m042m第四波m天后宮 冥く囁く濤声やm土地公

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
朝圣路:GM. 土地公:GM.
(ともに地点)
 ※ 経路は如何にしても取れない……。

宮下村宮下は古参道か?

▲ゴミ分別にも妈祖

845,朝圣路から右折…きれは南行だな。
 この「朝圣路」にも後日思うところがありましたけど,巻末に回します。当時は左手の路地が気にかかって,ふらふらと迷いこんでいます。
 宮下村宮下。──かの呼称がこの南側にあるのも,ここが廟を前提とした土地と傍証してます。

▲0902村にて。

側の家並みは普通に綺麗ですけど,すぐ裏には古びた村が見える。年季の入った地域と思わせます。
 解体現場のような体だけど,こういう家屋なんでしょうか。
 もう一度,ここの地図を見直してみる。

▲宮下村から祖廟まで:百度地図

下というこの地区は,明らかに周囲と家屋の筆の形が異なる。乱れがあって,自然形成された色彩です。
 位置は祖廟と浜との間。朝圣路が出来る前はここ,丁度上の地図で工事中の灰色になってる道──当時ワシはここを抜けたと思われるけれど──が祖廟への古参道だったのでは,と思わせます。

土地公廟:どうやって帰るんだ,ワシ?

▲0904海に出た

903,海岸に出た。
 漁船浮かぶ砂浜。岩肌は丸い。北側と岩質が違うんでしょうか。
 大きな船はつけにくいでしょうけど,小さな船はむしろこの遠浅の浜が使いやすかったろう。

▲0909海浜の村にて。かつての追憶の飾り……にしては仰々しい置き方ですけど?

手へ。こっちが東……のはずだよな?
 東環北路と道名の表示。おそらく島を環る道でしょう。
 しかしまあ,とにかく祠が多い。きちんと祀ってある感じでもある。租廟がヤった時に文革はこういう小さなのは見逃したんでしょうか?

▲村の小さな祠

側,海と反対側に大きな建物敷地が被さってきた。0913。
 これは,天后広場の海側裏手なのか?てゆーかそれならどうやって帰るんだ,ワシ?
 とにかく目的地,大徳涓建土地公廟に着く。

▲土地公廟外観

囲に人気を感じません。
 土地公は名前通り,その場所の地霊を祀ると聞く。だからこんなところにポツリとあること自体が謎でした。
──わざわざここを目指した当時のワシも十分謎ですけど……
 天后広場の出来る前,この場所には現・宮下村から続く集落があったんでしょうか?

天后広場を無謀に抜けて

▲0918土地公,廟内を覗く。思えばこの2神配置というのも珍しい。

茶をここでやってます。
 天后広場側は柵に囲まれて入れない。でも祖廟山はその方向なので,どっかに抜け道はないかと探してるうち,掃除のおばあを見つける。試しに軽く入り口を訊くと……開いてる窓から入ったらいいじゃん!……だってさ。
 普通それはとても犯罪っぽいんだけど,な,何を言うか!他ならぬお婆様の言であるぞ!……なんて中国カフカな警備員に言っても通じんだろうに,この時は行っちゃいました。
 よく分からん建物内を適当にくねくね通ると──

▲天后宮へ登る亀の行列

新しいエリアの媽祖様

?広場に出たぞ?
 人がいないのは朝だからか?後で調べるとここは入場料が要るとも書いてあるけど,入ってしまったものはやむを得まい。
 ここから階段を上がるのが天后宮でした。

▲再掲:湄洲媽祖祖廟景区導見全景図

掲地図をもう一度見てみましょう。
 朝イチで上がった階段の並びが,地図上の「古いエリア」。今上がってるのが「新しいエリア」です。
 道の造りも「新」は真っ直ぐで,歴史が浅く金を注いでるのが明白。建物管理者や運営団体がどうなったらこんな二系統が出来ちゃうのか不思議ですけど,とにかく二系統でした。
 斉順とある宮を過ぎてさらに登ると──

▲0936本宮の妈祖像

934,一番上の天后宮に着く。新しくて有り難みは薄いけれども,参拝は「古」と同じくらいある。信者の割合,つまり真面目に宗教してる度合いはどうやら「新」の方が強そうです。
 これもどうなってんのか分からん。こっちには昇天場所も何もないはずなのに……。

台中西区英才略余 一万二千元

▲台中から一万二千元!

本の神社と同じ形式で寄進者が石に彫ってあるのは,やはり台湾由来だからでしょうか。
 大口寄進は台湾,厦門からが多いようです。
 この直登道はまっすぐ,宮の後ろにも続いてました。でも奥の院,という風情ではなく,むしろ俗っぽくなってる。朝天閣で打ち止めになってる「古」とは別の意味で,日本人には図りがたい聖地感覚。
 0943,頂上近き雰囲気がしてきた。というより,これだけはしゃぎまくりの嬌声が聞こえれば嫌でも分かるぞ。

▲頂上間近!

■小レポ:「朝圣路」の意味

 朝圣のピンインはchao2sheng4。
 この時に天后広場から抜けた道は朝天路。こんな通り名が続いてる。だから当時も,しばらくの間も,「朝天宮の下の道」という程度のものかな,と軽く考えてました。それほどこれらの道は,今はさりげない通りです。
 けれど……「朝」には「朝貢」のように臣下として近寄る,という意味がある。そして「茎」みたいなもんか?と考えてた「圣」は,「聖」の異体字。
 つまり「朝圣」は巡礼を意味してます。それを知るまで,次のような文章がどうにも分からなかった。

台湾同胞・蔡辅雄の32年の湄洲巡礼

“现在变化真是太大了!”站在湄洲岛,遥望矗立祖庙山头远眺台湾的妈祖雕像,日前再次率团登岛谒祖进香的台胞蔡辅雄如是感叹。
 1981年,年轻的蔡辅雄辗转来到妈祖故里湄洲岛。“当时两岸交流还没有开放,我是偷偷坐船转道香港来到湄洲岛,下船后害怕得不敢过来。”在蔡辅雄记忆中,当时的湄洲岛几乎是荒芜的。
 30多年时间里,蔡辅雄亲历湄洲岛变化:“30多年前湄洲岛连庙都没有,现在妈祖祖庙这么宏伟壮观”,“早上5点半从台湾出发,傍晚就到湄洲岛了”

台胞蔡辅雄32年湄洲朝圣路_妈祖新闻_莆田网
 順に拾い読みする。
「远眺台湾的妈祖雕像」(遠く台湾を眺める媽祖彫像)が媽祖祖廟の山上に立つとある。そう言えば確かに方向はそうです。ここは台湾の媽祖信仰者の「メッカ」なのです。
 1981年に蔡さんが初めて湄洲入りした際は「偷偷坐船转道香港来到湄洲岛」(こっそりと(偷偷)乗船し香港経由で湄洲に来た)とある。密航の性格をどれだけ帯びてたかはともかく,当時は船で上陸したわけです。「早上5点半从台湾出发,傍晚就到湄洲岛了」(朝5時に台湾を出発,夜に湄洲島に到着)というのも船,しかも非常に速力の遅い小型船を思わせます。
 蔡さんの記憶するところでは,当時の湄洲島には「几乎是荒芜的」(ほとんどが荒れて何も無かった)。「连庙都没有」(連なる廟は全く無かった)ともある。

朝圣路は本当に巡礼路ではなかったか

 何も無かった頃の湄洲にも「巡礼者」が来ていた?来て,何をしてたんだろう?
 文革で叩き潰された後に,ただここが媽祖の故郷「妈祖故里」(マソグリ)だというだけのために,この島を詣でる人々がいた。彼らが船で来るなら,港湾も何もなければ,媽祖祖廟の山の南すぐの浜に,国境も何もなく上陸してたんではないでしょうか。
 そして浜から媽祖の山を目指した。その道がまさに今,朝圣路とか朝天路と呼ばれる道なのではないか。
 そういう記録は,蔡さんのこの記事しかありませんでした。でもそうだとしたら,台湾からこの廟関係に流れこんている膨大な金銭といい──
 媽祖信仰は,文革後の,実際には何もなくなった湄洲島に,「妈祖故里」の幻影を描き,その幻影に沿ったマソグリを現出させてしまったのではないか,と思えるのです。
「予言の自己成就」ならぬ「幻影の自己現出」といった,他に例のない宗教に,20世紀末以降の媽祖信仰はなっていったのではないでしょうか。

▲中国・莆田と台湾・台中の位置関係。まさに「祖庙山头远眺台湾」です。

台中緊張下で船が運航できたのか?

 と安直に書いてしまったけれど,それでもどうも疑問は残る。
 大陸中国が福建省莆田市秀屿区湄洲镇乌坵村と呼ぶ島がある。湄洲のすぐ沖,30kmしか離れていないこの島→GM.(地点)は,つまり湄洲村の一部です。
 ただ台湾が「実効支配」してます。
 村の一部が他国に占領されてるような地域で,素朴な巡礼者が浜から上陸して「いや媽祖様が……」と山に登って来れたんでしょうか?
 沖縄の戦後密貿易の記録でも,台湾から大陸中国へは相当の物資が流れていたようです。どうもこの台湾海峡というのの実態は,ゴルゴ13とかで描かれるような「一瞬即発」なだけの状況には見えない。むしろ軍事的なエアポケットになったからこそ,最後の冒険的な航海のエリアとして遅くまで保たれていた,そういう気配のする,なんとも不思議な海峡です。
※ 維基百科/乌坵乡

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