015-6@戸坂【特論】戸坂海民概史\安芸郡四町\広島県onCovid


 戸坂は、太田川下流域中でも、とびきり謎多き土地でした。おそらく官の関与した時代がほとんどないからでしょう。
 後述のように角川日本地名大辞典さえ、中程度の記述しか残しません。木村八千穂(戸坂村前村長)、松田孝司(市立戸坂城山小学校前校長)両氏の著作がなければ到底、像を結びませんでした。
 ただ、逆にそれだけ徹底的に「民」の歴史を持ちながら、これだけ地域史に突出する土地の、時空内での存在感は推して知るべきです。

伝西山貝塚出土加飾土器片(外面)〔後掲真木 図版第1〕

■Haken01:西山貝塚──古代史の特異点

 次の記述は牛田山の登山記録内で語られる西山貝塚(→GM.:ad.広島市東区戸坂大上)ですけど──一読時、後半部に衝撃を受けた文章です。

牛田山の頂上広場が見えたところでちょっと寄り道。右の斜面を数メートル下ると地面に二枚貝やカキの貝殻が散らばっている。ここが西山貝塚だ。説明板によると、弥生時代後期の遺跡で県内ではほかに出土例のない手裏剣のような形をした巴形銅器や、土器、鉄器、骨角器も見つかっているという。高地集落の跡だったとみられることから、中国の史書に「倭国乱れて相攻伐すること年を経たり」(魏志倭人伝)「桓[帝]・霊[帝]の間(146~189年)、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、年を歴(ふ)るも主無し」(後漢書東夷列伝)などと記録された「倭国大乱」の時代の軍事的施設だったという見方が有力だという。〔後掲ひろしまリード〕

 よく考えると──貝塚が見つかったから倭国大乱の砦説、というのも随分乱暴な議論です。
 ここで証左として挙げらる「手裏剣のような形をした巴形銅器」は、次のような形状だけ取ればそんな想像も確かに湧いてきますけど……古代に忍者はいません。

Haken01-1:巴型銅器の語る海路交易圏

弥生タイプ巴形銅器(西山貝塚例)〔後掲川北,図2〕
巴型銅器
出土地:山口市 赤妻古墳出土
古墳時代・5世紀 青銅製
径10㎝ 高0.4㎝ 重量79g,67g〔後掲文化庁〕

 西山貝塚の発掘について、広島大学考古学研究室の後掲真木によると、事情は語られないけれど「残念ながら正式な報告書は未だ作成されてはいない」とのこと。勝手な解釈が独り歩きしてるのは、そのせいもあるかもしれません。
 後掲真木でも西山貝塚は「巴形銅器などの金属器や大量の貝類が出土した」と記されます。ただし、現在の定説では──

よく見ると、円の中心に穴があいています。この穴に棒を通して、戦いの際に盾(たて)や、弓矢の矢を入れる容器に取りつけたとされています。4枚の羽根の先はとがっていますが、武器として使っていたわけではありません。古代では、とがったものは悪いものを追い払うという考えがありました。つまり、戦場で自分を敵から守るためのいわばお守りであったと考えられています。〔後掲文化庁〕

 巴形銅器の発見地は、全国にまたがっています。研究者の分類によると、前期の単独例から後期の古墳副葬品に移行したと考えられている。後掲川北は前者を弥生型、後者を古墳型と仮称して整理してます。

巴形銅器の分類と編年〔後掲川北、表3〕
弥生タイプ巴形銅器の分布〔後掲川北、図7〕
古墳タイプ巴形銅器の分布〔後掲川北、図8〕

 こう見ると、当初若狭湾付近=古代「越」国影響圏で誕生した巴形銅器が、北九州に伝播し、瀬戸内海を経由して近畿に入った。それが近畿王権とその後背地・東海地方で副葬品化した、と素人的には読めます。なお、後期古墳タイプは大成洞(→GM.:金海 大成洞古墳群(김해 대성동 고분군))2・13号からも出土しています〔後掲川北、表2古墳タイプ巴形銅器一覧90番以降〕。
 この伝播は、明らかに日本海-瀬戸内海の海民によるものです。
 もう一つ、先の登山記述で語られていたように、西山貝塚の位置はほぼ牛田山頂と言っていい場所です。もちろん現在ですら集落はありません。漁撈と狩猟で食を繋いだであろう当時、何者かを恐れてこんな高地に集落を成したとすれば、その「敵」は太田川デルタ域の海民だった、とも考えられます。

 西山貝塚は他の遺跡(いせき)と比べても高い位置にあります。出土している鉄器や銅器が軍事的なものが多いところから考えると、防衛的(ぼうえいてき)、軍事的な色彩(しきさい)を帯(お)びた集落があったのではないかと考えらます。(略)
 この西山の貝塚は261mの地点、258mの地点など、4カ所の貝塚が発見されており、258m地点からは住居跡も発掘されています。〔後掲松田/第1章 大むかしの戸坂〕

 西山貝塚の陸人住民たちは、さながら恐竜全盛期の哺乳類のように、デルタ全域を無尽に漕ぎまわる海民の世界の弱者だったのでしょう。巴形銅器をその海民集団が瀬戸内海へ移入し近畿へ伝えていったとすれば、文化的にも従属していた陸人の西山貝塚集団が、それを僅かに残したということになります。
 ただ、現段階での西山貝塚は、「西山貝塚周辺遺跡群」(以下「西山群」と略す。)といったより広域の遺跡群として論じられることが多いらしい。そのベースで論点になってきているのが、細頸で文様装飾を施した壺型の土器で、後掲真木が「加飾細頸壺」と仮称するものです。

※口頸部形態がわからないため、ここでは細頸壺と呼称する。後述するような各地域でみられる類例は「長頸壺」や「直口壺」などと報告されているものも多いが、以下では統一してすべて細頸壺と呼称する。〔後掲真木注2〕
安芸地域の細頸壺〔後掲真木、図4〕

Haken01-2:加飾細頸壺の語る海路交易圏

 素人目に見ても、この類型の比較はやや線が細い。類型自体が通説化していない上に類似例数も少ない。後掲真木の議論も、西山群内に類似例がなく、直近で北方5kmの大明地遺跡(後掲全国遺跡報告総覧:大明地遺跡→GM.:広島市安佐北区口田一丁目608・615)の出土例のみと認めた上でのものです。
 その前にまず、西山群の全体を確認しておきます。

西山貝塚位置図
第1図 西山貝塚周辺遺跡分布図〔後掲真木〕

1.西山258メートル貝塚 2.西山261メートル貝塚 3.西山210メートル貝塚 4.茶磨山南貝塚 5.牛田の弥生文化時代墳墓{→牛田} 6.牛田新町遺跡 7.狐瓜木南遺跡 8.桜ケ丘古墳 9.長尾古墳群 1O.長尾遭跡 11.城北学園グランド遺跡 12.八幡山古墳 13.戸坂大上遺跡 14.浄源寺遺跡 15.田原ヶ城山古墳{→中山} 16.中山貝塚{→中山}  ※2・15・16は引用者が図外とした。

「牛田山は広島湾に面する島のようになっていたと考えられる。」〔後掲真木〕という表現に準ずるなら、西山群は中山峠部で僅かに接続する「牛田半島」の北側の浅い湾岸に点在した集団が残した遺跡です。
 後掲真木は西山貝塚の加飾細頸壺は「西山貝塚出土の他器種とは明らかに胎土・色調が異なっていることから、搬入品の可能性も考えられる(3)。」としています。かつ、この見解の注3として「岡山県古代吉備文化財センターの河合忍氏に実見していただき、備前・備中地域で製作された可能性があるというご教示をいただいた。」
 つまり加飾細頸壺は、上記の規模の土器圏を有する西山群でも製造できない土器で、吉備地域から交易品として持ち込まれた可能性が高い、というのが現時点での判定です。この類型の出土例を広域で見たのが次の図です。

加飾細頸壺分布図〔後掲真木、第3図〕

※原図注:図は筆者(真木)作成(元の地図は広島大学大学院文学研究科考古学研究室修了生加藤徹氏(現宮崎県教育委員会)が作成)。

 吉備から移入した、という見立てとまさに合致します。この土器は、古代吉備王国の経済圏内で通用した「通貨」のような存在だったのでしょう。かつ、それが太田川デルタの南正面・伊予から出土するのは、この安芸灘海域を南北に往来するサブ交易圏が存在したことを示唆します。
 今のところ、西山貝塚はこの「加飾細頸壺交易圏」の北西端に位置したと考えてよさそうです。
 後掲松田は、西山群の全体を以下のように語っています。

弥生時代の終わりごろから古墳時代の初めのころにかけて造られたのが、戸坂山根の禅昌寺(ぜんしょうじ)西遺跡と桜ヶ丘古墳です。(略)
 6世紀代の古墳として、龍泉寺古墳、惣田古墳があります。
 長尾古墳は茶臼城山から北側へのびる標高約40mの尾根の先端(せんたん)部の太田川と戸坂の町を見渡すことができる見晴らしの良い所に位置しています。
 尾根先から円墳の2号墳、前方後円墳の1号墳、円墳の3号墳、長尾台の住宅造成地で発見された2基の古墳を加えた5基の古墳からなる古墳群です。
 その第1号墳は測量の結果、広島市内で確認されたなかでは最大級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であることが分かりました。
 なお、長尾古墳からは遺物(いぶつ)が発見されていないため、残念ながらいつごろ造られた古墳かをはっきりさせることができていません。 この古墳の立体模型(もけい)は戸坂城山小学校に保管されています。その模型を見ると当時の様子がよく分かります。〔後掲松田/第1章 大むかしの戸坂〕

長尾古墳群遺構配置図〔GM./同地の案内板〕

 前方後円墳・長尾古墳(→GM.)の存在は、古代末期にはヤマト王権の一勢力が戸坂を押さえ、相応の規模の支配を成したことを物語ります。ただ文献的にはそのような記述は一切ありません。

 そのころ(引用者注:現・府中町に国府があった古代)、太田川は今よりももっと西の方を流れていましたから、現在、太田川の向かい側にある東原や西原は戸坂と地続(じつづ)きであったと思われます。その証拠(しょうこ)に、「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」というそのころの本には戸坂は東原・西原とあわせて「安芸郡幡良(はら)郷」の中に入れられています。〔後掲松田/第1章 大むかしの戸坂〕

 東原・西原は、前章(→三宅社という磐境)で触れた狐瓜木神社の兼務社=瑞穂・冬木両神社が存在します。狐瓜木神社の信仰圏は、「新川」となった太田川に縦断される前は容易に渡河できる水域の東西の、一つの生活圏だったと史料的に実証されてるわけです。
 これは考古学的には、条里遺構の存在で裏付けられています。

古代山陽道はこの地で太田川を渡り西へ抜けていた。太田川対岸の東野・東原にかけて条里遺構が存在する。〔角川日本地名大辞典/戸坂〕

戸坂地区の条里制制定区域の想定図〔後掲山城攻城記〕※後掲著者が「広島県史」通史編中世から引用した地図に作図

 なお、一つ前の引用にある「倭名類聚抄」の「安芸郡幡良(はら)郷」という地名も謎が多い。芸備通志は現・上原、西原、東原がその名残りとしていますけど──他の痕跡が一切ない。類推もできません。

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「幡良」と記し、前者が「波羅」、後者が「波良」と訓を付す。「芸藩通志」は「今上原村あり」とし、現広島市安佐北区の上原(うえはら)を遺名とするが、「日本地理志料」は「府中田所氏文書、佐東郡原郷注(二)村名(一)云(二)萱原、鳥田、大豆田、道末、尾喰、伊与寺(一)」とし、西原(にしはら)・東原両村(現広島市安佐南区)をあて、南下安(みなみしもやす)・北下安・東山本(ひがしやまもと)・西山本諸村(現同区)にも及ぶとする。〔日本歴史地名大系 「幡良郷」←コトバンク/幡良郷〕

■Haken02:戸坂の地名

 さて、通常は割と多くを物語る字名についてですけど──戸坂の場合、角川日本地名大辞典に……ということは文献史料にほとんど記録がありませんでした。
 そもそも、戸坂は明治に村に定まった際、なぜか大字を成しておらず、昭和55年に広島市への合併時に戸坂◯◯町として再生した形になっています。

明治22年~昭和30年の安芸郡の自治体名。大字は編成せず。〔角川日本地名大辞典/戸坂村(近代)〕

 戸坂の字(正確には町名後半)を広島市住所表示順に並べると、16字が次の順序になっていました。■は、うち角川日本地名大辞典に項目のあったものです。「・」は項目のなかったもので、概ね団地になっており、近年に山を開いて開発した土地らしいので当面除外して調べていきますと──

■出江  ■大上
■数甲  • くるめ木
• 桜上町 • 桜西町
• 桜東町 • 城山町
■新町  ■千足
■惣田  • 長尾台
■中町  ■南
• 山崎町 ■山根

 例えば戸坂大上について、読みが「おおあげ」だったという点以外には

(近代)昭和49年~現在の町名。はじめ広島市,昭和55年からは東区の町名。1~4丁目がある。もとは広島市戸坂町の一部。〔角川日本地名大辞典/戸坂大上〕

──というのみの記述です。「戸坂」という地名は角川上は珍しく、広島県17件ヒット以外はほぼないのですけど、驚くことに全部がこのパターンでした。
 この部分について、松田孝司さんという方が「戸坂の歴史」というサイトを2005(平成17)年に起こしておられました。この人は広島市立戸坂城山小学校の前校長先生で、総合的な学習の時間が始まる際の「教材」として同HPを作成されたらしい。
 性格的に地元伝承になりますけど、これを交えて以下記します。
 例えば戸坂出江は──読みは「いずえ」。

(近代)昭和49年~現在の町名。はじめ広島市,昭和55年からは東区の町名。1~2丁目がある。もとは広島市戸坂町の一部。〔角川日本地名大辞典/戸坂出江〕

 昔、茶磨山(西山)の中腹に「じゅんさい池」というのがあって、そこから谷川が流れていたので「出江」とよぶようになった。「じゅんさい池」は山くずれでうまってしまった。(「戸坂町誌」16ページ)〔後掲松田/第2章〕

 戸坂くるめ木と戸坂桜上•西•東町は、前章の狐瓜木神社と、桜御前神社に由来していました。wikiは、狐瓜木神社を「かつての村社」と記します。

Haken02-1:数甲と千足

 二つの字名に、生臭い臭いが残っています。
戸坂数甲
 読みは「かずこう」。

(近代)昭和49年~現在の町名。はじめ広島市,昭和55年からは東区の町名。1~2丁目がある。もとは広島市戸坂町の一部。〔角川日本地名大辞典/戸坂数甲〕

 wikiにも同内容の記述がありましたけど、後掲松田は次の伝承を伝えます。

江戸時代にはすでに「かすこう」と書かれたものがあった。数の甲(かぶと)で武器に関係のある人たちが住んでいたのではないか。(「戸坂町誌」14ページ)〔後掲松田/第2章〕

「数々の甲」、つまり多量の武器(の蓄積?)を意味するのか、手甲の専業者とかがいたのか、「関係」の内容は不詳です。
 次の千足についても、伝承は多種あるけれど焦点を結びません。
戸坂千足

1541年(天文10年)、毛利氏が銀山城を攻略し武田氏を滅ぼした際、毛利方がおびただしい数(千足)の草鞋に火を付けて川に流し、武田軍を欺いたという伝承に由来する。あるいは「千束の稲が実る豊かな地」の意とも。〔wiki/戸坂 (広島市)〕

毛利元就が武田氏を攻めるとき、千のわらじにろうそくをつけて川に流し、逃げたように見せかけて武田氏の銀山城を油断(ゆだん)させ、城の裏山から攻(せ)めたという言い伝えが残っています。そこから「千足(せんぞく)」という地名が生まれたというのですが本当かどうかはわかりません。高陽町の小田(おだ)村から歩いて千歩ぐらいのところだから「千足」という、という人もいれば(「戸坂のむかし」20ページ)、毛利と尼子の戦いで戦死者(せんししゃ)のわらじが数千流れてきたので「千足」という、とか太田川の堤防(ていぼう)を改修(かいしゅう)するために農民が千束の稲束(いなたば)を出すよう命じられたので「千足」となったという話(「戸坂町誌」12ページ)なども伝わっています。また、一説には、戦(いくさ)で太田川を渡るとき、千足のわらじを献上(けんじょう)したので「千足」となったとも語られています。(「戸坂町誌」41ページ)さらには、本当は「千束」と書いていたのが「千足」となったもので、この地は千束の稲が収穫(しゅうかく)できるほど実りの豊(ゆた)かな地だという意味で名付(なづ)けられたという説もあります。(「ふるさとの今昔」東野公民館、15ページ)〔後掲松田/第2章〕

 単に「千足」という訳の分からない地名に、奔放な理由づけをした可能性もありますけど──次項「城山」に拠した戸坂氏が、元就に匹敵するかのような権謀術策を繰り広げた土地だということは確かなのです。

Haken02-2:山根の札場と城山の砦

戸坂山根

 村の中心に札場(ふだば)という場所がありました。札場という名前が示すとおり、何か村人に知らせたいことがあるときには、そこに「お触(ふ)れ書(が)き」が掲示(けいじ)されました。そこには大きな石が置かれていて、背中にしょった荷物(「負(お)いこ」といいます)を石の上に降ろして休んだりするのにも使われていました。けれども、何か悪いことをした人はその石の上に座(すわ)らされてさらし者にするなどの刑罰(けいばつ)を負わせる場所でもありました。たとえば、イモどろぼうはイモを背負(せお)わされて、その札場石(ふだばいし)にしばりつけられたということです。
 この札場石は山根(やまね)石橋の下の三叉路(さんさろ)に置かれていて、村人から「札場の石」として愛されていましたが、昭和30年に広島市と合ぺいするときに戸坂公民館の道路わきの今の場所に移されました。今でも公民館に行くと見ることができます。〔後掲松田/第2章〕

公民館脇の札場の石〔後掲広島ぶらり散歩/1ah01 (戸坂の)札場の石〕

 これがどの時代のことなのか、札を出し石に縛った主体が誰なのか分かりませんけど──「石」が置かれたということは「札場」というのは意図的に柔らかくした言い方であって、実際の主たる用途は「晒し場」だった可能性が高い。
 内治か外治かは定かでないけれど、戸坂は強力な統治下に置かれることに慣れていたようなのです。
戸坂城山縄張図〔後掲城郭放浪記〕

戸坂城山
 城山(→GM.)は牛田山北斜面付近を指す地名ですけど、用字通り城が置かれたのは、まさに牛田山山頂です。

戸坂氏が牛田山に築いた要害(戸坂城)に由来する。〔wiki/戸坂 (広島市)〕

 上の縄張図の通り、東・西・北への尾根が城域と考えられてますけど、明確な遺構は下記の城北学園内の伝承を除いてはないようで「周辺の尾根は比較的なだらかな自然地形に近く、どこまでが城域となるか不明」〔後掲城郭放浪記〕。

戸坂城には空堀や切り堀は見られませんが、城北学園のグランド造成地(ぞうせいち)にあった出城には掘り割(わ)りがあったそうです。〔後掲松田/第2章〕

※なお、「城」北学園は昭和16年に東京都新宿区市ヶ谷左内町に開校された城北高等補習学校が起源なので、この「城」は戸坂城山を指しません。

 戸坂氏が属した武田氏本城・(佐東)銀山城(→GM.)は戸坂城北西5kmですから、戦略的には太田川デルタ北辺の防衛ラインを成していたとも考えうる位置です。

かつて太田川対岸の銀山城に居城する安芸国守護・武田氏のもとで牛田山(茶磨山(ちゃすりやま)とも)山頂に要害(のち戸坂城と称する)を築きこの地を支配していた「戸坂氏」との関連を指摘する見解がある(戸坂氏は武田氏滅亡後、大内氏に従い温科(現在の東区温品)に領地を与えられた)。〔wiki/戸坂村〕

 学術的には上記wikiの言い方が正しいらしい。南山腹に戸坂入道道海の墓と伝わる石塔があるのが、戸坂城のほぼ唯一の根拠です。

今、地図では牛田山と書かれている山を戸坂の人は「西山」とよぶことがあります。これは谷をはさんで向かい側の松笠山を「東山」とよぶのと対(つい)をなした呼び方です。戸坂城があった牛田山は「茶磨山(ちゃすりやま)」ともいい、「茶臼城山(ちゃうすしろやま)」ということもあります。昔の土地の人は「やまづみさん」とよんでいました。戸坂氏が「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」を守り神として神社をたてたので、「おおやまづみ」という呼び名から「やまづみさん」になったのです。〔後掲松田/第2章〕

 城山の地元呼称のうち、「茶臼山」はそのなだらかな地勢を指すものとしても、「やまづみさん」は深い意味がありそうです。大山祇はご承知の通りの海神です。
 現在、戸坂には大山祇神を主神とする宮はない。けれど、戸坂町誌(後掲・狐瓜木神社宮司の木村八千穂著)によると「江戸時代までは山頂に神社があったが、明治初年に狐瓜木神社に合祀された」といいます〔後掲山城攻城記〕。

Haken02-3:小地名群 百田と東浄

昭和初期の戸坂村の「字」表示地図〔後掲戸坂城山学区〕

 昭和初めの戸坂の字名の地図は上のようなものがありました。現在住所表示になっていないものでも、かなりの字名が存在します。
 二つだけ特記しておきます。
百田
GM.(百田団地)

昔、田んぼが百あった。だんだんになっておった。(「戸坂のむかし」19ページ)〔後掲松田/第2章〕

 棚田のような地形が存在した──にしては現在の町地形はなだらかです。ごく緩やかな棚地があったのでしょうか?
東浄
GM.(戸坂東浄集会所)

昔、そのあたりを「東」という字と「浄玄寺」という字でよんでいたので、2つが合わさって「東浄」となった。(「戸坂のむかし」23ページ)〔後掲松田/第2章〕

「東」という地名も異例ですけど、「浄玄寺」は現在、前掲の戸坂とひとつながりだったとされる東原に存在します(→GM.、瑞穂神社西200m)。だからもしかすると縮める前の地名は「東浄玄寺」だったかもしれません。
 小地名から読める戸坂はごく朧です。何らか深い手応えを感じるマターは多いけれど、まとまってはいきそうにない。そこで、角川日本地名大辞典が戸坂そのものについて記す史料に移ります。

■Haken03:中世に戸坂の武家の浮き沈み

 前掲城山の記述に頻出した戸坂氏は、面白いことに戸坂地名の初出史料群には登場しません。

 鎌倉期から見える地名。安芸国安南郡のうち。寛元4年5月21日の安芸国司某下知状写によると,左近将監遠兼が所持していた「戸坂門田内今富名九段」の替地として「戸坂久須木垣内七段内五段」などの久武名9反を領知するよう命じている(厳島野坂文書)。鎌倉中期とみられる安芸国衙領注進状に「戸坂道祖神免一反」とあり(田所文書),大上中の畑(大上3丁目)にあった幸之神社はその後身ではないかという。正応2年正月23日の沙弥某譲状には,在庁官人田所氏の田畠が戸坂村に1町7反60歩あったことが見える(同前)。〔角川日本地名大辞典/戸坂(中世)〕

・1246(寛元4)年 左近将監遠兼
・鎌倉中期(不詳) 戸坂道祖神(田所氏文書)
・1289(正応2)年 田所氏
の所領等記録です。
「左近将監遠兼」は次の史料からは田所遠兼と目されます。また、この史料の「戸坂村楠木垣内」安堵は角川の挙げる初出より早い。

安貞三年(1229)十月、父俊兼ヨリ受(レ)譲而相続、被任(二)田所惣判官代左近将監平朝臣(一)、嘉禎三年(1237)十一月六日可(レ)領(二)作安南郡内戸坂村楠木垣内(一)ヲ之御庁宣アリ〔田所文書←広島県史古代中世資料編Ⅲ(1235頁)←後掲田所〕※下線は引用者

 1町7反を仮に1.7ha(100m×170m)とすると戸坂の面積からしてかなり小さい。出典が偏っている、つまりこの時代の戸坂史料が田所文書しかないからかもしれません。田所氏が領した以外の戸坂について、語る史料は見つかりませんでした。
 これに対し、戸坂城山の主と伝わる戸坂氏もその出自はまるで不明です。「武田氏の庶流と伝えられる」〔後掲城郭放浪記〕と書くものもあります。これはおそらく、下記部坂氏家伝の「称武田氏者来芸州戸坂居」(武田氏を称する者が来て芸州戸坂に居した)に基づくものと思われます。

(前略)源姓部坂氏世住周防岐波其先出乎新羅義光受封於甲斐其子孫為数派称武田氏者来芸州戸坂居焉因以戸坂為族経十余世播磨守信成拠州之己斐城康正中与大内氏支族右田貞安戦敗没其遺孤遜乎周防岐波及長弥六左衛門尉正信(戸部邦訓相通)此為部坂氏始祖大内氏眷顧名族淪落持除田宅地若干掌白松南北民政其後荒乱之世子孫数遭不弔遂降伍民庶民(略)〔部坂氏家伝※←後掲山城攻城記〕※原注(2) 宇部市教育委員会/宇部市東岐波郷史研究会『宇部市東部家書目録』昭35年5-8頁

 角川は「武田氏の有力家臣」と解される記述が「国郡志書出帳」にあると記すけれど──どうも、戸坂氏が歴史上脚光を浴びるのは、先述の城山南山腹に墓が残る戸坂入道道海の、武田氏滅亡劇の時代における「活躍」にほぼ限定されます。

室町期は守護武田氏の支配下にあったと思われ,武田氏の有力家臣に戸坂氏があり,また茶臼山城に武田氏家臣の戸坂道海なるものが居城したと伝える(国郡志書出帳)。〔角川日本地名大辞典/戸坂(中世)〕

Haken03-1:言語道断の戸坂信成

 そこで天邪鬼な本稿では、僅かに歴史に名を残すもう一人のマイナーな戸坂氏にまずスポットを当ててみます。入道道海に先立つこと半世紀、己斐城の敗将・戸坂信成です。
 先に触れた部坂氏家伝の「経十余世播磨守信成拠州之己斐城康正中与大内氏支族右田貞安戦敗没」が出典と思われます。

 厳島氏に味方(みかた)した大内氏と対する武田氏との間で戦(いくさ)が始まったとき、武田氏の家来だった戸坂信成は武田国信の命を受けて銀山城の西、己斐城の守りにつきました。けれども、当時の文書によると『言語道断(ごんごどうだん)の失敗』があって、戸坂信成は大内氏の家来、右田弘篤に討(う)たれて死んでしまいました。(1457) それで、残された武将(ぶしょう)たちは戸坂信成の遺児(いじ)を連れて大内氏のもとに降伏(こうふく)したのです。「言語道断」の失敗がどんな失敗かはわかりませんが、そういう失敗があったので、武田氏のもとに逃げ帰ることもできなかったと考えられています。〔後掲松田/第2章〕

 原文を確認してみます。ただその前に、以下の戸坂氏関係記述の史料は、いずれも毛利家に伝わったもので、謀略に負けた家柄ですから毛利家に都合の良いものを残すバイアスは働いているであろうことは想定しながら読んでいきます。

先度御状に預り、委細披見申候、仍去十四日御状同到来候、何もへ御懇に示賜候、祝着候、其れにつき候ことは、戸坂播磨守事、言語道断次第候、此仁あてかい内々可被及御覧候哉、毎事短慮二あてかい共候間、如此候、覚悟前候、不便之次第、無申計候、定而可有御同心候哉、乍去要害事未もとの如く勘忍候由申候、可燃候、去十四日合戦の趣、委細注進候(略)〔「毛利家文書」97:康正3年(1457)5月23日武田国信発備中守毛利熙元宛書状←後掲山城攻城記〕

「乍去要害事未もとの如く勘忍候由申候」は「さりながら、要害のことは、まだ元のごとく堪忍して押さえておくように申された」〔後掲山城攻城記〕。この時、武田国信は京都にいたと推定されており、要するに鎌倉期までの主流だった地方に代官を派しているだけの統治です。また、毛利熙元は元就の曽祖父(三代前:熙元→豊元→弘元→元就)。戸坂播磨守が敗死した「要害」をなぜ死守せよと指示しているのか、それがなぜ吉田の毛利なのか、遠距離からの現場感のない、従って見当違いの指示の可能性も想定すると、あまりまともに掘り下げる価値はないかもしれません。
 ただ一つだけ、敗者「播磨守」が「戸坂信成」で、「要害」が「己斐城」であることが、下記萩藩閥閲録の「己斐之城主戸坂播磨守信成」という記述で確認できることになっています。

大内教弘芸州金山城主武田ト合戦之時、武田方金山ノ端城己斐之城主戸坂播磨守信成近国無隠大力也、弘篤ト組テ弘篤勝レ信成ヲ討取、戸坂力郎党切掛、弘篤終二討死ス、康正三年五月十二日、弘篤二十四歳也〔『萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門系譜」←戸坂村史68頁←後掲山城攻城記〕※下線は引用者

 ただし萩藩閥閲録は1725(享保10)年、つまり約二百年後の成立ですから、先述のバイアスに加え、一次史料性はやや低い。
 戸坂信成に対する武田氏の評価についても、前掲松田の否定型(下記2説)に対し、「大変な目にあった」という肯定ニュアンスの読み(下記1説)もあり、どちらかといえばそちらが主流になってるようです。

「言語道断」の解釈について2つあると考える。
1説、己斐城の守城を任しているにも関わらず、右田弘篤に討ち取られてしまい落城したのは、非常に残念でもあり予想外なことでもある。
2説、実は己斐城がなかなか落城できない事を焦り、大内方が調略で戸坂信成に対して寝返りを誘ったのではないか。それに乗った戸坂信成は、子供と共に大内に寝返った事が言語道断(もってのほか)である事とも考えられる(註3)。〔後掲山城攻城記〕
※原註3)都築要『広島史話傳説』(第二輯)己斐の巻 昭和42年161頁

 ただ、山城攻城記もの記述は、結論的には後者の立場に近くなってます。これは、この後、少なくとも己斐城主系の戸坂氏は、信成の敵であったはずの大内方に保護されているからです。

Haken03-2:大内・武田の戸坂氏抱き込み競争

 先述の部坂氏家伝では「大内氏眷顧名族淪落」、そのまま読むと「大内氏が名族の淪落(落ちぶれたの)を眷顧した(特別に目をかけた)」ゆえの保護、ということになっていますけど──中世太田川デルタは、もちろんそんな恩情溢れる世界ではありません。

このときの戸坂信成の遺児(いじ)は山口県の宇部市(うべし)東岐波(ひがしきわ)で無事成長し、この地に「部坂」(へさか)家を興(おこ)しています。「戸」ではなく「部」の字を使ったところには何か事情があったのでしょう。部坂氏は東岐波村で村役人をつとめ、数々の功績(こうせき)を残しました。今でも子孫(しそん)にあたる方がご健在(けんざい)だということです。〔後掲松田/第2章〕

 ここまで再三触れた部坂氏家伝は、この宇部市東岐波(→GM.)に永らえた部坂氏の家伝です。この東岐波という土地も、単に大内氏が適当充てがった余剰地とは考えにくい歴史ある臨海地です。想像逞しく海民としての戸坂氏を想定すると、彼らが既に幾らか拠点化していた場所だったかもしれない。

【ひがしきわ】植松川・五反田川流域,周防(すおう)灘に面し宇部丘陵の東部はずれに位置し,低い台地と低地が大部分を占める地域。北部に位置する日ノ山南麓には,縄文後期の平地式住居跡と炉跡が出土した月崎遺跡や古墳時代後期の若宮古墳・花ケ池須恵窯跡がある。〔角川日本地名大辞典/東岐波〕

 同じく海民的流動性を前提とすれば、大内氏が東岐波・部坂氏を再興させたのは戸坂系海民勢力が東瀬戸内海域に糾合されることを期待したかもしれません。ただ結果的に、部坂氏は微勢力のまま存続します。
 この大内氏の動きに並列するように思えるのが、次の吉川家文書の「養子」伝承です。

御縁之事、戸坂子ヲ金山へ養子ニ(略)只今三千疋上進之候、又戸坂方二替之事申合、重而七月中二上可申候〔「吉川家文書」380(文明(1469〜86)ごろ在京の吉川元経あてに某是経から安芸の国元の様子を書き送った中)←後掲山城攻城記〕

 金山は、ここまでも出たように武田氏本拠「銀山城」の別表記と考えられますから、15C後半に戸坂氏の何者かが武田氏の養子に迎えられたことが実証されます。部坂氏家伝の言うように元から「武田氏の庶流」だったなら養子にする必然性も乏しいでしょうから、この時期に武田庶流として戸坂氏が組み込まれた、と考えるのが妥当です。
 武田氏が戸坂氏を自族に組み込んだのは、己斐城に拠った信成系-部坂氏方以外の戸坂系を、というよりその残党を含めた戸坂系海民を武田方として再統合しようとし、その「核」を作ろうとしたのでしょう。現・戸坂の地が中世から「戸坂」名だったことは既に確認してますから、戸坂氏の氏族名が地名になったはずはない。この「養子」が戸坂入道道海の父祖と想定すれば、故地・戸坂を改めて安堵されたと思われます。
 吉川元経の在京費用を「戸坂方二替之事」とあるのは──この部分を検討した記述があまりないけれど──一時的か否かはともかく、戸坂氏が経費負担した、あるいは吉川氏が負担を命じたように読めます。戸坂側が養子縁組を金で買ったような裏の取引もあったのかもしれませんけど、そこまで深読みしなくても、武田(吉川)側が戸坂側の財力を当てにしていた事までは確実だと考えられます。

武田氏家系図(一部:信繁〜信重)と相当年代の戸坂氏の人物(信成・信定・道海)〔後掲後掲山城攻城記〕※上図右→下図左に接続

戸坂信成-信定-道海 年代概観
1457 戸坂信成討死
1390-1465 武田信繁
1499 戸坂信定連著
1441-1505 武田元綱
1467-1517 武田元繁
1510-40 戸坂道海戦歴
1503-1540 武田光和
? -1541 武田繁清
? -1541 武田信重
1524-1555 武田信実
1499(明応8)年
〔武田氏データはwiki、戸坂氏データは前後引用史料〕

 さて、次に確認する史料には「戸坂参何守信定」という人物の名が出ます。信成・信定・道海と同時代の武田氏当主の対照は、上図のように推定されます。──ただし、この信定と前代・信成、後代・道海との血縁関係は、史料上は確認できないようです。敗死して遺児を大内方が保護した信成の子孫は、太田川デルタに残ったとは思えないけれど、信成・信定の名は血縁を感じさせます。これに対し、道海は名前の用字に共通性がありませんけど、法名っぽいので確証は置けません。
 ただ上記時系列から概観すると、信成→信定→道海の間隔は約半世紀弱と捉えてよく、ザクッと二世代離れてますから、親等としては一:親子相当ではほぼあり得ず二:祖父-孫相当以上です。
 先の東岐波・部坂氏の祖は信成の「遺児」、つまり一親等とされます。大内氏の戸坂系勢力取込みに武田氏が対抗し、おそらく吉川氏の助力もあって戸坂某が武田氏養子に取り込まれたとすれば、同じ一親等下の世代だった蓋然性が高い。この養子・戸坂某が故地・戸坂で勢力を蓄えた後、そのさらに子の世代の戸坂氏首領格が戸坂信定だったと推測できます。
 前置きが長くなりましたけど、史料は毛利弘元(元就の父・先代当主)に「内部庄」の土地領有を認める周辺実力者十人の連判状です。

※内部庄:(読み)うちべのしよう 福原(ふくばら≒現・安芸高田市吉田町福原→GM.)を中心に可愛(えの)川を隔てて対岸の桂(かつら)・川本(かわもと)・山手(やまて)・中馬(ちゆうま)を含む地と推定される。「和名抄」に内部郷記載有。史料初出は1171(嘉応3)年付け散位藤原朝臣書状(巻子本厳島文書)。〔日本歴史地名大系 「内部庄」←コトバンク/内部庄〕 なお、北西隣に府中編で触れた埃ノ宮神社がある。
「毛利家文書」166「武田元繁外九名連署状」〔後掲山城攻略記〕

武田元繁外九名連署状

上意御窺之事、幷内部庄伊豆守(武田元信)一行之儀、急度遂註(注)進、可申達候、聊不可有無沙汰候間、 以連著申入候、猶委細吉河殿(維基)へ申候、
 明應八年三月六日
  (武田)元繁(花押)
  品河左京亮
    膳員(花押)
  香川美作守
    質景(花押)
  今田土佐守
    國頼
  壬生◯蔵人太夫
    國泰(花押)
  山中丹後守
    宗正(花押)
  白井弾正太夫
    元胤(花押)
  中村修理◯
    質茂(花押)
  熊谷民部丞
    膳直(花押)
  戸坂参何守
    信定(花押)
 毛利治部少輔殿
〔「毛利家文書」166「武田元繁外九名連署状」←後掲山城攻城記〕※緑字部は引用者追記。◯は判読不能字

この文章の大意は、「上意御窺之事」(毛利弘元の内部荘の支配権を将軍に認めてもらうこと)と、「内部荘伊豆守一行之儀」(それに武田元信が同意の文書を出すこと)の2点について武田元信に申し入れることを、武田元繁以下の諸将が毛利弘元に連署で約束するというものである。〔後掲山城攻城記〕

 署名者10人という人数は、一定の基準で選ばれたのではなく、キリの良さからでしょう。その末尾に戸坂氏が名を連ねるということは、最弱ながら安芸武田氏領国の利害を代表する実力を有したことを意味します。
 この史料が毛利家に伝わったのは所領の「権利書」としてでしょうけど、史家から注目されるのは、安芸高田氏の支配の性格を如実に物語るからです。

安芸武田氏権力の特質は、なによりもこの史料に明らかなように、安芸在住の武田元繁が惣領武田元信(若狭国守護で本家にあたる)の規制下にあって、一個の領主として自立できていない点にある。
 この毛利氏への約束が、武田元繁一人の署名では不十分で、品河氏以下、戸坂氏までの諸将が連署しなければ安芸武田氏の全体意志が表現できないのである。
 連署した人々は、本家武田元信(若狭国守護)の家臣であっても、武田元繁(安芸国分国守護)の家臣ではなかったということを如実に示す史料の一つである(註7)。〔後掲山城攻城記〕
※原註7)『戸坂村史』広島市役所編 平3年 70-72頁

 つまり、本家・若狭武田氏の家臣10名が並列の立場で連著したのがこの史料です。本家と血縁関係があるゆえに、武田元繁を筆頭者にしているだけです。
 これは松浦水軍の初期形態と共通します。主従の縦糸は極めて緩く、拠点地域の横糸は単に均衡だけの、意図的な「烏合の衆」状態です。

内部リンク→m133m第十三波mm川内観音(急)/■レポ:松浦党の存在形態

 伝えとしてだと思いますけど、武田氏配下の水軍衆には次のような勢力があったと書くサイトもあります。

 武田氏は三入の熊谷氏、八木の香川氏、府中の白井氏等、太田川流域の諸豪族を家臣化した。
 また、川の内衆と呼ばれた武田氏旗下の水軍を構成したものには、山縣・福島・福井・飯田・熊野・世良の諸氏があった。〔後掲光圓寺〕

 前掲連判状の10名中に、熊谷・香川・白井の三氏は名を連ねています。対して川の内衆の六氏の名は無い。熊谷ら三氏は後の毛利時代まで水軍を率いた諸家※です。太田川デルタ「烏合の衆」状態の原型は山縣ら六氏のような純粋な海民集団の群れだったけれど、それらがデルタ周縁の平地の半陸人勢力の下に緩やかに糾合され、さらに遠隔地の若狭武田氏を頭に戴き一党を成していった経緯と構造が窺えます。

※香川氏は厳島合戦時に、仁保島合戦で陶方を破ったほか、厳島上陸戦でも水軍を率いている。〔wiki/香川光景など〕

 この統合のインセンティブは、己斐城の戦闘に象徴されるような外域からの圧力、つまり具体的には田所氏ら厳島神主家勢力が西の大内氏と連合して太田川デルタの支配を回復しようとする動静に対する反作用だったと考えられています。──武田氏は中央政界では細川方に近かったため、この構造は一つ後の応仁の乱の対立構造にそのまま持ち込され、最終的に武田氏滅亡への大潮流に至ります。太田川デルタ域の川の内衆は中程度に糾合して、上記連判状の十人のような核を形成し、その一つである毛利氏が血みどろの生存競争を抜けて力を蓄えていった──という過程が、中世から戦国の安芸の政治史だと理解されるのです。
 連判状の時代には、戸坂氏は毛利氏と同格程度の一次糾合勢力だったのでしょう。戸坂氏は、以下の戸坂道海時代の経緯で、毛利氏にはなれずに滅びていった一族ということになります。

戸坂氏家紋〔後掲山城攻略記〕

Haken03-3:入道道海は誰に与したか?

 大内氏による太田川デルタ侵略は、16C前半に最盛期を迎えたらしい。玖村までということは、可部のすぐ南まで攻め込む力を示したわけです。

1527年には大内氏は戸坂や今の高陽町の玖村まで攻め込んできました。尼子氏と組んだ武田勢とは松笠山で合戦(かっせん)となりました。松笠山の観音寺は戸坂城主、戸坂入道道海(へさかにゅうどうどうかい)の隠(かく)れ城だったといわれています。(「松笠観音由来記」)〔後掲松田/第2章〕

※戸坂松笠山→GM.
 1527年には戸坂氏は、戸坂北方の松笠山を死守する働きを見せ、武田氏忠臣として功を上げているのですけど──X-2年:1539(天文8)年の閥閲録記述は、さらりと毛利vs武田の激戦が記されます。
 即ち、毛利氏はハッキリ寝返って、武田氏滅亡(X=1541年)の先鋒に立ってます。

天文8年10月5日の毛利元就感状写によると,大内方の毛利氏と武田・尼子勢が戸坂で戦っており(閥閲録80),翌9年4月20日の某感状写では,戸坂要害の攻略のことが見え(芸備郡中士筋者書出),同10年には武田氏が滅亡する。〔角川日本地名大辞典/戸坂(中世)〕

 X-1:1540(天文9)年に戸坂要害を、毛利側記録では元就が陥した訳ですから、かつての同僚・戸坂氏を滅ぼしたことになります。

銀山城も毛利元就にはげしく攻められ、あやうくなります。そのころ、戸坂入道道海は、銀山城の最後の城主、武田光和の子、竹若丸(一説には光和の弟、伴下野守の子、重信の遺児(いじ)ともされる)を連れて太田川を渡り、対岸の安国寺(あんこくじ)(今の不動院(ふどういん))に逃れたと伝えられています。この竹若丸が後の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)といわれています(「安国寺恵瓊」河合正治・著)が、確かな証拠(しょうこ)はありません。また、もし安国寺恵慶が武田氏の遺児であれば、自分を滅(ほろ)ぼした毛利氏のために働き、毛利氏と命運(めいうん)をともにすることが不自然ということで、疑問(ぎもん)も投げかけられています。(「広島市の文化財第23集 不動院」3ページ)〔後掲松田/第2章〕

 上記の安国寺恵瓊=戸坂氏末裔説は、ほとんど天海和尚=明智光秀説に近いトンデモ説で、かつどの立場が何の目的で吹聴したものか想像できません。
 後掲松田は以下のように記します。──これが最も蓋然性が高い事実でしょう。

 天文8年に大内義隆による武田氏への攻撃がはげしくなり、翌年(よくねん)(1540年)、戸坂城は岩鼻(尾長山)から攻め上った大内義隆の軍勢によってついに落城してしまいます。そして、城主の戸坂入道道海は専教寺の裏(うら)のかしの木の下で腹(はら)を切って死んだと伝えられています。戸坂入道道海の墓(はか)とされるものが茶磨(ちゃすり)山頂より南に少し下ったところにあるということですが、今は藪(やぶ)におおわれていて見つけにくくなっています。〔後掲松田/第2章〕

 大内氏はまず戸坂を陥し●●●●●●●●●、翌年ゆっくりと武田本城を滅ぼした。この経緯だったなら、大内による武田崩しの決戦は戸坂城攻防だった可能性が高くなります。
 ただし──次は芸藩通志、一次史料性は低いけれど当事者によるバイアスは低いと期待できる史料です。ここには「決戦!!戸坂城」の情景は描かれません、

茶臼山 戸坂村にあり、戸坂入道道海が所保なり、武田の麾下なりしが、罪を得て滅さると云、〔芸藩通志(戸坂城の記述)←後掲城郭放浪記〕

 戸坂入道道海は「罪」を得た。そこから順接で「滅さ」れた、と書かれます。武田を裏切った罪で、というのが分かりやすいけど、大内又は毛利への内通に背いた罪で、という仮説も成り立たなくはありません。芸藩通志の記述は、少なくとも──武田-大内最終決戦の最中に、戸坂氏は何か政治的なアクロバットをやったらしいことを窺わせます。かつ、下記のとおり戸坂氏が武田氏滅亡後も永らえたという顛末は、その「罪」は大内・毛利には許容しうるものだったことを意味します。

実は戸坂氏を打ち負かしたのは大内勢なのか、武田勢なのかがはっきりしていないのです。というのは武田氏が滅ぼされたあと、戸坂氏は大内氏や毛利氏の家来になっているからです。(略)
 武田氏が敗れた後、大内義隆に従った戸坂氏は温科(温品)に領地(りょうち)を与えられたということです。〔後掲松田/第2章〕

 あまり指摘がないけれど、大将が敗死して家だけは次代支配家麾下で存続する、というパターンは、約80年前の己斐城戦における戸坂信成譚と構造的に共通すると思います。同時代に一時は同格だった毛利氏ほど権謀術数を駆使して活路を開けなかったとはいえ、身を捨て、かつアクロバットを演じ、要するに何が何でも生き残る●●●●●●●●●執念で戸坂氏は中世を過ごしてます。
 個人的には、このパーソナリティは非常に海民的に思えます。

戸坂氏家紋〔後掲山城攻略記〕

戸坂は大内義隆の支配下(しはいか)にありました。天文11年(1542)には大内義隆がくるめ木神社に神料を寄付したいう記録が残っています。また、戸坂氏は大内義隆から毛利元就に与えられるはずだった温科(温品)を与えられたという記録もあります〔後掲松田/第2章〕

 後掲松田の出典はおそらく戸坂町誌、つまり狐瓜木神社神主・木村八千穂による同社文書だと予想されます。戸坂を得て3年後、武田を滅ぼして2年後の同社へ大内氏が寄進をしたのは、今度こそ恒久的に戸坂を領する意思表明でしょう。
 けれど、そうはならなかったというのは周知のことです。毛利氏が自立し、抗し、最終的に勝利したからです。
 狐瓜木神社への寄進までの2ないし3年というのは、戦勝後の支配地への措置としてはやや遅い。かつ、前記引用後半の、毛利氏が望んだ温品を戸坂氏に与えた、という記述が確かならば、下記の毛利氏戸坂入りと併せて読むと、武田崩しの戦後処理段階から大内vs毛利の確執が始まっていたことを窺わせます。

同(引用者追記•天文)21年2月2日の毛利元就・隆元連署知行注文によれば,この時大内氏の確認を得た毛利氏知行地のなかに戸坂が見え,以後毛利氏の支配するところとなった(毛利家文書)。これをうけて,同年5月21日毛利元就は戸坂の田畠40貫の地を山県就相に与えている(閥閲録92)。また弘治2年4月5日の毛利元就宛行状では,田4町7反・米14石3斗6升分の知行が福井元信に与えられており(同前119),山県・福井氏ら水軍勢力の拠点の1つとされた。〔角川日本地名大辞典/戸坂(中世)〕

 毛利元就が上記知行注文で大内氏から戸坂知行を確認されたのは、バイアスがかかっているであろう毛利家文書上ですら1553(天文21)年です。これは武田氏滅亡の1542(天文10)年から11年後。1555(天文24)年の厳島合戦のわずか2年前です。──時期的に考えて、大内氏は武田崩しでの戦功として戸坂を毛利に渡したとは考えにくく、むしろ毛利が半ば奪取したとする想像が妥当でしょう。WW2直前の日帝の仏印進駐を想像してください。

Haken03-4:戸坂氏不在の戸坂で毛利水軍急造

 この状況下で戸坂氏を温品に配したなら、戸坂氏系勢力に故地を狙わせる、つまり戸坂氏を対毛利戦の露骨な「捨て石」として打ったと考えるべきです。
 また、前々章(Haken4-1:毛利天文年間急造水軍)で触れたように、当時の毛利は対大内戦を想定した水軍急造に追われていました。少なくとも白井水軍は完全に大内方、戸坂氏も同様の気配が強い。即ち、前掲連判状の連著者層、武田氏時代の水軍糾合層は多くが大内方に靡いたように見えます。
 上記引用で戸坂に知行された山県・福井氏とは、前掲(→後掲光圓寺)の川の内衆、つまり武田氏麾下で糾合された層より下位の一次集団です。
 この点だけから敢えて図式化するなら──


大内⊃武田遺臣:水軍親方層
(陶)(海民ブルジョア)
 ↕ 厳島合戦
毛利⊃武田遺民:水軍最下層
  (海民プロレタリアート)

 つまり毛利の急造水軍は、その建造期間だけでなく、太田川デルタの海民をほとんど直接に組織化したという点で、武田・大内水軍とは次元を異にする途方もない難事業だったのではないかと思えるのです。当然、その際に知行を山県・福井に与えたのは、現代の我々から見る以上に破格の措置だったのではないでしょうか。
 この止むに止まれず実践された「海民超優遇策」が、その後の太田川デルタのみならず安芸海域での海民の活性化をもたらした可能性がある、と本稿では考えるのです。
 ただ、この構図だと大内水軍方の第二層に属する戸坂氏は、この後の瀬戸内海を統べる毛利水軍から排除された格好になります。この点について、山城攻城記は興味深い記述を引用しています。

(東岐波の隣町である)阿知須町には本竜寺という真宗寺がある。この寺は元東岐波磯地貞宗にあったもので、現在(昭和30年代をさす)でも姓を部坂といい紋所は中に紋様のない松皮菱である。この寺から西本願寺へ出した届書の控によると「天正十一年(1583)芸州戸坂城主部坂左近道正尼子氏の乱に際し落城して磯地に来り草庵を結びて住す。享保六年(1721)十一月廿三日阿知須に移転す」とある。(註26)〔後掲山城攻城記〕※原註26)出典 『宇部市東岐波部家文書目録』11-12頁

 この引用史料の年代は目茶苦茶で、本能寺の変(1582年)の翌年に、尼子氏※が戸坂城で反乱するはずがない。

※1566年月山富田城で主家滅亡。遺臣・山中鹿介に擁され秀吉軍前線・播磨上月城主となった尼子勝久も毛利軍に攻められ1578年に自害。

 ここで山城攻城記は、天正11年は元号の誤記で、原文は天「文」11年だったのではないか、という説を唱えてます。これが正しいと仮定すれば──1542(天文10)年の武田氏滅亡の翌年、己斐城から流れついたもう一つの戸坂氏、東岐波・部坂氏の居住地へ、失われた安芸・戸坂から渡ってきて寺を開いた人がいた、という伝承になります。
 戸坂氏がここまで触れた性格上海民的な集団だったとすれば、政治勢力としての滅びに関わらず、海浜を流れて生き延びた可能性は高い。──山城攻城記も別データで確認しているけれど、試みに、名字由来netで「部坂」姓の分布を見ると──
全国360人(100%)
うち山口県に210人(58%)
うち東岐波のある宇部市に160人(44%)

「部坂」姓の分布〔後掲名字由来net〕

■Haken04:江戸期からの戸坂の光景

 下記引用で後掲松田は、太田川デルタの中世の商業地が西岸に偏っていた点を指摘します。──「廿日市」(現・市名→GM.)の地名の史料初出は三郎次郎詫状(小田文書)1454(享徳3)年〔角川日本地名大辞典/廿日市(中世)〕。現在の祇園町(→GM.:広島市安佐南区)付近と言われる佐東八日市になると、さらに古く1319(文保3)年※。
 その他、JR駅名になっている五日市(1580(天正8)年成立「房顕覚書」初出〔角川日本地名大辞典/五日市(中世)〕。五日市町誌は中世の定期市に因むと記す。)や広電駅名・十日市(高田郡吉田の十日市場を移したと伝わる)があります。


 太田川の西側はそれまでに交通の要として市が栄えていましたが、このころには太田川の東側も経済的に発展してきていたと考えられます。毛利氏が吉田の郡山城を修築するとき、あるいは新しく広島城を築くときに「戸坂米」を使うようにと書いた文書が残されていますが、これは、戸坂でとれる米を使うようにというだけでなく、米を集めておく場所として戸坂が使われていたということなのかもしれません。〔後掲松田/第2章〕

 東岸河口部には既に触れた海田の二日市(海田編→■レポ:中世海田の海岸線)や府中の三日市があり、東岸の戸坂や牛田だけに市が立たなかったような印象を受けなくもないけれど、X日市という地名慣行が中世後期以降だったからとか、旧・太田川の流速や堆積が輸送船着岸に不適合だったとか、微妙な理由によるものだったように思えます。
 後段の「戸坂米」はかなり記載頻度が高く、上記説明通りなら戸坂に米の倉敷地があったことになります。商業地でなく官専用の貿易地域だった、ということでしょうか。太田川変流に至る環境変化のどこかで俄に積載港として使えるようになった場所を、毛利が専用に押さえたのかもしれません。
 広島藩時代の戸坂の記録からは、全般的には農地ながら、交通の要所だった気配も窺えます。

広島藩領。浅野家家老上田氏給知。村高は,元和5年「知行帳」,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,081石余。なお元和5年「知行帳」には「へさか村」と見える。「芸藩通志」によれば,戸数283・人数1,350,牛103,舟16。産物は牛蒡。川船稼ぎもあった。また六尺と呼ばれる駕籠かき奉公人も多かったと思われる(新修広島市史)。〔角川日本地名大辞典/戸坂(近世)〕

八木・戸坂付近の太田川流域〔後掲西原の歴史〕

Haken04-1:デルタ北部の古川と新川

 前々章(→矢賀・牛田【特論】/Haken2-5:1607(慶長12)年太田川変流(西遷))でご紹介した太田川河口の西遷の際、デルタ北部の戸坂付近では川筋は逆に東遷しています。
 おそらく太田川は自身の運んだ堆積によりこの地域の地形を形成し、その高みを避けてこのように流路を再々変えて来たのでしょう。ヒトの記録する時代にも、古川よりもう一つ西(安川)を流れた時代があるらしい(上図参照)。

 太田川の本流は大洪水によって度々流路を変え鎌倉時代に安川流域から古川流域へ、更に江戸時代に戸坂と東原の間、現在の流域へと変わってきた。〔後掲西原の歴史〕

 戸坂にとっては、1607年以降、集落北にぶち当たることになった太田川との闘いの時代が始まることになりました。

太田川は慶長12年の洪水で八木から当村間の現流路を形成。水害常襲地であり,護岸工事が繰返し行われ,享保13年には大須唐樋ほか2か所を石唐樋に改造。〔角川日本地名大辞典/戸坂(近世)〕

 面白いのは、戸坂のみならず東遷域で広く用いられたのではないかと思いますけど、ごく最近まで太田川新流域を「新川」と呼んでいたらしいことです。

慶長(けいちょう)12年(1607)の大こう水で川の流れが現在のように変わりました。(それで、もとの太田川を古川とよび、新しい流れの方を新川とよぶようになりました。昭和の初めごろまで太田川を新川とよぶ人はたくさんいました)(略)
 戸坂は太田川の流れが変わったために、太田川が口田(くちた)の方から流れてきて、大きくカーブしているところの曲(ま)がり角(かど)にあたるようになりました。それで大雨が降ったりして水のかさが増し、流れが速くなってカーブにさしかかる所ではそまつなていぼうだともちません。
 江戸時代から洪水の被害についてはたくさんの記録が残されていますが、この状況(じょうきょう)は明治になっても変わりませんでした。戸坂は毎年のようにこう水に見まわれています。〔後掲松田/第4章〕

 後掲松田〔第4章〕が挙げる大水害には、次の大正8年のものがあります。記録のない江戸期にも、同様の水害は繰り返されたでしょう。

◯1919(大正8)年水害
(家屋全壊)45軒
※「村の半数の家が被害」
(家屋浸水)62軒
(田畑埋没)22ha
(田畑浸水)45ha
(被害総額)30万5390円
 ≒8.5億円

※(大正)1円≒(現代)約2,790円〔後掲レファレンス協同データベース/大正10年頃〕※中央値の金の価値を採用
定用水碑〔後掲地域散歩〕→GM.

Haken04-2:八木との争い

 古川流域では変流前には農業用水を古川から取水しており、変流後は水不足に悩まされます。江戸期に旧・太田川水域を「復活」させる用水路計画が何度も繰り返されたらしい〔後掲西原の歴史〕。この水路は、ようやく桑原卯之助(1724生-83没)が丹念な現地調査により取水口を「十歩一」※に取ることで1768(明和5)年に完成します〔後掲中国新聞デジタル2017〕。

※詳細位置は不明ながら、八木城山の南から3.75km上流〔後掲西原の歴史〕。ただし「十歩一」は前記1919(大正8)年水害後により上流の「鳴」に移された。さらに現在は、太田川発電所(上八木駅より1km→水力発電所ギャラリー 中国電力太田川発電所 – 水力ドットコム)から水の全量が供給され、一部区間を八木隧道(地下トンネル)が結ぶ形に転用〔後掲広島市/上八木ルートの概要〕。

 ところが今度は、八木用水への堆積土砂の流入が問題となります。変流は太田川が自身の堆積で古川にたどり着けなくなったから起こったわけで、その流路を人工で復活させたのですから当然の現象です。──江戸期にも熊野忠左衛門(1791生-1873没)が堤防修築に功を上げています。

※上記桑原卯之助と熊野忠左衛門の功労碑(→GM.)は八木用水に近い細野神社にありましたけど、2014年8月の広島土砂災害で流失。土砂中から発見され元の位置に戻されました〔後掲中国新聞デジタル2017〕。

 ただ、この八木の涙ぐましい努力に強行に抵抗したのが、戸坂の人々だったらしい。

 八木の比原河原(ひばらかわら)は古川と太田川の分かれ目にありました。そこから今の安佐南区川内・中筋・古市のあたりに用水路が引かれていました。
 ところが明治43年(1910)それらの村が用水路に土が流れて入り、うまってしまうのを防ぐためという理由で勝手に堤(つつみ)を作りました。すると、ふつうだったら、水が増えたら比原河原に流れこんで下流がこう水にならないのに、堤ができると増(ふ)えた水が他の村にこう水をもたらすおそれが出てきました。
 心配した戸坂・口田・落合(おちあい)・深川(ふかわ)の村は、こぞって八木比原河原の堤(つつみ)に反対運動を起こしました。この問題は安芸郡の役所に訴(うった)えられた結果、堤は取りのぞかれることになったようです。〔後掲松田/第4章〕

「比原河原」の位置も不詳ですけど、現・比原橋(広島市安佐南区川内六丁目2→GM.)付近と推測されます。八木用水に準じた方法で堆積を食い止める堤だったと思われ、現代の土木思想からするとこの地点の水防構造物が本当に戸坂の水害を招くベクトルの行為だったのか、疑問です。安芸郡役所での議論も技術的に精度の高いものではなく、パワーポリティクスで決着したのではないかと思えますけど──とにかく結果的に、八木側は堤を壊さなくてはならなくなった。
 相当な遺恨を残したでしょう。ただいずれにせよ、太田川の統御は、この地域の人々にとって衆知と政治力を結集してかかるべき巨大な課題だったことは確実です。

Haken4-3:戸坂の船着はどこだったか?

 ここまで戸坂海民とぼんやり記しつつ、船が具体にどこに着いたのか全く材料がありませんでした。江戸期の伝承には二箇所が初めて示されます。

太田川には千足渡し・樋口渡しの2つの渡し場があり,対岸の東原村との間を結んだ。また可部方面から広島仏護寺裏までの船便もあった。安芸大橋は昭和27年千足渡し付近に架橋された。〔角川日本地名大辞典/戸坂(近代)〕

(再掲・拡大)昭和初期の戸坂村の「字」表示地図〔後掲戸坂城山学区〕※上部ピンク丸は渡し推定地(右部同はJR戸坂駅:目安)

「樋口渡」は前掲「字」表示地図に記されます。「樋口」は地名ではないようなので、おそらく前掲角川にあった護岸工事で設けた唐樋※に因んだ名称ではないでしょうか?

※堤防の一角にがっしりと石垣を積み上げ、水路に石柱や大きな木の柱によって樋門を組み上げ、巻きろくろによって用水を調整した施設。現存:草深の唐樋門(福山市沼隈町)〔広島県教育委員会/広島県の文化財/草深の唐樋門

 他方の千足渡しは現・安芸大橋の位置ですから、両渡しはさほど離れてはいません。──この部分の筆はその東西とはトーンが違いますし、「尻田」や「川根」といった字名からは河口のような感じを受けますけど──そこまで穿って見なくても、この付近(戸坂外科医院旧呉市取水場)が船着きだったと推定されます。
 ここはおそらく渡船だけの船着きではなく──

戸坂分院で扱った被爆者数
(略)
2.大芝、長束から渡船で川を越えてきた約1500人
3.船舶工兵隊の舟で太田川を運ばれてきた約2000人〔後掲戸坂公民館〕

 大芝・長束の位置は次の図をご覧ください。つまり定期便かどうかは定かでないけれど、現・JR横川駅のある洲やその北対岸付近からの3km圏程度の渡船も存在していたことが分かります。日常の光景なので、非常時にしか特段の記録には残されなかっただけです。

大芝・長束・広島城と安芸大橋の位置関係図
 なお、3.の船舶工兵隊の舟は、ほぼ爆心地南西500mの水主町(現・加古町)付近からピストン輸送をしたものと推定され※、戸坂の船着きはこれに耐えうる機能を有していたと思われます。

※船舶工兵は船舶司令部統括※※の兵団・陸軍船舶部隊(通称「暁部隊」)の連隊で、終戦までに第58連隊まで設立(軍隊符号SeP)。1945年8月6日の原爆投下の翌7日には本拠宇品から「広島警備本部」として広島県庁(当時・水主町=現・加古町→巻末参照)・県防空本部(1941年県庁内に設置、1945年県庁・市役所内に分設〔後掲広島平和記念資料館〕)を指揮下に入れており、事実上水主町〜国泰寺町付近に総動員で駐屯、市内の救援・警備活動の指揮をとる。なお、従事した部隊員から多くの二次被爆者が出た。また、主に壊滅した広島電鉄インフラの復旧のため、部隊所有のマスト300本が電柱に転用され[7]、資材投入も徹底的になされた模様。 *原注7 『広島電鉄開業100年・創立70年史』110ページ
※※台湾陸軍補給廠→1904陸軍運輸部→1937第1船舶輸送司令部(広島市宇品港所在)→1940船舶輸送司令部→1942船舶司令部〔wiki/船舶司令部〕

 これは南の市街中心部側だけでなく、北の上流・加計からの舟の中継地になっていた情景を、少し後の時代のものでしょうけど後掲松田は伝えます。

加計から広島に通う舟に広島の町での買い物をたのむこともできました。これを「トオカイサン」(「遠買いさん」という意味)とよんでいました。トオカイサンが船着(ふなつ)き場(ば)に近づくとほら貝を鳴(な)らして知らせました。
 だいたい朝に川を下って行き、昼から上ってくるというのがきまりでしたが、上りは帆(ほ)をあげて風の力を利用して川をさかのぼりました。(略)
 この舟は西区の仏護寺(広島別院)の裏(うら)まで通っていました。〔後掲松田/第3章〕

 おそらく「◯時頃にはAのトオカイサンが来る」という感じだったのでしょう。「この世界の片隅で」の冒頭で描かれる、江波から元安川までの乗合舟の情景です。
 面白いのは、これが陸上交通でも似たような仕組みがあったらしいことです。

広島の親せきにモチや野菜などをことづけたいときや、町での買い物をたのみたいときには矢口から毎日出ていた「マチビン」という大八車で荷物を運ぶ人にたのむこともできました。 
「マチビン」は大正のはじめのころまであったそうですが、バスや汽車が通るようになって利用されなくなったのでしょう。〔後掲松田/第3章〕

 では現代の常識的な鉄道やバスは?というと、早い方の鉄道が1915年。明治維新から終戦までの77年間のうち、約2/3の期間は現代的な交通インフラは無かった訳です。

 芸備線(げいびせん)が開通(かいつう)したのは大正4年(1915)4月28日のことでした。はじめて汽車が通ったときはみんな手をたたいてよろこびました。(略)戸坂駅ができたものの1日の利用者はだいたい70~80人ぐらいのものでした。やはり広島まで片道16銭の運賃(うんちん)は多くの人にとっては高く、広島までなら歩いた方が良いというわけでした。〔後掲松田/第3章〕

 それでも芸備線のインパクトは大きかったのでしょう。戸坂には、戸坂駅に続き「石ヶ原駅」が造られています。後掲松田は現・百田団地(→GM.)の下の方だったといい〔後掲松田/第3章〕、wiki/石ヶ原駅には戸坂大上と書かれます。1941(昭和16)年、つまり開戦の年に廃駅※。

※同wikiによると、当時は安芸中山駅も存在した。ただこの駅と石ヶ原駅はガソリンカー専用駅で、戦時統制によりガソリンカーが廃止されたために廃止されたという。*原注出典:石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年、269-270頁

 バスの方は、そのさらに11年後です。

 バスに乗って広島の町に出られるようになったのは大正13年(1924)浪花(なにわ)バスが広島の八丁堀と矢口の間にバスを走らせてからです。バスは3台あって、1日5~6便走っていました。10人乗りで、バスに乗りたいときは道すじに旗(はた)を立てておきました。するとそこにバスはとまって、ブウブウ鳴らして合図(あいず)してくれたということです。広島まで片道20銭ぐらいでした。〔後掲松田/第3章〕

 バスに乗る時に旗を立てる、という風習は個人的には初めて聞きますけど、他にもあったのでしょうか?何にせよ、極めて微笑ましい情景です。

■Haken05:農業と目まぐるしい副業

 現在の戸坂の光景からは想像がつかないのですけど──ここの黄金の稲穂が揺れる美景を、ハワイ移民たちが回顧したと言います。

 戸坂は農村(のうそん)でしたから米や麦(むぎ)、野菜(やさい)などを作っていました。米や麦の生産(せいさん)が主でしたが、戸坂の農民はせまい土地を工夫(くふう)して使い、その1反(たん)(300坪=面積約1000平方メートル)当たりの収量(しゅうりょう)は広島県の平均をはるかに超(こ)えるほどでした。今は住宅地に変わった戸坂の村は秋になると黄金の稲穂(いなほ)が一面にゆれ、たいそう美しい田園風景(でんえんふうけい)がひろがっていました。戸坂村から海外に移民(いみん)で行った人が戸坂の自慢話(じまんばなし)として、この田園風景と太田川の美しさ、太田川でとれる鮎(あゆ)のことを語っています。〔後掲松田/第3章〕

 生産効率のデータは見つからないけれど、戸坂の土壌は塩分が少ない分、南の干拓地と異なり稲作向きだったのでしょうか。
 ただ一方で、戸坂は副産の農作物でも著名だったという。

戸坂はごぼうと大根が特産品となっています。ごぼうは文化2年(1805)、藩主(はんしゅ)に献上(けんじょう)されるほどでした。〔後掲松田/第2章〕

 他に菜種油も産したという。これらは城下に運ばれ消費される商業商品だったらしい〔後掲大根役者〕。
 その性格上、特産品は時代により目まぐるしく転変してます。明治以降は、藍、麻と養蚕が興隆する。

初代の村長の土井醇一郎は藍(あい)商人でしたが、明治時代には戸坂村では藍作(あいさく)がさかんでした。当時は藍玉(あいだま)職人もたくさんいました。(略)
他には藍作と同じころに行われた大麻(たいま)の栽培(さいばい)があります。大麻は麻(あさ)織物や漁網(ぎょもう)の原料(げんりょう)になりました。けれども、藍作も大麻の栽培も明治の終わりごろにはすたれていってしまいました。〔後掲松田/第3章〕

 交易路を用いて売筋の特産を次々と作る、という戦略は、各地の海民に共通した技能、というか生計感覚です。戸坂の人々は、誰の指揮するわけでもなく、自然にこういった適応をしていったのでしょう。

 藍作や大麻の栽培に代わって戸坂村でさかんになったのは養蚕(ようさん)です。(略)養蚕は短期間(たんきかん)での現金収入(げんきんしゅうにゅう)になるので多くの農家が養蚕にはげみました。戸坂村は安芸郡で1,2を争う養蚕の盛(さか)んな村でした。村の農家のうち、約半数の農家が養蚕に取り組んだといわれています。太田川の土手すじには小規模(しょうきぼ)ながら製糸工場(せいしこうじょう)もできました。(略)養蚕のない時期にはい草(ぐさ)から畳表(たたみおもて)を織(お)っていました。それで、戸坂村では原料のい草も栽培されていました。
 けれども、大正から昭和の初期にかけてさかんだったこれらの工芸作物(こうげいさくもつ)の栽培も、昭和のはじめの大恐慌(だいきょうこう)や戦争などの影響(えいきょう)を受け、時代の変化とともにだんだんさびれていくことになります。〔後掲松田/第3章〕

 製糸工場については、原爆の被爆者が多数運びこまれた時、製糸工場にムシロを敷いて収容した〔後掲戸坂原爆の記録〕という記録が残ってますから、終戦時までは存在したようです。

Haken05-1:小田村との争い

 地図で確認して頂くだけでも分かりますけど、戸坂集落を唯一流れる戸坂川は、短い上にほとんどが平地=災害時の浸水域内で、保水量が極めて少ない。「日でりが13日も続くと水不足になり、30日も続くと涸(か)れてしまう」〔後掲松田/第4章〕川だったといいます。
 そこで、何と戸坂は北隣の小田村

(現・安佐北区高陽町小田(中小田公園→GM.)及び高陽町鳥越)

から水を輸入していたそうです。

江戸時代から戸坂の北部の田にはとなりの小田村から余(あま)った水を分けてもらう用水路(ようすいろ)が引かれていました。そしてその用水を使わせてもらうために小田村の地主(じぬし)に米を差(さ)し出(だ)していました。〔後掲松田/第4章〕

 余程の政治力が働いたのか、単に村の財力が豊かだったのか。近畿で言う琵琶湖と大阪市民のような関係にあったらしい。
 1912(明治45)年、戸坂村は有力地主等の共同出資(2135円)でポンプを購入。惣田・千足ふちに設置し、太田川から機械力で水の汲み上げを開始します。

小田村から水を分けてもらう必要がなくなったので大正元年から米を小田村の人たちに差し出すのをやめました。また、用水路にともなう経費(けいひ)を分たんさせられていたのも支払うのをやめました。ところが、戸坂村からのそういった収入をあてにしていた小田村の人たちは一方的にそのとりきめをやぶった戸坂村の人におこりました。そして大正6年(1917)1月8日に裁判所(さいばんしょ)に訴え出ました。大正12年(1923)、裁判の結果、話し合いで戸坂村の農民が小田村の農民に421円の和解金(わかいきん)を支払って決着(けっちゃく)することになったということです。〔後掲松田/第4章〕

先の換算率〔前掲後掲レファレンス協同データベース/大正10年頃〕を用いると
現代価値2790円/大正円×421円=1,175千円
 いつからの慣行だったか、何が争われた裁判だったか分かりませんけど、歴史的な契約を百万円ほどの違約金で解消してしまったのですから、政争としては戸坂は狡知に振る舞ったことになります。

■Haken06:「アメリカ村」

 角川はよく語られる次のような文脈で、移民の里・戸坂を語りますけど、以上見ていたようなデータからは、整合的でないことが分かると思います。

藩政時代、戸坂は浅野家の家老である上田宗箇家の給地となっており、村人たちは農業のほか、太田川の水運に従事した。しかし川が大きく湾曲する地点でもあったことから、昭和期の太田川改修事業の完成までしばしば水害に悩まされることになった。近代以降、安芸郡に属した戸坂地区(戸坂村)は、ハワイ・アメリカへの出稼ぎ移民を多出する「移民の村」として知られた。〔wiki/戸坂 (広島市)〕

 災害地で困窮したから外地へ出た、という文脈ですけど、上田宗箇家は浅野家家老です。前記副業を含む農業生産力を持ち、交易も盛んだった、という状況は、「だから移民した」という内容には順接しません。
 既に挙げた次の坂の事例を見ても、定住しなくても生存できる集団だったと見た方がよい。やや無責任に言えば、移住できるから災害地でも住んだ、とも考えられます。

内部リンク→《第十次{46}釜山・南海岸》/影島山手(下)/瀬戸内から朝鮮へ魚を釣りに

坂村漁民坪川甚三郎ら4人が,対馬への出漁中,釜山まで渡航し,漁業上必要な事柄を調査したのは1877年(明治10)のことであった。その翌年にはタイ・フカなどの釣りの目的で出漁し,また1883年(明治16)からは網漁業を目的に朝鮮海に渡っていた。[坂町1985←金柄徹(キムピョンチョル)「家船の民族誌━現代に生きる海の民━」(財)東京大学出版会,2003]

 昭和20年代、芸備線の車窓から見る戸坂の家々の屋根に瓦葺きが多かったという伝えが残っているといいます。戸坂の「2軒に1人の割合で移民に出ている」と評される。
 どんなニュアンスか分かりませんけど「アメリカ村」という別称も、あったという。

Haken06-1:戸坂発ハワイ行き

政府のあっせんで行われたハワイへの移民は明治27年まで26回あり、戸坂からは全部で151人(うち、女性34人)が渡りました。〔後掲松田/第5章〕

 明治政府が公認したものとしては※1885(明治18)年に開始された「官約移民」を前提にすると、年間15人ずつがハワイに渡ったことになります。

※カメハメハ五世任命のハワイ王国在日本総領事ユージン・ヴァン・リード(米国人)が横浜で募集した移民約150名が乘る英国船サイオト(Scioto)号は、1868年6月にホノルルに到着している。江戸城開城(同5月)の翌月であり、幕末の混乱と戊辰戦争の最中に既に民間のハワイ移民は始まっていました〔後掲ハワイ州〕。

移民の一人が持ち帰ったお金が最高で736円、最低で100円だった(明治19~22年)ということですが、そのころの戸坂村の農家1戸あたりの収入が1年で39円34銭7厘(りん)でひとりあたりに直すと7円85銭ですからみんなが目をむくのもあたりまえです。〔後掲松田/第5章〕

 1894(明治27)年ごろ、ハワイの日本人の数は全人口の2割に達します。1898(明治31)年にハワイ王国がアメリカに併合されてからは、一般にこの流れがハワイのみで止まらなくなった──と語られますけど──

Haken06-3:戸坂発アメリカ行き

戸坂村では明治23年から始まって、明治25年から年間10人ぐらいが出かせぎでアメリカ本土に渡っています。(略)戸坂村では次第にハワイよりもアメリカに移民する人の方が多くなりました。〔後掲松田/第5章〕

 戸坂からはハワイ併合に先立つ八年前の渡米者がいる、と後掲松田は伝えます。おそらく伝承で出典はないので確認は難しいけれど──その位には戸坂からの移民は「過激」だったのでしょう。
 2023年9月の中国新聞は、カナダで亡くなった戸坂出身の男性の所有物が、戸坂の子孫の元へ帰郷したと報じました。石原七太さんが所有したとされるアルバム一冊と勲章・賞状類が、モントリオール市居住の遺族から、戸坂の親族・忠男さん(七太さんの孫:2023当時80歳)に送られた、というものです。勲章類は、渡米前の北清事変(1899–1901年)従軍時のもので〔後掲中国新聞 2023.9.4〕、つまり少なくとも120年前の叙任によるものです。
 日系二世研究者ミチコミッヂ・アユカワ(「カナダへ渡った広島移民」明石書店,2012)による七太さん遺族からの聞き取りによると──七太さんはカナダ入り後に会社を経営するも、共同経営者の資金使い込みのため、製材所での労働に転ずる。ここでの事故で指を失ったため、その後は大家族での長屋住まいとなり、奥さん(同じく戸坂村出身)も内職をした、と記録されます。
 七太さん渡米は1902年頃と推測されています。忠男さんは七太さんに会ったことはないけれど、終戦後の記憶として──冬になると、モントリオールから麻袋が郵送されてくるので「毎冬、楽しみにしていた」。
 中には、多量の缶詰が入っていたそうです。

■Haken07:戸坂のWW2

 長崎に「どんの山公園」(→GM.)というのがあるけれど、戦前の軍都では時報兼射撃練習の大砲というのは割と日常的な光景だったようです〔wiki/午砲〕。

※1871(明治4)年に江戸城本丸に設置された午砲台から、陸軍近衛師団が正午の空砲を打ち始めたのが端緒とも。なお、皇居のに午砲(ドン)は1929(昭和4)年に廃止〔後掲江戸・東京あれもこれも〕。

時間は、電話で聞いたりテレビの時報(じほう)で時計を合わせることはできませんから、比治山(ひじやま)で正午だけ鳴らされる「ドン」の音で合わせたといいます。そのころは比治山での「ドン」の音が戸坂でもよく聞こえたのです。特にくもった日はよく聞こえました。天気の良い日は逆にあまり聞こえなかったそうです。〔後掲松田/第3章〕

 これは当時の精神的な景観としては、どうやら陸軍墓地に置かれていて、鎮魂と時報の便を兼ねたものだったように思えます。
 比治山から戸坂までは直線距離で5km近いですから、終戦までは市内各所にくまなく聞こえていたのでしょう。

1872年(明治5年)に比治山南部を陸軍墓地に指定[6]。(略)墓地の高台では、大正中期頃から1928年(昭和3年)4月まで「ドン」と呼ばれた12時の時報(午砲)として空砲を撃っていた[12]。〔wiki/比治山陸軍墓地〕

※原注6→『比治山をめぐる郷土誌』(段原公民館郷土誌クラブ、1985年)p15
12→『がんす横丁』(薄田太郎・たくみ出版、1973年)p140
※広島のドンは、長く広島城の「ヤグラ土手」にあったけれど、大正の半ば頃に比治山に移され、広島市役所の職員が毎日ドンを打っていたという〔後掲 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター/(十五)比治山のドン㊤〕。

マンガ内の広島陸軍第一病院「防空救護計画要図」〔後掲国際平和拠点ひろしま〕

 戦争が始まり、昭和20年に空襲※があると、戸坂には陸軍病院が急ピッチで建設されたらしい。

※最大のものとしては、昭和20年4月30日、B29一機が小町の中国配電株式会社等に10発の爆弾を投下。死者10人、負傷者16人、罹災者200人〔後掲総務省〕。

 当時戸坂には戸坂小学校の建物に軍の病院などの施設(しせつ)がありました。(広島第1陸軍病院戸坂分院)
 空しゅうなどでけがをした軍人は、まず戸坂の病院で救急処置(しょち)を受けて可部や亀山、大林の第1予備(よび)病院に運ばれる計画でした。また、戸坂駅の裏山には本土決戦に備えた野戦病院(やせんびょういん)の試作として5棟の掘っ立て小屋式の応急病棟(おうきゅうびょうとう)が作られていました。〔後掲松田/第6章〕

マンガに描かれる戸坂に避難してくる被爆者の列〔後掲国際平和拠点ひろしま〕

Haken07-1:人口の十倍の被爆者

 8月6日原爆投下。陸軍と市当局は自然、負傷者を戸坂へ集中輸送します。

同20年戸坂国民学校に設置された陸軍病院は原爆投下後広島市内から避難した被爆者を収容,あふれた被爆者は一般民家にも割りあてられた。〔角川日本地名大辞典/戸坂(近代)〕

 どういう命令がいつ頃出たのか、なぜか書かれたものがないけれど、後掲国際平和拠点ひろしまのマンガでは、翌7日には医療人材と物資も流入し始めたことを伝えてます(おそらく主人公軍医の証言)。

第一陸軍病院所属の太田分院、山口県の高水分院、下松の花岡分院と次々に救援隊が到着してきた。夜には九州と四国から軍医27名、看護婦10 0名、衛生兵100名、ものすごい量の薬を担いで来てくれた。〔後掲国際平和拠点ひろしま:マンガ内脚注〕

 数字の丸さからして、もちろん数値的な正確さは欠くでしょう。後掲松田の記述も同様でしょうけど、その規模を次のように伝えています。

 戸坂分院にやってきた負傷者は、太田川沿いの県道筋から約6000人、東練兵場(ひがしれんぺいじょう)や尾長・矢賀から中山峠を越えて約3500人、大芝(おおしば)や長束(ながつか)方面から太田川を渡って来たのが約1500人、市内から太田川を舟で運ばれて来た約2000人と、合わせておよそ1万3000人ぐらいだといわれています※。そして後に汽車で各地に運ばれて行った約6500人と少し良くなって病院に来なくなった約2000人を除(のぞ)く約4500人が治療(ちりょう)を受けていました。このうち死んだ人は21%の1300人だといわれています。学校に入りきれない負傷(ふしょう)した軍人たちは、それぞれの家で3~8人ぐらい割り当てられてめんどうを見ました。
 それぞれの家では、広島の町からにげてきた親せきの人や知った人もいましたから、それはそれはたいへんでした。食料や薬も満足にないなかで、それぞれの家ができうる限りの手助けをしました。〔後掲松田/第6章〕

※後掲国際平和拠点ひろしまのマンガは「三万人を超えるほど」と記す。これが事実なら、当日死者を除く死傷者16万人(≒14万人-6日当日死者5万4327人〔広島市発表←後掲中国新聞デジタル2019〕+73,130人〔後掲ながさきの平和〕)中、実に1/5が戸坂を経たことになります。

 近い時期の数字として1950年の戸坂の人口1,729人というのがあります〔wiki/戸坂村〕。戸坂には被災して居着いた人も多かったと伝わるので、終戦時の人口はさらに小さかったと仮定すると、流入した原爆被爆者は人口比の約10倍規模と推定されます。
「それぞれの家で3~8人ぐらい割り当て」たということは、つまり戸坂の全家屋が被爆者で溢れたということです。当然、全住民が応急の看護師になったのでしょう。
「看護師」と書いたのは、周知のとおり原爆症の知見は当時一切ありません。後掲国際平和拠点ひろしまのマンガでは四日目からと語られる、直接の外傷のない被爆者の多量死が、各戸の収容者にも訪れたわけで、そういう意味では当時の戸坂に治療者はおらず、ヒーラー(癒す人)にしかなりえない状況です。
 後掲国際平和拠点ひろしまマンガには、軍医のもとで小学生が給食する情景が描かれます。非常に印象深かったその2ページを転載させて頂きます。

マンガ(画・さすらいのカナブン 原作・肥田舜太郎「原爆と戦った軍医の話」)p63〔後掲国際平和拠点ひろしま〕
マンガp64〔後掲国際平和拠点ひろしま〕

 手当てとしては、水の代わりに井戸で冷やしたおも湯をあげたり、油の代わりにじゃがいもやきゅうりのしるをやけどにぬったりしました。昼間ははえが来ないように「かや」をつり、夜は小さなろうそくのもとで親身(しんみ)になってめんどうをみました。苦しんでいる人をいっしょうけんめい世話をした戸坂の村人の話はあまりとりあげられることはありませんが、戸坂のほこりといってもいいことだと思います。(略)戸坂まで逃げてきて原爆で亡くなられた方は約600人ぐらいだったそうですが、その方々をほうむったあとに供養塔を建てました。これは「原爆供養塔(げんばくくようとう)」として、今も長尾山桜が丘墓地(ぼち)にあります。〔後掲松田/第6章〕

 村民の貢献が数量的に分かる例として、投下翌々日の8日に行われた負傷者の鉄道輸送があります。駅まで半kmを6500名、つまり村民一人当たり四人分の患者の運搬を、この村はやってのけています。

負傷者の輸送は六日、七日から行われていたが八日から本格的に実施。戸坂駅から各分院十数箇所に約六千五百人(民間救護所の二千人含む)を汽車で輸送。担架で駅まで運ぶのは困難だったが、多数の村人の協力により進められた。〔後掲国際平和拠点ひろしま:マンガ内脚注〕

□レクイエム:木村八千穂さんの筆

「戸坂町誌」をまだ手に取れてませんけど、上記のかなりの部分がこの地誌によっているようでした。
 後掲松田の下記の書き方と名前からは女性と思えますけど、これも確証は得られてません。戸坂村の最後の村長で「くるめ木神社」神官だったことしか確認できませんけど──この方の研究・整理が本稿の全般を支えているので、長文になりますけど後掲松田の紹介を転載してシメと致します。

女性に参政権が与えられたのは第2次世界大戦(せかいたいせん)後のことです。
 女性にも参政権が与えられ、はじめての直接選挙(ちょくせつせんきょ)で選ばれたのが14代目の村長、木村八千穂(きむらやちほ)でした。そして、木村村長のときに戸坂は広島市と合ぺいすることになります。(昭和30年・1955年) それで、木村八千穂は戸坂村最後(さいご)の村長になったというわけです。
 木村八千穂の家は代々くるめ木神社(じんじゃ)の神官(しんかん)だったので家に昔から伝わる文書などを目にする機会(きかい)も多かったのでしょう。郷土(きょうど)の歴史(れきし)に自然にひかれていったようです。実は、戸坂村の役場に残されていた文書が大切に保管(ほかん)されてきたのも、最後の村長である木村八千穂のはたらきがあったからです。戸坂村が広島市と合ぺいするとき、「役場に残された文書は貴重な資料だ。決して捨(す)ててはならない」と木村八千穂は命じました。歴史に関してはなみなみならぬ関心を持っていた木村八千穂は、自分が一生をかけて調べ、研究した愛(あい)する戸坂の町の歴史を昭和52年、「戸坂町誌(へさかちょうし)」という本にまとめました。
 この「戸坂町誌」は戸坂の歴史をあらわした数少ない貴重(きちょう)な資料です。過去(かこ)にこれほど戸坂の町を愛して戸坂のことを調べた方があったおかげで私たちは今はもう忘れ去られているむかしのことをいろいろ知ることができるのです。〔後掲松田/第3章〕

寛永年間(1624年〜1645年)の広島城下の地図 / 図中「舩入」の北に「御舩作事部屋」が所在していたことが示されている。〔wiki/加古町・住吉町 (広島市)〕※ピンク四角:水主町(加古町)推定区域

■レポ:広島藩の水主町

 上記船舶工兵のパートで広島県庁(→前掲)を少し掘ってしまったのが祟って、原爆以前の県庁所在住所:カコ町について調べなければならなくなりました(いや調べなきゃいいんたけどね)。
「カコ町」は何と──古くは水主町。上記寛永地図では入江が存在しています。


浅野氏が雇った三百人

江戸期は広島城下の武家屋敷地。加子町とも書く。広島城の南方元安川と本川(太田川)に挟まれた地で,中島の南に隣接する。町名の由来は,地内に加子が多く居住したことによる。元和5年浅野氏は入国後まもなく紀州から引連れた船頭・加子100人のほかに新たに278人を召抱えて水軍を編成(新修広島市史)。寛永年間,藩有の119艘の船舶のうち81艘が当町付近に配置され(同前),当町南部には船頭・加子の拝領屋敷が置かれた。北部には侍屋敷が16・1万2,500坪余,中央部には御舟入があり,これに沿って御船作事小屋994坪・御船蔵456坪を設営(広島藩御覚書帖/県史近世資料編)。(続)〔角川日本地名大辞典/水主町〕

 紀州勢(百)とは別に「新たに278人」(約三百)雇用した、この三百が焦点です。この一挙に増やせた人数は、間違いなく五箇庄≒川の内衆でしょう。本稿の推測通り戸坂氏が彼らを束ねていたなら、「戸坂水軍」の系譜の者もいたでしょう。
 浅野氏広島入域の1619年まで彼ら海民が待っていたはずはないので、福島氏の下でも何らかの類似組織はあったと思われます。

(続)当町と本川対岸の六町目村を結ぶ六町目渡しが寛文年間,本川対岸の舟入村神崎との間の神崎渡が宝暦8年から,それぞれ開始(知新集)。藩主浅野重晟は享和~文化年間頃水主町屋敷を築き,4,000坪に及ぶ庭園与楽園を開いた(新修広島市史)。浄土宗円入寺は慶長8年の創立(現西区田方1~3丁目),住吉神社は本川に面した御舟入の入口にある。(続)〔角川日本地名大辞典/水主町〕

 以上の記録の中に、水主町の船入を掘ったという記述はありません。太田川デルタの新開の方向からもズレてますし、位置も半端です。つまりこの入江の形は、かつての五箇庄の時代から存続したものでしょう。

絵葉書「広島市水主町与楽園」明治末期~大正前期〔後掲ひろしまweb博物館/与楽園〕

 ただ、このエリアには「与楽園」という藩主別邸又は庭園がありました〔後掲ひろしまweb博物館/与楽園〕。現在はアステールプラザ(→GM.)の位置と伝えられ、権威的にはおそらくこの藩主邸を受け継いだのが広島県庁だったと考えられますけど……画像を見る限り、かなり水面が多い。推測するに、この庭園も船入の奥を埋め立てて造成した可能性がありそうです。
 もしそうなら、江戸期には既に、中世以前の原地形は少なくとも一部失われていることになります。

遠く見えない船入

広島町新開絵図(1728(享保13)年、広島市所蔵、個人寄贈)〔後掲広島市中区役所市民部地域起こし推進課「広島城南大絵図」〕※一部を拡大

 上記はこの与楽園を含む江戸期の図絵です。
 対して下は、戦前頃のもので、与楽園の位置が県庁になった後のもの。ここに描かれる県庁の敷地は東西南北に沿っていない、船入の延長と見える形状をしています。
「広島市街地図(複製・部分) 広島市役所 昭和13年9月[長船友則氏収集資料 200407-866]戦前の広島県庁舎は広島市水主町(現在の中区加古町)に所在し,西は県立広島病院,南は与楽園(もと広島藩主の別邸)に接していた。また,霞町の広島陸軍兵器支廠(ししょう)(昭和15年に広島陸軍兵器補給廠と改称)は,戦後県庁舎として利用されることになる。現在の県庁舎の敷地(基町)には,西練兵場があった。」〔後掲広島県文書館〕※一部を拡大

(続)慶応3年藩は海軍所を設立し海軍生徒の養成を開始,明治元年南講武所と改称(芸藩志)。同10年御船作事所跡に県立医学校が移転,ついで付属病院(のちの県立広島病院)が開設(広島細見縮図/新修広島市史)。同11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治11年県庁が与楽園横の旧家中屋敷跡に新築され,また同12年県立病院も県庁横に移転し,北隣中島新町の市役所とともに広島市の中枢地区を形成。同15年水主町新開の一部を編入。明治11年架橋の万代橋は大手町から県庁につきあたる通りにあり,俗に県庁橋と呼ばれた(広島みやげ)。〔角川日本地名大辞典/水主町〕

 角川の記述では県庁は「与楽園横の旧家中屋敷跡」に新築されたものということになります。ここでの「家中」は浅野藩の藩主邸(浅野家の中屋敷)を指すらしい。

明治16年頃の水主町風景〔後掲多賀谷 図4〕

※多賀谷コメント「県庁舎を描画することを目的にしている為、周辺景観は歪みがあることを留保しておく」

 船入自体は、中島小学校建設用地として遅くとも大正七年までに埋め立てたことが分かっています〔後掲多賀谷〕。
 この時期の地図まではっきりと残る、南西-東北の45度の道割は、しかし現代の地図には道の形にも筆のそれにも全く見ることは出来ません。原爆で全てが灰燼に帰したと思われます。
 この状況で後掲多賀谷さんらが復元した地図を、最後に挙げておきます。

(左)幕末期街区 (右)明治40年地割 復元図〔後掲多賀谷〕