010-f城の古址(真裏)\長崎withCOVID\長崎県

🌬  🌬  🌬  🌬  🌬城の古址
縦断編
(本編)
~~~~~(m–)m
▶〔内部リンク〕城の古址シリーズ
】夫婦川町10の右分岐から暗がりの山道へ
】鳥瞰図 西半分
真裏】西北奥の大石群と石柱
▲本編

鳴滝の地蔵堂からムカデ道

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路:地蔵堂
〜城の古址北入口)

てと。
 鳴滝の地蔵堂の西から登って行くルートを選んでたんだけど──これは……長崎でままある、迂闊に墓場ルートなんではないかい?

1545道端の地蔵様と左手崖っぷち家屋の列

々、セーフなルートらしい。
 1545。必ずしも墓場ではなく、墓場の南淵ラインでした。道はゆっくりと湾曲、北へ向いてゆきます。
1546崖っぷちの家屋の入口構造

かしまあ……傾斜が激しいこの辺りの家屋は、凄い入口構造になってます。長崎県の建築課さんは、とう融通を利かせてやりくりしてるんでしょう?

輝きと真っ暗がりの先帝祭

1552鳴滝一丁目20T字の地蔵祠

d.鳴滝一丁目20のT字。
ここにも地蔵祠。道なりに右手、城の古址が遠望できます。お久しぶりです。1551。
1555鳴滝一丁目北行道

556、ad.23。
 ここから見た城の古址は──北に高みを持つ地勢を露わにしてます。直線だとあと300mなんですけど……実行程はそうじゃないのは、今回は覚悟してます。
1557鳴滝川への下り脇道越しに望む城の古址

d.28。左右分岐を撮影。1605。
 右への平面路は日照に白く輝き、左下への階段はその陰に真っ暗がり、この明暗が長崎の景色です。
1604鳴滝一丁目北行道と左右家屋への階段道

鳴滝川まで降りてまた天高し

1604鳴滝一丁目北行道

の高みを迂回するような等高線路が、のびやかに続きます。──ただ城の古址は、ここから谷をまたいだ隣山ですけど。
 ad.30。家が絶えたぞ?1608。
1607鳴滝一丁目北行道……の家が絶えた?

d.鳴滝三丁目1にあったの?
 1610、三丁目7手前に山から降りてきた道が交わる。想定したT字ではないけれど……感じとしてはこの辺り、このまま進むと城の古址が遠ざかります。とにかく降りよう。
1611鳴滝三丁目7で自己認定した下り地点

折。
──を決めるに際し、しばらくたじろいだほど、ガッツリとした急階段です。勿体ないけど降りましょう。
1612鳴滝川への下り階段と高みの片淵中

、ここで出るのか、鳴滝川河畔。左折下流へ。
 ad.鳴滝二丁目16。車道。この奥の階段を登って──城の古址と同平面の片淵中か。ふうう〜。1616。
1618鳴滝川を振り返って

おっ?さっきの宅配便のオッサンにまた会った??ドッペンケッガーか?
 でも、ここは……鳴滝町西部自治会掲示板脇のベンチでしばし休憩。
1619片淵中への階段を見上げる

泣きながらちゃんぽん食うしかない空蝉

段下ad.三丁目3。ツクツクボウシが鳴きまくっとる。
 1619。ま……また分岐だとお?聞いてないぞ?左だろきっと?ad.3のまま。

1624高台に出る。

624上、つまり片淵中及び城の古址と同じ高台に出ました。南へ……おっとまず北のY字か。
 ちなみに、本編では地勢を知るため意図的に大回りしてますけど、最寄りバス停・片渕三丁目は中学校西斜面下。
バス停・片渕三丁目位置図

M.では7分350mと出ますけど……多分本編後半同様の急傾斜の登りにはなります。(参照∶GM.行程 長崎駅〜片渕中)
リアルゴールドを、腰に手を当て一気飲み──しても休校日の周囲に人はない。
 Y字から南行。1631。
1634片淵中西側を南行

淵中の建物は近くから見ても──ホントに白壁土蔵でした。
 ただこの校舎での授業も、あと10年と決定したらしい。

統合までのタイムスケジュール
2029年4月1日 (1)片淵中の場所で、桜馬場中と片淵中を統合(統合と同時に「新しい中学校名」に変更)
2029年4月以降 (2)桜馬場中跡地に新校舎を建設開始
2034年4月1日 (3)完成した新校舎で、(1)で統合した中学校と長崎中を統合〔後掲長崎市→同動画イメージ

1639片淵中西側路の南行き止まり地点

のどん詰まり。
 ここまで来て、情報がガセだったら──もう泣きながらちゃんぽん食うしかないですけど──確かに左手に!階段が出現しました!
 1640。

▶〔内部リンク〕
(再掲)国土地理院地図∶城の古址付近。横が300m。
(再掲)鳥瞰図(手書)〔後掲しんこうの趣味〕
再掲鳥瞰図 西半分〔後掲しんこうの趣味〕
再掲鳥瞰図 東半分〔後掲しんこうの趣味〕
の古址
〔日本名〕長崎市片淵二丁目20
〔長崎名〕しろのこし
(城ノ越?同地名は長崎に幾つか例あり)

登山口の段からZ字に上へ

1641片淵中西側路南端から城の古址への階段

もこの階段……短くね?
 10mほどで途絶えてあとは藪。──今数えると13段。死刑台への階段と同じ数ですけど、当時は嬉しさでそれどころじゃなかったから良しとしよう。
 いや?左手に階段が続いてる?
 山道としては、左右どちらか。あえて藪を正面突破より、道通りな横に迂回して上が勝算高そうですけど──どちらだろう?
1643階段上から右手崖上道

マホの、今回はオフライン用にダウンロードしてきた「しんこう」さんの地図(上記四枚中右から二枚目∶西半分)を取り出し凝視。左(北)が高く崖めいてるのは前回も、今日の遠望でも、「しんこう」地図でも確認できます。右周りの方が地形に沿って登れる……ような気がしました。
 右手へ。
1645何となく野道らしい箇所から東側高みへ。石垣が見える。

よく右手にスライドしたかな?と思えた辺りの、何となく野道らしい箇所から……東側高みへ。
 なぜって?まあ、勘ですね。ははは。
 お?石垣らしいものがある!1646。
1647大石群と石柱

柱。
 1647。
──これは記憶があるぞ。知らんけど……この右手から上で、いいんじゃね?知らんけど。
 北側微かに校地が見えてる。これも記憶がある。学校方向じゃなく高み、つまり105mの最高部を目指さないと出れない、あるいは崖に落ちちゃうはずです。マジ知らんけど。
1648大石の並ぶ高みの一帯

ドルメンや出でし浜ちゃん腹踊り

石の並ぶ高み。1648。
 これ……観音堂裏の最高所じゃね?何となく記憶と整合する、三つ石です。多分。
 道が道らしくなってきた。

1651城の古址の観音堂

処じゃあ!
 1650、観音堂。左手に仏4。鉄柵で囲まれてます。これは間違えようがありません。こんな不気味な場所が二つあってたまるか、て感じ?
北に向かって左手の仏像四柱

証を得れたのは、祠内の「浜ちゃん腹踊り」壁文字を視認してからでした。
 何度見ても──完全無欠に意味不明です。
柵内の観音と不思議な文字

音堂の前は大石に囲まれた、ストーンサークルのような場所になってます。
 何度目か繰り返し書いてる内容ですけど……沖縄の山中の御嶽に感覚が似てます。堂は南面。ここで船から見える灯火を焚いていたとも思えないし、北へ祈ったとも思えないけれど──城だったなら、この最高所は最終防衛拠点です。
 ここに、なぜこの場所に観音堂なのでしょう?ホントにねえ。
 1654、南へ。
1653南帰路から観音堂を振り返って

退去、南行。
 この南北路は、整備されている訳ではないけれど、まあ山道を歩き慣れてれば普通に辿れる野道です。
1655微かに野道っぽいルートを採る。

崎の数多い地誌類に、城の古址、鶴山城、さらに龍頭巌については語られるけれど、明らかに「奥院」であるこの「ドルメン」に触れたものは個人記録しかありません。
 多分、意図的に書かれない場所だと感じます。西九州から沖縄には、何となくそうなってる場所が存在する、と感じてます。

北にあるのを西山と苔の花

1657北を振り返って。大石か建造物か見分けがつかない。

蛛の巣が多い。
 例によって拾った棒きれを前面で振り回しながら進みますけど──多分この荒れの少なさからして、手入れや参拝の人が存在するはずです。
 それほど、蜘蛛かその餌の藪蚊類の繁殖の適地なのでしょうか?
1657石垣の道が現れる。

垣で縁取られた道。でもこれは……東側へ続いてる。集落への山道に見えたけれど通れませんでした。
──今、自分の記録を振り返るに、この通れなかった野道へ、前回「裏」回は危険な踏破をやったのだと想像します。
青矢印∶前回ルート(ドルメンから時計回り部のみ) 桃矢印∶今回

年後、統合片渕中が新校舎に移ると、城の古址最高点北の名前のない霊地●●●●●●●は、いよいよ、仰ぎ見るだけの彼方の地に還るでしょう。
 なお、諏訪神社北の「西山」という地名の「西」は、民謡・長崎七不思議に「北にあるのを西山と」と唄われます。その真意は城の古址から見て西だから、ということらしい。長崎の中心の空虚が、この土地です。
 南に戻って進む。
1701龍頭巌に出る。

頭巌に出ました。17時ジャスト。
 この祠の正面へ向かうと、右奥から出てきた格好です。
1703内部の三体を撮影

回から左程の変化はないけれど──よく見るとこの三体仏も漆喰か何かで補修した跡があります。
 南行。

お大師さんから右ですよ九秋や

1704龍頭巌を振り返って……でももう既に森林に紛れてよく分かりませんね。

の墓場が見えてきました。
 1705、生還──なんて大げさですけど、感覚としてはようやく現世に浮いて息継ぎてきた……という気持ちは分かっていたたけます??
1705南の墓場が見えた。

上の行程を感覚的に記すと次のような感じです。蛇足ながら、一応山歩きできる靴、無茶苦茶になってもいい服(出来れば長袖シャツ:藪蚊用)、軍手の着用、事後の痒み止め軟膏の携帯をお勧めします。──これは、沖縄の御嶽拝み用の装備ですけどね。
2024.8城の古址縦断時の感覚マップ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路:城の古址南側
〜新大工町電停)

販機から南へ直進。
 一つ目のT字を右から南行。何と!今回は出れました!東海の墓の下の集落。1714。
──すみません、勘と、墓詣での方々に付いて行ったのとだけなので、ルートはお示しできません。

1714墓直下に出れました。

墓参りの人たちはこちらの道を使ってるようなので、人がいれば尋ねたら分かると思います。
 最初に入って迷った道です。「お大師さんから右ですよ」と通りがかりのオッサン。感謝。
1717「お大師さん」の仏様の道

字。ad.夫婦川町12。
 多分東から出てきました。東海の墓160mの矢印がある。
 1719。もちろん左折南行。

夫婦川観音過ぎてエスプレッソ

えんじ色アパートと夫婦川観音堂の屋根。

んじ色の四階建てアパート、これは見覚えがあります。
 第29番霊場夫婦川観音堂。1724。
 左隣の地蔵など三体はみな首を傾げてます。何で?
1726夫婦川観音堂脇の三地蔵

の下のT字に「トッポ水」。
 異国への航行者が飲料水を補給した──と伝えがあると案内板にいう。この補給者たちが拝んだ観音と、おそらく推定してよいでしょう。
1729トッポ水と後方の夫婦川観音堂

婦川馬場天満宮。
 1734。ad.は桜馬場一丁目4になりました。
1733夫婦川馬場天満宮脇道から振り返って

故か──新大工町の商店街は全閉店。
 盆だからか?
1736日暮れの新大工町商店街

大工町ファンスクエア店ジョイフルサンに入ってみる。品揃えよし。
 おお?タリーズがあるのか??市場だからひょっとして……と期待したけど喫煙は不可でした。
 で、エスプレッソを一杯。