m052m第五波m雁渡 華僑の去りし浦に住むm順済天后宮

2000年に発掘された2000平米

宋代(10-13世紀),泉州海外産貿易空前兴盛,城南緊邻晋江,成為重要的商品交易市場和外商雲集的地段(徳济門遺跡説明書)

──代(10~13世紀),泉州の海外貿易は空前の興隆をみた。城の南,邻晋江へ面し,重要な商品交易マーケット,及び外国商人が雲集する地だった。
 天后路の南対面に広場。その中に徳济門遺跡というのが剥き出しになって露出してました。
 今,中国語wikiを読むと2000年発掘で2000平米の遺跡だという。語呂がいいね。

2000年发掘遗址,面积约2000平方米,显露城墙基址,并出土大量建筑构件及石刻、铁炮等

※維基百科/德济门遗址

──なんて言ってる場合か?2千平米って45m四方だぞ?そんなの門というよりほとんど出城じゃないか!
 前章巻末で既に書いたけど……ひょっとしたら過熱する商業地区に対応した治安施設の中核だったのではないか,ここ?

何だか分からない岩の塊

▲妈祖祭壇

祖じゃなくて,この時はX探索に来てたはずなのに──何か凄いので,1315,とりあえず天后宮へ入ってみることにしました。
 まずはその媽祖様。扁額は中央「天上聖母」左「中段元帥」右「廣澤尊王」。
 湄洲でかかってた媽祖の歌が鳴り響いております。
※ 妈祖ミュージックはかなり数があるらしい。youtubeにも目白押しなので是非検索を!
 その真ん中にある媽祖は……けれど写真のように,何かよくわからない。

▲火の用心注意書き

間のかたちをしていない。では何かと言うと……岩,なのか?
 この点,コンテンツ豊富な天后宮の公式HPにすら表示されてない。媽祖の神像はそもそもこういうものだったのかもしれない。湄洲で見たように,あるいはこの後に沖縄で見たように,何だか分からない岩の塊のようなものを崇めたのが始まりなのかもしれません。

台湾鹿港から九万元

▲絵馬みたいな瓦

囲を回ってみる。
 絵馬ならぬ瓦が50元で売られてる。これに絵馬と同じく願い事を書いておさめるらしい。
 住所まで書いてある。台湾やシンガポールからも相当来てる。

▲寄進リスト

部は,奥行きも深い。けどあまり参拝はない。
 海外華僑用?という印象を受けます。
 寄進も台湾からが圧倒的。やや額は少ないけどカナダの名前も。やはり海外華僑の象徴的施設と思って間違いなさそう。

笑いをとりたいのか?

▲黒狛犬と土地公爺

とはこんなん撮って遊んでました。
 上の写真の出目金眼。下の写真の赤ら顔。笑わそうと思っとんのか?てゆーか,ここでなぜ笑いを取りたいのか?

▲赤ら顔坊や

てそろそろ本題に戻ります。三叉路から再び南行。
 順徳っぽい端正な路地は天后周りだけ,すぐに,バス道からよりさらに雰囲気を出した通りになりました。

元の思想家・李贽の暗がり

▲さらに雰囲気ムンムンの路地をバイクが突っ込んでくる。

跡?何だか分からないエリアはやはり徳済門の後背地なんだろうか。1332,その西縁沿いに南行。万寿路。
 あった。李贽故居。奥まった,何とも荘厳な場所でした。1527-1602年の文学博士なんだって。ただ76歳で朝廷の迫害で自害したとある。

▲ふと暗がりに李贽故居

から調べたけれど,どうもよく飲み込めない。凄い思想家らしいんだけど……資料だけ掲げておきます。①はこの後触れる原文らしいものが載ってるし,②の百度百科は動画付きで無茶苦茶に詳しい。
※① 李贽故居–鲤城文化周
②百度百科/李贽

 ワシが惹き付けられたのは,けれど別の話。
 解説を読むと──この人の先祖に東湖公という人がいるそうです。この名前は,今日の宿のバス停でした。ここは李一族の墓碑でもあるらしい。そしてさらに「李宗族曾与苏,蒲等有阿拉伯血統的通婚,不失為李贽先世部分族人信仰伊斯兰教的佐証。」???
 先の百度にも,この人が漢族か回族かという考証がある。その証査に「莆」姓の一族と婚姻関係が深かった点が挙げられている。
「莆」字はアラブを示唆するのか?ならば「莆田」も?という辺りから,先のメモを残したわけでした。
m047m第四波mm東大路/■メモ:「莆」字 アラブ由来説

黄金時代の車橋頭と来運駅

▲「エ」型交差点

」型の十字路。左手へ。聚宝街。北に泉郡黄帝廟。泉郡黄帝廟南門土地公宮と書かれてる。
 解説には「泉州唐子城墙設立七个城門,毎座城門崇奉土地公一座」ここのは南門のものらしい。
※ m047m第四波mm東大路/■(再掲)基礎資料:泉州城域図
図からするともっと門だらけのように見えるけれど,閉じられてた門もあったんでしょうか。
 街の解説もあり。「街区成為互市,街南端”车桥头”是中外貨物集散地,渓辺”来运驿”是接待外国貢使和番商的驿館,見証泉州海外交通史黄金時代。」
──「泉州海外交通史黄金時代」の証明として,「车桥头」(車橋頭)という外国貨物の集散地があった。そこには「来运驿」(来運駅)という海外使節と商人を接待する「驿館」(≒迎賓館)があったという。
 どちらの語もググってもヒットはない。