015-7仁保島\安芸郡四町\広島県onCovid

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~

太田川河口の開拓史とかつての仁保島の形状
※ 日本の川 – 中国 – 太田川 – 国土交通省水管理・国土保全局
(上:「開拓の経緯」全図 下:うち仁保島拡大)
URL:https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0710_ootagawa/0710_ootagawa_01.html
※※ なお,太田川デルタの拡大については前掲「船越から」中「太田川三角州の発達」が最新考古学資料を元にまとめておられます。
URL:http://ww7.enjoy.ne.jp/~tfujise/ohta/delta3.html#ohta
 簡略に言うと,平均水面で8百年前には相生通り(そごう前の電車通り),4百年前には平和通りのラインです。

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際は,この仁保歩きを終えてから入手したものなのですけど──
仁保~黄金山まちあるきマップ
392 邇保姫神社が皇后山(香護山)に鎖座される。
885 邇保姫神社に豊前国宇佐ハ幡宮より分霊を勧請し正ハ幡宮となる。
1198 三浦大之助平重経が安芸国仁保島をもらう。その子孫三浦兵庫頭、仁保島城主となる(1591年)。
1221 武田信光安芸国守護職に任ぜられる。
1470 この頃から無城主状態が続き、邇保姫神社が仕切る。
1495 金山城主武田元信が府中域主白井光胤に仁保島と領海権を安堵する。
1498 白井氏への仁保島の安堵に激怒した大内氏が、仁保島奪還にかかる。大内方羽仁弥五郎軍と武田方白井光胤軍が相まみえる。羽仁弥五郎を打ち取り白井軍が勝利する(野山での合戦)。
1501 本浦に真言宗西福寺創立。
1524 大内義興自ら将として、一万旗をもって草津・仁保島の両城を攻め落とす(麦わらを敷いた谷)。
1526 府中城と仁保島域は、再び武田氏の支配下となる。
1554 毛利元就、金山・己斐・桜尾・仁保等の城を攻略し占領する。
1555 厳島の合戦。陶晴賢(大内氏の重臣)の武将三浦越中守房清、兵700余が軍船15隻に乗り、仁保島城に押し寄せ、南海岸(楠那)より上睦する。城将香川光景これを撃退。仁保島衆の瓢箪屋次郎五郎与三佐が活躍(押し切り谷での合戦)。
1589 毛利輝元が広島に築城を決定し、「広島城」と名付ける。仁保島城は輝元公逗留用のお座敷として一層堅固に増築される。
1597 玄清、廃寺となっていた西福寺(本浦)を再建した(頁言宗)。その後、浄土真宗に改宗して渕崎に移る。
1615 徳川家康、1国1城制を定め、仁保島城も廃域となる。
1624 比治山、仁保島、矢賀の問の干潟が新開となる。
   渕崎の吉和屋平次郎が牡蠣の篊立て養殖を始める。
1658 本浦の長三郎・御茶屋半三郎が、えびら海苔(広げて干した海苔)の製造を始める。
1662 東新開(東雲)、西新開(皆実)の開発が竣工し、睦続きとなる。
1722 竃神社勧請
1793 乍木に住吉神社勧請
1865 乍木の村木新次郎、渡辺栄次郎、広島の平岡屋と共同で伊予から技術工を招き、渕崎字皿山で製陶業を始める。約10年で廃業。
1873 童蒙舎(仁保小学校の前身)創立。
1874 仁富舎(仁1呆小学校の前身)創立。
1893 仁保島高等小学校創立。翌年、校舎を渕崎字大町に新築移転。
1917 仁保島村を仁保村と改める。
1929 仁保村、広島市に編入合併。
1964 仁保橋開通
1965 東洋大橋開通
1966 旧渕崎港が埋め立てられ、仁保保育園やマツダ研修センターが建設される。
   黄金橋開通
1981 仁保公民館開館▼▲

1007 広島駅Cホーム15番乗場,4号線・仁保車庫行きを待つ。目的地は市立工業高校前。
この旧仁保島行きは全くもって手がかりはない。高校前の次のバス停名になってる邇保姫神社があるだけです。
ただ比治山にも姫神社があり,いずれも地元民との一体感が凄いと書くプログがあり,大変興味がある。本来熊野に当てる気でいた1日を仁保島に投ずる気になったのです。
1014乗車。空は快晴ながら雲のかたちはすじ雲,秋が見える。暑さは変わらないけどね。

比治山線に沿いまず的場町。このラインから東は実はあまり歩いたことはない。
段原一丁目前で路面電車と別れる。左折。三丁目。川に出る。静かな川辺です。海辺を感じさせる。町並みは新しいけれどどこかひなびてる。日出二丁目。比治山小学校裏。川辺を離れる。
僅かに旧家らしき木造家屋もある。ad東雲本町はこの辺らしい。町の機能は揃っているけれど筆が立て込みしっとりしてる。
前方に山影。1029まさに高校校門前で下車。
まずはバス進行方向そのままに仁保山を目指す。広島厚生病院の先にすぐ神社看板が見えた。

広島工業高校校門ライン。神社看板

安産・子育ての神と表示。ad東本浦町1。矢印に従い右折,概ね西行。1036
この右折路はまっすぐでブレがないけれど,高校奥から南の道はくねりがある。上下の揺れも見てとれる。
広島工業高校校門ライン(2)

東本浦町1ブロックがつまり高校らしい。町の中心を校地にというのはなぜでしょう。
マスク焼けが酷い。小まめにマスクを外す。左手に「あい保育園仁保」。
1044郵便局を右手に見るけど神社が目に入らない。いきなりだけどGM.と位置情報をオン。
校地から西の畑のあるやや閑散としたベルトが旧入江ではないか?
邇保姫神社(中央)と港と推定されるベルト(前面)

山手の新しい家屋筋に突き当たってから右折北行しよう。神社の横顔が見えてきた。浦の推測が正しいなら岬にあった神社になる。
本浦区域の入口からの旧家と思われる家並み

この突き当たり近くに建て直してはいるけれど旧家が数軒並ぶ。T字北が鳥居。やまりこの地点が湾奥だと思われる。
ここに「半べえ庭園」がある。「昭和の小堀遠州」と評された回遊式庭園と案内板。豪邸があった跡ということか?
この対面には建物名が分からないけれど平14築の氏子出資の神社会館らしきもの。かなり本気の氏子集団です。
邇保姫神社の突出した入口と逆さ征矢

1100神社内へ。参道の先が舳先のように突出してます。鳥居より前に,間違いなく矢を地に突き立てた形状の鉄塔。
神社入口左手の石垣

左手の石垣はかなり古い。やや乱積みじみてる。しかも一部が丸く突出してる。何だろう?
凄まじい数の白提灯が二段に並ぶ。
二段に参道を埋める白提灯

邇保姫神社略記
御祭神
邇保都比賣神(にほつひめのかみ)
帯中津日子神(たらしなかつひこのかみ)
息長帯比賣神(おきなかたちひめのかみ 神功皇后)
品陀和氣神(ほんだわけのかみ 應神天皇)
配祀末社四前
氏宝社 大穴牟遅神(おおなむちのかみ)
稲生社 宇迦御魂神(うかみたまのかみ)
曽我社 須佐之男命(すさのおのみこと)
大歳社 事代主神(ことしろぬしのかみ) 大年神(おおとしのかみ)
摂社七前
■崎 竈神社
日字那 新宮神社
丹那 穴神社
大河 眞幡神社
十軒屋 稲生神社
元宇品 住吉神社
似島 竈神社
以上七前は各町に斎祀している

「十社巡り」マップ

少し先回りになるけど本殿脇に「十社巡り」という邇保姫神社の摂社巡りマップ

矢は,神功皇后が「此所に一夜御宿陣になり」「翌日御出発の際,邪氣払のため白羽の征矢をお放ちになったところこの山に止まった。その矢も納めて島の鎮守とした」ものという。
「第九十二代伏見天皇の御宇正應元戌子年(一二八八年)三浦公の特意をもって,社領三十石を附されたが 慶長年中福島公の時,[儘-イ」く召し上げられた。
明治四十二年二月神■幣帛料供進神社に指定された。」とある。この第一段に由緒の石碑が数多くあるのに明治以前のものがないのは,少なくとも江戸期に廃れていたのが明治以後に復興されたからでしょう。
1136やっと登る。藪蚊の餌食になっていた。

本殿前は生活神社感満点

建物自体は平19の「不審火」(氏室社前石碑「みちのり」)で全焼後の再建
えらくごちゃごちゃした本殿前で,何か生活神社という感じで好い。にも関わらず祝詞はひっしりなしに聞こえる。中国の路地奥の社みたいです。

サンフレッチェを応援してます

八幡神社合祀××年記念?

邇保姫神社八幡神合祀壱千百参拾年記念石碑??
参道とその向こうの本浦を見下ろす

1200下界へ。

3国民学校合同寄付

入口左手すぐの二千六百年記念石碑の裏面に「仁保 大河 楠那 國民學校」名
右手には山陽高校サッカー部OB会の平10石碑。かと思えば「結婚記念」とある石碑も?
サッカー部も寄付

結婚記念でも寄付

1210右手の丸出っ張りは個人宅でした。ここはad西本浦町13。
本浦の本集落はどう連なってるんだろう?
本浦地域onGM.

GM.で引くと,先の半べえ庭園より南側らしい。昔の配置が見えなくなってくるけれど,

西本浦 ⛩️ 東本浦
   本 浦

という並びになっているなら,元の浦はどこにあったのでしょう?
とにかく本浦地区を歩いてみる。さっきの旧家っぽいラインから南だと思う。
水分補給しつつGM.航空地図を見ると,この本浦地区は尾根の東西で全く町の造りが違う。原爆だろう。その西側地区の南が大河で,気になる任侠的な名前もある。
どうも集落の本来形が見えない。

側溝の底面が古い

1230側溝に相当古さと,それ以上に使い込まれた気配があります。ad本浦町6
5から6の湾曲部。道のコンクリの接合のつぎはぎが激しい。道の側面もガタガタで,何度かに渡って小出しに増設されてる。
本浦メインロード湾曲部

1237ad6から路地裏に入ってみる。家は全く新しい。道の傾向は先と同じ。
本浦町12辺り

ad本浦町12。右折し暗きょを追ってみる。
ad23でさらに右折。
23~10の路地

右側ad10。
石段が多い坂から最後は階段になって,上の層の団地との間の公園に出た。不思議な土地です。新旧がモザイクになってる。
不思議な細長い家の脇道から団地との境界面の公園へ

この団地の尾根の北の先が邇保姫神社である。目の前の,そう遠くない場所を坂への自動車道が横切る。だから眼下にかつて湾があり海があったことは確かなのに,直視するとそういう風貌がない。
境界面公園から東を見下ろす

1258公園から南の細道で下降。ここは20m以上の段差の崖になってます。
1301ad22で左折
段差下への階段

段差下の細道

細道から海田方向望見

野に埋もれる空き地もあり。彼岸花が溺れてる。

細道脇より黄金山

確信できてきた。やはりここは「島」だったのだと。漁村の山手の土地利用によく見られる景色と手触りです。
それが東から北へと覆う,まるで原爆を予見したかのような尾根の配置で,守られて今を迎えている。
物語のような石垣と菜園と民家の道

駐車できない駐車スペース

駐車スペースを半ば占領してる花畑

1311ad21おそらく最初の暗きょ筋に戻ったと思うけどもうよく分かりません。

本浦町住所表示と紫花

案内地蔵は左を指さす

1313ad12。「案内地蔵」と仁保郷土史会(!)看板。
「毛利時代(一五〇〇年代後半)からあったといわれ,観音寺と火葬場への道しるべとして立てられたといつ話や,昔この付近に出没したかわうそのいたずらを封じるために建てられたという話が伝わっています。
 地蔵尊が観音寺の参道に向いて指さす姿に彫られているので,いつしか人々から案内地蔵と呼ばれるようになったといわれています。
 昔は,ここから右に行くと大河峠です。
【協賛】本浦共有財産管理運営委員会
【製作協力】広島市立広島工業高等学校(全文)」

1322指さす方へ進んでみる。

四字対聨の登り道

1324四字対聨。大正二年設置。
1326車道。ad仁保一丁目57?
1328いや?ad黄金山町11??
前方に花を手に坂を苦しげに登る老夫婦。ということは墓持ちの大きな寺なのか?
この坂から見下ろすと,黄金山から北に突き出た岬は,一山大きいコブを作ってから右手に湾曲して邇保姫神社のある先端部に続いてる。この途中のコブがよく分からないんだけど,三階建て,屋上が円形になってる建物が見える。昔でいう黄金山レストハウスというのがあれだろうか?
1338やはり登ろう。

墓地と地蔵堂

1340墓地。小さな祠に仁保本浦観音寺墓地とある。

顕彰碑3つ。うち左手に「道路改修碑 仁保島村長 中川矩三郎書」
裏へ回ると大正二年十月記名

「仁保島村」の文字に何となく興奮して撮影

いや?ここは「観音寺への急な坂の途中にあるお堂」(本浦の史跡 本浦の六地蔵尊 案内板)らしい。
かなり帰りたくなったけど……ええい!
おそらく北清事変(義和団の乱)での戦死者。五里台で没と記す。

逆光で写らない墓記載に「昭和拾四年八月貮拾四日午后七時満州国與安北省新巴爾虎左翼旗七百四拾七高地に於て戦死」
おそらくノモンハン事件でしょう。
1410梵潮山観音寺本堂。
仁保・観音寺本堂を北正面より

「本浦の史跡 石仏
この左右合わせて36体の石仏は,三浦兵庫頭元忠の時代のものです。元忠は観音寺に禄として八十石と六町八反の田畑を与えていましたが,地元の人々はその土地を借り受け小作をしていたわけです。その畑地ごとに,管理しやすいよう,番号を振った石仏を置いたのでしたが(略)明治24年頃,観音寺に大切に移されたということです。」
番号入り仏像群

「観音寺
 仁保島城の城主であった三浦兵庫頭元忠が菩提寺として建立し,そのときの山号は黄金山でしたが,慶長年間(一五九六年~一六一五年)に梵潮山と改称されました。元忠が在勤したのは天正十九年(一五九一年)から慶長元年(一五九六年)の期間であり,この寺の創建はその初期の頃と推定されます。
 その後,江戸時代には衰微し,無住職となっていましたが,正保年間(一六四四年~一六四七年)に興禅寺の僧雲嶺によって再建されました。」[前掲仁保郷土史会]
三浦元忠のいたのは5年間?

梵潮山観音寺の宗派は真言宗で,ご本尊は准てい観音様です。(略)六観音様の中で唯一の女性の観音様で(略)真言は「オン・シャレイ・シャレイ・ソンデイ・ソワカ」です。
[本浦共有財産管理運営委員会張り紙「梵潮山観音寺のご本尊様について」]

信じられないことにこの南のには中学校がある。ということは彼らがバス停から通ってるわけで,その道で帰ることにする。1436

いや?
この観音寺は北東方向を向いている。中学校を背にしている。
今前面が竹林でそちらに道がない。
この竹林がなければ,ここでの灯火が遠方海上から見えたのではないか?
先ほど,この前面にバイクが上がってた。道があるはずです。寺前面の竹藪の右手北側へ回ってみる。1445

段々畑状の謎の市有地から市街を見下ろす

さっきの登り道に出るだけでしたけど,この途中に何段もの石垣の,広さからして住宅地が現れます。何の跡でしょう?所々に家はあるんだけど,なぜ空き地のままなのか分からない。広島市の管理地表示があり公用地らしい。
この裏が竹林です。もし江戸期より前それがなければ,仁保島に東から近づく船舶から目立つ灯火の位置でした。
仁保・観音寺と二葉山・古天神の可視(海)域及び岩鼻の位置イメージ

帰路に見つけた「黄金伝説」地図。観音寺から南に仁保城,南西に馬頭観音。さて黄金はどこに埋めてある?

1514バス停・本浦。1528の4番パスがあるらしいので待つことに。
この前面,6軒の長屋スペースでうち3軒,はっきり水商売のお店。つまり漁師町の歓楽街なわけだけど,どうもなぜここに?という感が否めない。しかも下った道の向こうはad東本浦町25。

本浦町の歓楽街

コアとかラインがどうも読めない。かといってそれが破壊し尽くされている訳でもない。幻想の港町を描くに魅せる力の強い土地なのでした。

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残る,というか全然分からない諸点▼▲

 戦国期以前の広島デルタ多島海は以下の点で,他の海人居住海域と差異があり,その理由が未だ判然としません。

1 外港の不在

「広島」成立≒広島城域を中心とする干拓が進み,江波港が外港となる毛利時代以前,プレ広島多島海域の外港は全くなかったのか?
・仁保,牛田,草津?
・朝鮮通信使その他の記録でジャンプしているように見えるのはなぜか?
・神武東征勢力は十年以上滞在した後で西へ退去している。

2 主拠点の不明

 外航交易の旨味を知っていた大内氏が当主自ら獲りに来るほどの場所なら,瀬戸内海の貿易港,特に大内氏の使用した港はどこだったか?

3 居住民の不可視

 広島デルタの多島海域に海賊又は家船はいたか?
・その活動が史料上に全く残らないのはなぜか?
・いたとしても村上や蒲刈に比べ極めてマイナーなのはなぜか?
・八幡を祖とする神社だけが多いのはなぜか?

4 海路の拒絶傾向

 府中港最奥から戸坂(中山越)や温品(三田往来)の使用の形跡が,なぜこれほどくっきりと残るのか?
・遠浅で着岸に不利だったとしても,太田川の内陸水運がなぜ主流でなかったのか?

5 広域神の希薄さ

 地元神と思われる地域限定神がこれほど多いのはなぜか?
・その中でも住吉・宗像はほぼ皆無なのに,金比羅・天神が局所的に濃厚。ただし八幡(再掲)は普遍的に存在する。
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(上)「この世界の片隅に」序盤で江波から草津へ浜を歩く三兄妹 (下)昭和初期の古写真

「コノセカ」で描かれる江波~草津間には,一面の遠浅の浜がある。三兄妹が転げる場面の手前にはカブトガニまで泳いでます。また,その直前の夜の場面ではその浜が一面の海です。
 これが江戸期の干拓以前には広島湾一円に広がっていた。かつ瀬戸内海の東西往来からは北に外れているから,あまり港を求められることなく,多くの船は蒲刈・音戸から周防大島へ直行した。
──というのが定説で,つまり自然状態では外港に不向きだったとすれば1・2・4は片付く。干拓が進み,江波港や宇品港が出来て初めて海運上意味を持った土地である,と。
 けれど,それだけでは矛盾する点が複数ある。ならば,なぜ神武帝は十年以上も滞在したのか?大内氏と武田氏はなぜ草津・仁保・府中の争奪戦をしたのか?太田川は,濃尾平野の木曽川や大阪の淀川よりそれほど致命的に扱いにくい川だったのか?
 毛利水軍の端緒は,武田氏が支配下に置いていた河ノ内警固衆という水軍です。三原を領有し,村上水軍と連携して初めて形成されたのではありません。太田川デルタの元の村落・五か村も(出典が定かでないけれど)水夫が中心となって住んだと書くものもある。
※ 和田竜 出会いの旅:JR西日本
URL:https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/16_vol_164/essay/
※ 広島港の歴史 | 広島県
URL:https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/221/portofhiroshimahistory.html

 だから,開拓前の太田川デルタに海民は相当数いて,内陸河川交易以上のことをしていたと考えるのが妥当です。何よりそうでなければ,多家神社だけでなく宮島や速水社が古くから栄え,清盛が本拠にした理由がない。
 そういう中途半端さが,現存の史料や研究にまとわりついています。
 中世太田川デルタとは何だったのか?
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