目録

GM.(経路)
1659年散宿唐人 春秋の祭祀法要
稲佐国際墓地。1413。
1419、縁起撮影。物凄く小難しい経緯が書いてあって、読む気にならん──という状況の記録のため撮影しました。読む気はありません。
ただ車道沿い手前に市指定史跡「唐人墓地祭場所石壇」。
戦時中、悟真寺境内国際墓地内に移されていましたが、戦後再び現位置に移設し、旧に復しました。〔案内板〕
とある。狭義の国際墓地と悟真寺国際墓地が、何か格の違いのようなものがあったの?──と調べると……以下別に読まなくても、一緒に目を背けてもらえりゃ結構です。
悟真寺国際墓地の入口に向かってすこし左寄りにある。昔は正面にあったが、戦時中墓地内に移され、戦後もとの形に復したとき、すこし左に寄せて交通の便をはかった。万治2年(1659)、長崎散宿の唐人たちが造り春秋の祭祀法要(さいしほうよう)を営んだという。悟真寺はキリシタン盛時にそれに対抗して仏法流布をはかった最初の寺で慶長3年(1598)ごろの創建であり、唐商欧陽華宇(おうようかう)・張吉泉(ちょうきっせん)らが主宰して唐人のための墓地を造った。その後唐寺ができて、唐寺にも若干墓ができたが、 悟真寺の唐人墓はそのままであった。ロシア墓のところなども昔は唐人墓地で、 これを整理してロシア墓を造ったのであろう。〔後掲長崎市/唐人墓地祭場所石壇〕
墓地の祭祀権というのはいつの世のどこでも、大層賑やかに争われるものです。
祭壇の方向が方位ではなく忠実に稲佐山山頂を向いてます。
手前に蓮池。
これは地区で清掃していると案内板にあるけれど……草だらけで水面が見えない。たまたま汚れていたに違いない、と納得して先へ。
墓地内両側には、墓地ながらスゴい好い坂があります。
上の写真だけ見たなら、うっかりデートに来る奴がいてもおかしくない。
手前のものが古く、奥が新しいようです。つまり奥が聖地、という死者の事情ではなく、単にお参りしやすいといった生者の利便が原理になってます。
古いものは小さく、出身地域名が書いてないものが多い傾向が窺えます。
Died from the effect of absurd shot
1432、乾隆の年代の読める墓碑。墓式からしてもこの正面のは中国式です。福州府や福清、晋江県、同安県記名が確かに多い。地域や規模からして、船員クラスの人々でしょうか。
1433。
中国年号中二番目に長い乾隆年間は1736-1795年。18C末がたまたま多い区画だったのか。
長崎公所体制崩壊期の実体マネーの流れは、未だ未解明という手触りがしてます。
右手北側には英語圏の墓碑。割れた石墓の一つに
「TO THE MEMORY OF MOHAMED SALAY FORMERLY INTHEEMPLOY OF M(不明) DIED FROM THE EFFECTS OF A(不明)STOR SHOT ACCIDENT DECEMBER 18 1889 AGED 24 YEARS」
「absurd shot」(馬鹿げた撃ち合い?)だとすれば何か不名誉な小競合いによる死没をオブラートに包んだ表現でしょうか? 名前らしきSALAY FORMERLYの前の「MOHAMED」はアラブ系、少なくともイスラム者を想像させます。中東出身の英国艦船雇用労働者、でしょうか?
現・台湾領の金門は、鄭成功拠点時代からに思明県編入(1914年)-金門県新設(翌1915年)までは同安縣に属したので〔wiki/金門県 中華民国福建省の県〕、上図墓碑の表記時代に不思議はない。ただそれが、やや強く表現されているような書き方です。
蘭商館長デュルコーフ 1778年没
福清縣という碑文は一つだけ見つけました。ただ、福清出身労働者層が多数流入したとの想定(下記)に立つと、この墓地にもっとメジャーに林立していてもいいはずで……その点では矛盾するほどはっきりマイナーでした。
非常に偏りがあるんですけど、手入れされてる区画や墓碑がある一方、申し訳程度に(多分観光客向けに)掃除してるだけの墓もたくさんあります。次のものような、「清」文字以外は黴に喰われてる、という状態。
清文字を上部にくっきり記すのは、異民族王朝の国へのロイヤリティというより、官許=「海賊じゃない」というラベルでしょうか?──だと仮定すると、「半・海賊」的な者の墓は建たなかった、とする推定も可能です。
右手へ。首のない仏像が並ぶ。廃仏毀釈でしょうか、それともキリシタンでしょうか。
オランダ墓地にのみ鍵がかけてある。代わりに案内板あり。最古の墓碑は──
オランダ商館長ヘンドリック・デュルコーフのものです。1778年に長崎へ向かう航海途上に亡くなりました。〔案内板〕
対蘭交易の端緒からすると少し後なので、最初期の墓地は別に存することになります。
悟真寺はロシヤの死者の軍艦島
ロシア人墓地にも鍵。こちらは案内板なし。奥にロシア語通訳を勤めた浦上村渕庄屋志賀家墓地がある。始祖親成(ちかなり・?〜1622)以降代々の墓碑が全てここにある、と案内板にある。ロシア人休息地開設に関与した11代親憲(ちかのり)の長男親朋(1842〜1916)は千島樺太交換条約に通訳参加した、とも。──おそらく日露戦当時は「英雄」扱いだったのでしょう。
このエリアだけ供物の榊がどっさりしてる。あと、奥様も一緒に、つまり夫婦単位で葬ってあるらしい。
無体に場違いなロシア正教会を裏から撮影。1520。
迷ったが……墓地の南側へ下ろう。次の目標地点・稲佐山温泉ホテルアマンディは、直線距離上は500mもない位置のはずなのです。1525。
この日の悟真寺ルートを森崎裏面と題するのはやや無理がありますけど──上記写真のように、南面は海を見下ろします。
太古は、もっと視界を海が占めたでしょう。
長崎湾に突き出た岬という意味では、やや似たところがある、と言えなくもないのです。奇しくも。
森崎が生者の軍艦島だったなら、悟真寺は死者の軍艦島として長崎湾に突出し、来航外国船を出迎えたのでしょう。
と感慨に浸る余裕を、けれども長崎の路地裏というのはホント与えてくれません。
ad.江の浦町6?──え?ここが「浦」?現在は到底考えにくい空気ですけど、地名はかつては港町だと語ります。
1530。ad.平戸小屋町。──どう解していいか分からない地名が続きます。
江の浦の等高線をなぞる道
分岐?
江の浦二町内案内図。
おっと?ここは右の細い道へ行かないと──登り口には着けないぞ。
此処からが、登りになりました。
1535。江の浦町第二自治会掲示板。同公民館。
見えた。
1537。おそらくあれが目地すホテル……ちょっと待て?高過ぎるだろ?あそこまで直登しろってか?
(誰も言ってないけどね……)
それはそうと──結構好い集落です。
そういうのを全く期待してなかったので、驚きました。それも東側の通常の坂の町とはどうも造りが違う。等高線に垂直に坂道を突き上げる構造が乏しい、等高線に従順な造り、という感じで、谷の地形をなぞるような道です。
江の浦のお大師様と天満様
1542、江の浦大師堂に至る。道から少し登った小高い場所でした。
とりあえず、ドドンと弘法大師像。
お大師様にしては妙に坊やっぽい石像です。
その左下に──天満宮の祠?組み合わせとしては習合としても妙です。
記名のない女神
右隣に陶器の割れた穴(おそらくは元は祭壇)、さらに右に女性神。髪らしい輪郭がおかっぱのようにも見え、俗っぽい感じです。
大師対面にもさらに社。長崎霊場の一つと木札があるけど、何番かは掠れて読めません。供え物は大師像と並ぶほど天満宮に多い。
階段途中の石窟のような場所にも2柱。
総合的に見て、ここはかなり古い場所にみえます。ただ、この谷全体からして、特段の立地とも思えないし、もちろん砦にしては小さ過ぎますし……。
温泉を見上げる坂を五分間
1553。さて登ろうこの階段!
1558。短いんだけど究極の勾配でした。まさに長崎よのう。ひいひい。
アマンディの日帰り湯は、「ふくの湯」に比べてなぜかマイナーだし、規模的には小さいし展望も悪い。ただ泉質はなかなかです。ここだけの話。
1713、無料バスの時刻が合わなくて一般バス停・上曙へ。正月ダイヤは1時間に2本。バス停で夕暮れに涼むのも宜しいかのう、おほほほほ。
本日のコロナを確認──東京84人。大阪57人、沖縄51人を追い抜き広島58人が第二位?
長崎は1人です。
島根でオミクロン感染者が14人という速報も入りました。あーあ……元々薄い帰る気が、より劇的に希薄になってきましけど……。

■レポ:稲佐山から見る長崎
長崎県で「江ノ浦」と検索すると、諫早市のものがヒットする。それほどマイナーな長崎市江の浦町です。角川日本地名大辞典にも次の表記しかありません。
(近代)昭和40年~現在の長崎市の町名。もとは長崎市稲佐町1~3丁目・旭町1~4丁目の各一部。町名は字名に由来する。昭和50年の世帯数586,15街区。〔角川日本地名大辞典/江の浦町
【えのうらまち】〕
行政区画としては昭和40年にようやく出来てます。しかも七つの既存丁目から分与されたエリアの寄せ集めです。この過程は、行政的なニーズで無理やり造る必要があったか、既に地元感覚的には自明に存在してきたエリアが何らかの契機にようやく公認されたか、だと思われますけど──どちらと断ずるだけの材料がありません。
かつての地名が、その土地の衰退で新区画に食われる事例は多いけれど、逆は相当珍しいと思う。
長崎人の「稲佐」は広い
ただ、そういうマイナーな不可思議さでは、そもそも「稲佐」という地名そのものがその色彩を強く帯びてます。
「地元は稲佐!」といっている人々が指しているのは、「稲佐町」ではなく、「稲佐橋」を渡った稲佐山山麓から中腹にあたるエリア全般のことだろう。町名にすると稲佐町、曙町、光町、弁天町、旭町、江の浦町、平戸小屋町、大鳥町、丸尾町、水の浦町、大谷町、それに淵町辺りだろうか。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
上記は地元感覚的なものだから実証は不能ですけど、地元感覚を代表する「ながじん」記述です。
稲佐山山麓はそれほど帰属心の強いエリアなんでしょか?稲佐山の解説には「伊渚嶽」という用字もあり、漢字時代以前からの歴史も感じさせます。
意外と分からない稲佐の由来
長崎の西にあり、入江を隔てている。高く秀いでた山で、北は苗神根山に連らなり、南は飽の浦(古名は秋の浦)を臨む。昔稲佐氏という豪族が、この山麓に居て、その遺趾は今もある。又伊渚(イナサ)嶽ともいう。山裾は木が生い茂り、海岸は屈曲し、雲霞たなびいて、その景色の美しい変化は、絵でも容易には表わせない。崎陽第一の景勝である。湊は長く広がって、稲佐嶽がこれを護っている形である。この山の洞や岸、谷、磯等、皆名がついている。〔長崎文献業書第1集第3巻←後掲YAMAP〕
一般には稲佐の語源を、上記「稲佐氏」に求める記述が当たり前に記されます。でも、この稲佐氏の実態は史料的にはほとんど確認できてないのです。
一三七八年「深堀安芸守時勝代中務丞時澄、足利方の今川了俊に属し…稲佐岳から自石妻山城攻略に参加し〕(深堀文書)という記録があり深堀氏以外に当地方に行動した武士として 有馬氏・時津氏・長与氏・大村氏・長崎氏・戸町氏・福田氏・しきみ(式見)氏・浦上氏などの名が見える中に稲佐氏の名は無く、正平17年(1362-足利尊氏の時代)の彼杵一挨連判状の豪族名にも記載されてないことからすれば南北朝争乱によって}1362年には既に滅亡・していたと推定される。略
貞観三年(861)この「稲佐神」の記録からすれば、むしろ、稲佐神社所在の稲佐という対岸地区の地名から稲佐氏を名乗ったとみるぺきである。略
その稲佐の語源はタケミカズチノ神とアメノトリフネノ神が「出雲の国の伊那佐の小浜に降りつきて」に名高い「伊那佐」とおなじく、「イナ」が砂地、「サ」は接尾語でおって稲佐埼の下の磯が小砂丘をなす美しい砂浜であったことから、その付近一帯をイナサと称し、更に稲佐からその南にかけての地域も稲佐に含めて称したものである。〔松竹秀雄「稲佐風土記」←後掲竹村〕
この事実からは、稲佐氏が上記史料の南北朝以前から存在しており、かつ南北朝までに早々に滅びたとも仮定できます。ただそれなら今に至るも影響力を示し続けるのは、どうも妙な気がします。
上記引用では不鮮明ですけど、後掲・稲佐治部太輔という人物が太平記に記されています。
竹村さんは「イナサ」を韓国(朝鮮)音と疑い、色々な語を充て、支配氏族というよりも移民集団名だったのではないか、という視点に立ってます。特に「……サ」=寺 という見解は、一文字ながら至極自然に見えます。
「稲佐」そのものは佐賀や杵築にも有名な社があるほか、出雲大社摂社・因佐神社との関連を疑う論者があるなど、地名からだけの論考はとりとめがないものにならざるをえませんけど──これも頻出する「稲佐」=美しい砂浜イメージも、長崎の場合どうも疑わしく、別の何かである可能性は高いのです。
長崎のことを書いてある古書に「美しい砂浜」というイメージで対岸のことを記しているものがない。
-「稲佐も五島町も海岸は、崖に近い地形だった。
その付近は荒磯でそうでないところは、葦がぼうぼうと生えて、どの辺が深いかわからなかった。
その間を港は現在の竹の久保付近までは深く入り込んでいたのである。(略)
イナという音が砂浜を表わすことは、一般的な学説である。
だが稲佐のイナは砂浜ではない。とすればなんであろうか。〔後掲竹村〕
渕神社から岩屋山へと朧な聖地
稲佐エリアの北の方にある渕神社の二の鳥居付近には「福山ファン垂涎の聖地・宝珠幼稚園」跡(福山さん卒園)があるそうです〔後掲長崎ブログーッ!!〕。
稲佐山山頂部にも「稲佐山神社」というものがある……そうです。GM.クチコミによると、昭和34年記名の長崎市民個人建立銘の石碑あり。以前は八大龍王の、今は天照大御神の御札が掛かるそうで、やはり論考に耐えうる史料的裏付けには薄い。
ただし、この地点が要地と見られてきたのは、やはり否定し難いようです。大友氏旧臣・志賀氏というのは、大友氏末期に九州制覇目前の島津軍の勢いを秀吉軍の到来まで停めた親次※の家系筋と思われ、没落家とは言えかなり大物です。
※※長崎・渕庄屋の初代と伝わる志賀親成は別名・林宗頓、洗礼名はゴンサロ。『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)と結婚した〔wiki/志賀親次/注釈4〕。吉弘鎮信は1569(永禄12)年頃に博多を守り、吉川元春に対抗する武威を示す一方、商都博多の礎を築いた猛将で、長崎での地歩にはむしろ吉弘家後継としての色彩も強かったかもしれない。
現在の稲佐橋は三代目で、初代の橋は、明治39年(1906)に架けられた長さ約75m、幅員約5.5mの市内最長の木造の橋だった。(略)橋が架かるずっと以前の江戸時代、この辺りは肥前国彼杵郡のうち、浦上淵村稲佐郷、舟津郷、平戸小屋郷、水の浦郷と呼ばれ、幕府直轄領で長崎代官が支配下にあった(ママ)。その際、庄屋職に就いたのは、豊後(現・大分県)を本拠とした一族・大友氏の旧臣志賀氏。当時長崎奉行で同族同郷の竹中重興(しげおき)によって浦上渕の庄屋に任命されたといわれている。慶長10年(1605)から明治維新に至るまで、志賀家が世襲した。(続)〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
この志賀家の支配の一環が悟真寺だったと考えられてます。ただ本文でも見たとおり各民族集団もパワフルに活動しているので、志賀家の機能の実質は外交調整だったかもしれません。
(続)この志賀一族の痕跡は、今も稲佐エリアに残っている。稲佐岳の東斜面、曙町にひと際目をひく朱塗りの門がそびえる。慶長3年(1598)創建の終南山光明院悟真寺だ。この寺が所有する稲佐悟真寺国際墓地に彼ら一族は眠っている(浦上村渕庄屋志賀家墓地/市指定史跡)。
古くから稲佐の象徴的存在であり続けている悟真寺は、岩屋山神通寺の支院のあった場所ともいわれ、また、戦国時代の豪族・稲佐治部太輔氏の居館後(ママ)ともいわれている。その頃の遺構として現存するものが、境内の「聖井戸」と呼ばれる古井戸だ。(略)この寺は、キリシタン時代における仏教再興最初の寺だったのだ。おそらく志賀一族の菩提寺でもあったのだろう。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
「聖井戸」が唯一の中世遺構、という記述はこのナガジン記事しか見つからず、そもそも何を根拠に言ってるのか不明です。その前の岩屋山神通寺の支城だったという点も同様なんですけど、いずれも長崎年表にもはっきり記されてます〔後掲藤城〕。
岩屋山神通寺については、ワシ自身知りませんでした。後掲。
始祖親成(ちかなり)、初代庄屋 親勝(ちかかつ)と共にこの地に眠る11代親憲(ちかのり)は、安政5年(1858)、「稲佐ロシア人休息地」開設に関与した人物で、また、その長男の親朋(ちかとも)は、その環境からかロシア語の通訳となり、幕末にはロシア留学を果たし、維新前後には露外交の通訳として活躍した。
稲佐橋から稲佐公園にかけての光町の坂道は、少し小高くなっているが、これはかつて、ここが「鵬ガ崎」と呼ばれる岬だったことの名残だという。この辺りには、当時の長崎の風流人であった蒲地子明の別荘があり、文政6年(1823)の頃、「鵬ガ崎焼」を開窯した。子明自作の詩歌を彫刻した雅趣に富んだ作品は、特に茶人に珍重されたが、嘉永5年(1852)閉窯。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
前半の志賀親憲・親朋親子は、長崎的な「地方自治としての外交」の最末事例とも言えるものですけど、その後日露戦に至る近代日本史を考えると極めて危険な事象でした。さらに巻末参照。
「鵬ガ崎」(ぼうがさき)という地名は、焼き物の名としてしかヒットがありません。鵬ガ崎焼又は稲佐焼と呼ばれたと言うから〔後掲福岡県立美術館〕、属地性に間違いはないけれど、創始者・子明が長崎代官髙木氏の一族で、その作風が「白象嵌の菊花文や、呉須による山水や詩文をあしらった中国風のもの」が多いとなると〔日本歴史地名大系 「鵬ヶ崎焼古窯跡」←コトバンク/鵬ヶ崎焼古窯跡〕、波佐見焼と類似の輸出品目創出の動きだった可能性があります。
結果、現代の骨董家をして「幻の……」と呼ばせる、要するに短命な起業に終わった訳ですけど──このタイプの商品の本質は、質というよりタイミングです。長崎代官の挑戦に拍手です。
志賀の波止場に着く船は
どうも位置がすっきり限定出来ないマターが多い。実感的には長崎奉行所をパトロンに持つ志賀氏が「何かヤバいことをやってる」場所と囁かれ、数々の都市伝説が生まれた、という感じのエリアだったのではないでしょうか?
次の記述も、当面現・弁天町の位置だけお示ししておきます(→弁天町:GM.)。
現在の弁天町、旭大橋の稲佐側カーブの下辺りは、当時、船着き場だった。庄屋である志賀家の屋敷前にあたるところから「志賀の波止場」と呼ばれていたという。江戸時代中期に書かれた長崎名勝図会に「稲佐割石」がある。寛文5年(1665)、入港後間もないオランダ船の火災により大砲が暴発。砲弾が海岸の崖を直撃し砕け落ちた大岩が真二つに割れた。やがてこの二つの石は「割石」と呼ばれるようになり、長崎の名所の一つになったのだそうだ。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
地名としてははっきりこのエリアに存在してます。伊能忠敬の測量日誌にも記される。──1813(文化10)年8月25日、「鯨堂」付近の庄屋「志賀和一郎」宅で休息した忠敬一行は、「割石」へ。ここは長崎大黒町口への渡し場であるとともに、井戸が存在し、唐人はこの水を貰う。つまり補水地になっていたらしい。また割石の次に「稗田」という地名、さらに「稗田川」を「巾二間」(3.64m)として記しています〔後掲伊能忠敬の長崎市測量〕。
なお割石は、すぐ横の渡場=志賀波止を遮っているので割石渡とも呼ばれたという。長崎古今集覧には「破石渡」と記し「ワリイシノ」の渡と読ませてます〔後掲長崎ぶらぶら歴史と地名〕。
稲佐は江戸時代、出島オランダ屋敷や唐人屋敷に住む外国人が食していた食用のブタやヤギが立山と共に飼われていた場所。そのため、稲佐橋から稲佐公園にかけては家畜の飼料となる稗が栽培されていた。そして、そのことからかつては稗田という地名だったという。今も「稗田橋」というバス停名でその名が残る。この稗田の浜には、亨保16年(1731)、鋳銅所が建てられ、棹銅が造られていた時代もあった。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
家畜飼育地という情報も、地名以外になかなか伝わらないものです。立山と稲佐が豚と山羊の、多分飼育場になっていたというのですけど、その場合「牧」のような地名が残ることが多いように思う。「稗」(ひえ)字が残るのは、単に家畜の用ではなく、ヒトの救荒作物として栽培されてもおり、実質はそちらがメインだったのでしょう。
さて上記後半の鋳銅所も、稲佐で営まれた「ヤバい」事業の一端に思えます。
稲佐には銅や火薬やヤバいモノ
上記「割石」がオランダ船の火力で崩落した……というのは因果が離れてる気がしますけど、どうやら暴発事件そのものは大なり小なりあったようです。
オランダ船の暴発事件を受け、元禄3年(1690)、長崎奉行は砲弾と火薬を管理し出港までの間、保管することなり火薬庫「稲佐塩硝蔵」を割石の側に造った。明和2年(1765)にこれを廃止し、対岸の御船蔵内に保管するようになると、その跡地には、明和4年(1767)、鋳銭所が設けられた。安永2年(1773)に廃止されるまでの7年間に23万1千貫文の銅銭が造られる。この稲佐銭座で鋳造された「寛永通宝」の裏面にはマス型の上に「長」の字が刻まれてあるのが特徴だったとか。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
火薬庫の跡地を銅鋳造工場にする。どうも訳が分からない。欧米技術の移入実験場のような、変な場所がここにあったと考えると、何とか理解しやすくなります。
「長」印の寛永通宝は、現代専門的には「背長」と呼ばれてます。寛永通宝の種類の中ではあまり価値は高くない。つまり九州付近では相当量が頒布された銭らしく、銭相場が荒れた時の市場調整専用の銭として用いられたという見方もあるらしい。──だとすると、この銭の管理者は広域の金融政策施行者でもあったことになります。江戸幕閣中央がかなりナイーヴに取り組んだとされるこの分野に、長崎はどう融合して機能していたのでしょうか?
こういう近世稲佐の「ヤバさ」を前提に置くと、この地で発覚したとされる禁制品発覚も、真偽はどうあれ非常にインテリジェンス的な色彩を感じさせます。
「志賀の波止場」は歴史の舞台として登場する。文政11年(1828)8月に襲った台風はシーボルトを乗せて出港する予定であったコルネリウス・ハウトマン号を座礁させ、この「志賀の波止場」に積み荷が散乱。国外持ち出し禁止の日本地図が発見されたのだ。世にいうシーボルト事件の舞台もこの地だった。その後も幕末から明治にかけて、志賀家は海運業を始め、この波止場を拠点とした。〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕
外交が歪んだ、あるいはやむを得ない形で地方自治に担わされたのが「長崎」という非常にユニークな構造です(対馬・沖縄・松前も程度の差はあれこれに類します)。志賀家はおそらく、時代情勢上仕方ない形で民間インテリジェンスとして稲佐で活動していたと考えられます。
この「機関」が最も外交の表から見える形で機能したのが、その最末、維新〜日露戦前夜までの対露関係においてだったのでしょう。
太十郎は海路の果て長崎を踏む
井上靖が「おろしや国酔夢譚」に描いた大黒屋光太夫の約10年後、陸奥石巻から漂着した若宮丸の船員たちの生き残り太十郎ら4名が、南米南端を経て記録に残る日本人最初の世界周航の末に長崎へ到ったのは1804年9月〔後掲吉村〕。これがレザノフ※の日本来航船です。
※ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов), 1764生-1807没
長崎稲佐とロシアの関わりはレザノフ来航まで遡る。1804(文化元)年に長崎に来航したレザノフ(Н.П. Резанов)艦隊から病人が発生し衛生状態が悪化したため、幕府は稲佐への特別上陸を許可した。さらに半世紀後の1853(嘉永6)年、通商と国境画定を求めてプチャーチン(Е.В. Путятин)の艦隊が長崎に来航したときにも幕府は稲佐への上陸を許可した。1858(安政5)年、日露修好通商条約が締結された翌年には長崎が開港場となり、1860年に外国人居留地が開設されたが、ロシア軍艦乗組員は従来通り稲佐地区への上陸を常とし、対岸の大浦外国人居留地に滞在することは皆無だった。上陸した彼らのうち、将校は地元民家や民家の別宅を借りて滞在したが、水兵たちは平戸小屋と舟津浦に設けられていた病院の利用のみならず、マタロス休息所で遊女と遊興するなど、稲佐はロシア海軍の保養地(医療・保養的駐屯地)(4)になっていた。安政の五カ国条約が定めるように、本来、外国人は外交使節を除き居留地内に滞在しなければならなかった。それにも拘わらず大浦居留地外の稲佐地区では、ロシア人だけを特別待遇する形での交流が始まり幕府もこの居留地外雑居を追認したのである(5)。長崎稲佐には幕末のプチャーチン来航以来、ウラジオストクが氷結して使えない冬の間のロシア艦隊の越冬を含め長崎港を利用する慣習が日露開戦前まで続いた(6)。〔後掲醍醐〕
5 鵜飼政志「長崎稲佐のロシア海軍借用地」『歴史評論』669号、2006年、31-32頁。
6 一般的にはロシア艦隊が長崎を越冬港にしていたとされるが、少なくとも1881年以降は、港湾出入り艦船数や停泊日数の点から通年利用していたことが分かる。宮崎「外国軍隊と港湾都市」231-235 頁。
ロシアの活発かつ戦略的な南下行動に際し、接触最初期の19C前半には漂流民を当て(又は理由)にしたようです。同行のロシア軍中尉の日記の記すところでは、漂流返還民の太十郎は、長崎到着後、レザノフの通訳になることを拒否、その事で検使役奉行手付・行方覚右衛門の怒りをかったという〔後掲西浦〕。ここからして、相互の意思疎通は資料を見る限り第三国語(オランダ語又は英語)で行わざるを得なかった模様です。
※※大日本古文書・幕末外国関係文書の略
このニーズからでしょう、志賀家の後継者・親朋(1842生-1916没)は、1858(安政5)年、つまり17歳で入港するロシア軍艦の船員からロシア語の教授を受け※たのを皮切りに、内国者(漂流民以外)で初のロシア語通訳者として身を立てます。〔朝日日本歴史人物事典 「志賀親朋」←コトバンク/志賀親朋 (読み)しが・ちかとも〕
即ちその後の略歴としては──
箱館在勤ロシア語通弁を依命
1866(慶応2)年 箱館奉行小出秀実の日露国境画定交渉に随行(ヨーロッパ経由で渡露)
1869(明治2)年
箱館詰外務掛、次いで北海道開拓使少主典
1870(明治3)年 彦根藩権少属
1872(明治5)年 外務省勤務に復職
1873(明治6)年 ロシア公使館書記生。(柳原前光公使の樺太千島交換条約交渉の通訳担当)〔ibid.コトバンク〕
坂の上の雲にこんな文章があります。「秋山好古は、一人で全てを引き受けた。この分野だけでなく、他の分野でもすべてそういう調子であり、明治初年から中期に駆けての小所帯の日本の面白さはこのあたりにあるであろう。」──同じ明治のうちに命運を賭して戦うことになるロシア帝国との外交も、少なくとも最初期においてほぼ志賀親朋一個人が頼りだった時代がある訳です。
ロシアが新生日本に出会った街・長崎
醍醐さんは、この論文で少なくとも19Cの一時期、ロシアが東洋進出に際し如何に日本を当てにしていたか、という新視点でアプローチしています。
このような文脈で扱われてきた長崎での借地問題は当該期の日露関係にどのように位置づけられるのだろうか。日露関係の通史的研究では本問題への言及が殆どないが、樺太千島交換条約を研究したストローエヴァ氏は、ロシア側譲歩の背景に英露対立やアメリカの海洋進出を挙げるとともに、「ロシアにとっては同様に、日本との友好関係も必要であった。なぜなら、ロシア海軍には極東に不凍港がなく、船を投錨したり修理したりするために日本の港を使用していたからである」との興味深い指摘をしている(13)。このように千島列島割譲に踏み切った背景にあったとされるロシア海軍の利益を探る上でも、日露関係全体の中に長崎稲佐の当該問題を位置づける必要がある。当時のロシア海軍が極東で置かれていた立場を把握すれば条約の時代的背景もより明確化する。さらに日露戦争までの間にロシア艦隊が長崎に駐屯していたという事実は、対立の延長として描かれがちな日露戦争への過程を考え直すことにも繋がるであろう。〔後掲醍醐〕
考えてみれば、如何に口実であったにせよ漂流民返還という人道主義を看板にして来航したロシアと、黒船で大砲をぶっ放したり(米)、ちょっと実戦して懲らしめたり(+英仏蘭)する国とでは、前者の方が多少なりともマトモです。
ただし、すぐ北の対馬では無断占拠事件をやらかしてます※。日露開戦時と同様、政治のキーパーソンが少ない帝政ロシアでは、宮廷での政治闘争で強硬派と穏健派が始終交代する「躁鬱」状態にあったようです。
またもう一点、ロシアの東方海上への制海権拡張を担ったレザノフ個人が、冒険的だったことも考慮すべきでしょう。この人の目的には日本との通商以上に北米西岸の視察・確保があり、実際にアラスカの治安回復の後、(当時スペイン領の)カリフォルニアに至り、外交・商業的には失敗したけれどアルタ・カリフォルニア総督の15歳の娘と婚約してしまったのが1806年。
この前年1805年、レザノフは、アレウト列島のウナラスカ島(→GM.)から皇帝アレクサンドル1世宛に、樺太・南千島の日本植民地の襲撃計画を上申してます〔後掲西浦〕。そういう大変アグレッシブな人物もいるので、専制国ロシアではこれにゴーサインが出れば即侵略が始まった訳です。
ロシア海軍の保養地として長崎は発展した。極東ロシアの海軍の主要港がニコラエフスクからより南方のウラジオストクに移転すると、貿易取扱量、食料補給、載炭、乗組員の休養など全ての点で函館よりも勝る長崎が、ウラジオストクとの関係を密接なものとした(32)。とりわけ長崎では、ニコラエフスクの近くにある樺太北西部のヅエ産のものに代わる石炭の輸入が可能であり燃料補給に適していたのである(33)。実際、1870年代前半における長崎来航のロシア軍艦の逗留日数は、イギリスのそれと比べても総じて長期にわたっている(34)。1872年1月1日にはウラジオストクと長崎の間に電信線が引かれることにより(35)、長崎と極東ロシアの結びつきはますます強化され迅速に日露交渉を行う条件も整った。また、前述のように1866年に箱館で病院が閉鎖されると、その代わりとして長崎に病院が開設された。場所はまたしても稲佐村に近い悟真寺であった(36)。稲佐は、極東に不凍港を求めるロシア艦隊の保養地となり、稲佐悟真寺国際墓地の南西側にはロシア兵の射的場もでき、これは1903年頃まで続いた。稲佐は、イギリスなどの諸外国からは評判が悪かったが、ロシア人から見ればイギリス人が幅を利かせる諸寄港地よりも「ロシア的世界」として重宝に値する場所だった(37)。ロシア海軍は対馬を占領することができず地政学的に重要な軍事的拠点を失った一方で、医療施設をはじめとする保養施設として重要な軍事的拠点を長崎に得たわけである。〔後掲醍醐〕
「長崎ロシア村」の実態は相当数の研究者の興味を引きつつ、必ずしも解明されてません。多分、たまたま出来た慣行的借地を、あわよくば「香港」化する目を残しつつ、基本的には将来のタマとして既得権益化しようとしたのでしょう。
ロシア海軍による長崎駐留慣習は、明治維新後もしばらくは地域の問題に留まり続けた。1870年、稲佐地区の平戸小屋郷地代であった中村善之助は、ロシア海軍関係者から10年契約で地所を「軍艦碇泊中水夫浴場並船具置場」の目的で租借したい旨の要請を受けていた。善之助から報告を受けた長崎県は、ロシア海軍側と交渉したが容易にまとまらず、結局軍艦在港の有無に拘わらず、年額の地代を払うという条件で妥結した。そして、該当地所約300坪の所有者である善之助のほか、長崎県庄屋頭取の志賀礼三郎と、ロシア軍艦アリマズ号船将ピルキン(К.П. Пилкин)との間で契約が結ばれ、1870年10月1日から1880 年10月1日までの10年間、地所がロシア海軍に貸与されることとなった。10年分の地代相の金額として、洋銀75枚が地主に支払われることになった。かくしてロシア海軍に貸与された地所は、規模の大小はともかく、船舶修理工場(係留ドック)用にほかならない。当時、ウラジオストクの海軍用ドックは建設途上で、本格稼働しておらず、長崎がその機能を補完することになったのである(38)。その直後の1871年1月、明治政府は国家主権を侵すものとして外国軍隊の撤退を要求し、横浜居留地に駐屯するイギリス軍はその兵力の大幅削減に同意している。この頃には明治政府は御親兵を創設し治安維持を自力でできるようになってきており、外国軍隊駐留の根拠になっていた攘夷の事件も減っていたからである(39)。対してロシア海軍による長崎での借地行為は外国軍隊撤退の流れに逆行するものであったと言える。〔後掲醍醐〕
長崎へ行啓あらせられた露海軍総裁
この長崎・在日ロシア軍基地へは、皇室の行啓もありました。その有名な方から二番目が、Алексей Александрович アレクセイ・アレクサンドロヴィチさん、大公 великий князь 及び海軍元帥 генерал-адмирал。1850年サンクト・ペテルブルグ生、1908年パリ没。皇帝アレクサンドル2世の第五子・四男、同次男・皇帝アレクサンドル3世の弟。早くから海軍トップとなるべく教育された人物。けれど、日露戦を海軍総裁で迎え、日本海海戦の敗北の責任を負って辞任してます〔後掲ロシア学事始〕。
日本へ来たルートは、1871年にデンマーク、イギリス経由でアメリカへ。1872年にハバナ、リオを経て太平洋を渡り、バタヴィア(現・インドネシア)、香港、上海の後に長崎へ訪れてます。その後はシベリア経由で帰国。
アレクサンドル二世の第四子であるアレクセイ大公の来日だった。1872(明治5)年9月25日、アレクセイ大公がフリゲート艦スヴェトラーナ号で長崎にまず入港した(40)。この頃、副島種臣外務卿は稲佐の地主志賀親憲の息子である親朋を通訳に(41)、ビューツォフ公使と国境交渉中で樺太買収や樺太分割を目指していたが、アレクセイ大公を外国皇太子として初めて国賓として歓待することになり交渉を中断しその接待に全力を挙げることになった(42)。それに伴い志賀も、アレクセイ大公や明治天皇と乗る同じ馬車に乗り通訳を務める栄誉にあずかっている(43)。1873年4月にも再び長崎に立ち寄ってから帰国の途に就いたアレクセイ大公は、ロシア海軍が1870年から借用している平戸小屋で「物置場」を視察し、「軍艦乗組患病者治療之為上陸為致候モ、地卑湿ニシテ健康ニ害アリ故ニ此地可然」と善之助所有地が医療施設に適していない地理的環境であることに問題を感じた(44)。 このとき大公に随行していた人物である侍従武官長のポシエト(К.Н. Посьет)海軍中将は(45)、ロシア艦隊の保養地候補を視察し長崎県に「近傍地続ニ而増地囲込度旨懇望」と丸尾山方面に借地拡張を求めた。「ピルキン海軍大佐が賃借した土地には、小さな丘[丸尾山]が隣接しているので、少なくともそれを併せて一つにする必要があった」のである(46)。〔後掲醍醐〕
45 ポシエトはプチャーチンの副官としての来日経験がある親日派で今回3回目の来日である。帰国後は交通大臣の要職を占め樺太千島交換条約交渉では榎本の情報源にもなっていた。醍醐「榎本武揚と樺太千島交換条約(一)」254-256頁。
46 Русский береговой лазарет в Нагасаки для команд плавающих в Тихом океане судов. С. 99.
何と二回も長崎を訪れてます。将来海軍トップを約束された皇室が、世界周航の末に、です。割と成り行き任せだった稲佐のロシア村に、この辺りから周到な計画性が臭い始めたと言っていいでしょう。
帰国していたポシエトが1873年10月24日(露暦10月12日)に借地に関する建議書をクラッベ海軍省長官に提出していた。(略)ポシエトは「そのために最も便利な港は長崎であり、以上の全ての条件に当てはまる稲佐村周辺の場所はロシア船の艦長たちにずっと以前から蒸し風呂や艀(はしけ)の修理のために選ばれてきました。艦隊司令である海軍大佐ピルキンにより160平方サージェンに相当するこの場所を1880年まで75ドルの支払いで10年間借用されました」と書いている(56)。(略)
ポシエトの建議を受けたクラッベ海軍省長官は皇帝への12月15日(露暦12月3日)付上奏文で、太平洋分遣艦隊司令長官に対し「元太平洋艦隊司令長官のピルキン少将は、我が太平洋艦隊の乗組員が利用できる蒸し風呂の設置や艀の修理のために、日本の長崎港にある稲佐村周辺で160平方サージェン(1サージェンは7フィートに相当)に相当する土地を借りました。この土地を1880年までの使用に対し日本人に75ドル支払われています」とこれまでの経緯をまず知らせる。(略)その上で、稲佐の賃貸にかかる費用を記し「ポシエト侍従武官長の提案を実現することが有益であると考え、その提案を実現させるよう陛下に御許可を求めさせて頂きます。我々にとって便利で有益だと判明すれば、土地の購入さえも考えております」と書いた。このクラッベの上奏文には皇帝により裁可されたことが最後に付記されている(59)。〔後掲醍醐〕
59 РГАВМФ. Ф. 410. Д. 2. Оп. 4256. Л. 5-5об.
←22 Российский государственный архив военно-морского флота (РГАВМФ). Ф. 536. Оп. 1. Д. 14. Л. 1. なお、本稿で使用したロシア海軍文書は東京大学史料編纂所が所蔵する複写分である。
イギリスのように戦争で、とは書かれてませんけど、購入までは皇帝認可のシナリオに入っていたわけです。──日本の富国強兵が頓挫したり、頓挫しなくても日露戦で負けていれば、まず間違いなく長崎は香港になっていたでしょう。
次のまどろっこしい文章は、どう読むかで味わいが変わってきます。ただ結果として、日露戦まで長崎基地は穏健派の意見が通って、多分「イギリスを刺激しない」武装度を維持し続けることになったようです。
その後長崎に寄港したり、当地で越冬しさえするシベリア船団の艦船は、言うまでもなく、稲佐の我が国の港の修理を行ったり何かを整えたりするには、僅かな資金や、限られた数の人手しか持ち合わせていなかった。この港では、我が国の水兵からの不注意な行動や、日本人との衝突が起こることも度々あり、一度は、硝化綿は入っていなかったが機雷さえ持ち込まれたことすらあった。このような状況下で、ロシアが稲佐村に自らの港や立派な海軍提督府を整備したことが表沙汰になると、これら全ての衝突や我々側からの不注意な行動は、我々に対し友好的ではないイギリスやいくつかの日本の報道機関に対し、ロシアは稲佐で我が物顔に振る舞っており、堡塁を造営し大砲を設置し長崎の街自体に脅威を与えるために最終的にはそこを占有することを欲していると激しく言い立てる口実を与えた〔太平洋分遣艦隊司令長官記録:(原注121)Русский береговой лазарет в Нагасаки для команд плавающих в Тихом океане судов. С. 103-104.←後掲醍醐〕
明治13年 ロシア海兵のいる長崎稲佐
1880(明治13)年頃、志賀親朋の長崎・稲佐への居住が記録されています。ロシア村説が正しいなら、日清戦もまだ予期されない時代状況上、その調停者という役を担ったはずです。
1878年には志賀も外務省を退職し故郷稲佐に戻り(124)、同 年11月末の志賀家の家督相続に伴い借地の所有者も親憲から親朋へ変わった(125)。1880年8月30日にロシア人作家クレストフスキー(В.В. Крестовский)が長崎を訪れた。そのとき彼は見学した借地内の病院の隣に志賀家の住宅を見つけるや「数年前にペテルブルクの日本公使館の書記官を務めていた正教徒の日本人アレクサンドル・アレクセーエヴィッチ・シガ[志賀親朋]その人がここに住んでいるに違いない」と早速面会を求めた(126)。彼は「とても上手にロシア語を話し、書くことができる」志賀に街を案内してもらい様々な質問をしたという(127)。さらに後年に稲佐を訪れた前述のペトロフが描くところでは、「ロシア船がやってくるたびに、志賀さんは必ず最初に乗り込んできて皆と知り合いになり、街の案内を買って出る。彼はロシア語をとても上手に話すので、この上なく待ち望まれた客となる」のだという(128)。先行研究が指摘するように志賀家は、ロシア艦隊と地域住民、地方庁との間に位置しながら「ロシア村」を取り仕切る地域権力だったが(129)、ロシア語通詞を務めていた親朋の代になるとますます稲佐における日露友好の象徴的存在になっていった。
ロシア海軍基地はこのような友好的雰囲気に包まれた火種でもあった。基地周辺には志賀家の経営する将校用ホテル「ネヴァ」、諸岡家の経営する料亭「ヴォルガ」、さらには諸岡マツ(130)の庇護を受けて道永お栄(131)が建てたホテル「ヴェスナ」などが建てられ、ロシア海軍との交流が盛んになった。〔後掲醍醐〕
→41 吉岡誠也「『ロシア通詞』志賀親朋と明治維新」松尾正人編『近代日本成立期の研究:政治・外交編』岩田書院、2018年
125 鵜飼「長崎稲佐のロシア海軍借用地」39頁。
→5 鵜飼政志「長崎稲佐のロシア海軍借用地」『歴史評論』669号、2006年
126 Крестовский В.В. В дальних водах и странах. Москва, 2002. С. 366.
127 Там же. С. 368.
(Там же≒前掲書)
128 Петров К. Русская деревня в Японии // Вокруг света. 14 июль 1885 г. № 27. С. 428.
129 宮崎千穂「外国軍隊と港湾都市」230頁。
130 1885 年にヴォルガの女将となり、1891年のニコライ皇太子来日の際にも接待している。松竹『ながさき稲佐:ロシア村』218-219頁。
131 1879 年、19 歳で福田家別荘ロシア将校クラブに勤める。ロシア語も学習し、1884年にはロシア海軍向けのホテルの経営者になっている(同前216-217頁 )。
出典は定かでないけれど、親朋の言行は少なくとも志賀家の総意を受けたものではなかったらしい。先代=父・親憲は後継者の息子が露語を学ぶことを嫌い、なかんずく函館ロシア領事館付通訳となる際には最後まで反対したという〔後掲檜山〕。予想される志賀家内での確執を敷衍すると、露海軍借地の所有者が先代・親憲だった時期に、この所有者が快諾したとは考えにくい。
悟真寺には志賀家菩提寺があります。「親朋」名の墓碑の所在はどうしても確認できません──親朋の墓だけがロシア正教会エリアにあるのでは?と疑ったのです──けど、ロシア滞在中に洗礼を受けてロシア正教徒になった事実は上記クレストフスキー※以外に二人の紀行作家の記すところとなっています。
①フセヴォロド・V・クレストフスキイの記録は「遠方の水域と国々で」『ロシア報知』サンクト=ペテルブルグ、1886年、第2号
「これらの兆候から、V・S・クドリーンはただちに判断した。数年前、在ペテルブルグ日本大使館付書記官だった正教を信じる日本人、アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ自身がここで暮らしているにちがいないと。」
ほかに
②L・パシコーヴァ『極東と東洋のフランス人ならびにイギリス人コロニー(世界一周女性飛行家の日記から)』、オデッサ、1886年。
「地主で、在サンクト=ペテルブルグ日本公使館元書記官の正教を信じる日本人アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、領有地の近くで暮らしている。」
③A・A・チェレフコーヴァ 「日本の思い出から。日本の正式晩餐。仏式葬儀」―『歴史報知』サンクト=ペテルブルグ、1893年、第1号。
「正教を信じる日本人で、約20年前、在ペテルブルグ日本公使館元書記官アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、目下、ずっとナガサキで暮らしており、ロシア語をかなり上手にあやつり、市内見学や視察の方面でおおいにロシア人の世話をやいている。」
なお、志賀親朋の洗礼については、
V・グザーノフ「チョウ―チョウ―サン―ロシア版実話」(『極東の諸問題』第1・2・3合併号、1992年)「数年後、シガはサンクト=ペテルブルグに赴いた。そこで彼は日本大使館付書記官として勤務し、同地で正教を受け入れて、アレクサンドル・アレクセーエヴィチとなり、姓だけは元のシガを残した。」
親朋の公用渡露は1867年と1874年の2度で、うち在ペテルブルグ日本公使館付外務3等書記官となったのは1874(明治7)年なので、グザーノフの記す親朋の正教洗礼は1874年と断定できます。
この三作家は多分、事前に情報を掴んで訪問ルートに組み込んだと想像されます。つまり明治10年代半ば(1880年前後)の日露関係の基礎情報の中に、長崎と「シガ」(=志賀親朋)の名は常識的に含まれていた訳です。
親朋(ちかとも)の方も、アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ──と日本人名を完全に捨ててます。ロシア村顔役を、個人の力量だけで務めていたと想像されるわけで、コスモポリタンとして第一級の才覚です。
稲佐の対露貸借契約規程は、長崎県の厳重なチェックが入り、さらにその背後からは大久保利通ら国政トップが凝視していました※。表に出ないところで、親朋はこれら国の横槍との調整も当然に処理していたはずです。
※※103 明治8年10月25日付榎本武揚宛書簡抜粋、『長崎県居留地外稲佐郷志賀親朋所有地露西亜国海軍用ノ為相対貸渡並海岸へ桟橋架設ノ免許一件』ref:B12083331600。なお、このときは地方庁の専断的傾向が目立ったが、明治30年代に行われた雲仙サナトリウムの借地交渉では外務省の意向が大きく働いた。宮崎「外国軍隊と港湾都市」240頁。
←宮崎千穂「外国軍隊と港湾都市:明治30年代前半における雲仙のロシア艦隊サナトリウム建設計画を中心に」『スラヴ研究』55号、2008年

長崎へ行啓あらせられたラストエンペラー
さて上記引用後半にあるロシア村の歓楽街については、国内的には長崎三女傑※に数えられる道永栄が著名です。ただこの人の評伝は、日露戦当時の「ロシアの味方=裏切者」誹謗からジェンダー観点への視座の移動からアップダウンが激し過ぎ、本稿はこれに無益に巻き込まれるのを避けます。
※
大浦 慶・楠本 イネ・道永 栄
そこで、長崎を行啓されたもう一人のロマノフ家皇族、というか後の皇帝ですけど、ニコライ二世と長崎歓楽街について見ていきます。
ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ: Николай Александрович Романов、1868年生-1918年没、在位1894年-1917年)。
以下のwiki記述の典拠は多くがドナルド・キーン(著、角地幸男・訳「明治天皇 下巻」新潮社、2001年)で、やや偏りが懸念されますけど──ニコライ皇太子(当時)の長崎滞在は1891年4月27日から5月6日まで、9日間に及びます。両親が勧めたとされるこの時の世界旅行は1890年10月から、大津で刺されて帰国する1891年5月までの8ヶ月。つまり粗く言えば最後の1/8は日本、指される前の在日滞留期間の大半は長崎でした。
皇太子は当時22歳。先述アレクセイ大公の甥に当たりますから、散々「♪日本よいとこ」自慢を聞かされてもいたでしょう。
ロティという仏海兵さん※が、この数年前に長崎で現地妻と一ヶ月同棲した記録を日記「お菊さん」に書き、19C末開国直後のジャポニズム興隆に最も大きなイメージを与えます。ラフカディオ・ハーンの来日のモチベーションになったとも、ゴッホの初期の日本イメージが本作だったとも言われます。
ロティの日記そのものか、その噂かに触れていたと思しきニコライ皇太子の日本での行動は、まさにロティのそれをなぞってます。実際、ドナルド・キーン記述によると、稲佐駐在ロシア人将校がなべて日本人妻を娶っていることを知ると、自身も同じ「妻帯」願望を強めたという。「復活祭直前のキリスト受難の週がはじまっているというのに、こんなことを考えているとは何と恥ずかしいことか」と反省して自重した、とキーンが記す典拠は不明ですけど、多分そう側近から必死の説得を受けたのでしょう。現在の東南アジアの日本オヤジ観光客を想像すれば分かりやすいですけど、要するに──年並みに「お盛ん」でミーハーな風来坊プリンスです。
こういうニーズだったと想像されるからには、稲佐の歓楽街に毎夜どっぷり浸かってたのでしょう。
日本政府は復活祭を配慮して5月4日(長崎県知事主催の歓迎式典)までニコライの予定を組まず空白を維持した……というのもこの状況に配慮したのでしょう。その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索した、とキーンは推測してます。ニコライの日記中の表現──「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」※からは──一般民家に相当頻繁に上がりこんでいる印象を受けます。
なお同保田には、入手しやすい次の著作もある。
保田孝一 『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』(朝日新聞社、1985年、増補版:朝日選書、1990年、講談社学術文庫、2009年)
皇太子が日記に「全員が少し酒を飲んだ」と記している5月4日の復活祭明けの夜、お付きの護衛・監視役警官の日誌によると──
「ロシア人一行は丸山(長崎の花街)の芸妓5人を招き酒宴を催し、芸妓が躍り、二人の皇子はロシアの歌をうたった。その夜遅く、二人は諸岡マツという女が経営する西洋料理店を訪れた。二人は朝の4時まで帰らなかった」
「マツは二人の皇子のために住居二階に秘密の宴会を手配した」〔日本警察の機密報告書←後掲Hikaru〕
諸岡マツさんという人は稲佐「志賀の波止場」のロシア人御用達レストラン兼ホテル「ボルガ」の経営者なので、皇太子が行啓された料理店はここでしょう。志賀家もセッティングに奔走したと予想されます。
また長崎三女傑の道永栄さんは、天草から茂木の旅館に入った後、このマツを頼って稲佐と思しき「ロシア将校集会所」に住込んだ人です。1900年までに同様の施設「ヴェスナー」を、この諸岡マツさんに経営返還してますから〔後掲ナガジン/稲佐山のすべて〕、マツさんは栄さんの共同又は前任者です。
有田焼や諏訪神社の見学、という公式部分の裏面で、ニコライ皇太子はかくの如き爛れた生活に浸ってた……かもしれません。このラストエンペラーの右腕には長崎で入れた竜のタトゥーがあり、ご自慢だったらしく結構あちこちで不自然に右袖をまくり上げたドヤ顔写真が沢山残ります。
この後の皇帝を終生悩ましたと伝わる頭蓋骨裂傷を受けた大津事件が5月11日、長崎を去った5日後です。実行犯たる滋賀県警・津田巡査の声は全く伝わりませんから、皇太子の行状がどれほど伝わってのことかは定かではありません。
また、1891年の長崎の記憶が、後のニコライ二世の開戦判断にどう影響したのかも分からない。ただ、ロマノフ王室は、わずか15年後の1905年の日本海海戦の現地をかなり正確に知っており、即ち具体的な領土欲を持っていたと想像せられるのです。
■レポ:パリ ロンドンを襲った怒涛の日本病
環境論から明治維新を論じるなら、19C末のジャポニズムは離陸期の明治日本の最大の追い風でした。浮世絵の幻想に浸った西欧からの異様に温かいバイアスが、20Cには恐怖の対象となったサムライ軍団の本質への気付きを遅らせ、餓鬼の如き文明摂取への抵抗値を下げた、という学習心理面は否定すべきではないでしょう。
最初期の逸話として、1856年ごろ、フランスのエッチング画家フェリックス・ブラックモンが、摺師の仕事場で「北斎漫画」を「発見」した、というのがあります。
一八五六年。この年号は確かなのだが、ブラックモンが月日が確定できるかどうかは分からない。とにかく一八五六年のある晴れた朝、ブラックモンは版画の原版『家鴨たちが〔彼女を〕追い越していった』を携えて摺り師のドゥラートルのところへ出かけていった。(中略)
実は、ドゥラートルのところでおしゃべりをしているとき、ブラックモンは奇妙な綴じ方をされた赤い表紙の小さな本を見つけたのである。この本ははるか遠方から到来したものだった。柔らかで弾力的な材質だったため、日本の磁器製品の箱に仕切り材として入れられていたのだ。ブラックモンは、興味をそそられ、それをめくってみた。そして職人や曲芸師、子供、風景、昆虫、花などが、見事なまでに生き生きと表情豊かに描かれた、荒いタッチのデッサンに衝撃を受けた。〔小山ブリジット「夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正」(高頭麻子・三宅京子訳、平凡社、2006年←レオンス・ベネディット(フランスの美術史家)著(Léonce Bénédite,《Félix Bracquemond l’animalier》, in Art et décoration, févr.1905, p.39)←後掲太田記念美術館〕
後掲太田記念美術館は念のためとして次の原文を掲げますので、フランス語の読める方はご確認ください。少なくともブラックモンがこの時見つけたのは、人口に膾炙する一枚摺りの版画ではなくて、一冊綴じの絵本だった、というのが太田記念美術館(日野原健司さん)の主張です。それなら当然、陶器の包み紙ではなく、フランス人たちは正当に大陸の反対側の異次元の芸術を発見するセンスを持っていた訳です。
Chez Delâtre, en effet, tout en causant, Bracquemond découvrit un petit livre bizarrement broché, à couverture rouge. Ce livre venait de très loin. En raison de sa matière souple et élastique, il avait servi à caler des porcelaines expédiées par des Français établis au Japon. 〔後掲太田記念美術館〕
ただし、太田記念美術館は「浮世絵包み紙説」の根拠についても併記しています。前掲画を描いたモネと、もう一人ゴッホに関する逸話です。
恐らく一八七〇年のこととおもわれるけれど、モネがオランダ旅行したとき、ある食料品で、燻製の鯡やローソクの包紙として、歌麿、写楽、北斎などの版画が使われているのを見て、びっくりしてもらいうけたといいう話が、アンリ・フォシォン Henri Focillon の「北斎」(パリ、一九二五年刊)に見えるし、エミール・ベルナール Emile Bernardも、ファン・ゴッホが、パリ時代に、ある骨董屋で、つつみ紙に用いられているものをもらったり、あるいは田舎家から、傷んだまま放置されていたものを一箱買いこんできたという話を、「ファン・ゴッホの手紙」Viencent Van Gogh dans la Plume. Paris, 1891.の序文に書きとめている。〔瀬木慎一「明治以前における浮世絵の海外流出」『浮世絵芸術』24号、1970年←後掲太田記念美術館〕
同時多発的にロックされた開国「日本」
本稿の立場ではジャポニズムの前段、ジャポネズリーの端緒となった浮世絵が包み紙だったかどうかはあまり断じる必要がない。とにかく、ある人物がある発見や遭遇により始まったという具体的端緒ではなく、フランス人のアンテナが同時多発的に開国直後の「日本」をキャッチした、ということさえ確認できればよい。
シャルル・カミーユ・サン=サーンス(Charles Camille Saint-Saëns, 1835年生-1921年没)という早くから注目されたピアニストがいたけれど、1864年2度目のローマ大賞挑戦時の評で言えば「熟練」しつつも「霊感」を感じさせない秀才だったらしい。このサン=サーンスが37歳で初めて生んだ商業的に成功したオペラがジャポニズムの先駆とされる「黄色い王女」La princesse jaune でした〔wiki/カミーユ・サン=サーンス〕。音楽は「東洋的」な響きを出す五音音階で、当時「軽く元気な」音と評され、当時のパリの日本好き感情をくすぐったらしい。知らんけど。
筋を読むと、これが訳分からない。
標題「黄色い王女」に相当するのは「ミン」という日本の王女の肖像画のことで、主人公コルネリスは戸棚の額にこの画を入れて崇拝し、詩を捧げ、舶来品のポーション(∋阿片)を飲み、「日本の部屋に変形」した部屋で王女に愛を告白し、挙句日本に行きたいと切望する。──1872年からのパリのオペラ=コミック座での上演回数は5回。似たような「症状」のアーティストがいたのでなければ、まるで理解出来ない設定です。
サヴォイ劇場(英ロンドン)での1885年の初演から上演回数672回(当時の歌劇史上第2位)、同年中に欧米150社が上演した19Cジャポニズム最大のヒットが「ミカド」The Mikado。「The Town of Titipu」という副題も知られますけど、日本の架空の都がティティプー(≒秩父との説も)で、ここにミカドという日本の支配者が住んで、彼の好き嫌いがそのまま法律になる国がある。その町中の死刑執行大臣ココの屋敷に、流しの旅芸人に変装した実は皇太子のナンキ・プーがやってきて──という滑稽無糖にもほどがあるストーリーなので、駐英日本大使は上演差し止めを要求したという〔wiki/ミカド (オペレッタ)〕。
アメリカでは21Cに入ってから徐々にアジア系の市民による抗議運動の対象にされるようになりますけど〔後掲ハフポスト〕、それを言うとこのジャポニズムそのものが……まあ広義の差別的感覚です。本稿ではその点は置いて、文化的側面だけに絞ってお話していきます。
なお、秩父発祥説の強硬派としては永六輔がおり、ナイツブリッジの日本村(後掲)にいた秩父出身者がギルバートに日本を舞台にしたオペラの着想を与えたと主張している。
サヴォイ劇場から西へ2km余のロンドン・ナイツブリッジのハンプリーズ・ホールに、「日本人村」Japanese Villageが開設されていたのは1885年1月から1887年6月。
タンナケル(タナカー)・ブヒクロサン Tannaker Billingham Neville Buhicrosanという日本文化展示の観覧ツアー組織の主催で、日本人男女約100名(真偽不明)を雇って作った日本の伝統的村落──となると、ここだけの話、動物園と何が違うのかという気がしてきます。
ちなみに現代中国にも、こんな感じの少数民族村が存在するようになりました。
ただ上記の写真を見ますと、なかなかよく出来てます。
上記写真を撮影した「ミカド」作者ギルバートは、ナイツブリッジ村の日本人たちに、ミカド出演者への指導を依頼し契約締結に至っています※。おそらくは、帝国主義の本場たるイギリス人の多文化認識は、極めて実直で誠実なものだったと想像できます。
※※Jones, Brian (Winter 2007). “Japan in London 1885”. W. S. Gilbert Society Journal (22): 686–96.
1885年、日本人村は火事で全壊、日本人1人が焼死。──色々と疑われる事実ですけど、誰も興味を持たなかったのか補足情報はゼロです。火事以後、村は再建されさらに18ヶ月開催されます。
来館者はこの火事以前の旧会場へ25万人、火事後に100万名以上。──ロンドンは1925年頃、ニューヨークに人口で抜かれたとされますけど、19C半ばの人口180万人からWW2直前の1939年までに861万に拡大してますから、日本人村時代の母数は多分二三百万人です。
日本人村閉園から15年後に締結された、日英同盟という不可能と思われた海洋国家連合への抵抗値は、間違いなく「ミカド」イメージによって下がっているはずです。大英帝国は、ユーラシアを賭けた大ロシアとの睨み合うにあたり、かの無気味な極東の新興国と結ぶという「鬼手」で生真面目なロシア行政を煙に巻こうとしたのかもしれません。
■レポ:全球電信ネットを産んだ19C人類
実は前掲の1872年1月1日に敷設されたウラジオストク-長崎間電信線というのには、結構な衝撃を受けました。
明治日本は維新5年目にして、世界通信網に組み込まれるという非常な「幸運」に見舞われてるのです。
上記ではウラジオとの接続だけが記されてますけど、長崎・小ヶ倉千本のケーブルハット施設(旧国際海底ケーブル陸揚庫:GM.)にはウラジオからのケーブルのほか、上海までのそれが引き込まれ、接続されてました。
当初は英露世界帝国の経営インフラでもあった電信は、ケーブルが太平洋とインド洋をまたぐ20Cまでの間にあっては、ロシアの陸上ネットを経てユーラシア東縁から南に回すのが、最も合理的でした。その上に極東に突然生まれた欧米文明への餓鬼のような島国の協力が得られるとなれば、他に選択肢はなかったでしょう。
言い換えれば、通信ケーブル網が世界を一周する直前の時代、長崎を経てシベリアの陸路ケーブルが中国沿岸のそれと接続されることで、実質的な全球有線電信網は一応完成したのです。
日本の国際通信は1871年(明治4年)、デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph. Co.)が長崎~上海、長崎~ウラジオストク(ロシア)間をつなぐ長距離海底電信ケーブルを敷設したことからはじまった。その背景には、当時の清国(中国)が欧米諸国からの電信技術の導入や海底電信ケーブルの陸揚げを拒んだことなどがある。日本はヨーロッパから清国へアクセスするための中継地点として選ばれ、結果として当時の国際通信ネットワークに組み込まれたのだ。〔後掲KDDI〕
情報速度が物理移動を一気に突き放した時代
自己申告ベースで最初とされるマゼラン船隊の世界一周が1522年。これは約三年を要しました。ジュール・ヴェルヌ著「八十日間世界一周」(仏:Le tour du monde en quatre-vingt jours・英:Around the World in eighty Days)は1873年出版(設定は1872年)。飛行機発明(1903年)から21年後の1924年、米陸軍(アメリカ陸軍航空部 United States Army Air Service:USAAS)チームによる航空機での世界一周は所要175日〔wiki/初の航空機による世界一周〕。1933年の隻眼の飛行家ウィリー・ポストによる単独世界一周飛行の段階で8日間弱〔後掲ゆすはら雲の上の図書館〕。
従って、人類という集合知(Collective Intelligence:CI)の神経伝達の高速化は、20C初めまでは物理的なものよりも先に、まず信号として構想され、かつ実現されてきました。というより、物理的物体に地球を周回させるスピードは後日たまたま追いついただけで、情報系としての人類──最初に実現されたそれは英露帝国というやや興醒めするグロい形でしたけど──からすれば
そういう欲求としての信号伝達は、古代から狼煙や烽火として存在していたものが、近世の望遠鏡を得て旗振り、さらにその機械化としての腕木通信に発展してきていました。


フランス各所に巨大腕振りロボ
21C現在の状況から明らかなように、人類の全球CI系は、その完成形として無線を介する視聴覚信号のインフラを選択しました。ただそれ以前の有線しか選択できなかった時代※、膨大な物量を投じて有線ケーブルを設ける過程に先んじて、まず「手旗信号の大型化」が図られた段階がありました。個体の身体能力を超えた遠方への意思の伝達というベクトルの運動は、テクノロジーを次々に乗換えながら橋渡しされていった「願い」でした。
その名残りが、無線の英語wireless telegraphyに残る「テレグラフ」です。これは元々、18Cの「腕木通信」テクノロジーの固有名詞でした。無線は語源的には、「線無しで行う腕木通信」のことなのです。
腕木通信は1793年にクロード・シャップ(仏)が発明した、とされるけれど、この人は主催者のような役だったらしい。聖職者として失脚したパリ物理学学会会員で、帰省したブリュロンで成功した腕木機構をパリで公開実験しようとして、盗難・焼討ちから失敗した上、発明を盗用と中傷され1805年にパリ市役所から飛降り自殺。
92パターン※の複雑な腕木動作を示せたという機構は、技術的には当時の天才的な時計師アブラアム=ルイ・ブレゲの協力によるようです。
アブラアム=ルイ・ブレゲ(Abraham-Louis Breguet,1747年生-1823年没)さんは、時計の専門技術をあれもこれも創出した一種の神様みたいな技術者らしい。多岐に渡る発明のうち現在も基本技術とされるものに「パラシュート」があり、現代の全ての耐衝撃機構の元祖。
ナポレオン時代に本格導入された腕木通信網の総延長は4,081km(1846年-47年のピーク時)、世界中では1万4千kmに達す。
全球ケーブル網をテーマにする本稿で、なぜ腕木通信に深入りしてるかというと──ホモ・サピエンスの身の丈を超えた通信網=種の集合知の神経網高速化への欲求は、その技術的基盤が何であれ、存在し続けてきたということです。多分、人類の技術的進歩の相当部分はこの欲望に導かれている、とも考えます。
そう考えないと、次の電信網の爆発的な成長を理解し難いからです。あるいは、英露帝国主義の統治効率上、誰かの判断で求めたように誤解しかねないからです。
その一つの傍証としてですけど、この腕木通信をシャップは「テレグラフ」と名付けています。ギリシャ語のテレ・グラーフェン(遠くに書くこと)からの造語らしいけれど、これが以後「電信」全般を意味する一般名詞になったのは周知のとおりです。
空想が可能になった三十年
アメリカでサミュエル・モールスが低品質・安価な導線での長距離伝送を可能にした電信を開発した……とされるのが1836年。このモールスも科学者というより企画屋と呼ぶべき人物らしい。電信の技術的可能性は、電磁気学の研究者チャールズ・トーマス・ジャクソンから得ているし、最もその名を伝えるモールス符号は共同経営者の立場にあったアルフレッド・ヴェイルが考案しています。モールスの無線システムが実験的に導入されるのは1844年(ワシントンD.C.-アナポリス)で、無線の商業化はウィリアム・フォザーギル・クックが先だったから、どうやらモールスの最大の功績は政府サイドへの売込みの成功にあったようです。
モールスもヴェイルも初めの目論見では、モールス符号を紙にマーク列で印字する(テレプリンター)方式を想定してたらしい。ところがモールスらの雇った通信士たちは、発信時には言われた通り電鍵(テレグラフキー)で電流をオン・オフさせたけれど、受信時には音響器が発する音を直接文字列に変換することを覚えました。つまり「ツートンツー」の音を文字化する実用方式は、創始期のオペレーターたちの発案です。
1861年、北米の大陸横断電信システム開通まで17年。それも米東部のネットワークの一部が、西海岸のカリフォルニアの小規模ネットと接続したに過ぎません。
ただ、この段階で
1821年には、フランスのアンドレ=マリ・アンペールが、検流計を一文字あたり一つ備えたシステムで電信は可能と主張し、実際に組み立て実験して見せた。
1824年、ピーター・バーローは上記のシステムでは200フィート(約61m)までの距離でしか電信が成立せず、非実用的だと主張。
イギリスのウィリアム・スタージャンは1825年に、ニスを塗った鉄片に絶縁した導線を巻いた電磁石を発明し、電流で磁力を強化することが出来るようになった。
1828年、アメリカのジョセフ・ヘンリーは導線をさらに何重にも巻くことによりさらに強力な電磁石が出来、抵抗値の高い長い導線上でも電信が出来る様になった。〔wiki/電信〕※引用者が色と改行を追加
トムソンは1855年、マイケル・ファラデーの研究を元に電信方程式を発表していたが、この式によると、通信の速度はケーブルの断面積に比例し、長さの二乗に反比例する。つまり長い距離のケーブルでは伝送速度が遅くなってしまうことになる。これを防ぐために、計画よりも太いケーブルを作らなければならないと主張した〔wiki/電信〕

海底ケーブルはジワジワ難しい
1838年にロンドン近郊の鉄道に沿って初めて電線が敷設され,その5年後の1843年にはテムズ川を横断する電信の実験が行われた。
海底ケーブルを実用化したのは,1850年にイギリス人ブレットによりドーヴァー~カレー間に海底ケーブルを敷設したのが始まりである。〔後掲古谷・板野〕
──とこんな具合の順序で語られることが多い大西洋横断電信ケーブルは、ところが容易には成功してません。でもこういう「ミッションインポッシブル」にはアメリカ人が挑戦するもので、1856年、サイラス・フィールドさんが大西洋横断電信ケーブル事業専門のアトランティック・テレグラフ社を創立してしまいます。
1857年から二度も敷設時の事故で失敗した末、三度目の1858年8月にようやく物理的に接続、ニューヨークで1万5千人の祝賀行進が行われ、英ヴィクトリア女王から米ブキャナン大統領に祝電が打たれた(ただし速度は98語16時間半)……けれど、初回のこの通信は次第に途絶えがちになり、主任技師エドワード・ホワイトハウスが電圧アップで対応したけれど改善せず、2ヶ月余の10月20日頃には完全に途絶えます〔wiki/大西洋横断電信ケーブル。以下も同〕。
原因は、こちとら文系なんでよく分からんけど──海水が伝導体で、かつモールス信号が人工の交流に似るかららしい。伝導体で絶縁体をサンドイッチすると、両側の伝導体に電荷が高まり、そこに交流を流すと常に漏電してる状態になります。これを応用したのがコンデンサーですけど、海中ケーブルに電信信号を流すのは長大な漏電電線を敷くようなもの。だから現代では海中電線には直流か光(ファイバー)しか流しません。「この現象は、現在でも海底ケーブルの技術的な制約となっている。事前にホワイトハウスとモールスが行った実験でこの現象が起こらなかったのは、その実験が地上で行われたためである。空気は電気を通さないのでこの様なコンデンサーは形成されず、電線の静電容量による影響が主となる。」〔wiki/同 注釈1〕
1859年に英国は専門家による特別委員会を設置、再挑戦を決定。今客観的に見ると正気の沙汰とは思えないけれど──要するに大英帝国は、この辺りで国運を賭ける腹を据えてます。
フィールド社長が大西洋を64回横断し※、新会社TELCON社(Telegraph Construction & Maintenance)を創設の上、ホワイトハウスを解雇した後任にトムソンを据えます。失敗の許されないトムソンは、絶縁断面積と強度に優れた新ケーブルを製作しただけでなく、と呼ばれる新たな測深機(ケミカルチューブ)まで発明して海底接地に留意。当時最大・最新鋭の蒸気客船グレート・イースタンを用い、総延長2/3相当を敷設──した段階で滑車の故障からケーブル端が海中に沈降し、一旦工事は中止となります。
要するに企画サイドの目論見より遥かに遥かに高難度の作業が、大西洋横断海底ケーブル敷設だったわけです。ここまでの状況で、フィールド社長がさらに次のような決定を下したのは、大英帝国のミッション故か上記のような英米両岸の熱狂故か、その点はどうも不鮮明なんですけど──この後の第5回敷設工程では、何と前回沈めてしまったケーブルを引き上げて、一気に複線化(二本のケーブルで接続)を目指すことをフィールド社長は決意してしまいます。既に膨大な損失と世論攻撃も想像せられます。実に豪胆です。
1866年8月に一本目が、9月に引き上げられた二本目が通信を開始します。
タイムス紙の「世界は急速に、巨大な一つの都市になりつつある」という評は、事の本質を、さらにアメリカ人にとって「旧大陸と情報的に直結された」という一体復帰感を表現してます。下記記念切手の起算日が1958年であるのも、それを象徴しているかのようです。
ケーブル網は「大英帝国の野望」実現ツールか?
江戸城無血開城(1868年5月)は、大西洋海底ケーブル稼働の21か月後のことです。
大英露両帝国にとっては、従って当初、長崎・小ヶ倉千本のケーブルハット(1872年元旦稼働)は「橋桁」でした。欧米電信ネットにユーラシア東辺を接続させる中継点として、都合の良い「新し物好き」新興国を利用したわけです。
さて、大西洋海底ケーブルの技術顧問としての大任をひとまず終えたトムソンは、イギリス人なので爵位をバンバンもらった一方※、1904年にはグラスゴー大学総長になってるから、同大学に在籍したらしい。このトムソン先生の学徒にいたのが、「私が出会った最高の学生」※※と言わしめた、早くから「新し物好き」路線を走っていた佐賀藩出身のこの人。
※※後掲多久市

小城郡東多久村別府の産。饅頭屋の子というけれど、神童として幕末科学偏執狂藩・佐賀藩にぐいぐい引っ張られ1872年藩費で工部省工学寮(現・東大工学部)入学、1879年電信科を首席卒業の後、先述の世界最強の電信研究者トムソンと出会うことになります。
先述のように異国船発見や堂島相場の伝達など独自の非電気的通信技術を、日本は既に持ってましたから、フランスのように腕木通信の部類が後世まで残っても不思議ではありませんでした。残らなかったのは、つまり電信に一気に転換したのは、ひとえにこの志田さんのせいです。
世界的にも端緒期にあった電気技術でしたけど、流石に明治政府は勘のよい集団だったらしい。五稜郭で敗れた榎本武揚が逓信大臣として、志田さんを33歳で初代逓信省工務局長に抜擢(1889年)。ただそれでも遅きに失し、36歳で志田は早世しますけど、冒頭の1872年ウラジオ-長崎-上海海底電信ケーブルはまさにこの時期の敷設です。なぜかはっきり書いたものがないのですけど、おそらく志田のネゴが働いて実現してます。結果的にかもしれないけれど、榎本大臣は国際電信網敷設の特務担当としての任を志田に与えた可能性すらあると考えます。
最近注文され初めてるけれど、志田さんは交通用具の環境配慮やテレビ画像の実現を予想してます。19Cの電気的知見から、どう推論してこんなヴィジョンが描けたものやら。
陸に電気鉄道、海に電気船舶が増加し、輸送手段から黒煙や蒸気が排出されない時代が到来する(略)
電機や磁気の作用で光を遠方に輸送し、相手を相見ることも可能になる〔電気学会雑誌第一号記事←後掲BOOKウォッチ〕
本稿では、短い花を咲かせた志田さんの、もう一つだけ実現したかもしれないヴィジョンに、後で触れます。
地球儀を見る見る包むケーブル網
全球有線ネットが完成形になるのは1902年。この年に、太平洋とインド洋の東西が有線接続されてます。上図に両洋をまたぐ二線を加えたイメージです。
太平洋を横断するケーブルが実現したのは20世紀になってからであった。
1902年,バンクーバー~ファンニング島~フィジーを経由し,ノーフォーク島(南太平洋)までをケーブルで接続した。
本ルートは分岐し,一方はニュージーランドのダウトレス湾へ,他方はオーストラリアのサウスポートに繫がった。
なお,本ルートはカナダの陸線を経由して北大西洋の海底ケーブルに接続された。
また,1902年,オーストラリアと南アフリカがケーブルで接続された。〔後掲古谷・板野〕
敷設主催者、ということはつまりケーブルの所有権を巡っては、英露がまず露骨に競って出資してます。ドイツもそれに気付いての参画でしょう。
純イギリス資本以外の企業でケーブルを保有する重要な企業が3社存在した。すなわち,大北電信会社,印欧電信会社及び商業太平洋電信会社である。
以下に,これらの企業の概要を説明していく。
まず,大北電信会社について述べていく。本会社はデンマークの会社であるが,イギリスとロシアが資本参加した会社である。同社の保有するケーブルは,スカンジナビア諸国とイギリス間のケーブルおよびシベリアを陸路で経由して長崎から上海・香港を結ぶ海底ケーブルであった。
また,印欧電信会社はイギリス・ドイツ・ロシア3国の出資による電信会社である。ケーブルルートは,イギリスを起点とし,ドイツ,ポーランド,ロシアを経由しテヘランに至った。ここからインド政府線に陸路で接続された。これによりイギリスはインドとの交信が可能となった。
商業太平洋電信会社は,20世紀初頭にサンフランシスコからホノルルを経由しマニラまでの海底ケーブルを敷設した米国系会社であった。同社は純米国資本ではなく,イギリスの東方拡張電信会社と大北電信会社が資本参加していた。〔後掲古谷・板野〕
[2]岡 忠雄:「英国を中心に観たる電気通信発達史」,通信調査会(1941)
1905年9月、つまり日露講和(ポーツマス条約)締結のまさにその月のうちに、日本政府は太平洋電信との共同事業に合意、日米間の海底ケーブルが開通します〔wiki/ケーブル・アンド・ワイヤレス〕。あまりにも良すぎるタイミングです。──太平洋電信 Commercial Pacific Cable Companyは、1900年にイギリス・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ四カ国政府が太平洋ケーブルへの合資を決定、1902年に大東(1/2)と大北(1/4)の出資を受けた国際国作企業ですから、日露戦収拾期の何らかの外交の結果でしょう。1906年8月1日の開通当日に交わされた明治帝・(S・)ルーズベルト大統領間の祝賀電文交換というのも、政治ゲームの結果という気がひしひしとします。
※※伊藤博文と大隈重信の対立から、後者を放擲するに至った政変
ただ日露終戦期のこの時点の外交の裏面は、全く想像できません。部外者は、もう少し分かりやすい事象からアプローチしてみましょう。
海底ケーブル切断戦争
先の19C末三大国際ケーブル社のうち印欧電信にはドイツか出資してました(→前掲)。また大北電信の本籍地デンマークは、第一次大戦(WW1)下でドイツに侵略されます。
英独が、同じネットワークを仲良く使えるはずはありません。
第一次世界大戦勃発時にはすでにイギリスはほぼ世界中に海底ケーブル網を構築していた。対ドイツ戦において相手国の情報網を遮断するためイギリスはドイツ側の海底ケーブルを切断した。当然,ドイツもイギリス側のケーブルを切断した。英独の互いの切断行為は,イギリスの優位に終わった。それは,ドイツ側の海底ケーブルの敷設はイギリスの敷設会社が行ったものであり,従ってドイツ側のケーブル敷設状況をイギリスは熟知しており,容易に切断できたからである。これによりイギリスはドイツの情報連絡・情報発信を遮断することができた。一方,ドイツはイギリス側のケーブルの敷設場所が不明であったため,妨害行為は有効ではなかった。[17]
さらに,イギリスは世界を網羅したケーブル網により対独プロパガンダを行い,戦いを自国優位に進め,勝利に貢献することとなったのである。〔後掲古谷ほか〕
[2]岡 忠雄:「英国を中心に観たる電気通信発達史」,通信調査会(1941)
WW1下では分かりやすい構造だったらしく、記録も結構残ってます。上記は大西洋からヨーロッパ方面の抗争ですけど、太平洋ではヤップ島=上海間のケーブルを切断、沖縄=上海間に、青島市=上海間のを上海=佐世保間に繋ぎ直したそうで〔wiki/ケーブル・アンド・ワイヤレス〕、主語が書かれないけど、まあ日本か英国かの主導でしょう。
また、WW1での英国はケーブルを切断するたけでなく、ドイツのケーブル網を中立国スウェーデンに迂回せざるを得なくさせることで、通信傍受を容易にしようとしたという見方もあります〔後掲土屋〕。
WW2ではむしろこの傍受可能性から、無線化が一気に進んだので「切断戦争」は激しくなかったらしい。でもそうなると──?
日露電信戦争
日露戦時にはどうだったのでしょう?
何せ、長崎から世界に通じる電信は、方向によっては敵国ロシアを通った訳です。WW1での英国と同じ発想で、ロシアは自然に情報の「中間搾取」を考えたでしょう。
さらにこの場合、ロシアは敵であると同時に出資元、つまり株主です。管理サイドが敵性である、インテリジェンスとして言えば敵へのバックドアがあるということです。──日露戦直後に太平洋海底ケーブルの出資をしてるのは、当時の日本が如何にこの状況に危機感を持ったかを示してます。
当時の日本の総合的戦略としては、現実的路線として世界電信網とは別系統の日本独自の有線電信ネットを築きつつ、併せて投機的に急速な無線電信化を進めたようです。──現代感覚だと当然の発想になる後者は、これまた日本独自の三六式無線機※を日本海海戦に間に合わせた結果、同海戦の完勝に帰結した、という見方も強い。
三六式の何が凄かったのか、どうしても理解出来ないけれど、とにかく安中常治郎さんというやはり明治初年の第一人者が開発した安中式インダクションコイルというものが、世界的に突出した水準だと第5回内国勧業博覧会(1903(明治36)年)で評され、すぐに海軍が囲い込んだものらしい〔後掲関東通信,目黒会〕。
通信距離だけで見ると、最初に開発した三四式(電気試験所と旧制第二高等学校の開発)の70海里(約100km)から、一気に十倍の1,000kmに達している。
wiki/沖縄丸によると、アジア歴史資料センター(JACAR)の次の資料により敷設現場の状況を、日本電信電話公社海底線敷設事務所(編)「海底線百年の歩み」(電気通信協会、1971年) で大状況を確認可能です。特にアジ歴の資料はネット上ですぐに確認可能。──パープル暗号をダダ漏れにし続けたWW2と、同じ日本軍とは思えない緊迫した情報リスク対応をしてます。
見る前にブッ飛んだ児玉と志田
さて、実は本来触れたかったのは、獲得植民地を純国産ケーブルを巡らせる、という発想が、児玉源太郎を源流とするらしいという点です。もっとも、この説をwikiが原典とするのは、専ら日本電信電話公社海底線敷設事務所(編) 『海底線百年の歩み』(電気通信協会,1971年)らしい。
児玉源太郎(旧字体:兒玉 源太郞 を略す。1852(嘉永5)年生-1906(明治36)年没)が自ら望んで参謀本部次長(後に満洲軍総参謀長)に「降格」したのは有名ですけど※、この降格前に児玉さんは陸軍・内務・文部大臣を台湾総督を兼務したまま歴任してます。この台湾総督就任が1898(明治31)年。
なお、この降格が必要な組織制度改革を優先させたものだったと評価する説は、長南政義の説を端緒とする。(主な出典:「児玉源太郎」作品社、2019年。「第三軍参謀が語る旅順戦」、ゲームジャーナル編集部 編『坂の上の雲 5つの疑問』並木書房、2011年。)
児玉が海底ケーブルに関わったのはその三年前・1895(明治28)年。この年、児玉は
4月初 臨時陸軍検疫部長(兼帯)
6月末 臨時台湾電信建設部長兼臨時台湾燈標建設部長
11月中旬 臨時広島軍用水道施設部長
を歴任。軍事インフラ、又は広義(原義)の
検疫・水道部門は、病死者数が純粋な戦死者数を圧したと言われる日清及び台湾征服戦の反省でしょう。
これと全く分野もニーズも異なる台湾海底ケーブル敷設を担わされたというのは、余程人がいなかったのでしょうか。──ともかく児玉さんは、映画二百三高地やNHKドラマの丹波さんや高橋さんの演じた豪放な人物でもあったかもしれないけれど、オールマイティな起業家でもあったのです。
沖縄丸は、逓信省所属の最初の本格的海底ケーブル敷設船〔wiki/沖縄丸〕。竣工1896年時点で総トン数2,278.42t、全長88.6m。主機関はロブニッツ社製三段膨張式レシプロ機関2基。──灯台見回り船を転用していた先代「灯明丸」(374t)から一気に本格化してます。
沖縄丸の最初の配備先が陸軍省・臨時台湾電信建設部、つまり児玉源太郎少将=部長の組織。日露戦時に「使用したケーブルは、児玉源太郎が手配して備蓄されていたものであった」〔ibid.日本電信電話公社(1971年)156頁←wiki/沖縄丸〕とされるのが本当なら、台湾への敷設は半ばカモフラージュで、将来のケーブルを誤魔化して「備蓄」したことになります。陸海軍の垣根を超えてそんなストックが本当に出来て、かつ組織横断的に引き継がれ得たのか、疑問も感じます。また、前掲以外に史料らしき根拠がなく──客観的には日本電信電話公社が伝える「児玉英雄伝説」である可能性が高いでしょう。
ただしこの三年前が、前掲の「日本電信の父」志田林三郎さんの没年※です。彼ら明治草創期の「電信雇」のヴィジョンとして独立電信ネット構想が編まれた、という仮定は成立し得ます。
海底ケーブル三千キロ
下記の書き方を見ると、1896年沖縄丸竣工・購入までの経緯でも、世界メジャーたる大東の鋭い牽制を受け、何らかの折衝を日本政府は行ったと思われます。──前掲貴志は、結局は日-台電信は国内問題だから、と大東は納得したと推測してます。
その頃ちょうど大東電信会社の代表が訪日しており、逓信省は外務省の在外公館の手を借りずに、直接発注し、同社のレンフリュー造船所がケーブル船を建造することになった。同社は、一八九六(明治二九)年四月、建造費五三万余円で二二七八余トンのケーブル船を完成させた。この船は沖縄丸と名づけられ、その後朝鮮海峡や渤海湾における海底電線の敷設に活躍することになる。一方、海底電線は、三井物産と大倉組が契約会社となって、沖縄丸の建造費の三倍の値段で、中開線、深海線計一六四八海里分を購入した。
日本本土-台湾間の海底電線の敷設工事は、最初はイギリス人に依頼する予定だったが、一八九五(明治二八)年六月ニ八日に建設部技師に就任した逓信技師浅野應輔 (一八五九-一九四〇)が児玉を説得し、工事は日本人だけで実施することになった。浅野は、日本の電気工学の基礎を槃いたお雇い外国人工アトン(W.E.Ayrton)の弟子で、のち工部大学校教員、逓信省電気試験所初代所長などを歴任した日本の電信事業の草分け的人物であった。沖縄丸が日本に到着する前に、浅野は建設部より九州—台湾間海底電信線路測量、海底線陸揚地および通信所などの調査主任として、一八九五年七月一日から調査を開始した。軍事に開するものは大本営派遣の将校と協議し、行政や商業に関するものは各地方自治体から聞き取るというやり方を進め、海底線は大隅国大浜から基隆に至る七九五海里の本線と、三線路一七四海里の支線、九三里の陸線を敷設する必要があり、大浜ほか一五箇所に通信所を設置することを調査結果とした。
上述した沖縄丸は、ロンドンから五五日かけて、一八九六年六月二七日に長崎に到着した。〔後掲貴志〕※原則として旧漢字は引用者が当用漢字に変換
浅野應輔さんは「日本電気工学三羽烏」※なる古風な呼称で数えられるお一人で、「父」志田林三郎の次世代の電気工学者。
なお、1878(明治11)年3月25日(→現・電気記念日)のエアトンによる日本初のアーク灯点灯実験(銀座木挽町)にその学生として参加した藤岡は、1882(明治15)年の同銀座(大倉本館前)でのアーク灯2千個の点灯を主催し、この電灯部門での功績が有名。ただ他に電車部門でも、1890(明治23)年に第3回内国勧業博覧会(上野)で日本初の電車を走らせ、1907(明治40)年には出身地岩国に電気軌道を開設(中国地方初の電車)などの実績あり。
皆エアトン先生に学んだ
明治初年の電気工学の知の師弟関係を、後に触れる松代・浦田を含め、関係工学者を東大学業期を中心にまとめると次のような時系列になります。
の東大学業期年表

1872年 工部省工学寮※入学、W・E・エアトン等の下で電信学を学ぶ
[エアトン](William Edward Ayrton)1847生-1908没
1873年 明治政府の招きで来日、工部大学の教授。6年間日本滞在(∴1878年帰国?)。
[藤岡市助]1857生-1918没
1875年 岩国藩旧藩主の奨学金で工部寮電信科入学
[中野初子]1859生-1914没
1874年 工部省工部寮小学校に入学、工部大学校に進む。
「在学中の1878年(明治11年)3月25日、藤岡市助、浅野応輔らと共に中央電信局開局祝宴にて日本初のアーク燈を灯す。」
[浅野応輔]1859生-1940没
1881年 工部大学校電気工学科卒業、同年工部大学校教官就任
[松代松之助]1867生-1948没
1887年 逓信省入庁
1898年に日本初の無線電信通信の実験に成功した他、海軍から要請され、木村駿吉らとともに三四式無線機
[浦田周次郎]1870生-1919没
1899年 逓信省入庁
〔各wiki記述まとめ〕
要するに、15年ほど遅い浦田を除き、全員がエアトンに学んでます。志田はエアトン来日のごく初期に師事してます。──この草々たる門下を輩出したエアトンは、来日直前にはインド・ベンガルの通信建設(責任)者、帰国直後はロンドン・フィンスベリー工科大学の応用物理学教授。志田が後に師事したウィリアム・トムソン(ケルビン卿)のようなスーパー級ではありません。内田樹的な象徴としての「メンター(先達)」の色彩を感じる「日本電気工学の師」です。個人的な感想としては、弟子の知識欲が劇的に貪欲な状況下でこそ、メンターの象徴的増幅性は高まるのだと思います。
沖縄丸に余った千km
さて、児玉源太郎・臨時台湾電信建設部長の元で海底ケーブルを購入した1896年の浅野に、話を戻します。先の引用に出たケーブル長をまとめると、全約3千kmのうち1/3:千km分が「余った」計算になります。
本線 七九五 a
支線 一七四 b
陸線 九三 c
(M-a-b-c=残586海里
×1.852km=1,085km)
後掲日本電信電話公社の伝える「児玉の準備したケーブル」とは、この千kmのことだろうと思います。ただ、本当にこの隠し資産がドンピシャで日露戦時に活用されたか、というとどうも疑わしい。
1895(明治28)年の慌しい児玉(→前掲)は「台湾電信大成功」の報を発して次の仕事に移ってますけど※、実態は、大西洋と同じくジワジワ来る大失敗だったらしい。
この表現の裏から感じるところでは、「東洋人に最先端技術・海底ケーブルの敷設が本当に可能か?」といった人種差別(劣等感)が本質とも思われます。英国人からすると「
利用開始後、電報内容に「誤りのないものはない」と評判になり、1898年に規則強化すると逆に時間がかかり過ぎ数年で廃止(※55)、と運用は極めて不調でした。だけれど激しい抗議活動※※があったことを見ると、一方でその有用性は台湾社会に広く認知されていたものらしい。
39)臺灣総督府民政部通信局『臺灣総督府通信要覧』一九〇七年三月(逓信博物館所蔵)
※※1909年発足「海底電線複設期成同盟舎」による趣意書冒頭に「檄シテ全島ノ人士ニ告ク我カ臺灣ハ遠ク帝園ノ南方ニ懸在シ内地トノ通信ハ唯タ一條ノ海底電線ニ由レリ然ルニ領土経営ノ推運ト島内商工業ノ振興トハ本島内地閒ノ通信ヲ激増シ電信ノ延滞遅著ハ且日其ノ甚シキヲ致セリ平時二於テ既ニ然リ若シ一朝島内ニ事アランカ軍事上及政治上ノ通信ノミニテモ尚其ノ用ヲ辨スル能ハサルハ明ナリ」
1909年11月14日『臺灣日日新報』「海電問題の復活」記事には「海電複設は刻下緊急の大問題にして一日も遅延臨時すべきにあらず一日遅延すれば一日の損害あり其の結果官府は公務を妨げ實業家は商機を失し吾儕同業者も亦重要なる報道を缺くの不幸に陥いる。」
不正確さについては、1915年、当初の聴覚に頼ったモールス信号方式を、松代松之助が現波通信(ベン書きオシログラフに表示して視認)に切り替えるまで待たなければなりませんでした。この松代は、逓信省での浅野のかつての部下です。
ただ肝心の電信自体の途絶の原因は、理由がはっきり書かれません※。どうも情報統制されてきた形跡も感じる。けれど、第二線工事を担当した浦田周次郎がそのルートとして長崎・茂木から台湾・淡水の直通(途中陸揚地点無し)を選択しており、その理由として最初の鹿児島-那覇-基隆線が「石垣島ほか各島を中継しており、臺風の度に電柱が轄倒するなどの原因で通信障害がおこっていたため」としているという。これを信じるなら、一本目の失敗要因は海底というより環境の過酷な陸上を通過させたためと推測されます。
こうした明確な問題点に関わらず、台湾電信複線化は日露戦終了数年後の1910年9月まで着手されてません。浦田は日露戦でもケーブル敷設を担当したとされ、志田や児玉が構想したであろう「戦時のインテリジェンスを支え得る民族系電信網」からすると朝鮮半島が
いちじくも先の海底電線複設期成同盟會の檄文には「臺灣ヲ忘却セントスルニアラスシテ何ソヤ」、つまり先に植民地になった台湾より、何で朝鮮を優先するのか、という含意のものがあります。当時の政経界の裏では、多分……露骨にそういう綱引きが行われる中「臥薪嘗胆で今当たるべきは露国」と台湾側の希望を抑える合意が阿吽で形跡されたのでしょう。
日台間電信通数は1910年の長崎-淡水ケーブルの開通をもって、1.5倍に増えてます。ただそれでも頻繁な不通が絶えなかったらしい。1921(大正10)年度の長崎-淡水一番線の年間のべ352日の不通記録など、「地元商工業者や外国人ビジネスマンの通信需要を満たすほどの能力を備えていな」〔後掲貴志〕い状況で、確実な電信路は長崎-上海-川石山(福建)-淡水経由となる大北電信会社線と見做され続けてきたようです。
台湾だけ失敗だったはずがない
その原因が何だったものかは、分析したものが見つかりません。ただ、同じ技術者による日台間がこの状態のままなのに、日朝間だけが問題無く接続されていたとは考えにくい。軍事的側面が強かったから報じられることがなかっただけで、万全の通信体制だったとは思えません。
この状態のまま、まさに松代(三四式開発)らによる無線技術の方が現実化していったのが明治日本の通信の歴史だったと思えます。その意味では、児玉の卓越した計算より、志田の奔放な空想の方が現実化した。少なくとも、バルチック艦隊に対しては威力を持ったのです。
1872年に志田が電気の知識に接して33年。日本の電気工学は、英に青息吐息でキャッチアップした有線電信のフィールドに後進ゆえにこそ早々に見切りをつけ、無線で世界トップ技術を有するのを選択したわけです。
志田の隅田川水面無線通信実験(1886年)から察するに、この人の脳内ではウラジオ-長崎ケーブル敷設の三年後のこの時点で、既に有線電信を見限って次世代技術たる無線を、版図を広げていく大日本帝国の基幹通信技術として構想されてたのだと思われます。
真空管による整流機構※がまだ開発されていない段階で、この時代の電気工学者はどんなヴィジョンで未来を見ていたのでしょう。

■レポ:岩屋山てんぽこなしやナビは無し
稲佐山について調べてたら、その北の岩屋山が繰り返し誤ヒットしました。
信仰の篤い山らしい。長崎にはそういう山は沢山あるけれど、特に篤いみたいです。
岩屋神社という社がある。どうも古くから長崎の人がこの山の台地部に登る行楽風習があるようです。昔は女人禁制だったけれど信仰心篤い女がいて解かれたという変わった話のほか、「岩屋てんぽこなしや肥前までなびく」という古句というか唄又は成句があるらしく、登山路に掲げられてる〔後掲小さな幸せと長崎〕。
東アジア温帯に広く分布するけれど、長崎名は「天保古梨」。感覚的にだけれど長崎人の好きそうな「てんぽこ」の音に漢字を当てただけで、元号「天保」には関係はないでしょう。これをシーボルトは計無保乃梨(ケンポノナシ)と聴いて、分類したみたいです。
だから前掲句は「岩屋山のテンポコナシは肥前までなびく」という意味だけど、長崎はそもそも肥前なのだから、「なびく」(①横に伏す ②(転じて)服従する)の語がピンと来ません。
脈絡のない情報群が連続する、いかにも長崎らしい古地なのです。
偶々長崎でなくなった聖地
岩屋山のほか、長崎のまちを囲む稲佐山、金比羅山、英彦山などの山々は、60万年前頃には「台地状の大きな火山」を成していたと推測されてます〔後掲キレイライフプラス〕。
つまり地学的には、長崎湾とは火口湖です。──その意味では、鹿児島湾とも相似します。
ただ奇妙なのは、一方で岩屋山上には台地が広がること。これも風頭山や唐八景を連想させる、長崎に普遍的な地形に思えます。
193 巌屋山神通寺
(所在地 長崎市虹が丘町)
長崎の西北二里ほどで、ここは大村領になる 長崎の領外ではあるが、春には長崎の人の行楽地となる。故にこれを載せる。… 山は嶮しく深く、登るのに難渋するが、山上は平らにひらけて、遠望が利く。周囲の山々から、海上の島々漁舟に至るまで、すべて一望のもとに見遥かし、誠に絶景である。大権現の三字を刻む碑があったが、今はなく、石仏の像があるだけである。往古妙見感応の地で、崇岳廃寺 … と表裏をなしていた。下に寺があり、旧は神通寺と称していた。… 36の支院があったが、皆壊滅した。〔西疇・饒田喩義強明「長崎名勝図絵」文政年間(1804-29):丹羽漢吉訳著「長崎名勝図絵」『長崎文献叢書第一集・第三巻』長崎文献社,1972(昭和49)年 p180-184←後掲みさき道人/神通寺(岩屋神社)〕
「36の支院」が「皆壊滅」したのはキリシタンによる破壊ということでしょうか。これは同じく神宮寺と呼ばれた諏訪神社を彷彿とさせます。
近世に交易都市長崎が築かれる前の、「宗教地長崎」の中心は、もしかすると金比羅山や現・諏訪神社付近ではなく、もっと北の岩屋付近だったのかもしれないのです。
ただし、戦国停止時点の状況から大村領として江戸期に入ったため、通常「長崎史」の一部として語られることが少ない。──……という点もあって、特に本稿にメモ代わりに項を起こしたわけです。
[山/品]屋神社だった窪み

言い伝えでは、行基菩薩が山を開き、北朝観応元年(1350 南朝貞和5年)将軍足利尊氏が修理を加え、料地を附した。…
万治3年(1660)大村純長公が寺を再建され、僧尊覚をして中興たらしめ、今の名に改めて神通寺と号した。寺内には本地大日堂があり、少し登ると山の傍に石窟がある。数十人は入れる広さである。仙人窟という。大きな足跡が横面についている。巌屋山の名は、この石窟からきている。… 〔ibid.〕
けれどこの聖地の感覚はどうでしょう。沖縄っぽいけど、この本式の洞窟らしさは少し違う。むしろ中国北部や敦煌など西域の石窟を思わせる。
毎年正月にこの山に登ると、運が開らけるといわれ、正月の5,6日から15日頃まで、多数の参詣者が道に連らなり、互に、呼び合う声が、山にこだまし、谷に響く。山上、寺前には茶店が出て、そうめんの煮売、菓子果物等を売るという賑わいである。五里七里の遠い所からも登山者が来る。帰路は裏道をとって、西南に下だり、梁の川辺を逍遥する者が多い。裏道の傍に、神山、圓山等の地名がある。言い伝えでは、昔圓山にかきあげ城〔軽易で臨時的な築上げの砦〕があり、堀切の跡が今もあるという。〔ibid.〕
また、この石窟には「岩屋」神社名が次の用字で記されてます。この用字は他にも僅かに使用例※がある古字で、一般に「くら」と読みます。──ただもちろん、この情報もどう解していいのかさっぱりで、実に長崎らしいのです。