m041m第四波m天后宮 暗く囁く濤声やm海上ポタラ

過剰なる海上ポタラの迷い初め

▲チベット(中国西蔵自治区)のラサ(拉薩市)にあるポタラ宮

祖祖廟階段下にて,日本語の看板を見つけました。
「海上ポタラ宮」と呼ばれると解説されてます。
 20歳前後でチベットにカブレた人間としては……正直,信仰の内実,建造物,景観とどれをとっても,ポタラは言い過ぎだろう?という感想ですけど……確かに山塊にしがみつく幾多の伽藍の配置は,その形容をギリギリ許す絢爛さではあるかな。

▲バニティ場所??

お,巻末にこのポタラ周辺の道の地図を添えてます。ここだけの話,ワシははっきりと迷子になっており,特に下山時に誤るととんでもない方面に出ますので……今からの方はお持ちになることをお薦めします。
 さて登りましょう。

▲0803参道登る

寄りにはキツい階段です。
 0805「山門」とある石門。
 続けて登ると「聖㫖」とある門。
 この朝がたから,既にえらいこと爆竹が鳴っております。

▲0806さらに階段を登る。

媽祖祖廟正殿:神 昭らかにして 海 表わす

。「澤施四海」と単聯。
「台湾苗栗竹南后厝龍鳳宮敬贈」とある狛犬がおります。台湾マネーは本当にここに注ぎ込まれてる。

▲0815宮本殿

818,天后宮にたどり着く。
 正面の額には「神昭海表」。
──この御匾(勅額)の文字は頻出します。「天妃顯聖錄」によると雍正4年に雍正帝から賜ったもの。
※ 全臺祀典大天后宮 | 宮殿導覽 建築文物之美 御匾
 意外なほど日本の神社のように清潔でこざっぱりしてる。台湾センスだからでしょうか,それとも文革で一度壊されたからでしょうか。

▲0816焼香壇前の拝み

分が信徒,半分が観光客,いや少し信者の方が多いか。
 拝む人はかなり,鬼気迫る気配で拝んでます。
 拝みの方式は膝をついて線香を掲げて頭を何度も下げる,香港や台湾でよく見る方式。

▲0817本殿での拝み

正殿‐朝天閣‐(イビの不存在)

822,さらに奥の高みへ。この一段上にも朝天閣という建物がありました。形態は八角堂。
 この配置はどうなってるんでしょう。まず全体方向が東北東という微妙な方向で,風水思想からは出てこないはずの配置です。
 次に,正殿の奥の高みにさらに,他では単独の媽祖廟を呼ぶことも多い朝天閣が,あたかも拝殿と正殿のようにある(→この点の仮説は巻末)。

▲0817朝天閣辺りから下界を振り返る。

天閣が最上部らしい。
 この点が最後の疑問点です。日本や沖縄ならその奥の聖域(イビ)にあたる場所は,朝天閣のさらに山手。そこは,この後(次々章)山側からも確認することになったけれど,これら社殿と柵で区切られた遊歩道になってる。
 この聖域には核がない。正確には,ブレている。それは本来はあったのか,元々なかったのか?
 はっきりとした異形の空間です。

▲0826東シナ海を遠望

五帝廟には寄らない

帝廟とある方へ南行,つまり山裾を反時計回りに移動してみる。
──この五帝廟にはこの時寄らなかった。それを後日大いに後悔します(巻末参照)。
 さらに回りこむと──何と!こんなところにホテルがあるのか?祈福大酒店という高級そうな宿。名前からして信者用だけど……日本の神域感覚なら絶対に許可されない場所です。

▲0829龍の甍と……正殿?もはやどれがどの建物だか……。

東への道は下り坂となりました。
 風情はあまりない。直に参道ですらない観光用らしき裏道になりました。
 それでもポツポツと祠が続く。五福のような理由(巻末参照)がなければ一体このラインに立つ神々はどういう性格のものなんでしょう。

青き衣の声明

▲0832観音堂正殿での拝み

834,観音堂という建物に出た。
 声明の大合唱。
 信者も多く皆真剣に祈っです。媽祖祖廟の仏教版ではあろうけれど,こんなに真面目に仏教してる大陸中国の寺を見たことがない。

▲0834観音堂での寺娘さん方の声明

服は,制服か,あるいは袈裟代わりなんでしょうか。
 媽祖祖廟の正面ラインとは全く異なる空気です。声明も唄のようでまるで連想できるものがない。ついでにネットでもヒットはないんですけど,なぜかここは心に影を落としてます。

▲0844「金玉満堂」

テルの多い界隈をぐんぐん降りると,天后広場という……駐車場かタクシーの客待ちみたいな場所に出る。
 この辺りで上の祠を見つけてる。「金(きん),玉(ぎょく),堂に満つる」つまり大金持ちウハウハだけを願う祠なんだけど……雰囲気はひどく生真面目で,その違和感が,何かいい。
 0845,朝圣路から右折…これは南行だよな?と,方向がどうもちんぷんかんぷんになってきて……この辺から迷走が始まったのでした。

■資料:媽祖祖廟の近辺のウォーキングマップ

▲湄洲媽祖祖廟景区導見全景図

中国における琉球史跡(ビ州島)

▲百度地図:媽祖祖廟付近

■メモ:「㫖」字

 ピンインはzhi3,というところまでは分かったけれど,用例はまるで出ない。ただ古い書籍名のデジタルには結構ヒットがある。
 意味は,
①うまい。おいしい。味がよい。
②むね。考え。意向。意図。
③天子の意向。命令
の概ね三群があるらしい。
 誰もが見間違えかける「旨い」の「旨」字は何とこの漢字の異体字とされます。①の語義だけに限定した用法に用いる漢字?とも考えたけど,「主旨」などの用法は②の意味です。
※ 漢字辞典ONLINE/「」の部首・画数・読み方・意味など
※ 金字庫/

■小レポ:媽祖祖廟の正殿と朝天閣の関係

 朝天閣の表記は,清代より前の記述には登場しない。これは,湄洲の媽祖廟と言えばコレ,という本殿が明確に存在していたからでしょう。──というか,それが通常の信仰施設です。祈る対象がブレてる施設には信者は来ません。
 事情が複雑になるのは清初,1683(康熙22)年,つまり鄭王朝崩壊直後に福建総督の姚启圣という人が湄洲媽祖宮の修建に入ってからです。

清朝康熙二十年(1681年)迁界令撤销后重修。康熙二十二年(1683年)福建总督姚启圣重建钟鼓楼和山门,又把朝天阁改为正殿,后因姚启圣封为太子太保、兵部尚书,所以人们也称正殿“太子太保殿”、“太子公殿”,后简称为“太子殿”。康熙二十三年(1684年)靖海侯施琅增建梳妆楼、朝天阁、佛殿、僧房,按石祖庙又建中殿、观音亭、土地庙等,当时有五组建筑群,殿堂楼阁十六座,客房斋堂等建筑九十九间,规模宏大。
湄洲祖庙惜已于文化大革命期间全毁。

※ 維基百科/湄洲妈祖祖庙 中國福建莆田湄洲島媽祖廟 (下線は引用者追記。以下同じ)
「朝天閣」を「正殿」と改名した。姚启圣が「太子太保」と「兵部尚书」という役職等だったため人々は正殿を「太子太保殿」「太子公殿」と呼んだ。翌年1684(康熙23)年に靖海侯の施琅が朝天閣を増建した。
 微妙な書き方です。百度著者はこれを建物別の来歴としてこうまとめており,これをみるともう少しよく想像がついてきます。

太子殿 “太子殿”原为“朝天阁”,因清康熙时,太子太保姚启圣以罗盘估算,认为风水不当,故构工将此阁改为正殿[2]。但信徒并不领情,依然以寝殿为“正殿”,故称此殿为“太子太保殿”、“太子公殿”。后迳称“太子殿”。[同維基百科]

「風水が不当」とかいうよく分からない理由で建替は行われたけれど,信徒は「不领情」あまり有り難く思わなかった,つまり不評だったわけです。
 あまり不評,というか実態は物凄い批判があったのでしょう。それまでの信仰の本殿を奪われたのですから。だから翌年に,別の朝天閣を正殿の上位地に造らないと収拾がつかなくなった。
 姚启圣という人は,たまたまこの地に任官した,という役人ではありません。台湾・鄭王朝を実質的に滅ぼした人です。ただし,清軍の将軍としてではなく,鄭氏同様の民間軍事勢力,おそらくは海賊の別系統です。

施琅于康熙二十二年一战而克澎湖,不战而使台湾本岛投降。康熙帝大喜,立封琅为靖海侯。对姚启圣加太子少保兵部尚书。故当时福建人都称他为“太子公”,对他主持这次修改、扩建湄洲祖庙的正殿,也称之为“太子殿”了。

※ 莆田文化网/湄洲妈祖祖庙正殿为何称“太子殿” :百度のこの部分はこの莆田文化网記事を原典とする模様
 康熙帝がこれを大いに喜び,旧・鄭氏本拠たる湄洲を含む福建の総督に任じた。姚さんは嬉々として鄭氏残党を駆り立て,湄洲の媽祖本殿を改造して対鄭戦の勝利を記念しようとしたのでしょう。
 けれども,そこは信仰の本拠でもあった。そこで朝天閣を建てて,信徒をようやく抑えることができた,という流れと思われます。

朝天阁 太子太保姚启圣将“朝天阁”改为“太子殿”后,“朝天阁”不复在。靖海侯施琅又新建了朝天阁。本阁至今还保存台湾鹿港天后宫乾隆丁未年(1787年)湄洲进香文物。[同維基百科]

 ところで,以上の副産物ですけど──この訪問時には迂闊にも見逃してます。一つ目の寝殿の裏側に小さな祠があるそうです。

神女祠 紧临升天古迹旁,寝殿后方有间小庙,即是祖庙发源地,世界上最早的妈祖庙,名为“神女祠”。在妈祖羽化升天后,湄洲岛民就在妈祖升天处旁建立一间小庙祭祀妈祖,在文革期间神女祠险遭破坏,在岛民的极力保护下幸免于难。[同維基百科]

「神女祠」という。
 媽祖の昇天の場所とされる祠の隣で,もしかすると正殿よりも早い時期の原・媽祖廟だった可能性がある。──日本の立派な神社の裏手に,ひっそりと銘もなく立つ,でも土地の人や寺社側が密かに手入れしている祠のような存在です。
 ただこれも,媽祖廟全体と同じく文革期に破壊されているようなので,どれだけのものが残っているのかは怪しい。
 けれど,この文革での破壊より本質的な分かりにくさの質は見えてきます。口承信仰の内容のブレ,信徒の規模の爆発的拡大に加え,この信仰が政治階層上を激しく移動していった点です。

■小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?

 五人の皇帝を祀ってるものだと思いこんでました。五帝は「五福」「五福王爷」「五瘟大王」とも呼ばれる疫病退散の神様でした。

五福殿,又称五帝庙,祀五福大帝。五福大帝又称五福王爷、五瘟大王,是瘟神,故本殿不设正门,以希冀五帝不出门。

※ 前掲維基百科/湄洲妈祖祖庙
 メインルート上に五福神を配さない理由は,何と「希冀五帝不出门」門から出ていかないよう願をかけてるんだそうです。
 神様相手に何ちゅー厚かましいことするんでしょう。媽祖祖廟に「幽閉」されてる五名はこの人たちです。

▲五福横並びの図(台北市北区白龍庵)

① 张元伯 锺士秀 刘元达 史文业 赵光明

 福建ローカルの神様らしい。最初の文献記述は「三教源流搜神大全」というから明代,媽祖よりは大分新しいけれど,そこにある年代は何と「隋文帝开皇十一年六月」,つまり592年ととんでもない。文帝は随初代,煬帝の父親です。
 媽祖物語と同じく口承で,しかも権力が統一するステージも経ていないからでしょう,伝えられた内容はてんでバラバラです。でもとにかく五神の名前は固定してる。
 ある時代の疫病下で治療に当たった次の五人の医者がいて,彼らが神格化されたものです。

五神名号分别为为:显灵公张元伯、应灵公锺士秀(一作钟士贵)、宣灵公刘元达、扬灵公史文业、振灵公赵光明(一作赵公明)。

※ 維基百科/五福大帝 閩南地區民間信仰逐疫之神,福州人的鄉土守護神之一及陰間司法神
1)显灵公 张元伯
2)应灵公 锺士秀(钟士贵)
3)宣灵公 刘元达
4)扬灵公 史文业
5)振灵公 赵光明(赵公明)
 なお,「医者」と書いたのも推測です。民間伝承では有毒と疑われた井戸の水を試飲して死んだとか,実験台か人身御供のような記述もある。
 真偽,ということを考えるより,この土地の人々がそれほど絶望的な病疫との闘いに晒されていたということを暗示させます。

▲蟾蜍精:台湾で井戸に潜んでペストなど伝染病を広げるカエルの妖怪

② 福建は交易だけの窓口だったか?

 それで再確認する気になった。中国の疫病史は凄まじい。半分とか9割とか死んだと平気で書かれる。
 よく考えると,ヨーロッパで近世に形成されそれがペストの温床となったような,内陸の通気や水質下の密集した住環境は,中国で早くから存在したわけですから,疫学的には当然なのです。

22年   湖北・満州の大疫「死者過半」
49年   湖南、紀州の武陵五渓大疫「人多死」
208年  湖北大疫「士卒多死」(兵士が大勢死亡)
253年  湖北大疫「死者大半」
275年  河南大疫「死者10万」
467年  河南・豫洲疫「民死14,5万」
756年  浙江水旱「民多疫死」
762年  江東大疫「死者過半」
806年  浙江・浙東大疫「死者大半」
1331年 河北疫死者「十乃九」
1472年 湖南大疫「死戸遍野」(野にあまねく)
1475年 福建大疫延及江西「死者無算」
1513年 江西大疫「民死亡者過半」
1589年 江西・夏大疫「死者十の五」
1604年 山東・冤おん(病だれに温の作り)「人死過半」
1640年 山東・おん疫盛行「人損大半」
1644年 げん江大疫「民氏十之八、九」
1649年 湖南大疫「死者無算」
1726年 広東疫「民多殆流亡者不計其数」
1815年 山東大疫「人多疫死」
1821年 河北・霍乱時疫大作「死者不可勝数」
1832年 湖南大疫「死者無算」
1851年 山東・おん疫盛行「民死無算」
1862年 上海・霍乱「死者日以千」
1864年 貴州疫癘又作「十死五、六」
1877年 遼寧・夏大疫「死者相望」

コロナ危機で考える疫病との闘い 04.19.2020 人類はどうやって生存したか 後編 :下線は引用者
 疫学と言ってもワシが通じてるわけじゃない。ただ,こう列挙すると,疫病の蔓延する地域が10世紀前後から南部海岸域にやや偏る傾向は分かります。
 その傍証という訳でもないけれど,こんな記事も見つけました。

福建省からのある情報によれば、過去1ヶ月半に現地では172件のコレラ疫病報告があったという。(略)香港の伝染病専門家は、中国大陸がWHO(世界保健機構)に通報したコレラの症例は過去2年、毎年約200件しかなかったが、1ヶ月内で、百件を上回るというのは、すでに尋常ではない現象だと指摘した。

※ 大紀元日本/香港専門家:福建コレラ疫病発生情況は尋常ではない
2005/09/

 南部海岸域というのは疫病の発生率が高いのだろうか。なぜ?
 この点は,言われてみれば素人でも分かりました。──生物の身体は,実は,環境の異なる広域を移動するように出来ていない。本稿でテーマとする海上交易は,その意味で非人間的行為であり,疫学的には極めて危険な事態らしい。

③ 初・世界システムは初・世界パンデミックで自壊した?

東アジアにおけるコレラ流行の窓口は、ほとんどの場合に中国の南部および中部の沿海地域(広東省、福建省、浙江省など)であったと推定される。その後、中国内部ではそこを起点として北上するのがよくみられるパターンである。あるいは、これらの沿海地域から朝鮮、日本、台湾などへ伝播した。

※ 脇村孝平「疫病のグローバル・ヒストリー -疫病史と交易史の接点」
 海の向こうから入ってくるのは,交易上の利益を伴う商品だけではない。短期的にはそうであっても,長期的には疫病もまた流入し,その多くは発病や抗体生成に至らないままその土地に眠って目覚めを待つ。

このような伝播ルートは,当時の交易ルートのあり方とほぼ一致し、一四世紀のペスト流行と交易ルートとのかかわりを明確に示す証左となっている。
しかしながら、一四世紀にユーラシア大陸各地で同様に大規模なペストの流行が起こったために、交易ルートが各地で寸断されることになる。すでに述べたように、ペストは交易ルートに沿って伝播したが、交易ルートの要衝となる都市の多くに壊滅的な影響を与えたからである。このために、アブー=ルゴドのいう「一三世紀世界システム」は解体してしまった。[脇村]

 ここで脇村さんが断言までしてる事実は,衝撃的で,かつ納得のいくものです。
 元帝国下で初めて実現した世界システムは,疫病がその結節点たる都市を壊滅させることで崩壊した,というのです。
 この時の疫病が,西にとってはペストだったことは推論されてるけれど,東にとって何だったのかは明確にされてない。第二波又は逆輸入の可能性もあるからペストでないとも言いきれない。ただ,2020年の疫情を経験した人間,そしてこれ以前の時代の流行を経た方々にはそう突飛な想像でないことはご理解いただけるはずです。
 というような同じイメージに立って,中国語でもコロナ「武漢肺炎」と五福神とを結びつけて紹介する記事もありました。中国語に馴染まない方でも漢字の並びだけで十分雰囲気が伝わると思います。

去年年底中國武漢爆發傳染性疾病–『武漢肺炎』,伴隨中國年關的春運返鄉人潮,全球國家人心惶惶,防疫措施嚴陣以待。其實在民俗文化界裡,也有負責掌管瘟疫疾病的大神,他們就是被稱為五方瘟神的,五福大帝。

※ SETM/掌管瘟疫的大神 五福大帝 他的幕僚護衛你一定認識!
2020/02/05

 ザクッと当たる感じでも,台湾にも媽祖に次ぐ位の勢いの廟があるようです。海難と病毒──並べて拝む対象の間に因果応報の関係があると,当時の人々は想像もしなかったのではないでしょうか?

 なお,日本語wikiの「五瘟使者」項はなぜか単純訳ではなく内容にあまり触れていない。ただ参考書籍には詳しいので以下添えておきます。
① 川野明正「神像呪符『甲馬子』集成 中国雲南省漢族・白族民間信仰誌」 東方出版 2005年 104-105頁
② 李剣平主編「中国神話人物辞典」陝西人民出版社 1998年 95頁(中国語)
③ 山口建治「唐代瘟神『五帝』考 -御霊信仰の源流-」 「年報 非文字資料研究」10 神奈川大学非文字資料研究センター 2014年 217-232頁

▲媽祖withコロナ句
「太陽に近き嘴蚯蚓を垂れ」(第23回俳句甲子園最優秀句)

「m041m第四波m天后宮 暗く囁く濤声やm海上ポタラ」への5件のフィードバック

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