※(ひーとぅどーい)沖縄語→和訳:イルカが来たぞ!
目録
❨壱❩
支出1300/収入1496
▼13.0[141]
負債 196/
[前日累計]
利益 -/負債 23
十ニ月ニ十四日(五)
0812タリーズ(シャレオ)
本日のコーヒー(ピッコロバンビーノ,ショット追加)
ミルクレープブリュレ280 §好久
1240 守家庵
牛すじカレーうどん450
2145まきし食堂
煮付定食450
[前日日計]
支出1300/収入1180
▼13.0[141]
/負債 120
[前日累計]
利益 -/負債 143
十ニ月ニ十四日(五)
1052みはま食堂
骨汁550
1900宮城菓子店 レアチーズケーキ,ズコット250
リンドン アップルパイ250
[前日日計]
支出1300/収入1050
▼13.0[141]
/負債 250
[前日累計]
利益 -/負債 393
十ニ月ニ十四日(五)
ペットがいると勘違い
12/23(木):25人
沖縄県のコロナ感染者数です。人口145万の沖縄県で、という状況を東京都で、と考えると約10倍すればよい。
ただし、沖縄の場合は東京よりはるかに広域に疎らですから地域別が問題になります。内訳を見ると──北部、というのが異様に多い。
首相が無料診断を提言した感染爆発の恐れのある地域として挙がっていたのが──大阪・京都・沖縄。実は先々・先週と大阪、京都へ行ってます。
そうしてこれから沖縄、それも北部へ向かう。経験のない形で逆風が吹いてますけど……。
厚労省通知群を眺める限り、おそらく、年が明けたらまたしばらく動けなくなる。その前に、何とか沖縄X未体験ゾーン=本島山原を歩いておきたいんですけど──さて無事に帰れるんでしょか?
行きはANAです。
無人発券した後、荷物を預けようとしたら……これも無人なのね。何何?奥の壁に荷物をきちんと付ける?こうか?それともこうか?画面通りに進んでいくと,前のシャッターが閉ま……りかけたけどすぐまた開いてしまいました。お姉さんが駆けつけてきて、ご一緒にもう一度──よし、飲み込んでくれました!
お姉さん曰く──
「荷物を動かすとエラーになるんです。ペットがいると勘違いして……」
猫ちゃんをリュックに入れてたら、それはそれで虐待法上ダメなんでは?
空港アナウンスはもう「不要不急の外出は……感染防止の観点からお控え下さい」を再開してました。もう行政を待ってられん!!──という独自判断をして走ってるらしい。
人民側もこの時期の割には、やはり少ない。
1745。1時間前にボーディングゲートに着いてしまいました。時間があるので、牧志サキハマに電話して原付をおさえる。5日間予約。
この場所での周りの会話は、まだ完全にリゾート気分です。
11838、機内。
「電源を切れ」と煩くはなくなり,今も普通に入力してます。
窓外の福岡は小雨。
ANAの上空wifiに始めて接続。よく繋がります。──ここ7日ほどの天気は概ね良い。30日から崩れるようです。移動は原チャ、雨だけは怖い。
あと、24日の県感染者人数も出てた。33人と増えてる。
2020、那覇着陸。こちらは雨はない。
深夜のまきしの煮付け
2051、ゆいレール乗車。ぎりぎり優先席に座れるほど、この時間にしてやはり客は多い。
隣に立ったやんちゃ娘がえらく肘突きを繰り返す。やんちゃなのか、それとも無体な席の要求なのか?
2100、赤嶺。
2102、小禄。
2103、奥武山公園。
壺川。
旭橋。
県庁前。この駅での「てぃんさぐの花」オルゴールは、好い。
2111,美栄橋下車。
沖映通りに今年も青白ネオン。風がややあり,暑くはない。雨も降ったらしく,傘を持つ通行人あり。
シーサーインに投宿。
なぜかスマホのコード入れ袋を忘れてきてたので、いきなりドンキへ。どこから来てるのか中国語で大はしゃぎする買い物客。
その足で、ご近所の前回最終食だったこの水槽ハウスへ──
2145 まきし食堂
煮付定食450
確かここでこのメニューは初めてだったはず。
久しぶりの煮付けでしたけど……旨い。ソーキやテビチもだけど大根や人参といった根菜類が、じっ……とりと肉汁に浸かってます。この料理は、何より煮汁と食材のバランスが素晴らしい。
明日のみはま食堂は,GM.には10時半開店とあるけれど、他は全て11時。念の為、10:30で行程を組みまして──ご就寝。
さいおんスクエアの巨大シーサーは「さいおん♡うふシーサー」というお名前らしい。──恥ずかしくないか?
ここのカーブ川岸の石積みはかなり綺麗に残ってます。きちんと保全した上で上部構造を積み上げてる──のは文化財的に保存したと言えるのかどうか怪しいけれど。
この辺りも滅法変わりました。20C中には「うふ」の対面の安ホテルを常宿にしてた時期もあるけれど……それももうないらしい。
曇天。やや風もある。
0950、発進。
まきなとのとぅん
〔日本名〕浦添市牧港5丁目7−5
〔沖縄名〕ティランガマ。牧港の殿?
〔米軍名〕-(牧港最初期侵攻地点?)
牧港テラブのガマ。1012。
パチンコ「サンシャイン」の脇。なんだか郭のような場所です。株式会社流薬の対面。
地元ではティランガマと呼ばれる琉球石灰岩の自然洞穴です。内部は拝所で洞穴の外の前庭は牧港の殿(とぅん 祭祀場)と推測されています。〔案内板〕
思いッ切りアメリカンな道路網の中にあるんだけど……怖い場所だと感じました。
内部の左手に祭壇。暗くて見えないけれど、酒坏などの供えもある。
その右にもう一つ祭壇、これは本当に真っ暗。
左手にもいくつかの石が積まれてます。
方向は入口が東、祭壇が南を向く。──この場所の原地形を考えると、海域アジア的には
おんなサンセット
まあ今回は、ルートだからと選択した感じですけど──
1052みはま食堂
骨汁550
ここの骨は改めて,いい!丼が「喰え!!」の一言しか言ってない感じです。
化粧してない骨なんである。食べやすくないんである。他で使った廃材、という骨汁の原型におそらく近い。
それでいて出汁汁との相性も素晴らしい。カツオ出汁が極めてさわやかだし、それが野菜に下品に染み込んでる。
読谷を過ぎた辺りで、寒いと気づく。1205。
一旦路肩に停車して──一枚トレーナーを着て、ネックウォーマーを仕込みました。今日の目的地・名護まではまだ40kmあります。
1215。恩納村に入って少しで、左へ入る。
国頭方西海道との案内板。琉球王朝時代(1429-1879年)に首里から各方面に造られた道にあやかって売出し中の観光資源らしい。恩納村博物館辺りに唐人墓碑、高麗人墓がある。中泊遺跡もか。この辺りが港だったようです。
1225、山田。同保育園。
謎のパティスリー・シェルは……バイクを停めた道から下へ降りて行った場所の……普通の一軒家でした。
おばちゃんに「まあまあよく来たね」という感じに販売して頂きました。この夜、その味覚には打ち震えるのですけど……空模様が怪しい。とにかくこの時は国道へ戻り、先を急ぎました。
〔日本名〕国頭郡恩納村仲泊118(沖縄戦時:第24師団歩兵第32連隊本部=山田国民学校(現・恩納村立山田小学校))
〔沖縄名〕めーぬ御嶽
〔米軍名〕-(恩納村海岸沿いを進軍、4月6日名護許田に到達)
仲泊に立ち寄る。国道の西側に取り残されたような、趣ある区画です。地図には「おんなサンセット海道」とある。
1302。前の御嶽(めーぬうたき)にたどり着く。畑の中の細道、知らなければ確実に通り過ぎる。知ってよく見ると、一応標識はありました。
バイクを停めると、ついに小雨。
空間を捕まえる蜘蛛 曇天
供物、神体、随神、何れとも無し。
箱型の中に香炉だけが在る。
海を向く、文字通りの潔癖なる拝所です。
いや。供物はありました。
祭壇に、銅貨と銀貨が2つ。
箱型後方に空気を抜くような縦長の穴二つ。それは、箱からも香炉からも、中央線から微妙にズレてます。
なぜでしょう。
従神も、左手奥に一基ありました。
尖った石の上部が斜めに断ち切られたような形状です。何ともさりげない。何も解釈できません。
雨空を見上げてよく見ると、正面に蜘蛛の巣。
巨大な蜘蛛が、空間に大きく手足を伸ばして構えてる。
雨はかろうじて止み、昏い曇天。
海側の道を少し見る。これが恩納村旧村らしい。港町っぽい好い感じが残ってます。
リゾートと新道の建設の中でよくここまで守ってきたものです。
方言では「うんな」と読む〔角川日本地名大辞典/恩納〕。「恩納」字は漢語の時代の当て字な訳ですけど、語源は皆目不明。
国頭地方が上納を義務づけられていた鬱金(方言でウッチン)約5万3,000斤のうち,恩納間切は5,295斤が割り当てられていた。陶土の産地としても有名で,賦役によって採土されて,那覇【なは】の壺屋に運ばれた。これらは山原【やんばる】船によって運ばれたが,陸上交通では間切内を官道の西宿【いりじゆく】が通り,一里塚が置かれ,沿道には美しい松の並木(抱護林)が続いていた。〔角川日本地名大辞典/恩納間切(近世)〕

海の向こうに本部の八重岳
シーサイドドライブインという大型レストランがあるから寄ってみたけど……これは明らかに観光用。
しかも大人気なので、千円以上のランチがほとんど売り切れ。南北の海岸沿いのリゾートホテルのお客様が大挙して押し寄せる場所みたい。スルー。
仲泊集落北側の濱崎御嶽へも寄ってみましたけど──1400、バイクに戻ってきました。道から80mと標識はあるんだけと……行き着けませんでした。倒木らしいものが、山道を塞いでました。
万座ビーチ分かれのローソンでタバコ休憩。1410。
対面に「Muffin,Jam,Shavieice FRUIT STORE TANANA」という小店。──後から振り返っても、直輸入らしきマフィンの食文化が、ここから北辺りにあるようです。こういう小店のものが驚く旨さなんですけど、それを知らないこの時はスルーしてます。
名護湾。その向こうから朧に本部半島が迫ってきました。
寒い。
1428。名護市入域。
1500頃、グリーンリッチ投宿。冷えがようやく引いていきました。
夕間暮れハスノハギリの覆う空
〔日本名〕名護市宮里一丁目27
〔沖縄名〕みやざとめーぬうたき
〔米軍名〕-(四月中旬までに進駐)
そうは言っても夕刻が迫ってます。とりあえず再出撃。
1625。宮里前の御嶽のハスノハギリ林。市街地の中に忽然と現れる茂みです。
「ヒートゥドーイ(イルカだぞー!)」の声でにぎわった名護の海岸には長い砂浜があり、ハスノハギリの林が続いていました。この宮里前の御嶽もその海岸沿いにありましたが,埋立により海と隔てられてしまいました。〔案内板〕
御嶽側には注連縄が全周に貼られて、封印してある。道路側に「前之宮」とある奉納碑。
参道……というか野道は、左にカーブする形で南を向き社に至る。
社殿自体は新しい石造りです。
前田食堂へ行ってみるもシャッター。
大きな駐車場は確認できたから,おそらくネット記事に関わらず、午後の早い時間に閉まるらしい。
衒い無きアメリカン
この行程で雰囲気がちょっと分かりました。──名護市内は、どうにもポイントがない。市場あたりのアーケード街は多少中心街っぽいし、前回訪れた時よりは華やいできてる。けれど密集してはいない。車社会的というか、あちこちに市街地が散乱してる感じで、那覇はもちろんコザとも違う。改めて北部の感覚の違いを感じます。
仕方ない……と途中通りがかった宮城そばに再訪すると……ちょうど17時。戸口を開けるや、おばちゃんに指で「バツ」を出されました。17時閉店と書いてある……。もう一つ見つけてたオリエンタル食堂も16時、名護の食堂は閉まるのが早いみたいです。
風呂上がりに市内放送──「北部地域で新型コロナウイルスの感染が大変拡大しております。」
ネット情報では25日は県内29人。減ったけどやはり本当に「北部保健所管内」表記が多いですねえ。
まあそれでも……クリスマスです。
まずは。恩納村山田のスイートシェルのチョコケーキとバスクを開く。──ホントに旨い。ドイツ菓子の繊細さではなく、アメリカンなドバっとした甘みなんだけど……それが素朴でないちゃーには投げられないほどに直球的というか。カカオが平然とカカオだし、チーズものほほんとチーズなのである。
ところがこれが、どうやら山田だけの突然変異ではないみたいなんである。宮城のレアチーズも素晴らしい。
衒いがない。駄菓子感があるというのか、淡いのに技巧的でない。普通に言うアメリカンとも違う、本当の木訥な旧き善きアメリカ人のスイーツなのです。
あと、ソバ屋が多すぎるのは、本来的に米文化がなかったから……ということもあるんでしょうか?
■レポ:恩納という異境
中部と山原の間にある地域としか捉えてませんでした。恩納という土地は、単独でも非常に古いらしい。
沖縄考古編年後期の志喜根貝塚、グスク時代の恩納城跡がある。近世以前は金武(きん)間切の一村落であったが、「おもろさうし」巻17は「恩納より上のおもろ御さうし」と題されており、古くから重要視されていたことがうかがえる。(続)〔角川日本地名大辞典/恩納〕
通常の歴史観を離れ、沖縄本島で北山が先に開けたと考えると──中南部の沖縄文化は、まず恩納で根付いてから南に展開した、と考えるべきなのでしょうか?
(続)2つの元屋があり、殿も2つあり、掟も後村渠の恩納掟と前村渠の久留原掟と2人いたことなどは、恩納が古代には2集落であったことを示唆している。この2集落は、やがて山手から沖積低地に下りて合併したが、のちに大津波に遭って山手に復し、その後再び現在地に移動した。(続)〔角川日本地名大辞典/恩納〕
この見解も、分からなくて面白い。現集落が二分されているようには見えないけれど、今帰仁今泊のように類似の「二重星集落」の例は多い。その両者が、山と海に棲み分けるのではなく、災害に呼応して同時に山に登ったり降りたりする。惜しむらくは、根拠を確認出来てませんけど……。
(続)旧暦6月穂祭と11月ウンネーウユミに伝承される猪退治のウムイ「ヤマノオモイ」に、猪を追いこむ「そそやあま」「なあかやま」があり、また猪退治のときの弓の材料となる桑木やダシチャを産する「あめくみたけ」が見えるが、比定地は未詳(ウムイ129/歌謡大成Ⅰ)。〔角川日本地名大辞典/恩納〕
このパートは全く分かりません。でも旧地名だけが伝わり、それがどこだか分からない、という事例は珍しい。それとも、地元では承知していて、秘されているのでしょうか?
北山雑感(初上り時)
この初回・初日段階で、北山についてサラッと書き残してます。今から振り返ると全く笑止で、このクニはそんな簡単に断じ得るものなど何もない、だから面白いんですけど──恥を堪えて書き止めておきます。
北山の歴史について、分かる史実は本当に少ない。
①14C以前、グシクに各地の勢力が割拠していた時代があり、それが本部半島北岸を中心にしていたこと
②14C後半に次第に統一され、それが運天を中心にしていたこと
③1416年に中山の尚巴志(中城城按司・護佐丸盛春が随行)により北山が滅び、1422年に次男・尚忠を北山監守としたこと
④島津による侵攻時、本島で最初の攻撃目標とされ,今帰仁城が焼かれたこと
なお,①以前の「有史以来の統一王朝が英祖王統代に限り混乱し三山に分裂したのを尚王朝が再統一した」とする旧通説は,現在では中山側の捏造としてほぼ否定されています。
──尚王朝以前の「統一沖縄王国」が幻想である、つまり沖縄本島にはまず三山があり、本島外にはまた宮古や奄美の別の集団があった、と想像するなら、本島中南部以外の何れかの地域がまず政治勢力化して、それを各地域が真似たと考えられる訳です。
それは戦後の沖縄ナショナリズムの立場からは認めにくいので、なかなか研究は進みにくい。けれど、自然に考えるなら、その先行地域は本島では北山、海域としては本島以北-鹿児島以南であった可能性が高い。
そこは、陸上国家の史書記述の死角になる領域だったと推測されます。次章で、そこを敢えて史料から読んでいく試みをしてみます。