m167m第十六波mスペクター基地深く入る龍灯かm硯川

豚肉の如き「ムオ〜ン」

頁末に掲げた南日本新聞の記事が壁に貼り出してある。「一本釣『双剣鯖』売り込む」ええ~!これがないとは……。
 坊津は,斯くの如く上っ面を撫でただけに終わった感があります。鉱脈にはなかなかに辿りつけない,というか。

▲同じく壁にあった鹿児島すごろく

も,おばちゃんに魚の飯を訊いてみると,こちらならあるという。
1202勝八(しょうはち)
魚フライ(しいら)定食550
 揚げ物ではあるけれど……ここのしいらか。それも楽しみだな。

▲しいらの定食


A!
 さっき裏でさっと揚げてきました,という感じで出てきたのに,一口で違いが歴然。
 上質の豚肉のような香りがムオンと鼻腔を突く。単なる白身魚のはずなのに…。
 熱々の状態が去ったところでソースを微かに垂らすとこれがまた素晴らしかった。これはまるで魚じゃない。どうしてこうも生々しいんだろ。
 サラダにマヨネーズを添えて出してる店です。でも汁はどうも,これも何というのか……和食にない軽みと甘味がある。素材の違いって,こうも際立つものなのか。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
* 硯川沿いのみ。袋小路は不明,菓子舗への行来は除く。

貴久君,義久君に家久君の硯水

▲硯川沿い登る

り1時間。博物館より,もう少し集落を歩いてみたい。
 1221,トンネル前十字から東の山手へ。沢の右手。これは大谷川か。いや……案内板がありました。硯川と書いてます。

▲1241段々になった敷地をちょっと覗く。

津貴久が幼年時に一条院で学んだ時にこの川水を硯水にしたから,とあるけど……それはこじつけっぽい。やはり形状から来てる名称でしょうか。
* 三国名勝図会には,やはりここの水を硯水に用いた人名として以下のそうそうたる人名があります。
【近衛関白信輔】近衛信尹
【大中公】第16代島津貴久
【貫明公】第17代島津義久
【慈眼公】第19代島津家久

▲1242蕾は昼顔でしょうか?家屋の隙間を埋める。

岸の道にも石垣は続いてて…おおっ!登る先にさらにゴッツイのが!
 でも,どうやらこれらはかなり新しい。石垣の立派さを競う意識が伺われ,古い垣は家の隙間とか,他に誇示されない箇所にひっそり残ってる風です。

▲1243硯川からの横道路地

猫を追う路地の果て

猫が一匹,すっ飛んで路地に飛び込む。
 かの猫に導かれるように,左手の路地へ入ってみます。こちらが一条院側のはずです。

▲1245湾曲する路地

高線をなぞるように,畑を縫って細道が続きます。
 古い道。勢い,一条院辺りまでするすると伸びるかと思われたのですけど──

▲1247ぷっつり途絶える舗装!

尽きる!1247,唐突な途切れ方です。
 舗装の絶えた先には,藪道が続いているような気配もありますけど──
 藪からふいに,驚いた猫が飛び出す!
 何となく,引き返す。

▲1257蒼天に吹き上げるススキ

249,電柱下の四叉路から下る。
 1253。あらら?硯川沿に戻ってしまった。あと30分ある。ならば!

ベタベタに田舎じみた艾

Walking qi-yue
らく人懐こい黒白猫がまとわりついてくる。ホントに猫多いな。
 てゆーか……この猫やたら地面を転げ回っとるぞ。蚤か虱かどっさりついたひとじゃね?
 もしかして,掻いてくれ,と主張しとるのか,このひと?
 いや,やれん!猫と蚤とに乗車までの時間はやれんぞ!つる屋へ一気に降りる。

▲1300転げ回る猫

度は開いてました。よもぎもち購入。
 このよもぎは枕崎よりさらにベタベタに田舎じみた臭みがあって,好かったです。
 けど,未だ不思議です。ヨモギはかなり古い神事に用いられた形跡があるけれど,鹿児島の,というより奄美の特産(がしゃもち)とされる。ならばなぜこの南薩地方に,特異点的に残るんでしょう?
※ 神谷正太「東アジアにおけるヨモギ利用文化の研究」
URL:http://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm

大谷川にかかる唐橋

▲「カシン」──こ,これは……完全に解読不能。バス停裏辺り。

〜あ,全然時間余らなかったから資料館もパスしてしまった。
 1315,中坊バス停。僅かに残った時間ですぐそばの太鼓橋へ行ってみる。
 案内板に曰く──大谷川にかかっていたのを移設。在地の商人が建てた中国風の石橋です。
 大谷川が現・硯川だとして,これがかかっていたならばその時代──先の谷は小さな唐人町だったのでしょうか。
 暑い。そして静かです。
🚐
334,バス乗車。
 南のトンネルへ。やっぱりあの高台道を通るのか,この大型バスが!
 バス停・龍巌寺のあと上ノ坊。集落に目を凝らせば……この辺りにもゴロゴロと石垣が残ります。
 1337,バス停塩ケ浦。ここから急に道が拡がる。運動場,建て売り住宅地。
 峠。いや……まだ登るぞ?
 これはまた──絶景です。畑ばかりの谷。バス停松ケ迫団地入口。1340。

日の出時分に東を見るとこんな景色だという……。

カツ丼なんてララ〜ラララララ〜ラ

だ登る!旧道っぽくないから坊津への道は,山手が古くてこの海岸道は最近出来たんでしょう。
 1342,枕崎市内を見下ろす尾根を行く。ようやく下りに入りました。バス停・栗ケ野。
 開聞岳が勇壮に水平に浮きます。
 1357,西本町,今朝乗車したホテル前で下車。
 さて。このバス停には鹿児島中央行きの特急は止まらないらしい。とすると時間は乏しくなるけど──行けるか?

▲カツ丼‼

リギリにすみません」
「いえ大丈夫ですよ,(2時閉店)ギリギリセーフです。」
1400 喜久屋
カツ丼750×.8=600
 事前に調べてた,西本町近場の食堂でした。完全に魚モノを喰う舌で入店したんだけど──中に入って,その誇らしげなメニュー書きにコロリと転んでしまいました。

 ──正解!
 何だ……この異様な,込み上げるような肉味は?
 カツの下にキャベツが敷いてあるのが多少は作用してるみたい。でも──そんなもんじゃないだろうこれは?
 丼の器はごく薄い,上品なパターン。出汁もさらりとしたスマシ。こういうド定食屋みたいなとこで,こんなんが出るとは。
 どうも鹿児島の飯は……センスがぶっ飛んでるとこがある。カツ丼なんかと言っちゃ悪いけど,カツ丼なんかでこれだけのものが出ようとは。

かわなべ峠からドドーン

スターミナルのベンチに着いたら,観光案内所前の日陰に少年ヤンキー予備軍が自転車で多量に乗り付けタムロしてる。仕方ないから日向でまた過ごしてたら──暑い。
 1500定刻,枕崎発。
 1503。市役所から昨日の峠前で北へ折れた。この南北の高みはずっと長く続いてる。
 鹿篭(かご)。確か枕崎の旧名です。その地名がこの川──花渡川のこんな上流に現存する。つまり,枕崎は元は海の町ではない。先に内陸の川辺の方が開けたわけです。
 しばし熟睡。
 1550,かわなべ峠を越えると桜島がドドーンと勇姿を現した。鹿児島の広大な市街地が広がる。
 この24時間,市街を見なかったことに気付く。改めて,あのスペクター基地は信じ難い場所だったことに気付き直したのでした。

■レポ:坊津一条院の時空を漂流する

 このお寺は,今は畑になってます。
 全国に例を見ない激しさだった薩摩の廃仏毀釈により,1869(明治2)年に廃絶。敷地は坊泊小学校になりました。ただ,同校は2013(平成25)年に泊へ移転(現・南さつま市立坊津学園)したので,その敷地の形だけはくっきりと各地図アプリの航空写真で確認できます。
 地元の記述の多くは「古代から栄えた寺院」とする。根拠は1133(長承二)年の鳥羽上皇院宣の存在らしい。
 ただし学術的には,少なくとも現在に連なる寺院としての創建は,室町初期(14C半ば)とするのが通説化してます。もっとも,これも薩摩藩正史の三国名勝図会の次の記述によるので,後述するように既存の宗教の痕跡を絶とうとした藩の影響を無視できません。
* 栗林文夫「坊津一条院の成立について」2018

成円法師なる者あり、延文二年、丁酉の歳、当院を再建して、中興第一相となる、成円法師は、素日野少将良成といふ、(中略)既にして足利大将軍尊氏に謁して、寺院の再建を請ふ、文和ーニ年、春、願書を京師に上る、伝奏して許可を受く、邦君齢岳公、有司に命して、当寺を経営す、廷文二年、功を畢れるなり、[三国名勝図会 巻之二十六]
* 齢岳公≈島津氏久
延文二年≈1357年

 何の必要からか定かでないけれど,成円法師が足利尊氏の許可を得,島津氏久の命を受けて「再興」したお寺,ということです。

三国名勝図会の一条院挿絵

17C初頭の島津の宗教段圧

 まず全摘にしておくべきは,日向に九州支配の源流を持つ島津氏が,薩摩半島南端までを掌握したのは三州再統一後,それも江戸時代に入ってからだという点。
 豊織期に北九州まで侵攻した島津の勢力圏からは意外ですけど,南に目を向けたのは北の版図を諦めざるを得なくなってからで,島津の地元薩摩は遅くまで盤石ではなかったのです。

島津氏は、1609年 (慶長14年) に、薩摩を完全に征服。次に狙うは、琉球王国の征伐であった。
 薩摩は何故、征服した各地に残っていた文化を、消し去る必要があったのか?(略)
九州統一と琉球王国の征伐に向けて、敵味方であった皆の心を、ひとつに束ねる必要があった。その為に、それまで培われてきた文化を否定し、宗教ことに真言宗、山伏を利用して、薩摩独特の文化を築き上げていくのである。
[history8/薩摩島津氏が薩摩を完全に征服したのは、いつのことだったのか?
URL:http://www4.synapse.ne.jp/estela/history/history8/history8.html

 島津が朝鮮役以来,稲荷信仰に傾倒したのは有名ですけど、真言密教を思想統一の具にしたことは割と忘れられてる。一条院はその宗教弾圧の拠点ともなった寺でしょう。
 それは,薩摩半島南岸がそれ以前は勢力圏外だったことの裏返しに思えます。
 history8著者の書くとおり,その過程で消滅した古い諸信仰は多かったろうし,実質的な新興勢力である島津にはそれを強行する必要が是非ともありました。

一条院に残る頭を潰され体を縦斬りされた仏像らしき構造物

「薩摩≠島津」図式への切替

「薩摩=島津」というステレオタイプな図式は,だから一度捨てましょう。それは,通史的には江戸期前半以降にしか通用しない。
 島津初代とされる忠久は,鎌倉期より前は京都の公家を警護をする武士で,南九州との関連は親戚筋が大隅・日向国の国司を務めていたという点だけでした。忠久は,近衛家に仕えるとともに源頼朝の御家人とされ,後者はおそらく源平合戦で源氏についたところからです。
 それが1186(文治2)年に薩摩国山門院(鹿児島県出水市)の木牟礼城に入った後,日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったと伝えられます。

先薩摩山門院に御下、夫より嶋津之御荘ニ御移、嶋津之(御)庄ハ庄内也、三ヶ国を庄内為懐依り在所也、去程庄内南郷内御住所城(堀)内ニ嶋津御所作有て御座候訖
* 山田聖栄自記(鹿児島県史料集Ⅶ)
* 島津国史(江戸後期成立)も同様の記述

 三国名勝図会は,山門院からの日向移住は1196(建久7)年と書くけれど,この年代は疑問視されています(三木靖(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)寄稿 南日本新聞 2008年4月16日付)。これだけを見ると,図会筆者の,島津氏はまず薩摩に入り一定期間居住した,としたい意図を感じますけど,それでも島津氏が日向に出自を持つ事実は否定してません。島津氏の旧姓は「惟宗」(これむね)で,都城の地名・島津に入ってから改姓している以上,これは動かし難かったのでしょう。
 だから,ある意味で事実は隠されてさえいません。日向・大隅はもちろん,薩摩一国すら島津氏の版図に入ったのは近世のみです。

博多浦淳厚寺も一条院だった

 そこで,この謎のお寺について紐解いて行こうとすると,三国名勝図会ではなく,薩摩藩が消し損ねたらしき僅かな痕跡を辿るしかない。
 まず話は博多浦へ戻ります。

泊から国道226号線を久志方面に向かって最初の集落で、入り口に淳厚寺(じゅんこうじ)があります。
 久志の歴史の中心的役割を果たして来たとも言われる博多浦は、(略)
 この奥に伝説では宝亀年中(西暦770年)に建てられたと言う宝亀山阿弥陀寺安養院の跡があり、一乗院の末寺でもありました。
 このお寺は今の淳厚寺の一帯がその跡だと言われています。
*※ 南さつまの観光案内/坊津の史跡②
URL:現閉鎖ページ

 ここで改めて──島津が宗教統制の中核になぜ,古い真言宗を据えたのか,という点を考えてみます。
 鑑真や道元の渡唐地です。前者は律宗,後者は禅宗ですけど,同様に唐代の密教が,これは中国側からか地方の庶民層によって,近畿を経ない形で直接伝わった可能性はあります。というより,中世の中央仏教勢力は,薩摩に無理に布教する必要を感じなかったでしょう。
 旧領主・一条氏(一条院スポンサー)との関係のほか,そうした地政的位置を考え合わせると──島津氏の統制期以前から島津荘(薩摩・大隅・日向三国の大半)には地場独特の真言宗の風土があった,と考えるのが自然になってきます。
 博多浦の淳厚寺の前身は,そうした古い雛びた密教信仰地で,坊津にも同様の聖域があり,それが後代の一条院の原型になったのではないでしょうか。
 さて,坊津に残るもう一つの,一条院の輪郭をなぞる遺物を見ていきます。

太山府君神家の案内板

「太山府君神家」に何が書かれているか

大岩の中央に梵字の「ウン」・「太山府君神家敬立」,右側に「西海金剛峯寺西十一町」,左側に「太山奥之院北二十五町」と掘られている。[太山府君神家案内書き]

 この刻印が残る岩は,「太山府君神家」と呼ばれるもので,坊津から枕崎方面に向かって直接2km,旧道の耳取峠近くにあります。
 時代も製作者も不明です。

太山府君神はどこに座したか

耳取峠→一条院の直線(地理院地図)

 
「金剛峯寺」は同じ真言宗寺院を指すとすれば,一条院又はその前身を指すとしか思えません。従って,上図の方向を指した道標だと思われます。

栗野小学校から上中坊に通づる旧道が昔からの正しい道であり、この耳取峠の頂上に太山府君神の碑がたっている。 一乗院と奥の院までの距離を示した里程標と考えられている。
* 耳取峠 | 村人写真館 「坊津のかくれ家」
URL:https://www.google.com/amp/kakurega.chesuto.jp/a1514743.html

「西十一町」がこの直線だとすれば,直線と実行程の違いや町換算を考えなくとも,この二倍距離を北に取ればよい。それは草野岳しかあり得ません。
「そうのだけ」と読む。
 一条院の北東北,この地域では最も高い山です。

耳取峠→草野岳の直線(地理院地図)

 前掲hrstory8も,奥の院は1607(慶長12)年に島津義久(第16代)が頼興法印に命じ建設させたと書く。その位置は,坊津にある一乗院から東約1.7キロの地点とするので,草野岳山頂部と考えて間違いないでしょう。
トレッカーが撮影した草野岳山頂部の何らかの遺構
* 鹿児島の隠れ名山シリーズ2「車岳~草野岳縦走」 : kenmayu503のブログ
URL:http://blog.livedoor.jp/kenmayu503/archives/54358445.html
**この山には江戸期の番所があったとされるので,その頃の遺構である可能性もある。

太山府君神は誰か

本尊は、弘法大師蔵で頼興法印が京都高雄山に御参りして、法を院晋海僧正に受けられた時に、授かった物であったとされる。
* history8/奥の院
URL:http://www4.synapse.ne.jp/estela/history/history8/history8.html

──というのが寺伝らしいけれど,耳取峠の刻印は,そこに祀る神を「太山府君」と呼んでいます。
 この文字は明瞭に,現山東省の泰山の神を指します。「泰山」を「太山」と書く用例です。東岳大帝,東嶽大帝とも呼ばれる中国で最も知られる道教神で,漢代以降の皇帝の封禅の儀を主宰,城隍神や土地神を統率する。日本の陰陽道でも主祭神とされます。
* wiki/東岳大帝
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B2%B3%E5%A4%A7%E5%B8%9D
* コトバンク/泰山府君
URL:https://kotobank.jp/word/%E6%B3%B0%E5%B1%B1%E5%BA%9C%E5%90%9B-91195

 海進期以前の,まだ島に近かった山東半島の泰山の位置と,草野岳は,もしかすると似ているかもしれません。でも,それよりやや強い類似を示すのは次の字です。

梵字「ウン」と坊津「太山府君」

 耳鶏峠の岩には梵字「ウン」が書かれている,と先に触れた案内板にありました。3章前*で坊津の名の由来と見たてた「バン」(鑁)といい,マイナーな謂れにサンスクリットがこれほど出る土地があるものでしょうか?
* m164m第十六波mスペクター基地深く入る龍灯かm船戸宮/名称:坊津 唐港 房津 唐港 はうのつ
 坊津の「バン」は文字の形が海岸線ラインに似てる,という議論でした。そこで今回も「ウン」字の形を調べてみます。

梵字[ウン」字(愛染明王)

 愛染明王を指す,というのがこの文字ですけど,この神は一条院の事績にヒットしません。
 でも,もっと単純に,文字の形と坊津,なかんずく一条院付近の地形を比べて見てください。──下部の湾入した海岸線のようなラインから,山形のような形象が幾重にも連り,左半分には渓流のような縦波線が描かれ,最上部に点が打たれています。
 坊津湾から一条院東脇を蛇行する硯川,それを登った山頂の草野岳,という地図のような文字に見えないでしょうか?
 また,もし坊津の名称内に「ウン」音が反映されているとすれば,既に触れた「バン」にこれを加え「バンウン」津と呼ばれた時代があった可能性は──とまでの想像はさすがに暴走してるので,この辺で筆を置く,というか投げます。