m19Pm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm御手洗

[現句]地芝居の空新しく張られけり〔名古屋B〕
※鬼城忌:明治~昭和時代前期の俳人・村上鬼城(むらかみ きじょう、1865~1938年)の忌日。秋の季語。

000 旅遊メモ 20200723本編の行程

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

大崎下島へバスの旅

345労災発。瀬戸内観光バス路線。
 1408,下蒲刈に入る。見戸代。
 丸谷城跡。
 1413,集落後方から峠に上がる。ミカン畑の最上部の二車線道。橋を一度くぐって三之瀬。お土産処・海駅三之瀬。

418,蒲刈への橋を渡る。曇天,遠くは煙る。
 であいの館。1420向小市(おいち)の浜
 1428,田戸。くみあいマーケット前に八幡宮。
 田戸トンネルをくぐって蒲刈支所前。
 1431,宮盛(みやざかえ)。海からの贈り物直売所
 1437,大浦。海岸線に沿った浦らしい浦です。恋ヶ浜2km看板。
 ただしT字から浜とは逆方向へ。1442,大浦トンネル。

444,はしをわたる。くもりだけどくもはうすくなった。──とひらがなばかりでかいてるのは,スマホの辞書機能が不調だったからと記憶します。
 1450,豊浜中学校。豊島港。支所もまだあり,バス停名にもなってる。
 1454,豊浜大橋。狭いけれど対馬みたいな見応えある両サイドの浦の眺めです。
 1458,奇妙な名前の神社。日が照ってきた。
 1501,立花港。やはり大崎下島北側を回るらしい。1505,久比。港のしっかりした集落。
 1508,初崎。次には小長が見える。
 1516,御手洗港下車。
▲観光地区中央部

にしおう御手洗,の割に,普通の町並みはやはり普通です。
 海辺を東へ向かう。
▲路地裏

522,脇屋家。薩摩藩船宿跡と看板。
 この辺りから急に,町並みは雰囲気を出してきます。
▲薩摩屋敷とその前のカフェ

日だまりの薩芸密貿易

摩藩船宿跡は,今回の当座の目的ではあったわけです。ところがここの案内板には──
▲脇屋屋敷説明書

屋屋敷の建築としての貴重さを謳うのみ。まあそれはそれで大事だろけど……ここで誰が何をしてたかが,これほど強固な意思で「知らんぷり」するとは,とむしろ感心する案内板です。
▲海岸線からの眺め

(略)元治元年長州藩は真木和泉守を先発として兵を京都に進めましたが、蛤御門の変で破れました。
 このとき、三条実美、三条西季知、四条隆謌、壬生基修、東久世通とみの五卿は(略)7月22日から24日にかけて、この竹原屋(庄屋)で旅の疲れをいやしたものです。(略)
 尚、この竹原屋には維新のころオランダ商館のテーレマン・パクという人が駐在して薩摩藩などと武器の密貿易もしていました。
 又、文久3(1863)年から慶応元年に至るまで広島藩は軍艦購入のため
 薩摩藩から金10万両を借り、その返済方法として
 米・銅・鉄・操綿などを御手洗で薩摩藩に渡していました。(御手洗交易)〔後掲安芸の夜長の……〕※七卿落遺跡案内板 ※元治元年≒1864年

薩芸密貿易では商業の中心である大阪を通さずに御手洗で行ったようですが、資料がないのか、研究していないのか貿易の開始時期など今一はっきりとしないようです。〔後掲安芸の夜長の……〕

美須神社裏。「瑞廣前」とある寛政元年の燈籠──までは見つけましたけど,そこからすぐの海岸にも当時のその他の痕跡が見当たりません。荷揚げ場とか,薩摩らしい稲荷神社とか,特に見当たらない。
▲脇屋屋敷玄関

記は,仕方ないから脇屋屋敷まで戻って玄関先を撮影したものです。
 う~む。薩摩の「歴史浄化」が,むしろ他国である安芸なら及んでないのでは,という期待は見事に打ち砕かれたのでした。

軒先の短冊と花

▲その東から海岸通りへの出口

のせがれの〜♪と演歌の熱唱が,どこかから聞こえてくる。
 1527,浜道から南行。もう一つの目的地を探そう。
▲軒先の短冊と花

られた文化財ゾーン,と思いきや,御手洗の民家はごく自然な形でも残ってます。
 上の写真の,軒先の一輪挿しなぞ,ハッと振り返るような神々しさでした。

石垣に関する記録は一切なし

▲町屋道

はやや乱れてます。
 この感じは,道よりも先に家が建った形。ある時期に,都市計画的なもの抜きでどどっと家が建てこんだ感じがあります。
 1532,警察南,大東寺向こうで右折。
 あった!満舟寺階段へ。
▲寺院高台鳥瞰図

垣。
 当時は何に圧倒されたのか分からずに撮影してますけど──野面積でも打込積でもない。切込接ではもちろんない。加工的には乱雑なのに力強く,強度的にも隙がない。
 ところが──この石垣が,誰が何のために,どころか,いつのものなのかすら分からんのです。
▲満舟寺の石垣

国時代の築城術の特徴である「乱れ築き」と呼ばれる石積みが見事です。この規模の巨大な石垣は、安芸灘島しょ部においても希有な物件であり、1999 (平成11) 年に市の有形文化財に指定されています。〔後掲呉市〕

 穏健な解釈としては,以下三説を呉市は挙げます。挙げた上で,地元自治体としてはあり得ないことに「記録は一切な」いと書いてますから,これは本当にないらしい。

地元の伝承では、1585 (天正13) 年の豊臣秀吉による四国攻めの際、前線基地として加藤清正が築いたものとされています。一説には、それ以前、伊予国守護河野氏に属していた来島村上氏が御手洗にある「海関」の警護にあたったとされることから、その警護所との関係も取りざたされています。
いずれにしても、御手洗が埋め立てにより形成される江戸中期以前は、海岸線がここまであったことが伺われます。しかし、この石垣に関する記録は一切なく、満舟寺境内の整備に伴って築かれた可能性もあります。
 ちなみに、戦国時代中期、三島水軍の領袖であった大三島の大祝 (おおほうり) 氏は、周防国守護大内氏の侵攻を受け、1541 (天文10) 年と1544 (天文12) 年、御手洗沖を主戦場に度々海戦を行っています。こうしたことからも、この地になんらかの水軍拠点があったことが想定されます。〔後掲呉市〕

▲石垣から鐘楼を見上げる

真言宗古儀派南潮山満舟寺

へ登りましょう。
 向かって左のお堂。「鶯○山」と木看板。更に左は墓地。俳人樗堂※の墓とある。
 鐘楼。

※樗堂:栗田樗堂。俗名・後藤正則。1749-1814年。江戸時代の七俳人の一。松山の町方大年寄だったところ,1802(享和2)年9月(wiki:1807年)に御手洗に来て「盥江の漁陰」と称し隠遁,この地で没。〔後掲私の旅日記,wiki(英語)/栗田朝堂〕

▲正面お堂の丸い階段

面にお堂。
「琉球(沖縄)使節の筆跡満舟寺額」と看板。

「満舟寺」の扁額は、1807年に御手洗を訪れた琉球使節の楽師・梁光地(當間親雲上)が揮毫した文字を扁額に仕立てたものです。〔後掲沖縄県立博物館・美術館〕

 半円の階段。
 その右方向に地蔵。
▲正面扉と単額

 舟寺の縁起によれば、平清盛公が安芸守の頃この付近で嵐に遭い、一心に称名を唱えたところ晴天となったため、そのお礼として草庵を建て、行基作の十一面観世音を安置したとされています。
 確かな記録では、享保3年(1718年)に観音堂が建立され、徐々に鐘楼や庫裡、石段等が整ったのち、寛延4年(1751年)に真言宗古儀派「南潮山満舟寺」として、藩から正式な寺の認可を受けています。〔後掲私の旅日記〕

観音-地蔵-荒神-琉球

▲真横の祠の「地蔵」

括弧をつけたのは,この地蔵が何となく女性的で,ここが観音堂であるなら──と穿ったからですけど──冷静に今画像を見ると,こういう地蔵を否定もしにくい。
▲亀趺墓の台座「亀趺」

殿右手「亀趺墓」明和7年(1770)造立。──台座が亀の形のもので,中国由来のものですけど,これも江戸時代には大名家墓に例がなくもない。藩が絡まない御手洗にあるのはとても怪しいけれど──何かを決めつけるには弱い。
▲下り階段

1胡子屋跡とある矢印方向へ下る。1548。
 下から見ると,ここが荒神社と書かれてる。観音-地蔵-荒神,そして琉球──途方もなく,訳が分からない。
▲階段から見上げる

■レポ:【御手洗幕末史】「密貿易地」だったのか?

 この日の感触からですけど……幕末の御手洗で安芸広島藩と薩摩島津藩との密貿易が行わた,という定説に,どうにも違和感を感じました。
 御手洗には幕府の番所※もない。大きな抜荷事件の摘発があった訳でもない。

※近隣の番所としては,二つ隣の島の「蒲刈島御番所」があります。ただ少なくとも,この番所設置時点では,広島浅野藩は御手洗でなく蒲刈が選んだ訳です。

 御手洗は,本当に「密貿易地」だったのでしょうか?

密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ

史料群の記述する「密貿易」

 後掲安芸の夜長の……が挙げる,「御手洗密貿易」の史料をたどってみます。

【元凱十著】
広島藩の御用商人豊島屋円助が薩摩藩の御用商人鬼塚助右衛門と交渉して文久3年8月広島から銅10万斤、鉄3000駄、米3万石、繰り綿5千本、木綿十万反を輸出し、薩摩から生糸、硫黄、現金銀を輸入している。〔後掲安芸の夜長に……記載原典:「ひろしま歴史の焦点・上」p188〕

※元凱十著:小鷹狩元凱 著,出版社 弘洲雨屋。
※小鷹狩元凱(こたかり もとよし):1846(弘化3)生-1934(昭和9)年没。明治時代の軍人,政治家,郷土史家。号は預園,後に弘洲。旧広島藩士。〔wiki/同名〕

【島津忠義公史料】
このとき該藩(広島藩)貿易を希望し、而して金10万円貸与せられ、その返還年年米穀、木綿、銅、鉄四品を以てせんことを記す。〔原典同〕

 なお,以下は「広島県の百年」記述で,原典は不詳ですけど,何かあるものとして併記します。

〔広島県の百年〕
(略・茶の専売制度や養蚕などに力を入れ、)芸薩・芸長交易の商品として、または長崎に送られ、武器・艦船の輸入代金などに換えられた。(略)
 藩は様式鉄砲の製造をはかり、江戸から兵器職人をまねいてゲーベル銃と推定される洋式小銃を製造したり、また薩摩藩から不要小銃500挺を買い入れるなどした。〔後掲安芸の夜長に……記載原典:「広島県の百年」p11~12〕

 藩と藩とが国内貿易しているだけです。
 その商品に西洋の武器が含まれるので物騒ですけど,龍馬が亀山社中を介してやってた取引と五十歩百歩です。そりゃ幕府に平場で問えば「全く問題ない」と褒められるような行為ではないでしょう。でもこの時期,薩摩も長州も同様の武器取引仲介は他藩やその他の勢力に対してやってた訳ですし,もちろん幕府自体も手を染めてた。
 それまでは厳格に取締られてきた海上保安の本場・瀬戸内海で,とうとうそんなことが……という衝撃はあったでしょう。瀬戸内でも普通の「貿易」が行われるようになった,という意味では「密貿易」だった,という程なのではないでしょうか?

御手洗滞在記録が残る欧米人

 けれど,これらの取引に欧米人は関係していないでしょうか?御手洗は幕府の許した開港地ではありませんから,海外取引を御手洗でやってたら,まあ密貿易です。
 幕末に御手洗を訪れた記録のある西欧人に,以下の3人の名があります。
①シーボルト(ドイツ人,医者(オランダ商館付医官)・植物学者)
②フィッセル(オランダ商館員)
③テーレマン・パク(オランダ商館員)
 となると怪しいのはオランダ商館関係者です。後掲広島県(広島県史年表/近世2)から,彼らの人名と「オランダ」で記録を検索してみます。

1814 文化11 甲戌
1-23 御手洗碇泊のオランダ人若胡屋遊女・芸子と遊興〔御手洗町御触書類写控帳〕。
1822 文政5 壬午①
1-24 フィッセル御手洗に碇泊〔フィッセル参府紀行〕。
1826 文政9 丙戌
6-24~25 シーボルト御手洗碇泊,数名の病人を診察する〔シーボルト江戸参府紀行〕
1830 天保1(12.10) 庚寅③
2- 2 参府オランダ人乗船御手洗港に風待ちのため滞船,この日出船〔御手洗町御触書等写扣帖〕。

 オランダ人が「遊女・芸子と遊興」という記述が「御触書類写控帳」に残るのは,「不届」な事象として目についたのでしょうか?とするとこの19C初め頃からが,御手洗に異変が起こった時期と言えるかもしれません。
 テーレマン・パクはヒットしません。町年寄家「竹原屋」に滞在記録があると各所に記されるオランダ商館員ですけど〔後掲御手洗重伝建を考える会など〕,言っちゃあ何だけど小物らしい。
 残るフィッセル※は,1822(文政5)1月24日に御手洗に「碇泊」しています。出典は「フィッセル参府紀行」※※,当時の訪日白人がまま記録した旅日記ですけど,フィッセルのは特に精緻で,維新までに全和訳されてます※※※。
〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「フィッセル」←コトバンク/フィッセル〕

※Johan Frederik van Overmeer Fisscher:1800生-1848没
※※原典原語名:Overmeer Fisscher, J. F. van: Bijdrage tot de kennis van het Japansche rijk.
※※※日本風俗備考 〔後掲国立国会図書館〕

フィッセルの「日本風俗備考」(上)表紙 (下)書出し「Japan of Nipon」

 フィッセルの筆に御手洗がどう落ちているのか,原文を確認したかったけれど,確認できませんでした。
 この人の日本滞在は1820(文政3)〜1829(文政12)年の9年間,オランダ商館員としてのものです。彼の著作の日本記述は1822(文政5)年の商館長コック・ブロンホフ(Jan Cook Blomhoff, 1779-1853)の江戸参府に随行〔後掲国立国会図書館〕した時のものです。前掲広島県史年表の書く滞在年と一致しますから,フィッセルはまさに「御手洗に碇泊」した,江戸への旅程で立ち寄っただけです。
 即ち,御手洗に滞在して商業活動を行ったオランダ人の記録は,無い。
 各記事が殊更に記す「テーレマン・パク」は日本側の記録(竹原屋に残る文書?)が典拠のようです※。原典に当たれていませんけど,前述のとおり他に人名のヒットがなく,オランダ商館員という実証が取れません。もし本当に「密貿易」していたとしても,ごく小規模なものか,あるいは薩摩藩側の「説明員」のような立場だったと推測するのが妥当でしょう。

※「町年寄を務めた『竹原屋』には、オランダ商館のテーレマン・パクが駐在し、薩摩藩と武器の密貿易をしていたとの記録もあり」〔後掲御手洗重伝建を考える会〕

 以上から,本稿では,御手洗は密貿易が大々的に行われた場所ではない,という立場に立ちたいと考えます。統制の緩まった幕末の途中港として,パクのような「ちょっと武器を横流し」する人がいた可能性は否めませんけれど,それは九州ならどこでも行われたであろう規模だと思います。瀬戸内ではやや珍しかった,というところでしょう。

幕末御手洗の婬靡なる風景

 ただし,それは,幕末の御手洗が江戸期一般と変わらず安寧な港町だった,ということを意味しません。
 広島県史年表の同年代を「御手洗」で検索すると,次のヒットがあります。
 これは,まず数として前後の時代より格段に多い。大まかに区分すると①興行,②紛争,③金融・商業活動規制です。

1782 天明2 壬寅
5- 豊田郡御手洗町,郡役所に,去年11月に続き火防用水桶調達を願う〔大長村諸書附控〕。
6-21 広島藩,豊田郡大崎島の箱訴した百姓を処分する〔事蹟緒鑑33〕。
1806 文化3 丙寅
8-25~ 9-12 御手洗町にて長門萩下り歌舞伎中村梅吉座芝居興行〔御手洗町用覚〕。
1813 文化10 癸酉⑥
1- 広島藩,郡中頼母子取引につき,その紛争の多きを戒め,取引方を定める〔御手洗格別覚書帖〕。 1816 文化13 丙子⑧
6- 豊田郡御手洗町,同町での国産鉄売捌きを郡役所へ願う〔御手洗町用覚〕。
9- 豊田郡御手洗町可部屋善右衛門,国産紙問屋を仰付けられる〔御手洗町用覚〕
10- 豊田郡御手洗町仲背・船稼ぎら,問屋に対して罷業する〔御手洗町用覚〕
1820 文政3 庚辰
5- 豊田郡御手洗町にて,26日から6月16日まで大坂歌舞伎中村梅吉一座興行される〔御手洗町用覚〕。
1821 文政4 辛巳
1- 広島藩,御手洗町に仲背心得条々を出す〔御手洗町用覚〕。
12- 豊田郡御手洗町,御用船手方入用を浦島割りにされたいと郡役所へ願う〔御手洗町諸書附控〕。
1825 文政8 乙酉
5- 豊田郡御手洗町にて,大坂芝居歌舞伎同月14日より興行する〔御手洗町用覚〕。
10- 豊田郡御手洗町にて,広島子供芝居3日から17日まで興行する〔御手洗町用覚〕。
1827 文政10 丁亥⑥
9- 広島藩,米綿相場会所の帳合商いに郡中の者が携わることを禁止する〔御手洗町役場文書〕。
1828 文政11 戊子
5- 豊田郡御手洗町にて,荒神社内に仮小屋をかけ歌舞伎芝居を興行する〔御手洗町用覚〕。
1829 文政12 己丑
5- 豊田郡御手洗町にて,湊波戸普請成る〔御手洗町用覚〕。
1830 天保1(12.10) 庚寅③
2- 広島藩,正金銀の両替,定めの銀歩取引をするよう達する〔御手洗町御触書等写扣帳〕
1831 天保2 辛卯
この年,大成田鶴,豊田郡御手洗に女子のみの寺子屋巣鶴庵を開く〔近世2〕。
1837 天保8 丁酉
7-17 豊田郡御手洗町出火,役家86軒中25軒焼失〔御手洗町諸書附控〕。
1854 安政1(11.27) 甲寅⑦
8- 豊田郡御手洗町,拝借銀・為替座設置を願い,藩買入米先を下関から当湊に移されんことを請う〔御手洗町用格別覚〕。
1857 安政4 丁巳⑤
10- 広島藩,海岸防備のため大砲5挺を豊田郡御手洗に設置することとする〔御手洗町用格別覚〕。
1863 文久3 癸亥
8- 広島藩士宮田権三郎,鹿児島に行き,鹿児島藩用人伊知地壮之丞との間に両藩間の貿易のことを議定し,貿易港は豊田郡御手洗港に定まる〔芸藩志拾遺4〕。 〔後掲広島県〕

 18C前半の御手洗は,まず間違いなく人・物・金の流れが急激に拡大した結果,混乱の極にあったはずです。──1819(文政2)年の「船稼ぎ」らの罷業(ストライキ)などこの時期にはちょっと考えにくいし,直訴事件や火事に異常にピリピリしてる。──瀬戸内海上に忽然と,浅草か吉原の如き港町兼歓楽街が出現していたのです。
 もう一つ,非常に重要な点は,こうした御手洗の猥雑な賑わいは,1863年の薩芸同盟の動きより半世紀ほど早いということです。──だから,よく書かれる「御手洗に薩摩が乗り込み密貿易したから繁栄した」という因果関係は,成り立ちません。逆に「猥雑な御手洗」があったから,薩摩島津藩と広島浅野藩は「密貿易」地に御手洗を選んだのです。

賊藩・広島藩の名誉回復としての「薩芸密貿易」

 ここまで当たってきて奇妙に感じるのは,薩摩島津があれほど隠した「密貿易」が,御手洗ではむしろ過大視されるようなバイアスです。
「薩芸密貿易」があった歴史の方がよかった人がいる。
 御手洗密貿易の史料中,第三者的な薩摩側のものは前掲「島津忠義公史料」ですけど,ここには「広島藩が薩摩藩から10万円の借金をした」と書いてあるだけで,それが武器購入費用とは記されません。
 なのでもう一つの史料「元凱十著」に着目します。前述のとおり,その著者は広島人・小鷹狩元凱(こたかりもとよし)で,昭和5年に出版されています〔後掲国立国会図書館デジタルコレクション〕。

小鷹狩元凱〔88歳時(1929(昭和4)年)撮影,wiki〕

 この人は,維新後,陸軍に出仕,初期の難事業・徴兵事務に携わり大尉まで昇進。けれども薩長藩閥政治に反発して立憲改進党に入党,自由民権運動に関わる。帝国議会開設後,度々衆議院議員総選挙に出馬するけれど苦戦,一期のみ務めて政治活動を引退。晩年は芸備協会での育英事業に専念するとともに,広島の藩政時代等についての事跡を書き残しました。
 衆議院議員としては,当選が1894(明治27)年1月,落選が1897(明治30)年12月の4年間。対して,郷土史家としては,1922(大正11)年に浅野長勲から嘱託された事跡編纂を,1931(昭和6)年に「坤山公八十八年事蹟」を刊行。この9年がかりの大著と並行して書かれたのが「元凱十著」ということになります。
 要は,そもそも「元凱十著」の制作趣旨が旧広島浅野藩を賛美するベクトルのもので,当然,広島藩が維新の功労者である,つまり昭和初年の政界でも勝ち組だった薩長にくみしてきた,との基調で記されていると予想されるのです。──おそらくは,維新後の激しい政争中,浅野公も小鷹狩さんも「でも広島藩は鳥羽伏見を戦ってないよね?」と中傷され続けてきた,その復権を幾分とも図りたかったのではないでしょうか?
浅野長勲〔wiki 原典:Asano Nagakoto Jijoden (浅野長勲自叙伝)1937年〕

幕末・広島浅野藩の微妙な立ち位置

 小鷹狩さんの書名中「坤山公」は,執筆依頼者,最後の広島浅野藩主・浅野長勲,同藩の幕末政局の表看板として活動した人です。1842(天保13)年生-没年-1937(昭和12)年没。
 ただ結果として,広島浅野藩は,鳥羽伏見の戦いには参軍できていません。次節(ex.1864年阿部正方攘夷建白書)に見る通り広島藩の攘夷熱は決して他藩に劣るものではなかったけれど,薩長以外の倒幕連合を画策したか,公武合体寄りな立場をとったか,ちょっと分かりにくい位置を占めており──

慶応3(1867)年4月の四侯会議に合わせ,池田茂政,蜂須賀茂韶と同時上京を図るも成らず,薩摩(鹿児島)藩と関係を密にすることとなる。〔朝日日本歴史人物事典 「浅野長勲」←コトバンク/浅野長勲〕

 とにかく最終形態としての薩長倒幕連合に「正式加入」し損ねてます。つまり,「中途半端」な維新功労藩として明治新政府に参加したのです。

慶応2 (66) 年,薩長同盟を中核とする討幕運動にいちはやく加盟して尊王派の立場を示したが,土佐藩と協調して幕府も国政に参画させようとした。王政復古のクーデターに際しては倒幕派の公家,大名とともに参内し,明治新政府の職制で議定に任じられた。徳川氏処罰問題では,岩倉具視らの強硬派と山内豊信ら寛典派との仲介役をつとめた。〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅野長勲」←コトバンク/浅野長勲〕

 浅野長勲さんは,版籍奉還後の知藩事を経,元老院議官→イタリア駐在特命全権公使→宮内省華族局長官→貴族院議員と中央でのキャリアを重ねていますから,決して政治家として失脚してはいません。ただ,だからこそ維新時の「半端」さは政界で活動するに当たっての唯一の汚点として,本人的には常に悔恨の対象になっていたのではないでしょうか。

長州征伐前線基地としての広島

 ニュアンスはよく分かりませんけど,広島浅野藩が維新戦争で曖昧な位置に立たざるを得なかったのは,維新5年前には長州滅亡に全精力を注いでいたことが影響している可能性が大きいと思います。
 再び広島県年表から,今度は薩芸同盟とこれに基づく武器購入契約後の,戦備又は戦争関係記述を抜いてみます。

1863 文久3 癸亥
10-21 広島藩,幕府の命令なしに外国船に対し,軽挙暴発しないよう領内に布告する〔竹原市史1〕。 10-30 広島藩,代官の郡中在勤を復活させ,その内容を翌11月に出す〔芸藩志27〕。
11-17 広島藩,汽船飛雲号を購入する〔芸藩志28〕。
この年,広島藩,西洋軍制採用につきに騎馬弓頭は騎馬筒頭と改称し,旧砲術・弓術・棒火術の師範役を廃止する〔芸術志20〕。
1864 元治1(2.20) 甲子
1-19 広島藩,武器製造掛を設ける〔芸藩志28〕。 2- 7 広島藩,砲隊を改制し,大筒奉行を置く〔芸藩志29〕。 2- 広島藩,農兵を領内全般に設置し,農間に武芸を心懸け,伍長・組頭・頭取の指揮に従うよう命じる〔芸藩志23〕。
6- 阿部正方,幕府に強く攘夷をせまる長文の建白書を提出する〔正方公御事歴稿本〕。
7-29 広島藩,禁門の変後,廿日市駅・江波島・海田市駅・可部駅および城下猫屋橋東詰・猿猴橋西詰に関門を設け,廿日市には砲台を築くこととして,警戒を厳重にする〔芸藩志33〕。
8-11 広島藩,城下警戒のため,安芸郡海田市駅・佐伯郡廿日市間を渡海継送りとし,旅人の城下通行を差し止める〔芸藩志34〕。
8-13 広島藩,京都において幕府より征長軍山陽道先鋒を命ぜられる〔芸藩志35〕。
8-22 広島藩,征長の諸藩兵,広島に参集することを藩内士民に諭告し,動揺を戒める〔芸藩志35〕。
8-30 広島藩,諸廻船を他国に廻漕することを禁じ,出帆中の船も9月5日を限り,帰国するよう命じる〔芸藩志35〕。
9-17 広島藩,軍夫徴集のため,藩内各郡 15 歳以上 50 歳以下の人員を調査する〔芸藩志37〕。
9-25 広島城北に練兵場を新設し,松原講武所と称す〔芸藩志37〕。
9-27 広島城下の町門は10月1日より夜間閉鎖して通行を禁止することにする〔芸藩志37〕。
10-24 第1次長州征伐のため,阿部正方以下福山藩兵6000人広島へ出陣する〔阿部家系〕。
10- 福山藩,家中に対し,海岸防禦等有事に備え,心得を申し渡す〔岡山・下宮家文書〕。
11-16 征長軍総督徳川慶勝,広島に来着〔芸藩志40〕。
1865 慶応1(4.7) 乙丑⑤ 1- 4 征長軍総督徳川慶勝,広島を去る〔芸藩志43〕。
1- 4 広島藩内各所の斥候および警備兵を撤去し,横川・小方を除く各番所を廃す〔芸藩志43〕。
1-15 長州藩に内訌。広島藩,国境警備のため兵を出す〔上田家文書〕。

何らかの情勢から神経症的にならざるを得なかったのか,1863・4年の広島藩はほぼ戒厳令下のような緊張感の中で劇的に近代軍隊創設を進めています。
 いわゆる長州征伐は1864(元治元)年と1866(慶応2)年です。「山口県」対その他全日本の戦いですから,後者の前線・広島側は圧倒的に攻撃サイドのはずです。なのに「海岸防禦等有事」に備えて,といった語が目立つのは,既に西洋の軍艦を有していた長州が山陽沿岸に奇襲上陸する可能性まで考えていたのでしょうか?いずれにせよ,何やら不気味に軍事大国化しているらしき長州──現実に第二次戦では「オール山口県以外」を敗走させた──の幻影に怯えた部分は否めません。

『薩長芸三藩盟約書草稿』(京都大学附属図書館所蔵)〔wiki/浅野長勲〕

「回天軍神機隊」300伝説

 維新戦争の前史として,1867(慶応3)年に広島藩は薩摩・土佐藩と連合しての京都出兵を計画しています。これに基づき,11月26日にまさに御手洗に集結した兵は──
島津茂久旗下 約3000人
長州藩 約1200人
広島藩・茂勲 422人
広島藩総督・岸九兵衛旗下
        200人
 この他に尾道から──
長州藩兵 約1300人
の計6千余が京都に入っています。
 けれども12月1日,同9日の大政奉還を前提に,広島藩兵には撤兵命令が出ます〔wiki/浅野長勲〕。結果,翌年正月からの鳥羽伏見戦は薩長による戦争となったわけです。

神機隊戦績〔wiki/神機隊〕

 ただ,藩の撤兵命令に従わず320人が自費で鳥羽伏見から上野,奥州に進軍しています〔wiki/神機隊〕。1867(慶応3年)9月に広島藩士と農商出身者ら約1200人で結成された私設軍で,正式名「回天軍第一起神機隊」。
回天軍神機隊の内密頭書(平賀家文書)〔後掲広島県立文書館〕

 同様の私兵軍は広島藩に15隊あったという〔後掲東広島タクシー〕けれど,多くは郷土の自衛に徹したものだったけれど,「慶応3年(1867)9月,従来の農兵に物足りない広島藩士木原秀三郎(賀茂郡庄屋家の出身)等は藩の許可を得て,賀茂郡志和で義気ある農民を募って神機隊を結成し,大砲や小銃も含めた調練を開始」します〔後掲広島県立文書館〕。
 半端に梯子を掛けられた格好で,この義兵団は備後・備北の徳川天領を征した後,「神機隊」精鋭(おそらく経費負担できる者)が正確には1868年3月に広島を発っています。大坂まで軍艦・豊安号で輸送されていますから,藩主・浅野長勲は彼らの行動を黙認した格好です。
「佐々木藤三郎」墓:第二小隊 豊田郡小原村 磐城広野で7月26日戦死 25歳「(修行院)福島県・広野町では広島藩と鳥取藩が相馬・仙台・旧幕府軍連合と連日大激戦を行った。この墓石は東日本大震災により倒壊していたが、地元の石材店が無償で修理した。」〔wiki/神機隊〕

 1868年9月,仙台征討戦で最も激戦に晒されたらしい。最終的に仙台城に入った際には戦闘継続可能な者は80人,つまり3/4が死傷するという惨状を呈します。

本隊300人の兵卒も、漸次(ぜんじ)、減少して、僅(わず)かに80人を残留するに至れり。ただし、軽傷・加藤種之介(実弟は加藤友三郎内閣総理大臣)のごとき負傷治療して再戦できるものも参入した80人である。〔川合三十郎・橋本素助編「芸藩志」1909←wiki/神機隊〕

「佐々木藤三郎」墓:第二小隊 豊田郡小原村 磐城広野で7月26日戦死 25歳〔画像:後掲穂高,データ:wiki/神機隊〕

 この300人の視点から見れば,広島藩は維新戦争に参加しなかった,と後ろ指をさされる道理は一切ない。小鷹狩元凱さんが同じ立場に立ったかどうかは定かでないけれど,意図的に無視されたり過大視されたりする裏側で,現実の混乱を幕末広島が経験したこともまた確かです。

多少密貿易でも銃を買わねば

 さて,広島浅野藩のこうした神経症的情勢を念頭に置けば,薩摩を介した武器購入が形振り構わず行われた様が想像できます。当時の広島にとって,外国と長州の脅威を除くことが喫緊の課題であって「多少密貿易でも」構ってはおれなかった。そこで話を持ち込んだ薩摩が,かねてから拠点を築きたかった魔都・御手洗を取引の場に提案してきた。
──というのが当時の感覚だったと考えるならば,御手洗で行われたのが密貿易かどうか,などとスマして問題提起すること自体が当時の感性からズレているのです。
「密貿易慣れ」していない現代ニッポン人からすると,「密輸に手え出すのは全員アカン!」と感覚しがちですけど(まあアカンのですけど),前後の事情から言って,御手洗で購入した西洋兵器を,広島浅野藩はすべからく現場の藩兵に配分しています。
 なお,広島藩から廃藩置県後に明治政府に引き継がれた負債額は83万両余〔wiki/広島藩〕。1両≒20万円で換算すると166億円です。薩芸貿易は薩摩又は仲介西欧業者のボロ儲けだったと推定されます。
 薩芸貿易は,幕末・広島藩と御手洗の混迷に紛れた一風景に過ぎなかった。
 では,薩摩以前に存在した御手洗の猥雑さは,何に由来したものなのか,その点は次章巻末に繋いでまいります。

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