《第十次{21}釜山・南海岸》オレンマネ・ビビンバブの日/麗水(朝)

麗水発。
遠い記憶を手繰り
晋州のあのビビンバブに……
たどり着けるか?
[前日日計]
支出1370/収入1515▼14[140]
負債 115/-
[前日累計]
利益 -/負債503
§
→十月二十日(天)
0856백제식당 ベクチェシッタン
ジャンオタン400
1102ヘヨンシッタン해영식당
ジャンオタン400
1648天凰食堂 チャンハンシッタン 전항시당
ユッケビビンバブ 비빔밥400
1900Paris
クリーミーロール250
[前日日計]
支出1370/収入1515▼14[140]
負債 115/-
[前日累計]
利益 -/負債503
§
→十月二十一日(一)


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

開いてる??

▲朝の麗水旧港付近

坊した!0848,宿を出発。
 少し冷える。昨日買った長袖の丸首シャツが心地好い。
 今朝はGM.のオフラインマップもDL(ダウンロード)完了してます。
 いざ,西へ!

▲寝ても覚めてもジャンオタン

中,小店料理屋を覗くと……おお,日本語書きがあるのか?
뽈락탕(ボルランタン?) たらの頭スープ
조기탕 イシモチスープ
물메기탕 ナマズスープ
 庶民食としてはやはり魚介は,焼き物じゃなく汁物なんだろうか?──今見ると,「たらの頭」なんてのも非常にソソられますけど……。
 おや?この店は……開いてるのか?

▲第三食!

坊は,どうせ朝は店が開いてない,というのも理由でした。けれど,麗水旧港に限っては,どこも,小さい店ほどこの時間には余裕で店を開けてるらしい。市場のエリアでもある。──この後に通ると名家ももう開店してました。
 数の多さはともかく,韓国では朝飯の心配はないんである。
 昨日の長い名の通り。チュンム路 충무로との四つ角。新しい店です。この時間から客足は絶えない。
 ジャンオグイなど焼き物の類のほか,ネジャンタンもあるけれど……朝からやはりコレ!
0856백제식당 ベクチェシッタン
ジャンオタン400

朝も早よからジャンオ・スープ

▲スープどアップ

ャンオは身がホントにプリプリ。日本の江戸前うなぎ感覚に,これまでで一番近かった。でもうなぎ以上に生々しい。
 野菜やスープそのものは正直ピンと来なかったんだけど,6種のナムル──オイキムチ2種,ペチュキムチ,菜っ葉,ごままみれ海苔,佃煮がどれも好いので進む。特にペチュキムチの新鮮さは感動的。

▲スープ

,スープの方はこれがちょっと……という第一印象だったんですけど,これ──クッパブにすると途端に激変。
 嘆息するような美味さ!
 渋い後味が残る感じで,どうも最初に上に乗ってたシャンツァイとセロリを足したような香菜が効いてる。それと唐辛子が,これは後からじわじわ辛さが来るタイプ。これらが硬質で深々とした旨味を米粒に与えてくる。
 脱帽の一膳です。

西の市場におばあは絶えない

▲0951西の市場界隈

西へ,今度こそ直進,市場を抜ける。
 東の屋内市場は半ば観光用ですけど,こちらはまだ完全に現役で生活感ムンムンであります。

▲0951道に直座りのおばちゃんたちの市場

川を渡れば見知らぬ麗水

れども今回の目的地は──その向こう。0952,川を渡る。
 住所表示(adと略す)Namsanbuk 남산북 6-gil。港西側の山塊が近づく。
 0956,Namsal-roを西へ渡る。

▲1001閑散としてドッシリとした道

西に見えてきた交差点が要所のはずです。つまり麗水の旧港周囲の平地部の西端にあたる位置。
 ad 5gil。
 南側路端に坂道が増えた。教会らしき鐘の音。

▲1000港町ゆえか野良猫やたらと多し。

밥진보살の並ぶのっぺり道

003,,三叉路からad Beodeunamu-gil 버드나무길へ。
 並走する南の高みが崖のようになってきた。
 教会。でもその手前には仏教マークの家が目立つ。どういう家屋だろう?

▲1007「밥진보살」(ばぶちんぶさる)な謎の建物

진보살」と書いてあり,「보살」は菩薩,「밥」はバブ(ご飯)なんだけど「진」で繋ぐと意味が分からない。精進料理店ならこんなに並ぶとは思えないし……。

▲1008「卍」マークの家屋

近代埋立地の教会と遠い近世以前

湯チンヨンタン。
 1010,教会の十字を右折北行。
 行く手に丘。車道からひとまず右折東行。Sinwol-roと表示されてます。

▲教会の立つ十字街

015,北へ横断歩道を渡る。
 どうやら,この辺りが緩い鞍部になってる。
──前述の迷路路地群の段がここに当たるのだと思います。麗水は近代以降の埋め立て地域と,それ以前とにくっきり分離しているのでしょう。

▲車道を北に渡った給油所辺り

■小レポ:麗水と巨文島の見えない海人

 麗水港のオープンは意外にも遅い。1923年6月というから,太平洋戦争が始まるまで20年前もない。
 水軍拠点としての歴史は古いはずです。文禄・慶長の役直前に李舜臣が赴任し,伝説上は亀船(亀甲船)を建造したのが麗水とされますけど,それに百年以上先立って1479年(李氏朝鮮成宗10年)に全羅左道水軍節度営(全羅左水営)が設置され,造船も始まったというから対馬海峡の海上拠点になっていたはずです。[wiki/麗水]
 また,韓国最大の木造建築として国宝指定される鎮南館は,18Cに再建されたものですけど,それ以前の元の建物は1599年に三道水軍統制師・李時彦が建設。
 この場所に水軍拠点を設けたなら,近い場所で乗船できたはずですけど──なぜか1923年以前の元の港の姿を,どの資料も語らない。
 侵略国側の国民が言いたくないけど,どうも李舜臣が絡むと神話的に史実が誇大になる傾向は否めない。「鎮南館は朝鮮時代,400年余り水軍の大本営として使っていた歴史的な場所です[ヨス観光]」といった記述は,やや怪しさがあります。

朝鮮出兵時には麗水港は無かった?

 後に触れる順天城への明陸兵と朝鮮水兵による総攻撃の後,各者は次の撤退ルートを採っています。

(明)軍は古順天に1万余を残し、劉綎自身は富有まで撤退した。これにともない水軍も10月9日、海上封鎖を解いて古今島(莞島郡古今面)に撤退した。[wiki/順天城の戦い]

(朝鮮)水軍は,麗水でも順天でもなく古今島に撤退しています。麗水から百km弱西南西のこの島には李舜臣ほか当時の水軍関係の忠武祠が建立されており,1791(正祖15)年に正祖から賜った扁額(「誕報廟」,御筆懸板)がある。
 秀吉出兵の撤去後,再攻撃を監視するために一時,麗水に例えば遠見番のような場所が置かれ,たまたまその再建が国宝指定されたから「李舜臣本営」として売り出し中,というだけなのではないか。
 少なくとも,近代麗水港の前代には,まあ船溜まり程度の機能は持っていても,「麗水港」に該当する施設はなかったのではないか,と思われるのです。

近代麗水港の「魚の山」

 野口雨情(1882-1945)に「麗水小唄」という童謡があるという。後掲中日新聞が当時麗水にあった「愛知村」からの引揚者冊子で見つけたもので,貴重と思うので全文を転載してみます。

内地朝鮮連絡船の 出入り賑ふ 麗水港
波路二十里 閑麗水道※
船の目じるしや 九鳳山※※
 咲いて 見事に将軍島※※の 桜吹雪も 海に散る
 ミナト麗水 灯ともし頃は 三味や太鼓の 音がする
 名さへ なつかし麗水港 沖の船さへ 来て泊る
 振る手 あげる手 せる声々に さかな市場にゃ 魚の山
 船は出て行く 港は暮れる 向ふ島々 月あかり
 朝日かがやく 麗水神社
護る港は 栄えゆく
※閑山島から麗水に至る水路
※※麗水市内の地名

 当時の記録の書き方からも,港町として相当な賑わいを見せたことが窺われます。ただ,どの詩句をとっても,朝鮮らしい文物が吟われることはない。日本出稼ぎ漁民で町の基が出来た,と推測するしかない。

麗水「金比羅」神社

 麗水神社,というのも気になります。後掲神奈川大サイトによると現在の麗水工業高校・麗水鐘鼓中学校の位置とあり,掲げてある写真の狛犬が残っているらしい。

麗水神社の狛犬

 では元の住所はどこか,といえば当時の日本式住所表示で「全羅南道麗水郡霊水邑西町三」,これは現「全羅南道丽水市忠武洞3」に当たる。ズバの住所がヒットしないけれど「3 Chungmu-dong」というポイントがGM.にある(→地点)。
 港から北へ1km弱,山裾の場所でいかにも日本人の選んだ立地です。
 神奈川大サイトが掲げる「大陸神社大観」(詳細後掲)によると──1918年6月に金刀比羅神社として創立が許可されています。維持財源の枯渇から神祠に変更されたものを,1936年に社殿移転造営の条件で天照大神奉斎に移行。1940年の本殿拝殿社務所の改修を経,紀元2600(1940)年記念事業として神社移転造営奉賛会を組織。基金10万円を財源とし鐘鼓山南麓に移転。ただし最後は「目下造営中」と記されて終わっており,完成したのかどうかは未確認。

巨文島の近世~近代

 では前章で触れた麗水沖合いの巨文島(孤草島)はどうだったのか,と言えば──
「韓国の近現代文化遺産」サイトに実地に行った記録がありました。

[地理]巨文島を「沖縄X」する

 巨文島は3島の形で海に顔を出してます。両手で玉を包むような形状で,東西の掌が西島と東島。その間に包まれた玉が古島です。(GM.→地点:고금도)
 こう見ると,本当に似ています。鹿児島県だけを切り取って海に浮かべたようです。

巨文島航空地図とうち古島の西岸市街

 日本人漁村はこのうち古島だったという。
 上図のとおり,山と海が近接し,そのベルトを通る道は整然として,路地はあまり深くない。計画的に設計された集落です。
※ 前々章で触れた航空地図情報の加工は,これを見る限り巨文島までは対象にしていないらしい。
 それと非常に対照的なのが,海を挟んで対面する西島の集落です。

西島南東部集落(古島西岸市街の対面に当たる)

 こちらは道がうねうねと不規則で,中心とか軸が見いだせない。麗水の山裾側の路地が見せる形状に類似します。

[歴史記述]巨文島古島に長州人あり

 出典がはっきりしないけれど,「韓国の近現代文化遺産」は町の形成について次の二点を挙げています。

一番小さな古島にいろいろな施設が集まっています。1880年代、イギリスとロシアの朝鮮をめぐる対立激化により、ロシアに対抗するため古島に約3年間イギリス海軍が駐屯していた歴史があり、その後は日本人漁民の移住によって漁村が形成され、古島は小さな島でありながらいろいろな店や施設が集まり、1930年代は大変栄えていました。[韓国の近現代文化遺産]

 古島西岸港は,イギリスが「発見」・開発し,日本が引き継いだ。逆に言えば,西島南東集落その他は明治より前からあった集落だと思われます。イギリスが軍事目的で,おそらくは要塞を構築する気で開発し,その後に日本漁民が漁港化した古島と,同時期以降に拓かれた道配置にしては都市計画の形跡が無さすぎます。しかもそれが古島市街の対面にもあるということは,再開発の手を伸ばせないほど相当人数が既住していたからではないでしょうか。
 ロシアの脅威が弱まり,日本が韓国を併合(1910年)すると,イギリス人は巨文島から退去します[後掲wiki/巨文島事件]。従ってこれ以降が日本人の植民・開発時期になります。

日露戦争が終わる頃くらいから日本、特に山口から網元が移住するようになり、鯖やいりこ漁が盛んに行われました。その後は漁業基地として栄え、さまざまな商売に携わる日本人らによって集落ができました。[韓国の近現代文化遺産]

 漁民の出身が山口というのは意外です。浜田屋事件や幕末の動静も加味するなら,山口人の海域進出は常識より多かったのかもしれません。また,この記述では,漁民だけではなかったとも書かれます。
「韓国の近現代文化遺産」の記録者は,当時の家屋らしき長門屋というところに宿泊しています。
 だから,この海域の近代には,かなり細かいエピソードの存在が感じられます。
 肝心なのはその割に,朝鮮の海人の存在感が薄い。これが何を意味するのでしょう。──巨文島(孤草島)に対馬海人が来ていたなら,その痕跡,さらに彼らを含む海峡の海人の存在が浮かび,麗水方面へも影響したはずなのですけど……それが史料へ落とした影はまるで見られない。それどころか,朝鮮出兵時の記録からは,そうした海人やその拠点は無かったような形跡すら見えます。
 

巨文島古島の長門屋旅館

[参考資料]麗水・巨文島関係

岩下傳四郎・大陸神社聯盟「大陸神社大観」1941年
麗水神社 |  海外神社(跡地)に関するデータベース 神奈川大学非文字資料研究センター
URL:http://himoji.jp/database/db04/permalink.php?id=4123
韓国の近現代文化遺産
/巨文島・旧三嶋(三島、巨文)神社
URL:http://liumeiuru.hacca.jp/2020/09/218/
韓国 麗水(ヨス)観光情報ブログ/国宝にも指定された麗水 鎮南館
URL:https://gamp.ameblo.jp/yeosutour/entry-12222475475.html
中日新聞Web/韓国の「愛知村」を追って (4)日韓関係を解く(蒲郡通信局・木下大資)
URL:https://www-chunichi-co-jp.cdn.ampproject.org/v/s/www.chunichi.co.jp/amp/article/2439?amp_js_v=a6&amp_gsa=1&usqp=mq331AQKKAFQArABIIACAw%3D%3D#aoh=16332105870044&referrer=https%3A%2F%2Fwww.google.com&amp_tf=%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%3A%20%251%24s&ampshare=https%3A%2F%2Fwww.chunichi.co.jp%2Farticle%2F2439
wiki/巨文島事件
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%96%87%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
wiki/順天城の戦い
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
wiki/忠武祠(古今島)
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E6%AD%A6%E7%A5%A0_(%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%B3%B6)
wiki/麗水
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%97%E6%B0%B4%E5%B8%82_(%E5%85%A8%E7%BE%85%E5%8D%97%E9%81%93)#

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