m075m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm龍眼营再訪

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

目録

入れない路地あり 龍眼营の解夏

▲1402龍眼营北口付近から南を見る。

4時を回った。文廟(孔子廟)から龍眼营(龙眼营)へ入る。
 南行。
 やはり不思議な通りです。生活臭だけは漂ってるのに,人の姿がない。外部の人間が来たから隠れた,とでも思ってしまうほどの賑やかな静寂です。

▲1406家屋の隙間の細い路地。しかしこの煉瓦の朱,いい渋みで映えてます。

日より少しは落ち着いてました。
 細い路地はないわけではない。ただ,これはどう見ても私道です。「トイレを探しに間違って入りました,ごめんなさい」で済むような路地じゃない。

▲再掲:趙他・街路別地図(龍眼营ブロック最拡大,以降A~I地点位置)

の写真から9枚,アルファベットを振りまして,上のマップに位置を落としました。あまりローカル,というよりマニアックに狭いスポットになりますので。さらに加えて,いつ「再開発それました!」と聞いて愕然とするか分からないので,少し記録として完成度を上げておきたくて。

結界を越えて不思議の場所へ落つ

▲1406[A]道幅の狭まる辺り

段で道幅がガクッと狭くなる箇所がある。庶民的な路地が,そこからは聖域に入るような,「境界」感とでもいったものを感じるラインがある。左右を見る限り何も異変はなく,何とも言いがたいのですけど,それはどうも確実にある。

▲1407[B]隘路が再び道幅を広げる辺りの緩い湾曲

めて「不思議の場所」感に浸る。通元廟西側の幅広の道に出る直前の,この家並みは独特です。
※参照 m067m第六波mm香港路/■疑問点整理:龍眼营ブロックの何が不可解なのか?/B 龍眼营の南端が鉤状に折れている
 元々この南がパティオだったとすれば,かつてこの隘路部は壁で,従って家並みは新しくなければならないけれど,この家並みはむしろ古びてる。

かえすがえすもなぜT字?

▲1407[C]通元廟のちんちん狛犬

409,龍眼营南端に到る。
 この箇所は,前掲通り地図には色々書かれるけれど,現地に立てば次のようなT字路に感覚せられます。
     龍眼营
      ┃ □通元廟
龍眼营一巷─┻━━南市

▲1411[D]「T字」から龍眼营方向を振り返って

定通り一巷へ右折西行。
 かえすがえすもこのT字は不思議です。こうして東西に迂回させるならまっすぐ南の川岸に抜ければいい。まして川岸は交易の荷の積み降ろし場だったはず。なのになぜ十字街でなくT字なのでしょう。

一巷 狭隘部

▲1411[E]狭隘部の東側。寂しいけれど植木もあり生活感はある。

溝は道の左右に変わりながら続く。
 一巷は途中で狭まる箇所があるけれど,ここでも側溝は続きます。まるで溝が先にあってその上が道になったようです。

▲1413[F]狭隘部。鉄格子が新しい。増築部だろうか。

隘部でも側溝は中央を通る。増築して狭まったとすると側溝の位置が自然過ぎる。新しい建物だけど筆は昔からこの位置だったように思えます。
 かつてここは塞がれた箇所だったのでしょうか。

日暮までワンアクションの時ぞあり

▲再掲:前日1658[H]龍眼营一巷西半①

後2枚は前回通ったときのものです。
 この辺り,つまり狭隘部西出口辺りから,北への路地がブロック中央のパティオらしき空間まで繋がってる……ようにBTG地図には書かれています。今写真で確認してもそんな気配はないんですけど……やはり実際は入れない「道」なんでしょうか?

▲再掲:前日1659[I]龍眼营一巷西半②

の暗きょは香港路を過ぎて万道边という路地へ。トイレ借りるふりして入ってみる。
 でも行き止まり。この西側の終点の不明瞭さも不思議なトーンです。

▲1415小さな野原が終点[G]

417,香港路を北行。
 1424,漳州石牌坊。古城位置図を見る。北西の山裾がやはり気になる。まだ日没までワンアクションの時間は残ってる。

▲(再掲)漳州城図。北西角がターゲットの山でした。

■レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]

「漳州有句俗語:岳口囝仔唔驚鬼,新橋囝仔唔驚水」──漳州の俗語にいう。岳口付近の子どもは鬼に驚かず,新橋の子どもは水に驚かず。
 東嶽宮で触れたローカル成語です。
※ 前掲:毎日头条/漳州東嶽廟,岳口囝仔唔驚鬼
 鬼に驚かない,というのも豪気だけれど,その「鬼」と連語になるのが「水」という感覚……水に近い瀬戸内人としては何とも違和感があります。
 文章構造として普通に捉えると,漳州人のいう「水」の世界とは,鬼界と同程度に異界,ということになります。
 以下記すのは,本文には登場しないけれど,この場所のすぐ沖にある祠とこれを詣でる「疍民」の存在についてです。

今に残るは進発宮(进发宫)

▲「主殿供奉的神像与三神位(右上角),下为庙印。」[後掲毎日头条]

 漳州を調べる中で,毎日头条に奇妙な祠の存在について記されているのを見かけました。
 当時,歩く中では全く察知しなかったけれど,それもそのはず,この祠は舟の上にある「世界上最小最神秘的袖珍级水上庙」──世界で最も神秘的な超小型の祠,であるらしい。
(以下,ほぼ同じ記述をしている漳州市の旅游指南(旅行ガイド)から転記します。)

福建省漳州市芗城区九龙江中山桥与战备大桥江滨公园边的一艘连家船上,有一座世界上最小最神秘的袖珍级水上庙宇——进发宫。
漳州进发宫-漳州市芗城区漳州进发宫旅游指南

 位置は,この記述によると龍眼营のすぐ南の川岸,二つの橋の間の九竜江水域上だとされてます。
 後の箇所に書かれてるけれど,開放はされてはいない。ても記事に写真はあるから外部に秘されているわけではないようです。

▲中山橋と漳州戦備大橋(漳州战备大桥)の間,江浜公園の沖→GM.:行程(このルートを歩けばどこかに見えるはず)

進発宮で営まれる信仰

 祠は1立方mに収まるものだけど,歴代伝えられたもので(根拠は書かれないけれど)5百年以上の歴史を持つという。

进发宫是船民世世代代传承下来的庙,有500多年的历史。庙宽90厘米,长85厘米,高88厘米,完全可以申报吉尼斯世界纪录。庙里分前后二殿,主殿供奉着九天玄女、九天玄女侍童剑童子、九天玄女侍童印童子、玉皇上帝、阎罗天子、关圣大帝、哪吒三太子、池、朱、形、李四位王爷。前殿供奉黑虎将军、土地公,另有蛇神法母爷。[前掲旅游指南]

 神体は九天玄女を中心に計14体。土地公の他は聞きなれない神ばかりです。
 下記は祭祀についてですけど,農暦9月13日に外海に出て行われる儀式は,省の無形文化財(非物质文化遗产)になってます。

与庙同存的宗教仪式哪吒鼓乐,是福建省非物质文化遗产;农历九月十三的送王船去外海所举行的仪式,是独特的船民文化。该庙信众遍布九龙江流域的芗城区、龙海市、南靖县、平和县、长泰县、华安县及部分陆上居民。[前掲旅游指南]

 この儀式に,漳州のほか近隣(龙海市・南靖县(県)・平和县・长泰县・华安县)の信徒が集う。人口規模は分からないけれど,彼らは現・陸上民と書かれてる。
 これだけの広がりを持つこの信徒層は,かつてどういう人々だったのか?

船民=疍民=水上ジプシー

 毎日头条と市の旅游指南とで,以下の記述だけが異なってました。おそらく,市の記述では「差別用語」を避けたのではないかと思われます。
 蛋民。日本語では水上生活者と書かれることが多い。中国語の穏当な表現は「船民」らしい。ピンインはdan2min4。

九龙江上,历代就有着许多的连家船。由于船民吃、住、生产都在船上,四处漂泊,船就是他们的家,因此这些船被称为连家船。早期的船民从事着捕鱼、捞蛤子、捞沙及运输,生活条件极其艰苦。[前掲旅游指南]

(上記同)船民也称为“疍民”、“水上吉普赛人”。(上記同)世界最小水上庙,漳州进发宫农历九月十三(本周日)烧王船! – 每日头条

①九龍江上には船上生活をする船民がいた。彼らは疍民と呼ばれた。いわば水上ジプシー(水上吉普赛人)である。
②その住む船は「連家船」(连家船)と呼ばれた。
③彼らの生業は漁撈(捕鱼・捞蛤子・捞沙)と運輸(运输)で生活は苦しかった。

 なお,日本語wikiの「蛋民」での解説はこうです。分布域は概ね福建~広東。

蛋民(たんみん、蜑民、疍民とも書く)は華南の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省、香港、澳門の沿岸地域や河川で生活する水上生活者である。
※ wiki/蛋民

 同wikiには「日本における『蜑家』」という項もあり

中国の「蜑」、「蜑家」という語、あるいは「蜑女」という表記を用いて、「あま」と読み(前掲wiki)

と「海女」や「海部」との相関も窺わせて興味深い。実際,沖縄や瀬戸内の船上生活者の記録は宮本常一ほかいくつかあるけれど,どうやら中国での非差別階級あるいは感覚的な異民族としての「蛋民」は日本のそれとは少し独自性に違いがあるようです。
 人権問題としての側面ももちろん重要ですし,そのアプローチでの論文は相当あるようですけど,以下ではあえてそうではなく,その差別の背景にどんな歴史事実があるかに着目します。
 なぜなら,結論を先取りすると,彼らが海域アジアの担い手の少なくとも重要な一角と信じるからです。

「なぜ存在するか」を巡る漢民族風説明とその背景

東晋の末ごろ(5世紀)、農民一揆を首謀した盧循が海沿いに南下したが、一揆に失敗し、水上生活を送るようになった。統治者は「上陸して居住しない」「勉強して字を覚えない」「陸上の人と通婚しない」という3つの禁を出し、これが千年あまり続いた結果、特殊な生活をする人たちが生まれたとされる。
※ 前掲wiki
※ wikiが掲げる参考文献:可児弘明 『香港の水上居民 中国社会史の断面』 岩波書店(岩波新書)、1970年

 この伝承では,古代に漢民族から明確に,自分たちの意思で分離した集団とされてます。けれど,千年もの間,文盲を自ら望む集団というのは考えにくい。陸上の他者が着せた説明図式に見えます。
 また,発祥年代については,この後の記述に次の考古学的事実も併記され,少なくとも前記ほど分かりやすい歴史ではないのも実証されてます。

広東省高要市金利鎮からは秦代以前の大規模な水上建築の遺構が見つかっており、実際には南越族が住む時代からすでに水上生活を送る人たちが多数いたことがうかがえる。(前掲wiki)

 現実問題として,日本で社会問題と捉えこそすれ差別の問題としてはそれほど重視されておらず,カンボジアなど東南アジア※では一般的なように,水上生活そのものは近代以前まで,ある地理的条件下ではむしろ自然な生活形態でした。中国ではそれが,一般的漢民族と異なる人々,と認知されたから独立的な伝承が生じただけに思えます。
※ 現地呼称:オラン・ラウト
 それだけ,陸上生活者たる漢民族にとって,海川に生活する彼らの存在は,日本人から見る以上に異質だったと推測されます。

「被害者」としての蛋民

 この進発宮についての旅游指南記事も,彼ら蛋民を以下のような文脈で説明しています。

因为船民在历史上曾是社会的底层,无力与陆上人竞争,也因此相对自我封闭,所以,这座庙之前不曾公开。过去祭拜时,这艘庙船开到远离人群的江面,所以知道的人很少。加上以前船民基本上为文盲,历史上没有形成有效的文字记载,便得船民文化更加扑朔迷离。[前掲旅游指南]

──船民は歴史上,社会の底辺に置かれ,陸上人との競争に無力で,自我を閉ざしてしまう傾向がある。(略)かつての船民は基本的に文盲であったため,有意な記録を記すこともなく,このため船民文化は謎を深めるばかりである。※「扑朔迷离」:事情が錯綜して不明瞭
 確かに,進発宮は,文革時に徹底的に狙われたため,本物は中州の廃船に隠して,ダミーを紅衛兵に焼かせてようやく逃れた場所のようです。

今年68岁的郑拾字,祖祖辈辈都生活在连家船上。他早年以捕鱼为业,1966年进入漳州市麻纺厂当工人。“文革”时期“破四旧”,家家户户都要焚毁神像。身为“-、赤卫队”的郑拾字与几个船民,冒着极大的风险,把神像暗中转移,数次更换收藏地点,最后掩藏在一艘破旧的小渔船上,并将小渔船搁置在九龙江中的一处无人的沙洲上,让人误以为是一艘废弃的船。为了应付当时的“造**派”,他和族人还买了一些木雕神像,公开烧毁,蒙混过关。[前掲旅游指南]

 だから,進発宮の祠が文革前から龍眼营沖にあったとは思えません。文革で,進むか類似の神像が多く公開焼却される中を,逃れた末にたまたまここに来ただけでしょう。
 かつて「漳州蛋民」がどの水域にいたのか,従って不明です。でも,既に想定した過渓合流面は,水上生活者が居を構えるに最適の水域に思えます。最初の俗語に戻れば──鬼に併記される,水を恐れない新橋の民とは,この蛋民を指すのではないか,というのが本稿の推定です。
→m071m第七波mm柑仔市/Y字湖沼地帯にあった海民集落群「過溪」
 つまり彼らは,九竜江Y字分岐の湖沼地帯を埋め,漳州の東入口だった頭浦港の船員・工員・積降作業・運搬を生業とした。言い方を変えるなら頭浦港をコアとする経済圏の血流だった。
▲(再掲)本稿の想定する過溪合流面の位置

[総論1]蛋民のいた世界

 ここから,漳州のモデルを見据えつつ,海域アジア総論に話を膨らませます。
 それが可能なのは,毎日头条が「扑朔迷离」としている蛋民を,戦前戦後の日本の民俗学者たちは執拗に研究対象とし,その滅びまでを追ってきたからです。
 これを追いながら,陸上漢民族視点から虚偽を差し引き,蛋民の実態にもう少し迫っていきます。

日本と中国の蛋民とは異質なのではないか?

 その前に,日本での研究結果から中国の推定が可能なのか,という点です。
 制度化されない部分に限っては,可能だと思われます。
 この点は既にギアーツのパシシル文化説があります。

パシシル文化とは、沿海文化のことである。
マレーシアからインドネシアにかけての沿海地域では、民族や言語は異なるけれども、漂泊的な漁撈と船による交易を背景にして、非常に均質な文化がひろがっている。それをパシシル文化と呼んでモデル化したのは、アメリカの人類学者、ヒルドレッド・ギアーツであった)。これをうけて大林は、東シナ海沿岸域についても、古代の海人文化から現代まで、このモデルによって説明できると主張している。
※ 出典:浅川滋男「東アジア漂海民と家船居住」公立鳥取環境大学
※ 出典における引用文献:大林太良「海と山に生きる人々」『日本民俗文化体系 山民と海人』小学館

 考えてみれば当然です。水上で生きる人々にとっては水で繋がった場所は,そうでない陸上の土地よりも近い。陸の道より水域の連なりを,はるかに近く感じる。陸上人が港をぐるりと回っていく対岸の岬は,海上人にはお隣です。
 ただし,蛋民が固有文字を持っていなかったのは確からしい。というのは,彼らの呼び名は文字を持つ陸上のそれしか残ってない。だから地域によってバラバラです。次のものは彼らの水上家屋の呼称です。
▲東アジア・東南アジアにおける家船の呼称分布[前掲浅川論文]

 自前で文字を作る民族は限られてるけれど,自前の文字がそもそもない一定規模以上の民族は珍しい。
 香港地域の蛋民は,広東語の下位方言とされる「蛋家話」を持つけれど,母語のスラングのようなものと考えたほうがいい。台湾タイヤル族の宜蘭クレオール(日本語スラング)ほどではなくても,海峡マレー語をオランダの文字で記すインドネシア語に近い。
 これは「民族」の観念からは外れる。中国政府も日本のももちろん蛋民を,少数民族とは扱わない。蛋民はあくまで,制度化された陸上人との相互関係性の中に居る。だから独自の言語その他の制度は持たない,生活形態の一つと言えます。

(総論2)蛋民はどこにいたか?

 ところで先の家船分布図に「こんなに広範囲にいるのか?」と驚かれた方もいるかもしれません。なかんずく,その範囲は,本編で扱う海域アジアとほぼ共通する広域性を持っています。
▲「1950〜60年代の沖縄。那覇の波上宮からの景観。当時撮影されたカラー写真です。」:※ 【昔】波の上の水上生活 | 沖縄ライフと文化 | 沖縄のうわさ話
 近くは,上の写真のように那覇にはカラーで残ってるほど最近までいた。国際通りの裏のガープ河は元々彼らのマーケットだったとも聞く。
 最近までいた大阪の水上生活者の記憶を,お持ちの方もおられるでしょう。彼らは瀬戸内海の家船生活者が戦後に集まったもの,という見方もある。

桜田勝徳は、1954(昭和 29)年の段階で「海上漂泊を続けてきた漁業者」に言及し、「近年は陸上に住居を持つ者が多く、また運搬業に転じたものが、きわめて多い。 都留のシャアなどは、ことに大阪市内の水上生活者の群の中に、多数投じて いる」と述べていた(14)。さらに、大阪の「水上生活者の起源」に触れて、「いわゆる夫婦船(めおとぶね)の瀬戸内海漂泊漁業者」とも無関係ではないと指摘していた。
※引用文献
(14) 桜田勝徳「水上生活者」日本民族学協会編『日本社会民俗辞典 2』誠文堂新光社、
1954 年(『桜田勝徳著作集 2 漁民の社会と生活』名著出版、1980 年、所収)。
[前掲山本2016]

世界最後の大規模民俗フィールドワーク

 日本の民俗学が蛋民を研究テーマに据えるようになったのは,柳田邦夫が中国で彼らの船で旅をしてからという。
 最も最近の,そしておそらく最後になった家船研究は,文化庁による広島県東部沿岸のものだったようです。

広島県教育委員会は文化庁の指導と補助金を受けて1968・1969(昭和 43・44)年度に大がかりな「家船民俗資料緊急調査」を実施した。(略)調査地として選んだのは、比較的古い民俗を残していた因島市土生町箱崎(現在は尾道市)と三原市幸崎町能地であった。因島の箱崎では 1962(昭和 37)年に「家船」が200 隻以上あったというが〔藤井1970.11〕、 竹原市忠海町の二窓では 1960(昭和 35)年頃までに「家船」の姿が見られなくなり〔小川 1985.12:138頁 〕、 能地では 1969(昭和 44)年に一隻を残すのみとなっていた〔広島県教 育委員会編 1970.3:266 頁〕(15)。1970(昭和 45)年には吉和でも「家船」を続けるのは一隻だけになっており〔八束・柳井 1971.4〕、宮本常一が関わった広島県教育委員会編『家船民俗資料緊急調査報告書』(1970)は、消え去ろうとする「家船」民俗を記録に留めた最後の報告書とも言えよう。[前掲山本2016]
※引用文献
(15) 「我が町 177 三原市幸崎町」(『読売新聞』1981 年10月12日)によれば、能 地の「家船」は 1965(昭和 40)年に姿を消しているので、「家船」の船体のみが残 っていたと思われる。その後、三原市歴史民俗資料館の裏庭に展示されていた。

 その成果は,研究報告の他,各市誌に記されて残っています。世界的にも相当貴重な民俗データだろうと思います。

広島県では、『竹原市史』、『新修尾道市史』、『三原市史』等の自治体史が次々と刊行された時期でもあり、「家船」の根拠地である竹原市の二窓、尾道市の吉和、因島箱崎、三原市の能地の歴史に「家船」に関す る記述が位置づけられるようになった。九州でも、長崎県西彼杵郡崎戸町の郷土史『崎戸町の歴史』(1978)が刊行されている。[前掲山本2016]

合理的選択としての水上生活:明治百年東京はしけ物語

 標記の記録は,下記の趣旨書きに基づいて東京の回漕業者が高度経済期に書かれたものです。長文になるけれど,蛋民論を扱う上での要点にも触れており,そのまま掲載しておきます。

これを書きのこしておく理由は、次のとおりのことからである。/一つは、われわれは学校で歴史学を教わったが、・・・そこにはまるっきり庶民の生活がない。・・・/二つは、・・・(略)いわゆる民俗学は亡びてしまう、おそれがあるからである。/三つは、こうした民俗学の中で、とくに、船・船頭が歴史に顔を出し得ないのは、陸上と離れた生活環境と、船頭という職務が、あたかも庶民的存在からさえも別扱いにされていたのが主たる原因であると思う。・・・下層階級であるのみならず、更にその下級と見なされていたからだ。・・・/これはいかにも関係者として無念千万のことである。しかも彼等が乗っている船 は、陸上において一世帯をはり得る多額の費用がかかったもので、更にこれに積込まれる貨物はその数倍にものぼる巨額のものであって、いかに彼等の職務が重大であることがわかってもらえよう。/その四つは、かかる重大な職務についての船の存在が、四百年間の長い年月に、官民共にその様相が歴史は勿論、民俗的にも打ち捨ておかれたこと[馬場伊之助※『明治百年東京はしけ物語』1969(昭44)年 ※現大田区生まれの回漕業者,前掲山本2016:山本敏子「『家船』の研究」駒沢大学教育学研究論集,2016より]

 一つだけ触れると,陸上の富が巨大化する前には,彼らは決して貧しくはなかったし,そもそも家船そのものが相当な財産でもあったことです。
 水上生活は,貧しさからやむを得ず追いやられた境遇であるどころか,極めて合理的な生活形態でした。

船住居というのは、中世から近世にかけて、幼少児の死亡率のきわめて高かった時代に、子供の死亡率の低い生活方法であった。母親が絶えず子供を見ていることができたし、魚を多く食べることで栄養も十分取ることができ、生まれた子供の多くはそのまま成長していった。そのうえ分家が簡単であった〔三原市役所 1979.9:325 頁 宮本常一証言〕。 [前掲山本2016]

江戸後期の家船所在地拡大と俵物交易

 これら明治以降の記録でも数百隻単位の水上生活集落が日本各地にあったことになります。
 下記の宮本常一著述によると,この規模は江戸後期にはむしろ拡大した形跡があるようです。

 西九州の海には家船が長くのこっていた。「大村藩史」によると、明治初年船を家とするものの船数が一二〇隻、人口が五〇〇人余いる。その中に酋長がいてあたかも君主のようであったという。天保年間の「大村郷村記」には家船六三艘、人口三〇九人とあるから、財冶初年までの三〇年の間にずいぶんふえたことになる。しかし近世初期にはもっと多かったのではないかと思われる。幕末の頃家船のいたのは瀬戸・崎戸・蠣ノ浦であった。そしてそれらが明治初年までの僅かの間に非常に急速なふえ方をしたばかりでなく、五島福江島の樫ノ浦ヘ一船団分村し、別に海上漂泊しているものが一船団あるといわれる。また対馬にも一船団ほど分村している。
 もともと九州西辺の海人の多くが船住いであったことは鐘ケ崎の海人の項で書いた。しかし海人仲間の男が捕鯨事業にしたがうようになって家船は次第に解体し男はクジラ糾に働き、女がのこって潜水作業をつづけることになる。
※ 宮本常一著『海に生きる人びと』双書・日本民衆史三/二〇 捕鯨と漁民,未來社,一九六四年

 この拡大は,下記小川記述によると,18世紀の俵物の生産とこれの対中国貿易の興隆が相関していると見られます。
 教科書的には鎖国真っ只中にある江戸期に,日本海民は中国交易ネットワークを担い,発展を遂げてます。

小川徹太郎は、(略)「近世瀬戸内の出職漁師―能地・二窓東組の「人別帳」から」(1989)では、河岡武春が資料とした善行寺の「過去帳」に加えて、
1833(天保4)年の「宗旨宗法宗門改人別帳」と「御用日記」を用い、近世末期における能地・二窓東組の漁民の出職(出漁)先の分布をめぐる問題を、(略)この時期、幕府は、日中貿易における必要性から俵物の生産力を最大限に拡充するために、「全国」すべての浦浜に強制的に俵物生産を課すことのできる、いわゆる生産高「請負制」を1799(安永8)年に導入して おり、両浦漁師の出職は、こうした「全国」ネットの施策の展開とも無関係ではなかったという〔小川 2006.7:190-225 頁〕。小川は、能地・二窓東組の漁師に関して、先の河岡の研究を踏まえながら次の点を指摘する。 (続)

▲「瀬戸内海周辺における能地と二窓の枝村分布」[前掲浅川論文 原図:広島県教委「家船民俗資料緊急調査報告書」,1970]

(続)第一に、幕府の俵物貿易が本格的な展開をみせる1700年代初頭(特に享保期1716-1735)の頃に、両浦の漁師による瀬戸内海全域への寄留・移住現象が見られるようになること。
第二に、それから約100年を経た 1800年代に、両浦の漁師の人口増加と他国への頻繁な出職が顕著になること。ちなみに、1833(天保 4)年の「人別帳」によると、両浦出職者の人口は地元在住者の約3、4倍を占めていた。
第三に、1800 年代の両浦の出職者は、深く俵物(生海鼠)生産に関与していたこと(18)。
※(18) 小川徹太郎は、二窓に関しては「東浦役所文書」(倉本澄氏蔵)を根拠に、また、能地に関しては、〔池内1956.1〕を手掛かりに、このような結論を導き出している。[前掲山本2016]

(総論3)海域アジア圏全体における家船分布

 日本での拡大の動向が交易規模と連動しているとすると,どうやら蛋民と家船の広域化も,前後期倭寇とその前後の元・明・清の大交易時代とのシンクロを疑ってもよさそうです。
 家船の東アジア海域全体での分布図を掲げてみます。
▲「東アジア・東南アジアにおける家船分布」[前掲浅川論文]

 広い。
 水上生活は,海民のかつてのスタンダードと捉えて間違いはなさそうです。
 前記の俵物交易との関係で注目すべきは,家船分布が北陸・東北のみならず北海道にまで至っている点です。西日本を主流としていた家船の居住者たちが,俵物生産地にまで出向いていった可能性がある。
 そう考えると,技術面で航海の賭博性が薄れた近世,東・東南アジア全域に蛋民が広がっていることはむしろ当然とも言えます。

文献資料の初出

 日本での文献資料の初出はフロイスによるものとされています。

筑前の海岸に沿うて博多を過ぎ、諸島の間に出た時、これまでかつて見たことのないものを見た。我等の乗ってゐた船の附近に六、七艘の小さい漁舟があったが、この舟は漁夫の家となり、妻子・犬猫・食物・衣服及び履物その他、家財一切を載せ、各舟には唯一人船尾に坐って櫂を 頭上に漕いでゐたのである。
[ルイス・フロイス:1586(天正 14)年 10 月 17 日付書簡 ※文献上 の初見とされる。イエズス会宣教師としてイ ンド管区長サンドロ・バリニヤノに宛てたもの〔村上訳・柳谷編 1969:141 頁〕。前掲山本2016]

 中国では漢書 五行誌にある「呉の地,船を以て家と為す」という一節が最も古いという。
 水上生活者は東アジアの庶民史上,極めて普遍的な存在です。海域アジアを考えるとき,彼らの存在を度外視することができない,どころか彼ら蛋民こそ主役そのものだったとしか考えられません。
 ところで,家船分布を見ていくと漢書にある「呉の地」,狭義には揚子江下流域というのはややマイナーです。
 呉書で言う「呉の地」というのは,呉越,つまり越族居住域と広義に捉えた方が近いと思われます。つまり陸上民の視点では水上民は一つの相に見えていたのでしょう。だから最後に,幾つかの片鱗をよすがに水上居住者内部の差異に挑んでいきます。

(総論4)蛋民社会の地域差と推定される内部構造

言語・信仰

 根拠は不詳ながら,広東系と福建系に大別できるらしい。
 これが中国系蛋民のみの話なのか,東シナ海全体に言えるのかは分からないけれど,沖縄の交易路が専ら福建に偏っていることから考えると,荒く全体に適用できるのかもしれない。

主に広東語系の言葉を話す人たちと、福建語系の言葉を話す人たちがいる。(略)海の守り神とされる媽祖(天后)信仰をもつ点は、陸上生活する漁民や海運従事者と変わりないが、「鹹水蛋民」と呼ばれる、広東省東莞市を中心に分布する人たちは、洪聖(南海洪聖大王)を信奉し、広州市から新会市を中心に分布する「淡水蛋民」と呼ばれる人たちは龍王を信奉している。[前掲wiki]

 洪聖と龍王の信仰は,現在のローカルなものというだけでなく,媽祖信仰が広がる前の残存文化と考えられるかもしれません。
 福建系なのに沖縄各地に残る龍神信仰は,福建もかつて龍神圏だった疑いを持たせます。

集住規模・対陸上民比

 宮本常一の記述でも何百艘単位の日本の家船集落があったことに触れましたけど,南海のものは桁が違うようです。
 これは絶対数の差でしょうか?それとも瀬戸内海や九州北部のような内水域では集住の必要性が薄く,密集していなかった,ということでしょうか?

1940年代初頭には人口164万人の香港で15万人を超える蛋民がいたと推定されている。第二次世界大戦後の1945年から中華人民共和国が誕生した1949年の混乱期には、中国沿岸部から香港に集まる船が増え、総数はさらに膨らんだといわれるが、この時期の具体統計は残されていない。(略)
1878年の人口統計では、68,086人のマカオ総人口の内、8,935人が水上居民であり、13%を占めていた。1960年代までは、マカオの漁民の9割以上は水上生活をしていたと言われる。
[前掲wiki]

 想像できません。人口の10~15%が水上に住む社会とはどういうものでしょう。
 次のブルネイの事例を,西洋人は「東洋のベニス」と呼んだらしいけれど,ベニスやアムスにあるのは水上浮遊の家屋であって,船そのものではありません。
 もう一つ,香港はカンポン・アイールに世界一の水上都市の座を譲った,というような記述が時折ある。かつての香港は,銅鑼湾も沙田も昔は香港仔のような集落があったと書かれており,映画に映るのを上回る規模だったらしい。

現代化度合

カンポン・アイール(Kampong Ayer)はブルネイバンダルスリブガワンにある水上集落。※ wiki/カンポン・アイール

人口は39000人程で世界最大の水上集落となっており、42の村が存在している。 カンポン・アイールは多数の小さな村から出来ており、29km以上に及ぶ歩道橋で互いに繋がっており、学校や警察、商店、ガソリンスタンド、モスク、病院を含めた4200以上の建物が存在している。通路の合計は36kmを超え、これらが各建物を繋いでいる。[前掲wiki/カンポン・アイール]

 日本でも中国でも水上集落は非文化的な生活形態として排除されたわけですけど,ブルネイの凄いとこは,水上のまま社会性,さらには現代性を付加してしまってる点です。
「日本沈没2」では水上国家として中田首相のもとで日本が再興されるけれど,首都人口の1/4が水上に住む国が現存する事は,そういう選択枝がSFの世界のものではないことを示唆します。

水上にありながら電気、水道などのインフラの整備はすすんでおり、エアコン、衛星放送、インターネット等も利用されている。また、住民の中には鉢植えの植物や鶏、猫を飼育している者もいる。住民の大多数はムスリムであり、国家公務員として働いている人が多い。市の人口の約4分の1の人が暮らしている。[前掲wiki/カンポン・アイール]

 現地の有識者の見解では,むしろこここそが首都経済のコアになってる。現代経済上も不可能なチョイスではないのです。

ブルネイ・ダルサラーム大学の地理学者、アブドゥル・アジズによると、カンポン・アイールは東南アジアで最も著名で大きい水上集落であり、「歴史的にブルネイの中心地であり、ボルネオの重要な貿易の中心地の一つである」との事である[3]。[前掲wiki/カンポン・アイール 参考文献3:Asia Times: Old water village drowning in modern problems”. Atimes.com (1999年3月26日). 2011年8月10日閲覧。]

集団内での差異意識

▲「1927年福州の蛋民(曲蹄)」[前掲wiki]

 広東系の蛋民が福建系を蔑視していたという意味合いの記述もありました。こうなると,前記の蛋民の呼称の中には,陸上民によるもの(多くは蔑称)のほか,同じ蛋民,あるいは蛋民の比が多い土地の間での差異意識から生まれた称号もあると思われます。

福建省にも同様の水上生活を送る人たちがおり、「曲蹄」、「曲蹄囝」と蔑称されることがあった。これは、足で舵を取るなどの日常動作によって、足の形が変わっていることによる。「科題」とも呼ばれる。また、福建省南部と同じく閩南語系の言葉を話す広東省東部(潮汕地区)の水上生活者と合わせて、「福佬」、「鶴佬」(ホクロウ)などと呼ばれることもあるが、これは広東人による福建人全般に対する呼称(蔑称)でもある。[前掲wiki]

陸上民体制側からのアプローチ

 海禁か開放か,という両極端のシーンからの議論はよくあるんですけど,以下のような管理の詳細については意外に見ません。

幕藩体制の成立以後、家船に対する把握も行われ、藩からの公認と引き換えに鮑などの上納や海上警備などを行った。[後掲wiki/家船]
※ 同wikiが出典として挙げるもの
野口武徳「家船」(『日本史大事典 1』)平凡社、1992年
羽原又吉『漂海民』岩波書店、1963年。
二野瓶徳夫「家船」(『国史大辞典 2』)吉川弘文館、1980年。

「把握できていなかった」とする記述が多い中,幕府により把握されていた,というのは俄には信じがたい。今後出典を確認していきたいけれど──もしそうなら整合する部分もある気がする。以下の点を整理できれば既存史観と相当異なる絵が描けると思います。
①管理主体は幕府か藩か?
②移動する家船の管理方法は?
②俵物等の上納や海上警備のような重責と引換えになるほどの「藩からの公認」とは具体的にどんな内容のものか?

陸上経済との関係性による段差

 再び宮本常一の論考に戻る。この人の当たった民俗資料の量は無限に近いから,根拠を示せと言う話は一旦置いてほしい。
 瀬戸内海の非陸上民を,宮本さんは東西で二分してます。

(海部郡の海人に対し)瀬戸内海にいた海人はその初めから陸の稼ぎをする者はほとんどなかったようである。安芸(広島県)には二つの海人郷があったが、もっとも多く海人の住んでいた東瀬戸内海には、海人郷の名は見出せないばかりでなく、小豆島のような大きな島でさえ郡名もなければ郷名もない。それは人が住んでいなかったためではない。(略)生活のよりどころとして、海岸に家をたてて住みはするが、それ以外に陸に依存することはたいへん少なかったためである。[前掲宮本1964]

 これを原初状態と見立てつつ,東瀬戸内海の半陸上生活化を近畿との関係で以下読みといてます。つまり陸上生活者の大集団に近いと,水上もその経済圏に依存する形態に変化した。

 ところが、この人たちが次第に定住するようになる。その理由の一つは塩やきにあったと思われる。奈良や京都を中心にしてそこに人がたくさん住み、その人たちがたくさんの塩を必要とし、その塩を供給するために小さい島の渚からすぐ木がもりもりと茂っているようなところでは、海岸に住みついてその木を伐り、塩をやいて売るものがふえたと思われる。(略)[前掲宮本1964]

 さて以下は,文脈としてはその続きなのですけど,瀬戸内海西部の海人とそこでの海賊の多発を関連づけた記述になります。

(総論5)水上民の生活感と海賊化モデル

 中部瀬戸内海の山地のひろい島では塩もさかんにつくったけれども、なお多くの海人が漂泊していた。(略)鞆あたりから西にそうした民が多かった。この仲間は食うに困ると通りあわせた船など襲ってものをとった。いわゆる海賊化したのである。もともと海上の漂流物はこれを見つけた者がとってよかったし、(略)それだけでなくすすんで沖ゆく船の積荷までとるようになってきた。(略)
 漂泊漁民が同時に海賊もおこなったという推定はいくつかたてられる。十四世紀以降内海で活躍した中部瀬戸内海の海賊のうち、因島にいた村上氏をのぞいては、陸地に領土をほとんど持っていなかったことがその一つである。領土を持ちはじめるのは十六世紀以後である。[前掲宮本1964]

 後半の理由表記はやや脈絡がない文章のように最初は読めたんですけど,この文脈全体で宮本さんは所有感覚に注文してるのだと思う。水上民は陸の土地を所有する意識が薄い。それは彼らの住んだ地名から読み取れる。そしてその希薄な感覚が,海賊家の所有のあり方にも共通している。だから水上民と海賊は同じ意識を持った人々と推定される。
 ここで言えることは,
①水上生活者には,内部での差異が発生しうる。
②その差異は,その依存する陸上の経済の形態に伴って発生する。
③水上生活者の全てが海賊ではないけれど,②の差異の一形態として,海賊化することはあった。
ということですけど,より広域に考えると,瀬戸内海西部が東シナ海により近く,海賊の「文化」に影響されやすかったことも考えられます。

(付記1)水上生活者は何と名付けられてきたか?

 水上生活者は自称しない。彼らを特異に見るのは,陸上生活者の視点であり,その陸人が異なれば当然呼称も違ってくるからです。
 だから以下は,漢字文化圏での呼称群に過ぎません。
家船民のことはアマの記録からも採ることができる。アマは,日本列島には紀元後3世紀以前から既に存在していたし,記録からは「海人・海士・海女・白水部・海部・蛋」などの漢字が当てられている。このアマと家船の関係がさほど明確ではないとはいうものの,密接なつながりを持っているのは否定できない[羽原1963:77-93,宮本1964:60-80]。そして,九州家船や瀬戸内海家船が広く活動していた近世までも,一部では,家船をアマの一部分として捉える見方が存在していたのである4)。ところがこのアマの他にも,家船に代わる言葉がもう一つ取り上げられる。それは家船の語源とも思われる「以船為家」5)という表現であり,主に「倭寇」に対する表現として,また朝鮮半島の特定の漁民(「頭無岳」「鮑作干」)に対する表現とし記録に多くみられる。
※ 金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003
(以下,上記注釈)

4)1699年(元禄12),貝原益軒によって書かれた『日本釈名』に「魚をとるあまあり,海辺の山の木をきりてうるあまあり,かずき(潜水)の海士あり,……三つのあまともにつねに船を家としてくが(陸)にすまぬものあり,俗に家ふねと云う,年おひては船の中を子にゆずりて,隠居してへさきのかたにする」[伊藤1987:116から再引用]のような文章がみられる。

5)高橋は,『漢書』(五行志・巻二七中之上)の「呉地,以船為家,以魚為食」という記述からもみられるように,この「以船為家」に類する表現が,ある種の海民を示す慣用句として定着し,漢字文化圏に広まったと考えている[高橋1987:176]。そして,網野は「以船為家」という生活と潜って鮑を採るという特徴に基づき,肥前の白水郎と中世の倭寇(松浦党の海夫),そして近世以後の長崎の家船とを直接結び付けている[網野1964:68-94]。

▲かつて林立していた「機帆船」(北九州市洞海湾)北九州市立若松図書館

(付記2)水上生活者の点景

 最後に,これまで各所で見た情景とリンクが窺われる,ある時代における水上生活者の景観を列挙します。簡単に言えば……ここまでのいずれの観点でも咀嚼できなかった事実史料です。トレビア的にはそれぞれ「へえ!」と唸るものばかりでした。

[1910年頃×香港油麻地・銅鑼湾]水上浮城

政府は1910年代に油麻地と銅鑼湾に「避風塘」という、防波堤に囲まれた避難地域を設けた。この避風塘には水上生活をする人たちの船が密集し、「水上浮城」という形容もなされた。(略)1950年代、戦後の混乱が落ち着くと、(略)当時、油麻地は蛋民が買い物をしたり、医療を受けたりする地区として繁盛した。[前掲wiki/蛋民]

[1970年頃×香港屯門・沙田]水上生活者陸上り専用住宅

香港では、1970年代より、陸上生活を送れるように政府に支援を求める声が高まり、屯門、沙田などに建設された大規模公共住宅への入居が進むようになり(略)[前掲wiki/蛋民]

[年代不詳×愛媛県三津]三津朝市

本拠地を中心として周辺海域を移動しながら一年を送り、潜水や鉾を使った漁で魚介類や鮑などを採集する漁業を営なみ、1週間から10日おきに近くの港で物々交換に近い交易をしていた。家船が三津の朝市で漁獲品を水揚げする姿は戦後もしばらくは見られていた。※ wiki/家船

[幕末~昭和×広島草津等]かき船

1660年代に、安芸国草津から大阪までの、小西屋五郎八のカキ売りの船が起源とされている[1][2]。当時は、草津・仁保・矢野の港を晩秋に出港[1]。大阪の各港で生がきを販売[1]。翌年の1月から2月頃(旧暦)に広島に帰っていた[1]。1707年(宝永4年)の大阪での火事の際に、高麗橋下の幕府の高札を守ったことで[1][2]、草津の業者は大坂町奉行より事業の特権が与えられ[1][2]、株仲間制度の下、草津・仁保出身者が事業を独占することになった[1][3]。(略)明治以降、草津の業者に加え、矢野や海田の業者もかき船に参入[5]。1882年(明治15年)時点で77隻[5]、昭和初期で150隻以上[1]、かき船の数を数えた。※wiki/かき船
※※原典:1 『広島県大百科事典 上巻』 – 238ページ
2,3,5 『海のカキアルバム』

[戦後×大分県別府]湯治舟

別府温泉では、持ち舟で寝泊まりしながら浜脇温泉や別府温泉に通う湯治の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、湯治舟とよばれて季語にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。[前掲wiki/家船]

 そもそも「湯船」というのも,船に湯を積んで岸に着け,陸上民の入浴者から金をとっていたものとも言われる。なぜ「風呂」と水上生活者が関係あるのか,どうもピンと来ない。
 虚子の歳時記にこういう一節で紹介されている。

別府温泉では一家族或は數家族が、湯治期間中の食料品や世帶道具等を積み込んだ自分の持舟を波止場に繋いで、旅館に入らず、その舟から金盥・手拭等を提げて共同溫泉に浸つて湯治をする習ひがある。この舟を湯治舟といふ。春の別府港内には百隻近くもの湯治舟が舳を竝べて繋つてゐることがある。「湯治舟」がわからなかった: 轟亭の小人閑居日記 馬場紘二/虚子編『新歳時記』増訂版 春四月「湯治舟」(たうぢぶね)

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 Malays,Javanese,Chinese and others ―――― governed loosely by a local Muslim sultan. Ethnic heterogeneity and a commercial orientation remain significant characteristics of coastal people.(p30)
※ Peddlers Peddlers and Princes: Social Change and Economic Modernization in Two Indonesian Towns, (University of Chicago Press, 1963).

[私訳]マレー人,ジャワ人,中国人そして他の――――地方のムスリムのスルタンによるゆるやかな統治下にある人々。外部との異種混合や商業的な慣習が,そうした海岸地方の人々の中に,重要な特徴として残存している。

 Pasisir culture is characterized by its flexible modes of ecological adaptation: adaptive variety in the economy may take the form of village specialization, or may be more a matter of individual opportunism: the people often have several different souces of income ―――― combining, for example, wet-rice farming with fishing, rubber tapping, or peddling.(p58-59)

[私訳]パシシル文化は,経済的な適応力のフレキシブルな形態によって特徴づけられる。経済活動上の適応性は多様な形を採る。村落の特殊化という形態を採ることもあれば,個々人の日和見主義を助長することもある。その人々は,数種の異なる収入源を持つことがある。例えば,水田稲作農耕を行いながら漁撈,(ゴムの)樹液採取,行商も兼業するのである。
 どうも,このパシシル文化論は,ギアツがそれほど厳格な定義の整理を行わなかったために,引用する著者によって都合よく活用されているきらいがあるようです。幾つか理解できる点として2点。
① ギアツは,「日本文化」「関西文化」と同種の,均一性の高い文化という意味で言っているのではなく,ややルーズな意味,ほとんど「文化的傾向」とでも言うようなニュアンスで「パシシル文化」という語を用いている。
② そのトレンドとしては,フレキシブルな適応性を挙げている。即ち,中沢新一が「レンマ学」でメティス(metis)の知性(→編首頁)として挙げた内容とかなり重なる。
③ 従って,一部の海域アジア論者が言うように,この文化モデルで海人や海民の説明ができる,というようなものではない。それは,彼らの定義付けもしくは属性そのものであって,いわば「パシシル」的傾向を持つ時空上の集団活動域を海域アジアと呼ぶのだから,彼らを説明する図式又はモデルはそれとは別のものでなければならない。 ギアツが言っているのは,彼らの有する通常の陸上民の有する社会的均一性を文化と呼ぶならば,いわば間-文化性とでも呼ぶべきカメレオン的傾向のことである。彼らは経済・社会・政治・軍事的状況によって何者にでも(時には陸上民にでも)なりうるし,そうすることによって生き継ぐ人々である。その可変性をギアツは新しいレベルでの文化と呼んだのである。