019-2旧中島川河口・解決編?(長崎)\長崎withCoV-2_Omicron\長崎県

裏道の世界は本物の長崎

ル茶んに行ってみる。1333。おおっ!──まだまだ全然長い行列。なので前から狙ってた手前のこちら──
1334コペン
トルコライス750

コペンのトルコライス

こでも一般席が詰まってて夜のバーのカウンターみたいなところに。
 これはこれでまだ食べたことのないシチュエーションです。この付近の路地の、ふとしたトルコライスが実は物凄く美味いことが何度かあります。ただ大抵忘れるか、店が無くなるか移るかしてしまう。
島原まぜ飯裏道の世界。どちらかと言えばこれがホントの長崎です。

原まぜ飯5日から営業。
 三八ラーメンは営業中。──「長崎の遠か」という。ここの味覚はある意味で長崎的なんだと思うけど……個人的に、どうも貴重な一食を費やす気になれない。
裏道から見る電車通りと店舗用共同トイレ

しても……この路地付近は治安が悪いのか、あるいは余程ヤカンのような感情の人がいるのか、過激な看板が多い。次のなんかは法的には多分、ギリギリかアウト。
空気を抜く、とまで宣言してるけど……?

銅座釜 銅吹所奥にお稲荷さん

座跡、1434。
 組織・機能としての銅座については巻末参照。現・住所表示としての銅座町は、前頁で徘徊した十八親和銀行本店(→GM.)を西端ラインとし、電車駅・思案橋通りと観光通りの間から南西行する銅座町通り(→GM.)を東端ラインとするブロックです。

銅座町位置図

光通りの南西裏辺りの、溶鉱炉の釜エリアを「銅座釜屋」、また「人字形」の通りを「シバヤンジ」(芝居小屋の地、又は芝居小屋へ行く道の訛りと推測される)と呼んだというけれど〔後掲ナガジン〕、外来者には特定し難い。個人的には行く度に立ち寄る、不思議な、長崎らしいブロックです。
浜町裏銅吹所絵図

崎諸地図」(長崎歴史文化博物館蔵)中の「浜町裏銅吹所絵図」が掲げてあります。比定はなかなか困難ですけど──海岸線の斜線の位置から考えると、おそらく、船大工町商店街(→GM.)の北西延長が上記図の真ん中縦の道だと思います。
 そうだとすると左1/4の縦道が、永見徳太郎通り(→GM.)に当たるはずです。その場合は銅座稲荷通り(→GM.)に相当する道が見当たりませんけど、ビル屋上にあるこのお稲荷様は伝承でも1743年以降の設置です〔後掲風景の美術館〕。日露戦争で信者を増やした伝承もあるので、まだ江戸期の絵図作成時には記されてないかもしれない。

※日露戦争で町民が出征したとき、「出征した町民の守護神として共に戦地に赴く」とお稲荷様のお告げがあり、全員無事に帰還できたというお話。〔後掲ナガジン〕

底面の斜め切込接ぎの石

三八ラーメン本店とほんだらけの間の水路の西側橋桁

座町6。1436。
 三八ラーメン本店(こっちは開いてない)とほんだらけ※の間に水路。道の端には橋桁があります。

※古書店チェーン。所沢発の企業だけれどなぜか長崎に移転、現在は他地域ではあまり姿を見ない。

 この橋を、GM.表記に従い新道橋(→GM.)と認めることにして、「新道橋通り」と仮称しときます。
 なぜここに水路が残るのでしょう。あるいは、元々沢地だったから、どこに水路が残っても不思議はないのかもしれません。
 橋の石垣は古く、底面に斜め石あり。北側に花屋さんがありまして、橋桁は現在はその植木置場になってます。

水路底面の斜め切込接ぎ石。唐人屋敷内と同じです、
銅座巡遊詳細マップ〔後掲ナガジン〕

白水堂桃カステラと竜眼と

んだらけのT字の南東角。1439、鹿児島(薩摩)藩蔵屋敷跡。
 看板のみです。
 地図は先の対馬のと同じで、この赤書きでは対馬藩と川を隔ててることになります。

薩摩藩蔵屋敷位置表示

光通り電停より電車に乗る。1449。
 再び砕けてしまった。──寒すぎる。
 やはりICOCAは使えるようです。長崎駅から「ふくの湯」シャトルバスで稲佐山へ。

お茶請けは正月らしく白水堂桃カステラ(それ雛祭りだろ?)と竜眼にて

700、山を下る。
 本日のコロナ感染者は……ついに沖縄が130人とトップ。東京103人、大阪79人、山口56人、広島40人と続く。確認中なのか、島根の数は一桁のまま。にしても、山口+広島+(未確認∶14人?)島根だと110人と地域トップになります。
 明日広島に帰るんですけど……。
まくとぅーそーけー なんくるないさー

■カタログ:森崎南東=蔵屋敷〜銅座付近絵図集


俵物役所図面(案内板撮影)
肥前長崎図(案内板撮影等)
出島南東角解説図面及び実物画像
現出島橋の沿革
中島川変流流域図
伊能忠敬測量地点の推定地
十八銀行本店敷地に補助線を引く
中島川変流の工事図面
自己反証:銅座町ワンブロック流域説が正しい可能性
10 海域アジア的関係地点図

1 俵物役所図面(案内板撮影)

俵物役所図面

 GM.上の位置はここです→GM.。現・十八親和銀行の敷地に当たると思われるんですけど……形と、周囲の厳重な堀らしきものを、現地形のどこに比定すればいいのかちょっと頭を抱えてしまう絵図です。
 しかも、この建物は対馬藩蔵屋敷の隣にあってこそ機能したはずです。つまり、搬入路が存在したはずなんですけど、どうもこの絵図上にはそれっぽい構造が見つかりません。
 けれどこの接合具合は、次の絵図で確認できます。

2 肥前長崎図(案内板撮影等)

対馬藩蔵屋敷の位置表示(朱書)

 上記は、現地・対馬藩蔵屋敷に掲出してある案内図。かなり有名な絵図で、ググると製作年・1821(文政4)年※、製作者・文錦堂(長崎勝山町) 、サイズ・66×88cm(折りたたみ前)。

※多数の写しが製作されたらしく、例えば早稲田大学図書館蔵分※※は1717(享和2)年刊の改版と判明している。
※※URL:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_00626/index.html
 なお同サイトからはかなり精度の良いPDFを閲覧可

肥前長崎図(西役所-出島-蔵屋敷エリア-新地蔵部分)

 下はさらに部分拡大したものです。現・新地中華街側(図の左下側)のほぼ正方形の敷地が俵物役所、出島側(図の右上側)の細長い台形が対馬藩蔵屋敷。両者の接合部、対馬藩蔵屋敷側から鈎型の構造(図の右側)、おそらく俵物役所への搬入の目的のみで造ったと思われる歪な通路部を確認できます。
上記拡大図(早稲田大学図書館版PDF)

 ここを商品(俵物三品:煎海鼠いりなまこ乾鮑ほしあわび鱶鰭ふかひれ、その他諸色:昆布・鰹節・するめ)がどう流れたのか不詳ですけど、出島とのT字部の狭隘な水路になる対馬藩側岸壁にわざわざ荷揚げするのはどうも不自然です。鈎型接合部の大きさからしても、鈎型からは人が出入りするだけで、品物は出島側から俵物役所に直に荷揚げするのが自然に思えます。

3 出島南東角解説図面及び実物画像

出島南東角解説図面

 出島(外側)から確認出来る案内板のものです。ただこれによると、円弧外側はほぼ復元工事されたものということになります。
 下がその具体の石積みです。復元ではありますけど、この岸壁は雁木(階段状)ではなかったことになってる。瀬戸内と違い、この岸でも荷揚げが出来たものか、あるいは出島外側弧は単に障壁でありさえすればよかったのか。
南東角から南側への出島石垣

4 現出島橋の沿革

 旧・出島橋については後掲岡林・島田両氏の詳細な論文があり、現・出島橋と位置は同じことが分かりました。違うのは、財源と施工方法。国・県が金を出さないから、市の提案で既存の橋を転用する経費節約をした。即ち、埋立後に玉江橋が架けられてから使わなくなっていた新川口橋(変流後、出島西側に新設された鉄橋)を解体して旧・出島橋の場所に移設する案で、これにより現橋が出来ています。──結果として、旧・出島橋と現・出島橋は同じ位置にかかってます。

1892年及び1907年の出島橋周辺の状況

5 中島川変流流域図

 浅岡さんという方の後掲ネット記述に、具体的な第一次流域変更のイメージ図がありました。

中島川変流工事イメージ〔後掲浅岡〕

 ただしこのイメージでは、中島川河口は、現・電車通りに加えて南東へワンブロック分だったことになっています。このスポット的には、おそらく正確ではない。
 それとは別にもう一つ興味深いのは、中島川に出島東端ラインで北から合流している水路(川?)の存在です。この日に辿ったミゼリコルディア本部や興善町の段差下を流れてきて、まさにこの日に見つけてる暗渠地点で中島川に交わる●●●●●●●●●●●●形です。
 これは中島川より後に形跡された水路でしょうか、それともより古い時代のクリークの跡でしょうか。後者を想定するなら、この川から出島東側ラインは、中島川より古い水域、ことによるとより古い時代の中島川を示している可能性があります。

6 伊能忠敬測量地点の推定地

 伊能忠敬の測量日記をプロットしたものが、ネット上にありました。

伊能忠敬測量地点プロット図〔後掲伊能忠敬の長崎市測量〕

 このうち、ア及びテの地域が本考に関係しますけど──

二股川尻の海辺の江戸町(この海辺だけが離れてはいるが江戸町内になっていた)にテ印を残して初めて、川沿いを測る。右横町は築地に行く西浜ノ町(現在は銅座町)。右に久留米屋敷。左の長久橋(文化1年の洪水で流されたが文化2年に架け替えられた)の前にア印を残す。
※前掲プログ:括弧書きは著者注釈と思われる。

同伊能忠敬測量地点プロット図(出島〜十八銀行本店部拡大)

 この図でも電車通りと南東ワンブロックが中島川流域です。ただ──このサイト著者は、西に流れこんでいた中島川支流を想定し、その河口が十八銀行敷地西側半分を流れていたことにして色分けをしてます。
 この日に見た暗渠は、やはりこの支流の名残りと推測できます。
 過大視すべきか否か微妙ですけど──「テ」印地点について伊能忠敬が用いてる「二股川尻の海辺の江戸町」という表現は、面白いと思います。まず少なくとも忠敬計測時(1813(文化10)年)まで、川尻のみは江戸町だったこと。理由は全く分からない。今一つは──忠敬が「二股川尻」と表現した地形が、本当に上記図「テ」のようなものだったのだろうか、という点です。一の川の尻が二股になっている、というような地形を忠敬は言っているような気がする。そんな状況になるのは、中島川河口に小さな中州がある場合に限ると思うんですけど……だとすると話がまた混乱してしまうので、当面保留します。

7 十八銀行本店敷地に補助線を引く

 十八銀行銀行本店の位置、と大まかに書かれ、かつここまでもお話してきましたけど、気づかれてくるのは、どうもこの敷地が今も昔も一体だと考えるのは無理だという点です。

銅座川と中島川の合流地点を本店に定めたのは1889年で当初は2階建ての瀟洒な洋館だった。
1969年に現本店に建て替えた後、1997年に扇型の新別館(設計:日建設計)を増築している。〔後掲OSAKAビル景〕

 本館と新館(正規には新別館)がある。銀行なので図面を公開してはいませんけど、GM.と日本地理院地図で見ると、この両館の接合ラインは北北東から南南西に通っています。

十八銀行本店敷地建物二館の接合ライン

 本館敷地は長方形で、江戸期の俵物役所の正方形に近いそれと明らかに異なります。北東の対馬藩蔵屋敷接続部の鈎型部を追加した敷地でしょう。残る新館の半円側は、対馬藩蔵屋敷の鈎型以外の部分だと考えられます。
 ただ、それにしては本館部分の長方形が長過ぎる感じは残ります。もう少し、電車通り側に敷地が出っ張っていてしかるべきと思えるのです。電車開通に伴って道路を拡張したのでしょうか?

8 中島川変流の工事図面

 後掲岡林さんの最新史料らしいものです。当時の変流工事図面を掲げておられました(1889(明治22)年竣工)。

中島川変流の工事図面

※中島川変流の工事図面(長崎歴史文化博物館蔵) 岡林隆敏(長崎大学名誉教授)『長崎県の土木遺産 第4回 中島川変流工事跡─第一次長崎港変流工事─』
同じ図面は別途後掲江島にも掲載あり。

 この関係部分を拡大して、アルファベットをプロットしたものが次の図です(上が南)。

プロット
凡例
A:新地中華街電停
B:長久橋
C:十八銀行本店敷地の川への出っ張り部
D:暗渠出口(中島川支流跡)
E:出島橋
F:出島南東角

 この地図の河口位置は、この日に観察した岩壁の石垣の配置にも矛盾しません。だから変流以前の石垣が基礎になっている可能性もあったんですけど──2016(平成28)年10月供用開始の出島表門橋の架橋時の調査で、出島表門橋(電車・出島駅側)の石垣が考古学的に水上最下部でも明治期の石積であることが確認されています。
写真1 既設石積み状況〔後掲江島〕

 つまり、変流前の流路を確実に特定しうる江戸期の石積みは、現在のところ見つかっていません。──明治初期の石垣ではなく、変流以前の石垣が、十八銀行の地下から発見され、かつそれが西側、新館部分のみに存在するならば元の本流の位置が特定されるのですけど……。
 この図面にも、江戸町商店街付近を抜けてきた水路の出口が記されます。
 また、十八銀行西側の出っ張りは、根拠史料に行き着いていませんが、やはり橋の跡に思えます。前掲伊能忠敬レポの記述に長久橋が水害で流れてかけ替えられた記事がありますけど、旧・長久橋か、あるいは別の橋がかかっていた痕跡なのではないでしょうか。電車通り東側の筆にも、そう考えるとしっくり整合するのです。
7地図再掲(補助線追加)

 よって、地図上の位置だけから推測していくと
上図「18」= 十八銀行本店敷地西側(新館部)
ということになります。中島川河口は同銀東側と電車通りのスペースで、海に出ていたと考えられます。俵物役所と対馬藩蔵屋敷は、現・十八銀行本店新館部に相当する極めて狭い床面積のものだったことになるんですけど──かなり感覚的に新しい像になります。出島や新地蔵に相当する厳重な管理区画で、俵物は取引されてた。その東隣では、短期的には輸出銅、その後も銭が鋳造された。森崎を一種の監視塔として、これらの密閉型金融中枢のような「セル」が並んでいたことになります。
 現代人からすると誠に不思議です。こんな環境でマーケットが回るものなのでしょうか?
(再掲)中島川変流工事※模式図〔後掲長崎県〕※1889(明治22)年竣工

9 自己反証:銅座町ワンブロック流域説が正しい可能性

 ただ、中島川流域がくっきり区分けできると考えるとそうなのですけど──少なくとも三点は自己反証したくなります。
①新地中華街電停南東の銅座町側に三角形の敷地がある。江戸期の地割としては不自然で、これを流域跡と見た方が自然ではないか。──前掲のC地点=橋げた説は、その変形です。
②おらんだ橋は明らかに近年の建設であるが、その南東に小橋がある。①の三角地からほぼ延長したラインであり、この橋が江戸末期からかかっていたならば、それが海岸ラインだった、つまり銅座町ワンブロックが中島川流域だったということを示唆するのではないか?
──と思ったのですけど、これも事実は少し異なる模様です。まずこの橋の名はGM.で確認でき、本川口橋(→GM.)。ランタンフェスではライトアップされ、インスタ映えするポイントとして少し有名です。ここの沿革について──

慶応2年(1866)出島が居留地に編入されると、出島と大浦間を外国人が頻繁に往来するようになった。そこで梅ケ崎町から新地町と東築町を経て出島町まで橋を架けることになり、明治2年(1869)梅ケ崎町・新地町間に梅ケ崎新橋(木造・長さ約33m、後に新地新橋と改称)が、新地町・東築町間に新大橋(木造、長さ約58m、後に本川口橋と改称)が、東築町・出島町間に出島新橋(木造、27m)が架けられた。
 さらに明治3年(1870)新地の造成(築増し)が行われた。造成は、新地町の南東の角から北東の角にかけて1101坪が三角形に埋め立てられた。〔後掲原田〕

 つまり本川口橋は、1869(明治2)年架橋。それが江戸期になかった理由は、出島の居留地編入による大浦方面への交通量の増による。これは広く言えば、出島・新地蔵などの鎖国フレームの崩壊に伴うもので、シンプルに言えば新地蔵≒現・中華街を「通過」できるようになったということです。
 なお、「おらんだ橋」北西にはもう一つ小橋があり、名を扇橋。ただしこれは十八親和銀行専用橋で、電車通り側が現金等搬出入の便を欠くと考えたのでしょう。
 ここまでのデータを見る限り、銅座町エリアがなべて中島川河口だった、というような極端な情景が中世・近世のどこかの時代にあり得たという証拠はありません。地形から考えて、使いにくい湖沼地又はクリーク群のような地域だった蓋然性が高いと思います。
 ただ、上記史談会記事掲載の個人蔵史料に、1851(嘉永4)年製作とされる次の図がありました。これによる補正を加えて、一応のまとめとします。

「新地」『嘉永4年改鋳長崎細見圖』(個人蔵)〔後掲原田〕

10 海域アジア的関係地点図

 唐人屋敷-新地蔵-銅座町-出島の各セキュリティエリアが同列に掲載されてるこの図には、本川口橋も扇橋ももちろんありません。
 その代わり、中川橋の延長線を示すような、海中の白い土手みたいな地形が描かれます。上下にある船の挿絵とは違う……と思う。現代ならこの地形は港内堤防でしょう。でも幕末以前の地形です。だからどういう技術だったのか、あるいは元の地形だったのかは定かでない。
 確かなのは、この障壁により、新地蔵と銅座の間の湾入に、大きな船は入ってこれないということです。また、この障壁は人工物の可能性が高く、そうであれば「大船が入れないように」置いた障壁ということになります。──もしかすると伊能忠敬がポロリと書いた「二股」とはこの状況を指しているのかもしれません。
 さて以上により、控え目に電車通りプラスアルファが流域だったという仮定に立ち、いよいよ海域アジア関係者の位置を図に落とします。本来したかったのはこの作業だったのですけど──前段が無茶苦茶長くなりました。こんな形です。

肥前長崎図上に海域アジア関係主要関係地点をプロット

 江戸末期に、薩摩の長崎商法が長崎交易のメインステージになっていたと仮定すると、正史と記録の上での銅座町としての使命も名目も捨てた後のこの薩摩藩蔵屋敷とその北北東-南南西ベルトこそ、最もホットな経済スポットだったと想像します。表裏を含めたボーダーの町として。
十八銀行突起部が橋桁であったと仮定した場合、その延長上に薩摩藩蔵屋敷があることになる。

──と印象的に語る以上に、このエリアの政治的な位置関係も何かあったように見えます。例えば、西役所と薩摩藩蔵屋敷との間は、十八銀行の突起部の橋があったと仮定すると直接に接続されるルートがあったことになり、この両側に対馬藩蔵屋敷、同五島藩、そしておそらくは浜崎屋敷が並んでいたことになる。(→m145m第十四波mm南京寺/② 薩摩が長崎になぜ秘密屋敷を持ったのか?参照)
(m145m再掲)西浜町の薩摩藩蔵屋敷の位置
※ 旅する長崎学 ~たびなが~/長崎と坂本龍馬と船 その2 ワイルウェフ号事件と五島藩 〘▶現在リンク切〙http://tabinaga.jp/tanken/view.php?hid=20120207134353

 しかし──碁のような陣取りをイメージすると、いかにも不思議な配置です。
 出島への入口を森崎=後の西役所が抑え、かつ高所からいかにも監視している形なのに対し、西の唐人屋敷や沖の新地蔵(現・中華街)の入口にして輸出銭の鋳造部のような長崎経済の核心部には、長崎公所側ではなく、何をするか分からない、それどころか現に長崎公所体制を揺るがしてる薩摩・対馬・五島の「経済雄」藩が居座ってたわけです。幕末には海援隊らの出入りする土佐商会もあった場所です。
 長崎公所がコントロールできない事実上のマーケットが、おそらくこの位置に形成されていたと想像するのです。
出島橋相当位置から北側長久橋方向 (上)明治初期画像 (下)現在〔後掲長崎市〕※指の山容からほぼ同一方向と推定可

■レポ:長崎に溶けた銅貨の渡る海

「銅座」は極めて珍しい地名です。角川日本地名大辞典では、長崎のここしかヒットがありません。
 対して銀座は20カ所。イメージは銀座と同じく、「お金を造る」≒湧き上がる富と狂宴……と結び付いての残存地名でしょう。
 なお、東京・銀座は、最初期には伏見銀座(1601(慶長6)年)、京都両替町(1608(慶長13)年。いずれも京都)、直前には駿府(静岡)にあった銀貨鋳造所を、1612(慶長17)年までに現・銀座二丁目付近に移転したもの。不正横行が問題視され、1800(寛政12)年に日本橋蠣殻町に移転するけれど、当時の町名「新両替町」に関わらずその後も「銀座」地名が残存。〔後掲GINZA〕

長崎銅座の公許さる十四年

 輸出品としての銀の枯渇後、銅を鋳造した場所=「銅座」ですけど、長崎銅座そのものが存在したのは14年間のみ〔ナガジン、wiki/銅座/長崎の銅座〕。
 銅座が置かれたのは大阪(大坂:以下煩雑を避け「大阪」で統一)と長崎のみ。双方合わせた経過を次のとおり整理すると、はっきりと混迷を辿ってます。

    大阪   長崎
1701年 ■石町に設置
1712年 □廃止
1724年 築地銭座設置■
1738年     廃止□
(同年) ■内両替町に再設
1741年 銅座跡地に
     銅座銭座設置□

1750年 □再度廃止
(同年) ■過書町
    (現・北浜)に長崎
    御用銅会所設置
1766年 ■銅会所が銅座に発展
1868年 □廃止(銅専売廃止)
〔wiki/銅座より引用者整理〕

 採算を目的にしない経済政策的分野ですから、余程政策に合致しない状況が生じたはずで、多分前掲銀座と同じく「不正横行」があったのでしょう。1750年の長崎銅座閉鎖と同年に、大阪には三代目の北浜銅座(の前身)が「長崎●●御用銅会所」として再スタートし、以後120年間、江戸期最長の銅座として機能してるのですから、①長崎の輸出銅が如何にしても入り用だったけれど、②非常に腐敗しやすい機構だったと思われるのです。
 なお、この時系列別の事象の典拠は、次の日本歴史地名大系の記述でおおむね確認できます。

もとは浜町の地先海面を埋立てた地で、享保一〇年(一七二五)貿易品の棹銅を鋳造するため銅吹所が置かれた(通航一覧)。「華蛮交易明細記」では船大工ふなだいく町・東浜町の裏手に築地ができ、銅吹屋が建てられたとする。これより先、元禄一〇年(一六九七)頃、唐・オランダ貿易の銅は大坂銅座の支配を受けるようになり、正徳二年(一七一二)に廃止されたというが(崎陽群談)、これは元禄一四年とされる。元禄一四年六月一三艘の唐人三九人が「銅吹座」に赴いて荒銅の吹分けを実見、荒銅一〇〇斤が正味九五斤半、銅正味一〇〇斤が正味九五斤となった(唐通事会所日録)。銅吹所絵図(長崎市立博物館蔵)では東浜町裏で、銅吹屋一千七二八坪・銅吹屋内一千二五三坪とあるが、元文三年(一七三八)廃され、総町外とされたという。「長崎建立并諸記挙要」は享保一一年に銅吹所が完成したとし、元文三年の停止後、寛保元年(一七四一)から銭吹所となったという。〔日本歴史地名大系 「銅座跡」←コトバンク/銅座跡〕※引用者が出典を青字にした。

 つまり典拠はバラバラ。新井白石が銀輸出を論じたような、骨太の政策に支えられた動静ではなさそうです。(時点の分からない華蛮交易明細記の記述は、後で整理します)
 銅輸出のアウトプットを見ると、明確に失敗した経済政策です。

表2-4江戸時代の銅輸出実績(部分)〔後掲JOGMEC〕※後掲通産大臣官房「本邦鉱業の趨勢50年史」より

 交易での通用性を推定するため世界シェアを見ると、確かに17C頃までは世界から見て日本は銀と並び銅の輸出大国トップでもあったらしい。ただあまり聞かないけれど……18C中にイギリスに抜かれてます。
表2-5江戸時代の世界の産銅量比較(部分) 単位:t/年〔後掲JOGMEC〕

※1 葉賀七三男(1990)
「冶金考古学のすすめ–るつぼ・とりべ」金属 60 (11), p80-88, 1990-11 東京 : アグネ技術センター
※-2 EL COBRECHILENO(1975) 〜不詳
※-3 World-Ferrous Metal Production and Prices(1700 ~ 1976)

 こうしたやや難しい取引環境下で、幕府があえて銅に拘り続けた真意が──率直に言ってわかりません。

幕末の銅座の竈の二百燃ゆ

 角川の表記に当たっておきます。基本はここまでに見た内容なんですけど──

長崎港に注ぐ中島川下流左岸に位置する。もとは浜町の海岸を築出した埋立地であった。享保10年貿易品の棹銅を鋳造するため銅座が設置されたが,元文3年廃止され,総町外とされた。享和2年の長崎絵図では,東浜町の西隣に「ドウザ」が見える。文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数3,137,竈数218,戸数221・人数524(男264・女260)。〔角川日本地名大辞典/銅座跡〕

 後半の情報を前掲の年表に加えてみます。ついでに先の典拠も付しておきます。

(再掲) 大阪   長崎
1701年 ■石町に設置
1712年【崎陽群談】□廃止

(年代不詳)【華蛮交易明細記】船大工町・東浜町裏手築地に銅吹屋設置□
1714【崎陽群談】同廃止■
1717(享保2)年【長崎絵図】東浜町西隣「ドウザ」記載
同年【唐通事会所日録】唐人銅吹座見学

1724年【通航一覧】築地銭座設置■
1738年【長崎建立并諸記挙要】廃止□
(同年) ■内両替町に再設
1741年【長崎建立并諸記挙要】銅座跡地に銅座銭座設置□
1750年 □再度廃止
(同年) ■過書町
    (現・北浜)に長崎
    御用銅会所設置
1766年 ■銅会所が銅座に発展

1808(文化5)年【長崎市中明細帳】坪数3,137、竈数218、戸数221、人数524
1868年 □廃止(銅専売廃止)
〔wiki/銅座より引用者整理〕

 長崎銅座が14年間で幕を閉じました──というのは、間違いなく教科書上の記述に過ぎません。
 船大工町・東浜町裏手築地に銅吹屋が置かれた、というのは、現代で言えば偽札工場が街なかに大っぴらに建ったようなものでしょう。1717年の唐人見学模様からして、輸入側からの技術支援を受けてのものでしょう。
 諸記録のバイアスは明瞭で、何かの記録に残ってしまった長崎での銅製造を「あれは終了しました」と書こうとしてます。「銅座」という地名も同じニュアンスです。
 その点、民間記録である長崎建立并諸記挙要※が記す1741年の銅座跡地に「銅座銭座」設置という記事は、ややバイアスが少ないと想像されます。単なる語感ですけど、この呼称は単に「銅座」という名称の「銭座」でしょうか、それとも「銅座」&「銭座」でしょうか?もしかしたら意図的に帯びかせた両義性ではないでしょうか?

※長崎市中の地誌。諏訪神社の宮司青木永繁の遺稿。
原本 諏訪神社
写本 県立長崎図書館
活字本 日本都市生活史料集成六(昭和五〇年)〔日本歴史地名大系 「長崎建立并諸記挙要」←コトバンク/長崎建立并諸記挙要〕

 銅座廃止から百年経って百m四方※に二百超の竈が存在し、その上で五百余人が集住しているというのは物凄い……おそらく「暴走」状況です。また、ここの竈場に肉体労働者を要したとすれば、先の角川の男264:女260という性比は妙です。

※10,369.9809㎡=坪数3,137×約3.3057㎡〔後掲ビバ!江戸〕

 江戸期後半の銅座地域に、鉱業資材とマネーが乱れ飛んでいたことは想像に難くない。でもその実態を記録するような者が、入れる場所ではなかったでしょう。具体にどういう場所だったのかは、正直想像できません。規制外の路地奥のような区画。──逆説的な言い方になりますけど、だから当然、実際は銅も鋳造していたでしょう。
 流出入する資本を考慮すると、単なるスラムではありえません。こちとら素人なので勝手に想像を膨らませますと──

スチームパンクな風景イメージ

はじめ長崎町,明治11年長崎区,同22年からは長崎市の町名。長崎港に注ぐ中島川河口左岸に位置する。明治元年10月東銅座町と西銅座町が合併して成立した。もとは銅座跡と称された総町外の地であった。(略)昭和41年一部が本石灰(もとしつくい)町・浜町となり,西浜町・築町の各一部を編入。〔角川日本地名大辞典/銅座町〕

 銅座が近代に「繁華街」という色彩にどう転じたのか、その途中経過を記したものも、だから当然見当たりません。

大正期の「長崎市分割地図」によれば,地内にはタオル屋・傘屋・洋服屋・医院などがあった。昭和3年の戸数208,同10年の戸数226・人口1,066,同50年の世帯数305。(続)〔角川日本地名大辞典/銅座町〕

満谷国四郎「長崎の人」に描かれた永見徳太郎さん〔後掲倉敷市立美術館〕

 後掲銅座町自治会が強調しているからか、この戦前の繁華街時代の銅座の象徴的財界人として永見傳三郎(1831生-1899没)が、文化人としては(六代)徳太郎(1890生-1950没)がよくヒットします。前者は十八銀行創業者として、後者は大正期文人のパトロンとして著名です。ただし、六代徳太郎は家を潰した後に失踪、そのまま足取りを絶っており、伝わる没年はその失踪年です。

(続)銅座の永見家といえば,明治期以降の長崎の大金持の代名詞で,酒屋町の松田家と並び称された。特に永見徳太郎は昭和2年に破産するまでは,芥川竜之介・竹久夢二・菊池寛といった多くの文化人と交際,長崎の文芸面に大きく貢献した。くんちの傘鉾は昭和49年から銅座にちなんで「銅銭献上」の飾りに代わったが,それ以前のものは永見家の一手持で,三種の神器に冠の飾りであった。〔角川日本地名大辞典/銅座町〕

左から菊池寛、芥川龍之介、武藤長蔵、永見徳太郎〔後掲銅座町自治会〕