023-2丸亀平野以西\多度津町-松山市\香川県・愛媛県

献句
▼▲雨に追われて走るレンタチャリ
【本句】朝焼を連なつて来る夜行バス〔名古屋A〕
D「朝焼の静寂の中の連なりを丁寧に描写」「『朝焼や』と詠嘆すべき?」「『来る』が各地から集まったという情景を生む」
蔵田「『来る』で作者がバスに乗っていないことになる。感動から遠くなる。」

小小旅行(多度津-松山)

0809定刻多度津発。しおかぜといしづちの各1号の連結。
0813右手海。薄い朝霧に覆われる絶景。JR呉線の三原〜幸崎辺りに近い海の近さ。
ただすぐに工場地帯となる。
0816詫間(たくま)。

荘内半島に位置する。「三代実録」貞観7年12月9日条に見える「託磨牧」は粟島に比定される。紫雲出山遺跡は,高地性の軍事的色彩を帯びた弥生時代の遺跡。大浜には縄文時代~弥生時代の土器が出土する大浜遺跡がある。〔角川日本地名大辞典/後掲詫間〕

 平安期に見える郷名。「和名抄」三野【みの】郡七郷の1つ。刊本に見えるが,高山寺本には見えない。現在の詫間・仁尾町域に比定される。中世には詫間荘が成立,別に鎌倉末期には国衙領詫間郷の存在も知られる。〔角川日本地名大辞典/詫間郷(古代)〕

三豊郡の北端の港町詫間町と財田町を結び,阿波池田とも連絡していた道路。詫間(須田)を起点に,高瀬川の左岸沿いに,三豊郡の東部を勝間(高瀬町)まで進み,二宮(高瀬町)・神田(山本町)を南下し,神田砂川で伊予街道(金毘羅街道)と交差し,西ケ峰坂を越えて財田上(財田町)の山王に出て,中筋を経て観音寺街道と連結し,阿波街道(金毘羅街道)に通じる。詫間の塩が財田や阿波に運送されたことから財田では塩街道ともいわれた。詫間では,阿波に通じる道の意で阿波街道とも俗称された。道路建設の時期は不明であるが,明治11年に大久保諶之丞が西ケ峰坂を長さ15町にわたって7尺幅に修繕している記録(県令に対する報告書/財田町誌)があるところから,古くから重要な道であったと思われる。日清・日露戦争時に詫間に軍用船が出入りし,軍用路線として利用された。〔角川日本地名大辞典/詫間街道〕

0822思いがけず海側に山峰。観音寺まで伸びる「単独峰」とでもいうべき地形です。線路はこれを避け一時南行してから右に湾曲するコースで観音寺に入る。0825観音寺。
再び平野になりました。ここが讃岐の一番西側の平地部になる。
秋晴れ雲無し。客はまばら。
0832再び山並みが近づく。再び海辺の絶景鉄道。うどんの店2軒,「いりこは日本一」看板。
トンネル。コンテナ溜まりと工場,狭い住宅地が繰り返される。
0837川之江。新居浜・西条より平地としてはこちらが大きい。この先が四国中央市の市役所になるようです。ここには泊まったことはないなあ。
海側の岬に川之江城。

燧(ひうち)灘に面し,金生(きんせい)川下流域に位置する。地内に弥生遺跡の大江・瓢箪山や古墳遺跡の古仏山・宝洞山などがある。律令時代の大岡駅は当地にあったとする説もあり,古くから交通の要衝で,金毘羅街道・土佐街道の通過地となっていた。〔角川日本地名大辞典/川之江〕

宇摩【うま】郡のうち。はじめ松山藩領,寛永13年一柳直家領,同20年からは幕府領で,延宝5年大坂代官所支配,享保6年松山藩預り地。(略)一柳直家が伊予国のうち宇摩郡・周敷郡と播磨国(兵庫県)加東郡の2万8,600石を領し,寛永14年から川之江陣屋に居住した。屋敷地は13石余とされ,広大なものであった。直家は「河野家伝記」によると,当村に築城の計画があったようであるが,寛永19年に急死したため果たせず,養子直次が播磨国小野に1万石を得たのみで,当村は幕府領となる。以後陣屋町として,また湊町としても発展していく。寛文年間の「西海巡見志」によれば,高札場と御番所があり,西浜で,家数250軒,舟数29,うち猟船20,加子数121と見える。元禄14年の村明細帳によると,家数688軒・人口3,603,回船34・猟船45と増加し,すでに物資の輸送が盛んだったことをうかがわせる。(略)近在の幕府領村々の年貢米はほとんど川之江湊【みなと】から船積みされたらしく,享保頃には浜町・中須町の町名が見え,浜庄屋・浦手役や浜御番所・御蔵などが置かれていたという。(略)「村々様子大概書」には,文政8年の家数973,人口男2,411・女2,092,(略),当村では瓦少々を焼いて大坂や備後まで売り出していること,毎年8月に町場において市が開かれて讃岐から牛馬を売りにきたこと,草刈場が18町歩程あること,年貢米は当村の浜で船積みし,江戸まで285里程を輸送したことなどが記載されている。(略)「役用記」によると,村内での茶の生産はなく,すべて土佐国(高知県)の立川【たじかわ】・本山【もとやま】・豊永【とよなが】から仕入れ,尾道【おのみち】などへ売りさばき,茶山株は22株。茶の他に漁船運上銀約250匁で,肴運上・塩運上・帆別運上などがあった。なお当村のイリコ請負高は260斤。慶応4年の帆別運上は45人の船主が銀102匁を払い,年間2,000石余の造酒は原則として無冥加であった。当村の物産の綿花は今治方面へ売られ,綿実は灯油の原料として大坂・兵庫の幕府指定問屋へ送られ,慶応4年綿会所が設立され,当時40軒の綿屋がいた(役用記)。嘉永6年幕府の命により城山台場が築かれ,当村は1,045両余の上納金を出した。万延元年不作による飢饉のため百姓騒動が起きたが,翌文久元年村役人が上層村民からの寄付によって解決した。(略)長州再征が命ぜられた慶応2年,川之江陣屋では民兵による陣屋守備隊がつくられ,翌3年別子【べつし】銅山に一揆が起こり,鉱夫ら400人が川之江陣屋を目ざした時,民兵にゲーベル銃を与えて鎮圧させたという。翌4年高知藩の精鋭1,000名余は乾退助に率いられて川之江征伐を実施し,代官所は無血開城して宇摩郡幕府領の村々はすべて高知藩の支配下に置かれた。明治4年倉敷県移管が通告されると,高知藩の善政を慕った村民は猛反対運動を起こした。〔角川日本地名大辞典/川之江村(近世)〕

0845伊予三島。この辺りが四国中央市の中心地らしく町が大きい。緩斜面に家並が広々と展開してる。
0854緩斜面の高い位置から山並みに入る。山容は緩いけれど無理をして鉄道に山を越えさせている感じ。家並が増え,行く手に煙突群が見えてきました。
筋雲が目立ち初めてる。
0900新居浜。
 また緩い山並みに入る。家並はまばら,のどかな風情。
0909伊予西条。
0911雄大な右手北への湾曲。北の山はかなり高い。この山塊を反時計回りに回って松山に入ることになります。
松山の湯はこの山塊から湧出している,となるとこの山塊は半活動的な火山系でしょう。
畑地が多い,と思ったけれどこれは河原か?中山川。かなり暴れる川だと思う,この平地はこの川の氾濫原でしょう。
0920壬生川。語感が面白い。

周桑(しゆうそう)平野東部,新川下流域に位置し,東は一部燧(ひうち)灘に面する。地名は「厳島神社略社記」によれば徳能川・古子川などの入川に由来し,往古は毎年水害に悩まされ,火で水を乾かす意味から丹生川と改められ,その後文和年間に河野通盛が伊勢神宮勧請の折,壬生川と改称したという。〔角川日本地名大辞典/壬生川〕

あるように大神宮(内宮・外宮)領と定められ,大中臣能隆の子孫が保務を相伝知行した(編年史2)。室町期にも伊勢大神宮領壬生川代官職の名が見える(寛正造内宮記/編年史3)。南北朝期~室町期には「観念寺文書」中に壬生河の名が散見する。すなわち延文5年2月9日誓元寄進状(編年史3)に「玉(壬)生河保内次郎法師名」の「アシヒキカ十七坪東寄」の田地2反が観念寺に寄進されたことが見える。(略)天授2年(永和2年)頃の書写と思われる「宝積寺大般若経」の奥書には「壬生河円海寺」と見え,これらが旧壬生川町の地にあたることは確実と思われる。戦国期末には小早川隆景が東予の諸城を攻略し,天正14年と推定される小早川隆景の家臣宛書簡中に,壬生川の城に対する処置について述べたものが存在する(浦文書/大日古11-2)。〔角川日本地名大辞典/丹生河御厨(中世)〕

平地と急斜面。この平地はおそらく埋立地だから昔は斜面と漁村が続いていたでしょう。
 山道に沿い家並がまばらに続く。湯ノ浦温泉の看板。
うとうとして目を開けると一気に大きな町。0931今治。

意外にも山並みを行く。大西町。
山間の家並。時折海際にコンビナートがちらつく。
0945海際に出ました。海側は埋立地らしいけれど山側または海側すぐには好い集落が時折現れます。
霞んだ水平線。やや高みからなので眺めはよい。釣り船がたゆたう。
山容はやや急峻。現・瀬戸大橋の島々はこれが北に連なりながら海に没したものということになります。けれど温泉が出ないことからすると,やはり火山的な中心は松山側なのでしょうか?
サンシティ北条という,おそらく特養。松山までの特急券回収。JR四国ではなぜかこれを徹底してます。

0954伊予北条。白人四人が乗ってくる。なぜここから?
この北条という地名も古いものらしい。

周桑(しゆうそう)平野東部崩口川右岸に位置し,東は燧(ひうち)灘に面する。「小松邑誌」によれば,周布(すふ)郡を南条・北条の2荘とし,その境界が中山川で北を北条としたがのち次第に縮小されたとある。〔角川日本地名大辞典/北条〕

鎌倉期から見える地名。周敷【すふ】郡のうち。嘉禎4年6月20日の関東御教書に,京の辻々の篝【かがり】料について「以美濃国日野村,伊与国周敷北条地頭得分内,辻一所松用途銭拾貫文」を沙汰すべきことが見える(永井直衛氏所蔵文書/編年史2)。北条郷の地頭は当時「たかへ(多賀江)の二郎入道」で,仁治元年10月5日の関東御教書(安斎随筆/編年史2)にもその名が見える。(略)「予陽河野家譜」(編年史2)には応長元年7月卒去したと伝える河野通有について「与州周布郡北条郷長福寺開基也」とあり,長福寺は弘安5年,元寇の際の合戦における「討死之士卒」の追福のために建立されたという。現在東予市内北条にある長福寺がこれである。応長2年3月,大山祇神社造営のための反米が一国平均役として伊予国内郷々に課されたが,その中に「周敷北条 二十二石八升⊏?⊐」とあり,伊予国衙領の1つであった(大山積神社文書/編年史2)。南北朝期~室町期には郷内田地の観念寺(現東予市内)への沽却,寄進が越智氏一族などによって行われた。(略)戦国末期には土佐の長宗我部氏と中国安芸の毛利氏の勢力が及んだらしく,天正12年には北条2,000貫の地は壬生川行元の知行分であった(土佐国蠧簡集/大日料11‐7)が,翌13年9月には北条の城の破却が小早川隆景によって報告されている(萩藩閥閲録104)。〔角川日本地名大辞典/北条郷(中世)〕

しばらく海辺を走るも,堀江辺りからは地勢が松山らしくなる。滑らかなアップダウンの平地風景。
ここと高浜の間の山塊も一種異様で,いわばイガグリ,あるいはおむすびを並べたような小突起の連続です。あまりない地形だと思います。あえていえば名護のそれに似てるか。
1006松山着。

▼▲

▼▲