目録
R331 ポチin the 辺野古基地

国道331号という道は、何と昨日伺った大宜味村塩屋が北の始点でした。他道と無茶苦茶重複してるものの、沖縄本島東海岸から南をグルっと回って那覇の明治橋西口(奥武山公園北東)が終点です。
0935、大浦橋を渡ってそのR331に入りました。快晴。

地元ではこの橋の北側を「二見バイパス」と呼ぶらしい。
そこからのトンネル、高架はなかなかイビしかった(広島弁)けれど……盛り合わせの合わせ技を、交通量の少なさに救われ、無事抜けました。
南へ。

T字路を左へ。R329、沖縄41km表示。
──ダンプがエラく多い。そうか、辺野古たからでしょうか?
遠く牛の鳴き声。
0957、キャンプ前にはエラい数の警官。え~と……50人ほどか?地元の運動員に対するというより……海の向こうの国に対するポーズなんでしょね。ポチはこんなに従順ですよ、て感じ?
子のお神は坂の途中

辺野古集落へ左折。
おおっ!凄まじい下り道!──の途中を折れまして……

〔日本名〕名護市辺野古
〔沖縄名〕ねのおかみ?
〔米軍名〕-

予想と異なり、公園でした。
にも関わらず、予想を裏切り、恐ろしげな場所でした。公園の中の大樹の中に呑まれて咀嚼されるような……。

十時を少し回って、辺野古 子のお神。
左手に壁。「鎮守建設寄附者芳名」とあるけれど……なぜか「芳名」が一人もない。

コンクリート屋根、縦柱のみ少し大理石っぽい祠には……祭壇一つ。
神体は茶色と水石の石。供物なし。
ここが最高所で、イビなし。

辺野古 沖縄まで37km
後背のさっきの急坂を自動車が突っ走ってく爆音。
GM.によると西のこんもりした森が「御嶽」らしい(→GM.)。

「ホテル・ハイビスカス」の辺野古集落は、意外にも伝統民俗のヒドく根深い場所、らしき手触りです。「子のお神」の読みと同じく、その辺りのホールドをこの集落は全く与えてくれません……けど、根深いこと自体は間違いないらしい。後掲古家論文は、現代史の焦点としての辺野古以前に、この急坂のまちにあった根深い「うちなー」を実直に記録した貴重な文章でした。
1025、久辺郵便局前を右折。
1030 まるみつ
百円そば(てびち)200
ここはホントに……ろくでもない。弁当売ってる脇に、萎びたソバに軟骨ソーキがたった二つ乗っかってるカップがあって、自分で汁をウォータークーラーみたいなのから入れる。今回は「熱いの入れましょうね」とオバアが会計の途中で奥で入れてくれたけど。
この汁がまた化学調味料そのものの安っぽさ。これを軒先の半分テントの庇の下の木の机で喰らう。

麺はとにかく粉っぽい。ただこれが汁を吸うとなぜかふっくらと、上等の餃子の皮のような小麦香を放ちます。
軟骨ソーキは骨まで食べれる。でもとことんトロトロというわけじゃなく、しっかりした弾力を保ってる。たった二切れ、でもその味覚は十分味わえる。
好い。徹底的に沖縄パーラー。
このカップそばを食べるために、やっぱり今回も立ち寄ってしまいました。

1054、辺野古を後に南へ。陽光ますます強し。
道路表示∶沖縄37km。──我々ないちゃーはちょっと面食らうけど、沖縄市のことです。あるいはないちゃーの知る「沖縄」は旧首里王権文化圏なのかもしれませんけど。
1103。宜野座に入りました。沖縄34km表示。
◀石川 宜野座村役場 名護▶

干潟に来た。1109。
誰も言わないから何度でも書きますけと──何度通っても、東海岸で一番心奪われる光景です。


何か、標語だらけです。
1120。宜野座村役場への道へ左折、すぐ右折。──すごく変な道行きでしたので……一応GM.リンクを付しときます。
GM.(経路)

R329を陸橋で跨いで宜野座ヌル殿内。1129。
のっぺりした宜野座の淡いコア

眠気を誘うような長閑さと、現実のアーミーの影が交差する。
真に沖縄らしい、悲痛な風が吹き抜けます。
着いたらしい。宜野座ヌル殿内。
〔日本名〕国頭郡宜野座村宜野座90
〔沖縄名〕ぎのざぬるでんない
〔米軍名〕-

宜野座ヌ古島遺跡
(略)別称「大川(ウッカー)グシク」とも呼ばれ,宜野座村で唯一の石積を伴うグシクであり,周辺には古い集落の様相が残され,「宜野座ヌル殿内」を中心に「大川按司屋敷跡」,「根屋(ニイヤー)跡」,「獅子安置小屋」,「神アシャギ」など旧家の屋敷跡や祭祀施設が集中しています。
一般国道329号宜野座改良(1工区)事業に伴い,本遺跡の一部の現況が変わってしまう為,沖縄総合事務局北部国道事務所と宜野座村教育委員会で遺跡の取り扱いについて協議し,宜野座村教育委員会が2002年〜2009年に遺跡の記録・保存を目的とした発掘調査を実施しました。(略)
本遺跡からは奄美系の土器,鹿児島産の黒曜石,徳之島産のカムイヤキ,中国やタイの外国産陶磁器,中国の古銭,佐賀県産の肥前系陶磁器など宜野座地域以外から持ち込まれた遺物も出土しています。(略)〔案内板※〕

発掘写真コメントには「約300年前の地層からは、明治36年の地籍図に記載された『石畳』が確認されています。」とあります。

すみません。歴史・民俗・地理の何れの情報からも、この遺跡が何なのか、まるでイメージが湧きません。
方言ではギヌザといい,一部ではヌーダーとも呼ばれる。(略)北部に古知屋岳とガラマン岳の山並みが続き,冬の季節風を防いでいる。山岳地帯は,中生代白亜紀の嘉陽層を基盤とする海岸段丘が発達する。集落と耕地は,段丘末端に近い琉球石灰岩とその風化土壌島尻マージ地帯に開けている。〔角川日本地名大辞典/宜野座〕
唯一言えそうなのは、土壌が部分的に南部に似て、多分その誘因で首里との直接的関係があったかもしれないこと。
脇地頭は,首里士族の松氏宜野座家であったと伝える。拝所に,ヨリフサノ嶽・宜野座ノロ火の神・神アシャギがあり,宜野座ノロの祭祀(由来記)。宜野座ノロは,古知屋村の祭祀も管掌した(同前)。道光20年(1840),当時村のあった古島は,宜野座福地川(→GM.)の蛇行する場所にあって風水上好ましくないとして,古島に根屋だけを残して南方300mの地に集落を移動したという。林業が盛んだったらしく,山奉行が国頭山地の分水嶺から村の駕籠に乗って,巡見したという口碑がある。〔角川日本地名大辞典/宜野座村(近世)〕
コンクリート祝女殿内に宜野座音頭

右手に入ると、コンクリートの倉庫建物の中に祭壇が安置されてあります。さらに周囲には確かに──イビらしき石積みの取り巻きがあります。


右手高台にも現代建築の社。
右手祭壇に白磁のコップ類と祭壇三つ,神体は石数個。

正面にガラスケース入れ。中には丸っこい石一つと造花四。
造花は、定期的な世話人の欠如からでしょうか?
──見逃してました。この建築はもちろん新しい。新しいけれども、地元建築家がヌルドゥンチとしての建築を熟考して設計。何と第8回沖縄建築賞を受賞しています。巻末参照。

その奥の藪に勇壮なガジュマル。
その根に石柱があるようにも見えるけれど、もちろん供物は見当たらない。

本殿右手に、本殿とは逆に東の海を拝ませる向きの石と壇がある。やはり台風でかしいだらしき花瓶を、一応立て直して、拝む。
正午の鐘を聞いてからエンジンをかける。宜野座音頭?(→おそらくコレ∶YouTube)みたいなのが流れてきました。
■レポ:二見情話と戦場ぬ哀り
久志は古い土地です。「おもろ」に「久志の前兼久」として記されます。
「くし」の読みの由来は、諸説あって不明。
(略)集落は海岸線に沿って形成された砂丘と海岸低地に碁盤目状の形をして立地する。集落の故地は北のウィーザトゥ(上里原)で、近世に現在の場所に移動したとされる。村名が間切名と同じため、小久志の意味でクシグヮー(久志小)と通称される。「おもろさうし」巻一三の一三〇に
「一くしのまへかねく
(久志の前兼久)
/世もちとみ すたちへ
(世持ち富〔官船の名〕を進水させて)
/ともゝすゑ のりふさい しよわちへ
(十百〔一千年〕末までも乗り栄えしたまいて)
/(中略)又 たけたけのかみや
(嶽々の神女は)
/ゆまたちて まふら
(夜も立って守ろう)」
とある。〔日本歴史地名大系 「久志村」←コトバンク/久志村(読み)くしむら〕
根地(故地)の「上里原」も、ヒットがなく不詳。ただ、「すたちへ」号を進水させて、多分交易して栄えていたことを「おもろ」は唄っています。最終句では神女に「夜も立って守る」ことを要求していますが、心意気だけでないとしたら、常時の夜の警備があったことを意味し、海賊への対抗措置の可能性があります。
この土地と現・二見が同域なのかどうかは、やはり不明です。ただ、現在の芸能面で最も巷説にのぼるのは民謡「二見情話」です。
「二見情話」歌詞と由来
※◆男 ●女
(一)
◆二見美童や だんじゅ肝清らしゃ
海山ぬ眺み 他所にまさていよ
(二)
●二見村嫁や ないぶしややあしが
辺野古崎坂ぬ 上い下いよ
(間)◆行逢たしや久志小
●語たしや辺野古
◆想てぃ通たしや 花ぬ二見よ
(三)
◆待ちかにてぃ居たる 首里上いやしが
●出ぢ立ちゅる際や 別りぐりしゃよ
(四)
◆行かい
●行ぢ来うよとう交わす云言葉や
◆ぬがし肝内に 思い残ちょ
(五)
◆●戦場ぬ哀り 何時か忘りゆら
忘りがたなさや 花ぬ二見よ
〔各歌詞サイト合成、作詞作曲照屋朝敏〕
後掲たるー
〔後掲QAB〕
曲は占領直後に流行った古賀メロディーに似て、「本調子で五、中 、老を♭(フラット半音下がり)で弾く」〔後掲たるー〕もので、ウチナー民謡ではめずらしいヤマト調の曲調。男女の掛け合いで歌う楽しさもあって、民謡酒場やカラオケでは定番になった曲だといいます。
プログ等の記事としては、五番歌詞との関係で沖縄戦とその後の収容所時代の記憶がよく語られます。
この歌を作った方は照屋朝敏さん。
この方は第二次世界大戦中に、沖縄県南部の与那原から、北部の久志地域、二見区に避難してきました。避難先の二見では食べ物もなく、非常に苦しい中ではありましたが、地域の人々は避難者のために大切な畑を貸してくれ、そのおかげで野菜などを作って飢えをしのいだそうです。
二見情話がつくられたのは76年前の今頃(1945年11月頃)。
食料がなく、とても苦しい状況の中でも、地元の人の気持ちをいちばんに考えた照屋さんは、二見の村長も務めました。
戦後二見を離れることになった照屋さんが、二見を想い、感謝の気持ちで作ったのが「二見情話」なのです。〔後掲わんさか大浦パーク〕

二見情話の歌碑の記載としては--
「敗残兵の一斉掃討をするから民間投降者は避難せよ」
沖縄戦が終結した昭和二十年六月二十日、米軍の命令により、私は他の投降者と共に摩文仁から与那原に出、海路、大浦崎を経て二見に移動した。村民は心よく迎え入れ、皆、安堵した。
相互扶助の生活が日々、顕著になった或日、村長事務所で年長者会議があり、席上、二見の歌の創作要請を受け二ヶ月後に完成したのが、「二見情話」
これは、平和祈念と二見の人々への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある。
平成二年七月吉日
元二見村長 照屋朝敏〔後掲わんさか大浦パーク〕
現在も二見情話だけの大会が開催されています。会場は、この日に通過した大浦の「わんさか大浦パーク」特設ステージです。

「二見収容所」≒大浦崎収用地区?
ただ、二見情話の誕生地「二見収容所」は、どうも存在がはっきりしません。
沖縄戦下、昭和20年3月末に住民は全員久志山中に避難したが、6~7月にかけて米軍の勧告に応じて下山し、収容所生活が始まった。地元住民に加え、中南部からの疎開・避難民で人口は急増した。久志を含む大浦崎地区でも9月に市会議員と市長の選挙が実施され、久志市が成立した。市役所は現久志公民館の隣に設けられた。この頃久志市の人口は約60,000人にも達した。11月から、収容されていた人々の帰村が始まったが、伊江村民は大浦崎から久志のコーチバルに移された(昭和22年3月帰村)。人々の帰村とともに人口は急減し、翌昭和21年1月には久志市と瀬嵩市が合併し、もとの久志村に戻った。同月の久志の人口は2307人で、同区内に仮住いしていた伊江村民は3092人を数えた。〔後掲Nagopedia〕
那覇市歴史博物館のアーカイヴには、1枚だけ次の画像が見つかりました。ただし写真題名が久志「配給所」となっており、もしかしたら何かの整理又は記憶の上で、久志のは収容所ではなかったのかもしれません。

山田春子さん(94)=中城村=は1945年6月下旬、摩文仁で米兵に捕らわれ、家族と共に玉城村(現南城市玉城)百名の収容所に送られます。
《私たち家族は多くの避難民と共に百名収容所に連れて行かれた。その数日後から、何カ所かの収容所を転々とした。約一年の時を経て、郷里に移り住むことができた。》
百名収容所があったのは現在の南城市立百名小学校の一帯です。「南城市の沖縄戦」(資料編)によると米軍が収容所を開設したのは45年6月5日です。終戦直後には6千人を収容しました。警察署や病院、孤児院などが設けられました。
山田さん家族はその後、馬天港からLST(戦車揚陸艦)に乗せられ、久志村(現名護市)の収容地区に運ばれます。
砂地にテントを張っただけの収容所です。「久志ぐゎー(現名護市久志)では1カ月くらい。その後、瀬嵩にも行きました。久志ではマラリアにかかりました」と山田さんは語ります。
収容地区でも食料は不足していました。「何を食べたか覚えていないけれど、米軍からちょっとした配給はありました」〔後掲呉俐君〕
呉俐君プログ中の山田さん発言に沿うと、久志「収容所」は南部からの膨大な難民を一次的に受け入れるための「仮設テント」だった可能性があります。
これと同じ地区かどうか、確証が乏しくはありますけれど--今帰仁村・本部町の人々が収用された大浦崎収容地区に関し、「名護市史」の本編3として「名護・やんばるの沖縄戦」が2012年に発刊されています。つまり、収用されていた側の記録です。
沖縄戦中や米軍に制圧されて間もない時期の旧久志村12集落の様子などを盛り込んだ「名護市史本編3名護・やんばるの沖縄戦」が新たに発刊された。旧久志村の各集落の戦時下や戦争直後の記録は少なく貴重。戦闘で爆弾が落とされた場所や米軍に制圧された後の配給所、米兵詰め所など具体的な位置関係を記した地図や証言を集落ごとに初めてまとめた。現在の米軍キャンプ・シュワブ区域と重なる大浦崎収容地区は、本部町民が収容されていた地区の範囲が従来の通説よりも広がっていたことも明らかになった。
同書は2005年4月から約11年4カ月間、市内外から戦争体験者ら400人以上の証言などを基にやんばるの沖縄戦の実相を体系的に網羅した。(略)
名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さんは「山中の戦争から沖縄戦の実相が見えてくる。食糧不足やマラリアなど各収容所の様子も具体的に見えてきた。(戦争編は)市町村史の中で後発だが、強みとして(各地区の新たな情報を)つなげていくことができたと思う」と語った。〔後掲琉球新報2016〕
これによる大浦崎収容地区の推定位置は次のとおりです。記事にあるとおり、グーグルマップで言うと概ねキャンプ・シュワプ区域(→GM.)です。

シリーズ沖縄戦に、「撮影場所の記載が見つからないが、山の形状が 国道329号辺野古岬から辺野古岳を望んだ形状に似ているため、大浦湾収容所と考えられる」画像が見つかりました。この写真の状況は、前記の推測と合致します。

また、この位置だったとすれば、次の「米軍政府の管理下で生活する民間人」も収容所の状況だと推測されます。

草木の一本も生えてない地に大型テントが三、四世帯に一つの割合で設置された。炎天下のテント内はむし風呂のようで、泉や湧水は一つもなかった。食料飢饉は深刻で、海に出て海藻を食べ、山へ行って食えそうな木の葉や草の葉を手あたり次第につみ取って食べた。木の若葉を食べ、一家全滅になった痛々しい事故も起きた〔大浦崎収容所 ~ 「名護・共同墓地」琉球新報・戦禍を掘る – Battle of Okinawa←後掲シリーズ沖縄戦〕
この時期の画像が、次のような「やや見れるもの」以外にあまり残されていないのは、米軍にとっても恥部又は悲惨な状況になっていたからでしょう。つまり、その後の軍政下で「なかったこと」にされた時空なのだと想像できます。
米軍による大掛かりな収容所整備、なかんずく食料物資の補充とその後の軍政下の自治制度の確立は、この時期の「反省」に立ったものだと思われます。また、現在残る(抹消されていない)史料以上に終戦後を語る沖縄人の声が苦悶に満ちているのは、その苦悶の方が真実に近いのだと信じることができそうです。

(普天間から今帰仁に疎開した母子家族の場合)
A:今帰仁から今帰仁から米軍のトラックにみんな乗ってね、大浦(沖縄本島北部)にね、第一回の収容に行きましてね。今問題になってる辺野古ね、あそこ。あそこの山の上に行って生活しましたがね。食い物が無くてね。生きてるものは何でも食べましたよ。トービーラーでも。トービーラー(ゴキブリ)。うん、何でも生きてるの食べた。草もね、青々と茂ってる草は何でも食べた。
Q:それだけほかに食べるものが無い?
A:食べるものが無い。それからね、そういえば、いちばんおいしいのはね、米軍が捨てた残飯。チリ捨て場の。これがいちばんおいしい食い物でしたよ。おかしな話だけども、今考えるとね。今の若い人々が、もう分からないけれども、米軍が残飯持って来るトラック持って来てこぼすわけよね。そこで人間がとって、そして朝なんか行くとね、そこにはネズミがいたりハブがいたり、すべての生き物がそこの残飯目当てに来るわけよ。人間も。だから人間も完全に動物と同じ生活してたわけよ、我々は。あの時分は。〔普天間で生きる 普天間基地と戦後 – Battle of Okinawa←後掲シリーズ沖縄戦〕


■レポ:現代建築としてのヌルドゥンチ
この訪問時は、ヌルドゥンチ新築直後だったと思われます。
遺憾ながら訪問時にはこの建物上に浮き上がっている、琉球神代と沖縄現代の交差に気づかずにいました。何となく「違うぞ?」とは思いましたけど…第8回沖縄建築賞選評としては「寄棟屋根の上に山型の切妻屋根を組み合わせた造り」で、その「切妻の両サイドから採光している」様が琉球神道のカミ感覚にマッチしている、といったことらしい〔後掲タイムス住宅新聞2022〕。
彫刻家・能勢裕子さん
(審査講評・能勢裕子氏(彫刻家)) 圧倒的存在感を放つ大屋根を持つヌルドゥンチは宜野座村の緑深い丘の上に立っている。”無駄を削ぎ落とした”その大屋根はRC(鉄筋コンクリート)構造の杉板型枠打ち放しで、分厚くも軽やかな稜線と低い軒先を持つ入り母屋造り。高窓からは光が取り込まれ、影とのコントラストを演出。ボリューム感のある屋根と柱のバランスも心地よい。
ヌルドゥンチとは「ノロ殿内」であり、かつてはノロ(女性祭司)の居住、祭祀場、拝所だった。現在は無人で拝所のみだが、今でも大切な場所として存在し、大いに機能しているとうかがえる。
それは設計者が肌で感じ、目指したであろう“地域に根付く伝統や時間、静かに在り続ける人の営みが風景の一部となっていくような建築”が実現されているからだと言える。
周辺のうっそうとした緑に囲まれていると、その聖域は改めて存在感を増し、機能も併せ持つ“価値ある”建造物だと実感した。そして、ここを去る折には、陰からキジムナーがのぞいていたと思われたのである。〔後掲タイムス住宅新聞2022〕
講評をした能勢裕子さんがどうも最もオシの強かった人らしい。この人は、沖縄県外出身ですけど結婚後沖縄に住む彫刻家。

建築家・平田寛さん
書き方からすると、地元設計者の平田寛さんは、宜野座区や共同設計者の平田歩さんと地場での議論の末に、ワシら通りすがりのナイチャーには一見見逃されるほどの「自然な現代建築」に、由緒あるヌルドゥンチの建て替え案を固めていったようです。──正確には、この時に宜野座区の側がどういった感覚でこの合流に対応したのか、また、この土地柄から考えて新殿内の建築費財源がどのくらい米軍関係費から充当されたのか、といった点は情報が見つかりませんでした。
設計者の平田寛さんは「県内各地のヌルドゥンチを調べると質素な造りが多い。設計にあたり無駄をそぎ落として、いずれ風景の一部となっていくような建築物の姿を目指した」と話す。
同建築物は、柱で屋根を支えるシンプルな造りで、3方向に開かれている。屋根は建て替え前と同じ入母屋造りを採用している。杉板の型枠にコンクリートを流し込み、木目の素材感を生かしている。
また、軒を2・2㍍と抑えたことで祈願所の高さを強調。屋根の高窓からは自然光を取り込み、祈願所全体に影と光のコントラストを生み出した。
審査では「用途が非常に限定されているが、目には見えない神聖さを形に落とし込み、影と光で表現していた。設計者の力量が見てとれる作品」と評された。〔後掲タイムス住宅新聞2022〕

直近では、2025年7月に設計者・平田寛さん(平田寛建築設計事務所)は「Block Architecture 静かな構え」と題する展示会を開催しています。
(主催者のことば)
長い時間軸で考えること
余計なものを削ぎ落とした
シンプルで美しい佇まいを有すること。
そして、機能的であること。
本展示では「コンクリートブロックを用いた建築」をテーマに
その可能性と表現を探ります。〔後掲大城〕

建築家・金城信吉(1934~1984)
1988年生まれの建築家による、いくつものスタディ──ル・コルビュジエの「住宅は住むための機械である」ということばを思い起こさせる──を眺めながら、わたしは、まだこどもだったころに味わった体感を、なつかしく思い返した。
それにしても、いまの時代に、コンクリートブロックという、ある意味〈貧しい〉建築資材をもちいて、まるで100年前に立ち返ったかのようなモダニズムを探る人間が出てこようとは、ただただ驚くばかりである。
この古典主義的なアプローチによって招来された〈沖縄モダニズム〉の試行は、あたかも隔世遺伝のようにして、われわれの目の前に現れたわけだが、コンクリートブロックと沖縄との抜き差しならぬ関係を思えば、沖縄モダニズムとは、すなわち廃墟の、もしくは廃墟からのモダニズムと言い換えてよい。それは、いまなおつづく戦後、つまりは寄せ返す歴史の波から生まれた、ひとつの輝かしい可能性である。〔後掲大城〕
よく考えると、伝統建築のうちでも最も伝統建築たるべきノロ殿内を、通念上は最も現代的な、反伝統的なコンクリートで構築する発想は、いわゆる「一周回って」では収まらない危険なほど強烈なアプローチです。
こういう形で、沖縄神道の伝統は、きちんとした建築家に正面から咀嚼され、現代と合流するトレンドが見られます。日本神道はいかがでしょう?

なお、次の文章は、那覇市民会館解体直前に、多分平田寛さん本人が建物を訪れてとりまくった写真(同サイト掲載)に付したものです。
沖縄の建築家・金城信吉が設計した「那覇市民会館」(1970年)は2024年11月、解体工事が始まる。(略)
解体を前に一度は内部を見ておきたかったが、老朽化のためそれは叶わず、最後にせめてその外観を心に刻み、写真に残そうと与儀公園へ向かった。(略)
大きな影を落とす雨端の空間、周囲を囲む琉球石灰岩を積み上げたヒンプン、外壁や屋根に刻まれた陰影が、沖縄の風土を表し、「沖縄の建築とは何か!」という力強い問いかけが、形を持って目の前に迫ってきた。
シャッターを切るたびに、まるで対話しているような感覚に陥り、閉館してもなお存在感を増し聳え立つ建物を通して「君もまだまだだな」と語りかけられた気がした。(略)
彼が「しまーみーらんなとーしが」(島が見えなくなっている)と当時の沖縄の現状や未来を案じ、葛藤していたように、現代を生きる私たちも、かろうじて残っていた沖縄の風景が、過剰な資本主義によって急激に消費されてゆく様を目の当たりにして、日々葛藤している。〔後掲平田寛建築設計事務所2024〕
※ 後継平田寛建築設計事務所2025によると、2025年2月段階で、壺屋・育陶園(カネナガ商事→GM.)の新店舗建築が進んでいるという。

■転記:宜野座村勢要覧による村歴史(抄)
(略)1879年の廃藩置県前後から、宜野座村域にも屋取集落(首里の士族が移りすんだ集落)ができはじめ、アニンドー、城原、大久保、兼久、前原、潟原などの屋取集落が形成されました。1935年以降には福山、古知屋の開墾と人植がはじまります。これらの大半は現在も小字名として存在しており、城原と福山は終戦後、宜野座村の分離・独立と同時に行政区となりました。〔後掲宜野座村/宜野座村の歴史 原典:宜野座村勢要覧〕
本文内に記した土壌類似説は、個人的な「奇説」ですけど、それにしてもかなり大きな屋取集落の所在地だったようです。
問題はその中心地ですが、水平的な集落展開が基本ながら、概ね宜野座村域から漢那への重心移動が想像されます。なお、「宜野座」というのはここへ派遣された「島横目」職の役人姓だったそうで、逆に言えば、それまでは「史書に特記すべき何者も居なかった」という感覚で捉えられた土地だったのでしょう。
(続)1649年の『絵図郷村帳』に出てくる現在の宜野座村域の地名では、古知屋、宜野座、惣慶、漢那の4村。ほかに「はま村」が見えますが、のちに漢那村に合併されました。これらの村々は金武間切に属して「上四ヶ」とも称され、地域としてのまとまりをもっていたとされています。
伝承によると、いつ頃かははっきりしませんが、この地域へ島横目役として宜野座という姓の役人が派遣されてきたといわれており、その島横目屋敷跡も残っています。(略)〔後掲宜野座村/宜野座村の歴史 原典:宜野座村勢要覧〕
ただし、史書に特記されない者たちの足跡は、沖縄本島でも特異なものです。それは考古学的には、前原貝塚から出土した「オキナワウラジロガシ」として知られます。約3,800年前のオキナワウラジロガシの実や竹で編まれたカゴが、腐食を逃れて発見された貴重な事例です。

宜野座が歴史に登場する以前の様子は、村内にある貝塚などの遺跡によって断片的に知ることができます。なかでも福地川の河口北側にある前原貝塚からは、オキナワウラジロガシの実の炭化物が多量に出土しており、当時の食生活を垣間見ることができます。宜野座にはグスク時代の遺跡も数力所あり、継続してこの地域に人々が住んでいたことが推測されますが、現段階では具体的なことはまだよくわかっていません。(続)〔後掲宜野座村/宜野座村の歴史 原典:宜野座村勢要覧〕
遺跡で発掘された約3800年前のオキナワウラジロガシの実〔後掲琉球新報〕.jpg)
前原遺跡の位置は福地川下流。宜野座の古島があったと伝えられる場所です。
このカシ(≒広義のドングリ)資源を聖地として守っている場所が、これは漢那にあります。ウェーヌアタイと呼ばれ、現在の施設名としては「ヨリアゲの森公園」。これまでワシは見逃し続けています。

漢那集落の東にある森は、ウェーヌアタイ(俗称:ヨリアゲの森公園→GM.)と呼ばれ、石灰岩地帯と非石灰岩地帯の異なる環境で生育する植物が分布する貴重な森となっています。
また、県内で最大規模といわれるアマミアラカシ群落を有し、11~12月頃になるとアマミアラカシの実(ドングリ)が拾えます。
なお、発掘調査ではグスク時代に鍛冶場が営まれていた事が確認されており、森の洞穴には琉球王府の御用木として位置付けられていたチャーギ(和名・イヌマキ)で造られた木製家型墓も残っていました。〔後掲宜野座村/水と緑と太陽の里〕

沖縄本島北部の「宜野座村/ぎのざそん」に「漢那/かんな集落」があり、この集落の東側丘陵に広がる「ヨリアゲ森」は「ウェーヌアタイ森」と呼ばれています。この森の中にある鍾乳洞穴には風葬墓があり「漢那ウェーヌアタイ木製家型墓」が安置されています。1912年頃に「漢那集落」の屋号「仲ニーブ」の老婆がこの風葬墓に納骨されていたのが一番新しいと言われています。木棺にまつわる伝承は、グスク時代に首里の奥方が重病にかかり亡くなるまでに早急に木棺を造るように命じられました。その後完成した木棺を浜から運ぼうとしましたが、奥方が亡くなった連絡により木棺は浜に放置されてしまいました。この木棺を「ウェーヌアタイ森」の風葬墓で使用したと伝わっています。宜野座村立博物館の調査の結果、木棺内の北側に納骨の空間が設けられ頭を西側、四肢骨や肋骨などは東側に配置されており計170体の方々が祀られていました。〔後掲kasurichan1010〕
後継上里さんによると、このウェーヌアタイの家型墓は、形式として今帰仁村運天の百按司墓の木棺に類似すると指摘されています。沖縄最古の木造「建築」と称していますが---総合すると宜野座の一帯は、先史時代から中世に至る間、延々と人間が生き継いできた場所だということになりそうなのです。
それがなぜこの場所なのか?その点はやはり全く未知数なのですが。
宜野座村の漢那ウェーヌアタイ遺跡には洞穴の中に木製の家型墓が残っており、伝承では「グッチャ按司」を葬ったとされています。(略)もとの墓の木材を調査したところ、なんと13~14世紀のものであることが判明しました。つまり確認されているなかで沖縄最古級の木造建物となります。
同じような形式の墓に百按司墓(今帰仁村)もあります。〔後掲上里〕
〉〉〉〉〉参考資料
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(おおし)大城譲司 2025年10月30日(tres monos solitarios)平田寛展「Block Architecture 静かな構え」、またはモダニズムの隔世遺伝
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(ふるいえ)古家信平 2023「沖縄の火の神、仏壇、墓、御嶽から祖先祭祀を見る」『比較日本学教育研究部門研究年報』第19号
※お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション “TeaPot” URL:https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/2003905
(りゆう)琉球新報
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URL=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-349239.html
(わんさ)「わんさか大浦パーク」/二見情話の里。大切に唄い継がれる理由。 | 大浦湾 海辺の直売所
URL:https://nago-east.com/interact/1335


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