m032m第三波m闽星の毛虫に突かるる倭虫かなm廟前

~(m–)m 前・本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※途中はもっと複雑に歩いてるけれど経路が全く取れません。

何もかにもが謎・大路黄巷里

▲莆田老城位置図
※ BTG『大陸西遊記』~福建省莆田市

TG大陸西遊記が莆田城の位置をマップに落としてました。
 城を東西に貫くのが梅園東路。この道の屈曲は何か,南半分にあった地域を避けるようです。
 この屈曲の南が,坊巷や大路街のあるエリアです。
 ここが城域の中心,内城か宮殿のあった辺りのように見えます。──坊巷が古い家系の由緒地である,という以外,これという史料は出てきませんけど,地理的にはそう見えるのです。

へと,大路街を歩いたのが1247。
 1249,とメモしてるので,そう遠くはない場所だったはずです。右手に大路黄巷里という門を認める。その向こうに細い路地。
 右折東行して入ったこの道の写真が,次の4枚。

▲1250井戸

戸2つ。
 右のには横に「城■■」,縦に「長■」とある。
 左のには「九六六三」とある。使われてる気配があります。
 何でもない場所だけど……「城」の字があるからには,沖縄の親井(エーガー)のような城の基の井戸……と考えるのは飛躍でしょうか。
 漢数字4つに至っては,推量しようもありません。

▲1254門の中を覗いて

様でした。
 見た目は普通の居宅に見えつつ,細部にサビのような分厚い古みを匂わせる。上の写真の門構えをよく見てください。
 この単聯の四文字漢字はどう読むんだろう。
 手前の溝は何をしていた構造だろう。
 奥へと続く微かに歪んだ通路の眩みは。

歪んだ木漏れ日の路地奥

▲1255一見斬新な家屋に見えてもこの門構えの石造りは?

巷里でドンピシャな情報は,ノーヒットでした。
 ヒットはないのに,カスる記述はえらく多い。黄姓,おそらく莆田黄氏ゆかりの通りです。百度にはこの氏族伝らしい物凄い歴史が綴られる。──なのに結局霞んだままです。

黄氏在莆田和福建姓氏都排名第三,两晋直至南北朝时期,福建不断吸引越来越多的南迁移民。在这样的背景下,以黄元方为首的黄姓人大批进入福建,莆田黄姓俗称莆阳黄是一个重要分支(略)
随后黄岸的第六世孙,著名的文学家黄滔从涵江迁至现荔城东里巷,分支为莆田市区东里巷的黄姓始祖

※ 网讯资讯/莆田陈、林、黄、郑、吴等10大姓氏背后的故事
※ 百度百科/莆田黄巷
同/黄巷 (福州)

▲1256大路黄巷里の最奥。路面には下水が施されてて,奥の建物には生活感があるように見える。

き止まりだった。でもこれは…。
 最奥に見えてるのは,門ではなく祠だろうか。ならばこの道は一種の参道だろうか。
 ただ当時の印象は,この不可思議に歪んだ木漏れ日,それにかの祠らしきものの醸す聖域感が発する,立ち去れ,との思念でした。
 旧い土地の底に残る凄絶な場所。

廟前路はどこの前だったのか?

▲1301狛犬と青看板

路街まで引き返し,北行を続ける。
 1259,T字路。パティオ状の場所に西面して長寿社という社。
 上はそこの狛犬だと思う。立派なアフロヘアーの後ろの看板は,要するに爆竹鳴らすな!と言いたいんでしょうけど,他に立てる場所なかったんかい。
 直進。

▲1302仏具屋が増えてきた辺り

し雰囲気が変わってきた。
 仏具が増えたのか?東には后街。進んだ北は廟前路。
──「廟」?それはどこ?と,ここで気付いてもよかったんだけど……(巻末残照)。

大路街 ブルーシートとマネキンと

▲1304家電屋さん?

业維修」と書いてるから修理専門店らしい家電の店。
 なんでしょうけどこれは,ホントに修理屋でしょうか?何というか,単なるスペースみたいな場所。中国には時折あって,それなりに商売になってるらしいんだけど。

▲1305再びパティオ状になった辺りの煉瓦門

の写真の煉瓦門。上部の額のような造りもさることながら,微妙な歪みが何とも言えません。
 下の写真は出口付近から振り返った画像です。誰かが設計したわけでもないんでしょうに……シュールです。

▲1306大路街とブルーシートとマネキンと

308,廟前と書かれた木製門から車道へ出る。
 西側に大宗伯第という古建築。今調べると16世紀末の建築という。
※ 維基百科/莆田大宗伯第(中国語)
 東へ緩やかに下る道。梅園東路。左折西行。
 バス停・儿童医院。

莆田で出会う豚耳パクチー

▲1322ご飯

利路との交差点の南東角だったと記憶する。昼飯にありつきます。
1314 7+7 清小米套粥菜飯餐
豚耳とその辺りとシェンツァイのラー油炒め
豆干の大振り唐辛子とニンニク炒め
鴨血湯
ライス 500
 豚耳をこんなとこで喰う気がなかったけれど旨かった!
 こういうゲテモノ肉を食べる文化って,福建なんだろうか?沖縄に通じるような気がしないでもない。
 沖縄と異なるのは,これにシェンツァイを使ってしまうところ。そう言えば沖縄料理にはこの臭い香草はまるで使われない。

▲1325豚耳どアップ

■小レポ:興化府城隍廟と民族英雄・陈瓒将軍

 当時は完全に見逃してます。
 地図によると,大路街を梅園路をまたいだ先に「興化府城隍廟」という祠がある(→GM.)。「廟前」の廟とはこの祠のことでした。
 つまり莆田城の中心部は,この時のX頼みで歩いたエリアよりも北,梅園路の北側だった可能性があります。
「宋末抗蒙」の英雄「陈瓒」を祀っている,とGM.にメモがありました。
 つまり蒙=モンゴル帝国と闘った人らしい。

① 莆田における宋末抗蒙戦

南宋時代の1276年、恭帝が王都・臨安(今の杭州市)にてモンゴル軍に降伏する。しかし、南宋の残党勢力は益王趙昰を担ぎ出して、さらに南方へ逃げ延び、(略)翌1277年、南宋軍はモンゴルの手に落ちていた興化軍城の再奪取に成功する。

※ 前掲BTG『大陸西遊記』~福建省莆田市
 元に対し一時的にではあれ勝勢に立った,という事実だけが先に立ち,明代=宋以来の漢民族王朝期にその大将だった陈瓒将軍が民族英雄視されて城隍廟に祀られるに至ったらしい。

② 莆田城奪還!の事実関係

 さて敗走中の宋勢力が,元の占拠していた莆田城を奪い返した!という事実は,実際はどうも前後関係がはっきりしてないようです。

陈瓒(1232—1277),字瑟玉(略)莆田玉湖(今福建省莆田市城厢区阔口村)人。
(略)
陈瓒信仰习俗以“扬善止恶”为核心内容,也成为莆田的一种特定习俗。2010年11月,《陈瓒信仰习俗》被莆田市人民政府公布为莆田市第三批非物质文化遗产名录。
(略)
德祐二年(1276年)正月,南宋都城临安(今杭州)城陷,恭帝投降。五月,益王赵显(端宗)在福州即位,改元景炎。召文龙任参知政事,兼闽广宣抚使,至兴化平息石手军之变。
(略)
十二月廿四日,宋叛将林华、陈渊诈称援兵,勾结兴化通判曹澄孙夜开城门,文龙被俘北去。

※ 百度百科/陈瓒
※ 莆田文化网/兴化府城隍庙主神陈瓒

 陈瓒が莆田の出身者で,莆田城に入って再び攻勢に転じた元軍により敗死した,というのは重ねて語られるけれど,どうやって莆田城に入れたか?という点は,「石手軍の変」という反乱のどさくさに城に入ってしまった,というのが実情のように読めます。
「宋叛将林华、陈渊诈称援兵,勾结兴化通判曹澄孙夜开城门,文龙被俘北去」──「宋叛将」林华さんと陈渊さんは援兵と偽って,その夜,「兴化通判」という官職の曹澄孙さんに城門を開けさせたので,文龙さんは捕虜になり北へ連れ去られた。
 百度の常でこれが史料原文かどうか分からないので,あまり拘っても,という点はさておき──誰が誰をなぜ騙せたのか,なぜ文龙さんだけが捕虜になったのか,筋は全然通らない。もっと,混乱状態で何が何だか分からないような状況だったんではないでしょうか。

③ 陳瓒信仰習俗とは?

 だから史実を明らかにする気はないし,おそらく不可能だと思う。それより興味を惹かれるのは,この陳瓒を祀る習俗が誰によって,どう維持されてるのか,という点です。

陈瓒信仰习俗以“扬善止恶”为核心内容,也成为莆田的一种特定习俗。2010年11月,《陈瓒信仰习俗》被莆田市人民政府公布为莆田市第三批非物质文化遗产名录。[前掲百度百科]

「陈瓒信仰习俗」は莆田政府の無形文化遺産に指定されてる。それは莆田独特のもので,「扬善止恶」──善を掲げて悪を打つ,宗旨のものらしい。
 分からん。
 具体的に何をしてるのか?……というと農暦5月19日を誕生日とし,多数の市民が玉湖祖祠から市内中心の兴化府城隍庙までを歩いて祝う風俗があるようです。

衣历5月19日是南宋抗元民族英雄陈瓒的生日。因力陈瓒在明代被朱元璋封为兴化府城隍,因此这ー天也被甫田民众称为”城隍爷生”。甫田许多民众在这ー天都会自发到玉湖祖祠,兴化府城隍庙为城隍爷”做生日”,紀念这位民族英雄。

※ 炎黄風俗网/福建莆田抗元民族英雄陈瓒
※ weblio辞書/做生:((方言)) 動詞 誕生日を祝う.≦做生日

 そのルートは,地図に落とすとこんな感じになりそうです。

▲玉湖祖祠→兴化府城隍庙の経路(GM.)

④ 海外数百万の莆阳玉湖陳氏の祖神

 玉湖祖祠というのは,陳氏,正確には莆阳玉湖陈氏という一族の祠でした。

莆阳玉湖陈氏“一门二丞相、九代八太师”的美名流传已有700多年,后裔繁衍全国各地及海外数百万人,是中华民族大家庭中一大望族,有着辉煌的历史阔口。[前掲炎黄風俗网]

 7百年余の伝統を有し,海外に数百万人の子孫を持つ一大氏族,と紹介されてます。人口的にも,海外華僑を含むということは財源的にも影響力のある一族です。
 福建では小さな地方都市のはずのこの莆田から,交易時代を通じそれだけのパワーが生まれてる。実際の功績の如何に関わらず,陳瓒はその一族の祖神だということが重要なのです。

玉湖祖祠历经沧桑,明成化三年(1467年)、清同治六年(1867年)曾经重建,五十年代后仅存正厅与拜亭。1991年海外侨胞、沂国公卅二世孙陈德发捐资重修大厅、拜亭及“陈丞相里第”门坊等。2009年,玉湖祠迁建在玉湖公园内,占地836平方米,按原样重建主殿和拜亭,还增建偏殿、拜亭和山门。山门两侧又增建为祭祀陈俊卿和陈文龙、陈瓒的“正献殿”和“二忠殿”。[前掲炎黄風俗网]

 玉湖祖祠の創始は明確でないけれど,実際に改築されてるのは1467(明成化三)年と1867(清同治六)年。陳氏が海外雄飛した時代に思えます。
 その後,例によって50年代に「仅存正厅与拜亭」──正殿と拝殿だけが残された状態になった,というのは文革で壊されたか習俗の継続を阻まれた時代を経てるらしい。
 けれど1991年に「海外侨胞、沂国公卅二世孙陈德」──海外華僑と第三十ニ代の子孫が再興したのが,現在,玉湖公園に836平米の敷地を有する玉湖祖祠です。
 つまり,この陳氏の祖神が,莆田文化网の言葉を信ずるなら──莆田全体の習俗として固定化しつつあるのが,現在の「城隍爷」(城神様)陳瓒信仰だということです。
 だから文革以前にそれがどんな信仰だったのか,それはよく分からない。ただ,莆田という小さな,けれど強烈な独自性の町から異国の民族の坩堝に移り住んだ陳氏の人々の眼に,世界史最大の帝国を前に漢族王朝に殉じた「先祖」が如何に眩しい光明だったかは察するに余りあります。
▲百度百科巻頭を飾る絵本っぽい陳瓒画像

⑤ 興化?興安?莆田?

 もう一つ整理しておきたいのは,この町の名前。
 現在の市名「莆田」は,自然な発想で,かつての開拓時,莆草(ガマ)が埋めていた遠浅の海の情景を指すとするのが定説。「萐莆,瑞艸なり」[説文解字]との記述があり,「萐」字を加えた「萐莆」は堯の頃の吉兆を表す草とされ,漢方薬にもなるようで,呪術的な意味を含むかもしれない。
 初見は(南北朝・陳)568年と(隋)589年の二度,侯官県から分離する形での「莆田県」の新設。ただいずれもすぐに廃止。なお,侯官県は当時の南安郡に属していたけれど,この郡名も建安郡→(西晋・282年)晋安郡→(東晋)南安郡と改称が著しい。南安郡は豊州(後代の泉州)に属したことからも,要するに泉州と福州の間の辺境の地だったわけです。
 その後も,後述の「興化」名が先行して,「莆田」名が市の名前になるのは経済解放後の1983年です。

1949年10月1日,中华人民共和国成立,福建省分为8个专区及福州、厦门两市。莆田、仙游两县隶属福建省第五行政督察区(驻泉州)。
(略)
1983年9月9日,国务院批准建立莆田市[前掲百度]

 6世紀に遡る古名ながら,土地の感覚だと新しい名称。何か,禁じられた称号なのかもしれません。ちなみにこの土地は,漢初に族長の無諸が劉邦に協力し,前漢第七代武帝の時にも広州・南越国の討伐戦(BC1C)に協力したため独自勢力を維持していた「閩越国」が,その直後から締め付けられ,少なくとも一部は江東地区へ強制移住させられて滅亡した歴史も持ってます。
 さて,「興化」の地名は,漢代に滅んだ閩越の後の興隆期につけられてます。

北宋時代の979年、宋太宗は北漢を滅ぼし、中原の統一を成す。すぐに全国の統治体制の再編を進め、その一環として、莆田県、仙游県、永福県(今の永泰県)、福清県の4県の一部ずつを分離して、興化県(県役所は今の仙游県游洋鎮に開設)が新設され、同時に、この県城内に太平軍役所も設置される。
翌980年、太平軍は興化軍へと改称される。あわせて、平海軍(今の泉州市)の管轄下にあった莆田県と仙游県の2県がこの興化軍の管轄下へ移籍される。
当時、興化軍は両浙西南路に属し、建州、福州、泉州、漳州、汀州、南剣州、邵武軍とあわせて、八閩と呼称されるまでに繁栄した重要都市に成長する。その興化軍の行政区域はだいたい今の莆田市域と同じ範囲となっていた。[前掲BTG]

 つまり,宋代に福建内新興都市として建設されたのが興化です。海外での俗称として「興化」地名が未だ使用されており,最も定着しているのはこの地名のようです。
 だから前述の陳瓒ストーリーの中にも,出てくるのは「興化」であって「莆田」ではないのです。
 ただ,陳瓒ストーリーに「興化」と並んで使用される「興安」という地名があります。これは宋末の陳瓒時代の栄光を記念するものでした。

1277年、南宋軍はモンゴルの手に落ちていた興化軍城の再奪取に成功する。この快挙を記念して、端宗が興化軍を興安州へと改称するに至る。このエピソードから、莆田市の別称は今でも”興安”と呼ばれることとなっている。[再掲BGT]

 この南宋最後の快挙は,当時,そしてその後も続く元・清の異民族支配下で延々と光明であり続けて,その象徴地名が「興安」だったのでしょう。

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