FASE107-2@deflag.utinaR412withCoV-2_BA2#神アサギ過ぎる五月の黒猪\比地アサギ降り

案内板図のアサギ周辺配置

1109着いた。案内板あり。
右手がアサギ,左手に社二つ。

比地の小玉森は「琉球国由来記」にも「小玉森 神名 アマオレノ御イベ」という記述があり〔案内板〕

案内板図上の「山口神社」への専用参道

左手はユーガミ。アサギの奥にあるのが「山口神社」とある。この神社には別に道がついているらしい。
俄に雨。
左手正面の祠内

左手まっすぐの社。花がいっぱい。この背後の空間が広すぎるけれど,構造物はなにもない。
左手斜めの社

左斜めの社。コンクリの灯籠あり。背後に大樹。
比地の神アサギ

1118アサギへ。
軒の高さは1mほど。
伝統的な茅葺き。
神アサギ内部より

屋根を見上げる。遊牧民の包のように,この中は一つの宇宙だったかもしれません。
右手奥の橋の向こうに社が見える。

裏手にあるはずの山口神社は見当たらない。いや?あの橋の向こうの社でしょうか?立ち入り禁止の紐が張ってある。
樹木下の拝壇

その手前の樹木に拝壇。その向こうの施設は簡易な水力家電でしょうか?
去り際,野道を振り返る

退去。また山羊がメエエ〜と泣く。
現世の家並みが再び見えてきました。

1234の67路線で名護へ。
ここの道の駅でしか見かけない「からぎ茶」と「クワンソウ茶」

鯉のぼりの並ぶ道の駅ゆいゆい国頭

(略)西部の丘陵は,標高150m内外で,島尻層の泥岩で構成されており,集落はその東側急崖の谷間に位置している。地名は,三方を丘陵に囲まれた奥まった地域に集落が立地していることにちなむ。〔角川日本地名大辞典/奥間〕

方言ではウクマという。(略)集落は村落発祥地というアマンチヂ丘陵西麓に立地。丘には「南(はえ)の御殿」と「北(にし)の御殿」がある。西方に展開するウクマターブックヮ(奥間田圃)はかつて有名な美田地帯だった。山手には15世紀中葉,宜名真(ぎなま)から遁走してきた金丸(のちの尚円王)をかばったアガリカンジャヤー(東鍛冶屋)の遺跡や鍛冶道具を奉納した拝所がある。〔角川日本地名大辞典/奥間〕

方言ではフィジという。沖縄本島北部,国頭(くにがみ)山地与那覇(よなは)岳の西に発する比地川流域の大半を占める。山原(やんばる)の原生林を抜けた比地川下流には沖積地が広く,集落は右岸の山麓に立地。南西に与那覇岳の稜線に連なるチンノウガミという山,北東にパンギナグシク・インヌムイの丘陵がある。地名は,「ひじ」すなわち「泥」の語義による(国頭村史)。比地川上流には比地大滝,また左岸の山腹にイビ御嶽があり,南蛮甕や盃などが出土した。昔アマンチュが120歳の古老にはじめて稲作を教えたという「ミルク田」の跡,また山から材木を下ろすとき,その木にあたって無残な最期をとげた美女ヘントナアンガーの口碑が残る(国頭村史別冊)。〔角川日本地名大辞典/比地〕

 奥間ターブックワ(田圃)は、北部西海岸の大きな稲作地帯であった。辺戸岬から本島西海岸を南下していくとき、最初に突き当たるのが奥間の西方に出ばったアカマル(赤丸)崎の突起である。西海岸沿いにここに辿り着き上陸した往古の人々は、鏡水の浜にかけてのイノーを海の畑、すなわち生活空間として活用しながら、比地川を辿って流域に稲作地を拓いていったと思われる。比地川を遡った突き当たりの小高い杜をアマングシクという。アマミクの造ったグシク(生活跡地)の意であろう。
 さらに、奥間・比地では、稲作を伝えた神の名をアマミクと伝承している。アマングシクの南側には神が天降りをする小玉杜という御嶽があり、海とかかわりの深い神祭りのウンジャミ(海神祭)が営まれる。小玉杜のすぐ脇にはアマミクの宮(通称山口神社)があり、その南斜面を降りていくと、ミルク田と呼ばれる神田がある。集落の伝承は、そこでアマミク神が集落の長老に稲作を伝授したと伝えている。比地の村芝居で語られるユングトゥ(誦み言)は、耕地を拓いて行なう稲作の手順を季節を追って述べ、神酒をかもして神祭りをするという内容で、豊穰予祝の神歌の典型である。〔後掲沖縄の祖神アマミク〕

北山で見たアサギ(アシャギ)でこんなに御嶽然とした場所は初めてでした。拝所の雰囲気がどうも中南部的なのです。奥間は本当に中山の流れを汲んでるのかもしれません。
でもそれはどういう意味を持つんでしょう?
比地で山から降りてきた金髪女二人が同じバスに乗り,喜如嘉でまた降りる。どういう旅行してるんだろう?

帰路のバスから海

1320伊差川食堂
Aランチ750
昼時は過ぎてるけどエラく混んでる。隣はタイ人3人連れだけど,地元の隣近所から来ましたという感じの家族もいて,Acoop併設で駐車場が広いからか客層は広大。
おばちゃんが全員テンパってるからクチコミの悪さは頷けますけど──沖縄はこんなもんよ。
伊差川食堂Aランチ

軟骨丼にも惹かれたけど……ここは北部で一食はAランチ,という方を優先しましょう。
──豚カツは沖縄的な味覚でなかなかイケました。そばもまあまあ良い。あとは可もなく……という感じですけど,まあ旨い。
田井等のJAタウン。右奥に謎の「さくら〜さくら〜」看板

方言ではテーヤという。(略)かつてハニジターブックヮ(羽地田圃)と称する美田地帯であった。集落は平坦な沖積地に立地。地名は平坦地を意味するタイラ・テーラから出たものか。田井等には,田井等遺跡・ヤトバラ殿遺跡・デーグスク遺跡・フガヤ遺跡・仲間遺跡の5遺跡が確認されている。田井等遺跡は,グスク時代後期~近世の遺跡で,土器片・青磁・染付・南蛮陶器,沖縄製の上焼・荒焼などが採集され,付近は田井等の元島だという伝承がある。ヤトバラ殿遺跡は,近世の遺跡で,沖縄製陶器が採集される。フガヤ遺跡は,グスク時代の遺跡でグスク系土器・類須恵器・染付などが出土。仲間遺跡にもグスク時代土器片や青磁が散布する。北側に近接する仲尾古村遺跡とのかかわりが注目される。仲間原の墓地では大正期まで毛遊びが行われた。親川と合同で行う獅子舞で知られる。〔角川日本地名大辞典/田井等〕

田井等の町の光景

(近代)昭和20年9~11月の米軍政府の制定した収容地区名。沖縄本島北部,現在の名護市田井等・親川・川上に置かれた。昭和20年4月2日,米軍司令部によって田井等区が設置された。同所は,本部(もとぶ)・名護方面の住民の収容所となり,同年9月には7万2,000人に達した。親川に役所と警察署,田井等に病院を設置。同月「地方行政緊急措置要綱」に基づいて市会議員・市長の選挙も行われた。この時は女性にも選挙権が与えられた。しかし,同年10月30日にはもとの居住地への帰還が許され,人口も急減し,同年11月末田井等市は解消した。〔角川日本地名大辞典/田井等市〕

少し周りを歩くけどやはり何ということはない郊外タウン……に今は成り果てています。ただ感覚的にですけど,内地の郊外タウンのような真っさら感が,やや濁ってるような不思議な手触りはある一帯なのです。

バス停・山田入口

1417の67路線に再び乗って名護十字路下車。
新山そばのフーチバーそば

1445新山そば
フーチバーそば300
混んでる。テーブル席が塞がってて初めて座敷席で食う。
やはりそばのムチムチ感がたまらない。


ヤマカワの先十字路の東側・市営陸上競技場東の,よく見ると墓だらけの山

ヤマカワの先の十字路を右折。この対面の山も基本的には奥島≒墓場島です。
左手脇道の二本目に左折。少し分かりにくいけれど右手に球場駐車場を見てこれを過ぎた先。大宮印刷の筋。

大宮小学校を過ぎた右道路脇にちょっとだけ路側があり,そこから階段が登ってる。登る。
1523後之宮。他と同じく見た目は園地。(大宮児童公園)

ブランコ脇にイビっぽいコンクリ仕切り

ブランコの脇にコンクリの仕切り。
森の向こうに構造物

その方向の森の向こうに構造物。ただ明らかに道がなく拒んでる。
社への野道

道を見つけてしまった。さっきの社へ登る。
1532後之宮。
後之宮

社内に香炉一つ,紙コップらしい供え一つ。太い鎖がかかってる。周囲の金網も大きい。
後方に真っ赤な滑り台。
右手奥の暗がりが野道入口

入口は傾いた松,上へ向かってその右の野道は──確かに知ってなければ見つけられないだろう。

セブンの交差点から大宮市営住宅の方へ左折,市立図書館。
郷土資料はそこそこ揃ってる。驚いたのは,今帰仁や山原の旧集落はそれ毎に地誌を刊行してることです。逆に資料があり過ぎて,全体把握がとても追いついてない状況です。

JA南側の山

JAの東,市立図書館のある丘も明らかに意味があるはずだけど,入口が全然みつからない。

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