※選評∶草いきれの句で根を読む新鮮さ
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その後永らく ロスに陥る オリエンタルの骨汁を食べれた日。 一種、神の日でした。 |
支出1300/収入1250
▼13.0[363]
/負債 50
[前日累計]
利益 -/負債 214
九月二十日(二休)
1344オリエンタル食堂
ほね汁550
2000福まんの唐揚げと隣の弁当屋の弁当650
[前日日計]
支出1300/収入1200
▼13.0[364]
/負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 314
九月二十一日(三休)
目録
木の芽雨スマホのキーボードを叩く
〇933、出走。空は晴れているけれど積乱雲を残す。
大西(西)で右折してみる。BIG,大北郵便局,名護高校。ゴミ拾いの少年が何故か「こんばんわ〜」とあいさつしてきました。
それでなぜか思い出して、職場に作業電話を一本。後腐れなく再スタート。丸隆そば前でした。
0955、大北T字でR71にぶつかり左折。
GM.(経路)

十時ジャスト、伊差川(北)分かれの……手前で右折。
空かき曇り黒く転じて小雨が落つ。持たなかったか。雨衣を着ましょう。
激しくなった。木陰で3分待つ。

正直、この時、山原のどこまで進む気だったのかはよく分かりません。行けるとこまで行ってみよう!という、それまで同様の無計画な北行だったのではないかと予想します。
1011。おおっ、雨がスマホのキーボードを叩いてしまう。
ただ黒雲は短かそう……にも見えます。
水路を越えてさらに右折。


「民俗資料博物館」看板の十字。ここにも寄ってみるつもりでしたけど……どうも、沖縄によくある「私立」っぽい佇まいです。昨日の「北ぬ方御嶽」を思い出しました。知性の自由度が高い風土には、様々な隘路や袋小路があるわけで、こういう場所でこそむしろ知性の「健全さ」を絶えず自省する必要があります。
沖縄は、怖い場所なのです。
白亜紀とジュラ紀の激突す 蘆火

で──この辺りがもう田井等のはずです。一面の田んぼ。1020。
即ちこれが(真)羽地の土地です。この山裾を進むことになります。
1023、羽地大川(巻末参照)を渡る。荒い流れです。右手東方の山塊は、予想外に険しい。

そのせいか、選んだ道は意外に山道でした。
まして荒天。今日も山原は神の日みたいです。

西に、本部半島のややなだらかな山容が、海のように広がります。
要するに、地図を見て感じる「峠を越える」感覚からはほど遠い光景が広がるのです。

この感覚は、地質図を見ると裏付けられます。
名護から北への峠越えは、地質の実際上は、白亜紀の名護層の山塊に西からぶつかった、より古いジュラ紀の本部層の地塊、その衝突線ラインを行くコースになっていたのでした。


さて。着いたようです。明らかに空気が違う空間です。
〔日本名〕沖縄県名護市
〔沖縄名〕クガニムイヌイピー
〔米軍名〕-
農道にしたけど許しての御嶽

車道途中右にふいに見える御嶽でした。1030。
雨上がりの光を浴びて、まさに名の如し。祠も拝所もない。──右手の三つの平岩がそうかもしれないけれど。

Nagopediaの記事中にこんな記事を、かなり後に見つけました。よく考えれば確かに、後から通ったはずの車道に対し平行に碑が出ているのは妙でした。
羽地中学校の北隣りには、旧羽地村の慰霊塔と、名護市では唯一現存する忠魂碑が建つ。集落の南の山はアプウガミと呼ぶ御嶽であるが、その中腹にはクガニムイヌイピーと称する拝所がある。伊差川と稲嶺を結ぶ基幹農道がその付近を通り、聖域に触れることになった。そのことの不利益が区民に及ばないよう、また区民の安全息災を祈願して、昭和61年道路のそばに「黄金森之御獄」と刻む碑が建立された(名護碑文記)。〔後掲Nagopedia〕
つまり、不可侵のイビを侵した祟り封じのための御嶽だったのです。

南西400mに親グスクという遺跡がある場所です。
親グスクについても、「国頭郡誌」で羽地グスクよりも古い時代の「世の主」の居城だと述べられています。〔後掲グスクへの道標/親グスク〕
多野岳を起点として、羽地内海を見下ろせる丘陵地にあります。
仲尾次の方々は、ウイグスク(上城)→ナカグスク(中城)→黄金森之御嶽という経路で拝みをするようです。〔後掲テイクワイ〕
つまり、羽地の中でも最も最初にヒトが親しんだ山原の森、らしい。

緑と光、イビだけの御嶽。それが御嶽なのでしょう、元々。
位置情報が入らない。そういう理由で地点は打たずにおきます。

1038、名護北側の湾を一望。知らぬ間に結構小高い場所を走ってたようです。
ここからかもしれないけどこの道を……「稲嶺農免農道」と呼ぶらしい。
初訪の真喜屋が後から疼く秋

右手にヌルガー。1044。(→GM.)
真喜屋の集落に入ってました。
御嶽はこの辺らしい。右手前に縦長の丸石。供物なし。

1047、真喜屋集落。海がコバルトです。
──この時は、これだけの記録、写真は三枚で通り過ぎたのです。でも土地の引力というのは怖いもので、どうにもこの折の印象が重く、この真喜屋には再訪することになってしまいました。


1052、海に出た。右折北行するも……海上の風雲が呪いのように黒黒として参りました。荒天にも程があるけど……もうこういう日は運に任せて進みましょ。


亀甲墓が山際に並ぶ。海と墓との間の道は、道路敷設前には、一種の境界神でもあったでしょう。
1103、大宜味村に入る。って……ひい〜!もう開店時間の11時を回ったぞよ。
神の日は予定も何も大宜味村

がーん!前田食堂本店、改装で二週間休み!
──前田食堂はなかなか営業時間が不安定です。この時期の今帰仁通いで、本店・名護店合わせて半分はフラれてます。たどり着けた日の感動は無量なので、つい向かってしまうんですけど……。
その先のレストランマリン……六月廃業!

計画は既に大きく狂ってますけど、まあ、どーせ神の日ですから。

面白い集落です。位置は岬なのに、湖水岸のような。
1149、塩屋大橋を渡り右折、大宜味・塩屋集落に入ることに。

□閑話休題∶変な名護vs大宜味







■レポ:羽地大川 はんじゃーの荒れ狂う
羽地大川の現行水域は次の通り。上流に巨大なダム(羽地ダム)があり、完全に飼い慣らされた河川に見えます。流域も羽地の平地の端っこをかすめてるだけに思えます。

ところが──
河川延長12.60km・流域面積14.79km(^2)。河口から5kmは2級河川に指定されている。方言ではハンジアプハーという。また古老によればハンジャーの名でも知られる。名護岳南東麓に源を発して北流し,名護市川上・田井等・仲尾次を経て羽地内海へ注ぐ。下流に北部最大の平野を形成し,ハニジターブックヮ(羽地田圃)と呼ばれる美田地帯が広がる古くからの名高い河川である。かつては名護岳のふもとから西南方へ流れ,川上・親川・田井等・振慶名(ぶりきな)・伊差川・我部祖河(がぶそか)・古我知(こがち)・呉我の諸集落を経て,羽地内海に注ぐ現在の我部祖河川の流路を流れていた。大小20余の支流を数えたといわれ,山間部でデークマタ川・ウズル川・マタキナ川,中流部でフバマタ川・ハニガー(金川,我部祖河川上流部)・奈佐田川などを合わせた。(続)〔後掲角川日本地名大辞典/羽地大川〕
下記は我部祖河川の流域図です。右手にダムから発する羽地大川が見えていますから、「名護岳のふもとから西南方へ流れ,(略)羽地内海に注ぐ現在の我部祖河川の流路を流れていた」様子はぼんやりイメージしうると思います。

(続)荒れ川で治水は困難を極め,雍正13年(1735)の大水害に際して時の三司官蔡温により行われた大改修,さらに明治43年の大決壊を機に大正6年~昭和13年に20年余の年月をかけて完成した大改修と,過去に2度にわたる大治水工事が行われたことは有名である。「球陽」「羽地大川修補日記」によれば,雍正13年7月の豪雨で大洪水が起こり,流域の水田が荒廃に帰した。時の尚敬王の命を受けた蔡温は約3か月をかけ,地元羽地間切をはじめ国頭(くにがみ)地方全域にわたり,合計10万7,380人に夫役を課し工事を完成した。川の逆流地点を直し,水勢に拮抗するために大堤防を設け,新たに灌漑水路をひき,4つの橋梁を設けたという。国王は工事を完成し首里に戻る蔡温を途中の浦添(うらそえ)番所まで出かけて迎え,自筆の書を与えて労をねぎらったとされる。「南島風土記」ではその碑文からみてかつての河口は今帰仁(なきじん)村湧川辺りであったとし,改修により呉我湊に移ったとしている。(続)〔後掲角川日本地名大辞典/羽地大川〕

ただこの原流域も「南東風土記」(沖縄郷土文化研究会南島文化資料研究室,1974)に記載する推定に基づくだけで、客観的には証拠はないように見えます。現・我部祖河より北、湧川まで流入しうるものかどうか、実感しにくいのも確かです。──本稿では、旧・羽地大川の河口は呉我にあったとして話を進めることにします。

羽地大川の時間軸
空間把握はともかく、時間軸では二度の災厄とそれを受けての改修が、羽地大川の概史です。即ち──
▼ 三司官・蔡温による大改修
【河口∶湧川→呉我湊】
※1909(明治39)年も?
1913(明治43)年 大決壊
▼1917(大正6)~1938(昭和13)年
大改修【河口∶→仲尾次西】
両災害とも具体の被害規模が記されないのがむしろ恐ろしい。書かれ方から総合すると、農地としては完全に水没、集落としては壊滅した……らしい。
(続)蔡温による改修後も水害がたびたび起こり,約200年後の明治43年に羽地大川は再び氾濫し,大決壊を引き起こした。地元では地主が羽地大川耕地整理組合を組織して改修にあたったが,工事は進捗せず,多くの地主が没落した。最終的には県に補助や技師の出向を求め,従来,呉我湊に注いでいた川筋を廃し,新たに切通しを掘って東方の仲尾次集落の西で羽地内海へ注がせることとし,昭和13年にようやく完成し,以後,現在の流路となった。〔後掲角川日本地名大辞典/羽地大川〕
仲尾次の拝所が語る出水川
羽地大川の現・河口、変流前は山からの出口に当たる仲尾次の拝所は、この川の暴れ様を反映しているはずです。図下の文章を読むために、まず(右上)仲尾次-(左下)親グスク-(左)仲尾次上グスクの位置図を掲げます。

上図の「親グスク」が下文のウプウガーミ又はウフ御嶽、上図の「上グスク」が下文のウイグシク、と読み替えると、ようやく何を言ってるのかが理解できるようになります。
集落の中心線を山手に向かうと、神アサギ・ウプフヤー・ニガミヤーがある。さらに奥にはムクジガーがある。ムクジガーの北西にはウエーガマタガー、北東にはウチマタガーがある。ムクジガーの背後の斜面をずっと上ると、そこにウプウガーミあるいはウフ御嶽と呼ばれる仲尾次で最も重要な拝所がある。現在の集落から離れて、羽地大川の河口を越えた羽地中学校裏の丘の上には、ウイグシク・ナカグシクという拝所とカミガーという拝井泉がある。ここが、移動前の故地と伝承される。神役は、ニガミが新城系統から、ウペーフはクニガービキの元屋から出る。仲尾次・真喜屋・稲嶺の祭祀を司る真喜屋ヌルは、タキガービキの元屋から出る(国頭の村落)。〔後掲Nagopedia〕

ウプウガーミ-ウフ御嶽-親グスク(→GM.)の同一性は、上記名護市「名護市の御嶽林」のウフ御嶽記述から、少なくとも位置的には間違いないはずです。また「羽地中学校(→GM.)裏の丘の上」にはGM.でも様々な遺跡・拝所を確認でき、これもどれがどれかは混乱するとしても、位置は間違いないと思います。
従って、我々土地勘のない者向けに最も単純に書けば──
(移動前)現・羽地中裏▶上グスク
(移動後)現集落位置 ▶親グスク
ということになります。かつ、この羽地中の台地位置は、集落を直撃したかどうかはともかく、水害により低地に有していた田畑は最も手酷く壊滅したと想像されます。移動がいつか、実証的な史料はありませんけど、移動理由は水害なのでしょう。また、親グスクを拝むのも羽地大川の源流域だから、という可能性が強いでしょう。

ただし──拝所が移動前(羽地中)側と移動後(現集落)側に二分されるように見えるのは、羽地大川が昭和の変流前に氾濫で羽地内海へ一時的に「溢れた」か、それに近い水没に至ったかしたため、ニ群の間が押し流された可能性も否定しにくいと考えます。1735(雍正13)年の大水害は、
なお、直近の1909(明治39)年と1913(明治43)年のを参照すれば、多分、堆積が一定規模に達すると数年程度連続して氾濫し、堆積を田畑や集落とともに押し流す壊滅的「水没」でようやく安定する、というタイプの暴れ川だっだと想定できます。──この辺り、地質学その他科学的分析が行われれば、もう少し確実な事が言えるのでしょうけど……。
北部最大の耕地にして唯一のジャーガル土壌地・ハニジターブックヮ(羽地田圃)は、「恒期」の恵みの代わりに、「乱期」には死の世界に変わる、三体惑星のような環境だったと想像されるのです。この川を20年かけて「へし折った」地域の人々の忍耐力たるや、本当に……。

〉〉〉〉〉参考資料
URL:https://okimu.jp/sp/ganseki/
グスクへの道標
/親グスク
URL:https://gusukumitisirube.jp/about/oyagusuku/02.html
/仲尾次上グスク
URL:https://gusukumitisirube.jp/about/nakaoziuegusuku/02.html
国土数値情報河川データセット
/羽地大川 [4700300001] 羽地大川水系 地図 URL:https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/470030/4700300001/
/我部祖河川水系 [470029] 地図
URL:https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/470029/
(ていく)学習塾テイクワイ/黄金森之御嶽 in 仲尾次 2023-12
URL:https://ameblo.jp/takey9371/entry-12832723330.html
名護市「名護市天然記念物調査報告2:名護市の御嶽林」
※全国文化財総覧 URL:https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/142755
(なごぺ)名護大百科事典 Nagopedia 試行版 – 仲尾次
URL:https://sites.google.com/site/nypedia/home/area_haneji/nakaosi
公益社団法人 日本河川協会「河川文化」平成26年9月 第67号 都築晶子「蔡温の治水技術―羽地大川改修―」
※同バックナンバー URL:https://www.japanriver.or.jp/kaiho/index.htm
PDF URL:https://www.japanriver.or.jp/kaiho/bk067.pdf
みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”/改決羽地川碑記 名護市田井等 ( 沖縄県 )
URL:https://misakimichi.com/archives/5330




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