コザを、「アメリカ通り」や「宝島」よりもっと深い土地と認知し初めてから、色んなデッサンをしてきました。
未だ、この土地にしっくりハマるデッサンは描けませんけど……あくまで「補助線」として、この段階で書き殴ってみた線を留めておきます。ご笑覧ください。
越来

越来の拝所は、現・西森公園に加え、越来小・中学校及び幼稚園の旧敷地西側に「越来ウガン」という場所があるようです。
このライン(概ね同校から、東は現在のR331沿いの越来交番、西は川沿いのローソン沖縄越来一丁目店)を、腰当てあるいは何らかの境界とする範囲に、越来の集落は散らばって位置しているらしい。
──ここに、前章で引用した沖縄市の文化財分布図を再掲して並べておきます。

/美里・越来部分〔後掲沖縄市2003〕-256x300.jpg)
照屋

照屋の本集落は、「夜風にアイス」よりさらに2ブロック以上南の位置らしい。照屋公園(東の嶽)が目安になるけれど、おそらく西-東-火の神のいずれか、又はその三角形の中当たりが腰当てになるものと推測されます。
つまり、コザ十字路は、かなり古いと思われる越来と照屋の中間域の「空き地」を選定して建設されたと考えられます。
胡屋

ガジュマルの位置は、胡屋の戦前からの公民館(ムラヤー)の場所らしい。
これに対し、西側の変則五差路の碑の位置は、かつてはアシビナーがあった場所。
現・コザ中学校の丘陵線に沿って、御嶽が並んでいる模様。特に中学校校門脇の魔除け石は、注意深く見ていれば外部者でも発見できたと思う。
──同じく沖縄市文化財分布図を再掲します。

/胡屋・仲宗根部分〔後掲沖縄市2003〕-155x300.jpg)
なお、ムラヤーに関しては、戦時のものとして次のような記録がある。日本軍側が何を企図してそういうことをしていたのか、推測できません。
朝鮮人軍夫がたくさんいた。
一般兵が宿舎として使用。
日本軍が国民学校に駐屯したため,各地域の公民館を使って授業をした。
供出の物資を集めた。〔後掲沖縄市,戦時読史地図〕
宮里
の拝所及び旧集落位置図.jpg)
今回初日に直接には強風か濡れた路面かのためにブッコケたコザ十字路北の辺りは、この十字路が通る前は道を跨いで宮里という集落があった場所。特にこのブッコケのゾーンには、概ね東西に五つの拝所が並んでいる。
拝所ベルトイメージ

以上を総合すると、何となく上記のように拝所が蛇状に連なっているように見えます。
だから何?と言われると困るんだけど……越来グスクの霊的結界と見るべきなのでしょうか?これらが嘉手納基地の外にあることから、嘉手納の邪気を西から封印している、あるいは封印したから基地にされなかった、と見るべきでしょうか?それとも、単に低丘陵地の連なりを見るべきなのでしょうか?
その他 米軍統治下画像集


ミルクの配布光景(1945.8.5)〔後掲沖縄市〕※原典 沖縄県公文書館.jpg)
居住区状況(1945.8.5)〔後掲沖縄市〕※原典 沖縄県公文書館.jpg)
〔後掲沖縄市〕※原典 沖縄県公文書館.jpg)


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