FASE108-2@deflag.utinaR412withCoV-2_BA2#龍淵に潜む石川軍政府\石川龍神復路


▼▲1136南行。▼▲
再び路地に入ってad.二丁目35。右折南行。
ad.二丁目33。車道に出た。ここで碁盤目状の道は突然途絶えてます。収容所区画の名残りか?
左折。1145。

1146二丁目の路地裏

右折してみる。袋小路。1148
1147二丁目の路地裏

1148二丁目の路地裏の袋小路突き当り

一杯そば屋大盛況

一杯そば屋。石川教会。
ちゅら浜食堂はやってる。白浜2丁目(西)十字路を右折。
ワイド闘牛戦士

ファミマに──ワイド闘牛戦士?
1158石川中学校向かい,白浜交番から左折,海へ。
海へ向かう。

海辺の公園の石垣

正午の鐘。海際に城?中は公園だけど,これそのために造ったとも思えないし。
海中に,飛行機から時々見えるパイプで繋がった2つのクレーン島。南の浜沿いに祠らしいものが見えます。南行。
公園から南

海岸線に鳩のみ。
海辺に鳩のみ

祠「石川龍宮神」

1209祠。GM.によると「石川龍宮神」
山影に小祠。これは浜を向いてる。
ウミチル之墓

ウミチル之墓
  俗称 チルーウンミー
 石川部落に初めて機織り,染物,ウスデークーを指導した方と伝えがあり,戦前からこの地にお墓をお守り致しましたが,三十五年前の台風で流された為,仮安置してありましたが,この度改修することになりました。
  改修工事 二〇〇八年六月二十二日
  管理 石川部落会〔案内板〕

清酒のお供え。前面に穴三つ。

山側の彫込墓

墓に向かって右手山側には崖を掘った北山的な墓。花が供えてある。1217
また俄に雨。
全景・中央に「火の神」

振り返った岩の下に祠二基。右には
「○ル火の神
○ヨウ神」
左祠

左は全く読めない。右のさらに右岩下にも壇。これは無名。
右の壇

雨が本格的になりました。携帯日傘で社へ。
この谷は要するに墓地になってる。
海岸墓の場所らしい。

龍宮神とのみ彫ってある柱。祭壇あり,お供えなし。
石川龍宮神

ただその後方野コンビナートとの二重りが,沖縄を象徴するように見えました。
龍宮神から左手アングル

龍宮神から右手アングル

海岸に並んでるのは別荘らしい。各家軒先にバーベキューセット。
貸し別荘は半分ほど埋まっていました。

1246ちゅら浜食堂
骨500
「数に限りがあります」と書かれてるけれど……さくっとありました。
ちゅあ浜の骨

骨というより……筋汁です。骨の率は他より非常に少なくて,強く噛むと噛み取れる筋肉が1/3を占めてる。だし汁はかなり蛋白で透明度が高い。これは──臓物好きにはタマランぞ!
スジの多い肉

淡白なだし汁

店から出た道路を名護BT行きが通り過ぎていきました。1326

やはり那覇からだとかなり遅れるらしい。

途中見かけた石川の飲み屋街

1341え?石川電話電信局前というバス停に丁度名護BT行きが停まってる?
飛び乗る。間違いないらしい。辺野古経由です。青の車体?──沖縄バスか?
……沖縄のバスはどうにも分からん!

屋嘉で走り込んできた10人ほどのガキに,運転手が「走らんよ〜」と注意するけど……ガキども,それを口真似して遊んでる。そのうち車内のタンメーが「こりゃ!静かにせんか!」と怒鳴る。それにも「何ですか?」とヘラヘラしとるので,ある広島人が目の前に出向いて顔を視線で舐め回してやると,やっと静まった。伊芸で下車していく。ハイビスカスの辺野古や久志はすぐそこです。今回降りる気がしなくなったけど,奴らが現出したのかもしれません。
この海岸だけが県民に残された,貧しくか細く望みなき土地の声が。

1456大南下車。
1513パイ工房おしゃれ
ラス 桜・ごま300
ラストでした。売り切れになると,看板の他,道路端の幟を撤収するらしい。

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Iha Castle Resort Motel(伊波城観光ホテル) として開業した(写真:沖縄県公文書館所蔵)

※写真原典 URL:http://www2.archives.pref.okinawa.jp/opa/searchpics.aspx
撮影日: 1966年10月28日
アルバム名: USCAR広報局写真資料091
【原文】IHA CASTLE RESORT MOTEL first such western-style resort motel in Okinawa, has been constructed in the Ishikawa Beach Area on the ruins of the once-imposing Iha Castle which overlooked Kin Bay. Shown cutting the ribbon opening the motel are (L-R): Seiko Kohagura, deputy chief executive, Government of the Ryukyu Islands; Mrs. Shizu Iha,president of the motel; and Edward H. Reeves, director, Economic Affairs Dept., U.S. Civil Administration of the Ryukyu Islands. “In order to visualize the vast economic potential of the tourist business for Okinawa during this jet age, one must consider the rapid progress in this direction already made in other areas such as Hawaii, the Caribbean, and elsewhere, having physical and geographical characteristics similar to those existing here,” Mr. Reeves said in his congratulatory address. The motel which boasts, modern food and entertainment facilities, tennis courts, swimming pool and golf course, was constructed at a total cost of $436,000, including a $147,000 loan from the Ryukyu Development Loan Corporation. Okinawa attracted 72,800 visitors who spent an estimated $16.6 million during FT 1966, which represents a 26 percent gain over the 57,800 visitors the year before, and a 6.4 percent gain in expenditures over those estimated in FY 65 at 15.6 million.
【和訳】 キャッスルリゾートモーテル
沖縄初の洋風リゾートモーテルが、金武湾をのぞむかつての伊波城の跡地の石川ビーチ地区に完成した。オープニング式典でリボンをカットする (左から) 琉球政府小波蔵政光行政副主席、モーテル社長イハ・シズ氏、琉球列島米国民政府経済局エドワード・H・リーブス局長。リーブス局長は祝辞の中で「このジェット時代の沖縄の観光ビジネスの大きな可能性をイメージするためには、ハワイやカリブ海諸国など、物理的・地理的特性が似ている他の地域でも、この方向に急速に進んでいることを考慮しなければならない」と述べた。このモーテルは近代的な食事と娯楽施設、テニスコート、プール、ゴルフ場を備え、琉球開発金融公社からの融資14万7,000ドルを含め、総工費43万6,000ドルで建設された。1966年度は72,800人の観光客が沖縄を訪れ、推定1,660万ドルを支出したが、これは前年度の観光客57,800人を26%を上回り、支出額は65年度の推定1,560万ドルを6.4%上回るものとなった。

■レポ:▼▲

沖縄戦を経て伊波城丘陵の一部が米軍の保養施設「伊波城観光ホテル」として開発利用され、返還された今も「ココガーデン リゾート オキナワ」として民間運営されている。〔後掲HUB沖縄〕

米軍政府が各収容所から招集した地元識者によって組織された諮問機関「沖縄諮詢会」が設置されたことや、米軍政府が読谷比謝から具志川栄野比に移ってきたこともあり、石川収容所は沖縄各地から人が集まる交流地となり戦後沖縄の中心地になっていく。
 沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇舞天が、照屋林山を伴い石川収容所を中心に人々へ笑いを届けたことでも知られる。時の諮詢会委員長は志喜屋孝信であり、沖縄諮詢会が置かれていた家屋が現在も石川に残っている。〔後掲HUB沖縄〕

 沖縄の高速自動車道が1975年「許田 – 石川」間から始まっていることにも当時の石川の重要性が見て取れる。
 石川収容所が撤去された跡地は米軍の保養施設「石川ビーチ」となり、1977年に返還されるまで米軍のためのビーチだった。返還後は沿岸部の埋め立て開発が行われ、旧石川市役所設置や大型運動公園の整備が行われた。〔後掲HUB沖縄〕

参考資料
HUB沖縄(つながる沖縄ニュースネット)/独特な雰囲気の「石川」が戦後沖縄の中心地だった理由
URL:https://hubokinawa.jp/archives/17795
沖縄県公文書館/写真が語る沖縄
URL:https://www.archives.pref.okinawa.jp/
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