

目録
❝前日❞「せどわ」徹底予習
前日熊本入り。
翌朝のプランは、次のようにかなり強引なのを立てていました。──牛深に宿が取れればベストだったんですけど、ダメだったので本渡からの日帰りを二日繰り返す計画です。
(0953 志柿→0957 瀬戸大橋→)
1000▽ 天草中央総合病院
※病院ロッカー無
1004 本渡BT §次発60分後
※コインロッカー無。事務所で16時まで預り可
1020 本渡BT
▽△↕ 間23分:エコホテルまで300m(5分×往復+手続5分+余裕8分)
1023△ 天草中央総合病院
1148 牛深港
1152 加世浦
1155 市民病院(終点)
§帰路最終1717牛深港
※牛深港隣接の道の駅 うしぶか海彩館にコインロッカー有(電話確認済)。漁業史資料館併設。
途中に好都合なコインロッカーがない。荷物を下ろしてバスに飛び乗る時間設定が、かなりキツいんですけど……何とかならなきゃリュック担いで「せどわ」突入!!──はあまりに怪しいので避けたいけれど、まあそんな覚悟でした。
天草南端 カエデの町
前日、せどわ集落のアタリをつけようと、沖縄X手法で改めて地図を凝視してみました。
その時の素材が──以下3枚の画像になります。
山で仕切られた3集落が、カエデのような格好で連っています。GM.や地理院地図上はそれぞれの小字名などの地名がないので──便宜上、東から南、つまり湾に沿って一番~三番と仮称することにして、それぞれについて見ていくことにしました。その時の事前地図上訪問は次々章に再掲しますけど──なかなか的を得てました。読者の皆様、なかんづく路地裏マニアの同好者様は、先ずは自前でこの三枚の地図を同様にチェックしてお楽しみ頂ければ──。
※ m17f3m第十七波濤声mm熊本唐人通→牛深(転)withCOVID/熊本県
012-3唐人通→牛深\天草\熊本県
❝第一日❞ 熊本→本渡←→牛深
「本渡」は「ほんど」と読むそうです。「ほんわたし」とずっと言ってたから、バスターミナルの案内では通じにくかったらしい。初手からダメダメです。
0721。既に結構待ち客がいる熊本桜町バスセンター5番バス乗場に立ちました。
地階だけどビル屋内深くにある現代的なBTで、空がない。台湾やアメリカのBTみたいです。こういうBTからは外へ出た際の解放感が、好い。
この川を人力で切り取ったのか?
定刻0730、産交バス「天草・本渡バスセンター行き快速あまくさ号」出走。
曙光に染まる火の国の街。
次は熊本駅?へえ駅も止まるんだ、全然街中走るやん!
0743、坪井川沿い。大きくはないけどやはり幅20m近い。確かに……江戸期、これを白川から機械力なしに人工で分離するのは、誠に難工事だったろう。
0745、白川渡る。こう見ると天井川なのがよく分かる。河川流域の幅に比べ流量も少ない。機械で全流域を掘り下げるのは現代でもとてつもない大工事でしょう。長期的な有効な展望はあるんだろか?
熊本市の図書館では天草の地誌を見つけれなかったけれど、諸論文の参考文献に、本渡辺りのは「五和町史」という書籍があると書かれてました。五和町は2006年に広域合併して天草市になってる。この時に牛深からは「牛深市」が合併してるけれど、「牛深史」は名前を見ません。
地誌はないのでしょうか?書こうと思う人がいないのでしょうか?
ついでにヒットした。牛深を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「藍より青く」というのが昭和47年に放映されてる。山田太一脚本。
拝んだら「海に出れば?」と叱る神
え?
今、高知・中村編で大変参考になった「港別みなと文化アーカイブス」に「牛深港」がヒットしました!山下義満さんの著です。「牛深港の『みなとの文化』」〔後掲山下〕 。
バス車内で、当面の関係記述だけ抜いてみています。
(3)物資の流通
前述した岡郷の西岸から船津郷の東岸の湾が回船問屋の集中区(図1参照→引用者注:前掲図)で、多くの回船問屋が軒を並べていた。屋号には大阪屋・湯浅屋など島外出身者により形成された商家も多く、廻船で大いに潤う。〔後掲山下〕
──これを読んだバス車内では「せどわに問屋?」と勘違いしてたけど、「岡郷の西岸から船津郷の東岸の湾」というのはつまり、
(加世浦・真浦
:漁民集落)
から見て東側の
□岬部
(船津・岡
:商人地区)
──という対照的な位置関係になるということです。廻船は後者に入り、この地区に蔵が並んでいたともある。
もう一点、これは探訪後も大きな疑問になっている「せどわ」の宗教景観です。
(4)信仰
恵比寿信仰・金毘羅信仰など「みなと」であるため、海に関与するものが多く存在する。
各漁村にはこれらの神社が存在する。舟津郷はムラエビス(写真9参照)として多くの漁民の信仰の対象になり、旧暦10月15日を祭事とし、その形式は船主の胴元輪番制であった。祭事を執り行う胴元は漁網の素材が植物繊維時代、良場の網干し場権利を与えられる。
しかし、この牛深で課題となるのは、舟津郷に見られていたことであるが、家に神棚が存在せず、また荒神など他の信仰はほとんど確認が困難である。仏教に対して信仰は厚いが、これに対して神宗にはこの熱意がみられない。ある漁民が大漁を念じて、ムラエビスに願いを行ったところ、「オイ(私)に頼む暇 があったら、さっさと海に出ろ」とムラエビスに叱られたという逸話もある。
漁民の大半は浄土真宗で、村々では講を組織し老人は若い漁民を仏門で社会的に導こうとした。また講には積立金をなす仕組みがあり、これを講銀と呼称し講員の船舶建造の資金とした。
(略)天草はキリシタンの島であるが、このキリシタンについては天草諸島中央~北方が中心で牛深では不明な点も多く、これも郷土研究の課題の一つになっている。 〔後掲山下〕
「写真集牛深今昔」 (吉川茂文 2001)という書籍も存在する。──と当時はそちらに惹かれてますけど……以下であまり触れない点を二点。
一つは、牛深の宗教色の薄さは極秘色の極端に強いキリシタン集落だったから、という仮定も成り立たなくはないこと。例えば中ニ階が「隠し教会」だったら、理解は至極簡単です。もちろん根拠はありません……。
明22 久玉の夜に閃々たる烟火
もう一つ、「講金」は、機能だけを聞くと沖縄の「もやい」(模合)に極めて近いけれど、この呼び名は人吉球磨地方独特のものらしい。「今から、こうぎんへ行ってくる」〔後掲小春日和の朝〕といった言い方をこの地方ではするみたいで、感覚はやはり沖縄模合に聞こえます。
(8)人物
江戸期に問屋として財をなした萬屋は天草の豪商を織り交ぜた古謡の中にも登場し、13代当主「宇良田玄彰」は幕末期、薩摩の志士たちとの交流もあった。維新後は東京で「憂国議事新聞」の発行を主催し、明治16年には鹿児島県屋久島での牛深漁民の飛魚漁の漁業権交渉に成功している。この「宇良田玄彰」の次女に明治期の日本女医草創期の「宇良田タダ」がいる。日本初の女医ドイツ留学者にして日本初女医のドクトルとなる。 〔後掲山下〕
この萬屋親娘の幕末噺は、多彩過ぎて目が回りそうです。よく書かれる北里柴三郎弟子から医学に生きた娘・タダ(唯)に比べ、父・玄彰の生涯はやや陰に隠れてますけど……。
明治22(1890)年9月14日に天草郡町山口村劇場※で開催された天草公同会大懇親会、天草のその夜。新聞記事を真に受けるならば、さながら革命前夜の相を呈したようです。
※現在位置不詳
亦午後四時半頃よりは、兼て用意し置きたる烟火を打揚け、十時頃までに五六拾本を続発し、黄昏の刻に至れは公同会本部を始め、長崎県同好会の旅宿及ひ各村より来会者の旅宿所拾余戸の屋上に紅灯を連点したりけれは、晃々たる灯光は閃々たる烟火の光と相決して満地の市街を照し、爆然たる烟筒の響は市民喝采の声と相応し、実に賑々敷事なりし。
蓋し如斯盛会は天草ありてより以来未曾有の事なり。〔明治二十二年民定憲法要求◇「熊本新聞」明治二十二年九月十九日付←後掲天草深見〕
噂によれば生誕400年
海に出ました。0845。
右手海上に陵線のゴツゴツした高い山を持つ島。──とぼんやり書いてるのは、雲仙普賢岳だったみたい。
0852、三角西港前。さらに五橋入口。ここから大矢野島、上天草に属す島に入ることになる。隣のオバハンが「はい渡りま~す🖤」……と誰も頼んでないのにアナウンス。
山並みと海面との高低差がかなりある。天草上島側の東北の眺望地・千巌山の標高は162m、ただし北東海岸線から約700mです。
浦々の様相はこの高さと垂直の湾曲に彩られます。集落の配置も、極めて多様です。パターンが読めません。
美しい。
天草四郎ミュージアム過ぐ。0909。
「天草四郎生誕400年」の幟に小さく「噂によれば」と注記あり。
バス停さんぱーる。ここが観光的な中心、あるいはそうしようとしている場所らしい。最近できた雰囲気。この集落はかなり現代的ですけど、それでも時折ハッとするような神社や水路の姿がある。
バス停「二号橋」。0921。
「ハイヤのふるさと牛深へ」という看板を初めて見る。
橋を渡り前島町。さらに大きな橋。
島の様相が変わった。箱庭のような低い山と島が次々に現れる。
0929、バス停松島。温泉が出てる。3分時間合わせで停止、遅れてはいないらしい。前方に空港表示。産交バス乗場もあり中心集落みたい。
「おおおっ一杯じゃなあ~」と老人が座ってくる。
0938、知十。どうやったら出来る地名?
崖のような山が増えた?岩質が変わったか?
永禄八年志柿に動き候 六人打死
〇948、バス停・須子(すじ→GM.)。──語感からして古い。1212(建暦2)年の史料に地名記載あり。
建暦2年8月22日の関東下文案(志岐文書/県史料中世4)によれば、元久2年7月19日の下文に任せて藤原(志岐)光弘を「佐伊津沢張・鬼池・牟田・大浦・須志浦・志木浦〈已上六ケ浦〉」の地頭職に補任することが、天草郡内六ケ浦住人に命じられている。〔角川日本地名大辞典/須志浦(中世)〕
〇951、海が広がった。本渡15km、牛深55km表示。
0952、バス停・下津江四郎ケ浜ビーチ。「道の駅→有明」看板。松島有明道路のIC有。
10時ジャスト、バス停・小島子(こしまご→GM.)。──やはり古い地名。ただ史料初出は1564(永禄7)年で、須子よりは三百年も新しい。
「八代日記」永禄7年6月27日条に「上津浦ヨリ小島子・下砥岐天草殿ヨリ御去進られ候間、今日知行之由、七月五日ニ八代ニ注進」とあり、当地は上津浦氏の領内となった。天正年間と推定される年未詳11月11日の天草鎮尚書状(相良家文書/大日古5‐2)には、「仍就小島子之儀、志岐方江、以捴持院被仰遣候哉」とあり、当地について相良・天草・志岐各氏の間で交渉があったことが知られる。〔角川日本地名大辞典/小島子(中世)〕
1003、志柿(→GM.)。──角川によると、舟江の岬に中世の志柿城跡、江川と間伏の間の岬に支城跡がある。次の経緯からも、要地だったらしい。
応安3年9月12日の足利将軍(義詮)家下文(詫摩文書/県史料中世5)によれば、詫磨太郎左衛門尉貞宗に対して、勲功の賞として「肥後国志加木村〈志加木太郎跡〉」が宛行われている。下って、応永6年3月5日の氏範施行状(同前)によれば、鳥羽左京・宮河中務丞に対して、「肥後国六ケ庄内志那子・桑原・安永三ケ村、鹿子木庄内小河伊豆三郎跡、并成吉名波多村、菊池郡内巻河加江村、天草郡内島子・志加木両村等」を去年10月13日の御教書の旨に任せて、下地を詫磨別当方代官に打ち渡すよう命じている。南北朝期に当村を支配していた志加木太郎に代わって、詫磨氏の支配下に入ったことが知られる。戦国期には地名として「志柿」と見える。「八代日記」天文20年12月14日条に「志柿之事」とあり、また同日記の永禄8年7月9日条には「天草・大矢野・上津浦三人ニテ志柿ニ動候、栖本衆ト上津浦衆ト合戦、上津浦衆六人打死」と見え、当地は上津浦氏と栖本氏の交戦の地となっている。〔角川日本地名大辞典/志加木村(中世)〕
ありゃ?そりゃそうと──
ドロップ・アンド・ゴー
遅れてないか、バス?
ホテルへの荷置きは断念する気になったけど、そもそも1020牛深行きに乗れるのか?
おそらく遅れは10分と見る。
1006、次バス停・瀬戸大橋表示が出たけどここで──まさかの渋滞??
橋の入口らしい。かなり長いぞ!
1012、本渡市街が見えた。面積的にはかなりの規模に見えるけど……高いビルは数棟か。
1016。1020牛深便を諦めて再プランを組んでみる……何とか帰路便はありそうじゃ!一時間遅らせるか!
──ならば事は単純かつ無理が無くなる、牛深からの帰路便以外は。病院下車→ホテル荷置きでよい。
1020。予定のバスはもう出たはず。バス停・瀬戸大橋──広島-愛媛間の「せとおおはし」と違って、アナウンスによると「せどおおはし」と濁るらしい。
1025、天草中央総合病院前で下車。何と!このバス停は、橋の上じゃないか!
ホテルに荷を置き、休まず再びバス停へ。
郊外型店舗が幾つかあるエリアでした。何とネカフェ(自遊空間)もある!コンビニも2つ、風情はともかく……まず不自由なく過ごせそう。
バス停近くのお店・海老の宮川をチェックすると、本日木曜夜は休み、明日金曜は夜も営業するらしい。17時開店。
天草の海と空に融ける色
斯くして11時、橋の上のバス停で待つ。空の黒雲は消えてきた。橋上につき振動はあれど、潮風が心地好い。この川の岸の石垣も、下部はまずまず古そうに見えます。
1118。下田温泉行きバスにやんちゃそうな高校生2人が乗る。……そうか、天草には温泉はポツポツあるんだよなあ。普通の旅行なら行くんだけどなあ。
やや遅れて1125、牛深市民病院行き乗車。牛深44km、下田温泉21kmと道路表示。明亀橋交差点。「亀」地名が多い。
食堂まる九。
K’s、青山、はるやまと外資店舗が続く。バス停・友尻。だからどんな由来だ?
天草地域医療センター。「全面面会禁止」と大横断幕。
イオン天草ショッピングセンター。かなりデカいし駐車場は満車、ここから南に帰る人がこれだけいるということは……。
バス停・食場(めしば)。由来は簡単そう。
水田。大地の凹凸の掘りが深い。と思えばふいに神社。好い大地です。
バス停・栌宇土(かきうど)。角川にヒットがない。
1143。トンネルをくぐりバス停・道目木(どうめき)。同・海老宇土(えびうと)。道路直下に池。
下田温泉表示が右へ分岐。そちらへ崎津という集落があると案内看板。潜伏キリシタン関係の世界遺産。へえ~、そうなん?
1152、豆木場。弛い下り坂になった。
R266のさるかのさらんか
「のさりの島」全国公開中と手書き看板?「オレオレ詐欺の旅を続ける若い男が、熊本・天草の寂れた商店街に流れ着いた。」という北白川派の映画?2021.5公開?──今確認すると、富川国際ファンタスティック映画祭でワールドファンタスティックブルーという賞を取ってる?
北白川派のプロジェクト、つまり京都芸術大学映画学科とプロスタッフの共同制作らしい。ミニシアター系では異例の大ヒットとなった前作「嵐電」に続くもの。監督の山本起也さんは京都芸術大学映画学科教授。──脚本作り段階で、学生は天草の歴史調査から地元へのヒアリングまでやってます。
“のさり” とは、熊本・天草に古くからある言葉。 “自分の今あるすべての境遇は、良いことも悪いことも天からの授かりものとして否定せずに受け入れる” という意味を持つ。〔後掲瓜生通信〕
単なる運不運にも使うけれど、語感は少し違うらしい。運命とも「業」とも異なり、主体を絶し他律的な感覚みたいです。
・漁師が漁に出て、「のさったー」(大漁だった)、「のさらんじゃった」(不漁だった)
・杉本栄子※「水俣病はわたしののさりだ」
〔後掲光村図書〕※1939(昭和14)年生。74年水俣病患者認定。2008年没。
・「今日、ランチを食べに行ったら急にキャンセルが出たらしくて、5千円の定食を千円で食べさせてくれた。のさった〜!」
・「うちの息子が大学の入試で失敗した。あれだけ頑張ってたけど、まぁ、これものさりだね」〔後掲湯道文化振興会〕
映画を機に「発見」された形の、「腹を据えた受動」とでも言うべきこの独自の感性は、倫理的に紹介されることが多い。けれど本稿では、なぜそれがこの地域に存在するか?という点に着目しておきたいのです。
キリスト教に由来する、という考え方は合理的だけれど、探す限りスペイン語やポルトガル語に近似音はみつかりません。
一方で、一部に、「のさり」は漁師言葉であるとの紹介があります。
熊本の漁師言葉には「のさり」というものがある。「自分が求めなくても天の恵みを授かった」という意味を持つ。〔後掲戸井田〕
南九州でのさいがよかかのさんか
では、この方言がどの程度に地域的広がりを持っているかを調べてみると──南九州沿海一円にあるようでした。(【括弧】は引用者追記)
【菊池】「のさる」→自分の取り分がある→「あたはきのんだごはのさったな?」〔後掲菊池方言集〕
【鹿児島】のさっ(のさい)
意味:幸運に恵まれる。運命。授かりもの。
由来/語源:「乗る」「乗せる」が由来です。時代の寵児と言われる人を、「乗りに乗ってる。」と表現するのと、同じ発想です。
用例:のさいがよか。(運がいい。)ふいのさっ(運に恵まれる。)〔後掲鹿児島弁ネット辞典〕
【鹿児島】のさん 〔サブレぐゎん〕:辛い 疲れる 気が重い 大変な
〔後掲鹿児島の方言集〕
【内之浦】のさる のさった:〔やっとかめ〕
ついてる ラッキー
のさっ(のさる?) :ツイてる。恵まれている。「良か嫁じょを貰ろてのさっちょったね」
のさん :だるい。疲れた。類似語「てせ」
〔後掲ふるさと内之浦〕
【宮崎】のさる:運の良い。授かる。ex.のさっちょるひとは、よかなー(運のいい人は良いな)〔goo辞書/のさる (宮崎の方言)〕
これらから推測すると、①先に触れた漁民≒海民表現との推定は、確定は無理にせよ蓋然性が高いようです。
②語感の軽度・重度(受動的宿命の色彩)には、①沿海域にもかなり差があるようです。特に鹿児島の場合は「せり」(←勢力)の影響もあるかもしれないけれど、「のせった」は「ノリノリである」といった感覚であなり軽い。内之浦や宮崎の方に「授かった」感じがあるのは、古い、熊本類似の語感の残存が窺われます。
総じて言えば──南九州沿海の海民の相当に古い感覚を残存する言葉、と思えます。この広域に海外からの影響があったとは考えにくいので、重ねてですけど外来語ではなく土着色が強いと思われます。
そう考えていくと、菊池の「分け前」感覚は興味深い。海民の漁獲作業は多くの時代、共同作業だったでしょう。その際の自分の「取り分」の多少は総パイの大きさ、作業者集団内での自分の優位性など様々な変数が絡み、授かれる量は(農耕陸民に比べ)推し難いものだったでしょう。
こうした自己の努力と獲得量の独立変数性、のような感覚が「のせり」なのではないでしょうか。
──とか深入りしてるうち、バスはどんどこ南へと。バ……バス停・中岳?
火山なのか?
次が日陰(ひかげ)。いよいよ怪しい(?)。
美縄(びなわ)って……ええっ?怪しさの方向性が変わってきた?
立原トンネル。これを出ると一気に下り始めました。
この道は国道266号線と道路表示。ええッこれ国道なの?!
バス停・村迫。「迫」地名も何度も聞きます。
正午を回ってバス停・帯取(おびとり)。取るな取るなこんなとこで。
十の原(じゅうのはら)。
一の瀬。漢数字シリーズなのか?
真っ黒になったおじいちゃんが交通整理してる片側車線から……右折?バス停・平床(ひらとこ)……拾っとこう?
一町田中央のサンタクロース
1212、初めての大きな集落、河浦。浦があるとは見えない風情ですけど、表示によると城があるという。──角川にわずかに次の情報がありました。
天草下島南部、葛(つづら)川流域に位置する。古くは河内浦と称したが転じて河浦となったという。〔角川日本地名大辞典/河浦〕
バス停・一町田中央。町案内図をなぜか季節外れのサンタさんが指差しとる。
運ちゃんが「時間調整です」とバスを止めてタバコを吸っとる。
一町田変電所を過ぎる。水量のある川沿いに下ってます。1219T字路、右は天草町と表示。そちらが崎津らしい。左折。
「木馬」という喫茶店。ばっ……化け物か。バス停・天草市立河浦病院前。潰れた丸干ラーメン。
1223、牛深17km表示。
1225、水の浦。やはり船に関係してるらしい。バス停・主留、これもだろう。同・古江、地名は久留。路木の後、早浦橋。さらに女淵(おなぶち)。
あと10km表示が出たけど……車窓は全然山の中です。住所は久玉町になってるのに。
1233、牛深火葬場表示を過ぐ。「ハイヤのふるさと牛深へようこそ」看板。
ふいに集落が現れる。バス停・牛深温泉前?そんなんあんねんな。
中華料理・紅蘭の看板。バス停・無量寺のアナウンス後、一気に急坂下る。その先に港が見えてくる。
1250、牛深港下車。
ロ……ロッカーないやんけ!
いやいや、よく探しますとバス乗場の中に20ほどありました。
「海の家」附設の資料展示室が「江戸時代牛深村の廻船問屋 脇津屋の宝展」というのに惹かれつつ、町へ。
確実に中華屋が多い。海の家の二階の飯屋も十分魅力的だったけど、やはり中華とする。とはいえチョイスは観光客になってしまいました。
1301紅蘭
太平燕 484
まずまずの「当店自慢」を完食しまして西へ向き、まずはタバコ吹きつつ地図チェック。
五足の靴に芬々たる異臭
1331、坂東魚類下のT字をまず右折。
今津屋本店跡の白杭。1907(明治40)年に与謝野鉄幹、北原白秋らが宿泊。
この年、雑誌「明星」主宰・与謝野鉄幹(当時35歳)は同誌出版社・新詩社の同人四人の学生と西九州を旅行し、「五足の靴」紀行を残す。学生たちは22歳前後だったけれど、これが北原白秋(当時22歳)・木下杢太郎・平野万里・吉井勇という後日名を成す巨星ばかり。
執筆者は「五人づれ」、誰がどのパートを書いたか不明。木下杢太郎による事前調査からは、南蛮文化の遺産やキリシタンへの興味が窺え、実際旅行後の五人の作風は南蛮趣味の傾向を帯びたと言われます。
旅行は白秋実家の柳川を起点に反時計回り、牛深には崎津(先述の世界遺産・隠れキリシタンの里)から船で入って一泊、翌日には三角港に渡航。
この旅程からも下記記述からも、五足は牛深をさほど愉しんでないし、あまりよい旅行者とは感じないけれど──とにかく当時の貴重な紀行を残してます。
夜街を散歩して漁師町の芬々(ふんぷん)たる異臭、はた暗い海浜を通って、終に土地の遊女町に出た。ただ三軒のみで、暗き灯、疎なる垣、転(うた)た荒涼の感に堪えなかった。上の家に桔槹(はねつるべ※)の音が聞こえて、足下に蟋蟀(こおろぎ)が鳴くなどは真に寂しい。〔「五足の靴」第13章←後掲古今東西舎〕
つるべが音を立てているのは、女衒が機能を停止していなかったからでしょう。その前の「漁師町の芬々たる異臭」は、宿・今津屋と遊興地の位置関係からして、おそらく我が目的地「せどわ」です。そこに遅くとも明治末年までは、生活臭があったことになる。
漁民たちは木材を持ち帰って使用しました
「おしゃれ衣料ヤマサキ」のT字を左折西行。1338。
港奥。岸壁の石段が磨耗して残る。バス停・睦橋。ここまで来ると、車や人の通行が嫌に少なくなります。
1346「coop牛深食彩館」。道は右へ大きく湾曲。歩速を落とす。
1350。天草市消防団牛深方面隊の建物へ右折。行き止まりにしか見えないけれど……(→GM.∶地点)
平野成政碑。
延享元年(1744)、牛深沖に多数の木材が漂流していたため、漁民たちはこの木材を持ち帰って使用しました。後日、その木材は全焼した江戸屋敷の新築用材として島津藩が輸送中だったものということがわかりました。その当時の遠見番見張役だった平野成政がすぐにその責任を負って職を辞したため、多くの漁民は罪に問われませんでした。〔案内板:指定年月日昭55.4.1天草市教委〕
……とメモってる間に背中を二台車が通る。隠れたメインロードらしい。
この案内板前のものは井戸に見えます。
ところで──今この文面を読み返すと、色々と怪しい。「漁民たちはこの木材を持ち帰って使用しました」って……そんな木材が海に当然に浮かんでるわけもない。何に「使用」したんでしょう?
その木材が裏経済の支配者・島津のものと……ホントに後で分かったのでしょうか?さらにその始末に、なぜ木材を盗ってない平野さんが辞めるのでしょう?辞職はホントに本人意志でしょうか?──などと考えると、当時の薩摩-漁民-遠見番の力学が透けて見えそうなエピソードです。要するにこの碑は「平野さんゴメン」という鎮魂碑なのでは?
1357、左折西行。いきなり道はくねり始めました。
幅約2m。
地図ではむしろ「せどわ」のメインルートです。これがこの位に曲がってる。
ただ家屋は新しい。その落差が魅力的です。
家の間も、これは本来道なのでしょう。
この後注目することになる側溝が、メインの道をまたいで路地沿いに流れているからです。
海への小さな排水路。1401。
上二枚は、山手から海へ伸びる側溝の一部になります。これと道の配置を考えると、この側溝は家が建て込んだ後で、家屋の隙間伝いに掘った感じです。
1410、三叉路。直進。道いよいよ細まる。
上の写真だと幅は約1m。
幅だけなら、かつて揚州で通った道ほどじゃないぜ、チッチッチとか言いながら(言ってないけど)ずんずん進んでいきますと──
先行き怪しい お前が怪しい
う〜む。先行き怪しくなってきた。というか、こんなことしてるワシが一番怪しいんだけど、幸い住民とすれ違うことがない。まあ逆に道も訊けずに進みますと──
出れなかった!というか、完全に家の隙間になって潰えてる……。
1413。T字に戻り改めて左折。すると右手に路地。この道の感じは……おそらく現在位置は、昨日地図上でたどった一番U字地点に東から入った場所だと思う。──何となく西から入ったつもりでいて混乱したみたいです。
だから……こっちが一番集落最奥への方向のはず、右折。──何書いてるのか分からなくなってきました。現在位置は下記図参照。
因みに──何でスマホで位置情報見ないの?と思った方に今後のためご注進。
長崎・佐世保でも同じですけど──細かい路地の中では位置情報の精度の低下に加え、隣の道や分岐が直線距離では数m程度で密着してるので、大まかにしか信用できなくなります。まして、上記のように地図にない道(と誤認される隙間)が存在してる場合、位置情報を完全に信用すると迷います。この時にも位置情報を使ってはいるのです……トホホ。
一番最奥パティオ
真っすぐ進むと、「避難場所」と書かれた矢印で道が右に曲がって途絶える。1410。──でもこれで道のカタチが地図と合致しました。
鈎曲がりで右手東に途絶えるこの地点が、一番の最奥です。
さて沖縄Xで事前にここを見た時、家屋の隙間があるように感じ、かつてはパティオがあったのではないかと想定していました。
確認ですけど、根拠は地図のカタチだけです。他に根拠はありません。
ただ、想定地の東側の家屋三棟の筆は、他に比べ嫌に方形で、これと家の隙間を合わせると平たい正方形区画に見えます。これは一棟の大きな屋敷の筆が分筆されたものではないか──と疑ったのです。
北に回りこみ、金網越しに当該地を覗いてみます。
崖下の家の隙間には、今は菜園のようになってる方形の空き地があります。その下にさらに段差があるらしく見えますけど、段差下の面がどの位広いのかは視認できませんでした。
右手の崖下道を辿ってみると、実際には途絶えてない。進むと右折してます。でもその先で、これは明らかに遮断されて途切れてました。──この遮断ラインが正方形想定地の境界……と想定できなくもありませんけど──決め手としては不足します。
集落図を見てお分かりのとおり、現「せどわ」には大邸宅地はありません。それがかつて集落最奥にあったとすれば、何者かの何事かの機能を果たした可能性を感じたんですけど……。
1426、引き返す。
一番西細路地の祠の不審
U字までの途中、西への細道を見つけました。
地図にはない道です。
大まかには、続いて西隣の二番集落を目指してましたけど……地形的にも通り抜けられるとは思えません。
思えませんけど……俄然、右折する。1428。
案の定、すぐに途絶えてました。……というか庭に道が溶けてる感じ?
住民からすると、不審者以外の何者でもないですけど──まあ人影がないので。
袋小路地点にはコンクリートが重ね塗りしてあり、暗きょの水路があったように見えます。元は通れたと思うけれどこれも広場で終わってる。いや?──
この広場の真ん中にあるのは、古井戸です。
文字がある。「真浦區 大正11年……」の先は黴で読めません。
さらに。この右手にあるのは──
祠?
石面に文字。痕跡はあるけれど(素人には)読めない文字。
おばあちゃんが出てこられた。まず間違いなく不審者と疑われたと思われるので、挨拶がてらコレは何?と訊いたら、「昔何かを引いた」と聞くけどよく知りませんとのこと。……だから早く帰ってね、という事かと思いきや、意外にニコヤカな対応に転じたのでもう少し腰を据えて観察をば。
方柱だけれど上が少しだけ尖っている。右手に小さな添え石あり。長崎の墓なら「土神」の位置です。墓とも祠とも錨石の移設とも断じ難い不思議な石くれに、長居するほど途方に暮れる「せどわ」の昼下がりでした。
■レポ①:プレ牛深・久玉の残像群
久玉は現・牛深集落の東半分、牛深港の一つ東の港です。
ただ、この港の西の岬辺り、牛深港と現・久玉港の間が、古久玉と呼ばれる旧集落でした。明治頃までは、むしろ久玉・牛深の全体で見れば中心地だったようです。
バスの景観と地図情報から見てどうにも歩く場所が決めにくく、かつ時間もなくなったので──と言い訳はいい言い訳は!!なので、以下は後に牛深海の駅の資料展示室で見た内容です。けれど、これだけのとっかかり情報ですら、久玉がいかに謎深い場所かの輪郭は浮かんできます。
[地名]最初に久玉ありき
そもそも、この天草最南端部の呼称に「牛深」を使うようになったのは、江戸期に入ってかなり経ってかららしい。
これまで云われてきた「大之波可」を「うしぶか」と呼ぶことは語学的に困難であるが、海に関与した地名ではあろう。古地図には中世の豪族「久玉氏」の居住地に久玉と記載されているだけで、江戸期の古地図に牛深は「潮深」との記載もある。
※ 山下義満「牛深港の『みなとの文化』」
「大之波可」「潮深」と併せ「久玉」と、この地は呼ばれてきたということになります。前二者は意味不明ですけれど、何となく航海者の視点のように思えます。波が荒く、水深のある場所、という海図に書かれる注釈のような記述です。
牛深の地名の漢字が定まるのは、早く見ても17C後半です。
とすると、この場所の地名は近世初めまでは間違いなく「久玉」だった、と考えるのが自然に思えます。
[古代]久玉社の広域分布
史料上は、1501(明応10)年の年紀のある年月日未詳の天草一揆談合覚書(志岐文書/県史料中世4)に、志岐氏の所領牟田での天草の一揆衆の参会記事かあり、その参加者名に「自久玉者名代広瀬膳左衛門方」があります〔角川日本地名大辞典/久玉(中世)〕。
ただ「久玉神社」という神社群の分布を見ると、久玉の地名又は勢力名は古代に遡るという推測もあるらしい。
■久玉神社分布
鹿児島県には久玉神社、または興玉神社が多数分布している。その事は隼人の乱後、大和朝廷の力が猿田彦大神を祭る信仰とともに、隼人の地に及ぶことになったのにともない、広められていった足跡と考えられないだろうか。[牛深資料室展示]
隼人と天皇家の出自との関わりの可能性については、前に一度掘り下げました(→m17e@m第十七波余波mm阿多【特論2】隼人東征)。その隼人の一方の雄とされる阿多隼人の土地に、この牛深の中心集落地名と同名の社がこれだけの数ある。
──久玉(興玉)神社はGM.などの上ではそれほどヒットしない。上記(ピンボケ)久玉(興玉)神社の出典や検索方法を是非とも把握したいけれど……対して地名「久玉」を角川日本地名大辞典で引くと、それは熊本天草のみにしかありません。
※同じく地名「興玉」は宮崎県のみ。
天草を起点とする海人の活動域が隼人一円に及んでいた、あるいはさらに進めて、隼人が天草から薩摩域で活動していた海人そのものだった、天皇家はその中から出てきた──という絵も描ける可能性もあるだけに、この論点は非常に惜しい。
隼人が夷狄であること、隼人が天皇と同祖であること、天皇家が「蕃夷の地」に出自を持つことは、禹という「偉大なる聖帝」の類例が中国にあるため、異とするには及ぶまい。
※後掲 原口耕一郎「『日向神話』の隼人像」名古屋市立大学大学院人間文化研究科「人間文化研究」抜粋 23号,2015年
初手から話を広げ過ぎました。そこまで射程を伸ばさなくても、久玉はかなり古く、広域な影響力を持った何か重要な土地だった可能性を秘める場所のようなのです。
[古代~中世]西を睨む海城・久玉城
14世紀後半/
河内浦城主天草大夫資種,久玉城を築城する[牛深資料室年表]
との展示の文字に驚きます。ここに城?
でもこれは次のように天草市の文化財筋も書いてますし、何より遺構があるらしい。現牛深市街から少し隔ててるようで、足を伸ばせませんでしたけど……。
玉城跡は、天草下島の南端に築城された城郭です。権現山の南山裾の尾根の末端にある、古くから「城山」と呼ばれる海抜47mの丘陵に築かれており、久玉浦を一望できる位置にあります。
丘陵北側の堀切(水路)を北端とすると、主軸の長さは235mで、幅は150mにもなります。
最高所にある曲輪の北側には堀切と土塁が設けられ、中世城的特徴をもつ一方で、南を正面とする曲輪のみ近世石垣で囲われています。それらの石垣は長さ45m、高さ5mにもおよぶ大規模なものとなっています。
※後掲 久玉城跡 / 天草市
1569(永禄12)年にキリスト教布教絡みで久玉城が争奪された記事が、一級史料・フロイス「日本史」にあります。
フロイスの「日本史」によれば、永禄12年天草鎮尚がアルメイダを招いてキリシタン布教を認めた時、弟の天草大和守と同刑部大輔がこれに反対し、久玉城を占領、鎮尚を本拠河内浦から追ったが、鎮尚は志岐麟泉の援助でこれらを奪回し、弟らは薩摩の出水(いずみ)から島津勢の援軍を得ていたものの、結局没落したとあり、この段階で久玉城には天草氏の城代が派遣され、久玉氏は没落している。〔角川日本地名大辞典/久玉城〕
久玉城の城名は元は久玉氏の支配下にあったことから、と考えるのが自然でしょう。だから、1569年以前に既に一定程度長い歴史を久玉城は持っていた、と考えるのもまた自然でしょう。
なぜここに中世から城があるのか?
繰り返しになりますけど、牛深が商業や漁業で栄えるのは一般に江戸期以降とされます。なぜ戦国以前からここに城があるのか──という点について、牛深資料室展示は2説を掲げてました。
古代久玉柵城/
牛深市内の「久玉」は古くから「玖玉」「玖珠」と書かれていた例があります。その地名の由来は「古くは王の地」という意味があり、久玉が隼人の乱鎮圧のための大和大王の拠点の1つとして、重要な役割を果たしていたと考えられます。[同室展示]
上説は前記の延長で「古代から要地・拠点だったから」とするもの。「旧き王の地」とはひょっとしたら天皇家出自を意味するかもしれない──という話はとりとめないから深入りしないとしまして──。
今一つの説は、西からの外敵を意識した、とするもの。ここに例の「甑島沖2百艘」の奇怪な話が出てきています。書き方からしてそれと築城との因果関係は推測らしいけれど──
中世の海城 久玉城/
久玉城(現牛深市久玉)は天草七人衆の一人、久玉氏の居城で、14世紀後半の室町時代に築城されたもので、県内最古の海城と言われています。
久玉城の築城は外敵からの防衛が大きな理由となっていたと思われます。
1301年11月、この牛深の沖の甑島周辺に約200艘の正体不明の異国船が出没し、島津氏をはじめ、天草氏、菊地氏なども色めき立った事件が起こりました。(略)[前掲牛深資料室展示]
別記(→m176m第十七波余波mm照島/鹿児島県/広域地形と地質:冠岳と鉱脈)しましたけどこれはいわゆる「正安の蒙古襲来」説です。
けれどそこまで来るなら、もう一歩進んだ過激な説もあり得るように思います。以前、対馬の金田城(→009-3金田城(帰)\対馬\長崎県)について、金田城は一般に言うような日本側防衛拠点ではなくて、「在日唐朝軍基地」だったのでは?と見ました。古代・中世の天草がヤマト中央の十分把握していない土地だったと考えるなら──元朝そのものではなくとも、中国系海民が既に進駐した土地、つまりトウボウ(唐坊)に相当するものが久玉の原型だったと想定することもできます。──ただし久玉(くたま)の音にすら、トウボウはもちろん中国系のものとの類似を推定しにくい。
[近世初]久玉氏→天草氏→キリシタン→唐津藩
ではこの久玉城の主は誰だったのか?という点も、これまたどうにもあやふやです。築城は久玉氏という地元勢力だったらしいけれど──
永禄12(1569)年ごろに、天草五人衆の天草氏の内輪揉めによる合戦が起きているため、そのころには天草氏の所有になっていたのではないかとされています。[前掲天草市]
正史上は、この天草氏が滅んだ後、一時寺沢氏(唐津藩)に移ってから天領(幕府領)に落ち着いています。ただし城の利用は天領時代にはないらしく、寺沢氏によるものが最後のようです。
その後、天草が慶長6(1601)年に唐津藩主寺澤廣高の飛び地領となった時に、再利用されました。[前掲天草市]
天草氏の滅んだ1590(天正17)年から、島原の乱を経て天領になる1641(寛永18)年までの50年までは、久玉においてもやや別の意味で激動の時代があったようです。
反キリシタン砦からキリシタン拠点へ
久玉氏は戦国時代の始めまで命脈を保ってきたけれど、1554(天文23)年に天草氏に吸収されます。その後、天草がキリシタン一色に染まる中、久玉城主だった天草刑部太夫が反キリシタン派を代表するようになったという。
1572~73年にキリシタンが久玉城に攻め寄せ、ついに落城。地元古老の伝に「久玉の殿さんは相良(熊本県)に逃げらした」と伝わるのは、庶民側の信徒集団が武家をも倒したという心地良い語りとしてなのでしょう。
16C末のポルトガル地図「日本図」※に、下図のとおり天草諸島の地名として唯一「Cutama」と書かれます〔後掲藪田〕。

天草はキリシタン一色になったものと思われるが、1590年ごろのポルトガルの「日本図」には、天草島の地名として唯一「Kutama」と書かれている。それを吉川さん※は、「久玉のみ反キリシタンの手強き所」を意味するのだろうと説く。真相はなお謎に包まれているというほかないが、キリスト教の布教が島内を分裂させ、双方の戦いを通じて、デモグラフィック・チェンジ※※が進行していたのは間違いない。〔後掲藪田〕
※※デモグラフィック・チェンジ:一般に「人口動態」。藪田は大規模な住民の世代交代の意で用いていると思われる。
このCutama記述の意味は議論があるらしく、上記のように非キリシタン勢力の最後の砦が久玉城だった、と捉える見方がやや優勢。展示室展示には僧兵も天草氏と共闘したとある。──ただ、それならイエズス会士がわざわざ地図に記すでしょうか?
反キリシタンの取手 久玉城/
仏教の荒廃を危惧した反キリシタンが、天草南部に僧侶とともに久玉城を拠点に戦いを起こしました。数年にわたる争いの末、キリシタン側の攻勢に久玉城は落城。[同室展示]
陥落後、おそらく城跡にでしょうか、レジデンシア(Residencia:スペイン語 住居)が置かれ、布教の「遅れた」牛深方面の拠点になっていたらしい。──この流れからすると、ポルトガルの地図に書かれた理由は久玉が一大布教拠点だったから、と考えるのが妥当に思えます。
1614年、長崎で事実上の初代代官・村山等安がキリシタン「暴動」を主導したことには既に触れました。かつ、それを封圧し切った親徳川の実力者・末次平蔵の存在が、長崎を江戸期開港四口の筆頭たらしめたのです。
1614年5月 中旬に行なわれたキリシタンの行進は、長崎代官村山等安夫妻を先頭に数千人が町を巡り、数万の信徒が沿道にたって祈った。〔後掲石橋〕
歴史が少し狂えば牛深が「長崎」になっていた……のかもしれません。
1580(天正8)/
七月、久玉にレジデンシア(キリスト教駐在所)を置く[同室展示]

「天正の天草合戦」という名の第一次ジェノサイド
牛深がキリシタン拠点化した戦国末期、天草は「五人衆」と呼ばれる武家の連合勢力が支配する姿になっていました。
豊臣秀吉が全国制覇を成し遂げつつあった頃、天草は五人の土豪が支配していた。天草五人衆である。
大矢野を中心とした大矢野氏、有明には上津浦氏、栖本の栖本氏、苓北の志岐氏、そして河浦・本渡の天草氏である。
勢力的には、志岐氏、天草氏が勝っていた。
五人衆の関係は、時に勢力争いを演じながらも、姻戚関係を結ぶなど、比較的まとまりを持っていたようだ。
※後掲 天草探見/天草五人衆と天正の天草合戦
中央から入ってきた小西行長、加藤清正らによって、この五家は蹴散らされます。「天正の天草合戦」というのは天草側の華々しい呼称であって、経緯を見るとほぼ玉砕戦です。
天正17年、小西行長は宇土城の普請夫役を五人衆に命じた。ところが志岐麟泉はこれを拒否、他の四氏もこれに同調する。(略)
10月13日、行長軍6千5百、清正軍1千5百で志岐に押し寄せ志岐城を包囲する。(略)
11月10日、志岐城は開城(略)[前掲天草探見]
この時も、下天草が最後の拠点になっています。場所は本渡城。
主力になったのは河内浦兵と書かれており、南部からありったけの兵力が城に入ったらしい。娘子軍(ろうしぐん)と呼ばれる女性軍の話も伝わっていて、悲壮な抵抗として伝わっています。──五人衆は土着勢力。女まで駆り出された、というよりは住民が皆兵化して城に籠もったのでしょう。
本渡城では、志岐に続いてこちらも攻められるは必定と、河内浦の兵を主力に、弾正の残兵を合わせて、籠城の構えに入った。11月20日、加藤、小西に加え、有馬、大村の軍勢が、押し寄せ、21日より総攻撃をかけられた。この多勢の連合軍の前に勝ち目はなく、とうとう城は落ちる。(略)
志岐氏、天草氏は滅亡し、栖本氏、上津浦氏、大矢野氏は戦わずして小西行長に降伏、天草五人衆の時代は終焉を迎えた。[前掲天草探見]
「戦わずして」とは大将格による組織的戦闘の話であって、傘下に入った庶民は無体な目に遭ったと想像されます。
寺沢広高の唐津-長崎-天草とは?
1601(慶長6)年に唐津藩主寺澤廣高が飛び地として天草を得、天領になる1641(寛永18)年まで支配する。この間・島原の乱を経ており、そもそも乱の一因が寺沢家の年貢の過重にあると言われるなど、一般には失政と評されてますけど──多くは「鎖国」への急激な急カーブの時代に振り落とされた形の寺沢家に、後付けされたレッテルと考えるべきでしょう。
寺澤廣高は1563(永禄6)年生まれ。尾張出身の秀吉子飼の文治派というから、藤吉郎の知り合いの庶民の天才でしょうか。これが一統過程で九州に人脈を持ち、肥前唐津6万石を拝領。
天領時代の長崎奉行から、1592(文禄元)年からの朝鮮出兵時には臨時の長崎代官も務める。ただ長崎では「秀吉のお買い物係」だったらしく、他に肥前名護屋城の普請や出征諸将・九州大名の取次に忙殺される官房要員だったらしい。所管方面は貿易統制から朝鮮出兵軍の補給・輸送など。この功で筑前怡土郡2万石を加増(計8万)。
秀吉死後は如才なく家康に近づき、関ヶ原戦では東軍に与す。本戦での名は聞かないけれど岐阜・美濃で戦功あり、戦後に天草4万石を加増(計12万)。
この人が長崎と並び、唐津、怡土郡と天草を領したことは、地理的にだけ見ると交易ないしその統制に何らかの思惑がある活動をしていたことを推測させます。
天草市HPで書かれる寺沢広高の「久玉城再利用」が、具体に何で、彼あるいはその背後の者が何を企図したのか、だからすこぶる気になるのですけど──おそらくもう痕跡はないでしょう。
ただ──九州の諸大名とのコネクション、長崎代官として携わった国際外交スキル。開幕当初は海外貿易を模索していた家康がそれらを買ったことによる破格の出世※から一転、島原乱後の嫡子・寺沢の自害※※と寺沢家断絶・唐津藩改易への転落。換言すれば江戸幕閣にとっての寺沢株価の乱高下は、江戸初期の寺沢家のコネとスキルが如何に重宝され、かつ急激に無用視されたかという外交パラダイムの大転換を物語ります。
※※1647(正保4)年、江戸・海禅寺にて自殺。1637(寛永14)年の島原乱から10年後で、自然には島原失政の自責とか失意とは考えにくい。
唐津、怡土郡(当時の博多湾西部≒現・周船寺、九大学研都市付近)、天草(久玉)を、寺沢広高は「長崎」の予備軍として育てようとしていたのだと想像します。でも育つ前に、「長崎」はそんなに要らなくなってしまったのです。
[近代]完全消滅した古・牛深
「ふるくたま」と昭和40年代頃まで呼ばれた(古)久玉は、戦前まではそれでも大きな集落だったらしい。
元来、近年まで自然海岸が残る地域であったが、大正期に始まった埋め立工事により近代的な海岸線を形成し、魚加工場・船舶の係留所となった。後述するが幕末の緊張時には外国船対策のため「台場」が構築され、それは微小地名として残存する。 [前掲山下]
幕末に「台場」、つまり防衛陣地が構築されたということは、その頃まで牛深港の公機能の核は久玉にあったのです。けれどそれが大正には埋め立てられたということは、半世紀で久玉の港湾中心機能は一挙に無用になったのです。
その後も開発が最も進んだ地域と見え、現在はゆめタウンやコンビニ、病院が目立つ。牛深の衰退期に、最初に人口が減った場所だったと推測できます。地図を繁々見ても、筆自体が改変されているので、道の配置などの基本的な部分でも往時を偲ばせるものはどうにも見つかりません。
「古久玉」の古称が残るわけだから、現地でも最古の地という認識はあるはずです。要は「あの辺りは昔からの古い町」と巷説に乗るだけの、不思議なほど徹底的に抹消された地名です。
だから、久玉が江戸期の牛深と同じく交易拠点として色彩を同じくしたのか否か、確信は持てません。ただ前述のとおり、複数のトピックで東シナ海が意識されてきた、という点はぼんやりと窺えるのです。
□概念参照:「みなと文化」byみなと文化研究事業
一般財団法人みなと総合研究財団は、主にウォーターフロントの活性化を目的とし、昭和62年に設立された「財団法人 港湾空間高度化センター」を平成23年に改称した法人です〔後掲みなと総合研究財団〕。
ここが株式会社地域開発研究所との共同自主事業として「みなと文化研究事業」を実施してます。最終的なウリとしては「みなと文化振興政策」の提言を目的にしているらしく、ウォーターフロント開発路線に片足は突っ込んだままですけど──全国120ヶ所程度の「みなと」を選び、大体平成21(2009)年頃から研究を蓄積しておられます。蓄積方法を「一様の様式で」行う点が特筆され、そういう意味では同財団のアーカイブの一覧頁(→HP)の制作が最終アウトプットとも言えます。
ここで特記させて頂いてるのは、次に掲げるこの研究上の文化定義が柔らかくて面白いからです。
もちろん本稿「海域アジア」論の対象は「海域の文化」なわけだけれど、厄介なことに海には(海底遺跡を別として)普通は何も残らない。なので媒介としてどうしても、ここでいう「みなと文化」に縋ることになります。ただ、この意味でいう「文化」には、以下の程度に広義の観念を持つ必要があるわけです。
「文化」のとらえ方には、民謡や和歌、絵などの芸術や文芸を意味する「文化」から、道徳・宗教など精神的なもの、衣食住をはじめ技術や学問、産業などを含む広い意味での「文化」まで、非常に奥深くて幅広いものがあります。
ここでいう「みなと文化」は、船の出入りがあり、物や人が行き交う「みなと」から、交易や人の往来によって伝播され、人々が生み出したもの、精神的なものすべてを対象と捉えることとします。すなわち、特に対象を絞り込まずに、幅広く「みなと文化」というものを捉えたいと考えています。
あえて定義すれば、「地域において、「人」が「みなと」との関わりの中で生み出してきた有形・無形の生活様式」と言え、具体的には、表1に示すようなものを想定しています。〔後掲みなと総合研究財団〕
同財団がこの後に掲げる表は、ほぼ人間生活の諸属性全部を挙げています。
社会学・人類学の概念上の的確性はともかく、観光開発・賑わい創出の観点からは持てる武器を全て使いたいゆえのフレームでしょう。発想の柔らかさとしてはその方が先行してるし、とりわけ海域アジアを論じるにはこの位の柔らかさは必須だと感じますので、その確認として転記する次第です。