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1030あれではないか?
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周りは巨石が囲むような場所。
──調べる限り,こういう場所はネットを含む長崎紹介記事の中に出てきません。ただ,最近になって修復されたのではないか,と考えると,おそらく旧・古址あるいは「ドルメン」としている場所がここだったものと推測されます。
〔城の古址 夫婦川町・片渕2丁目(春徳寺背後の山) | みさき道人 “長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
URL:https://misakimichi.com/archives/264〕
ここ(城の古址観音堂)より若干登った林の中にドルメンではないかと考えられる巨石が残っている。〔前掲みさき道人 原典∶岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊18頁〕
仏像四柱。

金柵の中に五輪塔のようなものと岩に直接書いた文字。
この配置からすると,文字の書かれた壁面が御神体ということになるのですが──どういう意味でしょう?こんな祭祀を類推できません。


達筆かつ磨耗で判別しにくいけれど,後掲古址観音堂の隠元文字からして「大園通」の三字を三角形に配したもの……ではないか?



──そこからは一文字もメモを残してません。すぐ北側に片淵中,グラウンドでイビられる中坊の喚きさえ聞こえて来るのに,どうしてもそちらに山道が繋がらない。──
──そこを降りて登ってしていたら,なぜか元の道がどこやら分からなくなってしまいました。──
──山道を踏み抜くうちに,物凄い数の仏像,祠,石垣,その他おそらく霊場と思われる場所を見かけたのですけど──藪蚊と蜘蛛の巣と,そもそも足場が危ないのとでとてもスマホを開けない。──
──やっと家影を見てそちらへ降りていくと,どうやら廃屋。しかもそこは,木々の間から見透かす限り……えらく崖の上にある。
──おそらく西側だったのでしょう。反時計回りに一周したのだと思います。──
──でもその辺りからは山道が山道っぽくなり,慎重に安全な道を選び続けたら──石段に出ました。
1055えっ?墓地の上に出た?昨日の東海墓の真上です。
最初の地図に記すとここになります。
※前掲みさき道人は,次のように片淵中から到達できるような書き方をしている。「現在近くに長崎市立片渕中学校の城を模した校舎が建てられており、西山ダムから車道が学校裏のすぐ山頂近くまで入る。」
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もう,藪蚊の刺すところがもうないというか,怖すぎるというか,とても帰りたい気分ですけど……ここの石段だけ踏破してみよう。再度上へ。
1059あった!
レンガ柱,アルミの柵。供え物あり。後方は巌。
祠内には三仏像。
前掲みさき道人によると室内には三書が掲げてあるという。
石室正面「大園通 黄檗隠元書」
左面「南無観世音菩薩 即非書」
右面「園通萬畳山 即非書」
※即非は隠元の中国時代からの弟子。観音堂には「即非禅師の座禅石」との別称もある〔前掲みさき道人〕。もう一つ,「タンタンタケジョ」という別称もある(巻末)。
周囲に仏像を思わせる岩が多数あるけれどほぼ磨耗してか判別できない。
1106帰路へ。
自販機でオレンジーナ・スパークリングを飲んでると,昨日もみかけた「㈱石心」のトラックが作業してました。
長崎氏をここでやっと見つけました。東海墓の上の道にあったことになります。
ほとんどの像が古址を後ろにしてる。
まっすぐ降りると美容専門学校(第2校舎)──昨日のタイ語の響く辺りに出ました。今日は口笛を吹きまくってる。下るとやはりブラスバンドの大音響。
1125新中川町電停に丁度入ってきた赤迫行きに飛び乗ると,ようやく現世のリズムに身体が馴染み初めました。
沖縄以外の日本でこの感覚の体験は……なかなか出来るもんじゃない。
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それで結局,ここは何だったのか?と考えても雲を掴むようなのです。
・長崎甚左衛門純景の居館
・末次家が墓地を造ろうと龍頭巌を割ると鮮血が出て中止
・即非(隠元直弟子)が使用
・長崎の風水の要(末次家没落は上記所業によるとの伝説有)
けれど,それでこんなに沢山の仏像が埋もれる藪山が生まれるものでしょうか?
仮にこの多量の断首が廃仏毀釈によるものとすれば,この丘に一大仏教施設があったことになりますが,江戸期のそんな記録は見たことがない。
とすると大村キリシタン時代を疑うべきでしょう。その時代にも大仏教伽藍があった事実は伝わらないから,密かに避難したとか,そういう知られない経緯があるのでしょうか。ただし,ここを本拠とした長崎甚右衛門は大村氏旗下のキリシタンだし,積極的な傍証はなく……依然訳が分からない土地なのです。
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1144 ニッキーアースティン長崎駅店§ 新的!
No.1004辛い辛いドライカレーシリーズ✕ポークカツがメインのトルコライス750×.9=675
1216かもめに乗車。長崎発。──これを30分でやったのは自分でも信じられん。
車内トイレで乾いた服に着替えてから,座席に身を投げ熟睡。
■伝説∶たんたんたけじょ▼▲
このお竹さん、西山村の村役人、松見半太夫のひとりむすめでした。
夏の夕ぐれのこと。お竹さんが笛を吹きながら、山道を歩いて行くと、ひとりの気高い若者がジッと笛の音を聞く様子で林の中に立っていました。
それからというものお竹さんは、この若者の美しい姿に思いをよせて、毎夜、笛を吹いて歩きました。その日も、岩に腰をかけて笛の音を聞いている若者の姿が月あかりに輝(て)らされて見えてきました。ふたりは、いつも、この岩のところで会っていたのでした。やがてふたりは愛し合う仲になりました。
しかし、ある日のこと、いつも聞こえてくるはずのお竹さんの笛の音が聞こえなくなり、その姿もフッツリと消えてしまったのです。父の半太夫はたいそう心配して、村人たちとともに、なん日も山じゅうをさがして歩きました。すると、頂上近くの竜頭岩(りゅうとうがん)の上にふたりがしっかりと抱きあっている姿をみつけました。
そこで、修験者のひとりが、これを見て、じゅ文をとなえると、若者は、一ぴきの大蛇の姿になって森の中に消えました。
若者がわすれられないお竹さんは、たいへんかなしんで、とうとう重い病気にかかり、はかなく死んでしまいました。
それからは、この岩をたたくと、
「タンタン、タケジョ、タンタン、タケジョ」
と、鳴ったそうです。
いまも竜頭岩は、タンタン、タケジョと、呼ばれています。
〔後掲タンタン竹女 – 長崎穴場情報サイト 物語ブログ〕
※URL:http://narutaki.co.jp/blog/story/2010/04/post-4.html
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