015-7仁保島\安芸郡四町\広島県onCovid


~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

予習又は復習:原爆を越え伝えられたもの

芸郡を半円を描くように歩いた当時、収集したデータから、その半円の中心になる位置に仁保島を「発見」した際のメモを最初に掲げます。ここまでで記したものと多少重複しますけど──

太田川河口の開拓史とかつての仁保島の形状

※ 後掲国土交通省水管理・国土保全局
(上:「開拓の経緯」全図 下:うち仁保島拡大)
※※ なお,太田川デルタの拡大については後掲「安芸の船越から」中「補足2、太田川三角州の発達」が最新考古学資料を元にまとめておられます。
URL:http://ww7.enjoy.ne.jp/~tfujise/ohta/delta3.html#ohta
 簡略に言うと,平均水面で8百年前には相生通り(そごう前の電車通り),4百年前には平和通りのラインです。

下も、本編の仁保歩き時に入手していた年表です〔後掲仁保公民館/仁保~黄金山まちあるきマップ〕。
 最初の「392年」の年記がまず誤記を疑いますけど、転記に間違いはありません。どうやら原典は邇保姫神社の社伝の年のようです。神功皇后が三韓征伐の帰途に当地で一泊、霊験を頂いた爾保都比売神を鎮祭した、という由緒からの算定年でしょう。

邇保姫神社HPトップ画面

392 邇保姫神社が皇后山(香護山)に遷座される。
885 邇保姫神社に豊前国宇佐ハ幡宮より分霊を勧請し正ハ幡宮となる。
1198 三浦大之助平重経が安芸国仁保島をもらう。その子孫三浦兵庫頭、仁保島城主となる(1591年)。
1221 武田信光安芸国守護職に任ぜられる。
1470 この頃から無城主状態が続き、邇保姫神社が仕切る。
1495 金山城主武田元信が府中域主白井光胤に仁保島と領海権を安堵する。
1498 白井氏への仁保島の安堵に激怒した大内氏が、仁保島奪還にかかる。大内方羽仁弥五郎軍と武田方白井光胤軍が相まみえる。羽仁弥五郎を打ち取り白井軍が勝利する(野山での合戦)。
1501 本浦に真言宗西福寺創立。
1524 大内義興自ら将として、一万旗をもって草津・仁保島の両城を攻め落とす(麦わらを敷いた谷)。
1526 府中城と仁保島域は、再び武田氏の支配下となる。
1554 毛利元就、金山・己斐・桜尾・仁保等の城を攻略し占領する。
1555 厳島の合戦。陶晴賢(大内氏の重臣)の武将三浦越中守房清、兵700余が軍船15隻に乗り、仁保島城に押し寄せ、南海岸(楠那)より上睦する。城将香川光景これを撃退。仁保島衆の瓢箪屋次郎五郎与三佐が活躍(押し切り谷での合戦)。
1589 毛利輝元が広島に築城を決定し、「広島城」と名付ける。仁保島城は輝元公逗留用のお座敷として一層堅固に増築される。
1597 玄清、廃寺となっていた西福寺(本浦)を再建した(頁言宗)。その後、浄土真宗に改宗して渕崎に移る。
1615 徳川家康、1国1城制を定め、仁保島城も廃域となる。
1624 比治山、仁保島、矢賀の問の干潟が新開となる。
   渕崎の吉和屋平次郎が牡蠣の篊立て養殖を始める。
1658 本浦の長三郎・御茶屋半三郎が、えびら海苔(広げて干した海苔)の製造を始める。
1662 東新開(東雲)、西新開(皆実)の開発が竣工し、睦続きとなる。
1722 竃神社勧請
1793 乍木に住吉神社勧請
1865 乍木の村木新次郎、渡辺栄次郎、広島の平岡屋と共同で伊予から技術工を招き、渕崎字皿山で製陶業を始める。約10年で廃業。
1873 童蒙舎(仁保小学校の前身)創立。
1874 仁富舎(仁1呆小学校の前身)創立。
1893 仁保島高等小学校創立。翌年、校舎を渕崎字大町に新築移転。
1917 仁保島村を仁保村と改める。
1929 仁保村、広島市に編入合併。
1964 仁保橋開通
1965 東洋大橋開通
1966 旧渕崎港が埋め立てられ、仁保保育園やマツダ研修センターが建設される。
   黄金橋開通
1981 仁保公民館開館

箇所しか出ないけれど、どうやら白井水軍の本拠です。ここまでも、安芸灘と太田川デルタの戦国史に「侵略者」として何度も名を残すことを確認してきた集団です。白井氏の下に糾合される以前から、海民の寄り付く島であったことは、おそらく神功皇后の出征に加勢したと想像されることからしても、確からしく思えるのです。
※史料初出は鎌倉中期頃の安芸国衙領注進状(田所文書)「迩保島四丁八反小」とおもわれる〔日本歴史地名大系 「仁保島村」←コトバンク/仁保島村〕。
 なお、次の理由から研究もややなおざりになってると、後掲中道2020は指摘します。

例えば薄田の『がんす横丁』シリーズに黄金山周辺地域は殆ど扱われていない。これは黄金山周辺地域も原爆被害を受けたものの,爆心地周辺部のように町そのものが消滅する状況ではなかったため,記述の優先度が下がったものと思われる。この現象は広島市中心部の文化を研究する際,向き合わざるを得ない「原爆の惨禍」に意識を向け関連文献・証言を紐解くと,「原爆の惨禍を乗り越え伝えられたもの」を見逃してしまう可能性が高まることを示唆している〔後掲中道2020〕

 一応のタイトルを安芸郡にしたので、府中・海田・坂の他に残る熊野町にも一日当てる気だったんですけど……おかげで回れたのは三町だけになっちゃいました。

バス停・市立工業高校前


島駅Cホーム15番乗場,4号線・仁保車庫行きを待つ。1007。
 目的地は一応、バス停・市立工業高校前ですけど……全くもって、地点の手がかりはありません。高校前の次のバス停名が邇保姫神社、ただそれだけです。
 1014、乗車。空は快晴ながら雲のかたちはすじ雲,秋が見えます。──暑さは変わらないけどね。
🚌治山線に沿いまず的場町。このラインから東は実はあまり歩いたことはありません。
 段原一丁目前で路面電車のルートから外れました。左折。三丁目。
 川に出る。静かな川辺です。海辺を感じさせる。町並みは新しいけれどどこかひなびてる。日出二丁目。比治山小学校裏。川辺を離れました。
 僅かに旧家らしき木造家屋もある。ad東雲本町はこの辺らしい。町の機能は揃っているけれど筆が立て込みしっとりしてる。
 前方に山影。1029まさに高校校門前で下車。

広島工業高校校門ライン。神社看板

ずは──バス進行方向そのままに仁保山を目指す。広島厚生病院の先にすぐ神社看板が見えました。安産・子育ての神と表示。ad東本浦町1。
 矢印に従い右折,概ね西行。1036。
 この右折路はまっすぐでブレがないけれど,高校奥から南の道はくねりがあります。上下の揺れも見てとれる。
広島工業高校校門ライン(2)

本浦町1ブロックがつまり高校らしい。町の中心を校地にした……というのはなぜでしょう。
 マスク焼けが酷い。小まめにマスクを外す。左手に「あい保育園仁保」。
 1044。郵便局を右手に見るけど神社が目に入らない。いきなりだけどGM.と位置情報をオン。
邇保姫神社(中央)と港と推定されるベルト(前面)

ーん……。校地から、西の畑のあるやや閑散としたベルト、この辺りが旧入江ではないでしょうか?
──この点は、別の想像もしました。遠浅の海中にある仁保島周辺は中型船の着ける湾入というものはなく、岬の先がむしろ船着に利用しやすかった。現・黄金山(仁保中学校)付近からS字の細い岬が北に突き出していて、その先に邇保姫神社が守護する船着があったのではないか?
仁保〜黄金山まちあるきマップ(一部)〔後掲仁保公民館〕

だこれは違う可能性が高い。
 平地の少ない広島市の宿命で、黄金山周辺もごっそりと崖際の開発と浅海の埋立が進行してます。後掲中道2020はこれを調べて図に落としており、それによると邇保姫神社周辺もかなり削り取られてます。
 つまり「岬」形状は、現代になってから造られた、と考えられます。
 実際この後歩いた感じでも、邇保姫神社へ高地が続いている感じはなく、むしろ低い河岸段丘のような平地に近い。従って現在の想像では──古い集落がこの微高地にあり、邇保姫神社付近を港にしていた、と考えるのが妥当だと思います。
新開土手築造及び新開埋立により削り取られた黄金山一帯の山々の図〔後掲中道2020〕

逆さ征矢の突き立つ聖域

手の新しい家屋筋に突き当たってから右折北行しよう。
 神社の横顔が見えてきた。浦の推測が正しいなら岬にあった神社になる。──とこの当時にも神社の位置からは直感しています。

本浦区域の入口からの旧家と思われる家並み

き当たり近くには、建て直してはいるけれど旧家が数軒並ぶ。T字、その真北が鳥居。
 やまりこの地点が湾奥だと思われる。
 ここに「半べえ庭園」がある。「昭和の小堀遠州」と評された回遊式庭園と案内板。豪邸があった跡ということか?
 この対面には建物名が分からないけれど平14築の氏子出資の神社会館らしきもの。これは……かなり本気の氏子集団です。
 関連プログには、比治山の姫神社とこの邇保姫神社について、いずれも共通して地元民との一体感が凄いと書くものがあります。
邇保姫神社の突出した入口と逆さ征矢

100。もちろん神社内へ入りたいんだけど、入口の外観が気になってなかなか入れない。
 というのは──参道の先が舳先のように突出してます。この突出部は、鳥居より前面にあり,矢を地に突き立てた形状の鉄塔を据えてある。これが道路敷地との境界になってるのです。
 神功皇后の由緒を形象化したものでしょう。ただ余りに前面に出過ぎてます。マスコットとかトレードマークという域を越え、まるで突き立て矢が聖域を設定してるようです。
神社入口左手の石垣

手の石垣はかなり古い。
 やや乱積みじみてる。しかも一部が丸く突出してる。この形状は……何の用途の構造だろう?
 鳥居前に戻る。凄まじい数の白提灯が二段に並びます。……と、外観の形象が特異過ぎます。
二段に参道を埋める白提灯

かふかき島は七浦

段下に邇保姫神社略記。
 帯中津日子神は仲哀天皇です。つまり仲哀・応神二帝と神功皇后の3者と、邇保都比賣神を併置した4柱を祭神に据えてます。

御祭神
邇保都比賣神(にほつひめのかみ)
帯中津日子神(たらしなかつひこのかみ)
息長帯比賣神(おきなかたちひめのかみ 神功皇后)
品陀和氣神(ほんだわけのかみ 應神天皇)
配祀末社四前
氏宝社 大穴牟遅神(おおなむちのかみ)
稲生社 宇迦御魂神(うかみたまのかみ)
曽我社 須佐之男命(すさのおのみこと)
大歳社 事代主神(ことしろぬしのかみ) 大年神(おおとしのかみ)
摂社七前
■崎 竈神社
日字那 新宮神社
丹那 穴神社
大河 眞幡神社
十軒屋 稲生神社
元宇品 住吉神社
似島 竈神社
以上七前は各町に斎祀している〔案内板〕

 少し先回りですけど──本殿脇に次のような「十社巡り」という邇保姫神社の摂社巡りマップがありました。上記「七前」は各浦の神で、要するにありし日の「仁保島」の海岸線を示しています。

「十社巡り」マップ

宮・邇保姫神社と宇品の住吉社、黄金山南海岸の新宮社の3社を、先の「七前」7社に加えて10社と数えるらしい。
 興味深いのはこの「七」の浦数が、小野篁※のものとされる和歌に共通することです。

※おののたかむら。802(延暦21)年生-853(仁寿2)年没。834(承和元)年〜838(承和5)年の間、三度遣唐副使に任ぜられるが、いずれも失敗。三度目の渡唐時の経緯で嵯峨上皇を激怒させ隠岐国へ流罪されるも、二年後に赦され没時に参議左大弁従三位。「七浦」歌をいつ詠んだかは定かでなく、そもそも歌集に収められた歌ではないので小野篁作かどうかも確証はないけれど、渡唐時か遠流時に安芸を通過した可能性はある。

大河、丹那、日宇那、祚木、渕崎といった地名は、もともとは大河浦、楠那浦、日宇那浦、祚木浦、渕崎浦であり、現在、邇保姫神社の鎮座する本浦もかつては香浦・後浦・帆浦と呼ばれていた。いわゆる仁保七浦・仁保島七浦だが,七浦については香川南浜が、小野篁の詠んだと伝わる「入船の二十浦かけて十島なるなかにかふかき島は七浦」の七浦を厳島ではなく仁保島と解し、具体的に地名を示した「おほかう たんな ひうな ふちざき ほうら むかひなだ はゝそぎ是なり」(「秋長夜話」)の記述が有名である(3)。そうした黄金山周辺地域の地理を久保定夫は以下のように表現している。


 現在この島にはいろいろ昔の地名が残っている。「本浦」の地名は「帆浦」で、沖から入ってくる舟がこの地で、南風をさえぎられ、帆がはたはたと裏をかくから帆浦の名が生まれたとも聞いているし、また、六軒の人家がこの地に住みついたのが始まりで「本浦」ともいわれるようになったと聞いている。流れの早い所を「渕崎浦」、日を東に拝む「日宇那浦」、夕日を望む「丹那浦」、西に大きな流れを見る「大河浦」、向かいの洋の「向洋浦」など、七ツの浦が山の麓にあり人が住んでいる。宮島にも七つの浦があるが、こっちが本家であるように聞いている。大河には「三軒屋」・「十軒屋」の地名があるが、これは住んだ人家の数を表わした地名であろう。祚木には「皿山」の地名があるが、ここで皿を焼いた技の地名である(4)。〔後掲中道2020〕

※原注3 広島県『広島県史 近世資料集6』広島県 昭和51 P403
4 久保定夫「仁保島のあれこれ」(広島市立仁保小学校編集委員編「かおり 創立百周年記念誌」広島市立仁保小学校 昭和47 P18)

「かふかき」は「香深き」と解されることが多いようですけど、その用例は他に見当たらず、何らか他の意味を持つ可能性も高い。従って「二十浦(はたうら)かけて十島(としま)なるなかにかふかき島」がどういう意味なのか、20と10と7がどういう包含関係なのかも分かりにくいし、そもそも安芸で歌ったものかも確かでなく、正確には解し難い。でもとにかく「七浦」という地名が歌われ、安芸ならば宮島か仁保島しか考えにくい、という淡い根拠です。元は、香川南浜(かがわなんぴん)という江戸中期の儒者の説らしい。〔1734-1792。デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「香川南浜」←コトバンク/香川南浜〕
 また、仮に「七前」が小野篁の七浦ならば、本浦は七浦に数えられていません。七浦よりさらに「香深き」特別な浦だったのか、七浦より新しい浦なのか。

(この矛盾が生じないよう、邇保姫神社公式サイト〔後掲/「仁保について」〕は七浦を本浦・渕崎浦・向灘浦・堀越浦・日宇那浦・丹那浦・大河浦とし、神社の所在する本浦が七浦に含む形で数えています。)


居前の矢に、いい加減話を戻します。
 邇保姫神社における「矢」は、神功皇后が「此所に一夜御宿陣になり」「翌日御出発の際、邪氣払のため白羽の征矢をお放ちになったところこの山に止まった。その矢も納めて島の鎮守とした」ものという。
「第九十二代伏見天皇の御宇正應元戌子年(一二八八年)三浦公の特意をもって、社領三十石を附されたが 慶長年中福島公の時、盡く召し上げられた。
 明治四十二年二月神■幣帛料供進神社に指定された。」とある。この第一段に由緒の石碑が数多くあるのに明治以前のものがないのは、少なくとも江戸期に廃れていたのが明治以後に復興されたからでしょうか。
 さて1136、やっと登りにつきます。記録の間に藪蚊の餌食になってしまいましたし。

本殿前は生活神社感満点

物自体は平19の「不審火」(氏室社前石碑「みちのり」)で全焼後の再建です。
 にしても……えらくごちゃごちゃした本殿前です。何か生活神社という感じで、好い。にも関わらず祝詞はひっしりなしに聞こえる。中国の路地奥の社みたいです。

2600年の仁保・大河・楠那國民學校

サンフレッチェを応援してます!

となくポカポカして安心しとると、けれどここはガツンと突然硬派になる。
「邇保姫神社八幡神合祀壱千百参拾年記念石碑」??(下画像)
 石碑は新しい。2010年起点と考えて 2010-1130=880。
八幡神社合祀××年記念?

──る程。前掲の、宇佐ハ幡からの分霊勧請年885年(→前掲年表)をカウントしてるらしい。
 ただそれを「創始」と言わず「八幡神合祀」と書くのは、392年始原説を決して無視していない、という微妙なスタンスです。
参道とその向こうの本浦を見下ろす

午ジャスト、下界へ。
 集落を歩かなきゃならんのですけど──入口の石碑群にまた捕まってしまいました。
 入口左手すぐに二千六百年記念石碑。その裏面に「仁保 大河 楠那 國民學校」名の寄附碑?
3国民学校合同寄付

W2直前のこの時代、対外圧力を跳ね返す祈願を学校を挙げて行ったのでしょうか?
サッカー部も寄付

手には山陽高校サッカー部OB会の平10石碑。かと思えば「結婚記念」とある石碑も?
 何かあれば浄財する、そういう社らしい。
結婚記念でも寄付

1210。鳥居の右手西側の前掲・丸出っ張り石垣の住所を再確認すると、ここは何と個人宅でした。ad西本浦町13。
 邇保姫神社の登録住所は西本浦町12。
 何か、他の寺院と違うのです〔巻末参照〕。

邇保姫社-本浦公園間500m

つもなら、とにかく歩いてみるんですけど……歩くヴィジョンが湧きません。
 さっきの旧家っぽいラインから南だと思う。その西側地区の南が大河で、気になる任侠的な名前もある。つまり古い土地のはずなんだけど──どうも、集落の本来形が見えない。
 よし。闇雲に歩くしかないっしょ、こりゃあ。

側溝の底面が古い

溝に相当古さと、それ以上に使い込まれた気配があります。1230。ad本浦町6。
 5から6の湾曲部。道のコンクリの接合のつぎはぎが激しい。道の側面もガタガタで、何度かに渡って小出しに増設されてるようです。
本浦メインロード湾曲部

237。ad6から路地裏に入ってみる。
 家は全く新しい。道の傾向は先と同じです。うーん。
本浦町12辺り

d本浦町12。右折、暗きょを追ってみます。
 ad23でさらに右折。
 右側、ad10。
23~10の路地

段が多い坂だなあ……と思ってるうちに。
 お?おお〜!!
 最後は階段になって?広島市街の仁保で来る覚悟をしてなかった半壊した山小屋の尾根へ!?
不思議な細長い家の脇道から団地との境界面の公園へ

の上は、団地と傾斜の不整合地に造ったらしき公園(本浦第一公園→GM.)。
 西は何と団地でした。
 不思議な土地です。新旧がモザイクになってる。
──何を言ってるのか分かりにくいと思います。邇保姫神社から本浦第一公園までの地図を掲げてみます。二地点の直線距離は、500mありません。
(右上)邇保姫神社〜(左下)本浦第一公園

西から北へ団地は伸びて、そのぐるりと回り込んだ先が邇保姫神社です。
 この段丘は、予想以上に激しい起伏を示してます。試みにアナグリフに落とすとこんな図が出てきます。
同エリアのアナグリフ

少し遠望してみます。
 目の前の、そう遠くない場所を坂への自動車道が横切ってます。だから眼下にかつて湾があり、海があり、舟が行き交ったことは確かなのに──実際の眺めには全くそういう風貌がないのです。
 かほどに安芸の歴史は、すっぽりと現地形に隠れてる。
境界面公園から東を見下ろす

、当時気づけなかったけれど、この公園の北には平和山妙光寺があります。讃岐・善通寺の広島別院として建てられた戦後創始の寺のようです。
 広島市内で被爆した開祖・渡辺妙光師が知人の香取正彦氏(1899-1988)に依頼制作した平和の鐘が、毎朝8時15分に鳴らされます〔後掲妙光寺、広島ぶらり散歩/妙光寺〕。

大河峠の谷を下る

段差下への階段

258、公園から南への細道で下降。GM.その他の地図にはない道でした。
 ここは20m以上の段差の崖になってます。
本浦第一公園〜案内地蔵 集落地図

果的に、この崖下から東へのベルトが集落としては最も面白かった。本浦エリアの中でどういう区域なのかは、やはり想像できませんけど……。
段差下の細道

301崖途中、ad22で左折。やはりGM.にない道。
 家の玄関で途絶えるか、と何度か思える光景になりましたけど……抜け道としては地元で認識されてるらしく、すれ違う人あり。
細道から海田方向望見

の写真など見ると、古くはもう少し戸数があったようにも思えます。位置的には信じ難いのですけど……。
野に埋もれる空き地もあり。彼岸花が溺れてる。

の配置は乱雑です。確実に道より先に家が建った土地です。
 気付くと、黄金山が静かに姿を現していました。
細道脇より黄金山

信できてきた。やはりここは「島」だったのだと。漁村の山手の土地利用によく見られる景色と手触りです。
それが東から北へと覆う、まるで原爆を予見したかのような尾根の配置で、守られて今を迎えている、ように思えてきました。
物語のような石垣と菜園と民家の道

案内地蔵の指す方へ

かしら幻想的なほど、平穏な斜面が続きます。
 広島市の市街とは思えない。

駐車できない駐車スペース

車スペースを半ば占領してる花畑。パティオのような場所にも見えますけど……確証は全くありません。
 1311、ad21。おそらく最初の暗きょ筋に戻ったと思うけど……もうよく分かりません。
本浦町住所表示と紫花

内地蔵」と仁保郷土史会看板。1313、ad12。

毛利時代(一五〇〇年代後半)からあったといわれ,観音寺と火葬場への道しるべとして立てられたといつ話や、昔この付近に出没したかわうそのいたずらを封じるために建てられたという話が伝わっています。
 地蔵尊が観音寺の参道に向いて指さす姿に彫られているので、いつしか人々から案内地蔵と呼ばれるようになったといわれています。
 昔は,ここから右に行くと大河峠です。
【協賛】本浦共有財産管理運営委員会
【製作協力】広島市立広島工業高等学校 (全文)

 何を案内してたか、既に分からん案内地蔵らしい。ただ、やっと公園下からの谷の奥地名「大河峠」が分かりました。
──それと、「仁保郷土史会」のことです。この会の記述には、よく読むと凄い内容が書かれます。

案内地蔵は左を指さす

邇保姫神社-黄金山の大湾曲

保島には古代から人々が住み始め、漁業と山畑農業をしながら暮らしていました。仁和年間(885〜889年)には早くも安芸国沿岸部で隆盛を極めたと言われています。
「それは広島湾内に入るすべての船が仁保島の領海を通らなければならなかったからです。湾内には浅瀬や岩礁が多いため水先案内人が必要となり、そこから得る通行料などの収入が島を潤していたんです」。海に詳しい島民たちは「仁保島衆」と呼ばれ、水軍として戦える高い能力を備えていました。〔後掲広島県共済〕

「仁和年間(885〜889年)」は前掲・宇佐ハ幡からの分霊勧請年885年(→前掲年表)に重なります。
「水先案内人」として収入を得つつ「水軍として戦える高い能力を備え」た集団とは、まさに海賊を指します。その集団名として、他にない「仁保島衆」という名も記されます。
 1322。地蔵の指さす方へ進んでみましょう。

四字対聨の登り道

字対聨、1324。大正二年設置。
 1326車道。ad仁保一丁目57?
 1328。いや?adは黄金山町11になったぞ??
 前方に花を手に坂を苦しげに登る老夫婦。ということは墓持ちの大きな寺なのか?
邇保姫神社〜案内地蔵付近 陰影起伏図

から振り返って見下ろすと、黄金山から北に突き出た岬は、一山大きいコブを作ってから右手に湾曲して邇保姫神社のある先端部に続いてる。この途中のコブがよく分からないんだけど、三階建て、屋上が円形になってる建物が見える(旧NTT中継所)。
 1338。やはり登ろう、と決めました。

巨大なる仁保島村海域

墓地と地蔵堂

340、やはり墓地に出ました。小さな祠に仁保本浦観音寺墓地と表示あり。
 顕彰碑3つ。うち左手に「道路改修碑 仁保島村長 中川矩三郎書」と書かれてます。裏へ回ると大正二年十月記銘。
「仁保島村」の文字に何となく興奮して撮影

区仁保(にほ)一―四丁目・仁保新(にほしん)町一―二丁目・東本浦(ひがしほんうら)町・西本浦(にしほんうら)町・本浦町・北大河(きたおおこう)町・南大河(みなみおおこう)町・山城(やましろ)町・丹那(たんな)町・丹那新(たんなしん)町・楠那(くすな)町・日宇那(ひうな)町・黄金山(おうごんざん)町・元宇品(もとうじな)町・宇品町・似島にのしま町・仁保町・向洋本(むかいなだほん)町・向洋中(むかいなだなか)町・向洋大原(むかいなだおおはら)町・月見(つきみ)町・堀越(ほりこし)一―三丁目・青崎(あおさき)一―二丁目・東青崎(ひがしあおさき)町
広島湾奥東部、府中(ふちゆう)村(現安芸郡府中町)の西南に浮ぶ仁保島を中心とし、猿猴(えんこう)川を隔てて東の向灘(むかいなだ)浦と、南方海上の金輪(かなわ)島・宇品島・似島・峠(とうげ)島・珈玖摩(かくま)島(弁天島)・小珈玖摩島(小弁天島)を村域とするが、各島とも平地は乏しい。このうち仁保島と向灘は近世に、宇品島は明治二二年(一八八九)の宇品築港でそれぞれ陸続きとなった。安芸郡に属した。〔日本歴史地名大系 「仁保島村」←コトバンク/仁保島村〕

 コトバンクは「[現在地名]」として上記を掲げるけれど、無論、過去の地名です。1917(大正6)年に「島」字が消えて仁保村となり、1929(昭和4)年広島市編入合併で行政組織としては廃止〔wiki/仁保村 (広島県)〕。
 にしてもこのエリア構成から再現すると往時の仁保島村は──現・宇品港からJR向洋までを含む、つまり地理上の島の両岸の総称、という感覚の「海域」を指したことになるのです。
 試みに、上記地名から粗く地図に境界線を引いてみると、こんな歪な区域になります。この不整形はどう解釈したらよいのか──例えば、なぜ似島が属さないのか?近代に海軍が拠点としたほどの好地・江田島がなぜ外れていたのか?

仁保島村域の粗い再現図

となく目的地に達した気分になりかけてました。でも、ここは「観音寺への急な坂の途中にあるお堂」(本浦の史跡 本浦の六地蔵尊 案内板)らしい。
 再三、帰りたくなったけど……ええい!と坂上へ。

内蒙古747高地 1939.8.24

おそらく北清事変(義和団の乱)での戦死者。五里台で没と記す。

地。凄い銘が残ります。
 上記五里台は中国では一里塚のような地名なので特定しにくい。戦死報告に書かれていたのを転記したのでしょう。
 ほか、逆光で写らない墓記銘に「昭和拾四年八月貮拾四日午后七時満州国與安北省新巴爾虎左翼旗七百四拾七高地に於て戦死」。──この新巴爾虎左翼旗は確認できました。現・内モンゴル自治区です(→GM.)。1939年8月ですからノモンハン事件。
ノモンハン周辺図中ノロ高地部分〔後掲高橋〕※ピンク:747高地

47高地は最末期の激戦地ノロ高地の一角(ヨナ高地)です。同年7月20日に「黒山のような」※ソ連軍歩兵の攻撃を受け、8月25日の撤退命令前後には少なくとも7割死傷。

※原典:森山康平『はじめてのノモンハン事件』PHP研究所〈PHP新書〉、2012年 

 この仁保の骨の主は、撤退命令前日に亡くなっています。
 勇戦の墓碑の先、梵潮山観音寺本堂に至る。1410。

咀嚼出来ずにどう帰ろう?

仁保・観音寺本堂を北正面より

堂前庭を囲むように石仏。異様な場です。

本浦の史跡 石仏
この左右合わせて36体の石仏は、三浦兵庫頭元忠の時代のものです。元忠は観音寺に禄として八十石と六町八反の田畑を与えていましたが、地元の人々はその土地を借り受け小作をしていたわけです。その畑地ごとに,管理しやすいよう、番号を振った石仏を置いたのでしたが(略)明治24年頃、観音寺に大切に移されたということです。〔案内板〕

番号入り仏像群

浦兵庫頭元忠の支配というのも、はっきりとはしません。この人物は実在は確かですけど、元は神田姓、秀吉の島津征伐に毛利氏陣代として参加した後の1587(天正15)年以降、仁保氏の旧姓・三浦氏を名乗ってます。ただこの仁保氏は周防の氏族で安芸・仁保島とは関係ない。関係ないのに上記通り1591(天正19)年に仁保島を支配。ただしwikiは「城代」と書く〔wiki/三浦元忠〕。

観音寺
 仁保島城の城主であった三浦兵庫頭元忠が菩提寺として建立し,そのときの山号は黄金山でしたが,慶長年間(一五九六年~一六一五年)に梵潮山と改称されました。元忠が在勤したのは天正十九年(一五九一年)から慶長元年(一五九六年)の期間であり,この寺の創建はその初期の頃と推定されます。
 その後,江戸時代には衰微し,無住職となっていましたが,正保年間(一六四四年~一六四七年)に興禅寺の僧雲嶺によって再建されました。[前掲仁保郷土史会]


596年というのは三浦元忠の死亡年です。この間、元忠は朝鮮出兵で渡海しているので、年表上はあまりに薄い5年間なんですけど──仁保島にはその事蹟が残り、かつ死没年にすぐに三浦氏の号したと思しき「黄金山」号は改名され、かつ半世紀放置されてます。つまり同時代の地元では忌み嫌われてる。
 事蹟は水軍家っぽいので、仁保島からの徴兵のため苛烈な支配となったのでしょうか?……にしてはキチンと再興され、しかも黄金山地名は現代に蘇ってる。
 色々と、咀嚼しにくい。
 消化に悪いついでに──こんな心を乱す案内もありました。

梵潮山観音寺の宗派は真言宗で,ご本尊は准てい観音様です。(略)六観音様の中で唯一の女性の観音様で(略)真言は「オン・シャレイ・シャレイ・ソンデイ・ソワカ」です。
[本浦共有財産管理運営委員会張り紙「梵潮山観音寺のご本尊様について」]

 なぜ三浦氏が、女性性の強い観音をこの時期に据えたのか……推定できないにも程があります。

てさて?ここからどうやって帰ろうか?
 信じられないことに、この南には中学校がある(広島市立仁保中学校)。ということは彼らがバス停から通ってるわけで,その道で帰る、というのが最もリスクは少ないでしょう。
──いや?ちょっと待てよ?
 この観音寺は北東方向を向いている。つまり中学校を背にすると、前面が竹林で覆われ、確かにそちらには道はない。
──この竹林がなければ,ここでの灯火は遠方海上から見えたのではないか?──と再び中世近世に思考が飛ぶ。
 つまり、観音寺は北側の本浦集落と接続されているはずです。そう目星をつけてしばらく見てると……前面の道に上がっているバイクに気づきました。道はあるはずです。寺前面の竹藪の右手北側へ回ってみる。1445。

見通せぬ坂道。知らんけど。

段々畑状の謎の市有地から市街を見下ろす

通しの悪い坂の藪道を下っていくと──さっきの登り道の途中に出ました。何じゃ、それだけかい。
 この途中に何段もの石垣の,広さからして住宅地が現れます。何の跡でしょう?所々に家はあるんだけど、なぜ空き地のままなのか分からない。工業団地だったにしては小規模すぎるし……広島市の管理地表示があり公用地らしい。
 この裏が竹林です。もし江戸期より前それがなければ──
仁保・観音寺と二葉山・古天神の可視(海)域及び岩鼻の位置イメージ

保島に東から近づく船舶から目立つ灯火の位置だった……と思う。知らんけど。
 これを、二葉山・古天神からの起伏込の可視域(2km想定)を取れば、二地点からの監視域は旧太田川河口を完全に網羅し得たのではないか……とその時は思いました。知らんけど。
帰路に見つけた「黄金伝説」地図。曰く「山中で南天の白い実をみつけ、その下を掘れば黄金がでてくる。 」。観音寺から南に仁保城,南西に馬頭観音。さて黄金はどこに埋めてある?

1514、バス停・本浦。1528の4番バスがあるらしいので待つことに。
 この前面、6軒の長屋スペースでうち3軒、はっきり水商売のお店。つまり漁師町の歓楽街なわけだけど──
本浦町の歓楽街

うも……なぜここに?という感が否めない。
 下った道の向こうはad東本浦町25。もしかすると東西本浦の境が「アジール」だったのでしょか?
 とにかく集落全般に渡って、コアとかラインがどうも読めない。
 かといって、それが破壊し尽くされている訳でもない。
 幻想の港町を脳裏に描き始めると、何枚もの妄想画が描けてしまう。その誘発する魅力に事欠かない、仁保島は、沼のような土地なのでした。潜らなければ触れないけれど、潜ってしまうと見えなくなる。