008-3薬師\鹿児島市内\鹿児島県

薬師

後ろがバス停・城西公園

故か誰も書いてないようなので,ちょっと付記しておきたい。鹿児島のお湯巡りで欠かしたことのない名湯(と信じてる)薬師温泉,その脇の公園での光景です。

バス停・城西公園後方の石塔「安政六年◯未」

顔の削られた仏像

ス停・城西公園に降りると六角の塔があったので足を止めてみました。
 薬師堂の西一面に「安政六年◯未」とある。また一面に「哲恵院殿玉容霊明大禪童子」。また一面「正月十日」。

顔の削られた仏像彫刻部

面上段の仏像は全て顔が削られている。廃仏毀釈でしょう。
「哲恵院」名に該当する人物は,十一代・島津斉彬の側室・徳寿院 須磨(寿満)の哲丸(1857-1859(安政4-6))〔後掲花筐館〕しかいないようです。年代も整合する。

顔の削られた仏像彫刻(2)

側にコンクリートらしい補修痕があります。一度倒れていたのかもしれません。
 各仏像前に硬貨の供え物,各一枚ずつ。

消えていた薬師堂

石塔全体

かし今まで気づかなかったなか──と思って見廻すとあれ?あれれれ?
 薬師さんの祠自体が消えてしまってるぞ?確かに公園脇にあったはずなのに?まさか令和の廃仏毀釈か?一応……どこかに合祀されてればいいけどなあ。

薬師堂(以前?)〔後掲鹿児島ぶら歩き〕

掲になるけど,文献への記述がこれまでに唯一確認できたものを再掲してみます。

薬師公園の一角に小堂があり、その由来に昭和3年薬師町前原宅の石榴(ざくろ)の木の下から掘り出された薬師様を祭ってあると書いてあるが、薬草苑にあった薬師如来なのだろうか〔後掲鹿児島ぶら歩き〕※原典:豊増哲雄「古地図に見る鹿児島の町」春苑堂,1996

 用例.jpが引くところでは,同等の記述は「かごしま市史こばなし」(木脇栄,南日本新聞開発センター,1976)という書籍にもあるようです。この書が元情報でしょうか。

「かごしま市史こばなし」によれば、薬草苑が現在の薬師町にあり、その苑内に薬師様が祀られていたことに由来しているとされている。〔後掲用例.jp〕

薬師に存在した薬草苑

ころがこの後日,京セラ・第二電電の創業者,稲盛和夫の研究の中に薬師に関する記述を見つけることができました。
 稲盛は鹿児島の薬師町で出生しているという。この稲盛の研究者として,鹿児島大学の吉田健一があり,鹿児島出身なのか元衆議院議員秘書ゆえかは不詳だけれどかなりローカルな情報を記述されていました。

薬師町という町名は、昔、薩摩藩主島津家の別殿があり、そこにあった薬草苑に、薬師如来像が祭ってあったことに由来するとの伝承がある(18)。現在、その薬師堂は城西公園内に祭られている。〔後掲吉田〕

18 薬師町の成り立ちについては、西田校区公民館運営審議会編「郷土史誌2版」(1980年)p.55参照。この中に、故池田米男氏の記録に「むかしは島津家の別殿の所在地で薬草苑があり、この苑内に薬師如来像が祭ってあった。今も薬師様奉妃の小堂が町内にあり、薬師町の町名はこれによる」と記されているという旨の記述がある。〔後掲吉田,原注18〕

姶良市加治木町木田の薬師如来像。胎内銘から1557(弘治3)年8月作〔後掲薩摩旧跡巡礼〕

 記録者・池田米男さんについてはよく分かりません。主著に「南洲先生新逸話集」(鹿児島新聞社,昭和12(1937)年)という書があり,戦前の郷土史研究者だと推測されます。
「薬師町の町名はこれによる」の「これ」が,確かに薬師堂の建設のように読めます。でも島津家の「薬草苑」に由来するようにも解せます。どちらでしょう?
 後者ならば前掲「昭和3年……掘り出された薬師様を祭ってある」という豊増哲雄説は崩れます。
 でもこの疑念を持てば,後は容易でした。角川日本地名大辞典によると,薬師町の行政地名は明治32年を初めとします。その前の時期には「薬師馬場町」と呼ばれていたらしく,つまり「薬師」は明治初には存在した地名です。

明治初期~明治32年の町名。鹿児島府下のうち。明治22年からは鹿児島市の町名。南は西田町に接し,西は西田村,東は鷹師馬場町に接する(県地誌)。明治10年代の戸籍簿による戸数357,うち士族290・平民67,職業は無職139・不明149・農業2・雑業46・医師3・巡査2・軍人2・附籍8・工1・大工3・商2(鹿児島市史)。明治32年薬師町と改称。〔角川日本地名大辞典/薬師馬場町〕

 次の日本歴史地名大系は,鹿児島市街図と天保切絵図から薬師馬場の名を引いています。

天保切絵図によれば、鷹師馬場町と同様に御物方・兵具方附の下級士のためつくられた屋敷地があり、周辺には上級士屋敷も点在した。鷹師馬場町との境には中(なか)ノ馬場、西に薬師馬場があり、両馬場をつなぐように東西に永吉(ながよし)馬場がある(鹿児島市街図)。西は原良(はらら)の裾の用水堀である石(いし)井手が境となる。新上(しんかん)橋を渡った先に日置半兵衛六畝余・鎌田刑部(正純)一反五畝余・森川利右衛門二反七畝余・丸田善平太一反七畝・赤松主水一千二五七坪(ほか自作などのために八反余が付属)・島津中務二千四〇〇坪(ほか一町一反余が付属)・桂岩次郎七反余・島津矢柄九反余など大身家がある(天保切絵図)。〔日本歴史地名大系 「薬師馬場町」←コトバンク/薬師馬場町〕

 鷹師馬場町と隣接して薬師馬場町があったということは,馬場が設置される前から薬師(町)及び鷹師(町)という地名があったと考えるのが妥当です。字義と他地の例からして,薬剤師及び鷹匠の集住地区でしょう。
 ただ,元になった島津家の薬草園というのは情報がない。同家の薬草園としては,山川・佐多・吉野の3カ所が知られます〔後掲鹿児島県観光サイト〕。武士の集住地に設けられた小規模又は短命の薬草園だったのでしょうか?
 刺戟的な推測としては──先の三か所の嚆矢:山川のものは,1659年に設置。実際,この地にのリュウガンには樹齢300年と推定されるものがあり──島津家が特に出自を秘したい植物を栽培した秘密薬園であった可能性も考えられます。ただし,薬師の薬草園に関する記録は,如何にしても見つかりませんでした。

山川のリュウガン(高さ10m,根回り6m,原産地:福建省・台湾・タイ〜ベトナムの東南アジア,昭和29年県指定天然記念物)〔後掲鹿児島教委〕

明治~昭和初の薬師:解体していく士族町

 先の角川記述を振り返ると,戸数357中士族290(明治10年代の戸籍簿),八割が武士階級という極端な階級構成が明治初年頃の薬師の特性だったようです。これは吉田さんの整理した稲盛和夫伝にも再々浮かびます。

当時、薬師町(現在の城西1丁目を含む)は島津家の土地が区画整備された所で「島津どんの屋敷」と呼ばれていた。市内でも早くに区画整備がされたところであった。当時はすでに「屋敷」ではなく「島津住宅」とも呼ばれていた。昭和10年(1935年)頃にはすでに住宅はあったらしく、郡部の方から引っ越してきた人が多かった。〔後掲吉田〕

「島津住宅」という呼称は,昔が,というだけでなく,払い下げられた,という意味も含んでいるように感じられます。元所有関係が不詳ですけど,先の角川の戸籍データ中「職業は無職139」という戸数が西南戦争後の薩摩藩士の困窮を指すものと仮定すれば,武士の約半数が失職した状況から土地や屋敷を手放していったことが予想されます。

当時の薬師町には旧士族の人々が多く住んでおり、後から少し離れた郡部から出てきて島津住宅に住むようになった七郎などの新住民とは多少の壁があったようだ。
『あしたうらら』の中の稲盛の文章にも「母は、近所の士族風を更かせる連中がかねがね気に食わなかったのだろう」とある〔後掲吉田〕

「あしたうらら」を書いた稲盛は1932年生まれですから,昭和初めまでに住民は下級武士から富裕町人にがらりと移行し,逆にそれ故にこそ旧住民・士族層は「士族風を吹かせ」てアイデンティティを守り,新住民と軋轢を生んでいた,という状況があったのでしょう。

明治維新の変革、西南戦争の終結で世の中が落ち着いてくると、城下町であった鹿児島においても、織物授産城場、蚕糸講習所、鹿児島授産場などの生産工場が誕生していった。明治時代に設立された会社が甲突川の北部地区に位置したのに対して、大正時代は武町、薬師町、原良町、高麗町、下荒田町など甲突川南部地区に多くの会社が設立された。これは大正2年(1913年)に現在の鹿児島本線のうち、鹿児島・東市来間の鉄道が開通したことや、高見馬場・武駅(現在の鹿児島中央駅)間などの電車の開通によって交通が便利になったためである。薬師町もこの時期に発展していった(21)。〔後掲吉田〕
※原注21 西田校区公民館運営審議会編「郷土史誌2版」(1980年)p.8参照。

 薬師の発展は,上記の新住民が担って進んでいったと思われます。
 ただ──次の記事も見つかりました。薬師もまた,空からの火で焼かれています。

1969.8.6:薬師の空襲

月6日には下荒田町、原良町、薬師町方面に空襲が行われた。〔後掲用例.jp〕※出典不詳

 この空襲は総務省HP(国内各都市の戦災の状況)でも確認できました。前後8回に渡ったという空襲の最後のものとして掲載されています。
 広島への原爆投下日の正午です。
 県外者なのであまり知らなかったけれど,鹿児島市は空襲でかなり徹底的に狙われました。
(死者)   3,329人
(負傷者)  4,633人
(行方不明)   35人
(その他)10万7,388人
 上記合計で被害者数は11万5,385人,当時在住者※の66%という。

※1945(昭和20)年初期の疎開後の人口17万5,000人〔後掲総務省〕

 時期的に考えて日帝の軍需力を狙ってではなく,沖縄同様,上陸地点の掃討空襲でしょう。

 8月6日12時30分ごろ米軍機グラマン・カーチスの艦載機が来襲し、爆弾投下、機銃掃射し、上荒田及び西鹿児島駅付近、城西方面一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失した。この日の空襲が最後の空襲となったが、すでに鹿児島市は廃墟と化していた。
〔罹災状況〕
被災場所 上荒田町、原良町、薬師町及び伊敷村一帯
被災人口 6,817人 被災戸数 1,789戸
死傷者 不明〔後掲総務省/3-8.昭和20(1945)年8月6日 空襲〕

 この時になぜ薬師だったのか,分かりません。つまり,米軍が焼く対象がまだ残っていたのか?次の記述からも,薬師が6月時点で住民視点では既に焼け野原だったことが分かるのですけど……他の市街よりは残存が多かったのでしょうか?
 たまたまこの空襲を体験した薬師居住者の方(男性)の,ライフヒストリーが存在したのでその紹介で本章を終えたいと思います。8月6日空襲時には南さつま市に疎開したため,この方が書いているのはその2か月前の空襲です。
 この6月17日空襲について,総務省HPは鹿児島空襲で「最大にして,最も悲惨」と書きます。従来の軍需施設目的の爆弾攻撃型から,ルメイ少将による市街焼却目的の焼夷弾攻撃型に転換された第一号とも言われ,かつ,なぜか空襲警報は発令されなかったそうです。
 焼夷弾13万個(推定・「鹿児島市史)が鹿児島市街に注ぎ落とされました。

 1945年、鹿児島師範学校付属小学校(現鹿児島大付属小)の6年生だった。自宅は鹿児島市薬師の旧制鹿児島一中(現・鶴丸高校)近くにあった。父は鹿児島師範学校の柔道教師だったが、当時は3回目の召集を受けて不在で、私は母と祖母と暮らしていた。
 3月ごろから市中心部の被災を聞くようになっていたが、少し離れた薬師周辺は、田んぼが広がる静かな地域だった。
 6月17日は満月に近い夜だった。午後11時半ごろ、サイレンが鳴り、台所のすりガラス越しに米軍機の影が見えた。ものすごい低空飛行で、慌てて寝間着のまま、母屋から少し離れた庭の防空壕(ごう)に駆け込んだ。直後、見知らぬ若者が「命の次に大切なものなので、預かってください」と厚い2冊の本を預けていった。〔後掲南日本新聞〕

大型建造物だけが残る焼け跡の鹿児島市街地中心部。城山付近からの俯瞰でしょうか。〔後掲総務省,撮影:平岡正三郎氏〕

うやく静かになって外に出ると、一面焼け野原。鹿児島一中の校舎は、まだ燃えていた。」と話者は語っています。
 南日本新聞記者も気になったらしく,話者に訊いたようです。
「本を預けた若者は、無事に取りに来た。」と記事には書かれています。「命の次に大切な」本の書名は記されていません。