m033m第三波m闽星の毛虫に突かるる倭虫かなm広福巷

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:~広福路
GM.:石室路~
(いずれも経路)
※広福路の南西,石室路まではルート取れず。

丘馬頂 安然里 廣福路

▲1355梅園路と勝利路の交差点

利北街を越え,梅園路をもう少し進みます。
 当時は気にしてもいませんけど,この北のブロックには梅峰光孝寺という仏教寺院があります。やはり華僑の送金により復興された経緯があるようです。
※ 莆田文化网/梅峰光孝寺
 1402,馬巷街へ左折南行して入る。例によってXを見つけてた区画でした。

▲1404馬巷街北入口辺り

直,面白くもなく明るい梅園路の空気が,曲がった途端に暗く妖しく変質する。
 だらだらと下る。路面はコンクリだけどあちこちに石段のあとがある。

▲1408馬巷。不可解な場所に残る石段列

があったらこうなるのか。古さというより使い切って磨耗したような気配を感じます。
 資料によると,明代,本来の意味での「駅」(莆陽驛鋪)が表通の勝利街にあって,その裏手の馬借溜まりのような場所がここだったらしい(巻末残照)。

▲1409馬巷2。これは石段ではないけれど,舗装前に何かが存在した痕なんだけど?

410,広福巷へ右折西行。
 巻末資料を再掲するなら──西への道は古くは「丘馬頂」,後の名を「安然里」。「西岩廣福寺」に伸びてるので,又の名を「廣福路」(広福路)。
 入った途端にメモってます。──凄いぞ!

対聯とランタンの軒先はなぜ残ってる?

▲1410広福路東入口辺り

ブリか攻殻機動隊のアニメにでも出そうな町の風景になってきました。
 緩やかに上下に波打ち,微かに左右に揺れる道。商店の暗がりに原色の何物か。

▲1412周囲からは高層ビルが見下ろしてます。

の写真の「法律事務所」看板は,民間が法律に頼れるようになったごく近年のもののはずです。
 上の写真の原チャリといい……ここにはきちんと現代中国人の生活者が見えてる。
 何がこの土地を,スポットのように残してきたんでしょう。

▲1415対聯とランタンの軒先を下る階段

の上下の写真は,行き止まりになってて,実際には歩かなかった脇の路地です。
 でも玄関やバイクは見えてる。ワシが歩かなかった道を,毎日歩いてる人がいる模様です。
 側溝や石垣影の苔の蒼さが印象的でした。

蒼天に染む赤煉瓦 高きビル

▲1414大きな側溝と石垣のある脇道

の画像の屋根瓦は,その赤の,空の蒼に映える色が目に染みて,一度通りすぎてから帰って来て撮ったのを覚えてます。
 背景の狭い空色に溶けるように高層マンションが顔を出してます。
 上に載せた方形の煉瓦は,吹き飛ばされるのを恐れてのものか。

▲1417広福巷の民家の屋根

419,西隐寺。
 こうして見ると寺が多い。ここまで密集するものだろうか。中国の寺町でもあったんだろうか。
 莆田は仏教が盛んな土地柄ではあるらしい。2018年には第五回世界仏教フォーラムというのが開催されてて,その経緯を見てるとどうやら中国の仏教界での発言力も強いようです。広福寺の増築経緯にも出てきた海外華僑僧の財政力もあるんだろうか。
第5回世界仏教フォーラム
 もう一つ,習俗にも,莆田と仙遊地区にしか見られない転蔵・塔懺と言われる儀式があるそうです。何を象徴してるのかはどうも分からない。(巻末残照)

広福路からの脱出

▲1418勾配の多い,やや荒れた雰囲気になってきた。

福路の出口がまた印象的でした。
 ジブリっぽいマヨイガのような暖かみがふいに消えて,どうも荒れを感じる気配に転じます。
 再開発が入ってるわけでもないんだけど,この落差は何だったんだろう。

▲(再掲)莆田老城位置図

当時は不思議に思っていた点が,前掲のこの地図を見ると少し理解できます。
 旧老城北西にある新城の北側城壁部に,ここはあたってます。
 元々地勢が高かったのか,城壁跡を崩しきれてない痕跡なのか。地勢からは前者のように見えます。城外にあたる商業区から,城内の辺地に入る場所だったとすれば,空気の変化はあってもおかしくない。

▲1419西への脱出路

422,くねりにくねって西の石室路へ出る。
 南行。
 ここで唐突にどぶ川に出る。西からきてここで屈曲する形の水路で,それはそのまま道の下に潜って南へ向かってます。
 1428,車道渡る。四顧錦天匯という建物の前を西行する。

▲1425川の暗きょ化地点

■資料:莆田「九頭十八巷」と馬巷

 その町の記者によるのでしょうか,毎日头条は時折,路地を長崎学並みに丹念に追ってます。
 莆田の路地を「九頭十八巷」と称するらしい。「巷」は中華圏では一般的ですけど「頭」は珍しい。でも見ると水門や橋が絡んでるから「○○橋北口」みたいな感覚でしょう。

興化府城內,街衢縱橫,里巷交錯,自宋代至民國,有所謂「九頭十八巷」之說,但事實上,里巷之數目遠不止這些。 民間所謂的「九頭十八巷」之「九頭」,即社衙頭、水關頭、洞橋頭、水淈頭、觀橋頭、衙橋頭、河頭、市頭、井頭;「十八巷」,即縣巷、馬巷、花園巷、書倉巷、金橋巷、倉邊巷、岐山巷、御史巷、高呂巷、後塘巷、府前巷、東里巷、梅峰巷、坊巷、城牆巷、湖岸巷、東岩巷、桃巷。

※ 毎日头条/你知道莆田的界裡、界外之分和九頭十八巷嗎? 2019
 で,各論部分ではこの九頭十八巷のそれぞれを紹介してくれてます。この中に馬巷もありました。

馬巷:今荔城區委大樓對面至區法院門口的路段,古時俗稱「馬巷」。明初興化府擴城以後,在今勝利路中段建立莆陽驛鋪,供南來北往的文武官員住宿,該地段名曰「驛前」;駐館的達官貴人們乘坐的馬匹,都圈養在街對面的小巷兩旁一排排馬棚內,這裡就被稱為「馬巷」。今人誤把自法院門口文獻中路的整條巷道都叫做「馬巷」。其實,那條街巷從宋代就稱為「阮巷」,是邑人阮駿–宋紹聖元年(1094)進士、官河南少尹的府宅所在地,其子孫阮符、阮鵬、阮肱、阮砥、阮敷、阮次膺等,分別於宣和、紹興、紹熙、嘉定、寶佑年間各登進士第,實為書香門第、官宦世家。因此,百姓俗稱該巷道為「阮巷」。而「馬巷」是明初才產生的地名,其西邊巷口往北的分道叫「梅峰巷」,往南的叫「阮巷」,往西的古稱「丘馬頂」,後名「安然里」,可達「西岩廣福寺」,又叫「廣福路」。阮巷中段又有小巷名「花園巷」,今已拆建為「大唐」商業區。重建成現代化的宜居新城–文獻步行街。[前掲毎日头条]

 明代以降の馬巷の由縁も分かりまます。でもそれ以前の,全く別の歴史,「阮巷」としての氏族通りだった時代も見えてきます。この阮氏については,東南アジアの同名姓との関係とかは全く分かりません。

▲現在の西岩広福寺

■資料:西岩広福寺と兴安书院红瓦出土

 当時は広福路の「広福」と聞いても「広島~福山?」と思ったはずです。まして西岩広福寺なんて念頭にのぼらないし,聞いたとしても「西岩国?」(もういい?)と思ったろうから,この時のルートのすぐ北にあったこの寺はスルーしてしまってます。
 場所はGM.にはありませんけど,百度地図にはありました。
 ここです。──黄色の星がXの目安地点でしたから,当時もも少し嗅覚があれば見つけれたはずですけど……。

▲百度地図:西岩広福寺

 毎日头条には何頁も似た記述がありますけど,総合的な情報はここが詳しかった。※ 毎日头条/莆田市区曾经的高官别墅里惊现大量清代文物

① 陈经邦の情報戦秘密基地?

 単なる寺ではないらしい。元々は明代の「礼部尚书」職だった陈经邦(陳経邦※)さんの「別荘」。この職は毎日头条によるとが現在の「中央宣传部部长」(中央宣伝部部長),つまりアメリカだとCIA長官みたいな人だという。
※ 1537生(莆田出身)→1615没 百度百科/陈经邦
 この時代に莆田を本拠に情報戦,と考えると仮想敵はもちろん北方から迫る清でしょう。
 その後の推移も謎です。

他去世后,西岩别墅由其孙陈钟岱居住。陈钟岱和清兵数次交战失败后,毅然削发出家为僧,法号体玄,他把西岩别墅改名为西岩广福寺,供奉清修。[前掲毎日头条]

 陈经邦の死後,その孫の陈钟岱が清兵と戦闘した後,法号を唱え,つまり頭を丸めて寺にしたのが西岩広福寺だという。
 つまり実戦の本拠にもなったわけです。なのに破壊されず,寺になることで許されてる。清側に協力的に降伏したのか,でも陳姓ということは出来るだけ反民族的な評価が残らないようにしたのか,その辺が濁されてる事実表記です。
 何かアンダーグラウンドの拠点だった臭いがあります。

② 興安書院の瓦の出土

 21世紀になってから,この寺の修繕工事中に多量の紅瓦が発見された,という記述が毎日头条の複数の記事にあります。

市区西岩广福寺修缮寮房,翻找出大量“兴安书院”红瓦。寺里监院释宽印倍感疑惑:“兴安书院已消失百年,史料上记载,书院位于今城厢区梅峰街,为何在广福巷的西岩广福寺屋顶会有大量的书院红瓦?”

※ 毎日头条/莆田西岩广福寺修缮发现大量“兴安书院”瓦片
 この「兴安书院」(興安書院)という場所又は施設も謎が深いらしい。
 こちらは明から清に改名だけされて引き継がれてます。また,清初めに「平海卫学」,おそらく海上保安大学校みたいな場所だったのも,何かがあった気がします。

记者从《莆田市教育志》查找到,兴安书院地址在府城西门洞桥头(今城厢区梅峰街),初名明宗书院。明万历年间,分守徐即登倡建,延丰城人李才集诸生讲学,并修明宗书院志,郡人陈经邦作序。清乾隆五年(1740年),改称兴安书院,内附平海卫学,俗称小府学。乾隆三十六年(1771年),添附莆田县学。

※ 毎日头条/消失百年的兴安书院 一片红瓦现身莆田西岩寺

 どちらもが謎の場所なので,もちろん推量すらできない。けれど,そこが結びついてたのは何か裏の裏の出来事だったのでしょう。
 例えばそう,海上勢力に浸透するエージェントの育成を,寺の体を装おっても広福寺がなおも負っていて,その養成機関として書院が教育を施してたとか……。

▲莆田传统二十四景之一(莆田伝統24景の一つ)“西岩晚眺”(西岩の夕景)イメージ

③ 西岩晚眺:広福寺の夕日はきれいだな

 だけど,毎日头条その他がこの寺を取り上げてるもう一つのパターンは,莆田24景の一つとされる夕日の風景です。
 川の発する水蒸気と屋根瓦の見映えが絶妙だった,みたいなことが書いてあるらしいんだけど……もちろん今はビルの谷間,想像すら困難なんてすけれど,その困難さにむしろ美意識をそそられる人たちが多いのでしょうか?

■小レポ:22年間の華麗なる潜伏

 これは市中心部広福路の西隱寺ではなくて,同市仙游県の山中の楓亭西隱寺の話だったんですけど,2017年に「僧侶」の一人が逮捕されて話題になったらしい。
 2020年現在,「莆田 西隠寺」で検索するとコレばっかりヒットしてきます。
 確かに数奇な事件で,22年前間,この寺の僧侶として潜伏してた,というもの。
 天津で痴情のもつれから工場の上司を殺害した男が,出家して山門に入り,尼僧と結婚し子どもをもうけていたという。経済的にも成功してて,蓄えは数千万元に及び,福州や廈門,莆田に不動産を購入した上,会社まで立ち上げてたそうで……まあこの20年と言えばそういうことの可能な時代ではあったでしょう。
※ SETN/殺人犯變千年古剎住持!住豪宅、開名車還誘拐尼姑生小孩
 それが何と,個人の顔入り写真までバッチリ載せてネットに上がっておりまして……中国ってのは誠に容赦ない。
 あと,時効は適用されないんだろうか?中国にも時効制度はあるみたいなんだけど,この方はきっちり逮捕されてます。

▲三一教の転蔵(牽塔)儀礼:2001莆田市仙游県大済鎮鐘峰村仙源祠

■小レポ:莆田仏教の裏の実体?かもしれない三一教

 莆田って仏教が盛んなの?と調べてるうちに,出てきたのがこの「新興宗教」です。

三一教の概観

 三一教は「三教」「夏教」とも呼ばれる。
 明代中後期に莆田人の林兆恩(1517~1598)が創始,明末清初に福建,台湾,東南アジアへ広まり盛んになった。
 なお,先行研究は比較的多い。1920年代以降研究対象ともされた。著名な研究者に,日本の小柳司气太,間野潜竜,酒井忠夫,オーストラリアの柳存仁,西ドイツのWolfgang Franke,アメリカのJud计h A·Ber1ingがいる。
※ 莆田文化网/“三一教”现状及其在海外的影响
 補っておく。まず名称。見た目が「三位一体」を連想させるけれど,発想はそれに近い。聖性の根源が父・子(キリスト)・霊の何れに属するか,つまり旧約神・新約神・聖霊信仰の何れを本旨とするかの議論の果てに,大統合理論としてそれが現れたように,仏教・儒教・道教を統合しようとしたという見方があるようです。
 次に秘匿性。元々のおどろおどろしさに加え,共産主義下ではやはり弾圧対象となり,相当に衰えたのが現状のようです。結果,秘祭の性格を帯びてる。

新中国成立以后,三一教徒几乎停止了以往的宗教活动,因此三一教在民间影响已极衰微。 [前掲莆田文化网]

 それと絡んで地理的分布ですけど,莆田市,それも旧莆田県と仙遊県が98%。台湾で残存している可能性は残しますけど,狭義の莆田以外では,文革期に根絶やしにされたと見てよい。

据统计,目前在上述县、市共有三教堂757座,三一教徒55167人。(略)三教堂、三一教徒主要集中在莆田市(莆田和仙游二县),莆田市的三教堂多达733座,占全省三教堂96.8%。三一教徒多达54158人,占全省三一教徒的98.2%。[前掲莆田文化网]

 地域的に残ったということは,それだけの強固な信仰組織があることを窺わせます。莆田文化网は職種や社会階層の偏在はないと記しており,地域全体が選択の余地なくこの信仰を持ってるのでしょう。それは非公式でしょうから断定できませんけど,莆田で仏教が盛ん,というのは,その集団がオフィシャルには仏教徒を称しているからではないでしょうか。
 最後に経典です。次のようなものが重刊されているようです。
・林子三教正宗统论
・夏午真经
・夏午经纂
・夏午经训
・卓午实义
・龙华别传
・东山集草
・林子本行实录
・三教初学指南
・林子本体经释略

転蔵儀礼の実際

 日本語サイトで野村伸一という方が2001年に記録された儀礼のレポートが存在します。多くは葬送儀礼の一環で,このレポ冒頭の貴重な写真はそれを転載したものです。

転蔵は「牽塔」ともいう。それは祭主が僧や経師(三一教)に導かれてこの塔を回すことで亡魂を供養するからである。塔は塔は七段からなり、これで全世界を象徴している。すなわち、下段の冥府から上段の極楽まで、その間のさまざまな世界が神仏の図像で表現されている。基底には血盆がある。そして、塔の表面には閻羅王や目連、あるいは観音や媽祖、臨水夫人など、中国の民間に登場するさまざまな神仏がえがかれている。故人はこれらの神仏に看取られて上の世界に赴くことになる。

※ 野村伸一「三一教の転蔵」2001
 つまり,一種の曼陀羅を形象化して,その中での移動をさせる呪術です。
「経師」と呼ばれる主宰者は目連を模しているとされている。釈迦の十大弟子中,最も神通力が強かったとされるマウドガリヤーヤナです。
 突飛かもしれませんけど,この人の名が出てこの形象だと,次のような日本の盂蘭盆の由緒話と同根なのではないかとイメージしてしまいます。

目連がある日、先に亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察したところ、青提女は天上界どころか餓鬼界に堕し地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていた。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた目連は釈迦に相談する。釈迦は亡者救済の秘法(一説には施餓鬼の秘法)を目連に伝授し、目連は教えに従って法を施すとたちまちのうちに母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天した。

※ wiki/目連
 さて,その具体的な進行についてですけど,結構長いらしい。「開眼請聖」「破獄科儀」「転蔵」という展開からは,魂の上昇=救済を企図していて,イメージとは逆に暗い,呪詛的な印象は感じません。

これ(引用者注:このサイトでの取材儀礼)は2001年9月1日、莆田市仙游県大済鎮鐘峰村仙源祠で三一教の儀礼としておこなわれた。儀礼は「開眼請聖」「破獄科儀」「転蔵」の順に進行した。仙游での塔懺の儀礼は、塔が三つあったために5時間にも及んだ。[野村2001]

 あと一つ,この儀礼で救済する対象は,現実の死者だけではないらしい。次の例では架空の前世の妻が対象になっていて,日本その他の感覚からは酷く違和感を感じます。

依頼者は中年の女性であったが、夫の病が長びいて回復しない。それはどうも前生の妻との因縁が断ち切れていないからのようだということが童乩(タンキー)の口から告げられた。それで、その女性のために転蔵(牽塔)の儀を催したのである。[野村2001]

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