018-2森崎B面(長崎)\長崎withCoV-2_Omicron\長崎県

A面


岬の教会(出典不詳)

ニッキーのトルコを糧に観る岬

ッキーアースティン万屋町店のNo.1004の洗礼を受け身を浄めた後(違うけど)、1217江戸町に戻りました。
 雨は上がってる。降水レーダーでも雨雲域は過ぎてるみたい。

江戸町商店街の案内図

店街の案内板によると、ここの駐車場のは「天川石灰の石垣」と書かれてる。

長崎開港の元亀2年(1571)木村純忠は家臣の友永対馬を長崎に派遣し、森と麦畑に包まれた岬(森崎の大地)に初めて島原町、分知町、木村町、外浦町、平戸町、横瀬浦町をつくり、その後天正13年(1585)から文禄元年(1592)年までに17区画(町)が最初の6町と合併して内町とし、地子(税金)免除さる。(江戸町を含む)江戸町の町建には森崎の岬に沿って崖を削り、南北に湾曲の砂浜を埋築して、削り取った場所が崩れないように天川石灰を注入して組立て再(ママ)南端の町ができた。〔案内板〕

「森と麦畑に包まれた岬」は前章で触れた最新考古学知見からはやや古い「漁村→一気に六町形成」イメージですけど、南北直線段差の不思議の指摘はシンプルで鋭いと思います。

長崎港付近のデジタル標高地形図〔地理院地図〕※赤丸は引用者

十九島(長崎県北部)を想起して頂きたい。五島、対馬も含め長崎県はリアス式海岸の宝庫です。素人的に荒い言い方をすると、沈みたてホヤホヤの谷が作るズタズタな海岸線です。
 長崎湾の標準的な海岸線も、上記地図で明らかなようにズタズタです。森崎岬自体も、このズタズタな海岸線の一部として湾に突き出した地形でしょう。
 このリアス式海岸の王国下で、森崎だけが丸っこい●●●●●●●●●。その異相ぶりは、森崎、ないし少なくともその海岸線ラインが人工物であることを明瞭に示してます。
「南北に湾曲の砂浜を埋築」して凹を埋め、「削り取った場所(略)に天川石灰を注入」して凸を削ぎ、中世当時としては最新の技術と膨大な労働力を注いで造られた。森崎はいわば中世の軍艦島だった──というイメージは、巻末でまとめることに致しまして、目前の江戸町にお話を戻しましょう。
江戸町四丁目駐車場の石垣(1/4)全景

戸町四丁目駐車場(現(2024年)・川添ガラスパーキング→GM.)方向への路地まで戻り、江戸町商店街から西へ折れます。
 駐車場。ここの石垣は打込です。ただ、上の数段だけが切込になっており、かつ一部に段差があります。
江戸町四丁目駐車場の石垣(2/4)打込と切込の接合部と屈曲

──それだけなので、他所でなら騒ぐ話じゃないんですけど──この位置は森崎南端直下です。ここに出現する地層めいた何か……というのは、「岬の教会」期前後の何らかの断絶を意味する可能性があるのです。
江戸町四丁目駐車場の石垣(3/4)西端部の湾曲

西役所遺跡報告中でも幾つも層序の片鱗は発見されてます〔後掲長崎県埋文〕。ただ現在のところの推測としては、県庁(四代目)建設時の掘削でそれ以前の歴史的層序はほぼ失われた、というものです。
江戸町四丁目駐車場の石垣(4/4)西側から東へ



車場に戻って再度よく見る。右端部分は、湾曲してるけれどズレが認められません。施工の精度がかなり高いのです。1232。

楢林鎭山宅の前には出島かな

ARITA付近から南の方向出島

RITA(洋菓子店)は4日10時初出でした。
 すぐそこは出島です。実はまだ入ったことありません。楽しいんでしょか?
旧・県庁車両出入口横の石垣

ソリンスタンド脇に「紅毛外科楢林流の祖 楢林鎭山宅跡」碑(→GM.)。
 最も初期の蘭学者(1649(慶安元)年生-1711(宝永8)年没)。オランダ商館長江戸入りに通詞として同行すること8回の超ベテランながら、多分その実績への嫉妬から1698(元禄11)年オランダ人との内通の疑いをかけられ閉戸(幽閉)・解任。1708(宝永5)年に五代将軍・綱吉の招聘を受けるも、咎人を理由に辞退しており、根に持つタイプだったと思われます〔wiki/楢林鎭山〕。
楢林鎮山肖像画(出典不詳)

林宅碑の手前の坂脇に、石垣がある。打込らしい。岩の削られ方からして、石垣ができた時代より前からあった坂と思われます。
 坂上、北側は県庁跡地の工事現場。隙間から失礼して覗くと──県庁時代には、ここに庁内への車両出口があったらしい。
 ただ、以下の長崎県HP記述によると、その坂道はさらに以前には西役所から出島へ通ずる坂道だったとあります。アスファルト化する際に表面を補修したのでしょうか。何れにせよ、ある意味でメインロードだった小径が、森崎-出島を結んでいたかもしれないのですけど──この坂道の存在は「詳細を調査中」とあるとおり、まだよく知られてないみたいです。

森崎をうっかり写す絵図の束

長崎県資料「歴史的痕跡-江戸期のなごりをとどめる石垣-」
*後掲長崎県/県庁舎跡地の歴史の変遷/歴史的痕跡-江戸期のなごりをとどめる石垣-[PDFファイル/2MB]
都市構造の中での位置-昔から道の起点になっている場所-[PDFファイル/2MB]
※第3回県庁舎跡地活用懇話会資料(平成22年1月25日)より抜粋)
URL:後掲

江戸時代の石段〔上記一部拡大〕

事現場の外縁を利用して、だと思います。史料紹介の掲示がありました。
「江戸時代後期の画家・川原慶賀が文政9年(1826)に描いた金毘羅山からの長崎港の鳥瞰図」(原史料名:長崎港図,長崎歴史文化博物館収蔵)→巻末参照
「江戸時代後期の画家・石崎融思が出島を中心に長崎港の内外を描いた〈瓊浦華蘭進港図〉を一部拡大したもの」(原史料:同上,製作年文政3年(1820))→巻末参照
 出島が撮影地の幕末の写真がかなりあるので、その背景に西役所が「写ってしまって」いる画像がかなりある、ということらしい。
掲出されてるのは、推定万延元年(1860)頃の撮影者不詳の「出島写真」(→巻末参照)とその模写図(→巻末参照)。その他、後掲「古写真・資料にみる県庁舎跡地(歴代県庁舎)」にも掲載されてます。

江戸町公園と県第三別館

江戸町公園の石垣全景

307、江戸町公園(→GM.)。ここの北面石垣にも、打込と切込の層を確認できます。
 しかもここのは、層が不規則な斜面を形成していることが分かる。意味が分からない。石垣の層序がなぜ斜めになるんでしょう?
江戸町公園の石垣(1)打込と切込の層が概ね傾斜している。

庁跡地西端には、石垣の突端があります。この部分は完全に切込です。つまりここだけを採るなら、奉行所時代に森崎は「城」になった、ということになります。
江戸町公園の石垣(2)右手の尖り部

端の先、フェンスの向こうには、完全に切込のみの石垣が続いてます。
江戸町公園の石垣(3)切込に転じた石垣

戸町公園北側先に、県庁付属建物らしい洋風の壁が続いてます。1314。
 長崎ちゃんぽん江戸びし前。第三別館と書かれてます。ここは壊さない予定なんでしょうか?
第三別館の洋風建築跡

の調べでは、1923年建築の長崎警察署を前身とする建物です〔後掲ファイナルアクセス〕。被爆をかなり良好な状態で耐えた建物と言われており、未だに跡地利用に様々な案が飛び交ってます。

長崎の心臓が脈打つ不思議

北西角の波止場跡

ロック北西角に「南蛮船来航の波止場跡」。1318。

当時、ここは長い岬の先端部分で、波止場がありました。[前掲商店街案内板]

天正10年(1582)(略)天正少年使節がローマに向けて出航したのも、慶長19年(1614)、高山右近や内藤如安らキリシタンがマニラやマカオに追放されたのも、すべてこの波止場でした。[前掲商店街案内板]

 解説はないけれど、小さな方形の岩が露出してます。

大波止を振り返る

り返ると大波止交差点方向、手前すぐにバス停・大波止。この辺りに船をつけて歩いて西役所に入った……というのが定説で、かつ地名の由来です。
 その先の江戸町交差点までの苔むした石垣は、はっきりと切込。西役所の威厳を示す道、というところですか?
バス停・江戸町後方付近
後掲k 絵図※(大波止から出島・伝習所方向)。行列の登る広い坂が大波止からの県庁坂に相当。
※公益財団法人鍋島報効会所蔵「長崎海軍伝習所絵図」
墨田区「勝海舟生誕之地」碑に添えられた「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生 文政6年 (1823年)」絵巻調パネルによる。

崎の丘は、かくもそれ自体が歴史的宝物です。
 いやいやそれよりも、長崎交易の心臓が常にここであり続けてきた、ということが極めて稀有な、また最も長崎的な事実です。
 1326、バス停・江戸町。悟真寺を目指してみる。

曙町から稲佐町 シャッター街

🚌
定のバスが来ないので、小江原ニュータウン行きに乗る。1344。稲佐橋下車で行けるはず。
 車は長崎駅前「南口」を経由して北行。駅舎は二階部分が完成しつつある。なるほどこの区画は新幹線開通の「秋」に稼働開始するわけか。
 宝町の先で左折──よしよし。1356稲佐橋下車。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

──の辺の地形は、予想外に、沖縄市並に波打ってました。先に言うと……結構な階段を登ることになります。ad.光町10。
 あらら?ちょっと宛てにしてた共楽園は4日営業開始か……。

住宅地図に「国際墓地」

域図にはちゃんと「国際墓地」と出てます。
 1408、曙町。路地裏を含め店は全く開いてません。
 1413、とにかく稲佐国際墓地到着。
曙町の正月シャッター商店街

■イメージボード:中近世森崎の景観

「森崎の丘」発掘現場の外側外周に物凄い数の史料の紹介がありました。これらは概ね、後掲長崎県HP(古写真・資料にみる県庁舎跡地(江戸時代後期から明治時代末期))にPDFの掲載もあります。
 幕末に出島を訪れた外国人や内国旅行者の写真や図画は、かなりあるのは道理です。出島起点で映像を残す場合、これにすぐ北の西役所が(背景として)写っているのもまたごく自然な成り行きなのです。
 こういう点で言えば、最も史料的に意味があるものは推定万延元年(1860)頃の撮影者不詳の「出島写真」(→後掲m)とその模写図やビアトの写真ですけど(後掲m〜o)ですけど、これらでもどうも判然としません。
【一覧】
❝現代作画❞
a】 岬の教会 西役所全景イメージ図(左手)〔江戸町商店街掲示〕
b】 長崎市中央部の海岸線の推移〔後掲長崎市/長崎市歴史的風致維持向上計画〕
c】 ロドリゲス書簡から推測された岬の教会見取り図〔後掲ディエゴ・パチェコ「九州キリシタン史研究」1977年←後掲片峰他2019p57図に今回調査箇所を書き込んだもの〕
】 岬の教会と六町イメージ図〔後掲たびなが第10回〕
e】〘文章〙県庁跡発掘提言〔後掲片峰他2019p7,脚本家市川森一による県庁跡地活用懇話会への提言書〕
f】 岬の教会イメージ図(後掲片峰他2019p11)
❝江戸期以前❞
g】 後掲片峰2019・2020表紙
h】 岬の教会想像図(南側からの視点,出典不詳)
i】1820 石崎融思「瓊浦華蘭進港図」文政3(1820)年
j】1823 長崎海軍伝習所時代の絵図(伝習所から出島方向,文政6年 (1823年))
k】1823 同(大波止から出島・伝習所方向)
l】1826 川原慶賀「金毘羅山からの長崎港の鳥瞰図」文政9(1826)年
❝幕末:19C後半❞
m】 撮影者不詳「出島写真」推定万延元(1860)年頃
n】 同模写
o】1866 F. ベアトの写真(方向:立山→長崎湾) 〔後掲長崎大学附属図書館/763 同上1866年〕
p】1898 長崎人力車賃銭図 県庁•出島周辺部分(1898年)〔長崎歴史文化博物館収蔵〕

(前頁再掲)岬の教会 西役所全景イメージ図(左手)〔江戸町商店街掲示一部〕

長崎市中央部の海岸線の推移〔後掲長崎市/長崎市歴史的風致維持向上計画〕*同計画「長崎市の歴史的風致形成の背景」p16第1章2(3)長崎港の埋立ての歴史

ロドリゲス書簡から推測値された岬の教会見取り図〔ディエゴ・パチェコ「九州キリシタン史研究」1977年,後掲片峰他2019p57図に今回調査箇所を書き込んだもの〕

岬の教会と六町イメージ図〔後掲たびなが第10回〕

 イエズス会の本部がありました。
 現在の県庁があるところが、長い岬の突端でした。長崎の港が開港し、新しいまちづくりが始まったころ、ここに小さな「サン・パウロ教会」が建ちました。 その後何度かの建て替えや破壊を経て、「被昇天のサンタ・マリア教会」ができ、これは当時の日本で最も大きく美しい教会といわれ、キリシタンだけでなく大勢の見物人が集まったそうです。 [ 後掲片峰他2019p7,脚本家市川森一による県庁跡地活用懇話会への提言書]

イエズス会年報には、被昇天のサンタ・マリア教会の様子が報告されています。
「崖下から3層構造の土台を築き、石と木材でしっかりと丈夫につくられた。
 建物の内部は、中央に祭壇が置かれ、香部屋、広間がある。
 その上の中2階には祭壇が備わった部屋が2つある。」また、「浜辺から高くそびえているこの教会は、海の方から眺めると非常に美しく見える。」とも。
 この場所には、日本イエズス会の本部が置かれ、敷地内には司教館やコレジヨも建ち、印刷所や絵画教室などもありました。[後掲片峰他2019p7,脚本家市川森一による県庁跡地活用懇話会への提言書]

 仮に将来県庁が移転し、そこが更地になった場合、最初に取り組まなければならないのは跡地の徹底的な発掘調査であろうかと思われます。その結果、不明なことの多かった「長か岬」の幾重もの歴史の地層が浮き彫りとなり、長崎は埋もれていた世界的な資産をようやく手中に取り戻すことができるのであります。[後掲片峰他2019p7,脚本家市川森一による県庁跡地活用懇話会への提言書]

岬の教会イメージ図(後掲片峰他2019p11)
 実は、上下の画像は、個人的に最も事実から遠いと感じているものです。
 口絵代わりにしてきました上図は、見栄えは良いけど明らかに大陸中国人の理想郷イメージです。対して下図は、確かに原図は史料っぽいけれど、用途的に社会運動的です。率直に言って、事実としての森崎の丘を訪ねる姿勢として誠実さを感じないのです。
後掲片峰2019・2020表紙


岬の教会想像図(南側からの視点、出典不詳)
 従ってこれが本稿の、一つの結論になるんですけど──前章で触れたように、九州各地で布教したフィゲイレド神父が岬に建てた静かで慎ましい教会が、不幸なことにとても美しかった。ために大村氏のスペイン割譲、秀吉の強引なその撤回、キリシタン迫害とそれへの抵抗劇、という激動の象徴になってしまった。だから例えば長崎奉行所も、たとえ無機能でも西役所を建て「江戸中央による統治」を象徴させなければならなかった。
 このイメージが正しければ、「森崎」そのものからはそれほど考古学的成果は出ないと思います。森崎が長崎の「皇居」なのであれば。

▶〔内部リンク〕→■レポ:明かされなかった長崎森崎遺跡/ひっそりと建てた教会だったのに

個人的に最もイメージの近い教会〔長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷旧野首教会→GM.

1804(文化元)年レザノフらが奉行所へ向かう様子。……ということは前方の坂が県庁坂?あるいは手前が出島?〔後掲西浦〕

i 石崎融思「瓊浦華蘭進港図」文政3(1820)年 ※展示注「江戸時代後期の画家・石崎融思が出島を中心に長崎港の内外を描いた〈瓊浦華蘭進港図〉を一部拡大したもの」(原史料:同上,製作年文政3年(1820))


j 長崎海軍伝習所時代の絵図(伝習所から出島方向) ※公益財団法人鍋島報効会所蔵「長崎海軍伝習所絵図」
墨田区「勝海舟生誕之地」碑に添えられた「幕末絵巻 勝海舟の歩みと様々な出会い、鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生 文政6年 (1823年)」絵巻調パネルによる。

k 同絵図(大波止から出島・伝習所方向)

l 川原慶賀「金毘羅山からの長崎港の鳥瞰図」文政9(1826)年 ※展示注「江戸時代後期の画家・川原慶賀が文政9年(1826)に描いた金毘羅山からの長崎港の鳥瞰図」(原史料名:長崎港図,長崎歴史文化博物館収蔵)

m 撮影者不詳「出島写真」推定万延元(1860)年頃

n 同模写

o F. ベアトの写真(方向:立山→長崎湾) 〔後掲長崎大学附属図書館/763 F. ベアト「大黒町および出島と長崎港口」1866年〕
 下記は主に視座に関する論考ですけど、これを「みさき道人」の想定する「ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地から」とし、写真右隅を現・JR長崎駅とすれば、前方左よりに中島川を背景に少し飛び出た凸が森崎(当時の西役所≒海軍伝習所)と思われます。

(上記原キャプション)立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真である。(略)長崎大学所蔵の、この角度から撮影した写真の中で、最も古い写真である。写真左の松の木の向こうの一群の建物は出島で、変流前の北側から見た出島である。松の木の手前は、長崎奉行所の北役所の建物である。出島から写真右にかけての沿岸部は、大波止から浦五島町、大黒町にかけての沿岸部である。写真右隅が、現在のJR長崎駅付近である。明治10年(1877)起工明治26年(1893)完成の第1次長崎港改修事業による、沿岸部の時津新道がまだ完成していないので、写真の沿岸部は江戸時代の状態であり、それぞれの家の裏側が海に接している。大波止から大黒町にかけての沿岸部には、各藩の蔵屋敷や倉庫業等の規模の大きい屋敷が連なっている。
→(2024現在修正)ベアトによる1866年2月の書き込み。立山(現長崎駅前)から長崎市内と港口を遠望する。海岸沿いに各藩の蔵屋敷がみられ、旧市内の建物、西役所、出島、大浦居留地、大浦教会がみええる(ママ)。海上には船舶が多数。

問題は、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品。2009年(平成21年)1月1日付朝日新聞長崎地域版に、開港150年の年頭特集記事として飾られた。
1886年に英国の写真家フェリックス・ベアトが撮影した長崎港の古写真。同じ場所から港を見るため、記者が苦労して撮影場所を探した。「山の形や重なりを確認。福済寺裏手が、めざす辺りだった」とし、その場所から写した現在の長崎港を下に載せている。
これは、誤認であろう。新聞の写真を比べてわかるとおり、深堀城山・大久保山・鍋冠山・八郎岳の山の重なりは合わないし、市街地や港を望んだ高度感を感じない。女神大橋が邪魔するが、港口右に香焼島が見えてない。

確認写真(視座:ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地)〔後掲みさき道人〕

記者の場所は、福済寺長崎観音の背後の山手。ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地からと思われる。直線で結ばれる地点。同場所へ行って、最後の写真のとおり、同じく写してきた。
古写真の場所は、まだ右上の高いところで、約100mほど離れている。ホテルの左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりからが景色が合う。立山バス停から下った方が近い。
ほぼ「立山山頂」と言って良い。現在の老人ホームの場所から撮影された可能性がある。〔後掲みさき道人〕

p 長崎人力車賃銭図 県庁•出島周辺部分(1898年)〔長崎歴史文化博物館収蔵〕

 最後にもう一枚、下記は長崎新聞が取りまとめた独自の図のようです。「江戸期の石垣のライン」として記される、旧県庁と江戸町駐車場(川添ガラスパーキング)との堺の線は、本文中でも触れた出島側・楢林鎭山宅跡付近の通路となって南に出てます。これは単に例ですけど、そんな指摘は●●●●●●誰もしてません●●●●●●●
 埋文は即決できるような、かつ期待されたような結論が出せなかっただけで、不可思議な、どう整理してよいか分からない史料は十分多量に蓄積したのではないでしょうか?その場合、歴史的事実は報告書から我々が丹念に仮説構築していくべきだと思われますけど──
 一点明らかと思われるのは、森崎の丘は明るい明彩で従来描かれてきたものとは、どうも印象の異なるものだということです。では何か、という仮説はもちろん抽出しかねるのですけれど。

2020年現時点の調査地点と成果概要図〔後掲長崎新聞〕

■レポ:森崎岬=軍艦島仮説

 リアス式海岸の王国下で、森崎だけが丸っこい●●●●●●●●●。その異相ぶりは、森崎、ないし少なくともその海岸線ラインが人工物であることを明瞭に示す──という結論を既に本文で記しました。
 以下は、その根拠データ集になります。
「南北に湾曲の砂浜を埋築」して凹を埋め、「削り取った場所(略)に天川石灰を注入」して凸を削ぎ、中世当時としては最新の技術と膨大な労働力を注いで造られた「軍艦・森崎」だった──と想像する時、軍艦島にも使われたこの天川石灰技術を確認しておく必要があります。

長崎の岩間に天川石灰

「天川」の読みは「てんかわ」ではなく「あまかわ」。「石灰」は「せっかい」ではなく「しっくい」です。この点も実に面白いんですけど、先に目的の技術面について。

「観光上陸の際に、船着場から島内へ入る時に見ることのできる、城壁のようにも見える石積みの護岸」〔後掲黒沢〕

 知らなかったけど当たり前です。端島が世界遺産になったのは、島の形が軍艦みたいでファンキーだから、ではありません。天川石灰という、プレ・セメント技術の技術史的意義によるものです。

島に近付くと外壁の一部に赤い石積みが見える。これは「天川(あまかわ)工法」の護岸。日本にセメントが普及する前の明治時代、石灰と赤土を混ぜた「天川」で炭坑施設を造ったという歴史背景が評価され、世界遺産登録の対象となった。〔後掲NIHONMONO〕

「第三見学所から見える31号棟の、見学所とは反対側の出入口付近」〔後掲黒沢〕

 天川石灰工法は、軍艦島だけでなく長崎市内各地に使用されてきたものらしい。セメント工法に先立つ「古い」技法として一度は歴史に葬られてきた技術らしく、再発見される場面はやや稀みたいです。以下は原爆遺跡の保護上、発見されたもの。

事務局
〔前回会議での意見・指摘等への対応について説明〕
〔山王神社確認調査の概要の説明〕
 山王神社二の鳥居は長崎原爆遺跡の一つとして史跡に指定されたが、境内地については調査が十分ではなく歴史的価値を明らかにすることができていない。二の鳥居が属する山王神社の遺跡としての範囲、内容を確認するために調査を実施するもの。
(略)
受託業者 この調査区では土塀の痕跡を追うことが調査の主目的と聞いている。表土を除去したのち、掘削したところ、漆喰や天川状のものが出土した。神社関係者によると土塀は崩れたのちしばらく残っていたとのことである。
(略)
委員 天川については長崎市内で使用されている箇所が複数箇所あるが、体系的な整理がなされていない。端島でも着手されているようだが、こことの対応を見ることも重要。〔後掲長崎市│平成28年度第2回 長崎原爆遺跡調査検討委員会〕

 従って、この工法が森崎の丘に如何に多用されていても、軍艦島の世界遺産登録までその貴重さ、さらに中世にそれだけの最新テクノロジーが注ぎ込まれた意義はそれほど認識されてこなかったはずです。
 森崎岬は、三百年早く築かれた軍艦島でした。軍艦島を中央に浮かべる、まだ水面の遥かに広かった冒険航海者垂涎の中世港湾が、長崎港だったと言い換えてもいい。
 この投資が為された時代は、森崎が軍事的要衝と見做された時期、つまりフィゲイレド神父の「岬の教会」建設の1571(元亀2)年より後、長崎・茂木のイエズス会領移行(1580(天正8)年)から禁教令・贖罪大行進(1614(慶長19)年)までの35年間の可能性が高いでしょう。

(再掲)長崎港付近のデジタル標高地形図〔地理院地図〕※赤丸は引用者

石灰が森崎に来た海の道

 石灰という地名が長崎には存在します。これは全国に四例(他は大坂・滋賀・滋賀・埼玉※)のみ。長崎のは電停・思案橋南方エリアです(→GM.)。

※埼玉県飯能はんのう市大字上直竹かみなおたけの埼玉の石灰焼場跡せっかいやきばあとは、石灰石を積み重ねて下から焼き上げる石灰焼の遺構。原料鉱石は字上間野の焼場約550mの山上などにあり(昭和6年の調査でも「長幅共に一町余、深さ5間余」の鉱坑が確認)があり、八王子石灰と呼ばれた。1590(天正18)年の八王子城落城後、城主北条氏照の臣師岡伴次郎・木崎庄次郎が石灰の焼成を開始したとされ、1606(慶長11)年には江戸城工事の御用石灰として使用された。

 他地の例では生産・加工地と伝わりますけど、長崎の場合は明確に、石灰の荷揚げ地とされる場所です。町名からは、三ケ町に拡大発展したようにも見えます。

当町の思案橋付近は浜崎と呼ばれ,埋め立てられて銅座ができるまでは海岸に面していた。町名は,浜崎一帯から石灰が陸揚げされ,石灰業者が多く居住していたことに由来する。のち今石灰町・新石灰町が成立したので,本石灰町と改称。〔角川日本地名大辞典/石灰町〕

 石灰町の位置は、森崎の丘を南東に下って400mというところ。通常、森崎の正面は北西の大波止、南西の出島と捉えられますけど、南東の、かつては大きな湾を成した中島川側との水域を挟んだ繋がりは、多分今のところ盲点になってます。

※再掲「調査地南側の中島川を挟んで位置する出島を見た時、石垣下側に残っている江戸町の町屋から舟番長屋を含めた西役所までの面的なつながりという視点からこの遺跡に新たな価値を加えることができるものと思われる。〔後掲長崎県埋蔵文化財センター〕」(→前頁)

天川「あまかわ」石灰「しっくい」

 さて以下の根拠はあくまで伝承です。天川も石灰も長崎では外来語である、といつ点。

(永島正一氏は、本石灰町を以下のように紹介しています。)
 もとしっくいまち。石灰をしっくいと読むのは唐音である。唐人ことばの訛(なま)ったものである。漆喰。長崎では天川シックイという。天川はアマカワ、マカオのことである。石灰町とは誠に味のある町名である。
 シックイは、土間、流し間、壁に用い、屋根がわらの固めに用い、その他用途は広いが、唐人船は水漏れを防ぐ目塗りにも用いた。
 この町はシックイを一手に扱った町であろうか。〔昭和53年長崎新聞「くんち長崎」←後掲くんち塾フォーラム〕

 漠然と福建とか中国とかではなく、はっきりと「マカオ」という地名が伝えられているようなのです。下記でもベトナム※は地域なのに、マカオは広東ではなくマカオなのです。

※ベトナムは、荒木宗太郎(生年不詳-1636(寛永13)年没)が「ベトナム広南国の王族の女性」を妻帯し日本に帰った伝承からと推定される〔wiki/荒木宗太郎〕。

(越中哲也氏は、本石灰町を以下のように紹介しています。)
 町名はモトシツクイ町とよむ。昔、この町は玉帯川の川口にあたり浜崎とよんでいた。シツクイのことを長崎では天川(アマカワ)と呼んでいた。天川とはマカオのことである。長崎のシツクイの原料は、始め、マカオから船で運ばれ、ここの川岸につまれていたことより石灰町の町名になったという。このことが、奉納踊りにとり入れられて、昔、長崎を出船した御朱印船が遠くベトナム、マカオ方面にまで出かけた故事に因んで、荒木宗太郎の御朱印船を出している。〔昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」←後掲くんち塾フォーラム〕

本石灰町・長崎くんち演し物(だしもの)平成25年 御朱印船〔後掲本石灰町自治会〕

「石灰」の二字を、日本語一般では「せっかい」と読みます。ただ「しっくい」という同義語もやはり一般的な日本語で、「漆喰」と音訳して書かれることが多いと思います。
 この「しっくい」音は、完全に広東語です。

石 北京語:shi2
  閩南語:chioh
  広東語:sek6
灰 北京語:hui1
  広東語:fui1
  閩南語:hue/he/hu

「石」音に「k」促音(詰まる音)を含むのは、広東語しか考えられません。北京語や福建(閩南)語では日本語話者が「く」(カ行)に聞き取る音がないのです。
 続いてマカオを意味すると言われる「天川」。これを「あまかわ」と読むのは、明らかに原語音が「あまかわ」に近いからです。

[ 1 ] 中国にあるポルトガル領マカオ(澳門)の古称。室町時代、ポルトガル人がここで貿易をはじめ、長崎と交通した。アマコウ。
[ 2 ] 〘 名詞 〙 ( 多く「アマカワの玉」の形で ) マカオから渡来した上質の大珊瑚珠(さんごじゅ)。アマカワ珊瑚珠。アマコウ。
[初出の実例]「長崎通ひの商人より調置(ととのへをき)し、天川(アマかは)の玉ひとつ有」(出典:浮世草子・好色二代男(1684)五)〔精選版 日本国語大辞典 「阿媽港」アマカワ【阿媽港・亜媽港・天かは】←コトバンク/天川〕

「阿媽港」が原語と、関係書籍はほぼ断じてます。

中国広東カントン省のマカオを、室町末期から江戸初期にかけて日本で呼んだ名。日明貿易の中継地。阿媽港あまこう。〔デジタル大辞泉 「天川」←コトバンク/天川〕

「亜媽港」など若干の用字の異動はあるものの、「媽祖の港」という語義は疑いにくい。

南面の前記2島が門のような位置にあるところから生じた地名ともいい,また南部海辺に有名な媽祖廟のあるところから阿媽港,媽港といわれるようになったともいう。日本では近世初頭以来,天川(あまかわ)の名でよばれていた。〔世界大百科事典(旧版)内【マカオ】←コトバンク/天川〕

 LRT(澳門軽軌鉄路)では媽閣廟站、媽閣総站、媽閣站と、三つも駅名になってるランドマークです。
 媽閣廟(→GM.:読み※)は世界文化遺産。マカオ最古の寺院で伝・明初建。福建省の漁師によって建てられたと言われています〔wiki/媽閣廟〕。

※読みは「マァコッミュウ」、広東語粤拼:ma5 gok3 miu6、ポルトガル語: Templo de A-Má

 この観光用通説を疑わないなら(後掲)、マカオがポルトガル人によって拓かれる前から媽祖が鎮座した。天川=「阿媽港」=媽祖の港 印のブランド名を付された石灰が、そこから長崎へ船出したことになるのです。
 阿媽港はまた一説には、マカオの地名そのものの語源ともされます。ブランド名「アマカワ」は、マカオがマカオになる前の時代を映したものでもあります。