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かなり迷子に なってますけど 「森崎岬」南東 に拘わります。 |
目録
粥柱 冷えが癒えたら興善町
早朝6時の長崎です。
げげっ,15分前でもう15人並んどる?明日からこちらブレッド・アー・エスプレッソの正月休み、という状況からでしょか?──とにかく近場の常連の定評が半端じゃない。ほとんど宗教じみてます。
寒すぎる。オープン後も二組しか店内に入れない。なのに購入後に中で電話してる奴とかいて、7時まで都合45分待ったので──芯から冷え切りました。
十時を過ぎてようやく回復。既に1013。
食いものはかなり諦めの境地で、出たとこ任せで行きましょか。
GM.(経路)
本日はホテルから北へ。川沿いへ右折。ad.恵美須町6。瓊の浦公園を右手にさらに進む。ad.金屋町8の坂へ公園から右折して登る。長崎市金屋町別館。ad.9で右折。これで東南方向になる。
向井去来生誕地碑を過ぎ一休食堂。対面に長崎市中央消防署。長崎市立図書館も4日まで休業。
消防署と第10森谷ビルの間の道へ。1027。
お気づきでしょうか?
上の写真には、偶々ですけどこの道(まっすぐ南東がめがね橋駅北の道)の10度もない微かな、けれどもはっきり分かる屈曲が写ってます。
湾曲ではなく、「く」の字にはっきり折れてます。しかも屈曲点は道の途中、大体長崎市夜間急患センター(→GM.)の位置。上下には坂の傾斜の終わった地点です。──意味は全く分かりませんけどね。
詩儒 吉村迂齋遺跡の側溝壁
ad.興善町4。前回スルーしたのはこの辺りからです。
歩を緩め、坂を下る。
何も見つからない。
詩儒 吉村迂齋遺跡前(巻末参照)の南側路側の側溝が一部変形してる。単に工事不良かもしれないけれど、元の地盤を無理にスロープにしたための可能性もある。
ad.興善町7。右折。
オリックスレンタカー横に石垣。コンクリがキレイに流し込んであり判断しにくいけれど……元のままなら打込接ぎ。江戸期に金をかけて積んだ石垣と思えます。
その先の興善町自治会掲示板の部分も同じくですけど──ここのはやや野積みっぽい。その切っ先が、切込接ぎを無理に接合したような変わったことになってます。これも長州藩の施工でしょうか?
雲仙堂の筆は小さく三角形
なおこの切っ先部に、長崎県師範学校跡の碑。昭和46年に「長鋪大学○○どう総会」設立と刻む。
このエリアは一種の文教地区だった可能性があるけれど、由来や実態がどうも分からない。
この辺の食堂も全滅。あるいは休業に入ってます。
一つ下の道を折り返して歩いてみる。北側はad.8のまま。
前回見た石垣ですけど、ここのは完全に切込です。この複雑な様式差は、何に由来するのでしょう。
再び南行。歩道を渡る。
雲仙堂からの道沿いの石垣ラインは、やはり師範大学跡ラインと僅かに食い違ってます。雲仙堂ラインが約10mほど南東です。
とすると……?この食い違いが元の状態とは思えません。元の坂はどういう形に付いてたら、この食い違いが出来上がるのでしょう?
いや?さらによく見ると──雲仙堂の筆は小さく三角形を成しています。石垣もこれに沿って、20度ほど屈曲して接合されてる。これは石垣上部に名残があります。
つまりこの地点で、坂下の道は極めて弛いZ字に曲がってたことになる。──そんな道が、何の利になったのでしょう?ただ確かにそんな感じの「ムダな脇道」構造は、築町市場北西辺りにもあります。
高木彦右衛門はつまり妬まれた
蔦が絡まりよくみえないけれど……この屈曲部の石垣は概ね切込らしい。それに対して、接合部より南西の石垣は打込。
一度この部分を壊して、後代に斜めの石垣を付け直そうとしたように見えます。
1059、賑町自治会掲示板。
ここまで30mほどで、石垣は再び切込に転じてます。上部にも二箇所屈曲が見え、改修の気配が伺えます。
賑町3と5の対面に、前回登り損ねた石段。登る。
左右に雨樋がある。かなり古い。
1103「史跡 天満坂(大音寺坂)長崎喧嘩騒動発端の地」──元禄13年(1701)の高木さんと志波さんの喧嘩がここで起こった。転んだ、泥がかかった、と紛争化し、挙句両名とも切腹したとある。
深堀義士伝に記録されるという。どうも長崎版の赤穂浪士みたいな「義挙」としてウケたらしい。吉良上野介の立ち位置の「異例の出世者」は高木彦右衛門という人で、要するに疎まれ妬まれた時代だったようです〔後掲和樂web〕。
ミゼリコルディア本部跡また通る
途中の右壁に、なぜか朱書きで「正面」書きが記されてます。
意味不明。なお、この部分を見ても切込だと確認はできます。
坂上に「ミゼリコルディア本部跡」碑。孤児・老人施設として、例外的に1619(元和5)年まで存続したとある。──ここは何度も気になってるのに掘りこめてない場所です。
階段上部の一部は打込に戻ってる。碑の前の階段は施設の名残りでしょう。
1113、フロイス通りへ左折南行。左手検察庁。その先は左手地裁、右手家裁と簡裁。やはりこの辺には遺構は全く窺えません。
右折、万才町の交差点へ。対面に長崎振興局税務部のビル。1118左折。歩道を渡り江戸町へ。
──がーん。アルティスタ食堂は今日は休み!
已む無く蘇州林に来てみたけど──待つらしい。人数は少ないけど……。
1130蘇州林
太麺皿うどん510
GM.(経路)
長崎中華街は小さい道理あり
正午を回る。鉄観音だけ購入して新地中華街電停へ。
ここから、江戸期の中島川の想像世界にどっぷり入ってます。よりマニアックな話になってるので……地図なんか見るのも嫌で付いていけないッて方は、すみません、又のお越しをお待ちします……。
西側が十八銀行本店。この東側に変流前の中島川の河口があった、という記述を確認したくなったのが運の尽き。──その場所はまさに新地中華街電停になるはずだけれど……痕跡はもちろん全く窺えません。
オランダ橋は海だったことになる。その海中に、新地蔵の島があったことになるわけです。──って何のことか、自分でも分からなくなってきたので次章から次の地図を先取りで掲げておきます。
要するに──江戸期の長崎のセキュリティ・ゾーンは、海上の島として出島と新地蔵、陸上の島として唐館(唐人屋敷)と三つが並んでました。
新地蔵は概ね、現在の長崎中華街です。「長崎の中華街なんか小せーよ」とほざく観光客がいますけど、元々囲い込まれた区画だから当然なのです。
出島橋 架替えられて同じ位置
十八銀行北側に俵物役所跡(→GM.)と対馬藩蔵屋敷跡(→GM.)。俵物の方は図面が掲出されてる。1216。→【次章地図1】
蔵屋敷の方は変流前の地図に赤で位置を記す【次章地図2】。でも……これだと中島川本流の南東に位置したことになります。
この辺の微妙な位置関係が、森崎-出島-新地中華街エリアの面白さです。一つ読み違うと他の場所の推定が矛盾して、何度も振り出しに戻るハメになるのです。
1222ad.銅座町1。変流地点、と記録される長久大橋地点から出島方向を撮影。
上記の地点の食い違いは、多くがこの中島川変流に原因してると思われます。
地図と現地を見る限り、十八銀行の敷地の半分かほとんどが旧河川だったことになります。看板が出てるうち俵物役所は長崎会所の下部機関として1745年に設置〔後掲長崎税関〕されており、対馬藩屋敷はそれより前の幕府による打払い動員時≒17C半ばと想像されますから、多分18C前半までは一部は陸地化していたはずなのですけど……。
1230、一応出島橋の鉄橋を渡る。南側たもとに案内板。やはり
明治43(1910)年に旧出島橋の老朽化に伴い,現在の場所に移設され,名称を出島橋と改称しました。〔案内板〕
とある。ならば旧出島橋とは何という橋でどこにあったのでしょう?──と疑ってしまいそうになる表現ですけど、これは現在、「架替えられたけれど同じ位置」だったという説がある(→次章資料4by島田省三)。この橋は本稿の直接のターゲットではないし、一応上記島田説を信じて話を進めます。
河岸の凸に迷走する元旦
十八銀行のある東側を、(現)出島橋から振り返る。
銀行西側裏の川岸に、一箇所出っ張りがあるようです。
この出っ張り対面、つまり中島川西岸壁には排水路の暗渠が出ています。
造りは新しいように見えます。
この暗渠水路は江戸町通りと直行する横路の下に入っているらしい。江戸町商店街とは角度が20度ほど違います。
さて一方、出島橋南まっすぐには出島東南端碑があります。この地下に当時の石垣があるため、この位置は確実らしい。
──ということはやはり、十八銀行敷地が川筋だったことになる。
「南側護岸石垣」案内板には図面も掲出されてました【次章地図3】。
十八銀行銀行南西側、新地蔵からの川が合流する側には、切込の新しい形式の石垣がある。これが旧中島川本流を塞いだ堤の跡だとすると──旧河口ラインは電車通りではなくて、旧中島川東河岸ラインだと思えるのですけど──
ただそれだと対馬藩蔵屋敷とかは看板の地点ではなく、少なくとも電車通りより南東のようにも思えてきて──とまあ、この狭いブロックで思考のみ迷走を続けてましたお正月でした。
■レポ:厳流坂屋敷の聞役 迂斎さん
本文中で触れた興善町に「『詩儒吉村迂斎遺跡』記念碑が昔あった」というエピソードの朧げさは、いかに長崎にしても珍しい。
吉村迂斎という人の実在は、確からしい。本名:吉村久右衛門正隆、尊称:迂斎儒士、1749年生-1805年没〔後掲平野〕。志筑忠雄(1760(宝暦10)年生-1806(文化3)年没。この時代に
まず種明かしをしますと、吉村家という家系は現・㈱マリンフードに繋がってます。──吉村迂斎の曾孫・又作(1858年生-1940年没)が幕末の長崎・上海等で化学技術を学び、1888(明治21)年に吉村石鹸を創業。これが現・マリンフードに発展。より本質的なのは、同社創始者=又作五男の吉村栄吉(1901年生-1980年没)が歴史好きの文筆家だったことらしい(〔後掲マリンフード、平野〕。迂斎さんの作品集※も同社が刊行したものです。
なお、マリンフードHPは「三十六湾」など迂斎の漢詩も紹介してますので、実際に「詩儒」の作風をご確認頂けます。──三十六湾湾接湾 搏桑盡白雲間 洪濤萬里豈無国 一髪晴分呉越山(七言絶句)
そもそも「詩儒」という語は、「詩経」(中国最古の詩集)を儒教経典として尊ぶ行為を指すようです。これを個人の尊称として用いる例は件の吉村家独自のものらしく、この二文字でググっても吉村迂斎しかヒットしません。
ただし、この迂斎さんが、「詩儒」の語感から想像されるような夢想的文人
迂斎さんの棲む長州蔵屋敷
吉村家の出自は不詳。長州・毛利系にそれらしい人物もない。なのに長崎・長州藩蔵屋敷内に常住し、漢語に通じ清交易に従事、実質的な留守居役(曰く「長崎御屋代」役)、当主は藩から一代士族を認められ苗字帯刀を許される、という妙な高位にあったといいます。
ただ具体の個人名が伝わるのは、迂斎さんが最古らしい。つまり「吉村家の祖」として記せる最初の人のようです。
マリンフードのルート以外での功績を探すと、「魯細亜船入賈之事ノ記」(ゆまに書房,1978)がある。また、絵師・石崎融思(1768生-1846没)が漢詩を習ったと記します〔wiki/石崎融思〕。
──他に、志筑忠雄「暦象新書」の序文を記したとされてきたけれど、後掲大島は丹念な史料整理により、これが長崎学の祖とされる古賀十二郎の誤りに端を発したもの(正しくは南部藩下田三蔵の著)として否定してます。古賀十二郎は祖父・逸齋(いっさい)を崇拝しており、この人は医術・物理・科学を学んだ蘭学者。この逸齋時代の古賀家は吉村家同様に筑前黒田藩の御用達の家系で〔後掲ナガジン〕、推測ながら吉村迂斎は古賀逸齋と同等に神格化された人物群を構成していたのだと思います。つまり個人情報については、相当のバイアスを覚悟すべきです。
迂斎は姓吉村、名正隆、字士興、初め
紫溟 と号す。深く経史に通じ、詩文詩令、善からざる所莫し、最も鎮(長崎)の後頸 たり〔「江戸中後期の南画家、著述家として有名な田能村竹田」の記述←後掲マリンフード〕
客観的に掛け値なく見るなら、おそらく──「鎮の後頸」たる行政のテクノクラート、今日で言えば有識者会議の常連のような万能知識人だったと見るべきでしょう。
記念碑址は長州藩蔵屋敷のあった巌流坂に面していたとされる。後掲平野は、この長州藩屋敷について、深い記述を記されてます。──でもこの平野さんもまた、幕末に吉村家に養子入りした平野富二という人物の子孫で、「平野富二伝」(朗文堂、2013年11月)を著している人です。情報の伝達者に近親者が多いバイアスは感じますけど──
向かって左側が長州藩蔵屋敷跡で、現在、長崎県市町村職員共済会館となっている。
中央の坂道は通称「巌流坂」と呼ばれ、坂道の途中に道路に面して「新町活版所跡」と「近代活版印刷発祥の地」碑がある。
向かって右端は小倉藩蔵屋敷跡で、現在、丸善ハイネスコーポが建っている。
ここには、「新町活字製造所」があった。〔後掲平野〕

多分聞くだけじゃなかった長崎聞役
強いバイアスを帯びた迂斎情報を辿ってでも確認したいのは、迂斎さんら御用達が仕えた「聞役」のインテリジェンスの世界についてです。
長崎の蔵屋敷には、藩の役人が一年中駐在する藩と、オランダ船が5月中旬に入港して9月下旬に出港するまでの期間だけ駐在する藩とがあった。長州藩は後者で、夏季にのみ「聞役」と称する藩の役人とその部下が派遣されて駐在するグループに属していた。〔後掲平野〕
「聞役」そのものは江戸期の諸藩留守居役を指す役職名として普遍的に用いられるけれど、長崎聞役というと西国14藩の在長崎エージェントを限定して指します。──基本研究としては山本博文「長崎聞役日記 – 幕末の情報戦争」(ちくま新書,1999)が著名で、wiki、ナガジンなども多くここから取ってます。
14藩とは──
ポルトガル船来航時の派遣人材は、最初「附人」と記されてますけど〔長崎古事集←wiki/長崎聞役〕、18C半ば※に「聞役」に改まったと推測されてます〔堀輝行「長崎聞役と情報」←wiki ibid.〕。
「聞き役」と言っても引っ込み思案じゃなく、それどころかある意味では藩の全権委任職でもあったらしい。──ただし人事コースとしての優位度は藩によって異なり、薩摩藩では江戸・京都・大坂の留守居役に相当する要職だった一方、柳河藩の分限帳では代官や徒士頭より下位だったといい〔前掲山本〕、その活用度は藩の政策次第だったようです。
長崎の「聞役」は、長崎奉行からの指示を国元に伝達する役目を主とし、その他に、諸藩との情報交換、独自の秘密情報の収集、藩で必要とする貿易品の調達などで、藩を代表する責任者であった。その下には、手先として働く地元出身の「御用達」が居り、長州藩蔵屋敷では吉村家が代々これを勤めていた。〔後掲平野〕
聞役の職務自体がやや秘匿的なものだったからか、これに関わる実働機関としての御用達についても、詳細は研究が続いているようです。──聞役の職名と同じく、「用達」(ようたっし)又は「用聞」(ようきき)役は14藩以外にも西日本に普遍的に存在します。大名家に出入する町人を指すらしい。つまり聞役のインテリジェンスの機能上、武士-商人のボーダーを越えて情報を伝達する役です。
もちろん江戸期の身分制度の構成上、そんな「制度」は存在しません。おそらくは個別の大名-商家間に発生し、それを前列として拡大したものでしょう。吉村家の場合は──
吉村家の出自は明らかではないが、寛永・慶安の頃(17世紀前半)にさかのぼると云う。おそらく、祖先は長州藩士で、何らかの理由で禄を失い、長崎に出てきて町人となったものと見られる。
吉村家の当主は、代々、長崎の長州藩蔵屋敷内に居住し、清国語に通じて唐交易の業務を行い、聞役などが本国に帰国した後の留守居役(長崎御屋代という)も兼ねていた。また、当主は長州藩から一代士族を認められ、苗字帯刀を許されていた。〔後掲平野〕
御内分又は御館入も同じような特例的クロスボーダー役だったらしいけれど、少しニュアンスが異なり、御用達より純粋に情報屋だったようです。また御館入になった後で御内分に「昇格」することが多かったという〔前掲山本〕。
また、長崎での不動産購入は他国が自由に出来なかったらしく、御用達や「出入」(内分・館入と同義?)の者の名義で行われたようです(下記展開内実例参照)。こうなるとほぼ藩のブローカーという立場です。後掲戸森によると、前章で拘った志賀家も複数の大名家に食い込んだブローカーだったらしい。
この視点で薩摩藩のものを見ると極めて面白そうですけど、福岡藩ほどシンプルではないのかもしれません。現在香港要地で進められる大陸による不動産買収なども、想起させますし、実際に江戸末期にはロシアによる稲佐の購入はあったわけです(前章参照)。
戸森は長崎奉行所側も次第に届出制などの規制を強めたと記しますけど、対抗策として藩が「購入予定地」を定め、(多分御用達などの名義で)私人と先物取引契約しておく手法も生まれたという〔後掲戸森p45(12枚目)〕。
下部構造が上部構造をなし崩しに侵食していく、典型的な組織の腐り方です。下部構造側にとっては最も損耗の少ない伸長方法でもあります。
仁義があり過ぎる聞役三組合
聞役達は長崎での情報収集のために、組合を結成したという。──この情報はソースが前掲山本に限られ、一次史料は確認できてません。また定詰グループに限定されるように読めますけど、聞役のネットワーク上は大変重要に思えるので転記します。
定詰の聞役組合は、情報交換や相互の調整を名目に定期的に会合を持っていた。定例の月次寄合は毎月下旬に行われるが、日にちは決まっていない。7月は、オランダ船関係の仕事で聞役達が最も繁多な時期のため開催されなかった。しかし、定例以外にも何か理由をつけて、あるいは理由が無くても会合が行われたため、その回数は月に数度に及び、しかも毎回必ず遊所に行った。江戸や京都・大坂に置かれた留守居役と同じであったが、いつも遊所へ行くというのは長崎のみで、しかも一緒に行かないと離席、つまり組合から除籍されるのも長崎聞役だけであった。離席を言い渡されれば聞役間での情報交換ができなくなり、これが原因となり、自身に落ち度がなくとも罷免されることもあった。高額な会合での費用は、本来は藩からの交際費予算内で落とす出費であるが、足りない分は自腹を切ってでも出席せねばならなかった。例えば、藩の上役から経費節減の命令があった、等として今後の遊所への同行出席を拒否しようとすれば、和を乱す者として他の聞役達から強い反発を呼ぶこととなった。〔山本博文『長崎聞役日記 – 幕末の情報戦争』ちくま新書 p21,24←wiki/長崎聞役〕
──何の「和」なのかよく分からない。次に見るように定詰七藩には特権意識があり、これの成せる業とも想像されます。後半の「藩の上役から経費節減の命令があった」としても、というのは、度々「情報工作費」の膨張が問題視されたことを臭わせます。
ただ現代の、特にアメリカの社交界などを連想するならば、多分この会合は「ロビー活動」です。聞役だけでなく相当の頻度で用達・内分・館入・出入らが、時に交易相手を伴って出没した可能性が大きい。
おそらくこの方面は、少なくとも今後一気に明確になることはないでしょう。別のアプローチとして──これも前掲山本情報になるけれど──14藩のグループについて。
【A】定詰+1⑦ ∋(定詰) 福岡藩 佐賀藩 熊本藩 対馬藩 平戸藩 小倉藩 ∋(夏詰) 大村藩 |
【B】夏詰-1④ ∋(夏詰) 長州藩 柳川藩 島原藩 唐津藩 |
【C】? ③ ∋薩摩藩 五島藩 久留米藩 |
藩の数では半数を占め、熊本藩(54万石)、福岡藩(47.3万石)、佐賀藩(35.7万石)など近隣中堅藩で固めた「優等生」グループをメジャーに据え、長州藩(名目36.9万石幕末期内検100万石超)と薩摩藩(同72.9万-90万石)をサブグループで対立させた──ように見えるこの色分けは、まず間違いなく幕府による諸藩の結束防止装置でしょう。
ただ、上の構図からは明らかに仮想敵として布石してる
元禄7年(1694年):395万5560石余
寛政7年(1795年)~寛政10年(1798年):450万石台
天保9年(1838年):410万石台
〔原典:大野瑞男, 『江戸幕府財政史論』, 吉川弘文館, 1996年.←wiki/天領〕
なおwiki(/長崎聞役)は「薩摩藩と五島藩は定詰の時は組合に入っていたが、後に組合から抜け久留米藩と共に3藩で相互に助けあった」と書いており、最初は両藩が定詰だったとします(典拠不詳)。先の組合の空気からすると、定詰の組合から抜けたことが定詰でなくなった原因とも考えられます。薩摩の長崎交易への関与度からすると定詰抜けを望んだとは思えないのてすけど──この辺りの力学にはさらに裏がある気もします。
幕末・諸藩聞役長崎同盟
長崎聞役の本質が見えるもう一つの時期が、その終末期だろうと考えます。
けれどまず吉村家の顛末に触れましょう。1864(元治元)年の蛤御門の変で、長州は徳川幕政下の全諸侯を敵にします。
この時、長州屋敷に居た者は、藩士1人と少数の小者の外、吉村一家に過ぎなかった。その者たちは幽囚の身となり、翌慶応1年(1865)、捕らえられた長州藩士と吉村家の当主為之助は長州送りとなった。残された吉村家の家族は長崎在住の親類縁者を頼って身を寄せた。長州屋敷にあった建物は撤去され、屋敷内に聳えていた太さ10抱えもある楠の大樹も切り倒された。
吉村家の当主為之助は、長州送りとなって4年後の明治1年(1868)12月になって、長州藩での謹慎を解かれて長崎に戻ってきた。やがて、長州藩蔵屋敷も復活され、場所を変えて樺島町の海岸通りに建てられた。吉村家はそこに御用達としての住居を与えられた。時代の流れでほとんど用向きのなくなった御用達の仕事に代えて、為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に、近くの大波止から、小舟で通勤した。〔後掲平野〕
吉村家は、長崎・長州屋敷と最後まで運命をともにします。──長崎に帰った吉村為之助が、すぐに当時の長崎の科学的最前線研究所・
さて1868(慶応4)年正月の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると同時に、長崎奉行・河津伊豆守祐邦はイギリス船で江戸に脱出。──ここからの経緯を前掲wikiは見事に再合成してます。
外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6 P282-283、288-290、
『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』平凡社 P42、119、124。
この長崎奉行は単に職務放棄したのではありません。この時、後任に任じたのは福岡藩聞役、つまり多分、上記のメジャーA組合の中心人物でした。
河津伊豆守は脱出の際に後事を福岡藩の聞役・粟田貢に託しており、それを受けて粟田は長崎地役人の薬師寺久左衛門、岡田吉大夫、本木昌造、尾上栄文らと協議。当時長崎にいた各藩士と共に、新政府より沙汰があるか責任者が派遣されるまでは、これまで通りに諸事を取り図ると申し合わせた。〔前掲wiki〕
つまり、少なくとも幕末の時点において、長崎諸機関中、政体に類似する権能を有していたのは聞役又はその組合だったということです。
さらに驚くのは、聞役諸藩中倒幕側+@と思われる連合政体が、「長崎臨時政府」を即時に構成したということです。江戸期を通じた上記の三組合並立の沿革にも関わらず、です。──これは、従来からそうした高度な行政体を構成していなければありえないことに思えます。
これにより、薩摩藩・長州藩・土佐藩・広島藩・大村藩・宇和島藩・対馬藩・加賀藩・柳川藩・越前藩・肥後熊本藩・福岡藩・平戸藩・五嶋藩・島原藩・小倉藩の16藩の合議による協議体が発足。この協議体は連名の誓約書を作っており、その連名者の中には土佐の佐々木高行や佐賀の大隈重信、薩摩の松方正義の名もある。長崎奉行所西役所は長崎会議所と称され、2月15日に澤宣嘉が九州鎮撫総督兼外務事務総督に就任するまで、長崎の政務を執ることになった。また、治安維持には各藩兵や長崎奉行が結成した振遠隊が当たることとなった。〔前掲wiki〕
長崎奉行所西役所が長崎会議所として、聞役政府の政務の中心になったように読めます。前々までで触れた「森崎」はこの一年足らず、後の県庁に先立ち政庁として再スタートしていたことになります。
「長崎聞役臨時政府」は、予定にかっちり従って、長崎府からの通達を受けて粛々と解散したらしい。
明治2年(1869年)3月、明治政府行政官は、「御用関係之儀もこれ無きに付」として聞役に帰国を命じるよう長崎府に通達した[32]。長崎府判事楠本平之允と御用掛坂田諸之進は、3月晦日に諸藩の聞役を招集して通達を伝えた。この時をもって、長崎聞役はその役目を終えることとなる[33]。〔前掲wiki〕
[33]『長崎聞役日記 – 幕末の情報戦争』P215。

その時 14藩兵はどこに?
どうしても分からないのは、上記の自然発生的な自治組織の形成に軍事が関与した形跡が記されないことです。
1864年に長崎奉行下に当初は150人、最終的には約350名ほど※※の警衛隊(警備隊)が成立。海援隊を始めとする勤王・佐幕両派の武士の増に対抗する治安対策だったというから、元々合法的に(異国船打払い用の)軍兵が入れる長崎に騒乱の色が濃くなっていたことは確かです。
〔[2] 赤瀬浩著「『株式会社』長崎出島」講談社選書メチエ 「遊撃隊と振遠隊」(232 – 233頁)←wiki/振遠隊〕
※※1922(大正11)年6月7日「秋田魁新報」記事に深澤多市という人が記した「戊辰役に於ける長崎振遠隊」という記事があり、
1868(慶應4)年7月19日米国汽船フイーロン号に乗込んだのは「精兵240人その他軍監、軍曹、令官等の幹部及雑役を合せて243人」とある。また、「1868年(略)7月23日 長崎振援隊石田英吉隊男鹿着500人」との記述もあり、当てになる数字がない。〔後掲秋田の古い新聞記事〕
警備隊は1867(慶応3)年に遊撃隊と改称、語感からしてもそうですけど、奉行所の点的な歩哨から面的に市中警察に発展してます。
長崎奉行脱出後、1868(慶応4)年2月15日に九州鎮撫総督(澤宣嘉)が長崎裁判所を置いて二か月後の4月19日、振遠隊が成立。それまでの混乱期、『長崎県の歴史』 山川出版社(282 – 283頁)〔wiki/前掲〕は「各藩兵や遊撃隊が市内の治安維持に当た」ったとしますから、やはり相当数の藩兵は長崎にいたはずです。
なお、振遠隊創設期の人事は、
振遠隊隊長に任命されたのが、
元海援隊士の石田栄吉。
同じく海援隊からは、
野村要助(軍監・司令官)、
大山壮太朗(軍監・司令官)、
菅野覚兵衛(軍監・司令官)、
山本洪堂(医官)
ら元隊士が、幹部として参加
〔[6]『長崎史編纂員.福田忠昭著『振遠隊』』←wiki/振遠隊〕
とあるのを信じるなら、実質的に振遠隊を海援隊が飲み込み吸収したように見えます。ここにも各藩兵は姿を見せません。早々に本国に帰り、本国の治安維持に投じられたのでしょうか。それとも正史に記されないような用いられ方をしたのでしょうか?