m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m4世持井(ニライF68)

山羊しかいない雨上がり

雨を縫いまして西へ少し戻る。がポツポツ来はじめた。
 八重瀬町仲座。車道脇,後方は畑,コンクリートの平屋。位置は複雑じゃないけど逆にあまりに変哲がなさすぎて,地図を見てないと通り過ぎそうでした。
1212仲地山羊料理店
やぎ汁550

▲山羊料理屋の前より

もぎは入れていいですか」とニッコリおばあ。昨日の雪辱である。「沢山!入れて下さい」
 古い喫茶店みたいな,いい雰囲気の店です。近所の人がパラパラと山羊刺を買いにくる。でも,今の人で売り切れなんだって。昼過ぎに、もう?
 南山のいつものと比べると──生臭いというか……山羊しかいない!という「生き物」っぽさがある汁です。料理というか「さっきまで山羊でした」という山羊汁です。荒いというか山羊肉の香りがそのまま飛び出してる感じ。
 初食のナイチャーなら泣き出しそうな味覚です。

▲仲地の山羊汁

241,店の前でタバコを吹かす。
 これからの行く手,東を臨む。
 見た感じ東にはこんもりと高地。あれが半島部だろう。ただ,今日のこの天気は──あの高地手前から北へ折れるルートを考えとこう。

独立混成旅団最後の死闘

▲仲地の田んぼ道。右手(南)に帯状の丘。

側,集落海側には高い峰。これが海風を遮る場所,という利点から作られた集落でしょうか。
 バイクを再スタート。一度,仲地の田んぼ道をゆるゆると進む。南部の中央の広がりはない。狭いような伸びやかなような,独特な農道感覚。

▲仲地の田んぼ道2

持井
〔日本名〕沖縄県島尻郡八重瀬町 (戦時)独立混成第44旅団司令部の北麓
〔沖縄名〕ゆむちがー
〔米軍名〕115高地(109高地)の北麓

史の経緯からは,この小さな平地と峰で日本軍の「残党」と言っていい最後の兵力が死闘を演じたらしい。巻末参照。

(1945年)6月17日
 独立混成第44旅団司令部(109高地)地区は17日米軍の猛攻を受け、(略)戦車数両は旅団司令部を攻撃し、その後方にも進出してきた。旅団司令部は洞窟陣地に立て籠もって奮戦し、(略)独立混成第44旅団の主陣地は突破され、旅団の組織的戦闘は崩壊した。

▲世持井

253,世持井を見つける。
 括弧書きで書かれたルビは「ゆむちがー」。割としっかりした案内板があります。語義は「おもろ語で『世直し』を意味するほめ言葉です。」

元々アハ井と呼ばれていました。(略)花城按司は,他人に井を使用させないよう敵の目をくらますためにアハ井と呼ぶようにしました。アハ井とは『味が薄くておいしくない水の湧く井』という意味です。以後,アハ井を大井(ウフガー)と言うようになり,やがて世持井と呼ばれるようになりました。[同案内板]

 アハ井か。ハワイに似てるなあ。

世直しの井戸に防衛施設庁

▲右脇階段

手西方に祭壇あり。
 水は清く豊か。
 石垣は摩耗してますけどかなりがっちり組み上げてある。だから,案内板にあるとおりどちらかというと生活用施設の感が強い。でもきちんと(?)祠はある。バランス感覚が,少し普通の沖縄っぽくない。

▲防衛施設庁石柱

手上方には,なぜか防衛施設庁の石柱。
──後から付近の防衛関係施設を調べてみると,陸上自衛隊南与座駐屯地というのが,この西にあります。でも……

(上)自衛隊資料∶陸上自衛隊那覇駐屯地南与座分屯地周辺地域(沖縄県島尻郡八重瀬町字仲座糸無名原1110番地1)
(下)GM.∶該当地区図 *下部の沖縄少年院の位置が参考になる。

 この駐屯地の位置からは2km以上離れています。世持井がなぜ防衛施設庁の敷地,あるいはそれに隣接するのか──分かりませんでした。
 ただ,この土地の不思議な寂しさ。それが何となく,一度後にした場所に再びバイクを向かわせたのでした。

奥武島竜宮神へ坂下る

🛵
321。再び奥武島へ。今度は橋を渡って左折。島の裏手,南側へ。
 さっきはあれほど濃密だった集落の空気は,けれど一気に希薄になりました。まあ,沖縄らしい道ではあるのだけれど。

▲島の裏手への道


 橋のある北側とまるで違い,開かれた空間が見えてきました。
 先のGM.航空写真で言えば,
 ここのどこかにあるはずなんだけど──

(再掲)雄樋川河口付近のやはり特異な海底地形

▲奥武島南の海を見る。

った。1326,竜宮神。
 英訳が「Ryugushin Place of Worship」??
あちこちに石塔。右手に拝所らしき窪み。
 でもあとは観光客の皆様の散歩道です。うーむ。

何度も見過ごしてた龍座

▲龍神の浜の……ちょっと拝所らしい場所

に調べると,2枚前の写真と下の写真に写ってる「❢」んな上が平らな瓢箪みたいなのが「龍座」と呼ばれる奇岩。
 どうもこれが御神体であるらしい。これだけでなく,この辺りの奇岩にそれぞれ(母岩,子岩など)名前がついてるという。
──沖縄のカミ感覚ではない。中国船がホントにここに着いていたなら,彼らの海からの視点のように見えます。そう言えば,媽祖の里・湄洲島の東端の奇岩群が同様の呼ばれ方をしていました。

▲龍神の浜2

日談になるけれど,沖縄南部のハーリーを調べ直したら,奥武島の前御願(ハーリー前日)の拝所の一つにこの浜が入っているようでした。
 この画像を見る感じでは,何か目印ガあるようには見えません。この日,ワシは龍宮を見つけられなかったのではなく,島人が龍宮そのものと見る方向の海を前に,網膜に龍宮として映せなかっただけだったようです。

前御願(ハーリー前日)に区長・神人・海頭らが竜宮浜で行う拝み(2022年6月1日∶(上)拝み方 (下)供物)。前章・観音堂隣の殿での拝みより供物が多く,焼き魚,刺身米,茶,団子,スク(アイゴの稚魚)などを載せた豪勢な盆が供される。
※なんじょうデジタルアーカイブ/【地域行事の”いま”】②奥武島の海神祭
URL:https://nanjo-archive.jp/feature/1007/

■マップ集∶1945年6月 仲座の5日間

 この月の末,第32軍の戦線が完全に崩壊するまでの経緯は,「沖縄戦史」の記録が圧巻です。解釈を挟まず画像の順番のみ変えてご紹介したい。
 まず現在の画像をご確認ください。

下記2写真の方向参照地図

 赤・青矢印は撮影方向,黄枠は目安となるポイントです。
 まず,赤矢印の方向で沖縄戦史が撮影したものが次の写真です。
[赤矢印方向]中央左手の3つの風力発電機を目安にできます。

 もう一つ,ほぼ上記赤矢印の逆方向のものが青矢印。中央右手の平和祈念堂が目安にできます。
(青矢印方向)摩文仁側から東北を眺める,日本軍側の視点です。

 3章前で引用した京僧参謀が八原参謀に絶望的劣勢を報告(実質的には降伏を進言)したのが6月15日。

(再掲)【八原高級参謀「沖縄決戦」より】
 15日夜、独立混成第44旅団参謀京僧少佐がやって来た。 彼は一般の状況を報告した後、声を落とし例の親しみ深い語調で次の如く語った。
「今では旅団は手も足も出ません。軍の右翼戦線を崩され、誠に申し訳ない次第ですが、各部隊長は空しく死んで行く部下を見殺しにする無念さに、皆男泣きしています。いくら戦っても、ただ我が方が損害を受けるのみで、戦果が揚がらないからです。これは各部隊長の最後に当たっての私的意見ですが、もはや沖縄における我が軍の運命は尽きた。大本営は何らの救援もしてくれない。残念ながらやがて祖国日本も敗亡の途をたどることであろう。この秋(とき)にあたり、我々は何とか処置はないだろうか・・・と言うのです」と京僧はいかにも言いづらそうに口ごもった。[前掲沖縄戦史]

 けれど,この2日後には日本軍は何と,無茶苦茶ながら攻勢に出ています。先の京僧参謀報告の翌日16日からの日毎5枚の戦況図を以下転載します。右下がこの16日に陥落した仲座付近,独立混成第44旅団司令部です。
 なお,同日に,南部最大の激戦地だった糸満南方国吉台地にも米軍が地歩を付けています。

6月16日

6月16日

6月17日

6月17日「東部戦線の独立混成44旅団はほぼ戦力を失い、代わりに第62師団が第一線に進出するが、有効な機動力も戦力もなく、組織的戦闘はついに破綻する。」

旅団司令部との連絡を終わった独立臼方第1連隊の久保少佐は17日未明122高地の本部に帰還したところ、連隊長以下多数の戦死者を生じていた。久保少佐は残存者を集め、敵火の中を数百米後退し、158高地南東地区に陣地を占領した。兵員は久保少佐以下13名であった。陣地としたところは既設陣地はなく、岩石を利用した程度であって、終日砲火に曝され、夕刻までに生存者は久保少佐以下4名となった。久保少佐はやむなく部下3名を率い、17日再び109高地の旅団司令部に行き、状況報告をしたところ全員旅団司令部勤務を命じられた。かくて精鋭を誇った独立臼方第1連隊も全滅の状態となった。[沖縄戦史/具志頭・八重瀬岳地区の戦闘/6月17日]

6月18日

6月18日「東部戦線には疲弊した第62師団隷下部隊が戦線を形成しようと企図するが、各部隊とも各個に撃破されて壊滅状態となる。」

6月19日

6月19日「日本軍は真栄平・真壁・摩文仁に封入される。事実上日本軍の戦闘は終結した。」

6月20日

6月20〜22日「この3日間は米軍の日本軍殲滅作戦である。22日正午頃に摩文仁集落で沖縄第32軍司令部守備隊の銃声が消え、これで全ての戦闘が終結したものと考えられる。」

■レポ:時空を舞うおもいかねまつかね

星野之宣「ヤマタイカ」『月刊コミックトム』潮出版社,1986年11月号〜1991年4月号連載 より

 星野「ヤマタイカ」では,久高島の霊能者・伊耶輪神子(いざわ みわこ)が卑弥呼の霊力を受継ぎ,オモイカネマツカネという銅鐸を伴い邪馬台国の祭器だった超巨大銅鐸オモイカネを探索。奈良までの旅の末,とんでもないモノに姿を変えていたオモイカネを,オモイカネマツカネを雛形として復活させます。
 このオモイカネが,日本神話では岩戸に籠ったアマテラスを,策を弄して連れ出した神だというのは星野マンガでも触れられる事実です。ただ,奥武島の兼松金墓に見るように,沖縄の伝承に現れる(オモイ)カネマツカネは,時代も立場もてんでバラバラ,イメージを集約しようがありません。
 この神は一体何なのでしょう?

①【日本皇祖降臨】前の事を取り持ちて政を為よ

 日本神話へのオモイカネ登場を原文で読んでみます。一つ目が天岩戸,二つ目が天孫降臨の中の該当一部分です。

是以八百萬神。於天安之河原。神集集而〈訓集云都度比〉。高御產巢日神之子思金神。令思〈訓金云加尼〉而。集常世
長鳴鳥。令鳴而。
〔読下〕ここを以ちて八百萬の神,天の安の河原に神集(かむつどひ)〈集(つどひ)て〉,高御産巣日(たかみむすび)の神の子,思金(おもひがね)の神に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴(ながなき)鳥を集(つど)へて鳴かしめて
〘現代語訳〙こういう次第で多くの神樣たちが天の世界の天(あめ)のヤスの河の河原にお集まりになつて,タカミムスビの神の子の
オモヒガネの神という神に考えさせて,まず海外の國から渡って來た長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせました。

〔後掲古事記 上巻第二部(天安河原)※色分け,下線は引用者

 オモイカネ神の為した役目として「訓金に云わく加尼」と原文にあるけれど,「加尼」の意味は分からない。「考えた」以外の何かの役目だった可能性はあるけれど,とにかくアマテラスを岩戸から連れ出す算段の中心にいた神であることは間違いないようです。
 次は天孫降臨で,いわゆる三種の神器についての語りてす。

八尺勾璁鏡。及草那藝劔。亦常世思金神。手力男神。天石門別神而詔者。此之鏡者。專爲我御魂而。如拜吾前。伊都岐奉。次思金神者。取持前事。爲政。
〔読下〕八尺やさかの勾璁まがたま,鏡,また草薙(くさなぎ)の劒,また常世とこよの思金の神,手力男たぢからをの神,天の石門別(いはとわけ)の神を副へ賜ひて詔のりたまはくは,「これの鏡は,もはら我あが御魂として,吾が御前を拜(いつ)くがごと,齋(いつ)きまつれ。次に思金の神は,前(みまへ)の事を取り持ちて,政まつりごとまをしたまへ」とのりたまひき。
〘現代語訳〙大きな勾玉まがたま,鏡,また草薙(くさなぎ)の劒,及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副そえになつて仰せになるには,「この鏡こそは専らわたしの魂として,わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次にオモヒガネの神はわたしの御子の治められる種々のことを取り扱つてお仕え申せ」と仰せられました。
〔後掲古事記 上巻第五部(三種の神器)※色分け,下線は引用者〕

 原文の漢文ではオモイカネを直接語るのはわずか11文字。ただしその内容は,天孫降臨後の政治一般を託する指示です。そのまま読むと,この神は総理大臣職ということになる。

②【英祖五代前】天孫氏第25代 浦添中山国王

 米氏津波古家(べいしつはこけ)という名家があります。
 米氏門中の一つで,現存する米氏門中の系図では米邦周・新垣親雲上充根を一世とするものですけど,ここに「天孫氏第25代」の「浦添中山国王」として思兼松金が登場します。

現在確認されている系図によると、その始祖は天孫氏第25代浦添中山思兼松金国王。その5代目が中山英祖王。英祖王の次男湧川王子が今帰仁世主(北山王)となる。 今帰仁世主を初代とし4代目の今帰仁城主丘春の五男が大里間切(現在の南城市大里)で大里城主となる。大里城主は今帰仁按司(城主)を兼務〔後掲wiki/米氏津波古家〕

 英祖が朝貢したのは13C。国号「琉球国中山」が朝貢記録で確認されるのは1372年なので,その五代前を仮に▲125年(=▲25年×5)とすれば12C半ば(1147年)。琉球史の事実上の短さからすると,もうこれは神話の世界ですけど──そんなところにオモイカネ(マツガネ)は登場するのです。

③【首里王朝時代】金のうり

 出典は久高島の伝承とされています。

 昔、久高島に金松兼(カネマツガネ)という元気で心優しい男の子がいた。
 ある日金松兼は、母親の思樽(オミタル)に、なぜ自分には父親がいないのか訊ねた。実は金松兼は王様の子で、思樽が身ごもりお腹が大きかった頃に大勢の前で屁をふってしまい、王様から城を追い出されたという過去を知った。(続)〔後掲まんが日本昔話〕

 まず妊婦が放屁をしたから,王様に首里を追い出された,という因果が分かりません。王様が怒るのは分かるけれど,それだけでお腹の中の王の子とそれを身籠る母を王府から追う,つまり誕生前に廃嫡するような行動を,王個人はともかく王府組織が許すものでしょうか?

事実を知った金松兼は、可哀そうな母親に男として何もしてあげられない事を悲しみ、神様に祈った。高い崖の上から海に飛び込こんだ金松兼は、暗い海の底に黄金の瓜を見つけ、そのウリを持って王様の住む首里に向かって出発した。
首里城に着いた金松兼は、「金の瓜のなる種はいらんかねぇ~」と大声で叫んだ。しつこく門前をうろつく金松兼は、ついに首里城内に招き入れられた。(続)〔後掲まんが日本昔話〕

 なぜ金松兼は,悲しみのあまりとは言え,海に飛び込むのでしょう?
 その末に海中から得た金の瓜を携え,なぜ金松兼は首里まで移動して「金の瓜のなる種」と称するモノの物売りをしたのでしょう?
 さらにさらに,なぜそんな行動で,玉座前に入ることが許可されたのでしょう?

 金の瓜種を見た王様は、「本当に金の瓜がなるのか?嘘だったら子供でも容赦しないぞ」と念を押した。
 王様を恐れることなく、金松兼は言った。「確かに金の瓜がなります。しかしこの金の瓜は、屁をふらぬ女が植えなければなりません」その言葉を聞いた王様は、この男の子が自分の子供であることに気が付いた。王様は思樽を追い出した事を後悔し、金松兼と思樽を首里城に呼び寄せ、思樽を王妃に金松兼を王子として迎え入れた。〔後掲まんが日本昔話〕

 めでたしめでたし,なので何となく見過ごしてしまいそうになるけれど……全く意味が分かりません。
 金松兼が海底でゲットしたのは金の瓜なのに,王が見た金の瓜種は,金の瓜を割って中から金松兼が取り出したものでしょうか?
 母・思樽は放屁をして追放されました。なのに「金の瓜は屁をふらぬ女が植え」るとは?仮に金松兼自身を「金の瓜」に例えたのなら,逆ではないでしょうか?
 そうした不思議なやり取りで,なぜ王は思樽を思い出し,なおかつ放屁の罪を許し王宮復帰を許すのでしょう?

④【英祖五代】西威王の移転墓

 前頁の玉城按司たる兼松金の伝承は,これまた全然違います。時代は「首里王子」に返り咲いた前項「金のうり」より少し遡ります。
 ここの墓に葬られた兼松金(読み∶かにまちがに)は,玉城王と思樽金(読み∶うみたるがに)の子とされます。別伝では,英祖王の四代目・玉城王の跡を継いだ五代目王「西威王」とも。
 奥武島にこの人の墓があるのは,14世紀中頃に玉城グスクの落城により奥武島に逃れた玉城大屋子(読み∶うふやく)と新垣大屋子の祖父だから,ともされます〔後掲Masaki Senko〕。この二人の王子が墓を移した,ということになるのでしょう。
 ここは今も崇拝されてて,五年毎の「山嶽(さんだき)拝み」に際し集落挙げての礼拝をする〔後掲Masaki Senko〕。
 母の名「思樽」が同じなので,最後の二つ③④のみはややダブルイメージになっています。また,英祖の五代「前」と五代「後」の対称形で②④も対を成す。おそらく②家伝の方が「前後」を違えたのでしょう。ただ,何か偉業を為したとか拝所に祀られたとの伝えがないことから,神話群の背景に隠された,おそらく神話の文章化主体が隠そうとした神です。それでもこれだけの陰を落とさずにいないというのが,逆にその巨大な影響力を語っているのです。
 もう一つは,それが日本と琉球とに共通していることです。アマテラス≒アマミキヨ論と同様,この点も重視すべき点ですけど──何れにせよ,最初に書いたように,清々しいほど全く分からない神です。

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