全焼したというから,もうその謎を解くよすがはないのかもしれません。
 あえてもう一点挙げるなら──④唐人町中心部の天后廟以外が全焼,という火事ってありうるのか?住民がそこだけは必死で守った,という美談も考えられるけれど,どうも普通の燃え方には聞こえない。械闘華やかなりし時期とも重なる。
 とにかく分からない場所です。

※歴史の街長崎観光ぶらり散策/長崎・唐人屋敷跡散策
「唐人を離絶収容するために、1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園(現在の館内町一帯)の土地に唐人屋敷建設を着工し、翌1689年(元禄2年)に完成した。それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。」
「広さは約9400坪、周囲を練塀(高さ7尺・約2.1m)で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を配し、さらに外周には通路となる一定の空地を確保し、竹矢来で二重に囲むという厳重なもので、入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、人の出入りは厳しく制限された。とくに内側の二の門内は役人であってもみだりに入ることは許されなかった。」
「内部には、二階建ての瓦葺長屋20棟が建ち並んでいた。一度に2,000人から3,000人の中国人を収容することができたという。」
Chinaの備忘録/長崎 唐人屋敷の謎
「長崎貿易の主流は唐船。和蘭船は船体が大きく、積荷も多いが1年に1回の来航で、唐船は3回、貿易高は3~4倍だった。」
「1689(元禄2)年に唐人屋敷が完成した。出島の2.4倍の広さ。」
「荷物蔵は近くの埋立地に設けられ(=新地土蔵)、その跡地が現在の新地中華街。」
「長崎には、吉原(江戸)・島原(京都)とならぶ丸山遊郭があり、毎日100人もの傾城が唐人屋敷に出向いていた。中国にも公認の遊郭はなかったので、商売目的ではなく、遊ぶ目的で来日する唐人も多かった。」

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