m051m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm泉州站

~~~~~(m–)m泉州編~~~~~(m–)m

キリスト教諸国に売りさばこうとしてアレクサンドリアその他の港に胡椒を積んだ一隻の船が入港するとすれば,ここザイトゥン港にはまさにその百倍にあたる百隻の船が入港する。その貿易額からいって,ザイトゥン市は確実に世界最大を誇る二大海港の一つであると断言してはばからない。[愛宕松男訳注「東方見聞録2」平凡社,114頁]*引用者注:ザイトゥン=泉州

▲(ピンク地)泉州位置

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
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(いずれも経路)

中国語 聞き取れなけりゃ即退室

1時前にJ1(錦江之星:中国ビジホ)に入室。
 カウンターでお兄ちゃんに退房時間(チェックアウトタイム)を確認すると,は何と下午2点だという。ラッキー!
 部屋は2階で低層ながら,さっきの陸橋の下り階段がすぐ目の前で,ワシ的には出撃を促す好いロケーション。
 ただ熱水はあまり温度高くない。水捌けも悪いようです。施設には期待薄。
 1112,洗濯だけしていざ出発!と一階ドアを開けようとすると,カウンターのお兄ちゃん「退房了吗?」──チェックアウトか?──いや,10分前にあんたから鍵をもらっただろ!「刚刚来了!」──さっき来たばかり!──と返すと,がははっと大笑い。……笑うところか?中国語聞き流してたら退室させられるとこだったぞ!
 1116。バス停・東湖公園に戻り北へのK1を待つ。
 55路と1路は鐘楼へ行く。こりゃ見かけ以上に便利な立地みたい。何よりこのバス停の涼しげな木陰が宜しい。さっきみたいに日射に焼かれない。

北行:新幹線チケットを買う

らり,と停まった3路の行き先表示に高鉄站との文字を見つけ,反射的に飛び乗る。1121。
 BD.で確認する。この路線で北站に行けるらしい。
 バスはまず左折。道は東街か。裏町が予想通り良さそうです。3駅目が鐘楼。
 バスの「愛心卡!」(敬老パス)という音声の確認音は止めた方がいい気がする。
 中国語ラップは段々流行りの傾向らしい。車内の宣伝アナウンスにも流れてました。
 と車内にとられた気を窓外に戻す。──おおっ!赤煉瓦の騎楼が続いてるぞ!裏道も凄そうだぞ!中心街だろうに,えらく落ち着いてるぞ!
 傾斜がある。この道の50mほど北が最高所になってるようです。東西にも,少なし今走る福中路はかなり下ってる。
 人混みはこの西の方が多そうに見える。
 信号が真ん中にある十字路で右折。入ったのは中山北路。石畳の路面。古いものじゃない。何でわざわざ?観光政策?
 1133,アスファルトに戻った。右手に公園。バス停華侨新村。
 右手に関帝廟。道は北門街。さらに朝天門のロータリー。普明村と表示。道は泉山路に転ず。
 そこからは両側高層マンションの片側二車線道,典型的な郊外道になりました。ここが老城域の北限らしい。

スは北浦東路には曲がらず直進。高速らしき工事中の高架。
 環山と書かれた石。
 中央分離帯が林のような分厚さです。この町の街路樹はボリュームが多い。
 1142,ロータリー。西へ方向転換。右手に大山,続けて遠くに小山。
 道は北へ湾曲。いや西へに戻ったぞ。小山方向に突き進んでる。目的地はあの山の麓だろうか。
 かなり速度は上がってる。
 バス停・戴厝。朋山隊道,泉州火車站と表示が出た。ここの巨大なロータリーでぐるぐる回って北へ。キレイなハイウェイです。
 泉州の町はコントラストが無茶苦茶高い。
 高架くぐる。北站へ着いた。1151,所要30分ジャスト。

▲1152北站汽車站(バスターミナル)

州にここの雰囲気は似てる。
 タバコにやたらうるさい町らしい。あちこちに標語がでてます。
 售票処(チケット売り場)へ。票を微信で買う時は,客の方に向けたモニターに出るバーコードを扫一扫(画像読込)するらしい。
 1213。明日1225発の漳州行が取れた。泉州はほぼ24時間の滞在となる。
 あと,漳州 zhang1zhouはきっちり第一声で言わないと通じにくい。お姉さん怖そうなので北京語の四声で言ってしまったら「この漳州だな?」と意外に丁寧に確認してくれました。

南行:天后宮を目指す

▲1155泉州北站構内のネオン

K602で南へ折り返す。1230。
 まずは天后宮を目指してみる。
 行き先は义全街西段という発音できないバス停。前側入口から乗ると,料金が違うらしく,運ちゃんが「どこまでだ?」と訊いてくる。ええと……発音はイーチュアンでいいの?2元払う。
 発車。トンネルに入った?すぐに抜けて概ね東へ。東西大道という片側四車線道。北側の山並みが美しい。

並みがキレイで高価っぽい。半ばがたるんだ伝統の屋根はそれほどない。
 武夷岩茶の看板あり。泉州牛肉の表示も目立つけど,北站BTにあったようなのモドキの店も多いみたい。見極めないと。
 しかし飛ばすなあ。
 ロータリー。さっきの道か。速い速い!清源山という風景区らしい。でもそんな美観の中に新幹線駅造るのか?
 どうも,泉州は道名の表示が少ないようです。
 泉山路を爆走したk602は,1242朝天門まで戻る。やはりこの辺りから雰囲気が変わる。現地ではまるで見なかった莆田卤面店があちこちに。
 あれ,城北路に入ったんだな?左折,新華北路へ。
 静かな通り。左折。緑地の道を東行。川を渡る。さらに左折。もう南へ一直線です。
 1251。下車したのは問屋街のような通りでした。

女性格:土地后

▲1252义全路の光景

堡街を南へ進もう。バス道に直交する細道です。Xはこの方向のはず。
 后堡社区と掲示板あり。
 曲がりの多い道を行く。いつしか住所表示が土地后に変わってました。

▲后堡社区の小さな十字路にて

地后??
「土地公」は福建では見慣れた神です。けれどここでは「后」,女性格になってる。しかもそれが地名になるとはどういうことだろう?

▲后堡社区。全般は社区に改変されてるけれど,よく見ると古い構造が残る。

は徐々に細まり,人の姿もローカルになる。
 雰囲気が漂ってきた。方向は間違いない。

順徳似の丸まった騎楼

▲后堡社区。道とパティオが兼ねられてるような風情。

物は,中国古来のものもあるけれど,西欧風のごつい構造も見えるようです。
 昔の繁栄をとどめているような気配がある。

▲后堡社区。木陰のベンチ。陽光に映える花が美しい。

304,広い石畳の道に出た。中山南路。順徳そっくりの丸まった騎楼の三叉路でした。
 そうだ,この雰囲気はまさに順徳の中心部のそれです。
 天后宮に着いた。

▲天后宮前の騎楼の角地

▲泉州城域図と泉州天后宮の位置

■小レポ:泉州城にはなぜ顎が伸びたのか

 泉州城の城壁配置を見て誰もが気づくのは,南側に突き出た顎(あご)状の突出部です。
 この日にたどり着いた泉州天后宮,正式名・顺济宫は,その顎の先にあります。
泉州天后宫(公式2)
※ 維基百科/泉州天后宫

① 貿易港・泉州の盛衰

 泉州の貿易港としての最盛期は12~14世紀,宋元代。マルコ・ポーロが来た時代です。
 明清には海禁によって衰えます。百度百科は,それが台湾への移民圧力になったとする。

始建宋庆元二年(公元1196年),泉州是我国海外贸易最高峰–宋元时期的最大港口,妈祖因被引进至海外交通贸易繁盛的泉州港,成为泉州海神,并因漕运及海外交通的发展,成为全国性海神并远播海外[1],所建官庙宫址地处城南晋江之滨,“蕃舶客航聚集之地”(略)
明清海禁,泉州港衰落,大批民众为了生计下南洋过台湾,妈祖信仰也随着商人和移民的足迹更为广泛地传播。在台湾,由泉州天后宫分灵而来的称“温陵妈”。(略)大德三年(1299年),二月二十日,元文宗下诏书,“加泉州海神曰护国庇民明著天妃。”诏文中直呼妈祖为“泉州海神”。

※ 百度百科/泉州天后宫
[1] 杜杜・迪安 .《中国与海上丝绸之路》.福建人民出版社,1944

 読み取れる点が2つあります。一つは,固定港としての泉州は衰えたろうけれど,海商人集団としての「泉州」は海域に拡散した,もしくは還ったという考え方もできるということです。
 泉州人は,固定点から海域面に居地を転じた。
 もう1つ,媽祖が古く「温陵妈」(温陵は泉州の別称)又は「泉州海神」と呼ばれたこと。媽祖の「本籍」と見なされたような時代があるわけです。
 それは,前述の泉州人の点から面への展開とダブルイメージになってるように見えます。そのような転換スタイルを媽祖が象徴していたのではないか。
 要するに,海域アジアにおける泉州人の位置(下記天后宮公式HPの記述では「海上丝路的起点之一」海のシルクロードの起点の一つ)は,他から突出して重いらしい。先にこの点を押さえてから,本論に戻ります。

泉州作为海上丝路的起点之一,宋元时期达到其顶峰,成为我国海外贸易最大港口。妈祖也传入海外交通贸易繁盛的泉州港,成为泉州海神。

※ 每日头条/东南沿海现存最早规模最大的妈祖庙 – 泉州天后宫 –
※ m047m第四波mm東大路/■(再掲)基礎資料:泉州城域図

② 天后宮の創建と城域への取り込み

 泉州の天后宮は1196(南宋慶元2)年。媽祖信仰そのものの始まりとほぼ同時期です。

泉州天后宫始建于南宋庆元二年(1196),传说其年,“泉州浯浦海潮庵僧觉全梦神命作宫,乃推里人徐世昌倡建。实当浯江巽水二流之汇,番舶客航聚集之地。时,罗城尚在镇南桥内,而是宫适临浯浦之上”。当时妈祖宫的规模已有三殿、山门、两廊、两亭。以宋徽宗宣和四年(1122)钦赐妈祖庙额“顺济”为名,称为“顺济宫”。“顺济”,即顺风以济之意。

※ 泉州天后宮(公式)/历史沿革详情
「浯浦」という読めない土地に建ったとされてる。浦というからにはここが海に面し,貿易地の中心だったのでしょう。
 ここに南宋皇帝が贈った額が「順済」。順風の意という。この時に宮は既に山門,两廊,两亭を備えており,この山門が──

天后宫的山门正对着泉州古城 德济门遗址。
700年前,德济门是进出泉州的要道。泉州天后宫前德济门外的聚宝街、万寿路富美码头是泉州宋元时期进出口货物的集散地。

※ 东南沿海现存最早规模最大的妈祖庙 – 泉州天后宫 – 每日头条
「泉州古城」の徳済門に「正対」していた。古城とは,宋代以後の,方形からの突出部の城域でしょう。徳済門はその南頂点部。
 つまりこの創建時,もしくはその前後の同時期に,城域は新宮を取り込む形で突き出たわけです。
▲德济门遗址鳥瞰
德济门遗址-泉州天后宫公式HP

③ 泉州城を取り込んだ天后宮

 泉州城の南突出部は,防衛上は特段に有益とは思えません。単に天后宮を城内に入れるための拡張としか考えにくい。
 むしろ,この突出部が方形の後背地を備えたような防衛施設です。
 つまり宋代の城域形成時に,この地点が防衛すべき意味を有していたことになります。
 徳済門という命名も微妙です。「順風」をなぜか避けて「順済」の号を賜ったのに,それもさらに避けて「徳済」名の門にしてる。しかも──

德济门始建于南宋绍定三年(1230年),时称镇南门,元至正十二年(1352年)改称德济门 

※維基百科/德济门遗址
 その德济名も当初の「鎮南」名を元代に改めたもの。時系列で言えば,天后宮創建の34年後に門が造られ,56年後にやっと一文字だけ使った德济门と改名した。
 国または地方行政側が,むしろ嫌々に天后を中心とした経済側の守護者にならざるをえなかった,という感じを受けます。清代までの媽祖は,少なくとも統治機構からは嫌われてた。
 それを強いるほど,当時の天后域は発言権を有した。そういう解釈しかできない。
 莆田その他の例からも,城外に自然形成された商業地は珍しくない。でもそこを取り込む城域拡張というのは,相当に稀です。

④ 20世紀:60年間消滅してた天后宮

 それほどの興隆を経ているにも関わらず,20世紀にはこの宮は荒廃し,1930年に学校の校舎になってます。

嘉庆二十一年(1916年)署泉州府事徐汝澜以栋宇漶漫,非复旧观,倡捐再次重修。
1930年,天后宫曾辟为晦鸣中学(今泉州七中)校舍,后又成为泉州七中校办厂。(略)
1982年泉州市政府对泉州天后宫作出环境整治规划。1984年泉州七中校办工厂迁出,1985年国家拨款重修大殿。1990年—1991年台湾信徒捐资重修山门,并重建戏台、东西阙等。[前掲宮公式/历史沿革详情]

 この年代は文革ではない。でも文革の件が全く触れられてない不自然さも感じます。出典が宮の公式HPですから,文革でヤラれたイメージを避けているのかもしれませんけど──とにかく今の天后宮が復活したのは1990年以降。台湾資本で修復,というか半世紀以上の間隔を考えるとほぼ新築されたのではないでしょうか。
 この後,実際に入ってみても,どうも地元の皆さんの信仰の場という感じはありません。
 にも関わらず,湄洲と同様にここにこれだけの寺院を造ってしまうというのは──面に拡散した泉州人の,起点への執念を感じます。