FASE80-1@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#かねの骨\ぼーゔぁーのないん

* ぼーゔぁーのないん
[和訳]拝所から聞こえる「ぼーん」という奇妙な音を、昔の人が表現した言葉。ヨーカビー(旧八月八日。「妖怪火」とも書く)前後に起こるという。[前掲小原 原典:琉球大学民俗研究クラブ「民俗 第二号」1960]


🦍

~~~~~(m–)mコザ聖母
迷宮編
~~~~~(m–)m
最も沖縄な
沖縄市コザ。
また帰ってきて
しまいました。

世冨慶から山越え バックミラーに虹

[前日日計]
支出1300/収入1220
    ▼13.0[143]
/利益 80
[前日累計]
利益 27/負債 –
十ニ月ニ十八日(ニ)
0843まるみつ食堂
そば200
1114かね食堂
骨汁550
1307pont cookie
スコーン150
1640山羊料理 南山
山羊汁(大,脂多め)550
[前日日計]
支出1300/収入1450
    ▼13.0[143]
利益 150/
[前日累計]
利益 177/負債 –

 
夜もやはり雨は降ったらしい。
 現在はようやっと青空が雲間から顔を出した、という風情……だけど行けるでしょう。0802、出立。

朝、ベランダからの最後の名護市中風景
🛵
富慶交差点で左折。0811。「よふけ」と読ませるらしい。すぐに大きなIC。交通量は滅法多い。
 本島東岸を目指す。
 沖縄の山越え道は妙に高度感があります。怖い。路肩で追い越しを待つ間、バックミラーに短い虹。
 沖縄43km標識。

百五十 辺野古まるみつカップそば

R329名護-辺野古山越道

岸に出ました。
 0834。スゴい数の警備員のいる米軍基地ゲート。対面に掘っ立て小屋が続き、「沖縄独立」とかの過激な旗が並ぶ。──あ、辺野古か。
辺野古の基地の金網と海

843まるみつ食堂
そば200
 中味そばは昼しかないらしい。店に入ると、ずらりと並んだコップの向こうでおばあ二人がゆんたく(雑談)しとる。
 一杯150円。もらったカップに、汁を自分で入れて完成。店頭のベンチで、皆さん食ってはどんどん去る。それに倣いまして──
辺野古・まるみつ食堂で150円カップそば

や?いやいや、捨てたもんではないぞ?
 これだけのもんなんだけど──確かに旨い。麺もぷりぷりなら、汁も味わい深い。
 何より、一切れだけ入ったソーキが……頭を殴られたような濃厚な肉汁。少し漢方じみてるだろうか。一切れなので定かではないけれど──中味のおかず、というのはなかった。食べたかったなあ、ここの中味!
まるみつ食堂の中味そば(GM.より)

美らさ辺野古 時止まる松田かたばる

野座村に入る。0905。
 0910、鍋川という橋から海。潟原という地名になってたけど……本当に遠浅の海が伸びる。

潟原の曙光の干潟

鳥が飛び交う。美しい。
「潟原」という地名は、沖縄県内には意外に多い海岸地形地名の1つという〔後掲潟原【かたばる】:那覇市北西部←角川日本地名大辞典〕。北部のこの「潟原」は由来どころか読みさえ確認できてませんけど──印象的な土地です。
0913路上にて
🛵
田という峠の集落。0918。
 佇まいもこじんまりして印象的ですけど、非常に和風の地名です。角川で引くと……何と沖縄ではここしかヒットがありません。
松田集落

知屋という古名という。

昭和21年~現在の宜野座(ぎのざ)村の字名。金武(きん)村古知屋が改称して成立。字名は集落が立地する松田原の原名による。戦後,米軍の建設工事が盛んとなり,沖縄本島中・南部への出稼ぎが急増するなかで,都市地区への建材や薪の供給地として林業が活況を呈した。しかし,昭和30年代に山地が米軍の軍事演習場(キャンプ・ハンセン)として接収され,林業は衰退する。昭和25年以降パイナップルが導入され,サトウキビの栽培と合わせて一時は盛んであった。〔角川日本地名大辞典/松田〕

 0923。沖縄29km表示。

九時過ぎて漢那が全く分かんない

宜野座村からの路上にて。正面は明治山(巻末参照)

那のバス停を過ぎる。0926。
 沖合いの島にコンビナートが林立してる。宮城島らしい。
「漢那グシク」と漢那福地川

那福地川を渡ったところで漢那グシク案内板(→GM.)を見つける。0932。

前方の石灰岩の岩山一帯を称している。他のグシクで見られる石垣等の防御力施設や拝所等は認められない。また、当グシクに関する伝説や祭祀も伝えられていない。しかし地域の人々からは、「漢那グシク」と呼ばれ、グシク内からは少量のグシク時代(AD12〜16世紀)の遺物が採集されている。また、トゥールガマと呼れれる(ママ)洞穴には遺跡が残されている。
 河口の入江は、かつてンナトウ(港)で山原船が出入りをしていた。村内では、松田潟原のキンバル川河口のグシクと宜野座大川の大川グシクが港の近くに立地している。これらのグシクは港と深い関わりがあると考えられている。グシクが立地する地質は、古第三紀嘉陽層の砂岩を基盤に頂上35メートルには、第四紀隆起珊瑚石灰岩が堆積して独特な地形を、形作っている。
2000年3月 宜野座村教育委員会

 かつては岬になっており、金城湾最奥だった、という程度しか分からない。近くに社どころか道も見当たらない。
 ただ……位置的に意味がありそうに感じました。もちろん漢那という地名も日本でここだけです※。何より雰囲気がどうにも……(巻末参照)。

※中国では、雲南省の普市瀾滄拉枯族自治県にのみ漢那河(→GM.)という地名がある。まあ関係なかろうけど、かほどに漢字文化圏的にも稀な地名ということは分かります。
金武湾と漢那位置図(旗の位置:国土地理院地図)

金武 屋嘉 石川警察署 安慶田

🛵
953、金武町に入る。
 橋を渡った所で海側に農村が広がりました。左手東側の平野は広く、右手西側が狭く山が近い。
 ありゃりゃ?これは──金武の沖の道を通ってしまったか?──まあいいか。時間も押してる。

▶〔内部リンク〕→FASE101-1@金武編/Good old america
とぅむすずうたき

0958金武海側の農村

嘉港。完全に晴天になりました。1019──てゆーか、後日わざわざ訪問した土地を、この時は当たり前にスルーしてます。

▶〔内部リンク〕→FASE84-1/屋嘉収容所

屋嘉港から金武湾

の辺りの山側園地には、牛を除く動物だけが入域を許されてるみたい。牛は、行政に抗議すべきだと思う。
動物侵入禁止(牛以外OK)

分すべりこみ状態の時間になってきたので記録はポイントだけになってます。──もちろん、うるま市与那城の11時の開店時間に、です。
「1026、うるま市に入る。
 1030、石川警察前で左折。
 ひがしおんなこうさてんでさせつ
 あげたこうしてんさせつ」──終いには変換も正誤も気にせずメモってしまってますけど……とにかく間に合いました!

かねのほね 川田 赤道 ルートビア

かね食堂の骨汁

114かね食堂
骨汁550
 開いてた。
 550円でこれです。
 気取りなく、ででーんとした骨。汁もこれでもかと入ってる。前回の山羊と同じ汁で、薄い、水っぽいスープながら──絶妙な濃さと滋味が溢れてる。
 骨汁という料理は、これでいーんである。
かねの骨 鳥瞰図
🛵
田の十字路(→GM.)を直進してみよう。1207。──いつもは何となく左折して東海岸を走ってしまうんですけど、今日は「まるなが」にも行かないし。
 次の車道にも曲がらない。
宮里十字路(→GM.)、これもまっすぐ。
 よし出れた!「せきどうこうさてん。させつ」──とまた変換無しメモ。
 1235、A&W美里店。

知花左 コザ右 BCからデイゴ

🛵

あまわり丼──地域の英雄をドンブリに?

星公園を越えた先、知花一丁目まで来ました。
 全滅!?と思い帰りかけてたら──他の客に「あと5分で焼き上がるので」という説明を耳にしました。
 少し待とう。え?どこへ来たのかと申しますと──
知花一丁目の軒先から

307pont cookie
スコーン150
 ちか、こざととおって──この時、具志川環状からコザ十字路に抜けてますから、これも別途拘ることになった美里や越来も何となく通過してしまってます。

▶〔内部リンク〕→FASE88-1@美里元社交街
→FASE81-1@シン・大国ミロク\あまぐれおろちへ

 う。ようやっと、馴染んだ街に帰り着きました。コザ十字路から登り切ってセンター街・BCストリートへ右折。
 1332、常宿デイゴホテル投宿。

■レポ:漢那 花丁字は記されぬ煌めき

 漢那という土地について、書いた記述は角川以外あまり見つかりませんでした。角川によると「漢那誌」(漢那区誌編集委員会,1984)という地誌は存在するようで、2013年には続編「漢那誌続編1」が完成してますから〔後掲琉球新報デジタル〕、郷土史を育んでいる方々はおられるようなんですけど──

Russelia equisetiformisはメキシコと一部の中央アメリカ地域に固有種を持つが、現在は世界各地の熱帯域に広がる花

 直感・客観の両面で、非常に興味深い土地と見えましたので、以下、情報を整理してみます。

漢那の地理:ティーチ岳からタムンガー経由ンナトゥ

河川延長4.65km・流域面積9.0k㎡。河口から4.10kmは2級河川に指定されている。国頭(くにがみ)山地の漢那岳およびティーチ岳の南麓に源を発し,段丘上を南流して太平洋に注ぐ。流域は東海岸特有の海岸段丘(基岩は中生代白亜紀の嘉陽層に属する砂岩・粘板岩・千枚岩)で,標高60mから下流は緩やかに流れ,河口は狭い入江となり,両岸には琉球石灰岩層があってそこには急崖をなす石灰岩堤がみられる。(続a)〔角川日本地名大辞典/漢那福地川【かんなふくじがわ】〕

漢那福地川河口付近の水深〔後掲みんなの海図〕
※凡例 赤:10m未満、黄:10m台

の岩質はおそらく、水深のある川を形成している、ということです。──上記「みんなの海図」では川中まで水深が確認できず微妙ですけど、遠浅が基調の金武湾北側では少なくとも最も水深10m線が陸に近い。
 下記集積場「タムンジャー」と疑われるのは、多分次の地点。

漢那福地川河口1km≒「タムンジャー」推定地

(続a)河口をンナトゥ(港)と呼び,山原(やんばる)船の停泊地として近世から第2次大戦前までよく利用された。河口から約1kmの地点にはタムンジャーと称される薪や材木の集積場があり,ここから伝馬船が物資を河口の山原船に運んだのである。(続b)〔角川日本地名大辞典/漢那福地川【かんなふくじがわ】〕

 先の水深図で見る深海の近接地点に碇を下ろした山原船に、漢那福地川の川船から荷が積み下ろしされていたらしい。

漢那の茶業:家光と会った王子の植えた茶葉

 何とこの土地は、茶どころでもあるらしい。前記交易を前提にすると、交易が先にあって当地からの帰便で売るために開発された産物、とも仮定されます。

(続b)さらに約2km上流にはチャーシキ(茶敷)と称される低地があり,琉球ではじめて茶の栽培を行った場所と伝える。天啓7年(1627)金武王子朝貞が薩摩国から茶種を持ち帰り,漢那邑に植え,以後,茶栽培が始まったという(向姓大宗家譜/那覇市史資料1‐5)。現在は原野となり,その痕跡は認められない。〔角川日本地名大辞典/漢那福地川【かんなふくじがわ】〕

 位置的には、現・漢那ダムに沈んだ付近ではないでしょうか?

※沖縄県宜野座村教育委員会編・発行 『漢那福地川水田遺跡発掘調査報告書 グヮーヌ地区』 1993年でも同等の位置推定あり〔wiki/漢那ダム〕。

現在,漢那福地川の中流域に茶敷という地名が残っている(漢那誌)。〔角川日本地名大辞典/漢那村(近世)〕

 なお、茶を薩摩から持ち込んだとされる金武朝貞 (きん・ちょうてい)は、薩摩侵攻直後の王族の外交マン。これだけの大物が商品作物を持ち込んだこの場所は、何なのでしょう?

1600~1663(万暦28~康煕2) 尚豊王~尚質王代の摂政。向姓金武家の二世、尚豊王の弟。1629年、一紙目録の再交付の受領のため上国。34年、尚豊王冊封の謝礼使・佐敷王子朝益と上国し、将軍家光とも謁見する。沖縄に初めて茶を移入した。〔最新版 沖縄コンパクト事典2003年3月・琉球新報社〕

漢那の土の下:宋末白磁玉縁碗

 またもう一面、漢那は遺跡の宝庫です。しかも先史代から17Cまでの脈々たるものです。

集落東方の石灰岩段丘上の島尻マージ土壌地帯では,13の遺跡が知られているが,国頭マージ土壌地帯ではまだ発見されていない。遺跡には,沖縄考古編年前Ⅴ期の明紀原第1遺跡をはじめとし,後期の下袋原貝塚・漢那貝塚がある。また,グスク時代の漢那遺跡・ウエヌアタイ貝塚・明紀原第2遺跡があり,漢那遺跡からは,平地住居跡や13世紀頃の中国製白磁玉縁碗が出土している。その後に続くと思われる明紀原第3遺跡からは青磁・染付(青花)・古陶器(喜名焼・湧田焼)が採集され,また後世持ち込まれた可能性のある壺屋陶器の白釉の碗が出土することから,15~17世紀の遺跡と考えられる。これらの遺跡から,沖縄考古編年後期末頃から2群に分かれながら,壺屋陶窯の成立する康煕21年(1682)以前には2つの集団が形成されていたらしい。その1つが浜,もう1つが漢那の集落に発展したと考えられる。〔角川日本地名大辞典/漢那〕

 結論的に、異なる性格の2集団が推測される。また13C頃の中国製白磁が出土、という辺りももちろん興味深い。
 ただこれが、島尻マージ土壌域のみで、国頭マージでは出土がないというのはどう捉えていいものやら分からない事実です。中世以前の漢那居住者は、島尻マージと国頭マージの土壌を見分けて、はっきりと前者を選択して居住していたことが明確だからです。

沖縄土壌4種:沖縄土壌-国頭マージ-島尻マージ-ジャーガル

「沖縄土壌」と呼ばれる水成土壌が、沖縄本島を成す最も新しく大人しい地層です。さらに大別して、本島中南部の海岸地帯に分布する海成沖積層土壌と、河川の河口部及び周辺に分布する河口沖縄土壌とする捉えもあるけれど、ここでは単に「沖縄土壌」と呼んでおきます。
 対して残る3種は、古い土壌です。

沖縄県の主な土壌〔後掲琉球肥料〕

土壌区分/土壌のpH
 /土壌の色
  /特長
国頭マージ/酸性
 /赤色~黄色
  /粘質土壌・有機物に乏しい

島尻マージ/中性~弱アルカリ性
 /暗褐色
  /保水力が小さい

ジャーガル/アルカリ性
 /灰色
  /重粘性・排水性不良

〔後掲琉球肥料〕

 上記地図の金武湾最北端にご注目されたい。本島東岸、うるま市より北、つまり国頭では最も大きい島尻マージの塊が確認できます。この岩塊の西端が金武、東端が漢那です。
 ジャーガルはミネラルに富むけど粘着質、島尻マージは排水性に富むけれどミネラルを欠く。国頭マージは酸性が強く農産がパイナップルなどに特化する。沖縄の農業は、経験の積み重ねからこれらの土壌の違いを使い分けることで成立してきました。

(上)国頭マージ (中)島尻マージ (下)ジャーガル〔後掲沖縄雑貨うりずん〕

 漢那の農業の歴史上、これらがどんな意味を持ってきたのか、確実と言える知見がありません。ただ何らかの大きな意味をもっているように感じます。
 なかんずく、この観点で昨日までの本部半島を振り返ると──国頭で最も巨大な島尻マージの土壌地こそ、今帰仁です。また、沖縄土壌の本島内最大の地域が、名護及び羽地です。農業の後進地とされる沖縄の陸人は、これらの地域差をむしろ適格に把握して移住や開拓を繰り返してきた歴史を持つのではないかと思えるのです。

漢那の民俗:巨魚が尾ひれで作ったムラ

 漢那の地名の史料初出は極めて遅い。1635年現在の石高を記し1646年に薩摩に報告したとされる「高究帳」ですから、17C、ヤマトが江戸期に入ってからです。

「高究帳」では,かんな村と見え,高頭86石余うち田68石余・畑18石余。17世紀頃,「絵図郷村帳」に見える,はま村を編入。(略)「由来記」に2つのヨリアゲ森が見え,1つは真南風ノワライヅカサノ御イビとオラウセナデルヅカサノ御イビの2神を祀り,もう1つはカワヅカサノ御イビを祀る。1神だけを祀るヨリアゲ森の所在地は不明だが,かつてのはま村の御嶽である可能性が強い。ヨリアゲ森には,昔漢那の浜に大きな魚が寄ってきて,尾ひれで砂を寄り上げて集落を作ったという伝承がある。海に関する伝承にはニライ・カナイ信仰と関連するものが多いことから,ヨリアゲ森の1つはニライ・カナイへの遥拝所的な性格を帯びていたと思われる。村にはほかに,漢那ノロ火の神・神アシャギがあり,漢那ノロの祭祀(由来記)(ママ)。漢那ノロは,惣慶【そけい】村の稲・麦穂祭と収穫祭などにも携わっていた(同前)。漢那ノロに関する伝承は多く,地名にもヌール地という水田が残る。ノロをたたえた琉歌に「上に豊まれる漢那のろこもえ下に豊まれる川平山戸(上の地方で評判の高いのは漢那のノロで,下の地方で評判の高いのは川平山戸だ)」がある(琉歌全集1060)。また,6月祭には「六月祭ノオモイ」がノロによって謡われた(ウムイ98/歌謡大成Ⅰ)。(略)5年に一度は,地割が行われていたという(漢那誌)。〔角川日本地名大辞典/漢那村(近世)〕

 上記の琉歌はかなり苦労して探したものでしょう。ちなみに、おもろそうしには全くヒットがありません。
 ただし、漢那にはノロの美人伝説=不美人誕生譚が伝承されます。これらの漢那ノロに関する記述は、民俗的には相当の歴史を有することを示唆します。──5年に一度の地割もその傍証たりえます。
 後掲総務省のみが記しているところによると、その地理的中心地は現・漢那区公民館の付近だったといいます。

 現在の漢那区公民館の周辺はユウアギモー(ヨリアゲ森)と呼ばれる集落の祖霊神(オラウセナデルヅカサノ御イベ)を祀り、ニライカナイの神(真南風ノワライヅカサノ御イベ)を遥拝する御嶽で、1713年に琉球王府が編纂した『琉球国由来記』にも記載されている。〔後掲総務省〕

 文字文化を持つ三山の文化圏外に、中世までの漢那の歴史は存在していたことを予想させます。かつ、尾ひれで砂を寄り集落を作った大魚譚などは、他に聞いたこともないけれど、少なくとも海民的なイメージです。言い換えれば──グスク系とは縁のない、あまり沖縄史が把握していない人々によってこの土地は拓かれています。



漢那の軍政:1年だけの漢那市

 現在の漢那に上記ユウアギモー=ヨリアゲ森の匂いが嗅ぎとれないのは、戦前の神道偏重期に国家神道の中心に変貌したためと後掲総務省は書いています。

 昭和13(1938)年、ユウアギモーには海外在住者の寄付等によって神殿が建てられ、氏神を祀って以降は「お宮」と呼ばれるようになり、漢那から出征する兵士が武運長久を祈願していた(写真3)。〔後掲総務省〕

写真3 漢那のお宮(1938年、宜野座村立博物館所蔵)〔後掲総務省〕

 さらにこの日にスルーした屋嘉と同様、沖縄戦直後の漢那には避難民が溢れ返った1年間がありました。中世の漢那の空気は、この時代に完全に一変させられたと想像されます。

宜野座(ぎのざ)村漢那の本集落と城原集落,金武(きん)村金武の中川集落からなる。沖縄戦で,昭和20年6月頃から沖縄本島中・南部の避難民が流入し,人口約3万人にも達した。「地方行政緊急措置要綱」に基づき市長・市議も任命され,漢那市が成立。役所として7部・6課と1組合が設けられ,住民の衣食住の確保・安定化に努めた。同年11月頃南部の玉城(たまぐすく)村・具志頭(ぐしかみ)村・糸満(いとまん)町と中部の宜野湾(ぎのわん)村の避難民が帰郷,他の避難民も同21年8月頃までに帰郷したため,市制は解消された(漢那誌)。〔角川日本地名大辞典/漢那市【かんなし】〕

写真11 海上輸送される捕虜(字漢那)(宜野座村立博物館所蔵)〔後掲総務省〕

 後掲総務省の聞取りによると、沖縄戦時に宜野座村地域に収容されていた人の発言として「私は収容所には入っていない。収容所は屋嘉(現在の金武町)にあった。」というものがあるという。つまり屋嘉は収容所だけれど漢那を含む宜野座は「難民キャンプ」の感覚だったようです。総務省は「宜野座村の民間人収容地(第1図)」という表現で次の図をまとめています。
第1図 沖縄戦時の宜野座村(数字は第1表を参照)(宜野座村立博物館所蔵、部分)〔後掲総務省〕

 かなり見えにくいけれど、漢那の旧ヨリアゲ浜の位置には①の番号が振ってあります。総務省の表(全体は後掲リンク参照)によると、そこは「真平原共同墓地」とある。多分、戦前の国家神道化の流れで沖縄戦没者の大規模墓地が作られたのでしょう。
 この墓地がどこへどのように移されて現在の漢那が形成されたのか、を語る資料は見つけることができていません。

■レポ:久志若按司道行口説

 内閣府沖縄総合事務局の北部国道事務所には余程の地域史家の方がおられるものか、沖縄古道考に傑出した、というかほぼここにしか書かれない記述があります。
 この中に、山原道についてのものがありました。読んでみると、地理学的に実に興味深いのです。

 金武から久志への国頭方くにがみほう東海道とうかいどうの道筋は山が多く、浜道はまみちが宿道として利用され、通行不能な区間は舟による海上の道が利用されました。この地域は、王府時代、首里城建設用材や 造船用材を産出する重要な地域であり、山奉行やまぶぎょう (注1)が山を視察してまわった奉行道も数多く残されています。
 王府時代の金武間切は、現在の金武町はもとより恩納村の大部分、宜野座村、名護市の一部を含む、広大な地域でした。
 金武間切は東宿あがりじゅくがやんばるへのびる最初の地域で、「金武やんばる」と呼ばれました。金武の宿道は多くの組踊の道行みちゆき(注2)にも登場します。〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/王府時代の道〕

「国頭方」は本島北半、「東海道」は同東岸を意味しますから、「国頭方東海道」は経度緯度のような表記です。
 山奉行は現代の営林署のような役所らしい。蔡温などの北部林野保護政策との関わりは定かでないけれど、創始が同時期なので関係はあるでしょう。

注1:山奉行 山林竹木を管掌する首里王府の役職で、山林を巡視して監督していました。17世紀に設けられたらしいが年代は不明。〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/王府時代の道〕

 金武の宿所というのは組踊に頻出という。中世にはそれほど重要な街だったのでしょうか?

筋立て:沖縄版忠臣蔵・久志若按司敵討

「久志若按司敵討」という組踊は、遅くとも18C末にはメジャーな歌曲だったらしい。尚家文書の戌の冠船(1838年)記録「冠船躍方日記」に1800年の冊封使歓待で舞われた記録があります〔後掲池宮〕。
 内容は中世の主君敵討です。想定年代ははっきりしませんけど、グスク時代でしょうか?

 天願の按司は、謝名の大主にだまし討ちに合い殺される。遺児となった天願の若按司と乙鶴も、逃げ延びる途中で謝名の臣下である富盛大主に捕らえられる。それを知った天願の分家である久志の若按司は、他の臣下らと供に東恩納番所へと向かい2人の救出に成功する。久志の若按司は、一計を案じ、捕らえた富盛の大主に、偽りの情報を流して逃がし敵方同士を仲違いさせることに成功し、ついには罠とも知らず久志の城に攻め入った謝名の大主らを捕らえ、首尾良く主君の仇討ちを果たす。〔後掲国立劇場おきなわ〕

天願の若按司(千代松)と乙鶴を探索する久志の若按司〔後掲Okinawan-lyrics〕

 国頭方東海道の記述は、亡主君の遺児を久志若按司が探索する道中のものです。昔からこの道行の場面は人気があるそうです。琉球舞踊では「久志の若按司道行口説」として独立した演目になることも多いという。前記注2に代えて全文を後掲マブイから採ります。

久志若按司道行口説原文:行けば程なく金武の寺

1.
命限りのいぬちかぢりぬ 出で立ちにいんぢたちに
有りし様変へありしさまかい 編笠にあみがさに
深く面をふかくうむてぃをぅ 隠してぞかくすぃてぃず
2.
久志の山路くしぬやまみち 分け出でてわちいんぢてぃ
行けば程なくゆきばふどぅなく 金武の寺ちんぬてぃら
お宮立ち寄りうみやたちゆい 伏し拝みふしをぅがみ
3.
南無や観音なむやくゎんぬん 大菩薩だいぶさつぃ
慈悲の功徳やじふぃぬくどぅくや 千代松にちゆまつぃに
急ぎ引合はせいすぢふぃちゃわし 賜れてりたぼりてい
4.
心に念じくくるににんじ 礼拝しりーはいし
いざやいざやといざやいざやとぅ 立ち出でてたちいんぢてぃ
伊芸や屋嘉村いぢややかむら 行き過ぎてゆちすぃぢてぃ
5.
歩みかねたるあゆみかにたる 七日浜なんかばま
石川走川いしちゃはいかわ 打渡てうちわたてぃ
エイえい 今ど美里のなまどぅんざとぅぬ 伊波村にいふぁむらに
急ぎ急いでいすぢいすいでぃ 忍で来るしぬでぃちゃる
〔後掲マブイ〕

元禄国絵図に記載された国頭方東海道の道筋〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/王府時代の道〕

 非常に興味深い。
「久志の山路」ということは、久志-金武道中が山道だった訳です。現在のR329以外のルートだったのか、あるいは同じ道がまだ鬱蒼とした景観だったのでしょうか?
 そこから「行けば程なく金武の寺 お宮」という表現ですからその間、漢那が書かれてません●●●●●●●●●●。上記の立場を採るなら、漢那が地名すら歌われないのはどうも変です。描かれないほど、金武よりも遥かに小さい集落だったということでしょうか?政治力のない、経済のみの「民」の土地だったということでしょうか?
 金武で久志按司が伏し拝んだのは、後掲マブイによると鍾乳洞が知られる「金武観音寺」及び「金武宮」(→GM.)です。金武宮は、地域を代表する願掛けの霊地だったことになります。

内部リンク▶FASE101-1@Good old america/金峰山観音寺
金武権現の祠

 伊芸というのは、個人的には後に頻用するYKB山原急行バスの休憩地・伊芸ICの土地でしょう。この土地には伊芸ノロがおり、オシアゲ森・中森・ミアゲ森の3御嶽あり(由来記)。「高究帳」に「いげ村」と記し、高頭124石余うち田118石余・畑6石余。屋嘉村の祭祀も管轄していたという〔角川日本地名大辞典/伊芸村(近世)〕。さらに──

乾隆18年(1753)津口勤番役が廃され,伊芸村の津口船改めは美里間切山筆者の管轄となった(地方経済史料9)。〔角川日本地名大辞典/伊芸村(近世)〕

と津口番≒港湾管理者がいた記録があるから、多分金武湾奥の寄港地はここだったと考えられます。運輸上の要地だったのです。
 伊芸と屋嘉が歌に記されるのは、それなりの集落があったからでしょう。とすると、これらに比べても漢那の集落は小さかったと推測されます。
 七日浜も古い地名らしい。読みは「なんかばま」。現・うるま市石川赤崎〜金武町へ長い浜辺で──

尚徳王が革命によって尚円王の時代になったので、その一族が国頭に逃げる途中人目を避けるため昼は山の中にひそみ夜な夜な歩き歩行困難の場所で七日かかったので七日浜の由来といわれている。〔同地案内板←後掲マブイ〕

 先の伊芸津口の記録とこの伝承からは、金武湾付近の通常の通行手段が海路だったのか陸路だったのか、という論点を呈します。浜を七日も歩かせるようなルートは交通路として成立しないはずです。難所だった、というのは、それでも海路を取らずに砂地を歩かざるを得なかったのでしょうか?

スーキカンナー 惣慶漢那:ミージョキー小買ーみそーれ

 何の謎解きも敵わぬお詫びに、もう一曲、うちなーの同世代には有名らしい漢那の歌を書き留めます。
 惣慶漢那(スーキカンナー)です。

一、惣慶漢那金武からやいびしが 我んソーキん小買みそれ 汝がソーキん小や曲いぬ悪さぬ 我ミージョキー小買ーみそーれ
すーきかんなーちんからやいびーしが わんそーきんぐゎーこーみそーれー やーがそーきんぐゎーやまがいぬわっさぬ わんみーじょーきーぐゎー こーみそーれー
(略)
◯惣慶、漢那、金武からの者ですが私のザルを買ってください。おまえのザルは曲がりが悪いので私の箕ザルを買ってください。〔後掲たるー〕

 この民謡は、出身地と売り物を替えて六番まで続いていきます。行商人行動が島の各地を頻繁に往来していた様が窺えます。全ての回で、最初に「買って」と言ったものより、買い手の品を貶した後はちょっと違う、多分少し高いものを売りつけようとしてる。そんな商魂も窺えます。

※隣接地名を二つ合わせる表現は、古い沖縄特有の言い方。多分、分村などの由来や協力関係も意味していると思われるけれど、全くそれがない場合もあるらしい。
一、惣慶漢那:ザル・箕ザル
二、勝連照間:寝間のムシロ・藁敷物
三、越来:竹カゴ・ザル
四、山内諸見里:山桃・白桃
五、糸満:グルクン・トビイカ
六、本部瀬底:ムンジュル笠・クバ笠

 売り手の性別は、唯一四番にのみ「山内諸見里の桃売アン小」(山内諸見里の桃売り娘)が女性として記されてます。「むむういあんぐゎー」が成語になっていて、「宜野湾村の大山、真志喜あたりの娘たちが買い出しに行き、首里・那覇などを売り歩いた」〔後掲沖縄語辞典←たるー〕ものという。王都南隣の地域からも、こうした行商が頻繁にあったものらしい。
 ところで、この曲は登川誠仁&知名定男さんによっても歌われており、何と知名定男さんのデビュー曲でもあります(1958年、知名13歳)。
 このレコード版では、一番はこう歌われています。

マルタカレコード「スーキカンナー」1958、レコードカバー

スーキカンナー金武からだやびる 我ソーキン小けんそーれー ありがソーキン小やふぃりとぅい悪さぬ 我バーキン小けんそーれー
○惣慶漢那、金武からですが 私の笊を交換してください。
あの笊は縁取りが悪いので私の竹カゴを換えてください。
〔後掲たるー〕

 民謡なのでパターンがあるのかもしれません。知名版では「交換」、つまり貨幣経済以前の歌詞になっていると読めます。
 沖縄の貨幣経済は三山時代から輸入銭・宋銭の他、中山通宝が用いられ始めたとされてますけど〔後掲コインの散歩道〕、どのくらい普及していたかは定かでない。スーキカンナーが物物交換時代の創始とすれば、遅くともグスク時代のものの可能性があるわけです。つまりその時代から、本島各所の行商が往来していて、漢那のそれは一番に歌われるほど有名だった……ということかもしれないのです。

中山通宝 約18mm:中山国が発行したものと言われる。現存十数枚(画像:東京大学大学院経済学研究科収蔵)〔後掲コインの散歩道〕
竹かごを二段重ねにして頭に載せた女性たちが集まる1935年当時の市場〔後掲朝日新聞デジタル〕

■メモ:恐ろしのクダキ ヤキダキ ウフマタ サカマタ

 現・名護宜野座線(県道71→GM.)は、古道であるらしい。谷間を縫って許田に抜ける道で、古くはクダキとヤキダキと呼ばれたという。名前からして、恐らくかつての御嶽です。

 宜野座村潟原から名護の明治山めいじやまを通り、許田へ行く途中左側に、クダキとヤキダキと呼ばれる谷を通って名護へ行く道がありました。その山道を登り下ったところに大きな谷があり、そこはウフマタ、またはサカマタと呼ばれていました。(続)〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/サカマタのカニの化け物〕

(再掲)宜野座村からの路上にて。正面が明治山

(続) 昔、このサカマタの谷川にササーを入れに来た父子がいました。ササーとは、イジュの木の皮をむいて石でたたき、にじみ出た液汁のことで、その汁の毒で魚をしびれさせて捕る漁の名前でもあります。
 親子は谷川でササーを入れ、昼はクダキの山で仮かり小屋を作り、一晩泊まって翌日、魚を捕るのです。
 そんな風に漁をしていた日の夜中、クダキの仮小屋の親子の耳に、遠くから小さい声で歌をうたっている女の声が聞こえてきました。「これは不思議だ。こんな山中で、しかも真夜中に」と、親子は思いました。
 しかも歌声はだんだん自分たちの仮小屋に近づいてくるではありませんか。二人は怖くなり、ガタガタふるえ出しました。
 いよいよ小屋の前まで歌は近づいてきました。恐怖のあまり二人は逃げることもできません。すると小屋の近くで歌はぴたっと止まりました。と同時に小屋の周囲から小さいカニがたくさん入りこんで、二人の体まではい上がってきました。
 「わあっ」と二人は悲鳴をあげました。その途端とたん、不思議なことにカニはいなくなってしまいました。(続)〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/サカマタのカニの化け物〕


「ササー」については後述します。ともかく、ウフマタ・サカマタの山中は訳の分からない災難に見舞われる地、という恐れを土地の者に持たれていたようなのです。
 次の話は上記と全く筋が違います。共通するのは、ただこの土地に対する恐れのみです。

(続)その昔この山中に人家があって、一帯にはイタジイなどの大木が茂っていました。ある日、4、5人で木を切ることになり、斧おのをもった人以外は斜面に避難ひなんしました。
 ところがバリバリっと切り倒された大きな木は、避難していた人たちを直撃し、全員が命を落とすという大事故があったと伝えられています。〔後掲内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所/サカマタのカニの化け物〕

魚毒漁 ササー:南方の魔性漁

 さて「ササー」のことです。文中でもあるとおりこの語はイジュの樹液そのものの他、南方で行われてきた「魚毒漁」という漁法自体を指しても言われていたようで、他の記録からするとこちらの方がメジャーな用法に見えました。

終戦後から奥は財源が少ないから、個人に海を売った(注1)。売ったお金を区の予算にしたんですね。売る時は2か年ごしで。ササに使ったのは、もともとデリスや青酸カリなんてないから、イジュの皮をついて粉にして、それをばらまいて撹拌して。イジュの葉は牛やヤギにあげても死なないけれど……。戦後はデリスといってね、お茶の散布用として組合が入れて、それを使って撹拌して、魚に毒が回ったころに行って捕った。捕った魚はわけあいしないで、自分のものです。デリスの粉は、売店で売っていました。植えられていたデリスの玉(根)は使っていません。部落全体でブレーザサ(注2)をしたのは、楚洲の前のイノーを楚洲から買って。ブレーザサをする人は、申し込んで人を集めて、ザルに臼でついたイジュの皮を持ってくるようにといって、やりよった。申し込んだ家庭から二人ずつ参加します。もともとはイジュの皮を使っておったが、デリスが出てからはデリス。青酸カリを使ったのは一回だけです。海のブレーザサ、終戦後、2回か3回ぐらいやりよった。その最後の時、Tさんが区長のとき、役員5人が留置場に行っているんですよ。海から帰ってくるのを駐在が待ち構えておって。このとき、青酸カリを使いました。〔国頭村奥MAさん証言←後掲盛口〕

イジュ 伊集の(上)花と(下)樹木〔後掲てぃーだ〕

 イジュは伊集。国頭村の花木にも指定されているものです。花は可憐で詩歌にもよく使われています。
 原生植物の魚毒には、ルリハコベやモッコクなど相当多種のが知られているようです。戦後は外来植物のデリスが入り、一時は売店でも売られていたという。でも人体にも危険な青酸カリは、流石に警察の規制下に置かれたみたいです〔後掲盛口〕。
 仕掛けるのは主に「タマリ」(潮だまり)で、盛口が聞取りをした奥ではこれが入札対象になっていたらしい。

注1)奥では、魚毒漁にさまざまな種類があった。ここで言っているものは、ササ潮が引いた後にできるタマリ(潮だまり)での個人で行う魚毒漁の占有権をタマリごとに入札していたということ。〔後掲盛口〕

 通常の魚毒漁は個人で行うけれど、先述のブレーザサは組織的に実施するもので、盛口は相当珍しい例だとしています。
 イジュによる魚毒漁は昭和10年頃まで行われてきたといいます〔後掲盛口/奄美島での聞取り〕。漁業史上は「原始的」と言われる漁法ですけど、よく考えれば毒性植物の多い南方ではむしろクレバーなものとして近年まで多用されてきた、という手触りです。戦後のダイナマイト漁などの発想も、同種の知性が編み出したものと解せなくもありません。

サバニ4艘(1935年頃の糸満)

「FASE80-1@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#かねの骨\ぼーゔぁーのないん」への1件のフィードバック

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