目録
淳厚寺は砦だったか?
この時入った海からの路地は,長さは僅かに3百m。
二才中から戻ってサザンケアさんが帰るのを待っても,すぐ突き当たりに行き尽きました。0832。
西側に寺社らしき建物。聞恩堂という看板を掲げてます。地図上に「淳厚寺」と書かれるお寺でしょう。
間恩堂は,造りも建材も新しい建物。共同納骨堂のような場所に見えます。墓制が特異なのでしょうか。
路地は,間恩堂を南からL字に周り込んで古い寺へ続きます。こちらが淳厚寺でしょう。
寺への道は沢を跨ぐ。コンクリートの橋から上流,南側を眺めたのが上の写真ですけど……構造が物凄く凝ってます。やはりコンクリで固めてあり,原構造が分からないほど何重にも補修してある気配です。増水時の重要な排水路なのでしょうか。しかしそれにしても──
淳厚寺の周囲は小高く石垣で囲まれてる。その外側に沢があるので……ほとんど半円状の城壁です。
けど,これは私道だろうか?中から丁度おばさんが出て来られた。訊くと,通過するのは構わないというので更に先へ。
城壁の北の角は鋭利に尖ってる。直下に沢。実に実戦的です。──なぜここにこんな土地利用が残るのでしょう?
国道下に祠がある,という情報もあったけれど,こちらはどうしても見当たらない。
行って帰って淳厚寺路地
0845,北へ戻る。
途中に公民館。「博多浦集会施設」という看板。
0857,二才中の井戸から港へ向かってみよう。
0858,左手に道が出た。二才中の辺りを避けた東西道でしょうか。左折して進んでみると──
「唐人町」という看板が程なく左手に現れました。
九州各地の同名の場所以上に,これはまた……「町」と言われても面食らう薮です。ただ,地図を頭に浮かべると,ここは位置的には博多浦集落の中心です。中央部に古い原野を持つ町──何と奇妙な配置でしょう。
南の丘へ上がる。
三文字目の「莫」
間違いない,ここが「唐人祠」と呼ばれるスポットです。
この存在が,博多浦が古い対外交易地であることの実証材料になってる,という場所です。
この史跡そのものは,けれど大変簡素です。大樹の根本に二柱。正面四文字のうち三文字目のみ「莫」と読める。
供花は,新しい。
驚くべきことに,けれど唐人祠の意義付けは既に定かでない。
後に鹿児島市の図書館で漁った旧坊津町の地誌には──
「唐人墓」……(Ⅰ)博多浦にあり。現在祠になっているが昔の唐人墓の跡で,この辺一帯に唐人墓があったが,唐人町の人達が夫々の墓に分散し持ち帰った。その跡に建てられた祠である。[坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町 p321]
対して現地に立っていた市(南さつま市)の文化財サイドのものらしい看板には──
中国人貿易商が長崎に移った後に「墓をまとめた」,合葬した場所と書かれます。
両説の違いは,ここが拝み墓(旧町誌)なのか埋め墓(市案内)なのか,ですけど──現地には,親しい者の墓場,というより,沖縄めいたサンクチュアリ(不可侵聖域)の雰囲気が強い,と感じされます。間恩堂の祖先崇拝の形式・態度とあまりに違い過ぎる。
そして両説の共通項は,ここが多数の中国人埋め墓の存した丘だったことです。
砦→埋め墓→拝所?
西の道へそのまま抜ける。こちらの道は新しい。石垣が見えない。0909。
いや?ただ山手には,堅牢な石垣が一部に残ります。これも城壁めいて見える。位置的に「唐人町」と称する围があったとすれば合理的な土地利用です。
つまり,
唐人町[砦]
→唐人墓[埋め墓]
→唐人祠[拝所]
と推移した,と仮定的には推量できるのではないでしょうか?
[砦]の時代は海人間の紛争の時代。その武装を解いてもビジネスの出来る時代には旧閑地として墓になった。──とそこまでは想像できるかもしれません。
ただ、その跡がなぜ今も拝まれているのでしょう?
前編「十次釜山」で日本人遺構が徹底的に破壊されている様を見てきました。かつて村民をよそに暴利を貪ったであろう唐人海商の墓地跡が,何故?──周囲の造成開発の状況から,この丘があえて手を付けず残されてる風もあるし,だからと言って中国風の祠や文物が残るわけでもなく,例えば中国系住民が今も住むようにも見えないのです。
今でもそんなにしか考えられないのですから当時は──全然理解不能のままに,北,海側へ。この道にも筆のあとの石積は残っています。石垣ではなく家屋の基礎の石積が整ってる感じです。淳厚寺対面の家屋に似てる。
港のラインか。0912撮影。
行かなかったけど江籠譚
この位置でなぜ閃きがなかったのか,悔いが残るのです。
というのは,ここから西へ高みを越えて百m進んでいれば,江籠譚という入江に出たはず。以下は前掲早水さんの撮影記録ですけど──
人家は見えないけれど湾曲して陸に食い込んだ深い入江です。他に,南さつま市立図書館のドローン動画が参照できます。
* ドローンで見る坊津 ④久志~秋目 – 南さつま市立図書館
地理院地図の航空写真では以下の情景です。

現在も小型船舶の利用があるようです。
大型船が荷の積み下ろしをする場所には見えないけれど,ひっそりと交易をしたり船を隠すには非常に適した場所に思えます。
おはようございます
0914,港に出る。右折東行。
0916。二本目,二才中小路の海側入口はアスファルトで整備されてました。
0921,博多浦バス停へ戻る。
ここからだと野間方面は山に隠れてまだ見えません。ただブーゲンビリアらしき赤花が停車場脇に日を受けていました。
カッターシャツをぴっしり着込んだおじいさんが一人のんびりやって来て,物凄く丁寧に「おはようございます」とご挨拶してきました。
0935,小さなバンがやって来る。これは市立坊津病院の専用車両らしい。挨拶じいさんはこれに乗り込んでいきました。
0939,路線バスも来た。乗車。
■レポ:博多浦について3つの断章
一読でバレてしまう通り……1時間強のこの寄り道ではあまりに博多浦は巨大な未知でした。甘く見てました。中心部の,住んでる方にとってはおそらくメインロードを歩いてるだけで,消化不良以前です。
「?」のまま残った事々を,だからそのまま以下記しておきます。
坊津町誌(1)「特殊」なる博多浦
後に鹿児島市の図書館で読んだ「坊津町郷土誌上巻」には,往時の博多浦が不思議な書き方で綴られます。
久志博多浦には回船問屋制があり,重家,中村家など大きなものであったといわれる。博多浦は市場の名称でもあり,堺のように商業都市的性格を帯び,坊津でも特殊の地域としてみられていたようである。[坊津町郷土誌編纂委員会「坊津町郷土誌上巻」昭44,坊津町 p346]
重家と中村家については同誌に注記があり,後に掲げます。
まず問題にしたいのは「市場の名称」で,坊津でも「特殊」だったという表現です。これの意味するところは,行政名ではない,博多浦の「民」的色彩だろうと思います。
典型的なのは──現在の住所表示にも「博多浦」はないのです。実は,通称扱いかと思ったら,バス停になってたから驚いた。ちなみにバス停の位置の住所は「鹿児島県南さつま市坊津町久志」。淳厚寺は同「久志1897」です。
久志及び博多浦の地名のある史料
「久志」の方は1197(建久8)年の初出史料があります。
鎌倉期から見える地名薩摩国加世田別符のうち建久8年の薩摩国図田帳によれば,加世田別符100町のうち,公領75町内に「山田村二十町名主肥前国石居入道」とあるその後,延文6年卯月20日付沙弥道春(島津忠政)譲状に「薩摩国加世田別符内 一,山田・秋目・唐坊・久志・内浦」と見え,彦三郎公忠に譲られている(下野島津文書/早稲田大学所蔵文書下)
*角川日本地名大辞典(旧地名編)/山田(中世)
URL:http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7463584
「唐坊」というのは,坊津の別称として聞きませんけど,やはり坊津なのか,あるいは博多浦を指すのか確証がありません。
対して,ずっと時代が下った江戸後期には,三国名勝図会の久志の記事に
港口の横幅四五町あり、港裏の北濱を、今村濱といひ、南岸を博多浦といふ、是を内港とす
とあるし,さらに19C初頭の伊能忠敬の記録には
伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」には家数が438戸あり、そのうち本村が200戸、博多浦48戸、今村浜40戸、池15戸、塩屋57戸、末柏60戸、平崎18戸であったと記録されている。
* wiki/坊津町久志
URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E6%B4%A5%E7%94%BA%E4%B9%85%E5%BF%97
同引用元:芳即正、五味克夫『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』平凡社、1998年
とあり,この時に作成された地図の部分はこの箇所だということになります。
(指差:引用者追記,博多浦)
伊能地図には久志本村と並ぶほど大きく記されます。ただし,戸数としては久志村全体の一割しかない。
なお,久志には江戸期に遠見番所が2箇所,鶴食崎と陣ケ岳に置かれてます[前掲坊津町1969,p.470-472]。遠見番所は坊津に1箇所(片浦北の高崎鼻付近。番所(本部)は津口番所,現・坊津歴史資料センター輝津館付近),秋目に1箇所(塩屋)設けられてます。久志はやや監視が強い。鶴食崎の位置が分からないけれど,陣ケ岳は上記伊能地図(右上)にあり,久志本村より博多浦を望見する位置です。
総合すると,「博多浦」は中世のある時点で出来た地名・集落・市場だけれど,江戸末期には字名に過ぎなくなっている。よく語られるように筑前「博多」を由来とするなら,主に戦国期です。それは「唐物崩れ」とその後の強い監視によると想像されます。
秋目久志vs泊坊津
終戦時点,秋目・久志は泊・坊津とともに「西南方村」を構成していたけれど,1953年に坊津村(ぼうのつむら)と名称変更,久志は同村の大字となります。けれどこれがすんなりとは行ったわけではなかったらしい。
村名変更に際して「坊津村」への名称変更を推進する坊と泊の住民に対して、秋目と久志の住民は「坊津以外であれば何でもよい」として反対した。この結果村議会で紛争し、最終的には村議会は坊泊と秋目久志に分村を議決する事態に発展した。分村が議決されたことに伴い西南方村は鹿児島県に対して分村申請書を提出したが、申請を受けた鹿児島県は坊泊は経済的に自立可能であるが、秋目と久志は経済的に自立不可能であるとして申請を認めなかった。その後1953年(昭和28年)に地域住民間の感情的な対立が解けたとして、村議会において村名の変更の件が議決された
[前掲wiki/久志,原典:前掲坊津町誌(下巻)p521]
ということは「博多浦は坊津の中でも特殊」というのは「坊泊側史観」であって,「秋目・久志史観」ではない可能性があります。秋目・久志は自身を坊泊と並立する別地域と捉え,あるいは捉えたいという意識を持ち続けてきたらしいのです。
このライバル意識が歴史的に何に由来するものかよく見極めにくい。でも,それが長期に渡る経済的対立の結果で,それが交易の分野のものだった可能性は否定できないと考えます。
坊津町誌(2)沖縄・蝦夷まで雄飛
坊津町誌は,ここを拠点とする交易網が沖縄や北海道まで広がったと書きます。
貿易は専ら大島・琉球方面と行い,南部松前,蝦夷あたりまで貿易品をさばき,貿易は俗に「からもん」といわれる陶器,漆器,砂糖などであった。「大国丸」・「明神丸」の船額が残っている。[前傾坊津町]
北海道方面との交易は,坊津と同じく俵物交易で財を成したとする説と合致します。
「専ら」琉球方面と書かれると,しかし唐人町の伝えとも,幕末には衰退していたという統計とも矛盾してきます。先の伊能地図の集落の大きさと人口の過小さの矛盾の捉え方として,こんな遠距離航海者の本拠ならば,定住人口を数えれば相当小さかったのでは,という可能性も捨てきれなくなります。
坊津町誌(3)今村←平尾←博多浦
博多浦の大問屋の一に挙げられる中村・重両家については,久志の現中心集落・今村*での,主に幕末以後の活動は多々伝わるけれど,それ以前は明瞭でない。
* 広泉寺周辺に両家の豪邸があったと伝えられる。西南の役直前に西郷隆盛が数ヶ月滞在,その書が数多く残されたと言われる。また役の戦費の多くは両家の負担とも伝えられる。
* 久志廣泉寺の県の重要文化財
URL:https://homer.pro.tok2.com/sub12-6-53(kousennji).html
思い出の紀行(坊津)<15久志湾へ3
URL:http://otsuji-housing.com/posts/post29.html
※回船問屋「中村家」について
大久志の中村家は代々の回船問屋で阪神方面にも手をのばし,手広くやっていた。大阪の中之島にも倉庫を持ち(これは住友倉庫の前進といわれる)羽ぶりを利かしていた。中村の娘が現在大阪に住んでおり,「大国丸」の船額がそこにある。[前傾坊津町]
中村家は久志の豪商の,いわば老舗であったらしい。広泉寺の講元を務め,今村の地域リーダー的な立場にあったと考えられます。
対する重家は新興で,江戸後期にのし上がった豪商。なぜか歌舞伎にもなっています。
※豪商重次兵衛について
次兵衛は安政年間,大島,琉球航路の海運業に活躍した海商である。昔時室町時代が全盛時代であったといわれる。子孫は重きよで鹿児島市に住んでいた。「泊じゃ小次郎,久志じゃ重の字,坊は舎で名をあげた」という唄がある。[前傾坊津町]
彼らが,どうやら久志の「勝ち組」だったようです。前掲「思い出の紀行」には,今村──中村家・重家の企業城下町──の前の時代に町の中心だった平尾について触れられていました。
途中、左手に砲台跡と言われてる場所には、幕末の頃大砲が据えられ外夷に備えられていたと言う。このあたりは平尾と言われる地区で、山手に向かっての人家は、昔、五十石どん(久木元家、小原家)と言われた家柄の人々の住まいがあったと言うことであった。
平尾→今村の重心移動が起こる前の時代に,博多浦が栄えていたのだとすれば,その性格も逆算で推測できそうです。
博多浦は「唐物崩れ」段階で一気に負け組になった中小の,あるいは中国外地系海商の拠点だったのではないでしょうか。
享保の一斉取り締まりは、自由に密貿易を行ってきた豪商たちの新たなる編成換えであり、薩摩藩の琉球貿易専売体制へ移行するための大支配であった。薩摩藩の専売体制への移行は、一部の大船持ちとの必然的結託を生じさせ、一部の豪商たちは、藩の御用船を勤めるかたわら時には密貿易商として幕末まで繁栄するのである。[前掲「思い出」]
画像:古色蒼然 厳島神社
博多浦で,宗教を見ませんでした。
これは後日訪れた天草・牛深*に似てる。久志本集落には幾らもあるのに,神社がない。寺は淳厚寺があったわけですけど,ここもどうも葬祭に特化してるようでした。
* m17f1m第十七波濤声mm熊本唐人通→牛深(起)withCOVID
なので,「国道下」(後掲)にあると聞いていた神社を探したんですけど……手がかりもありませんでした。そこで,前掲早水さんの撮影記録を掲げておきます。
凄まじいばかりの古び方です。
厳島神社は全国,特に西日本各地にかなり点在してます。日本神話の三女神を祀るので,近代に中興したところも多いでしょうけど──ここは明らかに違う。位置的にもおそらく最南端なのではないでしょうか?
他のヒットが一切ないので,存在する,ということ以外は分かりません。また,写真を見る限り,供物が多かったり増築された風はないけれど,程々に清掃などの手入れはしてあるようです。
厳島を奉ずる海人が,おそらく中世以前にいた証ではあるのでしょうけど──行けてないので全く想像不能です。
参考:「国道の下」の「アナ」
集落の南東・国道の下に唐人墓と伝わる祠(ほこら)と、その手前の「アナ」と称する地域に市杵島(いちきしま)神社(市の神)があります。
*※ 南さつまの観光案内/坊津の史跡②
URL:現閉鎖ページ
[再掲]
行程 ①聞恩堂→②唐人祠
凡例 ☑(前章)二才中
③入江
地図:結べないポイント
何度思い返しても……博多浦の地理的配置は他の日本の集落に類推できない奇妙なものでした。
冒頭に掲げた図を再度確認します。
何と言っても,この集落には中心とか軸になるものが全然見えません。現集落は淳厚寺への南北路地が軸ですけど,③港や②唐人祠の位置はそこからまるでズレてます。
③江籠譚という名は中国的な語感を感じさせますけど,この港が中心だったのならば,丘を隔てた東側に唐人町や淳厚寺の(おそらく)旧城砦があるのが解せない。
狭い範囲とは言え,てんでバラバラな原理で配置された点的事物が散らばってる。
往時の姿がどうにも想像できないのが,博多浦の現状なのです。どう衰退したら,こういう情景が形成されるものなのでしょうか?