m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m2垣花城(ニライF69)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

あふぃはな 何も分からない開放感

🛵世に還ったローソン南城大城店から1224,県道86号をさらに南東へバイクが走る。
 1230,喜良原(きらばる)。
 1234,親慶原(おやけばる)。少し集落。「日本軍はなぜこっちの丘の多い南東半島部じゃなく真南に下がったんだろう?」と不思議なことを考えてました。
 洋風のレストラン2軒。
 1239,琉球ゴルフ倶楽部前の三叉路。予定通り左手,県道139へ入り直進。
 1242,標識あり。少し左に入ると垣花城跡……って何だここは??

花城・樋川
〔日本名〕沖縄県南城市玉城仲村渠
〔沖縄名〕かきはな,かきのはな,あふぃはな?
〔米軍名〕-

▲「垣花城跡」

の御嶽の「拒んでるような」感じじゃなく,明確に人が寄るのを拒否してる。
 案内板。

一の郭の奥には御嶽があり『琉球国由来記』によると神名は『アフィハナテルツカサノ御イベ』と記されている。この城跡の周辺には,東には志喜屋グスク,南にミントングスク,南に西に玉城城跡が点在する。

「アフィハナ」とは垣花の原語でしょうか?
 道らしき痕跡はあるけど,これはとても進めない藪です。城壁ははっきり見えてるけれど,これも写真に写るようなまとまったものじゃない。
──他所様のプログを見る限り,スムーズに登れたような記述もあるから(巻末参照),何を間違えたのか,根性が足りなかったのか,その辺はよく分からないのですけど。

笑えるほど何も分からない垣花城〔後掲wiki/垣花城〕

道端の池を一枚撮っている

こは真剣に何も分からないらしい。
 一応書かれているもの,確からしいものを巻末にまとめてみましたけど,仮説を立てれるような明瞭な論拠ではありません。
 仕方ない。細いコンクリート道を通ってさらに東方奥へ。
▲1300道端の池を一枚撮っている。

もメモしてないけれど,この行程で一枚写真を撮ってます。
 GM.(グーグルマップ)と地理院地図のどちらもを探してみたけれど,池の表示はない。
 その代わり,北には次の二つの御嶽があります。
中森御嶽 ナカムイ
大森御嶽 ウフムイ
 一応調べたけれど全く記述がない。感覚的に,この垣花集落奥にはこんな聖地がゴロゴロしてる。
▲1301集落奥へゆっくりバイクを走らせる。

です。これまでに味わったことのない聖地感がある。
 あえて言えば中城のテラに似てます。明るく抜けるような,スットボケた聖地。

なかゆくい いーゆくいいし ぬひらいさー

 1251,垣花樋川(ひーじゃー)入口。
──ひーじゃーと聞いて山羊汁を思い浮かべた自分の半端な沖縄クズレが情けなかった……。
▲ひーじゃー入口。写真右下の下り道。
の流れを見てると,住宅脇ながら岩の間を入る下り道,これが有名どころに通じてるらしい。
 出口の藪の中にも,名のない石が鎮座する小さい平地。先の池といい,名が伝わりやすい案内板が出てる以外にもこの辺りはそういう場所だらけに思えます。
 しかしまあ……凄い石段下!
▲1302石段。登りはさらに迫力

内板。

垣花村の人々はシチャンカーで水浴び,洗濯,野菜洗い,水汲みをするためカービラ(川の坂)を行き来した。石畳道の途中には女たちが一息入れたナカユクイイシ(中休み石),イーユクイイシヌヒライサー(上休み石の平石)が残っている。

「女たちが」というのがポイントでしょう。休んでるところに男が「偶然」通りかかると。

▲1304休み石

みーばるビーチの匂いがする

川そのものは,完全に公園です。家族連れが戯れる大きな水辺というか……環境省の名水百選か何かに選ばれてました。
 沖縄の原風景,みたいな書き方をしてるHPもありましたけれど,確かに平和に捉えればそうとも言える和やかさです。
▲1301垣花樋川

川(イキガンカー)」という男性用井戸の奥には小さな拝所もある。
 そしてその先に──海!
 この沖に久高島も見えると書く記事もあるけれど,位置的にそれは辛い気がする。この一帯全体がアマミキヨ族ゆかり,と漠然と捉えた方が近い気がします。
 とにかく海が近づきました。

342,白合(はくな)の三叉路を右折──が本当は左折が正しかったらしい。
 この集落は物凄く道が複雑です。分からなくなって進んでると「みーばるビーチ」とあちこちで聞く「受水走水」(うきんじゅはいんじゅ)という場所へのルートに出た。
 何と「アマミキヨの道」との標識も。

アマミクの道にバイクを停めた海

▲1333みーばるビーチ,受水走水付近の拝所マップ〔「南城市緑地・遺産環境保全区域 ヤブサツの浦原周辺」案内板〕

マミキヨの道」とされるのは国道より海岸側下の道らしい。しばらくこれを進もう。
「南城市緑地・遺産環境保全区域 ヤブサツの浦原周辺」案内板。

南城市玉城字新原の西側にある新原貝塚群から,東側はアイハンタ御嶽辺りまでの石灰岩丘陵地域と,稲作発祥地である「受水走水」のある聖域全体は,「ヤブサツの浦原」と呼ばれています。琉球開びゃく神アマミキヨ伝来の聖地として,琉球国王が隔年旧暦4月,稲の初穂儀礼に聞得大君らを従えて「ヤブサツの浦原」や斎場御嶽・久高島などを親拝されたことが,後の「東御廻り」信仰に、つながっていきました。

▲1336バイクを止めて歩く

336,受水走水……というホントに掠れそうな標識です。
 ここだけ駐車場があるので,まあ注意してれば分かる。
 バイクを停めて海側へ。
 どっかで見たような砂浜への道。違う,こっちは単なる砂浜。
 山側へ。こっちの丘の連なりの神気がすごい。
▲1338砂浜への樹林下の道

■レポ:垣花城-垣花樋川-ミントン城三角地帯の地理

 垣花域については,確かな情報が,もう「無い」と言い切っていいほど,何もない。
 アマミキヨの上陸地あるいは居住地であるとの伝承から,「アマミキヨ」族とでも言うべき一団が最初に拠点とした場所ではないか,とも言われますけど──。
 とりあえず,位置関係から確認してみます。
 なお,当時は全く見逃していたけれど,垣花城の南南西300mにミントン城(グスク)という場所があり,東まーいの拝所にもなっているという。とりあえず三角点で見れるので,これも含めた三箇所を捉えます。

垣花城・垣花樋川・ミントン城の高台封鎖ベルト

垣花城・垣花樋川・ミントン城位置図(地理院地図)

 南部海岸線から500mほどを,海岸線に並行して走る高台に位置します。海からの侵入者を恐れるポイントです。
 しかも高台ラインがやや崩れ,要するに海から高台上に登りやすい場所を封ずるように,垣花城とミントン城が睨みをきかせている感じです。
 それを傍証するように,この高台の崩れの下側の集落・百名(ひゃくな)にはえらく沢山のシーサー(獅子)があるようです。

垣花樋川の位置

垣花樋川位置図(地理院地図)

 まず樋川ですけど,ここは,この時に降りた高台上からの道のほか,下から等高線に沿って登ってくる道があります。つまり海岸線と高台の間道ルートです。
 ここから高台に登って西へ300mの場所が垣花城になります。

❝垣花城❞ 拝所か集落か砦か

垣花城絵図〔後掲余湖〕

 図右の「案内板」が本文中でたどり着いた(→)場所でしょう。
 広い坂がS字にうねりながら登っていくような城です。元から城として設計されたのではなく,防御的集落が後に城郭化した,つまり大城城と類似の徐々に城の体を成した城と思えます。
※大城按司真武が大里按司と戦って敗れた際,息子の若按司は母の実家のある垣花に潜んだともいい,この時に若按司と共に逃げた人々が集落を造ったという伝承もある。
 この最高所に「拝所」と書かれてる。画像を探すと次のような──やはりコワい場所に映ります。
垣花城最高所の拝所

❝ミントン城❞ 私宅の中の聖地

 ミントン城は標高110m。
 アマミキヨの伝承はここが最も明確で,つまり城と言いながら拝所の色彩が強いらしい。琉球処分より前の琉球国王は,隔年でここで護国豊穣の祈願を行ったという〔後掲余湖〕。尚氏かノロ伝承かで,内々に伝わる謂れがあるのかもしれません。
 ただし──

ミントン城位置図(地理院地図)

 地形図でも僅かに高地,という程度で特徴がない。後掲余湖など実際の訪問記録でも,高さがほとんど分からないという。そもそも「ミントン」という名称が全く分からず,通説すらもない。下記絵図の目印には「酒処みんとぅん」というのもあり,神聖で名乗るのを憚るような名詞でもないらしい。
「村の神社」のような場所で,王朝からはともかく,世俗人には集落に近しい聖地だったのではないでしょうか。
ミントン城絵図〔後掲余湖〕

 世俗に埋もれているような見かけを保つこの「聖地」を象徴するように,ここはヒドく観光客には見つけにくいらしい。

このグスクは民家の敷地内にあるからで、このお宅にお邪魔させていただく必要があるのである。そのせいだろうか、案内板なども設置されてはいない。
 というわけで、このグスクを訪れる際には所有者の方に一声かけるのがエチケットということになる。料金箱の北側のお宅である。訪問時には、ちょうどこのお宅の方が猫を遊ばせていたので、声をおかけして入城の許可をいただいた。そして料金箱に「管理費用協力金」の100円を入れて入って行く。〔後掲余湖〕

 心底,訳が分からない。なぜそんなウチナンチュの根幹に関わるような場所が,民家の管理下なんでしょう?それとも見る人が見ると,実質的に効果的な「外部への監視」になってるんでしょうか?

ナカンダカリとヤブサツノウラバル

 この玉城村の仲村渠は「なかんだかり」と読む
〔後掲グスクへの道標など〕。
 明らかに音の方が先にある地名ですけど──何という日本語離れした語感でしょう。
 本文でも読んだ「藪薩の浦原」(やぶさつのうらばる)は,受水走水を含むこのエリアの聖地の総称らしい。
 けれど,アマミキヨ降臨の地としての総論的な捉えでも,この地域の性格はどうもボヤけるのです。例えば,藪薩の浦原の名を冠した「藪薩御嶽」という場所があり,アマミク(アマミキヨ)が最初に築いた七御嶽の一つと称されたりするけれど,その順序は決してトップではありません。
 琉球開闢御嶽の伝えは時代により変遷しているけれど,最も古いのは中山世鑑(1650年成立)。ここでは御嶽の数は9です。

1 安須森(安須森御嶽)
2 カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)
3 知念森(知念城の友利之嶽)
4 斉場御嶽
5★藪薩の浦原(藪薩御嶽)
6 玉城アマツヅ(雨つづ天つぎ御嶽)
7 久高コバウ森(クボー御嶽)
8 首里森(首里城内の首里森御嶽)
9 真玉森(首里城内の真玉森御嶽)
〔後掲南の島旅〕

 つまり藪薩の浦原は真ん中にある。創生順序としては一番地味な順位です。少なくとも第二尚氏代に最重要視されてはいません。──読み方が難しい。かつての最重要が時代を追って脇役に回されたのか,あるいは,首里や久高が最重要となってもなお脇役に居続けることこそかつての最重要度を証すのか?
 下記展開内に一応,原文を置きます。

 ところで,この地域の情報を探ってるうちに,戦時の話を色々知り,さらに南城市教委の「南城市の沖縄戦」という書籍(後掲ネット上無料閲覧可)を見つけました。いつもの「沖縄戦史」にないトーンの沖縄戦がこの地方にはあったらしく,以下入り込んでみました。

(上)日本軍による米軍予想上陸地点イメージ (下)現実の米軍の上陸行動〔後掲沖縄戦史/沖縄戦概説〕

■レポ:知念エリアの沖縄戦

 知念半島は一般に沖縄戦の戦闘地域に入らず,沖縄本島にしては被害は小さかった,と捉えられることが多い。要するに,主攻面にはならなかった地域でした。
 ただ,だからこそ残る特異な歴史があるようなのです。
 知念は,本島上陸に際し米軍が陽動作戦をかけたエリアらしい。

 図(引用者∶上図)にあるとおり3つの地域を予想した。(中飛行場正面がこの予想地域からはずれていたことに関し当時から疑問の声があった)
 各師団・旅団はこの上陸予想に基づいて陣地を構築した。当然陣地は海から上陸する米軍に対するため海に向かって構築された。これが後に北から攻撃してくる米軍に対しほとんど効果を発揮できない結果となった。〔後掲沖縄戦史〕

 この陽動が万一現実化する事態を懸念し,日本軍は知念に部隊を割くことになります。独立混成第44旅団です。
 現実としては,運玉森の戦闘が長引いたことから,5月22日に米軍が雨乞森(米軍名∶チェスナットヒル Chestnut Hill)を奇襲占領するまで知念に戦火は及んでいません。
 嘉手納〜首里の北側主攻面が緊迫するにつれ,防衛に徹するのみの知念からは大半の兵力が引き抜かれ,代わりに兵站部隊や臨時の現地招集兵が補充されたらしい。2週間前後の6月6日には八重瀬町まで米軍は進出しており,事実上の掃討戦だったことは否めない。
 日本軍の記録は奇妙なほど少ない。以下を総括すると,慣れない戦闘に駆り出された彼らはそれ故にこそ極めて無謀な玉砕戦を行った,と推測されます。

南城市域内に設置された慰安所及び慰安婦がいた場所〔後掲南城市教委,第4章第四節〕

【沖縄戦前】南城市に置かれた慰安所

 他地との比較が行いにくいけれど,現・南城市域には相当数(下記表から概算すると約百名)の慰安婦がいたらしい。また,できますその半分近くが朝鮮籍だった計算になります。

戦前に設置された南城市内の慰安所〔後掲南城市教委,第4章第四節〕

 待機戦の時間が長かったからでしょうか。地域住民と慰安婦たちの接触も,おそらく他にないほど書き残されているようです。
 次のはまさに中村渠のもの。※中村渠の住所域はかなり広く,当時の区割りが不明なため現在地特定できず。荒くは上図参照。

●KS(昭和五年生)
 中村渠二区にも慰安所があった。「慰安婦」のことを「朝鮮ピー」とみんな呼んでいた。自分はからかっているつもりはなく,そういう名前なのだと思っていた。兵隊が並んでいるのも見たことがあり,酒癖の悪い曹長が慰安所で暴れていたこともあった。色の白い綺麗な女性が十人ほどいた。〔後掲南城市教委,第4章第四節〕 ※原典 事務局による聞き取り(2019),証言者名は引用者がイニシャルに置換。以下同じ。

 次のものはやや大規模だったらしい糸数のアブチラガマのもの。地上が歩けない1945年5月末頃の記録と思われるけれど,住民も兵隊も地下で生活していた頃,慰安婦だけが外に住まわされてなお営業していた様が窺われます。

 初めてアブチラガマに入ったときは,松明やローソクで明かりを点けてゆっくり入って行きました。私達,四,五十名で民家側との出入口を開ける作業をしました。(略)民家側出入口近くに壕の空気穴があり,その下付近に糸数部落を解体してきて茅葺き木造二階建ての小さな慰安所も造り,朝鮮人慰安婦がそこにいました。(略)四月に米軍が上陸して,アブチラガマからも戦闘に出かけて行きました。生き残って戦闘からもどってきた兵士らは慰安婦を抱いて,半日過ごしたらまた戦闘に出かけて行きました。少ない慰安婦で,たくさんの兵隊を相手にするのだから可哀相でした。〔後掲同資料6※NM(独立混成第44旅団工兵隊配属の元日本兵。アブチラガマの整備を担っていた)の回想(「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕――国内が戦場になったとき」より)〕

 当時から沖縄本島の遊郭として有名だった辻からも,多くの慰安婦が出ていたらしい(上表参照)。朝鮮籍の慰安婦たちが同じだったのかどうか分からないけれど,彼女らは看護婦の肩書きを持ったという。映画「沖縄大決戦」での主人公の一人のような辻の皇国粋心者もいたのかもしれません。

 識名の給水部隊の「○○部隊慰安所」に従軍看護婦という名目で配置されたUEたち(辻遊郭から動員された女性たち)は一九四五年四月二〇日,部隊とともに大里村高平の病院壕へ移動した。「遊女看護婦の私たちは,有名なナイチンゲールにでもなったつもり。本職でなくともお国のため,誇り高い仕事となれば,寝ることも忘れて一生懸命勤めたものです」と手記に残している。〔後掲同(11)大里村高平にいた「慰安婦」〕※原典 UE「辻の華 戦後編 上」時事通信社 1989 13p

1937(昭和12)年撮影の字仲村渠青年団団旗調製記念の写真。当時の公民館前での撮影で,建物左に「仲村渠共同精米所」看板有〔後掲aha!〕

【沖縄戦】日本軍の戦況∶猛攻ヲ受ケ戦斗意ノ如ク成ラズ

 知念での日本軍に関する史料は極めて少なく,総論的な戦況を到底窺い知れません。
 上記のアブチラガマの記述を含め,その片鱗から見る限り,しかしそれは弱兵だからこそ極めて激烈だったと推測されます。映画「沖縄大決戦」のラストシーンで,おそらく最後まで決戦には用いられなかった学徒出陣兵など幾つもの練度不足の部隊が米軍に斬り込む様が描かれます。

このように日本軍の史実資料と電報からは,知念半島の戦闘で米軍と激しく交戦したのは雨乞森とその周辺にとどまり,その他の地域は米軍による掃討戦の様相を呈していたことが分かる。その原因の一つは,知念半島での戦闘が始まる五月ニ二〜二三日時点で,日本軍が知念半島に配置した部隊の多くが兵站・輸送部隊であったことである。もう―つは,第三十二軍司令部の摩文仁(現糸満市)への撤退を援護するため,知念半烏の西側に残余兵を加えた部隊を配置していたことである。したがって,知念半烏での戦闘は実質的には五月に終了し,米軍は六月四〜五日には知念半烏各地で収容所を開設したのである。〔後掲南城市教委第6章第二節〕

雨乞森の戦闘∶大本営指導通りのミニ沖縄戦

 独立混成第44旅団の唯一と言っていい組織的戦闘が行われた雨乞森の位置を確認します。与那原のすぐ南,知念半島の入口です。

雨乞森位置図(地理院地図)

 要するに,独立混成第44旅団は大本営の方針に近い攻撃重視の思想に沿い,知念の北側入口で総力を投入して格闘したのでしょう。戦史から窺うにおおよそ5月22〜24日の3日間,極めて悲壮な戦闘が繰り広げられたらしい。
 以下は船舶工兵第23連隊が残務整理部に残した記録史料です。

「沖縄作戦ニ於ケル船舶工兵第二十三連隊史実資料」昭和二十二年三月二十五日第三十二軍残務整理部
(略)
戦斗経過
(略。以下1945年)
五月二十二日 敵与名原(ママ)二侵入戦斗開始,概況左ノ如シ
五月二十二日〇六〇〇敵約三千嶺井二侵入第三中隊戦斗開始,〇九〇〇嶺井陣地ヲ奪取セラレ雨乞森二後退敵ノ出撃ヲ阻止ス
五月二十三日 雨乞森黎明攻撃,雨乞森ノ一角ヲ奪取セラレタル為メ二十三日黎明第二,三中隊ハ攻撃ヲ開始,総突撃ヲ開始,全員敵陣地ニ突入シ一時陣地ヲ奪取スルモ昼間ニナリ敵ノ空軍及ビ迫撃砲ノ砲爆頻リニシテ遂二再ビ奪取セラル,我方ノ死傷多シ
五月二十四日 再ビ雨乞森黎明攻撃部隊長指揮シ全員突入ス
五月二十五日 雨乞森遂二敵手二落チ一時稲福附近二集結
五月二十五日 稲福二敵侵入,特編第三連隊ノ協カヲ得終日勇戦敵ノ進撃ヲ阻止ス
五月二十六日 大城ノ戦斗,山部隊ノ援助ヲ得勇戦スルモ敵戦車ノ猛攻ヲ受ケ戦斗意ノ如ク成ラズ
五月二十六,七,八,九日 糸数台□ニ於テ各部隊協カシ克ク敵ノ進撃ヲ阻止スルモ損害多ク加フルニ幹部ノ喪失特二多ク漸クシテ部隊離散ノ徴現ル
五月三十日以后 生存者ハ各□斬込隊ヲ編成シ知念附近二於テ遊撃戦斗ヲ実施
六月十七日 知名二於テ部隊長戦死セルモノ丶如シ
六月二十一日 山城、米須附近二集結セル生存者ハ軍司令部ノ総突撃二参加最后ノ突撃ヲ敢行ス
〔後掲南城市教委第6章第二節資料2〕

 5/25「雨乞森遂二敵手二落チ」とあるけれど,その前日5/24に「全員突入」してしまって,結果も記されてないのだから,つまり自軍の損害はもちろん雨乞森が「落チ」たのか否かもようやく翌日に記録されるほど,組織性が崩壊したと推定して間違いなさそうです。
 5/25・26は要するに「命からがら逃げた」と書いてある。5/27以降はもうまとめて書くしかなく,記録の体が失われています。6/21の「最后の総突撃」に至っては,ゲリラ化した部隊又は個人宛に届くかどうか知らないけれど発せられた「命令」と思われます。
 本音と建前を使い分けていなければ第32軍全体が陥ったかもしれない一方的な経緯です。あるいは,上陸前に米軍がイメージしていた沖縄戦と言ってもいい。逆に,こうした「最初徹底的に抵抗したけれどその後は掃討戦」という戦闘を決してしなかった第32軍の中盤までの差配は,極めて的を得ていたと言えるのではないでしょうか?
 現に,これを「摩文仁東部戦線」と見立てた場合,独立混成第44旅団が以上のように壊滅した後,米軍は八重瀬岳の戦線で十日余(6/6-18),ホンモノの日本軍の最後の抵抗を受けます。誰も書かないけれど,第44旅団は時間稼ぎとして残置され,摩文仁はその間に最終防衛線を絶望的な状況下で可能な限り強化した,という戦略が浮かぶのです。

【沖縄戦】米軍の戦況∶ChestnutからHILL 117°への掃討戦

 南城市教委史料には,南城市の戦跡マップとして次の図が掲げてあります。
 仲村梁と親慶原・垣花の境界にかけ,「クラガー」という5箇所のガマが掲げてあり,「地下で繋がっている」と注釈されています。

玉城地区の主な戦跡マップ/糸数〜垣花付近〔後掲南城市教委第6章第一節〕

 このガマに関する史料は見当たらない。「クラガー」は水脈が発達した沖縄のガマ群に一般的な呼称です。
 ただ,大半の垣花一帯の人々はこのガマに籠もって,米軍が通り過ぎるのを待ったと推測されます。
 もう一点注目できるのは,先の船舶工兵第23連隊の記録中,5/26の「大城ノ戦斗」という記述です。この「大城」とは大城城から500mほど西の地点らしく,米軍は「HILL 117°」と呼んで進行目標としていました。

一一七高地(HILL 117° 現南城市大里大城五三八番地付近)には数百人規模の日本軍が配憫され,機関銃,ライフル,擲弾筒などで待ち構えていた。それに対し,米軍は二つの中隊(一中隊は約百人から一五〇人規模)を派遣し,同じく機関銃,ライフル,迫撃砲などで装備,場所によっては手榴弾や戦車も動員した。六月一日から二日間にわたった戦闘で約二五〇人の日本兵を殺害したとされる。〔後掲南城市教委第6章第三節,米軍第7師団第17歩兵連隊第二大隊が大城付近で展開した117高地攻略作戦報告書より〕

米軍による117高地のスケッチ〔後掲同上〕

 これに日本軍も応じて,独立混成第44旅団として最後のかろうじて組織的な戦闘が行われた,らしい。「らしい」というのは,雨乞森以上に記録らしい記録がなく,先の船舶工兵第23連隊記録でも「戦斗意ノ如ク成ラズ」,つまり押しつ押されつ,とか相対時するような戦闘ではもはやなかったと推測されるからです。摩文仁に近い虐殺だったのでしょう。
 南城市教委は,米軍記録のポイントと現在地の照合を行っています。例えば大城城は「一四五高地」(おそらくHill 145)だったらしい。

 報告書中にいくつかの高地が米軍の呼称で登場する。そのうち「一八一高地」は大里大城(現南城市大里大城一六四五番地付近),「ヘレン高地」は大里仲間(現・大里南小学校の裏),「一四五高地」は大里大城(大城城跡)であることが筆者により特定されている。〔後掲同上〕

米軍による知念半島の主な拠点高地リスト〔後掲同上〕

【沖縄戦後】インテリジェンス管理下の知念半島収容所群

 先の南城市による概説に「米軍は六月四〜五日には知念半烏各地で収容所を開設」とあります。雨乞森の戦闘から12日後,大城からは9日後です。それだけ多数の避難民が,おそらく米軍の軍事行動を妨げるほどに南部を彷徨っていたためでしょう。
 南城市教委史料にはその個別の行程が多数のマップに落としてあります。

知念半島に開設された収容所(事務局作成)〔後掲南城市教委第7章第一節〕
GHさんの避難行程イメージ図〔後掲南城市教委第6章第一節〕

 米軍は知念を「通過」していった感がありますから,残存日本軍は先の「知念附近二於テ遊撃戦斗ヲ実施」(船舶工兵第23連隊資料)中,実質は「落ち武者」が跋扈する中です。
 決して安全な収容所,というのではなく,突如あまりに人口の膨れた南部から民間人を抽出する場所,という色彩が強かったらしい。
 ただ,考えてみれば当然の発想ながら「遊撃戦闘」中の日本兵もこの中に頻繁に潜伏したようです。この関係で,当初の収容所管理は何とCIC(防諜分遣隊 Counter Intelligence Corps)が所管しています。この時期の収容所は「情報源」の蓄積場所と見なされたとも言えます。あるいは,日本兵の「ゴキブリほいほい」という感もあります。

一九四五年六月二日、ふるい分けを行なう地点[screening points]のネットワークを構築するため、そして多くの[日本]兵が紛れ込んでいると報告された中で前例を見ないほどの数の民間人を仕分けするという問題から連隊を解放するため、師団司令部のチームがLVT[水陸両用トラクター]で半島へ直接運ばれた。その時点でのCICの主な役割は、民間人を収容する[round up]ことと民間人に扮装しているすべての兵士を捕えることであった。(略)
 すぺての常設収容所と知念半島で情報提供者のネットワーク[nets]が構築された。それらは、身分を隠している兵士を発見するのに大きな力を発揮した。ある時、現地人の情報提供者はCICが九人もの憲兵隊将校と兵士を捕らえる計画を立てる上で役立った。捕まった捕虜のうち何人かは他の捕虜を特定するのを買って出た。彼らのうち、特に憲兵隊将校は素晴らしい成果をもたらした。情報提供者からの情報を手がかりに活動し、ClCチームは半島全体において家屋や壕の強制捜索も数度行ない、隠れていた捕虜を発見した。
〔後掲南城市教委第7章第一節資料4〕※(米)第七歩兵師団の沖縄戦における作戦報告書(1945年4月〜6月30日)中抜粋

 日本兵を芋蔓式に釣り上げていったわけです。これが米軍の予想以上に効率な摘発に繋がったらしい。旧・日帝憲兵が家屋の強制捜索までやったというのは,あり得ないように見えて心理学的には納得させられる情景です。
 なお,本当に遊撃戦闘をやっていた日本兵集団もあるらしい。次の事例では,収容所倉庫が日本残兵に襲われています。

 四五年七月十九日には,南場御嶽近くのナーワーンダーの岩上に隠れていた日本兵七〜八人が,知念村久手堅収容所の事務所倉庫を夜襲した。日本兵たちは食料を奪い,事務所倉庫に滞在していた民間人数人が重傷(一人はのちに死亡)を負った。〔後掲南城市教委第7章第一節新垣ヨシの証言 ※「知念村史第三巻戦争体験記」196〜197頁〕

 住民を襲う兵隊は日本ばかりではなかったらしい。戦前の日本側が叩き込んだ教育によるイメージかもしれないけれど……真偽は不明です。

 喜名家に多数の避難民が住んでいた頃,米兵が女あさりにやって来たので,女性は馬小屋の屋根裏,天井裏などに隠れた。大勢の避難民が口笛を吹き,カンカラー・鍋・洗面器などを打ち喝らして米兵を追っ払った。その米兵は慌てふためいて肥溜めにおっこち,濡れ鼠になって逃げるところは滑稽だった。また,ヒラバル小の井戸で髪を洗っていた女性が米兵二人組に拉致される事件もあった。〔後掲南城市教委第7章第一節資料6戦時記録編〕

 知念の収容所の画像は極めて少ない。次の写真が百名収容所のものだとしてwikiwandにあったけれど,労務作業なのか何なのかよく分からない。ただ袋が米軍のものとされるので,収容所の可能性が高い,というものです。

「玉城村 米軍配給の砂糖袋(1945年6月)」場所・状況等は不明〔後掲wikiwand/百名収容所〕

 最後にこの収容所の収容人数規模ですけど──次の表を信じるなら,7月初めには玉城だけで2.5万人弱,新里と合算すると4万人。他も合わせると約5万人ほどがいた可能性があります。
「軍政府─南部地区における総務部報告書─1945年4月1日〜7月15日」「付録1 沖縄南部と沖縄北部のキャンプに収容された民間人の人数とその合計」(新里・玉城・當山の部分を抜粋・編集)〔後掲南城市教委第7章第一節〕

 摩文仁が落ちて32軍が消滅すると,米軍は知念の収容所にいた住民を山原(本島北部)へ送ろうとした時期があったらしい。実際の行程からすると,馬天・新里・与那原・久場崎などから米軍のLST(戦車陸揚艦)で輸送されたという〔後掲南城市教委聞取〕。
やんばるへの移動日と移動人数〔後掲南城市教委第7章第一節表3〕

 ただ,日本の降伏後はその動きは途絶えたらしい。日本本土上陸のための軍事施設設置のニーズが消えたから,と思われます。
 具体的な背景としては,どうやら米軍飛行場の建設が企画されていたけれど,これが上記環境変化により中止されたことによるようです。日本が本土決戦をある程度やっていれば,現在の南原には米航空基地があったのかもしれません。

41 林博史「米軍の沖縄作戦」(沖縄県教育庁文化財課史料編集班編「沖縄県史各論編 第六巻 沖縄戦」沖縄県教育委貝会,2017(略)
44 前掲林博史「米軍基地建設」によると、”Okinawa & Ie Shima Area Progress of Airfield Construction & AVGAS Strage Facilitues.” (米国国立公文所館)RG77/Entry305F/Box6 沖縄県公文書館U00002111B)に後に追加された四五年八月四日付の建設進行状況には、知念半島(知念村から玉城村にかけての海岸沿い)に六〇〇〇フィートの滑走路を建設する案(「候補B」)が示されている。〔後掲南城市教委第7章第一節注41及び44〕

「m19Im第二十八波m鍬始めいわれほのめく田に水馬m2垣花城(ニライF69)」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です